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主日礼拝
神様の縄張りとしきたりから離れないように気をつけよ(創世記16章)
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週報/メッセージ(説教)概要
アブラハムの祝福の法則を学んでいる。古い罪のなわばりとしきたりを出て、主が示された所に留まって礼拝生活を続けるなら、7つの祝福を得られる、という法則が、創世記12:1-3に示されている。彼はその法則通りにした結果、9人の王の頂点になり、もはや、富や力においては満ち足りすぎる程、満ち足りていた。
しかしまだ、肝心の子供が与えられていなかった。彼はその事についての思い煩いを、全て主に打ち明けた所、主は彼と契約を結び、彼の子孫は、必ず空の星々のようになる、と、確かな約束をされた。(15章)
しかし16章で、再び失敗をしてしまう。その失敗の源は、外からのものではなく、内部からのものであった。
神様の御旨は、アブラムとサライという、素晴らしい信仰の夫婦が、一体となって、子々孫々へと信仰の継承をさせて行くものだったのに、「子供がいない」という目先の問題を解決するために、彼らは神の方法でなく、世の方法を採用してしまう。『彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、その名をハガルといった。』(1節)
ハガル。彼女はエジプト出身、すなわち、力で、富で、若さや美で、支配権を「奪う」世界出身の者である。
サラはハガルをアブラハムに与え、彼女に代理で子を産ませる、という、当時の習わしを提案し、アブラハムは妻の声に聞き従って、その通りにした。その結果、後々の子孫に、苦い根を残す事になってしまう。
私達がこれから気をつけるべきは、エジプトの思考を持った人を、要職につけてはならない事である。
サラの提案通りにしてみると、ハガルは、すぐに身ごもった。するとハガルは、エジプト根性が芽生え、女主人に見下た態度を取るようになった。アブラハムは、人生初めての子が、ハガルの胎に宿った事に浮かれ、それを放任した。サラは、何年経っても身ごもらなかったのに、ハガルは一瞬で身ごもったので、ますます惨めになった。結局、神様の平安がどこにも無い家庭となってしまい、当初もくろんだ未来とは、かけ離れた現実となってしまった。神様の示された縄張りとしきたりから、踏み外すと、「ねたみ、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い」といった、肉の実(ガラテヤ5:19-21)を、見事に結んでしまうのである。
サラは、ハガルが自分を見下げるようになったのを、「あなたのせいだ」と言った。そう、アブラハムは、神に聞かず、妻の声に聞き従い、また、女奴隷が「分」を超えて、女主人サラを軽んじるのを、戒めなかった。
もし私達が、何かの「主人」であるなら、配下たる者が分を越え、また、神様の言葉を超えるような事を薦めてきた場合、御言葉を根拠に、正しく治めなくてはならない。それをしないと、家に呪いを招いてしまう。
アブラハムはサラに、ハガルをあなたの好きなようにしなさい、と言った(6節)。それでサラはハガルに辛く当たったので、ハガルは逃げ出した。周囲の人々は、やはりアブラハムこそ家長で、サラこそ女主人であると思い知った。養っている人が、分を超えた態度を取って来たら、しっかり戒め、示しをつけるべきなのだ。
そもそも今回の騒動は、ハガル一人のせいではない。サラは、次世代をもうけるという一大事に、神の方法を捨て、世の方法を取り入れてしまい、アブラハムも、正しく治めなかった。しかし主は憐れみ深い。
身重の身で、やるせない気持ちで逃げていたハガルに、主の使いが現れ、アブラハムの家で再び平和にやっていくチャンスを与えられた。天が宣言する。あなたはしもべで、主人の元で、身を低くすべきだ、と。
ハガルはその時、自分の立場を「サライの女奴隷」と、正しく表明した。それで主は彼女に、子孫の祝福の約束を与えられた。私達も、与えられている立場、正しい主従関係の下に、正しく身を置くなら、祝福されるが、主は、自分の領域を守らず、おるべき所を捨てる者を、永遠に暗闇の下に閉じ込められる(ユダ6節)。
主は、彼女に生まれる子に「イシュマエル(「神は聞かれる」の意味)」という名をつけるよう命じた。それでハガルは、告白した。あなた(主)は、生きておられ、見ておられ、聞いて下さるお方だ、と。(13-14節)
こうして荒野で学んだ彼女は、主の言葉通り、本来あるべき立場・本来あるべき身分に、戻った。
