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メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

つくばエクレシア礼拝説教メッセージ

愛を伴った権威によって従わせる主(マタイ7:28-29)
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火曜早天祈祷会

愛のたしなみが与えられるよう求めなさい(1コリント13:13-14:1)
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永遠に帰って来なかった放蕩息子(2サムエル記18:19-33)
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戦いの結果は、ダビデ王が願った通りではなく、クーデターを起こした王子アブシャロムの死、という形で、決着がついた。

『ツァドクの子アヒマアツは言った。「私は王のところへ走って行って、主が敵の手から王を救って王のために正しいさばきをされたと知らせたいのですが。ヨアブは彼に言った。「きょう、あなたは知らせるのではない。ほかの日に知らせなさい。きょうは、知らせないがよい。王子が死んだのだから。ヨアブはクシュ人に言った。「行って、あなたの見たことを王に告げなさい。」クシュ人はヨアブに礼をして、走り去った。』(2サムエル記18:19-21)
アヒマアツは、この戦いの結果を「主が敵の手から王を救って王のために正しいさばきをされた」と評価したが、きっとそれがダビデの側についた人々の大勢の見方であろう。
なにしろ、謀反しクーデターを企てた者を、討ち取ったのだから。
アヒマアツは、その「戦勝の良き知らせ」を伝えようと意気込むのだが、ヨアブはそれを引き止めた。

ヨアブは、ダビデのことを良く知っていた。
この度の結果は、ダビデにとっては良き知らせではない、と。そして、伝令の報告の仕方次第では、伝令が殺されかねない、とまで思ったのかもしれない。
だから彼は、無名のクシュ人に伝令の役割をさせたのだ。
しかしアヒマアツは、それでも自分も伝えに行きたい、と懇願し、ヨアブは根負けして、行く事を許した。

『ダビデは二つの門の間にすわっていた。見張りが城壁の門の屋根に上り、目を上げて見ていると、ただひとりで走って来る男がいた。見張りが王に大声で告げると、王は言った。「ただひとりなら、吉報だろう。」その者がしだいに近づいて来たとき、見張りは、もうひとりの男が走って来るのを見た。見張りは門衛に叫んで言った。「ひとりで走って来る男がいます。」すると王は言った。「それも吉報を持って来ているのだ。」
見張りは言った。「先に走っているのは、どうやらツァドクの子アヒマアツのように見えます。」王は言った。「あれは良い男だ。良い知らせを持って来るだろう。」』(2サムエル記18:24-27)
ダビデは知らせが届く前から、しきりに「良い知らせ」にこだわっている。
伝令が一人で来たなら「それは吉報」だ、一人ではなく二人だと分かっても「それも吉報」だと、また、あの男は良い男だから「良い知らせ」だ、と。

ダビデにとっての「良い知らせ」とは、息子アブシャロムが無事である事。
その「吉報」が来るのを、ダビデは、今か今かと切望していたのだろう。
あたかも、放蕩息子の父が、息子が出て行った道をはるか望み見、いつ帰って来るだろうかと、待ち望んでいるかのように。(ルカ15章)

『アヒマアツは大声で王に「ごきげんはいかがでしょうか。」と言って、地にひれ伏して、王に礼をした。彼は言った。「あなたの神、主がほめたたえられますように。主は、王さまに手向かった者どもを、引き渡してくださいました。」王が、「若者アブシャロムは無事か。」と聞くと、アヒマアツは答えた。「ヨアブが王の家来のこのしもべを遣わすとき、私は、何か大騒ぎの起こるのを見ましたが、何があったのか知りません。」王は言った。「わきへ退いて、そこに立っていなさい。」そこで彼はわきに退いて立っていた。』(2サムエル記18:28-30)
アヒマアツは、「戦いには勝った」という面だけの「良い知らせ」は伝えたものの、肝心の所を濁した。
言ってみれば、報告する上で「美味しい所取り」をして、ダビデに自分に対する「良い印象」を残したわけである。

ダビデ王は、自分に手向かって来た敵が打ち伏された報告については、目もくれなかった。あたかも、当たり前であるかのように。
彼は今までの経験から、主に対してやましい所が無く、自分主により頼んでおり、そして相手が主に従順していないなら、たとえどんなに不利な戦いでも、主は必ず勝利を下さる、と確信していたのだ。
彼のやましさは、とうの昔に主に告白し、悔い改め、主に”取り扱われ済み”だ。

しかし、アブシャロム達は、明らかに主の前で悪い事をしており、主に守られる分は無い。
だから、ダビデは自分達がいかに圧倒的不利であろうとも、この戦いに勝つ事は、それ程驚く事ではなかったのかもしれない。
それを信じた上で、ダビデは、部下たちにアブシャロムを手柔らかに扱うよう指示したのだろう。
つまり、ダビデにとっての真っ先の関心事項は、戦勝ではなく、アブシャロムが無事かどうか、という事だったのだ。
アブシャロムがこのまま御言葉に逆らうような事をしていたら、主からの懲罰が追いついてしまう事は明らかだ、そうならない内に、何とか救われて欲しい、と。

