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滅んだバビロン・アッシリア・ペリシテ、残ったイスラエル(イザヤ14:16-32)
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- pastor 2015-8-15 11:32
イザヤ書講解説教メッセージ
滅んだバビロン・アッシリア・ペリシテ、残ったイスラエル(イザヤ14:16-32)
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【概要】
神の民に敵対する勢力としてのバビロンの滅びと、主の民イスラエルの存続についての説教。
【聖書箇所】
イザヤ書14章16-32節
【戒めの言葉】
神の民を迫害し、高慢になる者は必ず滅ぼされる。
【励ましの言葉】
主に身を避ける者は、どんな困難にあっても必ず生き残り、栄える。
【***詳細***】
今日の箇所は、イザヤ書14章16節から32節です。この箇所は、バビロンに対する神の裁きと、神の民イスラエルの存続について預言しています。
まず、バビロンについて見ていきましょう。バビロンは、聖書において神の民に敵対する勢力の象徴として描かれています。黙示録でも一時期は栄えますが、最終的には滅ぼされるべき神の敵として描かれています。
イザヤ書14章では、バビロンの滅びが生々しく描かれています。18-19節には、**「おのおの自分の墓で尊ばれて眠っている。しかしあなたは忌み嫌われる若枝のように墓の外に投げ出された。剣で刺し殺されて墓穴に下る者で覆われ、踏みつけられる。」**とあります。
ここでの「若枝」は、本来新緑や子孫を表す言葉ですが、ここではバビロンが「忌み嫌われる若枝」として描かれています。つまり、生命力は強くても、人々を踏みにじり、高ぶる存在は神に忌み嫌われ、投げ捨てられるのです。
さらに22節では、**「私は彼らに向かって立ち上がる。万軍の主の御告げ。私はバビロンから、その名と残りの者、及び後に生まれる子孫とを断ち滅ぼす。」**と宣言されています。神の民に逆らい、神に反逆して高ぶる者は、たとえ生命力が強くても、子孫が繁栄しても、神がそれを許さず、徹底的に滅ぼされるのです。
次に、アッシリアについても触れられています。当時、アッシリアは世界の超大国でした。誰もこの国に歯向かうことができませんでした。しかし、24-26節で、神はアッシリアも必ず打ち破られると預言しています。
「これが全地に対して立てられた計り事。これが万国に対して伸ばされた手。万軍の主が計画を立てられた。だれがそれを破ることができよう。その御手が伸ばされている。だれがそれを引き戻すことができよう。」(26-27節)
ここで重要なのは、世界の歴史が神の経営のもとにあるということです。人間の目には偶然のように見える国々の興亡も、すべて神の計画の中にあるのです。
特に、イスラエルについて神は特別な計画を持っておられます。イスラエルは神の長子として選ばれた国です。時にイスラエルが神に背くことがあっても、神は父親のように懲らしめ、導きます。しかし、他の国々がイスラエルをいじめることは許されません。
このことは、私たちにも当てはまります。神の子どもとなった私たちは、たとえ失敗しても、悔い改めれば常に赦されます。これが父と子の契約なのです。一方、神に敵対する勢力は、最終的には滅ぼされてしまいます。
実際、歴史を見ると、バビロン、アッシリア、ペリシテなど、かつてイスラエルをいじめた国々は滅んでしまいました。しかし、イスラエルは今も存続しています。これは神の約束の成就です。
最後に、32節でこう言われています。「主はシオンの基を据えられた。主の民の悩む者たちはこれに身を寄せる。」
これが私たちへの励ましです。私たちがどんなに弱くても、主という岩の上に人生の基礎を据えて生きるなら、どんな困難にも勝利し、生き残ることができるのです。
【結論】
私たちは、主を礎として人生を建てるべきです。たとえ今、困難な状況にあっても、主に頼り続けるなら、必ず守られ、勝利に導かれます。バビロンやアッシリアのような強大な敵に脅かされているように感じても、主の約束を信じ、揺るがない信仰を持ち続けましょう。
つくばエクレシア礼拝説教メッセージ
遣わされる働き人の心得(出エジプト記3−4章)
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恵みと祝福の螺旋階段を登って行くには(2サムエル記9:1-13)
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- pastor 2015-8-14 23:50
