• カテゴリ 礼拝メッセージ説教音声配信 の最新配信
  • RSS
  • RDF
  • ATOM

メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

キリストの受難を前に(マタイ26:1-16)
Youtube動画
メッセージ音声

二日後が、受難の金曜となる。
『「あなたがたが知っているとおり、ふつかの後には過越の祭になるが、人の子は十字架につけられるために引き渡される。」そのとき、祭司長たちや民の長老たちが、カヤパという大祭司の中庭に集まり、策略をもってイエスを捕えて殺そうと相談した。しかし彼らは言った、「祭の間はいけない。民衆の中に騒ぎが起るかも知れない」』(マタイ26:2-5)。

イエス様ご自身が十字架につけられる事は、既に弟子達に何度か告げられたが、イエス様を闇に葬りたいと願う者達は、祭りを前に、相談する。
あのイエスを殺すなら、(過越しの)祭りの間は、いけない、と。それは、彼らが群衆を恐れていたからである。
しかし、結果的に主は、その過越しの祭りの最中に殺される事になる。

過越しの祭。それは、イスラエルの民がエジプトから開放される前夜、主の命令によって、それぞれの家庭で傷の無い小羊を準備し、それをほふってその血を家の扉に塗って、しるしとし、そのしるしのある家には、死の災いは降らず、しかし、しるしの無い家には長男が死ぬという死の災いが降された事、それをもって、イスラエルはエジプトの奴隷状態から開放された事をおぼえる祭りである。

この過越しの小羊は、十字架上でほふられたキリストを意味している。
イエスキリストの十字架、身代わりにほふられた小羊。死の災いを免れる血潮。キリストと過越しの小羊とは、決して切り離せない。
だから、人がいかにキリストを無きものにしようとした所で、また、権威ある人達がいかに長い審議を凝らしたところで、神の御旨が損なわれる事は無い。

彼らと対照的に、イエス様の死のために素晴らしい準備をした女性がいた。
『さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、「なんのためにこんなむだ使をするのか。それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。イエスはそれを聞いて彼らに言われた、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。』(マタイ26:6-10)

彼女はベタニヤのマリヤである。彼女はいつもイエス様の足元でイエス様の話に聞き入っていた。
だから彼女は、イエス様の葬りのために、自分が取っておいたものの中で一番高価なナルドの香油を一滴も残さず捧げ尽くしたのだ。
尊くてやまないイエス様に対しては、持てる最上のものを注ぎ尽くしても、なお足りない。
それが成熟した信仰者の姿である。

彼女の、主への尊敬と愛、信仰を、そのナルドに混ぜて注ぎ尽くしたその香りは、御前でいっそう尊くなり、その香りは、家全体に満ち、天に登り、永遠の記念として全世界へと広がった。
これこそ主に喜ばれる最高の香りであり、私達も、尊くてやまないイエス様に愛と尊敬を混ぜ、持てる最高のものを捧げる時、それは天に立ち昇り、永遠の記念として残るのだ。

しかし、永遠に蔑みの対象となってしまった者も、そこにいた。
『時に、十二弟子のひとりイスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところに行って言った、「彼をあなたがたに引き渡せば、いくらくださいますか」。すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。その時から、ユダはイエスを引きわたそうと、機会をねらっていた。』(マタイ26:14-16)

イエス様を引き渡すなら、いくら、くれますか?
イスカリオテのユダは、使えばなくなってしまう銀をいくばくか得るために、尊き御方を売り渡してしまったが、私達も彼のように、あさましい理由のためにイエス様を売って、それと引き換えに、世の楽しみをいくばくか得るような事をしていないか、自らを点検するべきである。

イエス様の受難を覚えるこの時、私達もマリヤのように、キリストの足元に低く座し、キリストのことばに耳を傾け、キリストの御思いを余す所なく受取るものでありたい。

圧倒的聖、圧倒的力をもって現れた主(黙示録1:9-16)
Youtube動画
メッセージ音声

『あなたがたの兄弟であり、共にイエスの苦難と御国(バシレイア)と忍耐とにあずかっている、わたしヨハネは、神の言とイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。』(黙示録1:9)
ヨハネは、彼自身がこの手紙の著者である事をあかしし、そして自分を「あなたがたの兄弟であり、共にイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっている、わたしヨハネ」と自らを紹介している。
ヨハネは言う。
自分も、あなた方と同じ、主にある兄弟であり、あなた方と同じように、イエスの「苦難」と「御国」と「忍耐」とに、一緒にあずかっている者だ、と。

