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ソロモンの神殿奉献の祈り(1列王記8:22-30)
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ソロモンは主の栄光の雲が神殿に満ちた事を受け、民に対し、この神殿が建てられた事は、主にあって正統であり、自分の願いや意思ではなく、主が建ててくださった事を説いた。
その後彼は祭壇のほうに向き直り、主に祈る。22節から53節の彼の祈りは、神殿奉献の祈りであり、礼拝で代表祈祷する人も、大いに参考にできる所だ。
祈りとは、神様との会話であり、人が話をする時、誰を対象に話をするのかを明確にするため、名を呼ぶものだが、祈りもそこから始まるものである。
『ソロモンはイスラエルの全会衆の前で、主の祭壇の前に立ち、手を天に伸べて、言った、「イスラエルの神、主よ、』(1列王記8:22-23)
私達が祈る時、神様との会話になっていない事も、多々ある。
例えば祈りが、自分自身を奮い立たせるためであったり、あるいは、巧妙に人を支配するための「言い聞かせ」であったり。
そのような、祈りの本体であられる主を無視した「祈りもどき」を防ぐために、私達も祈りのはじめに、祈りを聞いて下さるお方に、正しく呼びかける必要がある。
ソロモンは続いて、この神殿の主体であられる「イスラエルの神、主」は、どのような御方であるのかを、正しく宣言している。
『上の天にも、下の地にも、あなたのような神はありません。あなたは契約を守られ、心をつくしてあなたの前に歩むあなたのしもべらに、いつくしみを施し、あなたのしもべであるわたしの父ダビデに約束されたことを守られました。あなたが口をもって約束されたことを、手をもってなし遂げられたことは、今日見るとおりであります。』(1列王記8:23-24)主はどのようなお方か。
主は比類なき神であり、約束を誠実に成し遂げられたお方である、とソロモンは言った。
主の祈りも「天にまします我らの父よ」という呼びかけから始まるように、イエス様は教えられた。
自分が呼びかけた主は、一体どのようなお方であるのかを宣言してから祈る事によって「無駄な祈り」を、すなわち誰に向かって祈っているか分からないような、主にも人にも届かないようなだらだらした祈りを防ぐ事が出来る。
そしてソロモンは、主に願う。
『それゆえ、イスラエルの神、主よ、あなたのしもべであるわたしの父ダビデに、あなたが約束して『おまえがわたしの前に歩んだように、おまえの子孫が、その道を慎んで、わたしの前に歩むならば、おまえにはイスラエルの位に座する人が、わたしの前に欠けることはないであろう』と言われたことを、ダビデのために守ってください。イスラエルの神よ、どうぞ、あなたのしもべであるわたしの父ダビデに言われた言葉を確認してください。』(1列王記8:25-26)
彼の願いは、主がダビデに約束された事を、どうぞ守ってください、という事だった。
ダビデは死ぬ直前、主が彼に約束して下さった事を、ソロモンに言い遺している。
『「わたしは世のすべての人の行く道を行こうとしている。あなたは強く、男らしくなければならない。あなたの神、主のさとしを守り、その道に歩み、その定めと戒めと、おきてとあかしとを、モーセの律法にしるされているとおりに守らなければならない。そうすれば、あなたがするすべての事と、あなたの向かうすべての所で、あなたは栄えるであろう。
また主がさきにわたしについて語って『もしおまえの子たちが、その道を慎み、心をつくし、精神をつくして真実をもって、わたしの前に歩むならば、おまえに次いでイスラエルの位にのぼる人が、欠けることはなかろう』と言われた言葉を確実にされるであろう。』(1列王記2:2-4)
つまり、ダビデから続く子々孫々が、主の道に歩み、精神をつくし真実をもって主の前に歩むなら、王座は決して絶えることはない、という主の約束なのであるが、残念ながらソロモン自身が、彼の代で早速、その約束を破ってしまう事になる。
ソロモンから続く、歴代の王たちの多くは、主の道を捨て、主の怒りを招いた。
それでも主の真実は、どんなに人の不真実が長く続いても、違えることなく貫かれた。
人は確かに、弱い。不完全であり、罪があり、主に約束した事を守り通せない弱さがある。
しかし、人が主との約束を破ってしまった事で、自分の罪を悔い改めるなら、主はその人を大きな憐れみをもって赦される。
実際ダビデはそうだった。
しかし、主から警告を受けて無視し、敢えて主の忌み嫌う事を好き好んでするような人に対しては、主は御顔を背けられる。
『しかし神は、はたして地上に住まわれるでしょうか。見よ、天も、いと高き天もあなたをいれることはできません。ましてわたしの建てたこの宮はなおさらです。』(1列王記8:27)
