メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ
イザヤ書講解説教メッセージ
助言と憐れみを退け滅んでしまうモアブ(イザヤ書16:1-14)
Youtube動画
メッセージ音声
【概要】
この説教は、イザヤ書16章を通して、かつて高慢と反逆によって滅びたモアブの歴史と、今日の私たちへの悔い改めの警告・励ましを描いています。神の御言葉に素直に耳を傾け、誇り高ぶる心を捨てることの大切さを伝えています。
【聖書箇所】
・イザヤ16:1-14
【励ましの言葉】
神は悔い改める者を慈しみ、正しい道へと導いてくださいます。私たちや大切な人々が、神の恵みにすがり、取りなしの祈りの中で癒しと救いを受けるよう励まされます。
【戒めの言葉】
高慢や自己満足、古い悪しき慣習に固執することは、滅びの道です。かつてモアブが、その血筋ゆえに特別な憐れみを注がれながらも、反逆と不義を続けた結果、神の裁きを免れなかったことを忘れてはなりません。
【悔い改めの促しの言葉】
自分の罪と向き合い、誇り高ぶる態度や不当な行いを捨て、真摯に悔い改めることが救いへの道です。古い悪習慣から心を解放し、主に立ち返る決意を新たにしましょう。
【***詳細***】
本日の御言葉として、イザヤ書16章が私たちの前にあります。冒頭で読み上げられた一節と二節には、「子羊をこの国の支配者に送れ。セラから荒野を経て、シオンの娘の山に、モアブの娘たちはアルノンの渡し場で逃げ惑う。取り投げ出された巣のようになる、アメン」という御言葉が記されており、これにより、神がこの地に対してどのような計画を持たれているかが示されます。説教者はまず、愛する主に対し、今日も必要な御言葉と、その命の源となる御言葉に従う心を与えてくださるよう、深い祈りを捧げました。心の重さや、信徒それぞれの至らなさを認め、神の清めの働きを求める姿勢が強調されます。
次に、前回のイザヤ書15章からこの16章への展開として、モアブに対する神の宣告と助言の意味が語られます。モアブは歴史的には、アブラハムの甥ロトの子孫ということで、近縁者でありながらも、神から与えられた憐れみを受ける存在であったはずです。しかし、モアブの民は、次第に高慢になり、自らの栄光や力を誇示するようになりました。説教者は、かつてのモアブの様子や、かの地で守られたはずの恵みが、自己満足的な自慢話や誇りによって台無しになっていった実例を語り、その結果としてモアブが滅び、歴史の中から姿を消した事実に警告を投げかけています。
具体的には、イザヤ書16章の中で、まず「子羊をこの国の支配者に送れ」という命令が改めて示され、シオンの娘の山に神殿が建てられ、その上で正しい礼拝や献げ物が行われることこそが、神の救いの道であると説かれています。しかし、モアブはその道を拒み、反逆の道を選んだのです。さらに、説教の中盤では、モアブがかつてイスラエルに対して、羊や羊毛を貢ぎ物として納めるという義務を果たしていたにもかかわらず、アハブ王の死後、貢納をやめ、己の力に頼ろうとした結果、神の怒りを買い、厳しい裁きが下されたという歴史的背景が述べられます。この歴史的事例から、どんなに恵みを受ける立場にあっても、心が高ぶり、神の導きから離れるならば、たちまちその恩恵は失われ、滅びに至るという厳しい現実が示されます。
また、説教者は続く三節から五節にかけて、ユダに対しても同様の助言を与えていると解釈し、「昼の坂にもあなたの影を寄せ、散らされたものをかくまい、逃れてくる者の隠れ家となるように」という言葉を通じ、集団としての支え合いと正義の追求が求められていると説いています。これは、単にモアブだけでなく、現在の信者一人ひとりにも当てはまる教訓であり、誇りや自らの栄光に溺れることなく、互いに助け合い、神の正義を実現することの大切さを教えてくれます。
説教の後半部では、モアブの民が高慢ゆえに真実を見失い、悪しき慣行―特に子供を生け贄として捧げるといった、神に背く行為―に固執した結果、絶望的な結末を迎えたことが強く語られます。ここで、説教者は子供という弱い存在を侮ってはならないという戒めと、信仰における正しい行いの模範を示すべきであるとの呼びかけを行います。つまり、かつてモアブが誇り高ぶっていた時には、その誇りが神の警告と苦しみとして現れたのです。もし私たちが、現代においても同様に高慢になり、自己の欲望や古い習慣に固執するならば、やがてその結果は厳しい裁きとして返ってくるであろうと説かれています。