確かに、キリストにあって真実に生きようとする人は、「苦難」に遭ったり「忍耐」しなくてはならない事があるが、しかしそれらは、キリストの「御国(バシレイア:支配領域)の範囲内であり、キリストにあっての苦難や忍耐は、決して失望に終わる事が無い。
『わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。』(ローマ5:2-5)

ヨハネ自身もまた、「神の言とイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。」
パトモス島は流刑の島である。
今いまし、昔いまし、やがてきたるべき全能なる神は、愛するその聖徒を、流刑地に行かないよう守る事も、脱出させる事も、簡単にお出来になる。
しかし神が、御使をヨハネへと遣わしたのは、彼を流刑地から出して自由にするためではなく、彼を、主との親密な交わりの内に導き入れ、すぐにも起るべき事を啓示するためであり、そして、同じ苦しみにある兄弟姉妹たちに、この慰めと励ましと勧めと訓戒に満ちた手紙を、書かせるためであろう。

ヨハネのように、主にあるしもべであるなら、神の御言葉と、イエスのあかしとの故に、望ましくない所へと連れて行かれる事は、確かにある。
「時」が近ければ近いほど、そうである。
しかし、起きるべき物事の全てにおいて、そして、聖徒達がたどる道々の行く先々において、全能の神のバシレイアは行き届いており、どんな所においても、主と親密に交わりをし、主から啓示をいただき、主にある兄弟姉妹たちを励ましたり示しを与えたりする事も可能である事を示すために、主は敢えて、ヨハネをパトモスに置いたのではなかろうか。

『ところが、わたしは、主の日に御霊に感じた。そして、わたしのうしろの方で、ラッパ(サルピンクス:ラッパ,信号や命令を伝える為に鋭い音で鳴らすもの)のような大きな声がするのを聞いた。』(黙示録1:10)
ここで言う「主の日」は、いわゆる日曜日の事である。
主は主日に現れ、栄光を表される。
主の日に、人が主に礼拝する心をもって主に向かうなら、そこがパトモスであっても、バビロンであっても、牢屋であっても、そこは主の栄光と臨在が現れる場所となり、主の啓示を得る場所となる。

主は、流刑の島にいるヨハネの所に、その偉大な権威と御力と栄光をもって現れた。
『その声はこう言った、「あなたが見ていることを書きものにして、それをエペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、ヒラデルヒヤ、ラオデキヤにある七つの教会に送りなさい」。』(黙示録1:11)
このラッパのような大きな声の主は、「初めであり、終りであり、また、一度死んだが、永遠に生きている者」、すなわち、イエス・キリストである。

『そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。』(黙示録1:12)
ヨハネが先ず見えたものは、七つの金の「燭台(ルキニーア:ランプを置くための台)」であった。
この燭台は、主ご自身があとで解き明かすが、教会をあらわしている。

その頭と髪の毛は、雪のような白い羊毛に似ており、燃える炎のような目があった。
このようなお方は、ダニエル書にも出て来た。
『わたしが見ていると、もろもろのみ座が設けられて、日の老いたる者が座しておられた。その衣は雪のように白く、頭の毛は混じりもののない羊の毛のようであった。そのみ座は火の炎であり、その車輪は燃える火であった。彼の前から、ひと筋の火の流れが出てきた。彼に仕える者は千々、彼の前にはべる者は万々、審判を行う者はその席に着き、かずかずの書き物が開かれた。』(ダニエル7:9-10)

一切のしみも汚れも無い、圧倒的に清く聖なるお方の、その燃える炎のような眼差しで、見られるとするなら、いかにダニエルであれ、使徒ヨハネであれ、甚だ恐れおののくものである。
この、誰も近寄れない、圧倒的聖なるご性質が、イエス様の本性である。
私達は主イエス様を、優しく、親しみやすいお方であるという印象を、福音書から受けるかもしれない。
福音書における主は、罪人や取税人、遊女、子供たちが、安心して近寄って来られる雰囲気があった。

またローマ兵は、イエス様にむちを打ち、つばきをかけ、あざけりつつ十字架につけたが、それでも主は罵り返したり、おどしたりする事をせず、死に至るまでも従順に従われたが、実は、圧倒的に力強く、聖なるお方である。
事実、ローマ兵は、イエス様の復活の朝、御使いを見ただけで震えおののき、死人のようになった。
その御使いの軍団にさえ号令をかけ、従わせるのが、同じイエス様なのだ。

