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メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

つくばエクレシア礼拝説教メッセージ
奴隷の地と祝福の地との中間地帯・荒野(出エジプト記16:1-5)
メッセージ音声

子が親のものに火を放つ時(2サムエル記14:18-33)
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メッセージ音声

『そこで王はヨアブに言った、「この事を許す。行って、若者アブサロムを連れ帰るがよい」。ヨアブは地にひれ伏して拝し、王を祝福した。そしてヨアブは言った、「わが主、王よ、王がしもべの願いを許されたので、きょうしもべは、あなたの前に恵みを得たことを知りました」。そこでヨアブは立ってゲシュルに行き、アブサロムをエルサレムに連れてきた。』(2サムエル記14:21-23)
ダビデは、ヨアブに遣わされた知恵深い女によって、息子アブシャロムが放置されたままの状態にあるのは、良くない、という事を諭された。
ダビデはそれを受け入れ、アブシャロムをエルサレムに連れて来る事を許すのだが、『王は言った、「彼を自分の家に引きこもらせるがよい。わたしの顔を見てはならない」。こうしてアブサロムは自分の家に引きこもり、王の顔を見なかった。』(2サムエル記14:24)
アブシャロムと会っていない3年の間、ダビデの心はアブシャロムへと向いていた(14:1)、はずなのに、彼をエルサレムへ呼び寄せた途端、ダビデはそれとは裏腹の行動を取っている。

『さて全イスラエルのうちにアブサロムのように、美しさのためほめられた人はなかった。その足の裏から頭の頂まで彼には傷がなかった。アブサロムがその頭を刈る時、その髪の毛をはかったが、王のはかりで二百シケルあった。毎年の終りにそれを刈るのを常とした。それが重くなると、彼はそれを刈ったのである。アブサロムに三人のむすこと、タマルという名のひとりの娘が生れた。タマルは美しい女であった。』(2サムエル記14:25-27)
アブシャロムは、類を見ない魅力的な人物だった。
「足の裏から頭の頂まで」非の打ちどころが無く、また髪も豊富で、美しい娘も生まれている。

彼は外見が魅力的だけではなく、非常に有能な人物で、人の心を掴む事に長けており、正しい事を断行する勇気も、決断力も、それを実現させるための知恵も、忍耐力も、全て兼ね備えている。
そのような面を見るなら、彼は、次に王となるに申し分無い器として、人々の目に映っていたかもしれない。
ただ一点、ダビデの長男を謀殺した、という点を除くなら。

『こうしてアブサロムは満二年の間エルサレムに住んだが、王の顔を見なかった。』(2サムエル記14:28)
アブシャロムは父の近くに呼び寄せられたものの、さらに2年、放置されてしまった形になる。
ダビデがどのような心境で、どのように判断して、そのようにしたのかは記されていないため、聖書学者の間でも色々な憶測が為されているが、父親が息子を敢えて放置するなら、息子がどのように出るのか、それは容易に想像できる。

『そこでアブサロムはヨアブを王のもとにつかわそうとして、ヨアブの所に人をつかわしたが、ヨアブは彼の所にこようとはしなかった。彼は再び人をつかわしたがヨアブはこようとはしなかった。そこでアブサロムはその家来に言った、「ヨアブの畑はわたしの畑の隣にあって、そこに大麦がある。行ってそれに火を放ちなさい」。アブサロムの家来たちはその畑に火を放った。ヨアブは立ってアブサロムの家にきて彼に言った、「どうしてあなたの家来たちはわたしの畑に火を放ったのですか」。』(2サムエル記14:29-31)
ヨアブは、アブシャロムをエルサレムに引き寄せるよう取り計らった張本人であるが、どういう訳か、彼までも、アブシャロムの2度の呼びかけを放置し、彼がかつてした事とは裏腹の行動を取っている。

アブシャロムに対しては、ダビデも、ヨアブも、なぜか裏腹の行動を取る。
一体何が問題で、アブシャロムはこのようにされてしまうのか。
彼はあまりに有能過ぎる故、危険と判断されたのか、あるいは単に、父ダビデの弱さ故なのか、あるいはもっと他に理由があるのか、それらは分からない。
一つ確かな事は、親はあまりにも子を放置するなら、子から何かの形で火をつけられてしまう、という事だ。

