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ダビデ王に従った異邦の戦士たち(2サムエル記15:17-23)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 2サムエル記
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- pastor 2015-9-18 22:50
ダビデ王に従った異邦の戦士たち(2サムエル記15:17-23)
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ダビデ王に忠誠を貫いて、王と一緒に都落ちして行く人々もいたが、その中には、特に、異邦人たちが多かった事が記されている。
『彼のしもべたちは皆、彼のかたわらを進み、すべてのケレテびとと、すべてのペレテびと、および彼に従ってガテからきた六百人のガテびとは皆、王の前に進んだ。』(2サムエル記15:18)
ケレテ人はペリシテの地域に住んでいた人々で、彼らは共に、ダビデ王の親衛隊として側で仕えていた。(2サムエル記8:18、20:23、1歴代誌18:17)
また、ガテもペリシテの地である。ダビデはサウル王に追われていた時、そこに滞在していた。(1サムエル記27章)
『時に王はガテびとイッタイに言った、「どうしてあなたもまた、われわれと共に行くのですか。あなたは帰って王と共にいなさい。あなたは外国人で、また自分の国から追放された者だからです。あなたは、きのう来たばかりです。わたしは自分の行く所を知らずに行くのに、どうしてきょう、あなたを、われわれと共にさまよわせてよいでしょう。あなたは帰りなさい。あなたの兄弟たちも連れて帰りなさい。どうぞ主が恵みと真実をあなたに示してくださるように」。』(2サムエル記15:19-20)
イッタイを頭とするガテ人達は、ダビデを訪ねて来たばかりだ。それも、昨日。
彼らが来た時、イスラエル国はちょうど急変時で、ダビデは今日、都落ちして逃げている。
そんな状況だと言うのに、ダビデ王について来ようとした彼らに、ダビデは、自分の所に帰るように、と促すのだが、彼はそれを拒み、それでもダビデ王について行く、と言うのだ。
彼らは、ダビデの人柄に惹かれて来たのであろうし、武人として一度決心した忠誠を守る心もあっただろう。しかし彼らには、もっと高貴な動機があった。
『イッタイは王に答えた、「主(エホバ)は生きておられる。わが君、王は生きておられる。わが君、王のおられる所に、死ぬも生きるも、しもべもまたそこにおります」』(2サムエル記15:21)。
そう、彼らには「主(エホバ)」に対する信仰があったのだ。
彼ら、イスラエルの神・主に頼ろうという動機でイスラエルに来たのであり、そして彼らはアブシャロムではなく、ダビデを選んだ。
ダビデにこれからついて行く事は、いつ終わるとも知れない流浪と逃亡の生活に入る事を意味する。
常識的な観点で見るなら、ダビデ王はいつにでもアブシャロムに追い着かれ、殺されてしまうか分からない状況だ。
しかし、主に信頼する人々には、分かるのだ。主は、アブシャロムの側にではなく、ダビデの側におられる、と。
アブシャロムは、礼拝さえ、自分が王に成り上がるための道具とした。しかしダビデは、心底から主を敬い、主に信頼し、主に従順するがゆえに、主の懲らしめを甘じて受けている。(詩篇3篇)
ダビデについて行った当時の異邦の戦士たちに、私達もならうべきである。
今が旬の指導者が、いかに美しく、魅力的で、有能で、破竹の勢いがあり、周りの皆がなびいても、ただ一点、主を軽んじるような者であるとしたなら、その者について行かない方が良い。
かの異邦の戦士たちは、アブシャロムを選ばず、事実上敗北して都落ちしているようなダビデのほうを選んだ。
その理由は、ただ、ダビデが主に信頼し、主もまたダビデを愛しておられる、という点で。
ダビデのひいおばあさんであるモアブ人ルツも、同じ信仰だった。
彼女も「信仰」によって、ナオミに付いて行ってイスラエルに入った。
常識的に考えるなら、ナオミについて行く事には何のメリットも無く、結婚の望みも将来も見えないのに、この、夫と息子たちを失ってしまった一人の老女と共にイスラエルの神・主を頼りにして一緒にイスラエルに行こうとした信仰を、主は豊かに省みられた。