日本人は、神社などの社(やしろ)や、自然界のもろもろの物に、神々が宿っている、と思う人は多い。
しかし主は、人が建てたどんな神殿にも、住まわれるような御方ではなく、空も、全宇宙も、そして永遠の天国も、主をお入れする事は出来ない。その事をソロモンは知っており、そう告白した。
では、神殿の存在は、無意味なのだろうか?それは違う。
『しかしわが神、主よ、しもべの祈と願いを顧みて、しもべがきょう、あなたの前にささげる叫びと祈をお聞きください。あなたが『わたしの名をそこに置く』と言われた所、すなわち、この宮に向かって夜昼あなたの目をお開きください。しもべがこの所に向かって祈る祈をお聞きください。しもべと、あなたの民イスラエルがこの所に向かって祈る時に、その願いをお聞きください。あなたのすみかである天で聞き、聞いておゆるしください。』(1列王記8:28-30)
ソロモンは、有限なる人が、無限なる神と、関わりを持てる場所として、この神殿を用いて下さい、と祈っている。
主を愛する人々が、この神殿に来て祈る祈りを聞いてください、この神殿に来てそれぞれが捧げる捧げものを受け取り、彼らの願いを聞いて、赦してください、と。
主は確かに無限なるお方であり、どこかの神殿や教会などの特別な場所に宿るわけではない、という事を、私達も知っているが、しかし教会のため、あるいは礼拝が行われる全ての場所のために祈る祈りは有効である。
私達は教会について、あるいは礼拝が行われる場所、空間、時間が聖別されるために、そして私達の生活の場、仕事の場のために、祈るべきである。
主の宮の栄光とは(ハガイ書2:3-9)
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賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要
ハガイ書から天声教会の設立のビジョンが与えられたのは15年前の2001年だった。そして今のこの会堂が与えられ、礼拝が始まったのは、10年前の2006年だった。ちょうど節目にあたる今年、「礼拝を再建せよ」という当初のビジョンに立ち返り、「再建すべき礼拝」とは一体何であるのかを、聖書から見ていきたい。
『あなたがた残りの者のうち、以前の栄光に輝く主の家を見た者はだれか。あなたがたは今、この状態をどう思うか。これはあなたがたの目には、無にひとしいではないか。』(ハガイ2:3)
この「以前の栄光に輝く主の家」とは、ソロモンの時に建てられた神殿である。その神殿は豪華絢爛で、神殿の内面は全て、純金で覆われ、量り切れない程の青銅が用いられ、器物も全て豪奢なものだった。
しかしそれらは全て異邦人によって荒らされ、破壊され、金銀も器類も全てバビロンに奪われてしまった。
そうして70年を経て後、神殿は再び立て直されて行くのだが、破壊される前の豪華絢爛な有様を知っている老人たちは、後の有様を見て大声で泣いた。以前のような栄光はなくなってしまったと。(エズラ3:12)
しかし万軍の主は言われる。「主の家の後の栄光は、前の栄光よりも大きい」と。(ハガイ2:9)
神殿の栄光とは、一体何だろう。教会の栄光とは、一体何だろう。
豪華さや高価な器物といった面での栄光は去ってしまった事で人々は泣いたが、神殿や教会とはそもそも、主を礼拝をする所であり、建物や器物など人・モノ・仕組みの素晴らしさを見物しに来る所ではない。
神殿や教会の栄光とは、礼拝されるべきお方・主の栄光であって、栄光の主を仰ぎ、ひれ伏す所なのだ。
豪奢な神殿があった列王記・歴代誌の時代と、神殿よりも粗末な幕屋で礼拝していたモーセやヨシュア、ダビデの時代と、どちらが主の栄光に輝いていただろう。きっと誰もが後者だと答えるだろう。
ダビデは神殿を建てたくても建てられなかったが、ソロモンはそれを建て、そればかりでなく諸々の事業を拡張し、邸宅を建て、畑や庭園や男女の奴隷、多くのそばめを得たが、結局、むなしさだけが残った。
彼は言う。『私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。』(伝道者の書2:11)
結局、主の栄光は、人々の主に対する愛と、心の純粋さと、主への従順や服従の内にこそ現れるのだ。
だから、ソロモンのように巨大な建造物を造ったり、人を多く動員して事業を拡大する事に心血を注ぐ事よりも、ダビデのように心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主を愛する事へと心血を注ぐべきなのだ。