『するとクシュ人がはいって来て言った。「王さまにお知らせいたします。主は、きょう、あなたに立ち向かうすべての者の手から、あなたを救って、あなたのために正しいさばきをされました。」王はクシュ人に言った。「若者アブシャロムは無事か。」クシュ人は答えた。「王さまの敵、あなたに立ち向かって害を加えようとする者はすべて、あの若者のようになりますように。」』(2サムエル記18:31)
クシュ人の伝令は、言ってしまった。
アブシャロムを「王の敵」とし、その「敵」は、主が裁いて下さった、と。
そしてあたかも、ダビデの子アブシャロムが、呪われるべき者の代表格であるかのように、王を害する者は、あの若者のようになりますように、と言った。

『すると王は身震いして、門の屋上に上り、そこで泣いた。彼は泣きながら、こう言い続けた。「わが子アブシャロム。わが子よ。わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブシャロム。わが子よ。わが子よ。」』(2サムエル記18:33)
この王の反応は、人々には理解しがたいものだったかもしれない。実際、アヒマアツも、この度の事はダビデに良い知らせだと思って、最初は伝えたくてうずうずしていた。
王はなぜ、そのような反応をするのか?
確かに息子が死んだ事は悲しい事かもしれないけれど、それ以上に、自分の命の危機は去って、再び王国に平和が戻るのだから、そこまで悲しむのはやりすぎでは、と、人々は思ったかもしれない。

きっとダビデは、今までアブシャロムが何かしても放置する事を重ねたため、彼がこんなにも、呪われるような事をしてしまう子へとならせてしまった、という自責の念があったのだろう。
アブシャロムはせっかく「父の平和」という良い名前がつけられたのに、子育てにおいて彼に間違えた対応をし続けてしまった故に、名前とは全くそぐわない子となってしまい、最終的に、彼は自身の罪の故に滅びが追いついて死んでしまった。

またアブシャロムの死は、そればかりの事ではなかった。
これでダビデの子は3人死んでしまったわけだが、彼らの死は、大本を辿って行くと、ダビデ自身が犯した姦淫と殺人の罪へとたどり着くのだ。

ダビデは、自分の息子に王座を奪われ、命を狙われ、自分の妾を公然と寝取られた。
それだけでも苦しいのに、それに積み重ねて、息子が父に復讐したいがために、律法では死罪に当たるような悪どい事を父にし続けて来て、そして、その罪の刈り取りは、息子自身が刈り取らなくてはならなくなり、そしてついに滅びが追いついて、死んでしまう。
これら一連の全ての原因は、結局、ダビデ自身に行き着くのだ。

ダビデが犯したあの罪の故に、そして、ダビデが放置して来たあれらの事どもの故に、既に3人の子がダビデの前で死んで行き、ただ、ダビデだけは生き残っている。
「ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに」とダビデが叫んだのには、それだけの理由があるのだ。
ダビデは自分の罪を認めた故、死ぬ事は免れたものの、むしろ死んだほうが良かったと思う程の苦痛と悲しみを背負って生きなくてはならなかったのだ。

イエス様のたとえ話の放蕩息子は、悔い改めて父の元に帰って来てハッピーエンドとなったが、ダビデの放蕩息子は、永遠に帰って来なかった。
アブシャロムは”放蕩先”で、神と父とに反逆する事を改めなかった故に、呪いが追いついてしまい、滅んでしまった。

父なる神は、罪人がその罪の内に滅んでいく事を、全く望んでおられない。
『悔い改めて、あなたがたのすべてのとがを離れよ。さもないと悪はあなたがたを滅ぼす。あなたがたがわたしに対しておこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか。わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」。』(エゼキエル18:30-32)

神は、いかに人間が反逆しようとも、それであっても立ち返って、救われる事を望まれる。
たとえ、父の財産を散財し、ぼろぼろになって帰ってきたとしても、父は、遠くからその姿をみとめて走り寄り、口付けし、元の地位に戻して、宴会を開いて下さる。
一人の罪人が立ち返って悔い改めるなら、天では大きな喜びが沸き起こるが、罪人がずっと悔い改めず、呪いが追いついて滅んでしまうなら、ダビデが号泣したように、天では深い悲しみが起こるのだ。

『わが子アブシャロム。わが子よ。わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブシャロム。わが子よ。わが子よ。』(2サムエル記18:33)
このダビデの嘆きは、悔い改めないまま、呪いに追いつかれ、滅んで行ってしまった人達に対する、父なる神様の嘆きでもある。
父なる神様は、こよなき愛で、人を愛された。それで父なる神様に対する反逆と罪の故に滅んでいく人を、滅びから救うために、ひとり子を世に遣わされた。
彼を身代わりにして死なせる事によって、人の罪を処罰し、彼を信じる人が、永遠のいのちを持つようになるために。

