• カテゴリ 礼拝メッセージ説教音声配信 の最新配信
  • RSS
  • RDF
  • ATOM

メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:待つ事が出来なかったサウル(1サムエル記13:1-14):右クリックで保存

『サウルは三十歳で王の位につき、二年イスラエルを治めた。』(1サムエル記13:1)

この1節の原文は、どう訳して良いのか難解な文となっており、訳し方が多岐に分かれる所である。
口語訳や新改訳では、三十歳で王の位についた、とあるが、脚注にある通り、それは「推定」であって正確ではない。
ちなみに原文をそのまま並べると、「子(血筋) 年 サウル 中で 統治する と 二つの 年 統治する 上に イスラエル」となっており、どのように意味を汲んで良いのか正確な所が分からない。

サウルが何年王として統治し影響力を振るったのかは、正確な所は分からないが、ひとつ明らかな事は、彼の統治は「短かった」事だ。
なぜなら、サウルは主の道を歩まなかったからである。
この箇所では、サウルはまだ王となったばかりであるが、早速、主の道に歩まない性質が現れはじめる。

『さてサウルはイスラエルびと三千を選んだ。二千はサウルと共にミクマシ、およびベテルの山地におり、一千はヨナタンと共にベニヤミンのギベアにいた。サウルはその他の民を、おのおの、その天幕に帰らせた。ヨナタンは、ゲバにあるペリシテびとの守備兵を敗った。ペリシテびとはそのことを聞いた。そこで、サウルは国中に、あまねく角笛を吹きならして言わせた、「ヘブルびとよ、聞け」。』(1サムエル記13:2-3)
神の民の敵・ペリシテに、最初に戦いを挑み、そして勝利したのは、サウルの子・ヨナタンだった。彼は手勢の1000人を引き連れ、守備兵を破った。
その事は、イスラエルにも、敵にも、動きを起こさせる事となった。

それにしても、サウルはなぜこの時、「イスラエルよ」と呼びかけずに、「ヘブルびとよ」と呼びかけたのだろう。
14:21を見ると分かるが、ヘブル人でありながら、神の民イスラエルに逆らい、ペリシテについた者もいた。だから、いわゆる「神の民イスラエル」へ限定した呼びかけではなく、ヘブル語がわかる者なら誰であっても聞け、という事だったのかもしれない。

『イスラエルの人は皆、サウルがペリシテびとの守備兵を敗ったこと、そしてイスラエルがペリシテびとに憎まれるようになったことを聞いた。こうして民は召されて、ギルガルのサウルのもとに集まった。 』(1サムエル記13:4)
ペリシテの守備兵を破ったのは、ヨナタンだったはずだが、なぜか「サウルがペリシテびとの守備兵を敗った」事が、イスラエル中に広まった。
後のサウルの言動を見ると分かるのだが、彼は、人の手柄は自分のものにし、自分の都合が悪い事は人のせいにする性質がある。

『ペリシテびとはイスラエルと戦うために集まった。戦車三千(原文:三万)、騎兵六千、民は浜べの砂のように多かった。彼らは上ってきて、ベテアベンの東のミクマシに陣を張った。イスラエルびとは、ひどく圧迫され、味方が危くなったのを見て、ほら穴に、縦穴に、岩に、墓に、ため池に身を隠した。また、あるヘブルびとはヨルダンを渡って、ガドとギレアデの地へ行った。しかしサウルはなおギルガルにいて、民はみな、ふるえながら彼に従った。』(1サムエル記13:5-7)
イスラエルの軍隊は、三千。それに比べ、ペリシテが戦うために出てきたのは、戦車の数だけで、イスラエルの数を上回っている。
それで人々は、逃げ隠れした。
サウルが守備隊を破った、というだけ取り上げていたなら、サウルの(本当はヨナタンの)手柄で沸き立っていたであろうが、それがペリシテを怒らせ、大軍を呼び覚ましてしまった、となっては、大変な事になったと思っただろう。
人々はこの大軍を前に、震えるしかなかった。