「勇気を出せ。働け。わたしはあなたがたと共にいると、万軍の主は言われる。これはあなたがたがエジプトから出た時、わたしがあなたがたに、約束した言葉である。わたしの霊が、あなたがたのうちに宿っている。恐れるな。」(4-5節) これは、主を愛し、主を敬い、主のからだを建て上げるために山に登り、木を運んで働く働き人たちに対する言葉である(1:8)。 主は彼らに対し「恐れるな」「勇気を出して働け」と言われる。
なぜなら、共にいて、働いて下さるお方は、万軍の主であり、彼の霊が私達の内に宿って下さるからだ。
主イエス様は、彼の命令を抱いて守る人と共にいて栄光を現す、と言われた。『その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。 わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」』(ヨハ14:20-21)
主はいま一度、天と地と、海と陸とを揺り動かし、全ての国々を揺り動かして、全ての国々の宝物をこの宮にもたらし、この宮を栄光で満たす、と言われる。なぜなら、『銀はわたしのもの、金もわたしのものであると、万軍の主は言われる。』(ハガイ2:6-9) 金は主のものであり、銀も主のものであり、主はそれらのもので豊かに満たす事は、簡単におできになる。だから外見的な豪華絢爛さよりも、何より、主を愛し求めるべきだ。
しかし私達は、金銀が欲しいから主を愛するのではない。金銀に遥かに勝るいのちを主は投げ打ってまで愛して下さったからであり、主は私達に、罪のゆるしと、永遠のいのちと、神の御前に大胆に出る事が出来る愛の関係を回復させて下さった。この御方の栄光で満ちる事をこそ、私達は仰ぎ求めるべきなのだ。
主の栄光を豊かにあらわすために用いられていく皆さんであり、教会でありますように!
主の約束と御言葉を握りしめ、溢れ流れる川に足を踏み出す(ヨシュア記3:14-17)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 定期祈祷会メッセージ
- 執筆 :
- pastor 2016-1-16 23:35
一切の権威が与えられた主から委ねられた宣教の働き(マタイ28:16-20)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » マタイによる福音書
- 執筆 :
- pastor 2016-1-16 23:32
神殿を建てても栄光を失ったソロモンと、建てずとも栄光を受けたダビデ(1列王記8:12-21)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 1列王記
- 執筆 :
- pastor 2016-1-15 23:50
神殿を建てても栄光を失ったソロモンと、建てずとも栄光を受けたダビデ(1列王記8:12-21)
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『そこでソロモンは言った、/「主は日を天に置かれた。しかも主は自ら濃き雲の中に住まおうと言われた。わたしはあなたのために高き家、/とこしえのみすまいを建てた」。』(1列王記8:12-13)
モーセの時代にも、主は、濃い雲の内に臨在を現し、人々の前に現れた。
『主はこれらの言葉を山で火の中、雲の中、濃い雲の中から、大いなる声をもって、あなたがたの全会衆にお告げになったが、このほかのことは言われず、二枚の石の板にこれを書きしるして、わたしに授けられた。』(申命記5:22)
主の現れは、雲のように、何となくそこにはおられるとは分かるけれど、形はつかめないものであるが、確かにそこに「おられる」という感覚と、主の栄光とは、確かにある。
『もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。この日は言葉をかの日につたえ、この夜は知識をかの夜につげる。話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに、その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。神は日のために幕屋を天に設けられた。』(詩篇19:1-4)
私達は、主についての概念を限定する事によって「像(イメージ)」をつくってはならない。
主は無限なるお方であり、決して人間の小さい頭の中で定義づけされるようなお方ではないからだ。
『それゆえ、あなたがたはみずから深く慎まなければならない。ホレブで主が火の中からあなたがたに語られた日に、あなたがたはなんの形も見なかった。それであなたがたは道を誤って、自分のために、どんな形の刻んだ像をも造ってはならない。男または女の像を造ってはならない。』(申命記4:15-16)