また、説教者は自らの経験や歴史的背景を交えながら、取りなしの祈りの力についても深く言及します。アブラハムが、モアブのために取りなしの祈りを捧げたように、現代の私たちも日々の中で自分や周囲の人々のために祈り続けるべきだと強調します。神は、取りなしの祈りを受け入れ、心から悔い改める者に対しては、必ずその恵みを注いでくださると信じるからです。決して自己中心的な誇り高ぶりに走らず、神への謙虚な信頼を新たにすることこそが、救いと栄光への道であると説かれています。
このように、イザヤ書16章は、古代モアブの歴史を背景にして、今日の私たち一人ひとりに「高慢は滅びの先導である」という厳しい現実と向き合わせる御言葉となっています。説教者は、これを聞く信徒たちに対して、自らの内面を省み、過去の悪しき慣習や誇りに満ちた行いから脱却するよう、熱心に呼びかけます。そして、自分自身が悔い改め、謙虚に主の導きを仰ぐことが、家族や友人、そして教会全体の祝福につながると強く説いています。
さらに説教は、主の祈りを捧げる場面で締めくくられ、イエス・キリストの御名によって、信徒一人ひとりが内面の高慢を捨て、真摯な悔い改めと信仰に基づく神との交わりを実現するように祈られます。熱心な祈りと言葉の連続は、聞く者に深い感動と共に、その心に重くのしかかる神の真実を感じさせるものとなっています。ここで示されるのは、ただ単に旧い慣習や誇りを否定するだけでなく、逆に神の慈悲と恵みの中に生きるためのあるべき姿勢―謙虚さ、誠実さ、そして互いに助け合う心―であることです。
説教者は、当初の御言葉の引用から始まり、モアブの歴史、そしてユダに対する助言、さらには子供を捧げるといった悲しい事例を並べることで、双方の教訓を浮かび上がらせます。全体を通して伝えられるメッセージは、神が私たちに対して常に救いの道を用意されているものの、そこに至るためには自らの高慢や悪しき習慣を断ち切り、心からの悔い改めを行わねばならないという、厳かでありながらも温もりのある呼びかけであります。
また、説教中で語られる歴史的背景や、神がモアブに与えた取りなしの祈りへの応答などのエピソードは、現代の信徒にとっても、自分たち自身の生活や人間関係を省みる大切な機会となります。どんなに小さな誇りや自己正当化の積み重ねであっても、それがやがて大きな誤りや滅びの原因となることを、歴史ははっきりと物語っています。だからこそ、今日ここで、皆さん自身が心の内をさらけ出し、神の御前にへりくだって悔い改めることこそが、未来への希望であり、神の恵みを享受するための唯一の道なのです。
説教の終盤において、説教者は「イエスを助けてください」と何度も口にし、皆で主の祈りを捧げるように促します。そこで強調されるのは、自己中心的な高慢や、自己満足に浸る生活から抜け出し、神の愛と導きを求める真摯な態度です。信徒各々がその悔い改めの祈りに心を開き、神と共に歩む決意を新たにするならば、かつて生け贄にあげられた子供たちの悲劇や、モアブの過ちを繰り返すことは決してない、という確信が語られます。
この御言葉は、単に古代の歴史を伝えるためだけでなく、現代に生きる私たちへの戒めであり、力強いメッセージです。私たちは、日々の生活の中で、ふとした瞬間に自己の中に高慢の芽が育っていないかを問い直す必要があります。そして、互いに支え合い、正しい道を歩むために、悔い改めと謙虚な心を持ち続けるよう、神の言葉に従い続ける決意を固めなければなりません。かつてモアブが高慢ゆえに失われたように、私たちもまた、己の誇りに溺れるならば、いつかその報いを受けるかもしれません。しかし、真摯な悔い改めと神への従順があれば、神の慈しみは必ず私たちに注がれるのです。