『アブサロムはヨアブに言った、「わたしはあなたに人をつかわして、ここへ来るようにと言ったのです。あなたを王のもとにつかわし、『なんのためにわたしはゲシュルからきたのですか。なおあそこにいたならば良かったでしょうに』と言わせようとしたのです。それゆえ今わたしに王の顔を見させてください。もしわたしに罪があるなら王にわたしを殺させてください」。』(2サムエル記14:32)
ここに、アブシャロムの心の叫びが垣間見える。
アブシャロムは、ずっと父ダビデに会うことも赦されず、何のコミュニケーションも許されず、かといって何の処断も下されず、右に行っていいのか左に行っていいのか分からない状態のまま、ずっと放置されていた。
もし処罰されるべきなら、はっきり処罰してほしい、それがたとえ死刑でもかわない、とにかく、うやむやなまま放置される事だけは、我慢ならない。
それが、子供の本心である。

『むちと戒めとは知恵を与える、「わがまま(シャラーハ:追い遣る、放任する)」にさせた子はその母に恥をもたらす。』(箴言29:15)
子供と正面から向き合わず、子供が望ましくない事をしても、それに対して何も処断を下さず、ただ放置しておくとするなら、子はやがて、親に火をつけるようになってしまうのだ。

『そこでヨアブは王のもとへ行って告げたので、王はアブサロムを召しよせた。彼は王のもとにきて、王の前に地にひれ伏して拝した。王はアブサロムに口づけした。』(2サムエル記14:33)
こうして、父と子の何年ぶりかの再会が実現したというに、ただ儀礼的な挨拶をした以外は、特に記されていない。
アブシャロムが切望して来た、何年ぶりかの父との再会。
それなのにアブシャロムは、「子」として「父」とコミュニケーションが出来なかった。
妹が陵辱されて以来、感じてきた悔しさ、忍耐して来た辛さ、やってしまった事のうしろめたさ、一人放置されていた事の寂しさ、人々に理解されない事の苦しさ、そうした事を打ち明ける事が出来なかった。
あまりにも親子関係の「親しさ」が無い、ただ上下関係だけが強調された、儀礼的な挨拶だけの再会に、アブシャロムはどんなに失望しただろう。

アブシャロムはこの再会の後、父ダビデ王になんとか会って話しあおうとして来た努力の方向性を反転させ、父・ダビデに反逆し、クーデターを起こす準備をするようになってしまう。

この第二サムエル記14章は、ダビデも、ヨアブも、アブシャロムに対して、裏腹な行動ばかりを取ってきた。
人の心も営みも、移ろいゆくものであり、時に裏腹の行動を取り、時に反転するものである。

第二サムエル記13章と14章で、主は全く沈黙しており、主が何かを語られたとか、何かされたといった記事は、一切無い。
ただ人の思い図りと、裏腹さだけが記されている。それらはなんの益ももたらさず、ただ崩壊へと向かうのみである。
『人はみな草のごとく、/その栄華はみな草の花に似ている。草は枯れ、/花は散る。しかし、主の言葉は、とこしえに残る」。これが、あなたがたに宣べ伝えられた御言葉である。』(1ペテロ1:24-25)

早天祈祷会

旅はまだ遠いのだから(1列王記19:1-8)
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マタイによる福音書講解説教メッセージ

主人の時、主人の心に合わせた賢い花嫁(マタイ25:1-13)
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イザヤ書講解説教メッセージ

クシュに対する宣告 - 神に伺い出る異邦人への憐れみ(イザヤ18章)
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【概要】

本日の説教は、イザヤ書18章の預言を中心に、異邦の国々に対する神の愛と裁き、そして混沌の時代にあっても主に信頼し歩む大切さを示しています。神はどんな状況下にあっても、心から祈る者に変わらぬ恵みと救いを与えてくださいます。