しかし今まで、神の民・イスラエルに対して敵が圧倒的勢力で攻めて来た事は、幾度もあった。
例えばギデオンの時は、わずか三百人で、十三万五千の敵を圧倒した。
神の国の戦いは、兵力や装備による戦争ではなく、神ご自身が戦われるか、闘われないか、によって、勝敗が決まってきた。だからサウルに必要な事は、兵や装備をつのる事ではなく、ただ勝利の主に信頼する事だけだった。
しかしサウルは誤った事をしてしまう。

『サウルは、サムエルが定めたように、七日のあいだ待ったが、サムエルがギルガルにこなかったので、民は彼を離れて散って行った。そこでサウルは言った、「燔祭と酬恩祭をわたしの所に持ってきなさい」。こうして彼は燔祭をささげた。』(1サムエル記13:8-9)
サウルはここで、二つの罪を犯している。
祭壇で主にいけにえを捧げる行為は、レビ族しか許されていないはずだが、それを行ってしまった事、そして、サムエルを待たずに自分勝手に行動してしまった事だ。

『その燔祭をささげ終ると、サムエルがきた。サウルはあいさつをしようと、彼を迎えに出た。その時サムエルは言った、「あなたは何をしたのですか」。サウルは言った、「民はわたしを離れて散って行き、あなたは定まった日のうちにこられないのに、ペリシテびとがミクマシに集まったのを見たので、わたしは、ペリシテびとが今にも、ギルガルに下ってきて、わたしを襲うかも知れないのに、わたしはまだ主の恵みを求めることをしていないと思い、やむを得ず燔祭をささげました」。』(1サムエル記13:10-12)

サウルは、民は彼を離れて散って行くのを見て、これ以上民が離れて行かないようにするため、アピール目的でいけにえを捧げたのだ。
燔祭とは全焼のいけにえであり、自分の全てを捧げます、という主に対する意思表示のはずだが、彼の場合、主に対する信仰は一切無く、ただ人をつなぎとめるための「動物焼きパフォーマンス」に過ぎなかった。
それは、主の御前に悪でしか無い。

『サムエルはサウルに言った、「あなたは愚かなことをした。あなたは、あなたの神、主の命じられた命令を守らなかった。もし守ったならば、主は今あなたの王国を長くイスラエルの上に確保されたであろう。しかし今は、あなたの王国は続かないであろう。主は自分の心にかなう人を求めて、その人に民の君となることを命じられた。あなたが主の命じられた事を守らなかったからである」。』(1サムエル記13:13-14)

サムエルがかつてサウルに命じたのは、『あなたはわたしに先立ってギルガルに下らなければならない。わたしはあなたのもとに下っていって、燔祭を供え、酬恩祭をささげるでしょう。わたしがあなたのもとに行って、あなたのしなければならない事をあなたに示すまで、七日のあいだ待たなければならない」。』(1サムエル記10:8) であった。
サムエルが来ていけにえを捧げたなら、サウルがその後しなければならない事が、主から告げられる、はずだった。
しかし、彼が主を待たず、身勝手な事をしてしまった今となっては、次なる主の示しは与えられない。

しかし、このただ一度の失敗で、もはや永遠に手遅れ、という訳ではない。
サムエルが言ったのは「今は、あなたの王国は続かない」であって、「もう決して、あなたの王国は続かない」ではない。
実際、サウルは敗者復活のチャンスが後に与えられる。

終わりの時代、患難の時がやって来る。
その時、主を忍耐して待たなければならないが、それは人が思っているよりも遅い事が、あらかじめ主から示されている。(2ペテロ3:9)
主を待ち望め、それは旧約でも新約でも共通する命令である。
いかに「遅い」と思えるようであっても、主が「待ち望みなさい」と言われたからには待つべきであって、サウルのように焦って、ひとりよがりの行動してはならない。

礼拝説教メッセージ音声:不真実な民を養う事を止めないサムエルと主(1サムエル記12:16-25):右クリックで保存

サムエルは、イスラエルがモーセの時以来、いかに主に対して不真実に歩んできたかを指摘し、それに加えて、王を求めるという罪まで犯した事を指摘した。

『それゆえ、今、あなたがたは立って、主が、あなたがたの目の前で行われる、この大いなる事を見なさい。きょうは小麦刈の時ではないか。わたしは主に呼ばわるであろう。そのとき主は雷と雨を下して、あなたがたが王を求めて、主の前に犯した罪の大いなることを見させ、また知らせられるであろう」。そしてサムエルが主に呼ばわったので、主はその日、雷と雨を下された。民は皆ひじょうに主とサムエルとを恐れた。』(1サムエル記12:16-18)