最終的に、説教者は、皆がこの御言葉を胸に刻み、自己の罪深さを認め、悔い改めに向かうことで、神の護りと恵みの中に生きることができると力強く説きました。私たちがその声に耳を傾け、内面の高慢や自己満足を捨て、神の前にへりくだるならば、神は必ず待ってくださる。その御恵みによって、私たちは命を得、真実な喜びと平安の中で歩むことができるでしょう。
【結論】
高慢や古い悪習慣を捨て、真摯に悔い改めることで、神は私たち一人ひとりに恵みと導きを注いでくださいます。モアブの悲劇から学び、私たちは主に従い謙虚な心で生きる決意を新たにし、互いに力を合わせて神の正義と愛を実現する道を歩みましょう。
つくばエクレシア礼拝説教メッセージ
不信仰なわたしをお助けください(マルコ9:14-29)
メッセージ音声
罪のない人が死ぬ代わりに、罪人が生かされる(2サムエル記12:15-23)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 2サムエル記
- 執筆 :
- pastor 2015-8-28 23:40
罪のない人が死ぬ代わりに、罪人が生かされる(2サムエル記12:15-23)
Youtube動画
メッセージ音声
ダビデは自分の罪を主に認めたゆえ、主は彼の罪を見過ごしにして下さったため、彼は主に打たれて死ぬ事や聖霊が取り上げられたりする事からは免れたが、彼の犯した罪の報いは、彼自身が刈り取る事になる。
『さて主は、ウリヤの妻がダビデに産んだ子を撃たれたので、病気になった。ダビデはその子のために神に嘆願した。すなわちダビデは断食して、へやにはいり終夜地に伏した。ダビデの家の長老たちは、彼のかたわらに立って彼を地から起そうとしたが、彼は起きようとはせず、また彼らと一緒に食事をしなかった。』(2サムエル記12:15-17)
主がダビデに言われた通り、その子に、死の兆候が現れる。
生まれたばかりの自分の子が、死の苦しみに遭っている様を見るのはとても辛い事であるが、ダビデはそれ以上に辛い事情がある。
本来、死の苦しみを受けるべきは、罪を犯した「自分」のはずなのに、その自分はぴんぴんしていて、その代わりに何もしていない自分の子が死の苦しみを味わっているのだ。
ダビデの辛さは、どれ程だっただろう。
彼は、自分が犯した罪の大きさを思い知り、苦しんだだろう。
それで彼は、必死に主のあわれみにすがり求めたのだが、結局祈りは聞かれず、その子は七日後、死んでしまった。
『罪の支払う報酬は死である。』(ローマ6:23前半)
姦淫の罪の報いは死であり(申命記22:24)、また、目には目、歯には歯、という事は、ダビデが無実の人を剣で殺したからには、剣によって撃たれるのが正当だ。
主の敵・サタンが大いにあなどり、ダビデを訴えるとするなら、残念ながら、サタンの訴えは理にかなってしまっている。
かと言って、主がこのダビデの罪をそのまま過ごしにするなら、主の「義」が立たなくなってしまう。
一体どうして、ダビデは生かされるのだろうか。
それは、罪なき命の、身代わりの死によって、である。
私達もそうだ。
本来、私達が犯した罪の刑罰を受け、死ななくてはならない罪人のはずである。
しかし、その私達が罪赦され生かされるとするなら、それは、神の一方的な贈り物の故だ。
その「贈り物」とは、すなわち、罪なきお方・生ける神の御子イエス・キリストである。
彼の身代わりの死によって、私達は生かされた。
そういう訳で、以下のように書かれてある。
『罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。』(ローマ6:23)
『七日目にその子は死んだ。ダビデの家来たちはその子が死んだことをダビデに告げるのを恐れた。それは彼らが、「見よ、子のなお生きている間に、われわれが彼に語ったのに彼はその言葉を聞きいれなかった。どうして彼にその子の死んだことを告げることができようか。彼は自らを害するかも知れない」と思ったからである。しかしダビデは、家来たちが互にささやき合うのを見て、その子の死んだのを悟り、家来たちに言った、「子は死んだのか」。彼らは言った、「死なれました」。』(2サムエル記12:18-19)
家来たちは、思っただろう。
7日も断食して祈り続ける程、熱情的に懇願していたのに、それが叶わずに、子が死んでしまった。彼はその熱情を一体どこに持っていくだろう?