私達にとって大事なのは、主を理解しようとする事ではない。主は、頭で理解しようとしてできるお方ではなく、主を「理解した」と思って思考停止してしまった人は、実は、知らなければならない程度の事さえ理解していないのだ。
私達が主の御言葉が与えられた時、なすべき事は、それを理解しようとする事ではなく、それに従って行動する事である。
『王は身をめぐらして、イスラエルのすべての会衆を祝福した。その時イスラエルのすべての会衆は立っていた。彼は言った、
「イスラエルの神、主はほむべきかな。主はその口をもってわたしの父ダビデに約束されたことを、その手をもってなし遂げられた。主は言われた、『わが民イスラエルをエジプトから導き出した日から、わたしはわたしの名を置くべき宮を建てるために、イスラエルのもろもろの部族のうちから、どの町をも選んだことがなかった。ただダビデを選んで、わが民イスラエルの上に立たせた』と。』(1列王記8:14-16)
ソロモンは会衆に向かい、この宮が建てられた成り立ちについて、そして、主が特別にダビデを選ばれた事について、主を褒め称えている。
この宮は、彼の父ダビデの、主を愛する心が発端となって、造られていったものである。
主はダビデを特に選び、神の民イスラエルを牧する者とした。
『イスラエルの神、主の名のために宮を建てることは、わたしの父ダビデの心にあった。しかし主はわたしの父ダビデに言われた、『わたしの名のために宮を建てることはあなたの心にあった。あなたの心にこの事のあったのは結構である。けれどもあなたはその宮を建ててはならない。あなたの身から出るあなたの子がわたしの名のために宮を建てるであろう』と。』(1列王記8:17-19)
元々、いと高き主は、人の手で造った家の内にはお住みにならない。天は主の王座であり、地は主の足台である。そしてそれらは皆、主の手によって造られた。(使徒7:46-53)
しかし主は、宮を建てたいと願ったダビデの純心な心を、「結構である」と言われた。あたかも親が、幼い子が、親を愛するゆえの、少々お門違いな事を言っても、いとおしむように。
ただ主は、多くの血を流してきたダビデは、主の宮を建ててはならない、と言われた。(1歴代誌22:7-9)
自分の腕や力づくなどによって、あるいは唇による言葉の攻撃によって、隣人を襲い、血を流し、物を奪う人は、主に喜ばれないのは当然である。
しかしダビデのように、神の国と神の民のために、力や知恵によって悪しき者と戦う人は、神の国において必要である。
ダビデが宮を建てるために多くを備え、その子ソロモンに宮のための材料を用意したように、主の礼拝の建て上げのためには、それぞれに違った役割があるのだ。
ダビデは、宮を建てる事は許されていなかった。そして彼の子、ソロモンが宮を建てたが、それは永遠のものではなかった。
人の手で造ったものは、永遠ではない。どんなに贅を凝らしたものであっても。
しかし、主を愛したダビデの栄光は、永遠のものとなった。
まことの宮の本体であられる主キリストは、永遠にダビデの王座に着かれ、ダビデの名は、永遠に栄光あるものとなった。
ソロモンは諸々の事業を拡張し、邸宅を建て、畑や庭園や男女の奴隷、多くのそばめを得たが、結局得たのは、むなしさだけであった。
彼は言っている。
『私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。』(伝道者の書2:11)
結局、ソロモンのように巨大な建造物を造ったり事業をする事よりも、ダビデのように、主を愛する事にこそ、私達の人生の力を注ぐべきなのだ。
栄光の雲が神殿に満ちる時(1列王記8:1-11)
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『ソロモンは主の契約の箱をダビデの町、すなわちシオンからかつぎ上ろうとして、イスラエルの長老たちと、すべての部族のかしらたちと、イスラエルの人々の氏族の長たちをエルサレムでソロモン王のもとに召し集めた。』(1列王記8:1)
神殿は完成し、全ての祭具も整えられた。
そして最後に、「契約の箱」、すなわちイスラエルの民と神との間における契約の本体、すなわち、契約の箱が、神殿の中の収まるべき所に安置される時、神殿としての役割が始まるのだ。
『そして彼らは主の箱と、会見の幕屋と、幕屋にあるすべての聖なる器をかつぎ上った。すなわち祭司とレビびとがこれらの物をかつぎ上った。ソロモン王および彼のもとに集まったイスラエルの会衆は皆彼と共に箱の前で、羊と牛をささげたが、その数が多くて調べることも数えることもできなかった。』(1列王記8:4-5)
神殿が完成した時、イスラエルがいかに家畜が増え祝福されていたかを伺い知る事が出来る。
しかし、前回も見た通り、大事なのは、祝福の源であられる神であって、これだけの家畜が捧げられる人間がすごいのではない。