恵みと祝福の螺旋階段を登って行くには(2サムエル記9:1-13)
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『時にダビデは言った、「サウルの家の人で、なお残っている者があるか。わたしはヨナタンのために、その人に恵みを施そう」。』(2サムエル記9:1)
ダビデは周囲の敵を平定し、主から多くの祝福を受けた。それで彼は、恵みを施すおおらかさが生まれた。
なにしろダビデは、この章だけで3度も「恵みを施そう」と言っている。(1,3,7節)
恵みとは、本来それを受けるに値しない者が、ただ一方的に「いただく」ものである。
恵みを受ける人に少しでも主を恐れ敬う心がある人なら、大きな恵みをいただいた時、ゆとりや満足が生まれるばかりでなく、同時に恐れも生じ、自分も誰かに恵みを施さなくては、という気持ちになる。
そのような人は、ますます主への恐れ敬いが生まれ、喜んで分け与えるようになり、ますます祝福されて行くというサイクルに乗り、周りの多くの人に恵みを施して行くようになって行くが、恵みを受けても感謝が無く主を敬わない人は、ただ小さな恵みを受けたっきりで終わってしまう。
『王は言った、「サウルの家の人がまだ残っていませんか。わたしはその人に神の恵みを施そうと思う」。ヂバは王に言った、「ヨナタンの子がまだおります。あしなえです」。王は彼に言った、「その人はどこにいるのか」。ヂバは王に言った、「彼はロ・デバルのアンミエルの子マキルの家におります」。このサウルの孫、ヨナタンの子は、ロ・デバルに住んでいた。』(2サムエル記9:3-4)
このロ・デバルの地名の意味は「牧草地なし」「言葉なし」。ヨルダン川東側、ヤボク川の北に位置したと考えられている。
かのサウル家の生き残り、ヨナタンの子は、そんなへんぴな土地で、マキルという人の家を間借りし、ひっそり住んでいた。
おそらく、ダビデを恐れていたからだろう。
なにしろサウルはダビデを悪くあしらったし、また当時、新しく王になった場合は、前の王の一家一族を絶やして謀反を防ぐのが通例だったからである
しかしダビデは、そんな世の通例とは真逆の行動をする。
『ダビデ王は人をつかわして、ロ・デバルのアンミエルの子マキルの家から、彼を連れてこさせた。サウルの子ヨナタンの子であるメピボセテはダビデのもとにきて、ひれ伏して拝した。ダビデが、「メピボセテよ」と言ったので、彼は、「しもべは、ここにおります」と答えた。ダビデは彼に言った、「恐れることはない。わたしはかならずあなたの父ヨナタンのためにあなたに恵みを施しましょう。あなたの父サウルの地をみなあなたに返します。またあなたは常にわたしの食卓で食事をしなさい」。』(9:5-7)
ダビデはまず「恐る事はない」と、声をかけた。
きっとメピボセテは、震えおののいていたのだろう。
しかしダビデは、自分はあなたに恵みを施すつもりであなたを探し、自分の所に住まわすために呼んだのだ、と、言葉をかけてやった。
しかも、祖父サウルの領地を返し、ダビデの子達と共にいつもダビデの食卓にあずかれる者とした。
ダビデ、なんと太っ腹でおおらかなのだろう。
イエス・キリストの恵みも、そのとおりである。
私達もメピボセテのように、本来は殺されて同然の者だった。
暗黒の地でひっそりと神の目を避けて、ただ、さばきを恐れて暮らしているような者だった所を、王の王であられる主は探し、呼び出してくださり、父祖や自分自身が犯して来た罪は一切、免除してくださり、神の子達と共に天の食卓にあずかる者とされた。
『彼は拝して言った、「あなたは、しもべを何とおぼしめして、死んだ犬のようなわたしを顧みられるのですか」。』(2サムエル記9:8)
少し前にも聞いた言葉である。
そう、ダビデも7章18節で、主に申し上げている。
「主なる神よ、わたしがだれ、わたしの家が何であるので、あなたはこれまでわたしを導かれたのですか。主なる神よ、これはなおあなたの目には小さい事です。主なる神よ、あなたはまたしもべの家の、はるか後の事を語って、きたるべき代々のことを示されました。ダビデはこの上なにをあなたに申しあげることができましょう。・・・。」(2サムエル記7:18-20)
ダビデは、神様から驚くばかりの恵みを受けたから、大いにゆとりが生まれ、恵みを施したくて施したくて仕方のない程のおおらかさを身につけたのだ。
私達も、誰かに恵みを施すとするなら、まず、私達自身が神様からの恵みを既に受けていると、充分に知り、感じ、感謝しなくては出来ない。
また、ダビデやメフィボシェテが告白したように、自分自身がいかに取るにたりないかを覚えていなくてはならない。