悲しみのあまり後を追っおうとするだろうか。それとも「神様ひどい」とばかりに自暴自棄になるだろうか。色々思い巡らしたかもしれない。
しかしダビデは、彼らの想像を超えた行動を取った。
『そこで、ダビデは地から起き上がり、身を洗い、油をぬり、その着物を替えて、主の家にはいって拝した。そののち自分の家に行き、求めて自分のために食物を備えさせて食べた。』(2サムエル記12:20)
彼は、それまでの熱情的な祈りと断食を一切止めた。
そして真っ先にした事は、身をきれいにし、主の家に入って、礼拝した事だった。
もし、子が死んだと悟ったとたん、何日ぶりかで身体を洗えるとか、何日ぶりかで食べられるといった事に、真っ先に飛びついたとしたら、彼は本当は冷酷で、子を愛していたのではなく、ただのパフォーマンスで断食や祈りをしていたに過ぎない。
また、もしダビデが「こんな事をした主はひどい」と言って主を恨んでいたなら、彼は身を清めて礼拝するなど、しなかっただろう。
しかしそうではない。
彼は真っ先に、主の前に出て、礼拝したのだ。
彼は、自分のした悪と、それに対して主がなさった事を100%受け入れ、同意したからこそ、主の御前に身を清め、礼拝を捧げ、もはや自分の願いや執着は捨て去ったのだ。
これこそ、神の民が取るべき主への従順である。
イエス様も、ゲツセマネの園で、「この杯(十字架)を過ぎ去らせて下さい」と血の汗を流す程、必死に祈った。
しかし、御父の御旨はイエス様が十字架に架かられる事だと示された時、イエス様はそれを100%受け入れ、堂々と十字架へと歩んで行った。
私達もダビデやイエス様にならい、主の御心が示されたなら、それがどんな道であれ、従順して歩むべきなのだ。
イエス様は私達の身代わりになって死んで下さった。そして、よみがえって下さった。
それ故、私達もダビデのように、主のなさる事に同意し、全て自分の願いや執着を主の前に捨て、身を清めて礼拝し、正しく食事をとり、イエス様に生かされた命を感謝しつつ、正当に生て行くべきなのだ。
犯してしまった罪の刈り取り(2サムエル記12:7-14)
Youtube動画
メッセージ音声
『ナタンはダビデに言った、「あなたがその人です。イスラエルの神、主はこう仰せられる、『わたしはあなたに油を注いでイスラエルの王とし、あなたをサウルの手から救いだし、』(2サムエル記12:7)
ダビデは、主に見放されたサウル王がどんな悲惨な軌跡を辿ったのかを見ていたので、預言者から「あなたがその人です」と言われた時、冷水を浴びせられたようにぞっとしただろう。
主がどのようなお方であるかを理解しているならしている程、主の怒りを買う事がいかに恐ろしいかを知っており、自分がそのような状態にある時、心落ち着かないものだ。
主に扱っていただくべき罪や弱さ、至らなさを、いつまでも放置して呻いたまま何ヶ月も何年も過ごすのは、不健康であり、速やかに御前に出て取り扱っていただくべきだ。
『どうしてあなたは主の言葉を軽んじ、その目の前に悪事をおこなったのですか。』(2サムエル記12:9)
もし御言葉に記されている事(例えば、姦淫をしてはならない、殺してはならないという記述)を知りながら、それでもそれを犯すとするなら、御言葉なる主を軽んじ、御言葉なる主の目の前で悪を行っているものである。
警察官を目の前にするなら、誰も万引きはしないであろうが、そのようなレベルの問題ではなく、主のことばによって造られたこの世界の中で、主のことばによって造られた私達は、決して、神の臨在から離れる事は出来ないのものであり、例えば、アダムとエバがいちじくの葉で腰を覆ったり木陰に隠れたりする事は、全く無意味な事なのだ。
『あなたはつるぎをもってヘテびとウリヤを殺し、その妻をとって自分の妻とした。すなわちアンモンの人々のつるぎをもって彼を殺した。あなたがわたしを軽んじてヘテびとウリヤの妻をとり、自分の妻としたので、つるぎはいつまでもあなたの家を離れないであろう』。』(2サムエル記12:9-10)
ダビデは「剣」を用いて罪なき人の血を流した。
それ故今後、剣による災いに悩まされる事になる。