イスラエルには雨季と乾季があり、小麦の刈り入れ時、すなわち、6月頃は雨は降らないはずなのだが、サムエルが祈り求めると、主は雷と雨がくだされた。
それは、あり得ない天気である。
サムエルがありえない時期に雷と雨を呼び求め、そして主がそれに応えられたのは、イスラエルの民がいかに主を無視し、主に罪を犯したかを示すためであり、また、主は呼び求めるなら答えてくださるお方であると示すためでもある。

『民はみなサムエルに言った、「しもべらのために、あなたの神、主に祈って、われわれの死なないようにしてください。われわれは、もろもろの罪を犯した上に、また王を求めて、悪を加えました」。』(1サムエル記12:19)
イスラエルの民は恐れ、自分達が主の御心を損ねた事を明確に告白した。
そして、主から災いが降されないよう祈り求めるように、サムエルに願った。

私達も、罪が示された時、具体的にそれを告白して悔い改めているだろうか。
そして、それを改めるための行動を起こしているだろうか。
私達は、主の愛の広さ、高さ、長さ、深さをますます理解できるよう、その理解力が与えられるように祈る必要があるが、それと同時に、自分達がいかに主を悲しませ、御旨を損ねて来たかも理解できるよう、祈り求める必要がある。

『サムエルは民に言った、「恐れることはない。あなたがたは、このすべての悪をおこなった。しかし主に従うことをやめず、心をつくして主に仕えなさい。むなしい物に迷って行ってはならない。それは、あなたがたを助けることも救うこともできないむなしいものだからである。』(1サムエル記12:20-21)
サムエルは、恐れてはならない、と言った。
民は確かに罪を犯した。しかし主に従って歩むなら、主は赦してくださる、と。

主はなぜ赦して下さるのか。
それは、自分達が主に対して罪を犯し、御心を損ねた事を正確に認知し、具体的にそれを告白し、救われたいと願ったからだ。
このように、罪の赦しと、神との和解とは、無条件のものではない。自分の罪を告白し、悔い改めの意思表示をして、はじめて与えられるものである。
『もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、彼をいさめなさい。そして悔い改めたら、ゆるしてやりなさい。もしあなたに対して一日に七度罪を犯し、そして七度『悔い改めます』と言ってあなたのところへ帰ってくれば、ゆるしてやるがよい」。』(ルカ17:3-4)
悔い改め無き赦しは、ありえない。
しかし、もし「悔い改めます」と言って一日に七度でも来るなら、七度でも赦すべきなのだ。

『主は、その大いなる名のゆえに、その民を捨てられないであろう。主が、あなたがたを自分の民とすることを良しとされるからである。』(1サムエル記12:22)
主は、主の御名のプライドにかけて、イスラエルの民を捨てる事をされない。
確かにイスラエルはかたくなな民であり、主に罪を犯し続ける事も、かたくなに止めないものだが、それでも主が捨てられないのは、「主が、あなたがたを自分の民とすることを良しとされるから」である。

『また、わたしは、あなたがたのために祈ることをやめて主に罪を犯すことは、けっしてしないであろう。わたしはまた良い、正しい道を、あなたがたに教えるであろう。』(1サムエル記12:23)
サムエルもまた、イスラエルのために、執り成し祈る事を止めて「主に罪を犯す」わけにはいかない、と言った。
サムエルからすれば、イスラエルはずっと主に罪を犯し続けてきたのを、彼は若い時からずっと見て来て、もううんざりしていた事だろう。
もうそろそろ、投げ出してしまいたい、と思っていたかもしれないが、それでも、祈りをやめる事はしなかった。祈る事を止めるのは、主に罪を犯すことである、として。
私達も、家族や仕事場、友人知人のため、そしてこの国のために、祈る事をストップするべきではない。

