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ちぐはぐでとんちんかんな指導者となってしまう原因(1サムエル記14:24-35)
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- pastor 2015-3-19 23:50
礼拝説教メッセージ音声:ちぐはぐでとんちんかんな指導者となってしまう原因(1サムエル記14:24-35):右クリックで保存
『しかしその日イスラエルの人々は苦しんだ。これはサウルが民に誓わせて「夕方まで、わたしが敵(mine enemies)にあだを返すまで、食物を食べる者は、のろわれる」と言ったからである。それゆえ民のうちには、ひとりも食物を口にしたものはなかった。』(1サムエル記14:24)
主の敵を滅ぼす、という誓いならともかく、サウルは「わたしの敵」(mine enemies)に復讐する事を強要するため、夕方まで民に断食を強要した。
誓う事は霊的な意思表示であるが(民数記30章)、彼は一見、その霊的な事をしはしても、その動機は結局、自己中心である。
彼は、御心を求めてから途中でそれを止めさせたり、サムエルを待てなかったくせに人々には食べるのを待つよう強要したりしたりと、ちぐはぐで、芯の無い行動をしている。
それは結局、人々に信仰的だと思わせる動機でしているから、人々の賛同如何で、ころころ変わってしまうような、ちぐはぐで芯の無い行動となってしまうのだ。
彼のような、外見は”信仰的”でも、心は人受けする事を第一とするような指導者の下にいる人は、サウルの部下達のように、振り回されっぱなしである。
『ところで、民がみな森の中にはいると、地のおもてに蜜があった。民は森にはいった時、蜜のしたたっているのを見た。しかしだれもそれを手に取って口につけるものがなかった。民が誓いを恐れたからである。しかしヨナタンは、父が民に誓わせたことを聞かなかったので、手を伸べてつえの先を蜜ばちの巣に浸し、手に取って口につけた。すると彼は目がはっきりした。』(1サムエル記14:25-27)
ヨナタンは、サウルが立てさせた誓いを知らなかったので、何の良心のとがめも、悪意もなく、蜜を味わった。
『その時、民のひとりが言った、「あなたの父は、かたく民に誓わせて『きょう、食物を食べる者は、のろわれる』と言われました。それで民は疲れているのです」。ヨナタンは言った、「父は国を悩ませました。ごらんなさい。この蜜をすこしなめたばかりで、わたしの目がこんなに、はっきりしたではありませんか。まして、民がきょう敵からぶんどった物を、じゅうぶん食べていたならば、さらに多くのペリシテびとを殺していたでしょうに」。』(1サムエル記14:28-30)
このような、いらぬ「せよ」「してはならない」の命令を、神の名の元に乱発し、群れ全体の仕事効率を低下させたり、聖徒達を苦しめたりする霊的指導者は、いつの時代でも、いるが、彼らは、主の御心を行う事が第一ではなく、主の御名を借りて、人々に自分の好む事を押し付けたいに過ぎない。
主にある指導者が、主にあって正当に支配しているかどうかの指標は、御霊の実を実らせているかいないかという事、そして、そこに自由があるかないか、である。
『主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。』(2コリント3:17)
ヨナタンの言葉には、自由があるが、サウルの言葉には、自由が見られない。
以下、見比べて見ると、よく分かる。
『ヨナタンはその武器を執る若者に言った、「さあ、われわれは、この割礼なき者どもの先陣へ渡って行こう。主がわれわれのために何か行われるであろう。多くの人をもって救うのも、少ない人をもって救うのも、主にとっては、なんの妨げもないからである」。武器を執る者は彼に言った、「あなたの望みどおりにしなさい。わたしは一緒にいます。わたしはあなたと同じ心です」。』(1サムエル記14:6-7)
『しかしその日イスラエルの人々は苦しんだ。これはサウルが民に誓わせて「夕方まで、わたしが敵にあだを返すまで、食物を食べる者は、のろわれる」と言ったからである。それゆえ民のうちには、ひとりも食物を口にしたものはなかった。』(同24節)