ルツは後に、栄光の家系へと嫁ぐ幸いを得、ダビデ王家の母となり、イエスキリストの系図に載る幸いを得た。
私達もルツのように、また、かの異邦の戦士たちのように、油注がれた王・キリストにより頼み、その御翼の陰に宿るなら、大いなる栄光と、豊かな報いがあるのだ。
『ダビデはイッタイに言った、「では進んで行きなさい」。そこでガテびとイッタイは進み、また彼のすべての従者および彼と共にいた子どもたちも皆、進んだ。』(2サムエル記15:22)
ダビデは、彼らとのわずかな言葉のやり取りで、この、昨日来たばかりの異邦の戦士たち六百人は、信頼に足る、と判断し、一緒に行動する事にした。
主に信頼する人同士は、霊と霊が共鳴し、理解する事に多くの時間や言葉はいらないものだ。
『国中みな大声で泣いた。民はみな進んだ。王もまたキデロンの谷を渡って進み、民は皆進んで荒野の方に向かった。』(2サムエル記15:23)
ダビデ王はまさに、後に来られるメシヤ・イエス様の雛形である。
イエス様もキデロンの谷を通って、オリーブ山で祈られ、十字架を背負って”都落ち”する時も、大勢のユダヤ人達はあざけり罵ったけれども、少数の異邦人達や、見捨てられてしまったような人々が、泣きながらイエス様について行った。
そしてイエス様は、後によみがえり、全能の父なる神の右に座し、世のどの王よりも高く上げられ、多くの異邦人達の救いの望みとなられた。
ダビデ王を偉大だと認知するユダヤ人達は、全て、イエス様こそ来るべきダビデの子・メシヤである事を、認知するべきだ。
エジプトに対する宣告 - 偶像礼拝者の混乱と搾取の運命(イザヤ:)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » イザヤ書
- 執筆 :
- pastor 2015-9-16 23:33
手練手管で王になろうとするアブシャロムと、油注がれて王になったダビデ(2サムエル記15:7-17)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 2サムエル記
- 執筆 :
- pastor 2015-9-16 23:26
手練手管で王になろうとするアブシャロムと、油注がれて王になったダビデ(2サムエル記15:7-17)
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アブシャロムは、心で長い間企んでいた陰謀を、ついに実行に移す。
『四年の終りに、アブサロムは王に言った、「どうぞわたしを行かせ、ヘブロンで、かつて主に立てた誓いを果させてください。それは、しもべがスリヤのゲシュルにいた時、誓いを立てて、『もし主がほんとうにわたしをエルサレムに連れ帰ってくださるならば、わたしは主に礼拝をささげます』と言ったからです」。王が彼に、「安らかに行きなさい」と言ったので、彼は立ってヘブロンへ行った。』(2サムエル記15:7-9)
アブシャロムは、主への誓いを果たす為にヘブロンへ行って礼拝させて下さいとダビデに許可を求めたが、それは偽りであった。
彼が「礼拝」を捧げに行くのは、主に誓っていた事を果たすためではなく、あらかじめ設定していた謀反の引き金を引くためであった。
つまり、彼がヘブロンで礼拝をささげる事が、彼が王となる事の合図として用いられたのだ。
『そしてアブサロムは密使をイスラエルのすべての部族のうちにつかわして言った、「ラッパの響きを聞くならば、『アブサロムがヘブロンで王となった』と言いなさい」。二百人の招かれた者がエルサレムからアブサロムと共に行った。彼らは何心なく行き、何事をも知らなかった。アブサロムは犠牲をささげている間に人をつかわして、ダビデの議官ギロびとアヒトペルを、その町ギロから呼び寄せた。徒党は強く、民はしだいにアブサロムに加わった。』(2サムエル記15:10-12)
ここに議官・ギロ人アヒトフェルが登場するが、当時、彼が考え出すはかりごとは、神の言葉のように思われる程、優れたものだった。(2サムエル記16:23)
アヒトフェルはバテ・シェバの祖父にあたり(2サムエル記11:3, 23:34)、ダビデの事を快く思っていなかった可能性は、大いにある。