華々しかったアブシャロムの、実にあっけない、呪われた最後(2サムエル記18:9-18)
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アブシャロムは非常に美しく、頭も切れ、人々の人気を得、”華々しく”父ダビデ王にクーデターを起こしたが、その最後は、あまりにあっけなく、実に呪われた有様だった。

『さてアブサロムはダビデの家来たちに行き会った。その時アブサロムは騾馬に乗っていたが、騾馬は大きいかしの木の、茂った枝の下を通ったので、アブサロムの頭がそのかしの木にかかって、彼は天地の間につりさがった。騾馬は彼を捨てて過ぎて行った。』(2サムエル記18:9)
アブシャロムは髪の毛がとても豊富で、彼の美を誇るものであったが、その髪が災いした。
彼は彼の乗っていた動物によって木に吊るされ、ぶら下がったままの姿を、敵の面前に晒す事となった。

木に吊るされた者は「神に呪われた者」と記されている。(申命記21:23、ガラテヤ3:13)
それは、天と地の間に宙吊りにされる事により、天からも地からも見放された者、という意味らしい。
まさに、神がアブシャロムをその状態へと導いた、と言えるだろう。
なにしろ彼は、自分から呪われるべき事をしたからのだから。
『『父や母を軽んずる者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。・・・『父の妻を犯す者は、父を恥ずかしめるのであるからのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。』(申命記27:16,20)

『ひとりの人がそれを見てヨアブに告げて言った、「わたしはアブサロムが、かしの木にかかっているのを見ました」。ヨアブはそれを告げた人に言った、「あなたはそれを見たというのか。それなら、どうしてあなたは彼をその所で、地に撃ち落さなかったのか。わたしはあなたに銀十シケルと帯一筋を与えたであろうに」。』(2サムエル記18:10-11)
ヨアブに報告をもたらした人は、ダビデの「アブシャロムを穏やかに扱うように」という命令を聞いていたので、当然ヨアブはあの状態のアブシャロムを穏やかに扱うものだろう、と思って報告したのであろうが、ヨアブはあたかも、アブシャロムは殺して然るべしであるかのように答え、しかも「どうしてあなたは殺さなかったのか」とまで言われてしまった。
かの報告した人には、王の命令を聞き従う心はあったが、ヨアブには王の命令を聞く心は無く、血を流すのに早かった。
それ故彼は、人から血を流される者となってしまう。

『そこで、ヨアブは「こうしてあなたと共にとどまってはおられない」と言って、手に三筋の投げやりを取り、あのかしの木にかかって、なお生きているアブサロムの心臓にこれを突き通した。ヨアブの武器を執る十人の若者たちは取り巻いて、アブサロムを撃ち殺した。・・・人々はアブサロムを取って、森の中の大きな穴に投げいれ、その上にひじょうに大きい石塚を積み上げた。そしてイスラエルはみなおのおのその天幕に逃げ帰った。』(2サムエル記18:14-17)
これが、かのアブシャロムの最後である。
彼は木にかけられ、槍で刺され、寄ってたかってなぶりものにされ、その死体は王の墓に丁重に葬られず、誰も通らないような密林のほら穴に投げ込まれ、そこを大きな石くれの山で塞がれてしまった。
いかに若く美しく、はかりごとに長け、華々しく、勢いがあろうとも、主が「これをしてはならない」と言われた事を率先してするような者の最後は、実に呪われたものなのだ。

『さてアブサロムは生きている間に、王の谷に自分のために一つの柱を建てた。それは彼が、「わたしは自分の名を伝える子がない」と思ったからである。彼はその柱に自分の名をつけた。その柱は今日までアブサロムの碑ととなえられている。』(2サムエル記18:18)
14章を見ると、彼には3人の息子がいたはずだった。
彼が畑に火を放ってまで父ダビデと会おうとしていた14章の時は、まだ、子供達は健在であったのだろう。
しかし、父ダビデに反逆をはじめて以降、その3人は、死んでしまったのだろう。
アブシャロムは神の国イスラエルで王を名乗ったからには、率先して父に逆らうという御言葉への反逆をするとしたなら、神が黙っていないのだ。
きっとアブシャロムがした事で神に呪われ、子のいのちまでも呪われてしまった事を、全イスラエルは聞いて、震えおののいただろう。

『もし、わがままで、手に負えない子があって、父の言葉にも、母の言葉にも従わず、父母がこれを懲らしてもきかない時は、その父母はこれを捕えて、その町の門に行き、町の長老たちの前に出し、町の長老たちに言わなければならない、『わたしたちのこの子はわがままで、手に負えません。わたしたちの言葉に従わず、身持ちが悪く、大酒飲みです』。そのとき、町の人は皆、彼を石で撃ち殺し、あなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。そうすれば、イスラエルは皆聞いて恐れるであろう。』(申命記21:18-21)
ここの「身持ちが悪い(ザラェル)」の原意は、ぶらぶらする、放浪ぐせがある、おお喰らい、役立たず、の意味があり、また、「大酒飲み(サバァ)」の原意は、がぶがぶ飲む、酔っぱらい、の意味がある。
子がわがままで手に負えず、親の言葉に従わず、あれもこれも自分のものにしようと貪欲で、懲らしても聞かない、という事なら、長老達にこのように報告してから、石て撃ち殺しなさい、そうして、これを聞く人全てが恐るようにしなさい、と、律法に記されている。