もちろん、自由とは、好き勝手に欲望のおもむくまま、ではなく、御霊にある自由であり、そこには愛、喜び、誠実、自制などの、御霊の実が結ばされているものである。
御霊が働かれる所には、自由がある。
しかし、人の押し付けには自由は無く、行動の制限と束縛感があり、そして束縛がきつ過ぎると、人に罪を犯させてしまう。
『その日イスラエルびとは、ペリシテびとを撃って、ミクマシからアヤロンに及んだ。そして民は、ひじょうに疲れたので、ぶんどり物に、はせかかって、羊、牛、子牛を取って、それを地の上に殺し、血のままでそれを食べた。』(1サムエル記14:31-32)
血のあるままで肉を食べる事、これは、律法では禁じられている事であるが、人々にその罪を犯させる「とっかかり」を作ったのは、サウルだった。
『またあなたがたはすべてその住む所で、鳥にせよ、獣にせよ、すべてその血を食べてはならない。だれでもすべて血を食べるならば、その人は民のうちから断たれるであろう』」。』(レビ記7:26-27)
もしサウルが、あくまで律法を徹底するとしたら、血のまま食べた人々を、民の内から絶たなければならないはずだが、それはしなかった。
そして、別の「ある事」を徹底させ、さらに「とんちんかん」を増し加えて行く事になる。
礼拝説教メッセージ音声:霊的優先順位を外したサウル(1サムエル記14:16-23):右クリックで保存
『ベニヤミンのギベアにいたサウルの番兵たちが見ると、ペリシテびとの群衆はくずれて右往左往していた。』(1サムエル記14:16)
ペリシテの中に、神からの恐れが入り、陣営は大混乱に陥った。そのとっかかりを作ったのは、ヨナタンと道具持ちの二人である。
主は、彼らの信仰に基づいた行動を、大いに用いられたのだ。
主は、ご自分の心に適う者、御声に聞き従い、それを、守り行う人を求められる。
サウルはひと度、それに失敗したが、主は、一人の代表者の不信仰によって神の民全体を見捨てる事をせず、その中の一人の信仰者の行動を汲み取ってそれを用い、イスラエル全体に救いをもたらされる。
『その時サウルは、共にいる民に言った、「人数を調べて、われわれのうちのだれが出て行ったかを見よ」。人数を調べたところ、ヨナタンとその武器を執る者とがそこにいなかった。サウルはアヒヤに言った、「エポデをここに持ってきなさい」。その時、アヒヤはイスラエルの人々の前でエポデを身に着けていたからである。サウルが祭司に語っている間にも、ペリシテびとの陣営の騒ぎはますます大きくなったので、サウルは祭司に言った、「手を引きなさい」。』(1サムエル記14:17-19)
サウルが、敵の状況が変わったのを見て起こした行動は、実に、霊的優先順位を外したものである点に、私達は着目すべきである。
彼が真っ先に求めたのは、「誰がこの事をしたのか?」であり、騒乱している敵を前に、自軍600人の人員点呼を取らせるという行動に出た。
物事が有利に起こった時、あるいは不利になった時、真っ先に「それは誰か」を探る事は、ナンセンスである。
サウルは、人を見た。「人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである。」(箴言29:25)
この後もサウルは「御心が示されなくなってしまったのは、誰のせいか」を追求し、そうして最大の功労者であるヨナタンの命を、落とそうとしてしまう。
社会や政治の場において、何か危急の事が起きた時、一刻も早く対処するではなく「誰彼追求」をして、かえって物事を悪くしてしまうような人がいるが、私達はそうした「誰彼追求」を、霊的現場において、していないだろうか。それはサウルの、失敗する道である。
サウルがそうして人員を調べさせた結果、出て行ったのは、ヨナタンと道具持ちである事が分かった。
それで、彼が次に彼が行った事は、ヨナタンを助けに行くではなく、この機に乗じて奇襲を仕掛けに行くでもなく、祭司にエポデ(主の御心を伺うための道具)を持って来させ、このまま攻めに行くべきか、行かないべきかを伺う事だった。