そうでないと、恵みを受ける事を当然のものとして高慢で恩知らずになり、振り出されてしまうからだ。
『ヂバは王に言った、「すべて王わが主君がしもべに命じられるとおりに、しもべはいたしましょう」。こうしてメピボセテは王の子のひとりのようにダビデの食卓で食事をした。・・・メピボセテはエルサレムに住んだ。彼がいつも王の食卓で食事をしたからである。彼は両足ともに、なえていた。』(2サムエル記9:11-13)
私達もキリストにあって、本来そういう者ではないのに、天の御国の食卓に連なる者とされた。
主から大きな恵みを受けた私達は、ダビデのように、さらに他の人達にも施すべきだ。
そうするなら、ますます主に祝福されるサイクルに乗り、さらに周りの多くの人に恵みを施せるようになって行くからだ。
勝利に勝利を重ねる義と平和の王(2サムエル記8:1-18)
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8章は、ダビデが周辺諸国と戦って勝利した記録が記されているが、この章で重要なキーワードは、「主はダビデにすべてその行く所で「勝利を与えられた(ヤシャー:広くされた、守られた、救われた)」。」である。
主がダビデの行く先々で守り、救われ、イスラエルの支配領域を広くされたのだ。
ダビデはまず、イスラエルをひっきりなしに攻めていたペリシテを平定し(1節)、またイスラエルに度々攻撃を仕掛けていたモアブも平定した。(2節)
言葉にするならわずか1行足らずだが、それはヨシュアの時代以降、イスラエルのどんな王も士師も出来なかった事だ。
彼が成し遂げたのは、そればかりではない。
『ダビデはまたレホブの子であるゾバの王ハダデゼルが、ユフラテ川のほとりにその勢力を回復しようとして行くところを撃った。そしてダビデは彼から騎兵千七百人、歩兵二万人を取った。ダビデはまた一百の戦車の馬を残して、そのほかの戦車の馬はみなその足の筋を切った。
ダマスコのスリヤびとが、ゾバの王ハダデゼルを助けるためにきたので、ダビデはスリヤびと二万二千人を殺した。そしてダビデはダマスコのスリヤに守備隊を置いた。スリヤびとは、ダビデのしもべとなって、みつぎを納めた。主はダビデにすべてその行く所で勝利を与えられた。』(2サムエル記8:3-6)
ダビデは、ゾバとダマスコの連合軍にも勝利し、シリヤばかりでなく、さらに北のユーフラテス川沿いにまで影響力を及ぼして行った。
ダビデが勝ち取った領域は、イスラエル史上、かつて無かった程の広い範囲である。
主がアブラハムに与えると約束された地は「エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで」だったが、その範囲にダビデは近づいて行った。
このように彼は多くを勝ち取り、多くをぶんどったばかりでなく、ダビデの知らなかった国の王も、彼に平伏して貢を納めた。(2サムエル記8:7-10)
『あなたは民の争いからわたしを救い、わたしをもろもろの国民のかしらとされました。わたしの知らなかった民がわたしに仕えました。彼らはわたしの事を聞くと、ただちにわたしに従い、異邦の人々はきて、わたしにへつらいました。異邦の人々は打ちしおれて、その城から震えながら出てきました。』(詩篇18:43-45)
こうして彼は多くの金銀を得たが、ダビデはそれらを主ために蓄えた。
『ダビデ王は征服したすべての国民から取ってささげた金銀と共にこれらをも主にささげた。すなわちエドム、モアブ、アンモンの人々、ペリシテびと、アマレクから獲た物、およびゾバの王レホブの子ハダデゼルから獲たぶんどり物と共にこれをささげた。』(2サムエル記8:11-12)
彼が得た多くの分捕り物や貢物は、主のために聖別して捧げたのは、主のために聖なる宮を建てる事に用いるためである。
私達も、主から勝利を頂いたのであるなら、勝利を下さった主に捧げ、尊い事に用いるべきである。
『こうしてダビデはイスラエルの全地を治め、そのすべての民に正義と公平を行った。』(2サムエル記8:15)
ダビデはその地を平定し、正義と公平によって治めた。
彼はまさしく後に来られるキリストをよく表している。
『ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。』(イザヤ9:6-10)
また、ダビデの周りには、有能な部下たちが各々の成すべき務めを果たしていた。。
『ゼルヤの子ヨアブは軍の長、アヒルデの子ヨシャパテは史官、アヒトブの子ザドクとアビヤタルの子アヒメレクは祭司、セラヤは書記官、エホヤダの子ベナヤはケレテびととペレテびとの長、ダビデの子たちは祭司であった。』(2サムエル記8:16-18)