事実、ダビデから生まれた子の内、3人は剣で殺されてしまう。またダビデ自身、将来、剣から逃れなくてはならなくなってしまう。
『主はこう仰せられる、『見よ、わたしはあなたの家からあなたの上に災を起すであろう。わたしはあなたの目の前であなたの妻たちを取って、隣びとに与えるであろう。その人はこの太陽の前で妻たちと一緒に寝るであろう。あなたはひそかにそれをしたが、わたしは全イスラエルの前と、太陽の前にこの事をするのである』」。』(2サムエル記12:11-12)
ダビデはもうひとつ、姦淫という罪を犯した。
それ故、彼は姦淫で「はずかしめられる側」となり、事実この言葉の通り、ダビデの娘タマルは異母兄弟によって辱められ、ダビデの側女もダビデの子アブシャロムによって、白昼公然と辱められてしまう。
『ダビデはナタンに言った、「わたしは主に罪をおかしました」。ナタンはダビデに言った、「主もまたあなたの罪を除かれました。あなたは死ぬことはないでしょう。』(2サムエル記12:13)
ダビデはこの時、王の権威をふるって、耳に痛い事を言う預言者を殺す事もできたであろうが(実際、歴代の王達は預言者を迫害し殺した者も多くいた)、ダビデはそれをせず、正直に罪を認めた。
主は確かにダビデの罪を見過ごして下さった。
しかし、犯罪を犯した人は相応の服役をしなくてはならないように、彼が行った事の報いは、彼自身が受けなくてははらない。
『しかしあなたはこの行いによって大いに主を侮ったので、あなたに生れる子供はかならず死ぬでしょう」。』(2サムエル記12:14)
ダビデが犯した「姦淫」は、いのちの誕生への冒涜行為であり、剣によって罪なき人を殺害するという罪もした。
それ故、ダビデ自身は報いを受けなかったが、彼が産んだいのちが、その報いを受ける事になってしまった。
ダビデは、自分の罪の故に死ぬのではなく、罪を背負い、報いを刈り取りつつ生きなくてはならなくなった。
罪の刈り取りは、必ずある。しかし主は、人が一度罪を犯せば罰の中に永遠に閉じ込めたままにされるお方ではない。
懲らしめられて悔い、主に帰ろうとする人を、主は憐れまずにはいられない。(エレ31:18-22)
あなたがその男です(2サムエル記12:1-7a)
Youtube動画
メッセージ音声
(音声データは毎週土曜日にアップ予定です)
前章では、ダビデが今までして来た素晴らしい功績や栄誉を、まるでひっくり返してしまうような、罪深い有り様を見た。
ダビデがした悪は、うまく隠しおおせたかのように見えたが、主は全てを見ておられ、その指摘と報いとをされる。
『主はナタンをダビデにつかわされたので、彼はダビデの所にきて言った、「ある町にふたりの人があって、ひとりは富み、ひとりは貧しかった。』(2サムエル記12:1)
預言者ナタンはかつて、ダビデに永遠に続く家を建てる、という主の言葉を伝えたが、今回、ダビデの隠れた罪を指摘しに来た。
『「ある町にふたりの人があって、ひとりは富み、ひとりは貧しかった。富んでいる人は非常に多くの羊と牛を持っていたが、貧しい人は自分が買った一頭の小さい雌の小羊のほかは何も持っていなかった。彼がそれを育てたので、その小羊は彼および彼の子供たちと共に成長し、彼の食物を食べ、彼のわんから飲み、彼のふところで寝て、彼にとっては娘のようであった。』(2サムエル記12:1-3)
この話中に出てくる富んでいる人は、ダビデの事を指し、貧しい人とその羊は、ヘテ人ウリヤとその妻バテ・シェバを指している。
この話中の、貧しい人の有り様から、バテ・シェバはウリヤと結婚して以来、彼と一緒の器から食物を食べ、一緒の器から飲み、彼の懐で寝て、とても慕わしく過ごしていた様子が伺える。
ウリヤは元々、イスラエルが忌むべき異邦の民・カナンのヘテ人であったのに、まことの神・主に立ち返り、イスラエルの民に加えられ、彼の純粋な信仰と誠実さと、そして、戦士としての有能さの故に、ダビデの三十勇士の一人に数えられた。
以前は暗闇の民であったのに、今は神の民とされ、与えられた恵みの日々に喜びつつ、愛する妻と共に日々を送っていただろう。
しかし、その幸いな日々は、ダビデ王によってある日突然奪われてしまう。