『その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。』(黙示録1:15-16)
かつて、罪深い女がイエス様の足元に伏し、涙でイエス様の足を濡らして髪の毛で拭い、何度も口づけしながら香油を塗ったが、その御足は、今や光り輝くしんちゅうのような有様であった。
その声は、大水のとどろきのよう、そして口からは鋭い両刃の剣が出ていた。
かつて、主は、かの罪深い女を、その言葉によって赦し、解放した。
しかし、この度のイエス様は、ヨハネがかつて3年半の間寝食を共にした、あの人間イエス様とは、かけ離れた存在として現れている。

主が再び来られる時、このような、圧倒的に強く、聖なる光に輝いたお方として来られるが、主を愛し慕っている主にある兄弟姉妹たちは、恐れる事は無い。
主は、倒れて死人のようになった、私達と同じ兄弟・ヨハネに対し、「恐れるな」と言って、手を置いてくださった。

主が再び来られるのは、再び十字架にかかられて罪に歩む人を赦すために来られるのではなく、主を待ち望んでいる人々を救い、正当なさばきを行われるためである。
今はまだ、恵みの時、救いの時である。
救いの門は開かれており、主の憐れみ、主の赦しを求めて来る聖徒を受け入れて下さる。

しかし、やがてその恵みの期間が、閉じられる時が来る。
ちょうどノアの時代、方舟の扉が開かれていているうちは、改まった時代へと生きながらえるチャンスが与えられてはいても、一旦、方舟の扉が主によって閉じられてしまえば、もはや、救いと滅びは明確に二分化してしまったように。

私達は「時が近い」事をおぼえつつ、この、救いの門が開かれている内に、人々に福音を伝えるべきであり、そして、救われたのであるなら、この書に記されている事に心を留め、「時」に備えて整えるべきである。

聖なるお方の手の釘を見よ(ヨハネ19:19-22)
第一礼拝 Youtube動画 / 音声
賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要

 本日より始まる1週間は、教会暦における四旬節の最後、主の十字架の苦しみを覚える「受難週(聖週間)」であり、本日はその起点の「しゅろの聖日(パームサンデー)」、すなわち、イエス様がろばに乗ってエルサレムに入城し、人々は「ホサナ」と叫びながらしゅろの葉を持って迎えた事を覚える日である。
最後の三日間は聖木曜日、聖金曜日、聖土曜日と呼ばれ、木曜には主の晩餐を、金曜は主の十字架上での死を覚える日、そして次の主日は、キリスト者にとって最も重要な、主イエス・キリストの復活を記念する「復活祭」である。この一連の、主の十字架の死と復活は、全人類にとって最重要な出来事である。
神の御子・キリストが多くの人のために死ぬ事、それによって救いがもたらされる事は、預言者イザヤをはじめ、多くの預言者達を通して伝えられて来たが、主は、預言者達の口を通してだけではなく、実は、ご自身の「御名」を通しても、イエス・キリストこそメシヤであると、名前の中に意味を込めて伝え続けておられたのだ。主の御名には、どのような意味が隠されているのか?それは、ヘブライ語で見なくては分からない。