サウルは、祭司がずっと一緒にいた、にもかかわらず、御心を伺う事をしたのは、もしかしたらここが初めてだったのかもしれない。
あるいは、御心を求めても何の答えも無かったか、それとも、答えはあっても、その通り行動していなかったかであろう。
なぜなら、もし御心を伺ってその通り行動していたとしたなら、何も、ヨナタンに先んじられる事なく、サウルはもっと別の有益な結果を残していたであろうから。
サウルが御心を求めている間、敵陣の混乱はますます大きくなったので、サウルは祭司に「手を引きなさい」と遮り、戦いの場へと急行した。
さて、サウルがした事を順番に並べると、一番最初は「これは誰のせいか」を求めた事、次に、御心を伺わせた事、しかし、状況が変わったのを見て途中で止めさせ、ようやく戦場へと駆けつけた事だった。
全くもって、優先順位が逆である。
ヨナタンには、御心を伺う祭司が、一緒にいただろうか? 彼は祭司なしに自分の信仰だけで出て行った。
彼は、敵が右往左往しているのを見てから戦場へ出て行っただろうか? いや、彼は戦況が圧倒的不利な状態で、敵前へと出て行ったのだ。
彼は、人を求めただろうか。いや、彼には、自分と信仰の行動を共にする人一人さええれば、道具持ちの若者一人で充分だった。
ヨナタンは主に伺う以前に、主が何かをして下さるだろう、という信仰と期待だけを握り締めて、行ったのだ。
彼の信仰と期待はそれだけ確信があったが、私達は、信仰に自信が無い時は当然、主に伺うべきである。
しかし、サウルのように、御心を伺っている最中にそれを差し止めたり、御心が与えられるのが「待ちきれず」に行動を起こしてしまうのは、失敗の道である。
『こうしてサウルおよび共にいる民は皆、集まって戦いに出た。ペリシテびとはつるぎをもって同志打ちしたので、非常に大きな混乱となった。また先にペリシテびとと共にいて、彼らと共に陣営にきていたヘブルびとたちも、翻ってサウルおよびヨナタンと共にいるイスラエルびとにつくようになった。またエフライムの山地に身を隠していたイスラエルびとたちも皆、ペリシテびとが逃げると聞いて、彼らもまた戦いに出て、それを追撃した。こうして主はその日イスラエルを救われた。』(1サムエル記14:20-23)
結局、この戦いは、ヨナタンの信仰の行いの、一人勝ちであった。
私達も、ヨナタンのように、信仰によって行動するなら、遣わされている仕事場において、戦いの場において、そしてこの日本において、勝利のきっかけの重要パーソンとなれるのだ。
礼拝説教メッセージ音声:信仰の二人は万を打つ(1サムエル記14:6-15):右クリックで保存
『ヨナタンはその武器を執る若者に言った、「さあ、われわれは、この割礼なき者どもの先陣へ渡って行こう。主がわれわれのために何か行われるであろう。多くの人をもって救うのも、少ない人をもって救うのも、主にとっては、なんの妨げもないからである」。武器を執る者は彼に言った、「あなたの望みどおりにしなさい。わたしは一緒にいます。わたしはあなたと同じ心です」。』(1サムエル14:6-7)
ヨナタンは、主が何かをして下さると期待して、出て行った。
主が御業をなされる上では、人の頭数の多さより、むしろ、その集まりの、主を信頼する純粋さこそが、重要な鍵となる。
不信仰な人間の頭数の多さは、逆に邪魔だ。
実際主は、エジプトを出た男子六十万全部を約束の地へ導き入れたのではなく、純粋な信仰を保ったヨシュアとカレブの二人だけを入れたし、また、ギデオンの時は32000人を、主は「多すぎる」として、300人へと絞った。
集いの中に、不信仰の者が混ざると、信仰者の足を引っ張る。
だからヨナタンは、祭司を呼び寄せても何もしない父サウルや、サウルと一緒にただ震えて待っているだけの人々には何も告げずに、出て行ったのだ。
『こうしてふたりはペリシテびとの先陣に、その身を現したので、ペリシテびとは言った、「見よ、ヘブルびとが、隠れていた穴から出てくる」。先陣の人々はヨナタンと、その武器を執る者に叫んで言った、「われわれのところに上ってこい。目に、もの見せてくれよう」。ヨナタンは、その武器を執る者に言った、「わたしのあとについて上ってきなさい。主は彼らをイスラエルの手に渡されたのだ」。』(1サムエル記14:11-12)