なおここで、ダビデの子たちは「祭司であった」と日本語で訳されているが、「祭司」と訳されたヘブライ語は「コーヘン」、司祭の他に、審判、王子、チーフとも訳せる。(KJVでは「chief rulers」)
キリストも王の王として全てを治め、彼に従う人達も、神の子とされ、王として治めるのである。
『あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。』(黙示録5:9-10)
私達も、キリストにあるなら、ダビデのように選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神の民である。(1ペテロ2:10)
ダビデが本来カナン地方に居てはならない敵達を次々と打ち破って行った。
同じように、人々を苦しみの内に閉じ込める悪霊や病気、その他、人に害を為すあらゆる呪いの産物は、私達キリストにある聖徒達が、信仰により、キリストの権威を行使するなら、打ち破る事が可能なものである。
主は教会に、イエスの名による権限を与えられた。それはハデスの門さえ、立ち向かう事が出来ない。
教会が地で繋いだものは、天において繋がれ、地で解いたものは、天においても解かれている。
そして私達は、キリストにあって、行く所どこにおいても、暗闇に勝利し、サタンに囚われた人々を自由にし、彼らをキリストの元に導いて凱旋し、サタンの支配から正しいキリストの支配へと移す平和の使者とされているのである。
主の素晴らしい約束へのダビデの応答(2サムエル記7:17-29)
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- pastor 2015-8-12 22:56
主の素晴らしい約束へのダビデの応答(2サムエル記7:17-29)
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ダビデの家を永遠に固く立てるという約束を主からいただいたダビデは、応答の祈りをする。
『主なる神よ、わたしがだれ、わたしの家が何であるので、あなたはこれまでわたしを導かれたのですか。主なる神よ、これはなおあなたの目には小さい事です。主なる神よ、あなたはまたしもべの家の、はるか後の事を語って、きたるべき代々のことを示されました。』(2サムエル記7:18-19)
どうして、こんなにも取るに足りない自分、こんなつまらない自分を、主は王として選んでくださり、ここに至るまで導いて下さり、さらには、遥か後の来るべき永遠までも示して下さるのですか、と、ダビデは驚き感嘆し、それを主に告白した。
彼は詩篇8篇でも言っている。
『わたしは、あなたの指のわざなる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います。人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。』(詩篇8:3-4)
主の偉大さ、遠大さに引き換え、自分を見ると、ただただ小ささ、足りなさしか見いだせない。
『ダビデはこの上なにをあなたに申しあげることができましょう。主なる神よ、あなたはしもべを知っておられるのです。あなたの約束のゆえに、またあなたの心に従って、あなたはこのもろもろの大いなる事を行い、しもべにそれを知らせられました。』(2サムエル記7:20-21)
私達もダビデ同様、主の偉大さを前に、主に対して、この上何も申し上げる事はできない。
ダビデは、主が告げられた素晴らしい約束について、ただ驚きと、賛美と、その通りに成りますようにという「アーメン」しか無かった。
主の御言葉に対し、私達はただ「アーメン(その通りです)」だけが、本来の反応だ。
『主なる神よ、あなたは偉大です。それは、われわれがすべて耳に聞いたところによれば、あなたのような者はなく、またあなたのほかに神はないからです。地のどの国民が、あなたの民イスラエルのようでありましょうか。これは神が行って、自分のためにあがなって民とし、自らの名をあげられたもの、また彼らのために大いなる恐るべきことをなし、その民の前から国びととその神々とを追い出されたものです。』(2サムエル記7:22-23)
彼がこのように、両手放しで主を賛美できたのは、主の偉大さ、素晴らしさ、寛大さ、憐れみ深さ、その他、主が成して下さったあらゆる良きわざ、主のあらゆる良きご性質を、知り、理解し、味わったからである。
一体私達は、主が私達に与えて下さった良きわざをどれ程知って、理解しているだろうか。
主の御業の大いなる事を、どれ程体験し、感謝し、それを喜び誉めたたえているだろうか。