主の御名「エホバ」はヘブライ語では「יהוה」であるが(ヘブライ語は昔の日本語のように、右から左の方向で読む)、この4文字(ユッド、ヘー、ヴァヴ、ヘー)は「神聖4文字」と呼ばれ、ユダヤ人は聖なる主の御名をみだりに口に出す事をしないが、ヘブライ語の文字には、それぞれ意味が込められている。
「ユッド」は「手」が関係する文字であり、「ヘー」は「見よ」という意味がある。また、「ヴァヴ」には「釘」の意味がある。すなわち主の御名、 ユッド、ヘー、ヴァヴ、ヘーは「手を見よ、釘を見よ」という意味があるのだ!
主は実に、イエス様が十字架上で釘うたれる事を、主エホバの御名が人に知らされた時以来、ずっと、その御名を通して語り続けておられたのだ。つまり、何百年、何千年もの間、主の御名が宣言される度に、「あの手を見なさい、釘打たれたあの手を見なさい」と、ずっと宣言され続けて来たわけである。
さらに、イエス様の御名も、ヘブライ語で読むと、意味が浮かび上がってくる。
イエス様の御名、イェシュアは、ヘブライ語では「ישוע」(ユッド、シン、ヴァヴ、アイン)であるが、「ユッド」は「手」の意味、「シン」は「聖なる」、「ヴァヴ」は「釘」、「アイン」は「目」、の意味がある。これをつなげると、聖なる御方の手の釘を、その目ではっきり見なさい、という意味になるのではなかろうか。
父なる神様の御名も、御子イエスの御名も、あかしする。聖なる御方の手を、釘を、はっきり見なさい、と。
さらに、父なる神様は、イエス様が十字架につけられたあの場面でも、この御方こそが「手を見よ、釘を見よ」と言われて来た、あの御方である、この方を見よ、と示されている。どういう事か。
ポンテオ・ピラトは、イエス様が十字架につけられる時、罪状書きを十字架の上に掲げたが、彼はそこに「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」と書いた。ユダヤ人達は「ユダヤ人の王、と書かないで、彼はユダヤ人の王と自称した、と書いてください。」と言ったが、ピラトは「私の書いたことは私が書いたのです。」と答えた。
その罪状書きは、ヘブル語、ラテン語、ギリシア語の3ヶ国語で書かれ、そして大勢のユダヤ人がこれを読んだが、その罪状書き「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」のヘブル語は、次の通りである。
ישוע הנצר ומלך היהדה この4単語のそれぞれの頭の文字を取り出すと、なんと「יהוה」(ユッド、ヘー、ヴァヴ、ヘー)、つまり、エホバの御名がこの言葉の中から浮かび上がってくるのだ!
歴史を動かし、全被造物をイエスキリストへと集約し、イエスにあって全被造物を贖い、救い出される主は、ヘブライ語が読めないピラトさえも動かし、この罪状書きを書かせ、頑としてその内容を変えさせず、イエスこそ主であり王である事を示されたのだ。主はこのように、ユダヤ人に対し、彼らの言語で証されているのに、彼らは頑なに無視し続けているのは、残念な事である。
主はモーセに、自らを「わたしはある」と紹介された。すなわち主は、存在しておられる御方、宇宙万物全ての存在の根源であり、目的であらり、自存者であられる。その主が、あの聖なる御方の手を見よ、くぎ跡を見よ、この御方こそが、あなた方を救う主である、この御方に立ち返りなさい、と言っておられる。
主のくすしい御業を覚え、キリストこそ永遠の昔から認証された救い主である事を心に留めつつ、 キリストの受難と復活を覚える週を送る皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ

イエス様の受難に対して心が開かれているだろうか(マルコ10:32-34)
Youtube動画
メッセージ音声

祈祷会礼拝説教メッセージ

耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい(黙示録3:22)
Youtube動画
メッセージ音声

エペソ人への手紙 講解説教メッセージ
暴露された奥義(エペソ3:1-13)
Youtube動画
メッセージ音声

イザヤ書 講解説教メッセージ
義の王による支配とならず者による支配(イザヤ32:1-8)
Youtube動画
メッセージ音声

火曜早天祈祷会
神の姿形を刻み込むために(申命記11:13-24)
Youtube動画
メッセージ音声

黙示録は恐るべき書であるか?(黙示録1:4-8)
Youtube動画
メッセージ音声

この書・黙示録の出所元は、神であり、この書が与えられた目的は、キリストのしもべ達(すなわち、私達も含めたイエスキリストを信じる全時代・全民族・全国語の聖徒達)に対して、すぐにでも起こるべき事を開示するために書かれたものであり、そしてまた、この書は集会の中で朗読されるのを前提とした書かれ方である事が、1章1節から3節までの所で分かる。
主はこの書の中で、「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」と、7回も言われた。
そうであるからには、黙示録という書は、全時代・全人類の人が耳を傾けるべき書であるのだ。

『ヨハネからアジヤにある七つの教会へ。今いまし、昔いまし、やがてきたるべきかたから、また、その御座の前にある七つの霊から、』(黙示録1:4)
『今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、「わたしはアルパであり、オメガである」。』(黙示録1:8)
アルファは、ギリシヤ語アルファベットの最初の語であり、オメガは最後の語である。
つまり主イエスキリストは、昔も今も、これから後も、全「時」を超越しておられる御方であり、また、空間も超越しておられる御方である事が宣言されている。
全てのものは「ことば」によって造られており、そして主キリストは「ことば」のはじめなる御方、終わりなる御方、そして、永遠なる御方である。