『あなたがたは、ただ主を恐れ、心をつくして、誠実に主に仕えなければならない。そして主がどんなに大きいことをあなたがたのためにされたかを考えなければならない。しかし、あなたがたが、なおも悪を行うならば、あなたがたも、あなたがたの王も、共に滅ぼされるであろう」。』(1サムエル記12:24-25)
ここに、二つの道が示されている。
「ただ主を恐れ、心をつくして、誠実に主に仕え」るか。それとも、「なおも悪を行う」か。
主に誠実に心を尽くして仕えるなら、末永く幸いを得る。しかし「なおも悪を行うならば、あなたがたも、あなたがたの王も、共に滅ぼされる。」

もはや主を悲しませる歩みを止めて、主を喜ばせる歩みをし、主が喜んで祝福を注いで下さるような者へと変えられていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:主は真実を、人は不真実を、尽くして来た(1サムエル記12:6-15):右クリックで保存

前回のところでは、サムエルが今までイスラエルをいかに真実に導いて来たかを証し、人々もそれに同意したが、今回の所では、主がイスラエルに対しいかに真実を尽くして導いてこられたかを、思い起こさせている。

『サムエルは民に言った、「モーセとアロンを立てて、あなたがたの先祖をエジプトの地から導き出された主が証人です。それゆえ、あなたがたは今、立ちなさい。わたしは主が、あなたがたとあなたがたの先祖のために行われたすべての救のわざについて、主の前に、あなたがたと論じよう。』(1サムエル記12:6-7)

私達も、主がいかに良くしてくださったかを、事あるごとに思い起こす必要がある。
主は、私達のために、いかに良い事をはからい、私達を愛され、贖いの御業を為してくださったか。
主はそれを為し遂げるために、十字架上でどれほど傷まれ、うめかれ、苦しまれたか。
主が私達に為して下さった事は、ことごとく真実であったと、私達も証するべきなのだ。

『ヤコブがエジプトに行って、エジプトびとが、彼らを、しえたげた時、あなたがたの先祖は主に呼ばわったので、主はモーセとアロンをつかわされた。そこで彼らは、あなたがたの先祖をエジプトから導き出して、この所に住まわせた。』(1サムエル記12:8)
主は、エジプトで苦しめられているイスラエルを助けられた。
彼らが主に向かって叫び、助けを求めたからだ。
主は当初からイスラエルにいつも真実を尽くして来られたが、そのイスラエルは、主に対して不真実で答えて来た。

『しかし、彼らがその神、主を忘れたので、主は彼らをハゾルの王ヤビンの軍の長シセラの手に渡し、またペリシテびとの手とモアブの王の手にわたされた。そこで彼らがイスラエルを攻めたので、民は主に呼ばわって言った、『われわれは主を捨て、バアルとアシタロテに仕えて、罪を犯しました。今、われわれを敵の手から救い出してください。われわれはあなたに仕えます』。主はエルバアルとバラクとエフタとサムエルをつかわして、あなたがたを周囲の敵の手から救い出されたので、あなたがたは安らかに住むことができた。』(1サムエル記12:9-11)
申命記においてモーセが口を酸っぱくして言った事は、主の御声に聞き従い、それを守り行いなさい、という事であり、もし聞き従わずに主を捨てるなら、必ず災いが起こるという事も、何度も言って来た。
しかし彼らは、「してはならない」と言われた事を敢えて「して」、「行ってはならない」と言われていたの所に敢えて「行った」ため、当然のごとく、災いが身に降り掛かった。

しかし彼らが『われわれは主を捨て、バアルとアシタロテに仕えて、罪を犯しました。今、われわれを敵の手から救い出してください。われわれはあなたに仕えます』と言った時、彼らが主に為して来た所業にも関わらず、主は豊かに赦し、主は士師を遣わしてイスラエルを助けられた。
御言葉はまさに、法則そのものである。
御言葉に従って歩むなら、主守りの内に幸いに栄えるが、主と主の御言葉に背き、してはならないと言われている事を敢えてするなら、必ず災いを受ける。
しかし、そこからさらに立ち返るなら、主は豊かに許してくださる。
主こそまさに、憐れみ深いお方である。