私達は、祝福を受けるためにも、父母を敬うべきである。
『子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである。「あなたの父と母とを敬え」。これが第一の戒めであって、次の約束がそれについている、「そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう」。』(エペソ6:1-3)
従うべき権威には順序があって、ここに記されている通り、「主にあって」両親に従うべきである。
もし父母が、主と主の御言葉に反する事を押し付けて来るなら、敬いの心は持ちつつ、諭すべきである。
「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。」(マタイ10:37)
そうした以外の事であれば、両親に服従すべきであり、それをするなら、主が約束しておられる通りに幸福になり、地上で長く生きる事ができるからだ。

私達はアブシャロムとは真逆の、祝福の王道を歩んでいきたい。

マタイによる福音書講解説教メッセージ

主の受難を前にした三者三様(マタイ26:1-16)
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イザヤ書講解説教メッセージ

海の荒野に対する宣告 - バビロンの哀歌を歌う者達(イザヤ21:1-10)
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【概要】

本日のメッセージは、イザヤ書21章1〜10節と黙示録18章の預言を通して、神の義なる裁きと正しい生き方への呼びかけを語ります。バビロンの滅亡の預言や、信者に対する戒め、励まし、悔い改めの促しが込められています。

【聖書箇所】

・イザヤ21:1-10

・黙示録18章

【戒めの言葉】

神は不正や不品行に満ちた世の制度を断罪され、誇り高く堕落した者たちには厳しい裁きが下されます。私たちは日々の生活の中で、偶像崇拝や不正な取引、自己中心的な行いを改める必要があります。

【励ましの言葉】

たとえ今の世の中が混迷し、あふれる悪に心が揺れるとしても、神は決してご自分の民を見捨てられません。正しい行いと忍耐によって、私たちはいつか神の光り輝く御国に迎え入れられるのです。

【悔い改めの促しの言葉】

自身の罪や過ちに気づいたならば、真摯に悔い改め、心を整え神に立ち返る勇気を持ちましょう。神の恵みは、悔い改める者すべてに与えられる恵みの道しるべです。

【***詳細***】

今日、私たちはまずイザヤ書21章1〜10節の美言葉から、神の啓示を受けるためにその御言葉に耳を傾けます。「海の荒野に対する宣告」という導入の言葉は、荒涼とした地に吹き荒れるつむじ風のような恐ろしい力が迫っていることを示しているのです。イザヤは、この荒野と称される場所に、神の厳しい裁きが下されることを預言として語っています。私たちはこれを神が与えられた真実の言葉として受け止め、日々の心を整え、謙虚に神に立ち返るべきであると改めて教えられます。

説教の中盤では、イザヤが語る預言は、かつてバビロンとして知られた国の未来やその運命と深く結びついています。バビロンは、チグリスとユーフラテスに挟まれ、肥沃な土地と同時に荒廃の影をも持つ国として描かれており、そこでは高慢な商人たちや堕落した生活があふれていました。イザヤは、そのバビロンがいまだ大国として成立していない時代に、将来大いなる国へと成長し、やがて神の裁きを受ける運命にあることを明確に示されました。預言者自身は、当時の政治情勢―アッシリアの圧力や国々の罪深い行い―を前に、深い悩みと恐れを抱きながらも、神の啓示に従い、真実を伝える苦しみを味わっていました。

また、イザヤの預言は、単に古代の歴史的事実を語るにとどまらず、現代に暮らす私たちに対する警告とも受け取ることができます。今日の社会においても、不正な取引や愛欲、誇り高い生き方が横行し、まるであの荒廃したバビロンのような状況が見受けられます。神はそのような世の堕落に断固として立ち向かわれるお方であり、私たち信者もまた、戒めと自己反省の心を持ち続けるべきだということを預言の中から学ばせていただきます。

説教の中盤部ではさらに、イザヤによる幻の中で示された恐ろしいビジョンが詳しく語られます。幻の中で、預言者はある苦しみと心の乱れを体験します。まるで、女の出産に似た苦痛―それは神からの重大な警告の証であり、罪のない民の血が流される悲劇を予告するものでした。人々は、堕落や裏切りに満ちた生活を送る中、その破滅の日がいずれ訪れることに気づかず、慶事に耽るばかりでした。物見の塔に登り、騎兵や戦車の動向を目にする中で、勇ましい兵士たちは神の裁きを告げる鐘のように、注意を促されるのです。ここでの預言は、ただ単にバビロンという古代都市の運命を告げるだけでなく、どんなに華やかな生活があったとしても、神の正義は必ず成就するという普遍の真理を示しています。