アブシャロムはそんな彼に、「敵の敵は味方」として、謀反に加わるよう呼びかけたのだろう。
こうしてアブシャロムは、四年の歳月をかけて多くの人の心を掴んで行き、また、アヒトフェルというダビデに敵対的で強力な相談役も得、ぬかりの無い裏工作を巡らして行ったため、ダビデ王権の転覆を成功させるには充分となったが、それに対しダビデ王はどう対応したか。
『ひとりの使者がダビデのところにきて、「イスラエルの人々の心はアブサロムに従いました」と言った。ダビデは、自分と一緒にエルサレムにいるすべての家来に言った、「立て、われわれは逃げよう。そうしなければアブサロムの前からのがれることはできなくなるであろう。急いで行くがよい。さもないと、彼らが急ぎ追いついて、われわれに害をこうむらせ、つるぎをもって町を撃つであろう」。』(2サムエル記15:13-14)
ダビデ王の対応は、一切抵抗する事なく、エルサレムの都を出て逃げる事だった。
その理由も、アブシャロムが剣で攻め入って、エルサレムの中から犠牲者が出るといけないから、であった。
まったくもって、ダビデ王の行動原理と、アブシャロムの行動原理は、逆である。
ダビデ王は、あくまで平和を動機として行動した。
彼は、自分の手練手管を用いず、全て主に依り頼み、それも、かつては自分のいのちを付け狙って来たサウル王を、二度も見逃してやった程だった。
対して、アブシャロムは、主に頼らずに自分の手練手管に頼って世渡りして行く性質で、しかも、「主への礼拝」さえ自分のはかりごとの材料にしてしまう程だった。
彼は結局、天地を創られた主は彼の「主」ではなく、自分のはかりごとのほうが、彼の「主」だったわけである。
大多数の人は、何も抵抗せずに無様に逃げるダビデより、手練手管に長けて地道に裏で準備して行くアブシャロムのほうを、心強いと思うであろう。
しかし、決定的にダビデの方が勝っている点がある。
それは、ダビデは主により頼み、主に信頼している、という点だ。
アブシャロムは、はかりごとや手練手管を用い、偽りの礼拝を引き金にして自分が王だと名乗ったが、それに対してダビデは、羊を飼っていた時に主に見出され、一方的に主から油注がれ、王となった。
主が味方するのは、どちらだろうか。それは、一目瞭然である。
主を除外したはかりごとや手練手管の成果物は、やがてはぼろが出て、そちらを頼りにした人々はやがて恥を見るようになる。
『悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。このような人は流れのほとりに植えられた木の/時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。
悪しき者はそうでない、風の吹き去るもみがらのようだ。それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。主は正しい者の道を知られる。しかし、悪しき者の道は滅びる。』(詩篇1篇)
『王のしもべたちは王に言った、「しもべたちは、わが主君、王の選ばれる所をすべて行います」。こうして王は出て行き、その全家は彼に従った。王は十人のめかけを残して家を守らせた。王は出て行き、民はみな彼に従った。彼らは町はずれの家にとどまった。』(2サムエル記15:15-17)
それまでダビデ王が歩んできた、主に対する誠実な歩みを見て、彼について行った人達も、少なからずいた。
こうしてダビデ王は都落ちするのだが、彼はどのような心境で、自分の名がつけられた都から落ち延びて行ったのか。
彼は詩篇3編にて、その心境を記している。
『ダビデがその子アブサロムを避けてのがれたときの歌。主よ、わたしに敵する者のいかに多いことでしょう。わたしに逆らって立つ者が多く、「彼には神の助けがない」と、わたしについて言う者が多いのです。しかし主よ、あなたはわたしを囲む盾、わが栄え、わたしの頭を、もたげてくださるかたです。わたしが声をあげて主を呼ばわると、主は聖なる山からわたしに答えられる。』(詩篇3:1-4)
彼の心は、主に向いていた。助けの源を、主へと求めた。