【聖書箇所】

・イザヤ18:2-7

・(また、九州やエチオピアへの預言の背景を示す文脈として)イザヤ20章の預言の一部も参照

【慰めの言葉】

主は、灼熱の太陽の下に現れる濃い雲のように、激しい日々の中でも心に涼やかな慰めと安心を与えてくださいます。

【励ましの言葉】

どれほど混乱した世の中であっても、神は常に私たちの傍におられ、信仰を持って祈り続けるならば、その恵みと導きが必ず実を結ぶと励まされています。

【戒めの言葉】

世俗の喧騒や祭りの騒ぎに流されることなく、常に神の声に耳を傾け、自らの心を清めることが求められています。もし神から離れてしまえば、かつてイスラエルや周囲の国々に見られたように、厳しい懲罰が訪れる恐れがあります。

【勧めの言葉】

家庭や教会での礼拝、祈り、賛美を通して、常に神の御顔に触れ、その恵みを受け入れる生活を大切にし、互いに助け合うことが強く勧められています。

【悔い改めの促しの言葉】

もし私たちの心が誤った道に迷い、神から疎遠になっていると感じるならば、深く悔い改め、真摯な心で主の元へ立ち返るよう促されています。

【***詳細***】

本日の御言葉は、まずイザヤ書18章2節から7節の預言の朗読から始まりました。この箇所では、遠い異邦の国―その国は古代において大国として恐れられ、背が高く肌の滑らかな民が住む国―に対して、迅速な使者がパピルスの船に乗り、神の命令を伝える様子が描かれています。ここでの言葉は、ただ単に遠い昔の歴史的事象を記述するのではなく、現代における私たちへの重要な示唆として伝えられているのです。

この異邦の国、後にエチオピアとして呼ばれる国は、その国力の強さと多くの川が流れる肥沃な土地として知られていました。しかしその一方で、周囲を取り巻く強大な国々、特にアッシリアの脅威に晒される中で、神は自らの御計画に従って、この国に特別な役割と祝福を備えられたと預言されています。預言者は、この国の民へ、迅速な使者を送り、神のお告げと共に、彼らが悔い改めと内省、そして徹底した信仰の歩みを進めるよう促しています。

また、預言の中には、激しい太陽が照りつける中で突然現れる濃い雲の比喩が登場します。この比喩は、暑い日に現れる日陰と梅雨のような恵みの雨を想起させ、極めて過酷な環境下でも神がその民に慰めと潤いを与えてくださるという希望を示しています。つまり、どんなに不安定な時代や環境であっても、主は私たちの上に常に御顔を輝かせ、必要とされる恵みを注いで下さるという確固たる保証なのです。

さらに、聖書の中では、エチオピアとユダヤ人以外の民との交わりが強調されています。新約聖書においては、エチオピアの宦官がイエス・キリストの御名に預かり、洗礼を受けた出来事が記されており、これは異邦人に対しても神の御恵みが満ち溢れていることの表れです。エチオピアという遠い国が、古代より神の御心に従い、その歴史の中で祝福を受けたことは、私たちにとっても大きな励ましです。国境や人種、文化の違いを超えて、神の愛と救いは普遍的に与えられているという真理がここにあります。

一方で、預言は厳しい戒めも伴っています。たとえば、かつてイスラエルやその周辺の国々が、神への不従順と誇りによって災いを招いた歴史を思い起こさせます。もし私たちが、家庭や教会での祈りを疎かにし、世俗の誘惑に流されるならば、神の厳しい裁きや懲罰が下される可能性があるのです。これは決して罰としてではなく、真に神との正しい関係を保つための必要な戒めとして示されています。私たちは、日常のあらゆる瞬間において、神の御言葉を心に刻み、互いに励まし合いながら歩むことが求められているのです。

現代においても、世界は依然として戦争や政治的不安、異常気象など多くの試練にさらされています。こうした混乱の中で、私たちは一層、主に信頼し、その御顔を仰ぎ見る必要があります。たとえ外の世界が騒然としていても、家庭や教会という聖なる共同体の中では、神の御恵みと平安が豊かに流れ出しています。私たちが真摯な祈りと賛美に励むならば、どんな苦難も乗り越えることができると、聖書は私たちに教えてくれています。