25節以降で、ダビデは「願いごと」を申し上げているが、そこには、人間的な願いは一切無い。
ただ主の御胸がなりますように、という願いのみである。
『主なる神よ、今あなたが、しもべとしもべの家とについて語られた言葉を長く堅うして、あなたの言われたとおりにしてください。そうすれば、あなたの名はとこしえにあがめられて、『万軍の主はイスラエルの神である』と言われ、あなたのしもべダビデの家は、あなたの前に堅く立つことができましょう。万軍の主、イスラエルの神よ、あなたはしもべに示して、『おまえのために家を建てよう』と言われました。それゆえ、しもべはこの祈をあなたにささげる勇気を得たのです。』(2サムエル記7:25-27)
ダビデは、主が約束されたお言葉の通りに、なりますように、と、ただ願っている。
ちょうど乙女マリヤが「お言葉の通りにこの身に成りますように」と祈ったように。
この従順の応答こそ、主が何にもまして喜ばれる祈りである。
『主なる神よ、あなたは神にましまし、あなたの言葉は真実です。あなたはこの良き事をしもべに約束されました。どうぞ今、しもべの家を祝福し、あなたの前に長くつづかせてくださるように。主なる神よ、あなたがそれを言われたのです。どうぞあなたの祝福によって、しもべの家がながく祝福されますように」。』(2サムエル記7:28-29)
ダビデは、主が約束された途方もないスケールの約束を、そのままアーメンと言って受け入れた。
それ故、彼の上にそれは成就していく。
私達・キリストを信じる者に対し、主が用意しておられる祝福のご計画もまた、主がダビデに約束して下さったように、スケールが大き過ぎて、途方も無い事である。
私達はキリストにあって、モーセよりダビデよりヨブより偉大な者だという認識があるだろうか。(ルカ7:28)
私達は既に死んでおり、その命はキリストと共に神の内に隠されているという認識があるだろうか。(コロサイ3:3)
パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ、また世界であれ、命であれ、死であれ、現在のものであれ、未来のものであれ、キリストにあって、全て私達のものだとの認識があるだろうか。(1コリント3:21-22)
私達はキリストの中で共に復活され、共に天上に座らせられた、という認識があるだろうか。(エペソ2:6)
信じる者には、イエスの御名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、蛇をつかみ、毒を受けても決して害を受けず、病人に手を置けば癒される、という認識があるだろうか。(マルコ16:17-18)
これらの約束へのアーメンと従順が、私達の中で開かれれば開かれる程、その領域における約束は実体化され、人生の中に導入されて来るのだ。
例えば、癒やしが起きる事に対してアーメンならば、癒やしは自分の人生に実体化されてゆき、また、必要の満たしに対してアーメンするならば、実体としての必要が満たされて行くのだが、もし、「癒やしも奇跡も起きっこない」という「御言葉への付け加え・取り除き」があるなら、その方面の実体は開かれる事なく、人生で体験する事もないままである。
私達に必要なのは、ダビデと同じ告白である。
『主なる神よ、あなたは神にましまし、あなたの言葉は真実です。あなたはこの良き事をしもべに約束されました。どうぞ今、しもべの家を祝福し、あなたの前に長くつづかせてくださるように。主なる神よ、あなたがそれを言われたのです。どうぞあなたの祝福によって、しもべの家がながく祝福されますように」。』(2サムエル記7:28-29)
御言葉をそのまま信じ、そこに書かれてある事が、信じた通りに、その身になる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
ダビデ契約(2サムエル記7:1-16)
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『さて、王が自分の家に住み、また主が周囲の敵をことごとく打ち退けて彼に安息を賜わった時、王は預言者ナタンに言った、「見よ、今わたしは、香柏の家に住んでいるが、神の箱はなお幕屋のうちにある」。ナタンは王に言った、「主があなたと共におられますから、行って、すべてあなたの心にあるところを行いなさい」。』(2サムエル記7:1-3)
自分はここまで快適で豪勢に暮らしているというのに、主の箱は相変わらず粗末な環境にある、とダビデは思ったのかもしれない。
それをダビデは預言者ナタンに相談し、ナタンも最初は「あなたの心にある所を行いなさい」と言ったのだが、その夜、主は意外な事を告げられる。