説教は次第に、ぼんやりとした過去の出来事から今日の現実、さらには将来に向けた啓示へと展開していきます。私たちの目の前には、旧約の預言と同様に、新約の黙示録18章に記された、バビロンの最終的な滅亡と裁きの光景があります。黙示録では、バビロンが不信仰に溺れた結果、神の怒りによって断罪される様子が詳細に描かれています。地上の商人たちは、その豪華な生活と不正な取引のために大いに悲しみ、国々の民はその深い裏切りに対して激しい怒りを示します。偶像崇拝と高慢な態度によって栄えたその都市は、やがて血と涙と苦悩の中で滅び、神の正義の現れとして、すべての民にその教訓を与えるのです。

このような聖書の預言の言葉は、私たちに現代のあらゆる堕落と不正に対しても、変わることのない神の裁きがあることを思い出させます。同時に、信者として私たちは、自らの心を清め、罪を悔い改め、日々の生活の中で正しい行いを積み重ねることを求められているのです。悔い改めることは決して恥ずかしいことではなく、神の恵みによって救われるための大切な一歩であります。また、私たちが正しい道を歩むとき、神はその正義と慈愛によって、私たちの肉体的な試練や迫害をも救い、最終的には花嫁として光り輝く姿で天に迎え入れてくださるのです。

説教の後半では、今日の世界の現状にも目を向けられます。中東やその他の地域では、権力争いや不正な武器取引が日常的に行われ、悪徳な者たちが交錯する中で、信者が迫害され、血が流されるという悲劇が現実のものとなっています。聖書に描かれるバビロンの破滅の予告は、現代においても真実として重みを持ち、私たちに「今こそ心を整え、神に立ち返るべき時である」という戒めのメッセージを与えているのです。悪徳な力に取り巻かれる世界で、私たちが守るべきは、常に正義と真実、そして神に基づく愛ある生き方です。不正が横行する中で、信者たちは互いに助け合い、励まし合いながら、神の教えの下で自らの使命を果たしていく必要があります。

最後に、黙示録18章に記された裁きのビジョンが語られた部分では、バビロンの都が突然滅び、その街に染み付いた罪の血や、不正な取引によって得られた富が、すべて神の前で裁かれる様子が力強く描かれています。そこでは、神の生徒たちが立ち上がり、その正しい行いと忍耐、そして悔い改めの心をもって、真の花嫁のような姿で天に迎え入れられる日が約束されているのです。私たちは、日々の生活の中で自らの内面と向き合い、神の前に謙虚になること、また、迫害や誘惑に対して堅固な意志で立ち向かうべきであると強く訴えられています。

このように、イザヤ書と黙示録の預言は、古代の出来事に留まらず、現代の私たち一人ひとりに大切な示唆を与えています。不正と堕落がはびこる世の中においても、神は必ず御心にかなう者を導き、最終的にはすべての悪を裁かれるお方です。私たちは、毎日の生活の中で正しい道を歩むために、悔い改めと自己反省を怠らず、忍耐強く神の御言葉に従うよう努めるべきです。たとえ厳しい試練が待っていたとしても、神の約束は決して揺らぐことはなく、未来に希望と光があることを信じ、歩みを進めるのです。

【結論】

バビロンの滅びと神の正義の預言は、今の私たちに自らの生き方を改める大切な機会を与えています。正しい行い、悔い改め、そして忍耐をもって日々を過ごすことで、私たちは神の御言葉にふさわしい光り輝く花嫁として、永遠の救いに迎え入れられるのです。主イエスキリストのお名前によって祝福されるよう、今日も心新たに歩んでいきましょう。

勝っても負けても悲しみしか無い戦い(2サムエル記18:1-8)
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主がダビデを助ける人々をちょうど良い時に遣わして下さったお陰で、ダビデは、物資面でも、人においても、物事においても、必要な助けを得て、迫ってくるアブシャロムに対し態勢を整える事が出来た。

『さてダビデは自分と共にいる民を調べて、その上に千人の長、百人の長を立てた。そしてダビデは民をつかわし、三分の一をヨアブの手に、三分の一をゼルヤの子ヨアブの兄弟アビシャイの手に、三分の一をガテびとイッタイの手にあずけた。』(2サムエル記18:1-2)
ヨアブとアビシャイは、かねてから軍団長として活躍していたが、ダビデはさらに、ガテ人イッタイも軍団長として採用した。
ガテ人イッタイがダビデを慕ってエルサレムに来た時、その次の日にダビデは都落ちしてエルサレムを出て行ったにもかかわらず、ダビデについて行くという誠実を示した。