また、エチオピアやセバの女王が遠い南から知恵を求め、またエチオピアの宦官が信仰によって新たな命を得た出来事は、神が歴史の中でいかに広く恵みを注いできたかを示す象徴です。これにより、私たちも自分自身の立場や背景に関係なく、主の計画に従って歩むことができるという希望を抱かされます。神は常に「悔い改めに立ち返る者」に対して、恵みと祝福を惜しみなく与えてくださるお方であり、それは今を生きる私たちにとっても変わることのない真理です。

そして、説教の終盤に差し掛かるにつれ、私たちは主の祈り―「天にまします我らの父よ…」―の深遠な意味に思いをはせるように促されます。この祈りは、単なる形式的な言葉ではなく、私たち一人ひとりが神との親密な交わりを実感し、絶えず心を新たにするための道しるべとなるものです。祈りを通して、日々の生活の中に神の御顔の光を迎え入れるとき、私たちは確固たる信仰によってその混乱や恐れを打ち破る力を得るのです。

また、教会における礼拝や家庭での小さな祈りの時間が、私たちの心だけでなく、共同体全体に神の恩寵を呼び起こすことを強調されています。互いに励まし合い、助け合うことの大切さは、単に個々の信仰の力を高めるだけでなく、全体としての霊的な強さへと結びついていきます。神が常に私たちに向けられるその慈愛の光を絶やさずに、困難や試練の中でも前向きに歩むことこそ、真に祝福された生き方であると説かれているのです。

最後に、私たちはこの説教から、混沌とする現代の中でも神の御言葉に従い、悔い改めと祈りを通して心を清め、主の御顔に近づくことの重要性を再認識することが求められていると理解します。たとえ外の世界がいかに荒れ狂っていても、神は眠ることなく、常に私たち一人ひとりの上に御顔を照らし、その愛と恵みを注いでくださいます。私たちが真摯な態度で主に仕え、互いに励ましながら日々を送るならば、その祝福は決して尽きることはありません。どうか、私たちがこの御言葉に導かれ、確かな信仰を持って歩む日々を重ねることができますように。

【結論】

結局のところ、私たちは混乱と不安に満ちた時代の中でも、神の御言葉に従い、心から悔い改め、祈りと信頼をもって主の恵みを受けることが最も大切です。エチオピアへの預言とその歴史的証しは、国境や時代を超えて神の愛が広がっていることを示しています。常に主の御顔に近づき、その恵みの中で歩む決意を新たにし、平和と希望を抱いて生きていきましょう。

なすべき正しい事を知っているなら(2サムエル記14:1-17)
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ダビデは、彼の長男アムノンが妹のタマルを犯した事について、特に何もせず2年放置したため、タマルの兄アブシャロムがアムノンを復讐で殺してしまう事件となってしまった。
それから3年が経ち、ダビデはアブシャロムの事を「気にかけて」はいたものの、実質的には、放置状態であった。
将軍ヨアブは、この状態は良くないと、一計を案じ、テコア出身のある賢い女を喪に服しているかのように装わせ、王の元に行って「これこれの事を語りなさい」と言付けさせた。

『テコアの女は王のもとに行き、地に伏して拝し、「王よ、お助けください」と言った。王は女に言った、「どうしたのか」。女は言った、「まことにわたしは寡婦でありまして、夫は死にました。つかえめにはふたりの子どもがあり、ふたりは野で争いましたが、だれも彼らを引き分ける者がなかったので、ひとりはついに他の者を撃って殺しました。
すると全家族がつかえめに逆らい立って、『兄弟を撃ち殺した者を引き渡すがよい。われわれは彼が殺したその兄弟の命のために彼を殺そう』と言い、彼らは世継をも殺そうとしました。こうして彼らは残っているわたしの炭火を消して、わたしの夫の名をも、跡継をも、地のおもてにとどめないようにしようとしています」。』(2サムエル記14:4-7)