『「行って、わたしのしもべダビデに言いなさい、『主はこう仰せられる。あなたはわたしの住む家を建てようとするのか。わたしはイスラエルの人々をエジプトから導き出した日から今日まで、家に住まわず、天幕をすまいとして歩んできた。わたしがイスラエルのすべての人々と共に歩んだすべての所で、わたしがわたしの民イスラエルを牧することを命じたイスラエルのさばきづかさのひとりに、ひと言でも「どうしてあなたがたはわたしのために香柏の家を建てないのか」と、言ったことがあるであろうか』。』(2サムエル記7:4-7)
主は天にも地にも満ちておられ、まどろむ事も眠る事も無く、疲れる事もたゆむ事も無いお方である。
だから、主の箱が幕屋から香木の家などに入った所で、主は安息や快適さを覚えられるような事はない。
『いと高き者は、手で造った家の内にはお住みにならない。預言者が言っているとおりである、『主が仰せられる、/どんな家をわたしのために建てるのか。わたしのいこいの場所は、どれか。天はわたしの王座、/地はわたしの足台である。これは皆わたしの手が造ったものではないか』。』(使徒7:48-50)
そもそも、幕屋や契約の箱はこれこれの寸法と材料で造りなさい、と、事細かく指示されたのは、主である。
その主が定めた事を、人はとやかく申し出る事などできないのだ。
ただ、ダビデとしては、主を愛するが故に、主に何かしたかったのだろう。
ちょうど、子供が親のために何かしたいと思って何かしても、その内容は幼稚で、意味が無く見えるように。
しかし親は、そんな子供を愛おしく思うものである。
主もダビデを愛おしく思ったのだろう、さらに大いなる名誉を与えようと約束される。
『主はまた「あなたのために家を造る」と仰せられる。あなたが日が満ちて、先祖たちと共に眠る時、わたしはあなたの身から出る子を、あなたのあとに立てて、その王国を堅くするであろう。彼はわたしの名のために家を建てる。わたしは長くその国の位を堅くしよう。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となるであろう。もし彼が罪を犯すならば、わたしは人のつえと人の子のむちをもって彼を懲らす。』(2サムエル記7:11-14)
主のための家を建てたいと願っていたダビデだが、なんと主は、ダビデのために永遠に堅く続く家をたてる、と言われたのだ。
永遠の王が、ダビデの家系から誕生する、と。
もっとも、ダビデの次のソロモンは、王となった当初は良かったものの、繁栄するにつれ堕落し、彼に続く王達も主から離れ罪を犯すようになり、「もし彼が罪を犯すならば、わたしは人のつえと人の子のむちをもって彼を懲らす」の言葉どおりになってしまい、ついにはアッシリヤやバビロンという「つえ(イザヤ10:5)」によって、散らされてしまった。
しかし主は、ダビデの家に対する憐れみを忘れない。
『しかしわたしはわたしのいつくしみを、わたしがあなたの前から除いたサウルから取り去ったように、彼からは取り去らない。あなたの家と王国はわたしの前に長く保つであろう。あなたの位は長く堅うせられる』」。』(2サムエル記7:15-16)
主は、堕落してしまったダビデ王家を懲らしたが、ダビデに約束されていた通り王権はダビデの家から離れること無く、イエス・キリストによって「位は長く堅うせられる」の預言は成就したのだ。
この、永遠の王メシヤ、すなわちイエス・キリストが、ダビデの子孫から生まれるという約束を「ダビデ契約」と言う。
それでユダヤ人達は、メシヤを「ダビデの子」と呼んで待ち望んだ。
だから、新契約聖書の最初、イエス・キリストの福音書のはじめは、アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図で始まるのである。(マタイ1:1)
パウロのような凛々しい働き人になるために(ローマ7:14-8:11)
第一礼拝: Youtube動画 / 音声
賛美集会音声
第二礼拝: Youtube動画 / 音声
週報/メッセージ(説教)概要
今回の韓国では、テフィリンをいち早く取り入れて子供たちを教育しているトォビッ教会の修養会に参加させて頂き、そこの素晴らしい聖徒達と交わりつつ、礼拝や賛美、祈りの時間を共に過ごし、体験してきた。
修養会では、使徒行伝の全部、すなわち、1章から28章の全てを、一日3回合計9時間の講義を通してみっちり学び、各講義の後は、学んだ内容を自分自身に適用するための祈り会を教会全体で行っていた。
使徒行伝の初代教会の働き人達は、聖霊によって変えられ、迫害する人々の前で凛々しく大胆に立ってイエス・キリストの福音を全世界へと伝えて行ったと同時に、罪や誘惑の問題に対し、真剣に取り組んで行った。今回、特にこの罪や誘惑の問題への対処についての示唆を頂いたので、分かち合いたい。