この書の最初期の段階で、キリストの時空超越性が宣言されているが、同じように、この書を読んで行くに際しても、時間的・空間的概念に囚われてはならないのだ。
もしこの書を、普通の書のように、順番どおり時系列そのままで読み解いていこうとするなら、途中で混乱を来してしまう事は必至だろう。
なにしろ、ある時は太古の事が記されているかと思えば、突然、未来起こるであろう事に話が移ったり、また、ある時所では地上の事が記されているかと思えば、突然、天上の事に話題が移ったりするのだから。
だからこの書を読み進めて行く場合は、この記事は昔の事を言っているのか、今の事を言っているのか、未来の事なのか、あるいは、地上の事を言っているのか、それとも天上の事を言っているのか、といった事を、常に注意しておく必要がある。

『また、忠実な証人、死人の中から最初に生れた者、地上の諸王の支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。わたしたちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し、わたしたちを、その父なる神のために、御国の民とし、祭司として下さったかたに、世々限りなく栄光と権力とがあるように、アァメン。』(黙示録1:5-6)
ヨハネはここで、最初の祝祷をしているが、祝福の源なる御方は、誰であるか。
それは、「忠実な証人、死人の中から最初に生れた者、地上の諸王の支配者であるイエス・キリスト」である。
そう、イエス・キリストは、忠実な証人である。
彼は、父のふところにおられたひとり子なる神であり、その彼が、地上に降りて来られ、神を証したのだ。(ヨハネ1:18)

また彼は、死人の中から最初に生まれたお方、いわば長男である。
最初の人はアダムであるが、彼は死を全人類にもたらしたゆえ、彼の子孫である人は皆、死と呪いの「負債」の中に生きる以外にない。
しかし、最後のアダムであるキリストは、生かす霊となられた。(1コリント15:45)
キリストは私達をこよなく愛され、罪の中に死んでいた私達を生かすために、十字架上で血を流して下さり、『その血によってわたしたちを罪から解放し、わたしたちを、その父なる神のために、御国の民とし、祭司として下さった。』(黙示録1:6)

私達は、キリストにあって、王とされ、祭司とされた・・・なんという素晴らしい特権であろう!
この事は、次の御言葉をもっても保証されている。
『あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている。』(1ペテロ2:9-10)
確かに私達には、キリストにあって、王族の祭司としての素晴らしい特権が与えられてはいるが、同時に、そのための務めや責任、そして、それに相応しい立ち居振る舞いも求められている事を、忘れてはならない。

『見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメン。』(黙示録1:7)
日本語は「雲に乗って来る」と訳されているが、正確には「雲と共に」、あるいは、「雲に囲まれて」である。
つまり、孫悟空のように筋斗雲のような雲に乗って来るという意味ではなく、栄光の雲、すなわち、圧倒的栄光の内に降臨されるのだ。

その時、「ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見る」と書いてあるが、彼を突き刺した者とは、何も、あのゴルゴダの丘でイエス様を突き刺したローマ兵に限定されるものではない。
イエス様を十字架に突き刺す者とは一体どういう人か、ヘブル書に書いてある。
『いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たちが、そののち堕落した場合には、またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、ふたたび悔改めにたち帰ることは不可能である。』(ヘブル6:4-6)

イエス様はゴルゴダの丘で、執り成しの祈りをして下さった
『そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。』(ルカ23:34a)
ここの「言われた」は直接法未完了形であり、すなわちイエス様は、そのとき、ずっと「言い続けて」おられたのだ。
イエス様は今も、「知らずに」イエス様を突き刺しているような人のために、執り成し続けておられ、そして全ての人がイエス様に立ち返る事を、望んでおられる。

無知のため、知らないがために、イエス様を十字架につけたり、キリスト者を迫害する人であるなら、あわれみを受けるチャンスがある。
パウロは言っている。
『わたしは以前には、神をそしる者、迫害する者、不遜な者であった。しかしわたしは、これらの事を、信仰がなかったとき、無知なためにしたのだから、あわれみをこうむったのである。その上、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスにある信仰と愛とに伴い、ますます増し加わってきた。』(1テモテ1:13-14)