そして12節以降で、サムエルは、イスラエルがまさに「している」事について言っている。
『ところが、アンモンびとの王ナハシが攻めてくるのを見たとき、あなたがたの神、主があなたがたの王であるのに、あなたがたはわたしに、『いいえ、われわれを治める王がなければならない』と言った。それゆえ、今あなたがたの選んだ王、あなたがたが求めた王を見なさい。主はあなたがたの上に王を立てられた。』(1サムエル記12:12)

イスラエルはかつて、王を求めた事は無かった。主が王であったからだ。
しかしこの度、イスラエルは、今まで真実に導いて来られた主を無視し、人間の王を求めたのだ。
たとえるなら、心砕いて養って来てくれたお母さんを目の前にして、「いや、自分には養ってくれるお母さんが必要なのだ」などと言っているようなものである。
イスラエルは、主を無視して王を求める、という罪を犯した、にも関わらず、主は彼らを見捨てず、真実を尽くして下さる。

『もし、あなたがたが主を恐れ、主に仕えて、その声に聞き従い、主の戒めにそむかず、あなたがたも、あなたがたを治める王も共に、あなたがたの神、主に従うならば、それで良い。しかし、もしあなたがたが主の声に聞き従わず、主の戒めにそむくならば、主の手は、あなたがたとあなたがたの王を攻めるであろう。』(1サムエル記12:14-15)
イスラエルは、王が自分達を正当に守り導いてくれると夢見ていたが、王たる者や指導者たる者が必ずしも間違えずに正当に導くとは限らないし、彼らが主に真実に従うとは限らない。
牧師や教職者といえども、人は皆、間違った道へと人々を導いてしまう可能性を秘めているのだ。

確かに地上には、服すべき指導者や王がいる。
しかし、私達が最も優先して服すべきは、御言葉であられるキリストだ。

ベタニヤの兄弟姉妹 - 永遠の記念の宴会(ヨハネ12:1-8)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
賛美集会音声:右クリックで保存
第二礼拝・礼拝音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

イエス様はエルサレムからさほど遠くないベタニヤのマルタ・マリヤ・ラザロの家に好んで出入りしていた。
エルサレムでは、パリサイ人や律法学者などを相手にする、対決的な働きが多かったのに対し、きっとベタニヤの家は、イエス様にとっては安心してくつろげる場所だったのだろう。
イエス様によみがえらせてもらったラザロの話を前回少し見たが、それ以降、彼らはそれ以降、前にも増してイエス様を純粋に愛し、より真心と愛を込めた「宴会」を、王なるイエス様に設けるようになった。
マルタはかつて、イエス様の足元で御言葉に聞き入っているマリヤを指して自分の手伝いをするようイエス様に指図して逆にたしなめられたが、ラザロをよみがえらせて頂き、イエス様こそ全ての全てであり、彼のなさる事は何もかもが素晴らしいと知って、彼女は、そのもてなしの賜物をより純粋に発揮するようになった。
ラザロも、死んでいた所を蘇らせていただき、今、イエス様と、仲の良い兄弟姉妹達と、食事を共にして、死から救われたいのちを喜び噛み締めつつ、宴会を楽しんでいた。
そして、いつもイエス様の足元で御言葉に聞き入っていたマリヤは、高価なナルドの香油を彼に捧げた。

死から救い出して下さった。いのちの喜びを教えて下さった。よみがえりであり、いのちであられるこのお方の、何もかもが素晴らしい。しかし、そのイエス様が言うには、もうすぐ人々から捨てられ、十字架につけられてしまうという。彼女はだから、葬りのために、自分が取っておいたものの中で一番高価なナルドの香油を自分には一滴も残さず、捧げ尽くし、主が働き歩んできた「足」に塗って、女の冠である髪でぬぐった。
尊くてやまないイエス様には、持てるものを注ぎ尽くしても、足りない。それが成熟した信仰者の姿である。
彼女の、主への尊敬と愛、信仰を、そのナルドに混ぜて注ぎ尽くしたその香りは、主の御前にいっそう高価で尊くなり、その香りは家全体に満ち、天に登り、そして、永遠の記念として全世界に広がった。
それはまさしく、主に捧げられる最高の宴会であり、私達も、尊くてやまないイエス様に愛と尊敬を混ぜ、持てる最高のものを捧げる時、それはナルドの香りとなって天に立ち昇り、永遠の記念として残るのだ。