使徒行伝で特筆すべき人物は、やはり使徒パウロだろう。私達キリスト者は、彼の超人的な働きと、強く凛々しく大胆なあり方に憧れる。彼の強さの秘密は一体どこにあり、どうすれば彼のようになれるのだろう。
私達も彼のようになりたいと願っているのに、自分を見るならば、弱く罪深い所ばかりが目立ってしまう。
為すべき良い事は分かっているのに、それができず、かえって、したくない悪を行なってしまう。この葛藤からどうすれば開放されるのか。実はパウロもずっと同じこの悩みをし、ずっと同じ戦いをして来たのだ。
彼も同じ葛藤をしている事を、ローマ人への手紙(7:14-15)にて綴っている。この手紙が書かれたのは彼の初心の時ではない。第3次伝道旅行の時、すなわち信仰者としても働き人としても誰よりベテランの域に差し掛かった頃に、書かれたものだ。私達がまさに抱えている葛藤を、彼もずっと抱え戦っていたのだ。
彼はどうやって、この問題と対処して行ったのかを見る前に、まず知って置かなくてはならない原理がある。
「そこで、この事(罪)をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。」(7:17)
ここから、「罪≠私」という原理を見出る。私達が対処すべき「罪」は、「自分」とは別物であり、打ち叩くべきは、罪を犯す「自分」ではなく、自分に罪を犯させる「罪」である。どう対処したら良いのだろう。
キリスト者が葛藤する仕組みと原理は、7章21−23節に記されている。この節で「原理」とか「律法」とか訳されている日本語は、皆、同じギリシヤ語「ノモス」という言葉で、全部「法則」という意味である。
これらの節の中から、3種類の法則を見出す。第一の法則は「神の法則」。しかし、からだの中に異なった法則があって、「心の法則」(第三の法則)に戦いを挑み、「罪の法則」(第二の法則)のとりこにしている。これが葛藤の原因であり、これら三つの法則のせめぎあいがある為に、したい善が出来ないのだ。
つまり事は、頑張りや人格や不屈の精神などの問題ではなく、どの法則に自分を委ねるか、の問題である。
パウロは24節で、自分はみじめだと叫んでいるのに、25節では喜びに溢れ感謝を叫んでいるのはなぜか?それは、みじめな人間の有り様に対する解決法を見出したからだ。そう、対処方法があるのだ!
「キリスト・イエスにある”いのちの御霊の法則”は、罪と死との法則からあなたを解放した」(ローマ8:2)
この第四の法則”いのちの御霊の法則”こそ、罪と死の法則に対抗する唯一の手段である。
全ての人は、重力の法則に縛られ、地上から離れられない。しかし飛行機に乗る事で地上を離れる事が出来るように、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則に乗る事で、私達も罪から離れる事が出来るのだ。
どうしたらこの法則に乗っかる事が出来るのだろうか?それは「継続的な選択」の問題であり、肉によらず聖霊によって歩み続ける「選択」を日々、し続ける事によって、である。
「これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。」(8:4)
命の御霊の法則に乗り続けるには、肉によらず、聖霊に従って歩む選択をし続ける事によって、である。
パウロには不屈の精神があったから頑張れたのではなく、「聖霊に従う選択」をし続けたから、全ての迫害や困難、問題に対処できる「御霊」の知恵と力が与えられ続け、主にあってそれらを乗り越えられたのだ。
私達はアダム以来、選択によって罪と死を取り入れてしまった。故に、選択によって、救われるのだ。
私達の死ぬべきこの体を、罪の支配や情欲に「委ねない」と選択し、死人の中から生かされた者として、自分自身を神に捧げ、自分の体を義の武器として神に捧げる事を、意思で決定するのである。
もし私達が、パウロの不屈の強さを纏え、と言われるなら絶望しか無いが、日々、御霊を選択し続ける事によってパウロのようになれるのだ。御言葉によって正しく肉の道と霊の道を仕分けし、霊に従って歩む事を選択し続け、パウロのようにいのちに歩む皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
遣わされる働き人の心得(出エジプト記3−4章)
第一礼拝: Youtube動画 / 音声
賛美集会音声
第二礼拝: Youtube動画 / 音声
週報/メッセージ(説教)概要