彼女が訴えた状況は、ダビデがその時陥っている状況にとても似ている。
ダビデの子も、一方が一方を殺し、生き残っている方が、ないがしろにされている状態だ。
元々、アブシャロムに殺されたアムノンは、律法では絶たれるべき罪を犯したのに、一切咎めなく2年も放置されたままだった。そこをアブシャロムが復讐したのだが、彼は事実上、逃亡先に追放されたままの状態だ。
ダビデはそんなアブシャロムに、何の処断も下さないまま、今度は三年も放置したままの状態である。

『王は女に言った、「家に帰りなさい。わたしはあなたのことについて命令を下します」。テコアの女は王に言った、「わが主、王よ、わたしとわたしの父の家にその罪を帰してください。どうぞ王と王の位には罪がありませんように」。』(2サムエル記14:8-9)
ダビデ王は、彼女が「こうして下さい」と具体的な訴えを言う前から、その訴え内容を察知し、家に帰りなさいと言った。
彼自身に身に覚えがあるから、彼女が訴えたい内容は分かっていたのだろう。

『王は言った、「もしあなたに何か言う者があれば、わたしの所に連れてきなさい。そうすれば、その人は重ねてあなたに触れることはないでしょう」。女は言った、「どうぞ王が、あなたの神、主をおぼえて、血の報復をする者に重ねて滅ぼすことをさせず、わたしの子の殺されることのないようにしてください」。王は言った、「主は生きておられる。あなたの子の髪の毛一筋も地に落ちることはないでしょう」。』(2サムエル記14:10-11)
ダビデ王は、兄弟を殺した彼女の息子は保護され、死ぬことはない、と約束した。
ダビデがその処断を下した時、彼女は唐突に言う。

『女は言った、「どうぞ、つかえめにひと言、わが主、王に言わせてください」。ダビデは言った、「言いなさい」。女は言った、「あなたは、それならばどうして、神の民に向かってこのような事を図られたのですか。王は今この事を言われたことによって自分を罪ある者とされています。それは王が追放された者を帰らせられないからです。』(2サムエル記14:12-13)
彼女が「王は自分を罪あるものとしている」と言った道理は、すなわち、王は彼女に「兄弟を殺した息子は保護され死ぬ事はない」と処断したのに、王自身、それを守っておらず、「王が追放された者を帰らせられない」事だ。
すなわち王は、兄弟を殺した息子アブシャロムを放置したままにしているのに、他人にそのような処断を下すのは、矛盾している、と。

『人が、なすべき善を知りながら行わなければ、それは彼にとって罪である。』(ヤコブ4:17)
もしも、なすべき正しい事を放置したままにするなら、する程、よけいに物事を混乱させてしまう。
放置された側には、どんどん良くない感情が蓄積されて行き、さらには別の大きな罪を犯させてしまうきっかけを作ってしまう事にもなりかねない。

『わたしがこの事を王、わが主に言おうとして来たのは、わたしが民を恐れたからです。つかえめは、こう思ったのです、『王に申し上げよう。王は、はしための願いのようにしてくださるかもしれない。王は聞いてくださる。わたしとわたしの子を共に滅ぼして神の嗣業から離れさせようとする人の手から、はしためを救い出してくださるのだから』。
つかえめはまた、こう思ったのです、『王、わが主の言葉はわたしを安心させるであろう』と。それは王、わが主は神の使のように善と悪を聞きわけられるからです。どうぞあなたの神、主があなたと共におられますように」。』(2サムエル記14:15-17)

彼女はやはり知恵深い。
王よ、あなたはこれこれの悪いことを行っています、という裁く言葉で終わるのではなく、王は聞いて下さる方、王は滅んでいこうとする人を救って下さる方、王は民草を安心させて下さる方、王は神の使いのように善と悪を聞き分けられる方だから、自分は進み出て言う決心がついた、と、ダビデ王がどういう人格の持ち主であるかを突いて来て、そして最後を祝福の言葉で終えている。
私達も、目上の人に提言をする時は、このように相手がどういう良き性質を持っているかを突いて、祝福の言葉で終える知恵を身に着けたい。
そして私達が主に申し上げる時も、主がどのようなお方であるかを突く時、主はその祈りを聞いて下さる事が多い。(創世記18:25、32:9、2歴代誌20:6-9)