しかし、主に宴会を捧げる時、敵もまた、そこに”いる”事を、私達は今年学んでいる。
イエス様を裏切るイスカリオテ・ユダが、しゃしゃり出て来て言った。 「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか。」 彼が言った事は尤もらしく聞こえるが、彼は貧しい人を心にかけていたのではなく、聖徒の捧げ物をいつも横領し、その三百デナリも、自分のものにしたかったのだ。
主ではなく、聖徒の礼拝や交わりを見て、分析し、値定めし、口出しするような者は、要注意だ。
このような者はイエス様が主ではなく、イエス様にひっついて活躍する自分が主人公であり、もしイエス様が自分の思い通りに動かないとするなら、平気でイエス様を銀貨30枚に替えて売り飛ばすのだ。

この、香り高いベタニヤの宴会をかき乱したユダの下心も、あさましい動機も、当然イエス様は知っていた。
永遠の記念となる聖なる宴会にドロを塗った事に、怒りを露わにしてもいいとも思えるが、そんな事をしたら、マリヤ達のせっかくの尊い奉仕にドロを塗ってしまう事となり、悪魔サタンの思うツボである。
イエス様は、平和のおもむきでユダに諭した。「わたしはいつも共にいるわけではない」(8節)
確かにこの時、ユダも同席しているが、ユダやハマンなどの敵がいつまでも宴会に同席する訳ではない。
彼らが、聖徒の催した宴会の聖なる空気に触れられ、悔い改め、邪悪で汚れた性質を捨て去るなら、新しく造り変えられた者として、いのちを得る。主はそれを望まれる故に、敢えて彼らの同席を許される。
しかしあくまで自分の行いを改めず、相変わらず宴会を汚す役に徹するなら、その者はやがて追い出されて行く。それは私達がどうこうする事ではなく、主がなさる事であり、私達はただ、ベタニヤの兄弟姉妹のように、主の喜びとなる最高の宴会を設けるのみである。ユダのような浅ましい人間が、聖なる香り高い礼拝や奉仕に、汚物を塗るような事は、確かにあるが、私達はそれに対し、怒りや悪で報いてはいけない。
『だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。・・・悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。』(ローマ12:17,21)
自分を裏切る者を前にしても怒らず、悪で悪に報いなかったイエス様の品性を私達も身につけ、敵の面前で幸いな宴会を主から設けていただく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
主を記念し覚える集まり(1コリント11:23-26):右クリックで保存
祈り会音声:右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
七を七十倍するまで赦しなさい、とは?(マタイ18:21-35):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
主が耐えられない程忌み嫌う礼拝(イザヤ1:10-20)(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存

【概要】

この説教は、イザヤ書1章10-20節を基に、主に喜ばれる真の礼拝について語っています。

【聖書箇所】

イザヤ書1章10-20節

【戒めの言葉】

虚しい礼拝や見せかけの信仰を捧げることを戒めています。

【勧めの言葉】

主の前に出て、主と論じ合い、悔い改めて清められることを勧めています。

【悔い改めの促しの言葉】

罪を認識し、主の前に出て悔い改め、清められることを促しています。

【***詳細***】

この説教は、イザヤ書1章10-20節を基に、主に喜ばれる真の礼拝について語っています。説教者は、イスラエルの民がソドムやゴモラと同じように罪深くなっていたことを指摘し、彼らの礼拝が主に喜ばれないものとなっていたことを説明します。

まず、10-11節で、主は彼らの多くの生贄を喜ばないと述べています。「あなた方の多くの生贄は、私に何になろう、と主は仰せられる。私は、お羊の全焼のいけにえや、肥えた家畜の脂肪に飽きた。」これは、形式的な礼拝や儀式が主の心を満たさないことを示しています。