バビロン化が進んでいく昨今の世界の中において、私達キリスト者はますますきよい者として自らを保ち、御言葉に留まり、働き人としての分を果たさなくてはならない。前回、ダニエルとその3人の友人の有り様から学んだが、今回はモーセの召命の場面から、実際に「働き人」として遣わされて行く有り方を学びたい。
『さあ、わたしは、あなたをパロにつかわして、わたしの民、イスラエルの人々をエジプトから導き出させよう」。モーセは神に言った、「わたしは、いったい何者でしょう。わたしがパロのところへ行って、イスラエルの人々をエジプトから導き出すのでしょうか」。』(出エジプト記3:10)
モーセが召命を受けたのは、80歳という高齢になってから、だった。40年前のモーセだったなら、二つ返事でOKしたかもしれない。しかし主は、人間的なヤル気が大きく気力にあふれている時は、必ずと言っていい程、ご自身のご用のために用いられることは、無い。主は、弱い者を、用いられる。
ギデオンもエレミヤも、自分が若い者だと言う時に召し出し特別なミッションに就かせられた。
80歳。十分な年齢である。これから何かするには、あまりに歳をとりすぎていたが、主が召したのはその時だ。『主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。』(2コリント12:9) 何故、弱く小さい人に、主の働きが出来るのか。
「わたしは必ずあなたと共にいる。これが、わたしのあなたをつかわした”しるし”である。」(出3:12)
主が共にいる、これこそ、働き人に必須のしるしだ。御言葉は、主ご自身であり、生きておられる。
もし「私達の中に御言葉があり(主が共におり)」、その御言葉が内側でじっとしておれず、出たい出たい、口から発せられて、あの人の所に入って行きたい、と感じるとき、その御言葉を発するべき時である。
エレミヤは、自分の口からもしその御言葉が発せられたら、相手がどんな非道い反応をするか知っていても、発せずにいたなら、自分の中で火となって燃え上がり、焼かれるような思いがした程だ。(エレミヤ20:9)
続いてモーセは、もし自分が遣わされた場合、あなたの名を何と紹介すれば良いですか、と問うた時、『神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。』(出3:14) 「I AM THAT I AM」すなわち、神は、「存在する」という名である。これが、私達が相手に伝えるべき主の名であり、アイデンティティである。
イエス様は、「わたし(イエス様)は、在る」事を認めない人は、罪のうちに死ぬ、と言っている。(ヨハネ8:24)
わたしは有る、ギリシア語ではエゴ・エイミーと言うが、人類全ての人には2つの選択肢がある。
自分のエゴを貫き通して、罪の内に死ぬか。それとも自分のエゴを降ろし、イエス様の「エゴ・エイミー」を認めて永遠の幸いといのちを得るか。私達が主を伝える時、必ず主が在るお方である事、そのお方を受け入れるべき事を伝えなくてはならない。神は、いつでも、どこでも「有る」お方。仕事場でも家でも、そして今この時でも。この「在るお方」が「共におられる」というしるしを拠り所とし、私達は遣わされていくのである。
「わたしがあなたを遣わす」「わたしはあなたと共にいる」と主が言われたのに、モーセはまだまだ不安だった。(出エジプト記4:1) そこで神は証拠としてのしるしを与えられる。その真っ先に与えられたしるしは、杖を蛇に変えるしるしである。(4:2-4) 蛇といえば真っ先にサタンを思い出すが、なぜ「蛇」なのか。
神はサタンに活動許可を与えて放つ事も出来れば、サタンをもつかんで封じる権威もあるのだ。
私達にも、蛇をもつかむ権威が与えられている。(マルコ16:18) もし羊達を支配する道具である杖を放棄し地に放り投げてしまうなら、それは蛇となってサタンの野放し状態になってしまう。私達はしっかり羊を治める杖を握り、たとえそれが蛇であっても、掴んで羊の杖に戻し、罪を治めるべきなのだ。
『モーセは主に言った、「ああ主よ、わたしは以前にも、またあなたが、しもべに語られてから後も、言葉の人ではありません。わたしは口も重く、舌も重いのです」』(出エジプト記4:10)。 モーセは、これだけしるしが見せられ、主が共におられる事を示されるに及んでも、なお、他の人を遣わして下さいと求めた。
主がそこまで示して下さったのに、なお断るというのは、愚かさである。私達は主からどんなに素晴らしい御言葉を与えられ、しるしを見せられただろうか。それをじっくり味わい知ったなら、遣わされ行くべきだ。この日本と世界に遣わされ、造り変えて行く皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!