『時に、ひとりの旅びとが、その富んでいる人のもとにきたが、自分の羊または牛のうちから一頭を取って、自分の所にきた旅びとのために調理することを惜しみ、その貧しい人の小羊を取って、これを自分の所にきた「人(イシュ:男)」のために調理した」。』(2サムエル記12:4)
ここで「旅人」と訳されているヘブライ語は「ヘイレフ」、流れる、あるいは旅人の意味であり、また、話中ではこの旅人は「男性」である。
ダビデに流れ来た「男の性欲」という旅人を満足させるため、ダビデは、自分の所に大勢いる妻からは取らず、誠実なウリヤが唯一大切にしている妻、バテ・シェバを取って、ダビデの「男の性欲」を満足させた。
ダビデは、この事を隠れて行ったが、覆われているもので露わにされないものは無い。(ルカ12:2-3)
『ダビデはその人の事をひじょうに怒ってナタンに言った、「主は生きておられる。この事をしたその人は死ぬべきである。かつその人はこの事をしたため、またあわれまなかったため、その小羊を四倍にして償わなければならない」。』(2サムエル記12:5-6)
ダビデは話中の金持ちに、激しく怒り、死刑宣告をし、なおかつ、四倍にして償いをしなくてはならないと宣告した。
律法には、羊一頭を盗んだ場合、四倍にして償うよう記されてはいるが、死刑にせよ、とまでは書いていない。(出エジプト記22:1)
ダビデは、この喩えが自分に向けて語られた事に気付いていなかったように、人はそれ程、自分が神と人との前に犯してきた罪の数々を覚えておらず、それでいて、他人の犯した罪をよく覚えており、その裁きを、主の基準よりも厳しくし、そうして自分自身を罪に定めてしまうのだ。
『だから、ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。さばくあなたも、同じことを行っているからである。わたしたちは、神のさばきが、このような事を行う者どもの上に正しく下ることを、知っている。ああ、このような事を行う者どもをさばきながら、しかも自ら同じことを行う人よ。あなたは、神のさばきをのがれうると思うのか。』(ローマ2:1-3)
人はなぜか、なんとなく思っている。
「自分は、さばきを免れる」と。
それでいて他人の罪はありありと覚えていて、「さばき主」の立場に立ち、相手への仕返しや報いは、大げさに増し加えようとするものだ。
『それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである。神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられる。』(ローマ2:4-6)
主は、私達が罪を告白し、悔い改め、主に立ち返って救われる事を願っておられる。
悔い改めるなら、神の豊かな慈愛と寛容によって赦してもらえる。
しかし、主に罪を指摘されても悔い改めず、サウル王のように言い訳したり、力づくで自分の罪を覆い隠そうとしたり、あるいは歴代の王たちがしたように、神から遣わされた預言者を迫害したり、抹殺するなら、その人はさばきの厳しさを増し加えるための燃料を、さらに積み上げているのだ。
ダビデに預言者ナタンが遣わされた時、ダビデは悔い改めた。
だから、彼は今も偉大な王として、その栄誉が語り継がれているのだ。
私達にも、罪が指摘された時、悔い改めの道と、自分の好き勝手な道を貫き通す事と、どちらを選ぶだろうか。
不信仰なわたしをお助けください(マルコ9:14-29)
第一礼拝: Youtube動画 / 音声
賛美集会音声
第二礼拝: Youtube動画 / 音声
週報/メッセージ(説教)概要
テフィリン教育を真っ先に取り入れ実践しているトォビッ教会の先生や働き人に、テフィリン教育で大切な事は何かと尋ねた所、子供たちに御言葉を暗唱させる事は確かに大事だが、それ以前に、まず親が真理の御言葉によって教育されている事こそ大事だ、と言う事だった。
子供を教育するには、まずは父と母が、子供に提供できる正しい「教えと訓戒」を取り入れる所からである。