『こうして王は民に言った、「わたしもまた必ずあなたがたと一緒に出ます」。しかし民は言った、「あなたは出てはなりません。それはわれわれがどんなに逃げても、彼らはわれわれに心をとめず、われわれの半ばが死んでも、われわれに心をとめないからです。しかしあなたはわれわれの一万に等しいのです。それゆえあなたは町の中からわれわれを助けてくださる方がよろしい」。王は彼らに言った、「あなたがたの最も良いと思うことをわたしはしましょう」。』(2サムエル記18:2b-4)
ダビデはかつて、皆が戦いに出ている間、彼だけは王宮に残り、夕暮れ時に目覚めて、女性が体を洗っている姿に欲情を燃やし、彼女が人妻であるにも関わらず姦淫し、その夫を殺すという罪を犯したが、もう、その時のダビデとは違っていた。
ダビデは元々、戦いの時は、人々の先頭に立って戦いに出ていたものだが、そのダビデに戻っている。
ダビデは今回、いのちをかけて戦いに出る彼らと、一緒に行きたかったのだが、人々はそれを許さなかった。
なにしろ今回の戦いは、相手が狙うのは領土や金銀ではなく、ダビデただ一人の命であり、ダビデさえ死ねばアブシャロムのクーデターが成功するのだから。

『王はヨアブ、アビシャイおよびイッタイに命じて、「わたしのため、若者アブサロムをおだやかに扱うように」と言った。王がアブサロムの事についてすべての長たちに命じている時、民は皆聞いていた。』(2サムエル記18:5)
ダビデはもしかすると、アブシャロムがアムノンを殺して逃亡して以来、ずっとアブシャロムを気にかけ、心配していたのかもしれない。

そもそも、ダビデがアブシャロムに命を狙われるようになったのは、彼の身から出た錆的な所が大きい。
ダビデは、姦淫と殺人という「いのち」に対する罪を犯した故に、彼の身から生まれた「いのち」達から間接的に反撃を受け、自分の身内を性的に辱めたり、殺したり、クーデターを起こされたりしたのだ。
つまり、ダビデが犯した「いのち」を冒涜した罪の報いの道具として、自分の子が用いられてしまったのだ。
そして、もし「子」が、親であるダビデに対して反逆したり、性的にしてはならぬ事をしたりするなら、その刈り取りは当然、それを為した「子」が受けなければならない。

父・ダビデとしては、自分の子から実際的に命を狙われたり、また、子が犯してしまう罪のゆえに、子がその滅びの刈り取りをしなければならない事とに、心が引き裂かれる思いだっただろう。
だからダビデは、戦いに出て行く人々に、アブシャロムを穏やかに扱って欲しい、と懇願するのだが、しかし人々からすれば、アブシャロムは王に反逆した敵であり、一刻も早く倒したい相手だった。
ダビデにとっては、勝っても負けても痛みを伴う、実に複雑な状況である。

こうして戦端は切って落とされたが、主はダビデに有利に働かれた。
『民はイスラエルに向かって野に出て行き、エフライムの森で戦ったが、イスラエルの民はその所でダビデの家来たちの前に敗れた。その日その所に戦死者が多く、二万に及んだ。そして戦いはあまねくその地のおもてに広がった。この日、森の滅ぼした者は、つるぎの滅ぼした者よりも多かった。』(2サムエル記18:6-8)
ダビデの軍の剣によって滅んだ者よりも、森によって滅ぼされた者が多く出た、という事は、主がダビデに味方し、アブシャロムに敵対された、という事に他ならない。

ダビデとしては、勝っても負けても心痛い戦いだっただろう。
しかし主は、人の思いを遥かに超えた最善が何であるかをご存知であり、ただ、神の正しい義のみを遂行される。

次から次へと助けが遣わされたダビデの性質(2サムエル記17:15-29)
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『そこでホシャイは祭司たち、ザドクとアビヤタルとに言った、「アヒトペルはアブサロムとイスラエルの長老たちのためにこういう計りごとをした。またわたしはこういう計りごとをした。それゆえ、あなたがたはすみやかに人をつかわしてダビデに告げ、『今夜、荒野の渡し場に宿らないで、必ず渡って行きなさい。さもないと王および共にいる民はみな、滅ぼされるでしょう』と言いなさい」。』(2サムエル記17:15-16)
ホシャイは速やかにダビデに報告するために、メッセンジャーを遣わした。
アブシャロムが、いつまたアヒトフェルの助言を採用してしまうか、分からないからだ。

このダビデへの二人の伝令は、アブシャロムに属する若者に見られていまい、追われる事となってしまう。
『彼らふたりは急いで去り、バホリムの、あるひとりの人の家にきた。その人の庭に井戸があって、彼らはその中に下ったので、女はおおいを取ってきて井戸の口の上にひろげ、麦をその上にまき散らした。それゆえその事は何も知れなかった。アブサロムのしもべたちはその女の家にきて言った、「アヒマアズとヨナタンはどこにいますか」。女は彼らに言った、「あの人々は小川を渡って行きました」。彼らは尋ねたが見当らなかったのでエルサレムに帰った。』(2サムエル記17:18-20)
ダビデ達を助ける人は、ここでも現れた。
ダビデは以前から、行く先々で恵みと憐れみのわざを人々にする事を常として来たため、いざという時に彼を助けてくれる人が沢山いるのだ。