いかに周りの人々が、「彼には助けがない」と言い合っているような状況であっても、それでも彼は主を盾とし、「主がわたしに答えて下さる」と信仰告白した。
ダビデのこのような祈り、久しぶりな気もする。
彼がサウルに追われていた時、よくこういう祈りをしていた。
ダビデ王は確かに一時、罪を犯した。その時、彼の罪は、神との間の隔たりとなって、祈る事もできなかっただろう。
しかし、彼は自分の罪を告白し、悔い改め、そして主が与えられる災いをも甘んじて受ける従順によって、主との交わりを回復した。
『わたしはふして眠り、また目をさます。主がわたしをささえられるからだ。わたしを囲んで立ち構える/ちよろずの民をもわたしは恐れない。主よ、お立ちください。わが神よ、わたしをお救いください。あなたはわたしのすべての敵のほおを打ち、悪しき者の歯を折られるのです。』(詩篇3:5-7)
ダビデは、息子に反逆され都落ちしてしまうような、悲しんで然るべき状況であっても、安らかに眠りにつく事が出来た。
主は、主を愛し、拠り所とする人には、平安と安らかな眠りを与えられる。しかし、悪い事をたくらむ者には、平安も安息した眠りも無いのだ。
『救は主のものです。どうかあなたの祝福が/あなたの民の上にありますように。』(詩篇3:8)
ダビデは、この詩の最後を、祝福で終えている。
それ程平安でゆとりのある心持ちだったのだ。
嘘をつく人は、その嘘がばれないようにするためにさらに嘘を重ね、誰にどの嘘をついたか色々の事を覚えて行かなくてはならないように、はかりごとをたくらむ人は、一々色々の事を覚え、考え、心配しなくてはならない。
しかし主に信頼し、主が全てを思い図って心配して下さる事を信じている人は、人を祝福するゆとりがあり、そして彼が発した祝福は、本人に返ってくるのだ
ダビデにこの度の事が起きたのは、元々はダビデの弱さ、罪、愚かさゆえだったかもしれない。
しかし、そんな無知、愚かさ、弱さにあっても、それでも主に向ける人は、主が守り、主がそれら全てから救い出し、悪い方向へ動いてしまった物事さえも、主は最善へと転換させて下さるのだ。
つくばエクレシア礼拝説教メッセージ
主は大いなる事をなされた(詩篇126編)
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立ち上がって下さい。この事はあなたの肩にかかっています。(エズラ記10:1-5)
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- pastor 2015-9-15 6:09
周到な反逆の企みをするアブシャロム(2サムエル記15:1-6)
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アブシャロムは、それまで願っていた父との面会がようやく叶ったのだが、それは非常に儀礼的なもので、アブシャロムは逆に憎しみを募らせるものとなってしまい、彼はこの会合以降、父ダビデの気を引こうとして来たそれまでの心を反転させ、ダビデ王に反旗を翻しクーデターを引き起こす準備を始めてしまう。
『アブサロムは早く起きて門の道のかたわらに立つのを常とした。人が訴えがあって王に裁判を求めに来ると、アブサロムはその人を呼んで言った、「あなたはどの町の者ですか」。その人が「しもべはイスラエルのこれこれの部族のものです」と言うと、アブサロムはその人に言った、「見よ、あなたの要求は良く、また正しい。しかしあなたのことを聞くべき人は王がまだ立てていない」。
アブサロムはまた言った、「ああ、わたしがこの地のさばきびとであったならばよいのに。そうすれば訴え、または申立てのあるものは、皆わたしの所にきて、わたしはこれに公平なさばきを行うことができるのだが」。』(2サムエル記15:2-4)
アブシャロムが父ダビデ王に反逆するためにまず行った事は、人の心を地道に掴んで行く事だった。
通りに毎日立ち、ダビデ王に裁判してもらおうとする人を待ち伏せして、親しげに声をかけ、その人の訴えに耳を傾け同情し、王はあなたの望み通りに動いてくれないが、もし自分なら正しくさばきが出来る、と吹き込んで行く。
こうして、ダビデ王に対する良くない思いと、またアブシャロムに対する好感を植え付けて行く。