今回、ヨアブはこの知恵深い女を通して、ダビデが放置したままにしている事を先に進ませるよう促した。
『あなたの手に善をなす力があるならば、これをなすべき人になすことを/さし控えてはならない。あなたが物を持っている時、その隣り人に向かい、「去って、また来なさい。あす、それをあげよう」と言ってはならない。』(箴言3:27-28)
私達も、もし、為すべき正しい事を知りながら、また、その力が与えられておりながら、それを未だにしていないとするなら、今すぐ実行すべきである。

火曜早天祈祷会

荒野への誘い (ホセア書2:14-15)
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放置という対処 - いつ爆発するか分からない時限爆弾(2サムエル記13:28-39)
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ダビデ王子の兄妹間で起きてしまった姦淫事件について、親であるダビデも、加害者のアムノンも、果たされるべき責任は果たされず、指導や懲らしめも無いまま、また、被害者のタマルに対する正当な補償も手付かずのまま、二年の歳月が経った。
ダビデもアムノンも、特に何もしないままに時が過ぎ、事件の重大さは月日を追うごとに段々薄れて行ったようであるが、タマルの兄アブシャロムは、その間、沈黙を守りつつも、復讐心を心に育んでいた。
そして時が熟したと見られる時、彼は遂に行動を起こす。

『そこでアブサロムは若者たちに命じて言った、「アムノンが酒を飲んで、心楽しくなった時を見すまし、わたしがあなたがたに、『アムノンを撃て』と言う時、彼を殺しなさい。恐れることはない。わたしが命じるのではないか。雄々しくしなさい。勇ましくしなさい」。アブサロムの若者たちはアブサロムの命じたようにアムノンにおこなったので、王の子たちは皆立って、おのおのその騾馬に乗って逃げた。』(2サムエル記13:28-29)
アムノンは、自分が強姦した相手の兄・アブシャロムが主催する宴席で、酔って、上機嫌になった。
自分が陵辱した相手の兄の前で、酔って上機嫌になれるようなアムノンの神経を見ると、やはり彼は、「自分がした事」への後ろめたさは、持ちあわせていなかったのだろう。
そこを彼は刺され、殺された。
こうして、預言者ナタンを通して主が警告した通り、ダビデの家に、剣の災いと、姦淫の恥がつきまとうようになってしまった。
それは、ダビデ自身が犯した姦淫と血の罪の結果である。

『しかしダビデの兄弟シメアの子ヨナダブは言った、「わが主よ、王の子たちである若者たちがみな殺されたと、お考えになってはなりません。アムノンだけが死んだのです。これは彼がアブサロムの妹タマルをはずかしめた日から、アブサロムの命によって定められていたことなのです。それゆえ、わが主、王よ、王の子たちが皆死んだと思って、この事を心にとめられてはなりません。アムノンだけが死んだのです」。』(2サムエル記13:32-33)
このヨナタブは、アムノンに、タマルと二人きりになれる方法を入れ知恵をした、あのずる賢い男である。
つまり、彼がこれら一連の事を起こした張本人とも言える。
彼は「アムノンの友人」であると言いつつも、そのアムノンが殺されてしまった事について、動揺なく報告できる神経の持ち主であり、また、彼自身の言葉からは、自分もこの事を引き起こした事の一端を担っているというような悔悟の念が、微塵も感じられない。
『鉄は鉄をもって研磨する。人はその友によって研磨される。』(箴言27:17)
アムノンは実に、自分の身を滅ぼす「悪い友」を持ってしまったようである。

『彼が語ることを終った時、王の子たちはきて声をあげて泣いた。王もその家来たちも皆、非常にはげしく泣いた。』(2サムエル記13:36)
ダビデ王も、王子たちも、家来たちも、心から悲しんだ事だろう。こんな罪の応酬が、王家の中で起きてしまったのだ。
第三者から見れば、アムノンのような、妹を力づくで犯すような者は、死んで然るべしと思えるかもしれないが、しかしダビデは、彼ら全員の父である。どれ程、心刺されただろう。
また、私達の父なる神様は、私達・主にある兄弟姉妹同士でいがみあい、殺し合い、はずかしめ合うとするなら、どれ程心痛められるだろう。