しかし、「いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった」のに、その後、敢えてイエス様の尊い贖いを脇に押しのけ、好きこのんで堕落の方向に行くとするなら、その者は、キリストを再び十字架に突き刺し、キリストの尊い贖いの血を汚す者である。
そのような者は、キリストが栄光を帯びて来られる時、胸を打って嘆く者達の側となってしまう。

キリストは人の罪をその身に負うために「一度だけ」ご自身を捧げられるために、この世に降りて来られ、そして贖いを成し遂げられた。
そして二度目、将来来られるのは、主の現れを待ち望んでいる人たちの救いために来られるのであって、好きこのんで堕落の道を楽しむ人々のために再び十字架にかかるためではないのだ。次のように書いてある通りである。
『キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。』(ヘブル9:28)

黙示録は怖い書、というイメージがあるかもしれない。
しかし、黙示録を怖がるべきは「さばきに値する人」、すなわち、キリストに敢えて反抗する者達であって、神を愛する人、その名を信じる人は、怖がる事は一切ない。
確かにキリストにあって歩む人は、迫害を受けたり、試練を受けたり、忍耐しなくてはならない事はあるだろう。
しかし、主の御名の中にある人は、誰一人、永遠の滅びに至る者はない。(ヨハネ17:12)

また私達は、耐えられないような試練に遭うのではないか、酷い迫害に耐えられるだろうか、と恐れたり心配したりする必要も、一切ない。
次の言葉にある通りである。
「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」(1コリント10:13)
「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」(マタイ6:34)

この書は、キリストに贖われて尚、好き好んで罪を犯し続けている者達には、恐れるべき書物であろ。
しかし、主イエス様を愛し、救いを待ち望んでいる人にとって、恐れるべき書ではない。
むしろ、主の来られる時のために、自らを整えるための書であり、約束されている栄光の報いを望み見て、楽しみにしつつ今を整える書とすべきである。

お知らせ

カテゴリ : 
礼拝メッセージ説教音声配信
執筆 : 
pastor 2016-3-18 21:30

先週は、Cohen大学院博士過程の学びのため、韓国に出張しておりました事は、既にお知らせしました通りですが、今回は特に黙示録を学び、また、今世界で起きている事柄について多く学んで来ました。

そして今回学びました事は、早急に、多くの人達にもお分かちすべき事と感じましたため、急ではありますが、第一列王記の講解説教は一時停止して、今一度、この黙示録の講解説教を始めたいと思います。

突然黙示録に?と、驚かれる方も、おられると思います。しかし、何か幻を示されたとか、不可思議な啓示を教えられたとかいった、根拠不明な突拍子もない事を広めるような事は、一切ありません。

Cohen大学院博士過程のスタンスは、ただ御言葉のみから、それも、ギリシヤ語・ヘブライ語の原典から忠実に、そして、ユダヤ式の聖書読解法(キアズム構造解析)を用い、神様が人に対し、世界に対し、未来に対し、そして、現在の私達に対して、どのような意図を持っておられるのかを、正確に解いて行こうとするものです。

あくまで今までのように(あるいは、今まで以上に)、御言葉に記されている事は御言葉から解き、原典の意味や、時代背景などから正しく読み解いて行こうというスタンスには、変わりはありません。

黙示録は唯一、新約において主から「心に刻む事(テフィリン)」をするよう命じられた書であり、また、牧師達からは最もメッセージする事を嫌煙されている書でありますが、同時に、黙示録に記されております事は、今まさに世界で起きている事に、とても関係があり、そして、私達キリスト者がこれから備えて行かなくてはならない事もまた、多く記されている書です。

そういうわけで、イレギュラーではありますが、今回から黙示録をお分かちしてていこうと、決心しました次第です。

主は言われます。「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである。時が近づいているからである。」(黙示録1:3)

私達は主から教えられた通り、これを読み、また聞いて、そして記されている事を守り行う「幸いな者」を目指していきたいと思います。

メインメニュー
礼拝ライブ中継

礼拝ライブ中継!

礼拝ライブ中継!

過去の礼拝映像も視聴できます

メッセージ
このページを紹介!

 
 
 
礼拝週報
メッセージ音声
検索
Copyright ©Yokohama Voice of Christ Church 横浜天声キリスト教会
All Rights Reserved.
 〒231-0058 神奈川県横浜市中区弥生町2-17 ストークタワー大通公園?-201
TEL/FAX:045-326-6211

tensei.christ at gmail.com (atを@に変更して下さい)
© 2022 Powered by XOOPS Cube 2.1
Welcome Guest