例えば、ダビデがサウル王に追われていた時代、ナバルの羊飼い達と共に過ごした時でも、ダビデ達はナバルの羊飼い達のため盾となり、持ち物がなくならないように気を遣ってやった。
ナバルは、そんなダビデの恩を、仇で返したが、主はナバルを打たれ、そして夫のナバルに代わってダビデに恩を返したアビガイルは、ダビデの嫁となり後には王妃となる幸いにあずかった。
主を頼りとしている人達に良い事で返すなら、その人には良い報いが返って来るが、仇で返すなら、それ相当の報いがその人に帰ってくるのだ。
『あなたがたを受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。わたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。預言者の名のゆえに預言者を受けいれる者は、預言者の報いを受け、義人の名のゆえに義人を受けいれる者は、義人の報いを受けるであろう。わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」。』(マタイ10:40-42)

『彼らが去った後、人々は井戸から上り、行ってダビデ王に告げた。すなわち彼らはダビデに言った、「立って、すみやかに川を渡りなさい。アヒトペルがあなたがたに対してこういう計りごとをしたからです」。そこでダビデは立って、共にいるすべての民と一緒にヨルダンを渡った。夜明けには、ヨルダンを渡らない者はひとりもなかった。』(2サムエル記17:21-22)
ダビデに伝える二人の伝令は、こうして無事、ダビデの所に情報を届ける事が出来、こうしてダビデ達は、一人も損なわれる事なく無事にヨルダンを渡る事が出来た。
悪しき者は主の民に色々と企み、次から次へと攻勢をかけてくるが、主は、主に信頼して御言葉に歩む人には、人を通じ、あるいは自然現象を通じ、時には、自然を超越した現象を起こしてでも働かれ、守られるのだ。

『アヒトペルは、自分の計りごとが行われないのを見て、ろばにくらを置き、立って自分の町に行き、その家に帰った。そして家の人に遺言してみずからくびれて死に、その父の墓に葬られた。』(2サムエル記17:23)
アヒトペルは、「神の御告げ」のような計りごとをめぐらす人だったが、その計りごとは、自分のいのちをながらえさせる事が出来なかった。
彼が自ら首をくくった理由は「自分のはかりごとが行われないのを見て」だった「自分の思い通りに行かないなら、死んだほうがましだ」という理由で自殺をするなら、ダビデは一体何度、自殺するような場面があっただろう。

イスカリオテのユダも、アヒトペルのように首をっくくって死んだが、彼も、イエス様が自分の思い通りに行かないから、というのが、裏切りの発端だった。
自分の思いや計りごとを、あくまで執着するなら、自分で自分の首を締めてしまうものだ。
しかしキリスト者は、自分の計りごとを降ろし、主の前に服従させ、そうして、誰にも出来ないような勝利を勝ち取れる人々である。
『私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。』(2コリント10:5-6)

ダビデには、さらに助ける人が現れる。
『ダビデがマハナイムにきた時、アンモンの人々のうちのラバのナハシの子ショビと、ロ・デバルのアンミエルの子マキル、およびロゲリムのギレアデびとバルジライは、寝床と鉢、土器、小麦、大麦、粉、いり麦、豆、レンズ豆、蜜、凝乳、羊、乾酪をダビデおよび共にいる民が食べるために持ってきた。それは彼らが、「民は荒野で飢え疲れかわいている」と思ったからである。』(2サムエル記17:27-29)

ダビデを助けた一人目は、ナハシの子ショビである。
ナハシは生前、ダビデと親しい交流があったアモン人の王であったが、その子・ハヌンは、ダビデの恩に仇で返した。(10章)
しかしショビは、ダビデの恩に恩で報いた。
ショビとハヌン。同じナハシという親から生まれたのに、一方はダビデに恩を返し、一方はダビデを辱めた。それと同じように、同じ肉の親から生まれても、一方はキリストに恩を返し、他方はキリストを辱める、という事は、あるのだ。

ダビデを助けた二人目のマキルは、サウル家のヨナタンの子・メフィボシェテを養った人である。(9章)
きっと彼は、メフィボシェテに憐れみをかけ、王の食卓で彼を養ってくれたダビデに対し、恩を報いたのだろう。
また、バルジライは19章で詳しく記されているが、彼は非常に裕福で、ダビデ達がマハナイムにとどまっている間、彼らを養った。
それでダビデが幸いを得た時、彼を祝福し、豊かに報いる。(19章)

ダビデは行く先々で、人々に平和に接し、憐れみをほどこした。
悪い事をしていないのに命を付け狙われてる事があっても、悪で返す事をせず、善で返して来た実績がある。
だからダビデは、神と人とに愛され、彼を助ける人が後を絶たなかったのだ。
『柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。・・・あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。・・・平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。・・・・義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。』(マタイ5:5-10)
このように、ダビデを助ける人達が、次から次へと現れたおかげで、アブシャロム達がヨルダンを渡って来る頃には、ダビデ達は物資面でも充実し、戦いの準備もしっかり整える事が出来た。