大軍の敵を前に、姿を現した若者二人。
信仰なき者達には、命知らずの自殺行為であろうが、ヨナタンにとってはたとえ二人であろうと、イスラエルを代表した戦いであり、そして、敵の嘲りの言葉は、彼には「主は彼らをイスラエルの手に渡されたのだ」という勝利のしるしだった。
『そしてヨナタンはよじ登り、武器を執る者もそのあとについて登った。ペリシテびとはヨナタンの前に倒れた。武器を執る者も、あとについていってペリシテびとを殺した。ヨナタンとその武器を執る者とが、手始めに殺したものは、おおよそ二十人であって、このことは一くびきの牛の耕す畑のおおよそ半分の内で行われた。』(1サムエル記14:13-14)
岩をよじ登って来る者を迎え撃つ。それは、赤子の首をひねるよりも簡単と思われるが、どういう戦いが展開されたのか、なんと、よじ登っていったヨナタンのほうが、ペリシテを二十人も打ったのだ。
「一くびきの牛の耕す畑のおおよそ半分」、それは英語聖書では半エーカー、すなわちおよそ60mx30mほどの場所である。
ちなみに、ギリシャ語「エーカー」は「くびき」を意味する言葉で、ひとくびきの牛が一日間で耕すことが可能な土地の広さを一エーカーとして定めたとされている。
『そして陣営にいる者、野にいるもの、およびすべての民は恐怖に襲われ、先陣のもの、および略奪隊までも、恐れおののいた。また地は震い動き、非常に大きな恐怖となった。』(1サムエル記14:15)
こうして、たった二人の信仰ある者の行動が、ペリシテの陣営全体を、震えおののかせた。
また、地は震い動き(the earth quaked)、非常に大きな恐怖(原文では、神(エローヒム)の恐れ)が沸き起こった。
モーセは言っている。
「彼らの岩が彼らを売らず、/主が彼らをわたされなかったならば、/どうして、ひとりで千人を追い、/ふたりで万人を敗ることができたであろう。彼らの岩はわれらの岩に及ばない。われらの敵もこれを認めている。」(申命記32:30-31)
そう、彼らは「岩」であられる主に信頼したから、二人で万人を破る事が出来たのだ。
『主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である。この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。聖書にこう書いてある、/「見よ、わたしはシオンに、/選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。それにより頼む者は、/決して、失望に終ることがない」。』(1ペテロ2:4-6)
岩なる主は、寄り頼む者には、決して揺るがされる事の無い救いである。
しかし、寄り頼まない者には、全く逆の作用を及ぼす。
『この石は、より頼んでいるあなたがたには尊いものであるが、不信仰な人々には「家造りらの捨てた石で、隅のかしら石となったもの」、また「つまずきの石、妨げの岩」である。しかし、彼らがつまずくのは、御言に従わないからであって、彼らは、実は、そうなるように定められていたのである。』(同7-8節)
主イエス・キリストという救いの岩に信頼を置く私達には、次の特権が与えられている。
『しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている。』(同9-10節)
主を信頼する私達は、選ばれた種族、王のような祭司、聖なる国民、神の民であり、あわれみを受けた者となっているのだ。
神の国、すなわち「神の支配領域」は、神の子が、神の御言葉を信じて、その通り行動する所に、現れる。
そしてそこは、物理法則さえ凌駕する神の力、神の業がなされる。ヨシュアが祈りで地球の自転を停止させたように、エリヤとやもめのパンが尽きなかったように、また、ペテロが少しの間だが水の上を歩いたように。
皆さんの家、職場、行く先々は、神の国となっているだろうか。
私達が、御言葉に信頼して行動するなら、そこは、神の支配が行き届く所となるのだ。
神の国は、神の子とされた者が、神のことばを信頼し、行使する所に現れる。