人に敢えて賞賛を与えるとするなら、それだけの祝福を主から引き出せる程の従順と愛があった所だろう。
『そして祭司たちが聖所から出たとき、雲が主の宮に満ちたので、祭司たちは雲のために立って仕えることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。』(1列王記8:10-11)
人が主を愛し、敬い、主に命じられた通りを守り行う時、聖なる主の栄光が満ち溢れる。
これと同じ事は、モーセの時代にも起こった。
『また幕屋と祭壇の周囲に庭を設け、庭の門にとばりをかけた。このようにしてモーセはその工事を終えた。そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは会見の幕屋に、はいることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。』(出エジプト記40:34-35)
主を礼拝する所を、主に命じられた通りに建て上げる時、主の栄光は満ち溢れる。
これはモーセの時代も、ソロモンの時代も、全く同じであり、そして今、私達の時代も全く同じである。
今、聖書は言う。
『あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。』(1コリント3:16)
主の契約の箱、すなわち、主の約束の御言葉が、神殿の最も内奥なる所、すなわち、至聖所に収まった時、主の栄光が満ち満ちた。
それと同じように、私達という「神殿」の最も内奥なる部分、すなわち、私達の霊に主の約束の御言葉を収め、そして私達のからだで主の御言葉を守り行う時、主の栄光が、私達の内にも外にも、生活の全場面にも満ち満ちるのだ。
神殿の最も聖なる所に納められた契約の箱に入っている「あかしの板」は、英語では「the testimony」、ヘブライ語では「アイドース」、すなわち「あかし」や「証人」を意味する「アイド」の、女性形である。
契約の石板が女性形である事は、実に興味深い。
私達は、キリストに対しては、男も女も皆、「女」の立場である。
キリストこそ、全人類に対して唯一の主人であり、夫であり、そして教会はその妻、キリストの花嫁である。
旧約においては、神の言葉は石板に神の指によって記され、神の筆跡によって石の板に御言葉が刻みつけられたように、新約の今、神の言葉は私達の「心」に、神の指によって刻み込まれた。
『しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。』(エレミヤ31:33)
『わたしたちの推薦状は、あなたがたなのである。それは、わたしたちの心にしるされていて、すべての人に知られ、かつ読まれている。そして、あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。』(2コリント3:2-3)
新約の私達は、神の指によって、神の言葉が心に刻み込まれている。
そして新約の私達自身は、聖霊が宿る神の宮であり、幕屋に置かれた一つ一つの祭具のように、キリストの栄光のために用いられる者であり、そして教会はキリストの花嫁である。
私達自らを、キリストの言葉によって清めるなら、聖なる祭具としてますます聖なる事に用いられる器となって行き、ますます主の栄光がこの「宮」に満ち満ちて行くのである。
神殿の栄光とは(1列王記7:40-51)
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『ヒラムはまたつぼと十能と鉢を造った。こうしてヒラムはソロモン王のために主の宮のすべての細工をなし終えた。・・・ソロモンはその器が非常に多かったので、皆それをはからずにおいた。その青銅の重さは、はかり得なかった。』(1列王記7:40-47)
神殿の建物も、祭具類も、全て完成し整えられた。
そのために用いられた青銅や貴金属類の分量は非常に多かったが、これらは全て、ソロモンの父・ダビデの「主の宮を建てたい」という志によって始まり、ダビデはこれらを苦労して準備し、そしてソロモンが受け継いで、整えたものである。
ダビデは言っている。
「見よ、わたしは苦難のうちにあって主の家のために金十万タラント、銀百万タラントを備え、また青銅と鉄を量ることもできないほどおびただしく備えた。また材木と石をも備えた。あなたはまたこれに加えなければならない。」(1歴代誌22:14)
『またソロモンは主の宮にあるもろもろの器を造った。すなわち金の祭壇と、供えのパンを載せる金の机、および純金の燭台。この燭台は本殿の前に、五つは南に、五つは北にあった。また金の花と、ともしび皿と、心かきと、純金の皿と、心切りばさみと、鉢と、香の杯と、心取り皿と、至聖所である宮の奥のとびらのためおよび、宮の拝殿のとびらのために、金のひじつぼを造った。