人々がダビデ王にさばいてもらいたいと持ち寄る案件は全て、地方の長老では対処できないような難解なものであるはずである。
だから当然、訴えをした人の思い通りには行かない事もあるだろうし、また裁判が長引く事もあるだろう。
そのように、ダビデに訴えるさばきは、ある程度の不自由さを我慢しなくてはならないものであるのだが、アブシャロムは、そこを突いたのだ。
『そして人が彼に敬礼しようとして近づくと、彼は手を伸べ、その人を抱きかかえて口づけした。アブサロムは王にさばきを求めて来るすべてのイスラエルびとにこのようにした。こうしてアブサロムはイスラエルの人々の心を自分のものとした。』(2サムエル記15:4-6)
アブシャロムは、王子という高貴な身分であり、比類なき美貌の持ち主である。その彼が自分から人に手を差し伸べ、抱きかかえて口づけする。
当然、人々は感動し、そして噂するだろう。
あの美しいという噂の王子様・アブシャロムを、私は見た、そればかりでなく、こんな私に自ら近づいて来て、抱き寄せて口づけして下さった。
親しげに声をかけ、わたしの訴えに同情して下さった。
それに引き換えダビデ王は、対応が遅くて随分待たされた挙句、自分の思う通り裁きをしてくれなかった、など。
このように、人々の間では、アブシャロムの美しさと優しさ、有能さが、そして、ダビデの「無能さ」が、広まって行っただろう。
この地道な活動は、ボディブローのように徐々に、そして着実に効いて行く。
アブシャロムは、持て余した時間を、ただ人々に取り入って同調し、ダビデの悪い噂話を流す事に使えるが、ダビデ王は日々、人々のさばきを実際に考え、たとえ訴えに来る人が望まない結果であろうとも公平なさばきをしなくてはならないし、それだけでなく、色々な仕事も同時に抱え持っており、日々その対応に追われている。
会社や教会などの集団の中で、具体的に何か仕事をするわけでもなく、暇を持て余し、ただ上の権威の良くないうわさ話を撒き散らしつつ、自分の所に人々を引き寄せようとする人を放置させておくなら、彼の言葉はがんのように広まって、その組織をどんどん腐らせて行く。
パウロはローマの聖徒たちに、そのような人々について警告している。
『さて兄弟たちよ。あなたがたに勧告する。あなたがたが学んだ教にそむいて分裂を引き起し、つまずきを与える人々を警戒し、かつ彼らから遠ざかるがよい。なぜなら、こうした人々は、わたしたちの主キリストに仕えないで、自分の腹に仕え、そして甘言と美辞とをもって、純朴な人々の心を欺く者どもだからである。』(ローマ16:17-18)
このように、アブシャロムは周到なはかりごとを巡らし、彼自身の美貌や知恵、能力を駆使して、確実にダビデを貶めようと、また、自分が王になろうと、謀った。
ダビデは、アブシャロムが何をしようと企んでいたのか、感づいていたのかどうかは分からないが、ダビデが取った対応は、やはり「放置」だった。
いずれにせよ、イスラエルという「神の領域」において王となるのは、人の能力やはかりごとに拠るものではなく、ただ神によってなるものである。
アブシャロムは、生まれ持った美貌や手練手管、知恵と能力を駆使して王になろうとした。
しかしダビデが全イスラエルの王になったのは、主が王として下さるという約束に信頼して、一切自分の手練手管を用いず、ただ主がなされるがままに委ねて、そうして王となった。
人々は、アブシャロムのような人の方が、頼りがいがありそうだ、王としてふさわしい、と考えがちだが、最終的には、ダビデのように主に信頼して自分のはかりごとを捨てる人の方が主に守られ、生き残るのである。
人々は、外見の良さや甘言に騙されやすいもので、そのように外見や甘い言葉につられてしまう人の歩みは安定に欠いている。
しかし、人間の悪だくみやはかりごとに関わらず、ただ主に信頼する人の歩みは、決して揺るがされる事はない。
主は大いなる事をなされた(詩篇126編)
第一礼拝: Youtube動画 / 音声
賛美集会音声
第二礼拝: Youtube動画 / 音声
週報/メッセージ(説教)概要
『主がシオンの「繁栄(原文:囚われ人)」を回復されたとき、われらは夢みる者のようであった。 』(1節)
イスラエルは神を軽んじた故に、捕囚の憂き目に遭った。主が私達を荒野へと導くのは結局は幸いを与えるためである事を前回学んだが、私達の人生も、敢えて荒野を通らされたり、捕囚の憂き目に遭う事がある。