12-15節では、主は彼らの礼拝や祭りを重荷に感じ、彼らの祈りを聞かないと言っています。「あなた方の新月の祭りや礼祭を私の心は憎む。それは私の重荷となり、私は担うのに疲れ果てた。」これは、心からの悔い改めや信仰がない状態での礼拝や祈りは、主に受け入れられないことを示しています。

特に15節では、「あなた方が手を差し伸べて祈っても、私はあなた方から目をそらす。どんなに祈りを増し加えても聞くことはない。あなた方の手は血まみれだ。」と厳しく述べられています。これは、罪を悔い改めずに捧げる祈りは聞かれないことを意味しています。

しかし、16-17節で主は解決策を提示します。「洗いきよめよ。自らを清くせよ。わたしの目の前から、あなたがたの悪い行いを取り除け。悪を行うのをやめ、善を行うことを学べ。」これは、悔い改めと善行の実践を求めるものです。

18節は非常に重要な約束を含んでいます。「さあ、来たれ。共に論じ合おう。─主は言われる─ たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」この箇所は、真摯な悔い改めと主との対話を通じて、どんな大きな罪も赦されうることを示しています。

説教者は、この「論じ合う」ということの重要性を強調しています。単に形式的に教会に来るのではなく、主と真剣に向き合い、対話することの必要性を説いています。

19-20節では、従順さの重要性が語られています。「もし、すすんで聞き従うなら、あなたがたは地の良い物を食べることができる。しかし、もし拒んで逆らうなら、剣に食べられる。」これは、主の言葉に従順であることの祝福と、不従順の結果を明確に示しています。

説教の結びでは、私たちが「ミミズ」のような罪深い状態から、主の赦しによって「羊」のように清められ、主に導かれる者となることができると励まします。

この説教全体を通じて、形式的な礼拝や祈りではなく、心からの悔い改めと主との真摯な対話、そして従順な生活の重要性が強調されています。

【結論】

真の礼拝は、形式的なものではなく、心からの悔い改めと主との真摯な対話、そして従順な生活から生まれます。私たちは自分の罪を認識し、主の前に出て清めを求め、主に喜ばれる生き方を実践していくべきです。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
つくばエクレシア礼拝(1列王記17:17-24):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
義人の祈りは働くと力がある(ヤコブ5:13-20):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:霊的指導者の引き際(1サムエル記12:1-5):右クリックで保存

モーセも、ヨシュアも、引退する時には全イスラエルを呼び集めて、最後のメッセージをしたが、サムエルもこの章で引退メッセージをしている。

とは言っても、サムエルはそれで引退してめでたく隠居生活に入ったわけではなかった。
サウルが主の道を正しく歩まないために、色々と世話しなくてはならない事がまだまだ起こってしまうからである。
なにしろサウルは、サムエルが死んだ後さえ、口寄せを呼び寄せてまでサムエルから助言を得ようとしたほどだった。

『サムエルはイスラエルの人々に言った、「見よ、わたしは、あなたがたの言葉に聞き従って、あなたがたの上に王を立てた。見よ王は今、あなたがたの前に歩む。わたしは年老いて髪は白くなった。わたしの子らもあなたがたと共にいる。わたしは若い時から、きょうまで、あなたがたの前に歩んだ。』(1サムエル記12:1-2)
サムエルは、子供の時から主の言葉を伝える者として働き、イスラエルを導いてきたが、今や、サウルが油注がれ、イスラエルを導く王となった。

この時、サムエルが後継者として立てた彼の子達は、指導者の座から降りて一般人のようになっていたようだ。
サムエルは、子がわいろを取り、指導者として相応しくない行動を取ったとあれば、彼らをその座から降ろして、主に油注がれたサウルへと支配権を渡したのだろう。
サムエルは確かに子を霊的に純潔に育てる事はできなかったかもしれないが、祭司エリとは違い、子をそのまま支配の座につかせて続けて、罪を犯させる事を、させなかった。
私達もそのような潔さが必要である。