それに引き換え、アブシャロムに従っている人は、アブシャロムの美しさや魅力、勢いの良さ、頭の良さを見て一緒になる人が多かった。
つまり、彼と一緒にいる事のほうが今後都合が良いといった「損得勘定」で彼に従う人が多かった。
もしアヒトペルが、アブシャロムを愛し慕っていたとするなら、自分の計りごとが一度採用されなかったからと言って、早急に自殺してしまうような事は、しなかっただろう。

地を相続する人とは、外見や口先の言葉が美しい人ではなく、柔和な人である。
いざという時に憐れみを受けられる人は、普段から憐れみ深い人である。
神の子と呼ばれる人は、神のお告げのような計りごとを語る人ではなく、平和をつくる人である。
天国を相続する人とは、時代のトレンドに合わせて主人や主張を変える者ではなく、迫害されても、なお義を貫く人である。

愛を伴った権威によって従わせる主(マタイ7:28-29)
第一礼拝: Youtube動画 / 音声
賛美集会音声
第二礼拝: Youtube動画 / 音声
週報/メッセージ(説教)概要

『イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。』(マタイ7:28-29)
イエス様には権威があったが、律法学者には、権威は無かった。律法学者とは、律法をよく学び、蓄え、テフィリンされた人だが、人々をいのちへと導く事は出来ず、またイエス様ほどの権威も、無かった。
テフィリンされると、確かに頭脳がよくなる。律法学者も、かなり頭が良かったのであろうが、我々の印象として、律法学者といえばイエス様に逆らったり、あら探しをしたり、議論を仕掛けたりするような印象が強い。
いかにテフィリン教育されても、イエス様というお方と、その愛が伝わっていないなら、現在ユダヤ人のように、ただ頭が良く物質的に祝福されていても人々から嫌われ、叩かれやすいような人達になってしまう。
確かに私達は、子供がより頭が良くなる事を望むし、物質的に祝福された子になって欲しいと願うが、もし、子供が現代ユダヤ人のように、イエス様に逆らう方面で頭脳明晰になってしまうとするなら、恐ろしい事だ。
それを防ぐためには、子供達にまず、イエス様を教える事が先決である。
イエス様のご性質、すなわち、彼の愛を教え、彼が生きておられる事を教え、その御方を呼ぶ事を教え、その御方と出会い、会話し、交わり、共に歩む術を教えるのだ。
その為にはまず、私達自らがイエス様の愛を知り、味わい、体験しなくては、それを教えられない。
日々、賛美と祈りと御言葉によってイエス様と交わり、世と社会において、イエス様と共に歩むのだ。

律法学者の教え方は、命令と、懲らしめ、恐れによる指導であったのに対し、イエス様の教え方は、愛によって人の心を溶かし、自由にし、その自由意思で自ら仕える心を起こさせるものだ。
子供が御言葉の真理と、世における成功の枠組みを体得するために、命令と懲らしめ、恐れによる指導も、幾らかは有益であるが、それ「だけ」にしてしまうと、愛もイエス様も知らない「律法学者」が育ってしまう。
最も大切なものは、イエス様の愛である。「愛がない人」が、いくら預言しても、癒しをしても、身を切った捧げ物をしても、御言葉の深い奥義をひけらかしても、それはただのやかましい、壊れたシンバルだ。
私達は壊れたシンバルを演じていないだろうか。神は、愛である。愛は神のご性質であるため、愛の無い人は、決して神を伝えられない。 『愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。』(1ヨハネ4:18)

人は、色々な不足に嘆く。金銀がない、認められる事がない、子供が従ってくれない、と。しかし私達は何より、自分の中に、愛が無い事こそ、嘆くべきだ。愛が無いと嘆き悲しむ心が与えられたら、自分の問題を知るようになる。何より問題なのは、私達が愛の人でない事、愛を知らないで育てられてしまった事だ。
親によって律法学者のように育てられてしまったような人が、愛の人になるには、愛なる主、イエス様と出会う事だ。パウロは以前、バリバリの律法学者で、自分が「よし」と思なら、神の教会さえも迫害していた。
しかし彼は、半ば強制的にイエス様と出会わされた事により、愛の人に造り変えられた。それも、日夜兄弟姉妹のために心砕いて祈り、同胞が救われるためならば、自分が呪われた者になってもいい、と言う程に。
私達がイエス様と出会うなら、パウロのように、強制的に愛の人にさせられてしまうのだ。そのために私達も、イエス様を求めるべきである。イエス様、私と会って下さい、と。解決手段は、主イエス様を「求める」事だ。
『あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、わたしはあなたがたに会うと主は言われる。』(エレミヤ29:12-14)

律法学者には、正しさはあったかもしれないが、愛や情けは無かった。しかしイエス様は、私達のためにいのちの犠牲を捧げて下さった事によって、愛と憐れみを示して下さった。それで私達は彼に従うのである。
『正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。』(ローマ5:7-8)
主の愛を求めて主の愛を知るようになり、その愛を伴った権威によって、子供たちを、周りをイエス様の元へと導いていく皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

マタイによる福音書講解説教メッセージ

わたしの兄弟姉妹にした事は、わたしにした(マタイ25:31-46)
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