『しかしアブサロムはのがれて、ゲシュルの王アミホデの子タルマイのもとに行った。ダビデは日々その子のために悲しんだ。アブサロムはのがれてゲシュルに行き、三年の間そこにいた。王は心に、アブサロムに会うことを、せつに望んだ。アムノンは死んでしまい、ダビデが彼のことはあきらめていたからである。』(2サムエル記13:37-38)
アブシャロムは長男を殺した後、母の故郷ゲシュルに逃れた。ゲシュルの王タルマイはアブシャロムにとって祖父である。
ダビデはアブシャロムを心にかけており、あれから3年も過ぎた後、ダビデはアムノンの事についても慰めを得たため、彼はアブシャロムに会う事を、切に望んでいた。

アブシャロムは、ダビデにとって、大事な長男アムノンを殺した、張本人である。
しかし、アムノンはアブシャロムに殺されても仕方ない事をしたのであるし、アブシャロムの殺意を汲み取りもせず放置し放ったらかしのままにしたのは、親であるダビデである。
だから、お互い会いたいとしても、いざ会った時、自分をどういう立ち位置に置いて接して良いのか、どう話を切り出せば良いのか、互いに分からなかったのではなかろうか。
それで3年という期間、互いに何も切り出せないままの「放置の状態」だったのではないだろうか。

もしダビデがアブシャロムを呼び寄せて、長男を殺した事について懲らすとするなら、それなら、なぜアムノンは懲らさずにいて、今更アブシャロムだけ懲らすのか、と言われると、何も言えないだろう。
ダビデは、「懲らすべき事を何もせず放置したまま」という、非常にまずい対応をした故に、それによって首根っこ掴まれ、子たちにもはや何も出来ず、そのダビデの「何も出来なさ」が、今度はアブシャロムをも滅びへと導いてしまう。

面倒くさい事をすぐに対処せず、「放置」したままにする。それは楽かもしれない。
しかし放置されればされる程、その期間に沸々と育ってしまう良からぬものがあり、やがてそれが爆発するなら、取り返しの付かない悲惨な事になってしまう事が多々あるという事も、忘れてはならない。

私達も、このダビデ王家のいびつな親子関係から、学ぶべきである。
親子同士、あるいは家族同士、普段からしっかり心を通じ合わしておくべきであり、もし何かを犯したなら、すぐに懲らすべきは懲らし、責任を取らせるべきはしっかり取らせるのだ。
そうでないと、状況はどんどんいびつに、不健全になって行ってしまい、ついには取り返しの付かない事になってしまうから。

人の心は、愚かさに繋がれている。
御言葉という杖によって、それが断ち切られる。
私達は普段から御言葉によって養われ、互いに教え戒めあいつつ、愚かさを除き去り、そうして信仰の継承をしっかりして行く者でありたい。

奴隷の地と祝福の地との中間地帯・荒野(出エジプト記16:1-5)
第一礼拝: Youtube動画 / 音声
賛美集会音声
第二礼拝: Youtube動画 / 音声
週報/メッセージ(説教)概要

神の民イスラエルが、長い間、奴隷生活をしていたエジプトから出て1ヶ月ほど過ぎた時、彼らの口からつぶやきが出始めた。彼らは過去一年ほど、主のすばらしい御業と奇跡を、そしてエジプトに対して降された恐ろしいさばきを、幾つも見てきたはずなのに。ダイナミックな奇跡の日々とは打って変わり、水も食料も自分で調達できない荒野を毎日歩くという、心もとない、地味な日々がしばし続くと、つぶやいてしまう。
この事は、世から贖い出され、罪とサタンの奴隷状態から救われた私達キリスト者も、経験する所である。
救われた当初、世に属する罪深い生活から離れ、体験した事の無かった神様の素晴らしい恵みと奇跡にを経験し、救われた喜びに浸っていたのに、変哲も無い日々が続くと、すぐにつぶやきが出てしまう。