それは私達の罪が原因である事もあるが、主が敢えて私達を鍛えるために、そのようにされる事もある。
そこで強制的に主と主の言葉に向き合わされ、主でないものに頼る事がいかに愚かで、そして主の支配がいかに素晴らしいかを思い知らされ、結局永遠の幸いへと導くためだ。イスラエルに捕囚先から帰って良いと法令を発布したのは、ペルシヤのクロス王であるが、結局は「主が」した事だと1節にある。
主は素晴らしい事をして下さった!主は私達をも罪の捕縛から開放し、自由にして下さった。とても望めなかった事を、主は奇跡的にして下さった。こんな幸せ、こんな素晴らしい事を、自分は受け取ってもいいのだろうか。主を待ち望む人に備えられている喜びは、そんな「夢みる者」のような、うっとりした幸いなのだ。
『その時われらの口は笑いで満たされ、われらの舌は喜びの声で満たされた。その時「主(エホバ)は彼らのために大いなる事をなされた」と/言った者が、もろもろの国民の中にあった。』(2節)
主に信頼し続けるなら、私達神の民は夢をみているかのような喜び笑いで満ち溢れ、そしてその有様を見た、神を知らない人々も「主は大いなる事をされた」と言って主の存在を信じ、主の栄光を褒め称える。
だから私達は普段から、神の民として、キリストを明かしして歩むべきだ。「自分は主にあって歩む者です」と普段から証しているなら主は喜んでと栄光をあらわし恵んで下さるが、そうでない人には現わされない。
『主よ、どうか、われらの「繁栄(原文:囚われ人)」を、ネゲブの川のように回復してください。』(4節)
当時帰って来た捕囚の民は4万人程(エズラ記)、囚われ人はまだまだ残っていた。70年という歳月を捕囚先で過ごし、ある程度の生活が進んでいる。それをいきなり止め、イスラエルに戻るのは大変だろう。
だから祈るのだ。ネゲブの流れ(普段は水が無いが雨季には怒涛の流れになる)のように、捕囚先に残っている彼らを帰らせてください、と。私達も、今まさに捕囚と訓練の中にいる人達の為に、祈るべきだ。
捕囚先から解放され、戻ってきても、やるべき事は尚多く、問題も山積みの状態である。当時帰って来た人々も、エルサレムの城壁は崩されたままで、帰ってきた人々も、いつ以前の邪悪な生活に戻るか分からない霊的状態だった。そこを、ネヘミヤが城壁を再建し、エズラが霊的立て直しを実行した。私達自身、壊されてしまった心や体、家、経済の城壁を、助け主・慰め主なる聖霊が立て直して下さるよう、祈るのだ。
人々は戻って来ても、暫くの間、貧困にあえいでいた。種を蒔いても乏しい収穫にしかあずかれず、穴の空いた財布に入れるような状況だった事が、ハガイ書に記されている。なぜそうだったか。それは、真っ先に建てるべき神の宮をおろそかにしたまま、自分の生活のために奔走していたからだ。(ハガイ1:1-11)
イスラエルの民が戻った当初、確かに笑いで満たされ、国々も、大いなる事をされたと言って、主の栄光を誉めたたえた。しかし、それで終わりではない。肝心なのは、その後、何を優先して立て直すかである。
主の民は、主の国に帰ってきたからには、しっかり主を敬い、礼拝しつつ歩んで行くべきだが、主を礼拝すべき土台を建てずに奔走しても、種を蒔いてもあまり収穫は無く、穴の空いた袋に入れるような状況だ。
『あなたがたはこの日より後、・・・主の宮の基をすえた日から後の事を心にとめるがよい。・・・わたしはこの日から、あなたがたに恵みを与える」。』(ハガイ2:18-19)
『涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。』(5-6節) 喜びの刈り取りをするために、どこへ種を蒔くべきかが肝心だ。
私達は、世の事柄より、神の国の事柄のほうに優先して蒔くべきである。『自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。』(ガラテヤ6:8-9)
御霊に、御言葉に、主イエスに種をまき、天と地と海と陸とが揺り動かされ、祝福の雨そそがれて、豊かに刈り取る皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!