今日は、主にあって子育てする親は、どのように問題を克服し、どのように変えられるべきかを学びたい。
『さて、彼らがほかの弟子たちの所にきて見ると、大ぜいの群衆が弟子たちを取り囲み、そして律法学者たちが彼らと論じ合っていた。』(マルコ9:14) イエス様が山から降りて来られた時、イエス様の弟子達が一人の悪霊につかれた子供を癒やせなかった事で、律法学者と議論し、群集に囲まれている場面に出会った。
『イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまで、あなたがたに我慢ができようか。その子をわたしの所に連れてきなさい」。』
イエス様が嘆かれた真っ先の事は「不信仰」だ。後で分かるが、この子の父親は主の全能である事を信じていなかったし、弟子達にも、祈りが無かった。彼らは、子供の良くない様や悪霊の力は見ていても、主に対する信仰も、祈るというたしなみも無く、ただ議論をしていたのだ。
イエス様は言われる。「その子をわたしに連れて来なさい」と。
『霊はたびたび、この子を火の中、水の中に投げ入れて、殺そうとしました。しかしできますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」。イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。』(マルコ9:22-23)
イエス様はまっすぐ父親に向かった。この、父親の今までの心意気こそが問題だと、見抜いたからだ。
自分自身とイエス様の関係を抜きにして、人に任せっぱなしの状態では、何も起きない。子供の問題、病や悪霊の問題、経済や健康の問題などを主の弟子達や教会に「できるものなら」と丸投げし、それで解決されないなら議論したり人のせいにして、そうして本人自身の信仰は全く放ったらかしにされているからだ。
トォビッ教会でも、テフィリンと出会う前から子供教育に力を入れ、色々な試みをして来たが、やはり壁となったのは「親の信仰」の問題だったという。子供を教会の幼稚園に預かって御言葉に沿った教育をすると、確かに子供達は良い方に変わるのだが、ある子は、家に帰ると悪い状態に戻ってしまい、その悪い状態で戻って来た子が、他の子達にも悪い影響を与え、全体的に悪い方に平均化されてしまうのだ。
そこで親子同時教育をするために、親と子を毎日教会に集め「共同育児」の試みもしたが、今度は教会が色々やってくれるから、教会に任せておけばいい、という雰囲気になってしまった。そこで親の御言葉で教育する事に重点を置き、教会に頻繁に集わせず、自分の子は自分の家でしっかり面倒見るようにさせた。
そうした試行錯誤の中、テフィリンに出会ったという。私達は、この教会の貴重な経験に学ぶべきだ。
『その子の父親はすぐ(KJV:涙と共に)叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。』
父は悟った。子供が助けられる以前に、不信仰な自分こそ、何より先ず助けられる必要があったのだ、と。
私達も、涙と共に、主に心から叫ぶべきである。親として、長として足りていない自分を救って下さい、自分からイエス様と関係を持たずに来て、何もかも誰かに丸投げにしていた、不信仰な私をお救い下さい、と。
イエス様に「救って下さい」と叫ぶ時、諸々の問題が解決する下地が整えられる。
『すると霊は叫び声をあげ、激しく引きつけさせて出て行った。その子は死人のようになったので、多くの人は、死んだのだと言った。』 本当に良くなる直前、悪霊やサタンは最後の打撃を与え、最悪の状態になったと絶望させるが、イエス様が手を取って起こしてやったように、私達も手を差し伸べるなら起きるのだ。
マタイの並行箇所(17:21)や、KJVでは、この類は「祈りと断食」が必要だと記している。
自分の好む事を止め(断食)、それと引き換えに、ただ神様に向き合う「祈り」に入る事。それが必要だ。
まずは自分自身が御言葉によって整えられ、自分から主に向き合い、自分で祈り、そうして問題を主と主の言葉に持っていくなら、主の素晴らしい栄光を見るのだ。