彼らのつぶやきの内容は、『われわれはエジプトの地で、肉のなべのかたわらに座し、飽きるほどパンを食べていた時に、主の手にかかって死んでいたら良かった。』(3節) だったが、果たして彼らはエジプトにいた時、肉鍋を囲んでパンに飽きたりていたのだろうか? 確かに多少なりとも食べていたかもしれない。
しかしその代わり、彼らは奴隷として束縛され、働いて得たものはすべて搾取され、虐げられ、しまいには、男子が生まれたらナイルに捨てなければならなかった程、希望も自由も無かった。この、エジプトにいた時の、唯一の生きがいと言えば、過酷な奴隷生活の合間に食べる「肉」だったのだろう。
現代風に言い換えれば、過酷な世を生き残って行くための奴隷的な日々の合間、わずかに与えられた休息の時に飲む酒やたばこ、放埒な遊びなどを、懐かしむようなものか。
しかし主は、イスラエルを、以前の奴隷状態から解放して自由にし、乳と蜜が流れる素晴らしい地で、主の基準の歩みをし、全世界を救いへと導くために、エジプトから脱出させたのだ。荒野は、その過渡期である。
この、「荒野での過渡期」こそ、生来染み付いてしまった滅びの性質である「罪の奴隷根性」を抜き去り、神の基準で歩むべき生活スタイルを身につける期間なのだ。どのようにしてそれらを抜き去って行くのか。

「見よ、わたしはあなたがたのために、天からパンを降らせよう。民は出て日々の分を日ごとに集めなければならない。こうして彼らがわたしの律法に従うかどうかを試みよう。六日目には、彼らが取り入れたものを調理すると、それは日ごとに集めるものの二倍あるであろう。」(出エジプト記16:4-5)
この「マナ」は、現代の私達にとっては「御言葉」であり、「イエス・キリスト」である。(ヨハネ6:48-51)
主は、今まで神無しで生きる内に染み付いてしまった私達の古い体質や、罪とサタンに対する奴隷根性を抜き去るために、ただ御言葉のみ、イエス・キリストのみにしかすがれないような「荒野」の生活へと導く。
荒野での過程は、自分の時間・自分の好む方法を捨て去り、神の定めた時、神の方法に当てはめて、それを習慣とし、生活として身に付ける事である。

人は思う。荒野など最短距離で踏破させて、そのまますぐに約束の地に入れてくれれば良いのに、と。
しかし主は、分相応でない大きな事を、訓練も無しにいきなり預けるような事は、なさらない。
車の教習では、ハンドルを握ったことのない初心者に、いきなり公道を走らせるような事はしない。
同じように、主も私達に一つ一つの教習を与え、祝福の地を受け継いで、世界を救いへと導くという「大きな運転」ができるようになるまで、荒野という教習所で、訓練を与えておられるのだ。
パンが降るのは、安息日を除けば、日毎である。主は信仰の初心者に、何年分もの必要を一気に与える事はほぼしない。先ずは日毎、御言葉に従順し、日毎主からの恵みを拾う事を、地道にじっくり体験させる。
人は思う。もしパンが一週間降らなかったらどうしよう、餓死してしまったらどうしよう、と。しかし御言葉は言う。パンは毎日与えられる、だから、それを集めよ、と。そうして日ごと、主の御言葉は必ず成って行く様を人が見、御言葉は確かで真実だと経験を積み重ねて行く。そのために荒野の期間が設けられているのだ。
そのような地道な日々は、欲しい者がインスタントにポンと与えられる事を願う人には、耐え難いかもしれないが、主はそのような人の疼く願望を萎えさせ剥ぎ取るために「日毎のパンを拾わせる」事から始められる。
中には、疼く願望を何十年も手放さず、いつまでも荒野の過程を卒業できないままの人もいる。
荒野の過程は、入った当初はつらい日々かもしれないが、日々、主の御言葉に自分自身を適合させて行くなら、これほど楽で素晴らしい生き方は無い事に気づいて行く。荒野の道のりは距離にすれば2週間で踏破できる距離である。御言葉に従順し、すぐに荒野を卒業できる皆さんでありますように!

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荒野という訓練過程(出エジプト記16章)
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