行く先々において、神の国を興し、闇を光に、死をいのちに塗りつぶして行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
十字架の前の宴 - 弟子達の足を洗う(ヨハネ13:1-20)
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ベタニヤのマリヤは、高価なナルドの香油の壺を割って、イエス様に注ぎ尽くし、女の冠である髪でイエス様の「足」をぬぐって、主の葬りの前に最高の「宴」を王の前に設けた事を、前回見た。
彼女の捧げた香油には、イエス様に対する愛と尊敬と信仰も混ざり、その高貴な香りは、部屋いっぱいに満ちたばかりでなく、天にも香り高く立ち登り、永遠の記念として全世界へと広がって行った。
しかしそこには、イエス様を裏切ろうとするイスカリオテのユダも同席していた。彼は、彼女の捧げる心とは真逆の心を持ち、その香油を値踏みし、彼女の捧げ方を「無駄」と評価して、表向きは正論を言っているようでも、内心は彼女の捧げた香油をカネに変え自分のものにしたかったのだ。イエス様はそんなユダの思いを見透かしていたが、そんなユダに対しても、あくまで平和に、愛と赦しの眼差しをもって、さとした。
今回、イエス様の受難を前に、ユダや弟子たちに自ら「愛の宴」を設けたイエス様の言動を見て行きたい。
『過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを「最後まで(テロス:極限まで,徹底的に,完全に)」愛し通された。』(ヨハネ13:1)
肉体にあって弟子たちと接する事の出来る時間は、もう僅かしか残っていない。そう悟ったイエス様は、世に残って主の働きをしなくてはならない弟子たちに、愛(アガペー)を極限まで余すところ無く示された。
マリヤがイエス様の足を髪で拭ったように、イエス様ご自身、弟子達の足を洗われ、宴を設けられたのだ。
『ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる。」』(8節)
私達は、イエス様を主とし、血潮の洗いによって清くされたが、この肉体にはまだ罪の刺がささっており、世を歩く歩みにおいて、どうしても汚れを受けてしまう。主はそれを洗い、拭って下さる。イエス様がそうして下さるからこそ、私達とイエス様は親密な関係を保てるが、それを拒むなら、何の関係も無くなってしまう。
足を洗った相手には、当然、イエス様を売り渡そうという気のあるイスカリオテのユダも含まれている。
皆さんは、聖徒の尊い捧げものに、汚物を塗ったような者に、しかも、サタンに心奪われて自分を裏切ろうという心を孕んでいるのを知りながらにして、その相手の足元に座し、足を洗って拭えるだろうか。
これは裏切ろうとしている彼への当て付けではない。愛(アガペー)を極限まで余すところ無く示される故だ。
イエス様は、肉体におけるお別れの前、愛する弟子達だけでなく、裏切ろうとするユダにさえ、足を洗うという「宴」を設けられた。ユダはこの時、裏切ろうという心はあったものの、具体的行動をまだ起こしておらず、永遠の救いの可能性は充分あったし、イエス様もそうなる事を望んで、足を洗われたのだろう。
私達の主であり、師であるイエス様がそうされたからには、私達も、互いに足を洗い合うべきだ。(14節)
16節以降、イエス様は「遣わす」という言葉を何度か使っている。
『僕はその主人にまさるものではなく、つかわされた者はつかわした者にまさるものではない。』(16節)
私達の主は当然イエス様であり、イエス様に「遣わされる者」だ。しかし、全ての者がそうではない、と言われる。(18節) イエス様のパンを食べ、イエス様に足を洗ってもらった人が全てイエス様を「主」とするわけではなく、逆に、かかとを上げるような者も、いるのだ。ユダだけは、イエス様を取り替え可能な「師」とした。
弟子達はこの時点、これから何が起こるのか、自分達がこれからどうなって行くのかを、まだ知らない。
イエス様は、もうすぐこの世の肉体を離れるが、弟子達はまだ、艱難あるこの世にしばし残らなくてはならない。この後、イエス様は渡され、彼らは散らされ、ある者は裏切り、ある者は主を知らないと三度、宣言する。