こうしてソロモン王が主の宮のために造るすべての細工は終った。そしてソロモンは父ダビデがささげた物、すなわち金銀および器物を携え入り、主の宮の宝蔵の中にたくわえた。』(1列王記7:48-51)
このようにして、栄光に満ちた神殿は完成した。
しかし残念な事に、その栄光は、ソロモンの時代が最盛期で、それ以降、ただ下降の一途をたどる。
ソロモンの次の代は、親達が構築した七光りの上にあぐらをかいて傲慢になり、主を軽んじるようになり、結果、主の守りと祝福は去ってしまい、敵がのさばるようになり、攻めてきた敵をなだめるために、神殿の宝物倉を開いて、その尊い宝を敵に貢ぐようになり、そのように、財も栄光もただ浪費するようになってしまったのだ。
そして最終的には、神殿は異邦人によって破壊され、神殿の尊い器物は、ことごとく奪われてしまった。
『カルデヤびとはまた主の宮の青銅の柱と、主の宮の洗盤の台と、青銅の海を砕いて、その青銅をバビロンに運び、またつぼと、十能と、心切りばさみと、香を盛る皿およびすべて神殿の務に用いる青銅の器、また心取り皿と鉢を取り去った。侍衛の長はまた金で作った物と銀で作った物を取り去った。ソロモンが主の宮のために造った二つの柱と、一つの海と洗盤の台など、これらのもろもろの器の青銅の重さは量ることができなかった。
一つの柱の高さは十八キュビトで、その上に青銅の柱頭があり、柱頭の高さは三キュビトで、柱頭の周囲に網細工とざくろがあって、みな青銅であった。他の柱もその網細工もこれと同じであった。』(2列王記25:13-17)
ここには、第一列王記7章に記された明細と全く同じものがリストアップされているが、しかしそれらは、奪われて行ってしまったものの明細である。
第一列王記の初盤に記された明細には、栄えの絶頂期のような得意げな趣きがあったが、第二列王記の終わりは、絶望のどん底のような悲しい趣きとなってしまった。
結局、大切なのは建物や外見ではない。
人の、主を敬う心である。
せっかく富と栄誉がふんだんに与えられても、その人が主を軽んじ、主から離れてしまうなら、せっかく得た豪華絢爛な資産財産の明細は、単に、憎むべき敵に奪われて行くものの明細となってしまうのだ。
持たない者は、持っているものまで奪われてしまう、と書いてある通りである。
神殿とは、礼拝をする所だ。
そして神殿の器物の一つ一つは、主を礼拝するために用いるためのものだ。
神殿の栄光とは、何だろう。また、教会の栄光とは、何だろう。
それは、神殿や教会で礼拝される対象である「主の栄光」であって、建築したソロモンやヒラムなどの「人間の栄光」ではないのだ。
ソロモンの神殿が破壊された後、70年を経て、神殿は再び立て直されるのだが、破壊される前の豪華絢爛な有様を知っている老人たちは、立て直された後の神殿を見て、大声で泣いた。(エズラ記3:12)
『あなたがたのうち、以前の栄光に輝くこの宮を見たことのある、生き残った者はだれか。あなたがたは、今、これをどう見ているのか。あなたがたの目には、まるで無いに等しいのではないか。しかし、ゼルバベルよ、今、強くあれ。――主の御告げ。――エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ。強くあれ。この国のすべての民よ。強くあれ。――主の御告げ。――仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。――万軍の主の御告げ。――
あなたがたがエジプトから出て来たとき、わたしがあなたがたと結んだ約束により、わたしの霊があなたがたの間で働いている。恐れるな。』(ハガイ書2:3-5)
捕囚から戻ってきた老人たちは、以前の神殿の有様と比べたら、無いにも等しい有様を見て、泣き叫んだが、結局、建物の美しさや大きさ、豪華絢爛さが大事なのではない。
金も銀も豊かに備えて下さる主こそ、大事である。
主は、礼拝者の心を見られ、その心が主に対し真実でまっすぐであるなら、主はその宮を「以前の栄光にも勝る」ようにされる。
『銀はわたしのもの、金もわたしのものであると、万軍の主は言われる。主の家の後の栄光は、前の栄光よりも大きいと、万軍の主は言われる。わたしはこの所に繁栄を与えると、万軍の主は言われる』」。この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。万軍の主は仰せられる。わたしはまた、この所に平和を与える。――万軍の主の御告げ。――」』(ハガイ2:8-9)
主は、金も銀も支配しておられるお方。
そして主は、私達を愛し、憐れみ、ひとり子のいのちまでも惜しみなく与えて下さったお方。
このお方こそ、主とするべきである。