『わたしはここにいる。主の前と、その油そそがれた者の前に、わたしを訴えよ。わたしが、だれの牛を取ったか。だれのろばを取ったか。だれを欺いたか。だれをしえたげたか。だれの手から、まいないを取って、自分の目をくらましたか。もしそのようなことがあれば、わたしはそれを、あなたがたに償おう」。彼らは言った、「あなたは、われわれを欺いたことも、しえたげたこともありません。また人の手から何も取ったことはありません」。』(1サムエル記12:3-4)
サムエルは、もし自分に何か不正や責められるべき所があるなら、言ってみなさいと、堂々と言えたし、民もまたそれを見出さなかった。。
パウロも、死を覚悟した時、エペソの長老たちを呼び寄せて最後のメッセージしたが、その内容はサムエルのメッセージと重なる所が多い。

『わたしはいま信じている、あなたがたの間を歩き回って御国を宣べ伝えたこのわたしの顔を、みんなが今後二度と見ることはあるまい。だから、きょう、この日にあなたがたに断言しておく。わたしは、すべての人の血について、なんら責任がない。神の御旨を皆あますところなく、あなたがたに伝えておいたからである。』(使徒20:25-27)
霊的指導者の責任は、主の御心をあます所なく伝えるまでである。
だから、キリスト者が為すべきは、慈善活動よりも、むしろ御言葉をあます所なく伝える事であり、その伝える中には当然、何が罪であり、罪を続ける結果の裁きや永遠の滅びなど、人が聞いて痛いような事も含まれ、そして、それからの救いは、主イエス・キリスト以外には誰もいない事を、はっきり伝えるべきである。

『だから、目をさましていなさい。そして、わたしが三年の間、夜も昼も涙をもって、あなたがたひとりびとりを絶えずさとしてきたことを、忘れないでほしい。今わたしは、主とその恵みの言とに、あなたがたをゆだねる。御言には、あなたがたの徳をたて、聖別されたすべての人々と共に、御国をつがせる力がある。』(使徒20:31-32)
主にある弟子訓練とは、一緒にいる時は御言葉をしっかり伝え、分かれるべき時が来たなら御言葉にその人をゆだねる事であり、決して自分色や教団色に染める事ではない。言ってみればキリスト色に染める事であり、それには御言葉への従順が不可欠である。

牧師や教職者など、霊的指導する立場にある人は、次のように断言出来るだろうか。
『わたしは、人の金や銀や衣服をほしがったことはない。あなたがた自身が知っているとおり、わたしのこの両手は、自分の生活のためにも、また一緒にいた人たちのためにも、働いてきたのだ。わたしは、あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならないこと、また『受けるよりは与える方が、さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである」。』(使徒20:33-35)

私達はいつも主にあって走るべき道のりを熱心に走り、引くべき時には潔く引き、その時は、堂々と次のように言える者でありたい。
『サムエルは彼らに言った、「あなたがたが、わたしの手のうちに、なんの不正をも見いださないことを、主はあなたがたにあかしされる。その油そそがれた者も、きょうそれをあかしする」。彼らは言った、「あかしされます」。』(1サムエル記12:5)

メインメニュー
礼拝ライブ中継

礼拝ライブ中継!

礼拝ライブ中継!

過去の礼拝映像も視聴できます

メッセージ
このページを紹介!

 
 
 
礼拝週報
メッセージ音声
携帯メールで毎日メッセージを購読!無料!

以下コードを読み込み、空メールを送信すれば登録できます。

パソコン/ウィルコム/スマートフォンで受信:以下にメールアドレスを入力下さい。

メルマガ購読・解除
日々のバイブルメッセージ
   
バックナンバー
powered by まぐまぐトップページへ
Podcast

以下画像をitunesへドラッグすれば、更新が自動的にPodcast配信されるようになります。

※2020/1/1より以前に登録された方は、再度、以下Podcast画像をitunesへドラッグする必要があります。

 主日礼拝ポッドキャスト

定期祈祷会ポッドキャスト

その他音声 ポッドキャスト

検索
Copyright ©Yokohama Voice of Christ Church 横浜天声キリスト教会
All Rights Reserved.
 〒231-0058 神奈川県横浜市中区弥生町2-17 ストークタワー大通公園?-201
TEL/FAX:045-326-6211

ephes_03-tensei@ yahoo.co.jp
© 2022 Powered by XOOPS Cube 2.1
Welcome Guest