そして十字架を経た後、主に留まった弟子達には、聖霊が与えられ、主イエスの使徒として働く事になる。
ある者は苦難が、ある者は殉教が定められている。それら全ての前に、そんな彼らを愛しいとおしむ心が溢れたからこそ、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って彼らの足を洗い、汚れを落とし、拭われたのだろう。
世において、私達は主がおられる天の故郷を望みつつ、また、その天に多くの魂たちを救い入れるべく、多くの働きが残っているが、主はそんな私達に、愛を余すところ無く、完全に注いでおられる。その働きの前に、主は私達にも宴を設けられ、私達の足を洗ってくださる。主に全てを洗い清められ、世に遣わされ、御国のために多くの働きをする皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
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聖所の庭を不当に踏みにじる罪(イザヤ1:10-20)(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
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主は離婚を憎む(マタイ19:1-12):右クリックで保存
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不純物は精錬されて消え失せる(イザヤ1:21-31):右クリックで保存
【概要】
イザヤ書1章21-31節を基に、イスラエルの堕落と主の裁き、そして悔い改めと贖いについて語られたメッセージ。
【聖書箇所】
イザヤ書1:21-31
【戒めの言葉】
教会に通いながら罪を悔い改めず、同じ罪を繰り返す者は、不純物として取り除かれる危険がある。
【勧めの言葉】
真の悔い改めと、それにふさわしい実を結ぶことが求められている。
【悔い改めの促しの言葉】
自分の罪を認識し、胸を打ち叩き、涙を流して悔い改め、二度と同じ罪を犯さないと決心することが必要。
【***詳細***】
今日の御言葉は、イザヤ書1章21節から31節までです。この箇所は、イスラエルに対する主の失望と、悔い改めへの促しから始まっています。
主は、かつて正義と公正が宿っていたエルサレムが、今や不義に満ちた街となってしまったことを嘆いています。「かつては忠信であった町、どうして遊女となったのか。昔は公平で満ち、正義がそのうちにやどっていたのに、今は人を殺す者ばかりとなってしまった」(21節)と主は言われます。
主は、イスラエルの堕落を具体的に指摘されます。「お前の銀は金かすになった。お前の良い酒も水で割ってある」(22節)。これは、純粋なものの中に不純物が混ざってしまった状態を表しています。本来は良いはずの銀や葡萄酒が、混ぜ物によって価値を失ってしまったのです。
さらに主は、指導者たちの腐敗を非難されます。「お前のつかさたちは反逆者、盗人の仲間。皆、賄賂を愛し、報酬を追い求める」(23節)。正義を守るべき立場にある者たちが、逆に不正を働いているのです。
このような状況に対し、主は厳しい裁きを宣言されます。「ああ、私のあだに思いを晴らし、私の敵に復讐しよう」(24節)。主は、イスラエルの中にある敵、つまり主に逆らう者たちを裁かれるのです。
しかし、主の目的は単なる破壊ではありません。「しかし、お前の上に再び我が手を伸ばし、お前の金かすをあくのように溶かし、その浮きかすを皆のぞこう」(25節)。これは、純粋な銀を得るために不純物を取り除く精錬の過程を表しています。主は、イスラエルを清めて、本来あるべき姿に戻そうとされているのです。
「 こうして、あなたのさばきびとをもとのとおりに、あなたの議官を初めのとおりに回復する。」(26節a)。主は、イスラエルの指導者たちを正しい者に立て直そうとされています。
そして、清められたイスラエルの将来について、主は希望に満ちた約束を与えられます。「その後あなたは正義の都、忠信の町ととなえられる」(26節b)
この箇所から、私たちは重要な教訓を学ぶことができます。私たちもまた、教会に通い、クリスチャンとして生活しているつもりでも、知らず知らずのうちに不純物を混ぜてしまっているかもしれません。純粋な信仰が、世俗的な考えや行動によって汚されてしまう危険性は常にあるのです。
主は、「シオンは公正によって贖われ、その町の悔い改める者は正義によって贖われる」(27節)と言われます。ここで重要なのは、「悔い改める者」という言葉です。単に教会に通うだけでなく、真に悔い改め、主の前に立ち返る者が贖われるのです。
バプテスマのヨハネの言葉を思い出しましょう。「悔い改めにふさわしい実を結べ」(ルカ3:8)。悔い改めは単なる言葉だけではなく、具体的な行動の変化を伴うものでなければなりません。
私たちは、自分の罪を認識し、胸を打ち叩き、心を裂き、涙を流して悔い改めなければなりません。そして、二度とその罪を犯さないと決心し、主の助けを求めて歩む必要があります。
主は、「背く者は、罪人と共に破滅し、主を捨てる者は、失せ果てる」(28節)と警告されます。悔い改めない者、主を捨てる者には厳しい裁きが待っているのです。
しかし、主の目的は私たちを滅ぼすことではありません。主は、私たちを清め、純粋な信仰を持つ者としたいのです。「 あなたがたは、みずから喜んだかしの木によって、はずかしめを受け、みずから選んだ園によって、恥じ赤らむ。 」(29節)。ここでの「樫の木」や「園」は、偶像礼拝の場所を指していると考えられます。主は、私たちが頼りにしている偽りの神々や世俗的な価値観が、実は何の役にも立たないことを示されるのです。
「つわものがあさくずに、そのわざはひばなになり、そのふたつとももえたってこれをけすものがいない」(31節)。ここでの「つわもの」は、自分の力を頼みにする者を表しています。しかし、主の前では、人間の力など何の価値もありません。
私たちは、自分の中にある不純物、主の御心に反するものを取り除いていただく必要があります。それは時に痛みを伴う process かもしれません。しかし、それによって私たちは純粋な信仰を持つ者となり、主に用いられる器となることができるのです。
【結論】
今日の御言葉は、私たちに厳しい警告と同時に、希望に満ちた約束を与えています。私たちは、自分の罪を認識し、真摯に悔い改め、主の清めを受け入れる必要があります。そうすることで、私たちは「正義の街、忠心な都」の住民として、主に喜ばれる者となることができるのです。主の恵みによって、私たちが日々、悔い改めと信仰の歩みを続けていくことができますように。アーメン。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
つくばエクレシア礼拝(ヨハネ12:1-8):右クリックで保存
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ユダとイエス様 - 光と闇との極み(ヨハネ12:4-8):右クリックで保存
圧倒的不利な状況下で、一人、信仰によって立ち向かうヨナタン(1サムエル記13:15-14:5)
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- pastor 2015-3-13 23:39
礼拝説教メッセージ音声:圧倒的不利な状況下で、一人、信仰によって立ち向かうヨナタン(1サムエル記13:15-14:5):右クリックで保存
『こうしてサムエルは立って、ギルガルからベニヤミンのギベアに上っていった。サウルは共にいる民を数えてみたが、おおよそ六百人あった。サウルとその子ヨナタン、ならびに、共にいる民は、ベニヤミンのゲバにおり、ペリシテびとはミクマシに陣を張っていた。』(1サムエル記13:15-16)
サムエルは、サウルを置いて行ってしまった。
サムエルが来ていけにえを捧げるまで待て、と言われていたのに待ちきれず、身勝手に自分でいけにえを捧げ、主にそむいてしまったためだ。
これから何を為すべきか、という示しを何も頂けないまま、サムエルに去られてしまったが、それでもペリシテ人は容赦なく迫ってくる。
ペリシテ人達は、三組に分かれて、イスラエル領土内を荒らしに来ていたが、サウルに付き従う人々は既に大勢逃げてしまい、今や、六百人ほどになってしまった。
しかも、武器を持っているのは、サウルとヨナタンだけだった。なぜなら、ペリシテ人はイスラエルに武器を作らせないようにと、鍛冶を禁じていたからだ。
イスラエルに敵するペリシテは、戦車3万に、騎兵6千、歩兵は海辺の砂粒のように多い。
誰がどう見ても、イスラエルに勝ち目が無い状況である。
この時、再びヨナタンが行動を起こす。
『ある日、サウルの子ヨナタンは、その武器を執る若者に「さあ、われわれは向こう側の、ペリシテびとの先陣へ渡って行こう」と言った。しかしヨナタンは父には告げなかった。』(1サムエル記14:1)
この戦いが始まったのも、そもそも彼がペリシテの守備隊長を打ったのが発端だった。
彼は、父サウルには黙ってペリシテ人の先陣へと行った。
なぜ父サウルに黙って行ったのだろう。
後の箇所を見るとわかるが、サウルは民に無意味な制約を科したり、いらぬ所で変な命令を出したり、あるいはそれを翻したりして、民を右往左往させる事をしきりに行うのだが、すでにその徴候があったのかもしれない。それでヨナタンは、父に何も知らせずに行ったのかもしれない。
『サウルはギベアのはずれで、ミグロンにある、ざくろの木の下にとどまっていたが、共にいた民はおおよそ六百人であった。またアヒヤはエポデを身に着けて共にいた。アヒヤはアヒトブの子、アヒトブはイカボデの兄弟、イカボデはピネハスの子、ピネハスはシロにおいて主の祭司であったエリの子である。民はヨナタンが出かけることを知らなかった。』(1サムエル記14:2-3)
アヒヤは、かの悪名高きエリの子ピネハス、聖徒の捧げ物をかすめ奪って聖所でみだらな事をした、あの祭司・ピネハスの孫で、ピネハスが死んだ日に生まれたイカボテ(栄光なしという意味)の兄・アヒトブの子であり、エリの「ひ孫」にあたる。
サウルは、神に伺いを立てる祭司を近くに呼び寄せていたが、それはサウルには、あまり意味をなしていない事が後に明らかになる。
サウルは、ざくろの木の下で、何の手立てもなくただじっとして、民がこっそり逃げて行くにも手をこまねいているだけの状況だったが、ヨナタンの心には、サウルとは別の思いがあった。
こんな時機に、父サウルと一緒に手をこまねいていても、主は何も働かれない、自分で信仰による行動した方がいい、そう思って、父に黙って出かけたのだろう。
不信仰の愚かな者が、支配権を握っている時、その配下の信仰者が、不信仰の者に黙って行動する、という事は、確かにある。ナバルに対してのアビガイルもそうだった。(1サムエル記25章)
ペリシテの略奪隊は、既に三組に分かれて、イスラエルをなぶり始めている。
ヨナタンは彼らを「割礼なき者ども」と見、主は神の民をなぶる者達を必ず滅ぼしてくださると、信頼して出て行った。
それは、信仰なき者が見るなら無謀以外の何者でも無い。父が聞くなら、当然止める事だろう。
だから、父に内緒で行ったのだ。
主を知らず、生まれながらの感性や価値観で生きている「生まれながらの人」は、「霊の人」の信仰の行動を、愚かと見なす。
『生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない。しかし、霊の人は、すべてのものを判断するが、自分自身はだれからも判断されることはない。「だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか」。』(1コリント2:14-16)
御霊にある人は、肉にある人には想像もできないような事業を為し、そしてそれは成功し、その全ての行程において、神が栄光をお受けになるのだ。
ヨナタンのその信仰の行動が、再び、イスラエルと敵とを、大いに揺り動かす。
世を支配しておられるのは主であるが、主はどういうわけか、主を畏れ敬う人達の、信仰にある行動を用いて、世界を動かして行く。
信仰によって御言葉に従順し、主の御胸を行い、いのちで満たしていく事に用いられていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!