彼女はきっと、その体験を、アブラムとサライに報告しただろう。そして彼女が、「主は聞いておられ、見ておられ、生きておられるお方だ」と、証を聞いた時、夫婦共々、自分達の身勝手さに、恥じ入っただろう。
結局のところ、今回の騒動は、それぞれ神様の縄張りとしきたりから外れた、身勝手な判断や行動をした結果だったが、それら全てを超えて、主は、生きておられ、見ておられ、聞いておられるお方、なのだ。
世の方法には最初から頼らず、主のしきたりとなわばりから離れず、また、世の思考に染まった者には支配権を与えず、ただ、主から任された自分の領域を、正しく支配し、一切の災いを招くことなく、主の平安から外れない、信仰の家を構築して行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
現代の私達に示された、主に対する不従順を続けるなら、滅んでしまうという警告(詩篇78:40-72)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 詩篇
- 執筆 :
- pastor 2021-3-10 11:21
詩篇 講解説教
現代の私達に示された、主に対する不従順を続けるなら、滅んでしまうという警告(詩篇78:40-72)
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前節に続き、イスラエルが神に逆らって来た歴史の数々が、さらに記録されている。
詩篇78:40 幾たび彼らは野で神にそむき、荒野で神を悲しませたことであろうか。
78:41 彼らはかさねがさね神を試み、イスラエルの聖者を「怒らせた(ターヴァー)」。
78:42 彼らは神の力をも、神が彼らをあだからあがなわれた日をも/思い出さなかった。
「怒らせた」と訳されたヘブライ語ターヴァーの元の語の意味は、「削る」「粉々にする」、そこから、「痛む」「悲しむ」「制限する」の意味となる。
全能なる神。強さの極みであられる神を、なんと、痛ませたり、制限したり、心砕かせたりするのだ。この人間という生き物は!
神を痛ませたり、制限したり、心砕かせたりする方法が、40-42節に記されている。
すなわち、神にそむく事によって、試みる事によって、また、神への恩を思い出さない事によって。
私達は絶対に、そのような事を、敢えてしてはならない。
なぜなら神は、神を試みる者を、罰せずにはおかないからだ。
43節から51節にかけては、出エジプト記に記載されている事が、すなわち、主がエジプトに対して降された、10の災いが記されている。
主はなぜ、エジプトに10の災いをもって打ったのか。
それは、彼らが神の民を虐げる事を、400年も続けたからである。
エジプトはかつて、ヤコブの子ヨセフの采配によって、超大国にまでなった、にも関わらず、その恩を仇で返し、400年もの間、神の民イスラエルを虐待し続け、奴隷としてタダ働きさせて搾取し続けた末、男子が生まれたら殺せ、という制度まで立てたのだ。
それでモーセを通して、10度もの警告が与えられた、にも関わらず、頑なになって、イスラエルの民を解放しなかったからだ。
そこで彼らに、最後の災いが起こされた。
詩篇78:51 神はエジプトですべてのういごを撃ち、ハムの天幕で彼らの力の初めの子を撃たれた。
これによって、ようやくパロは、イスラエルの民を解放した。
イスラエルの民は、400年分の積もりに積もった未払い報酬を、一気に得て、エジプトから出ていった。
52-55節には、出エジプトした後から、ヨシュア記に至るまでの、主のして下さった恵みのわざが、記されている。
主は、荒野でその民を養われ、さらに、彼らがカナンに入った時、勝利につぐ勝利をさせて下さった。
しかしその後、イスラエルの民は、早速、その恩を、仇で返すようになった。
56-59節は、おもに、士師記の時代の事が記されている。
この箇所の、動詞だけを見ると、いと高き神を「試み」、これに「そむいて」、そのもろもろのあかしを「守らず」、「そむき去って」、先祖たちのように真実を「失い」、狂った弓のように「ねじれた」とある。
これらの事によって、彼らは神を大いに怒らせ、また、偶像崇拝によって、神のねたみを引き起した。
詩篇78:59 神は聞いて大いに怒り、イスラエルを全くしりぞけられた。
この士師記の時代は、まさに、神様への裏切りと、その罰の災いと、悔い改めと、救いのサイクルであった。
そして彼らは、喉元過ぎれば熱さを忘れ、再び神様を裏切る、という事を、延々と繰り返して行った。
私達の人生は、そんなサイクルを、何度繰り返すだろうか。
もう、主を裏切らず、その過ちを繰り返さない、という決心は、固いだろうか。
詩篇78:60 神は人々のなかに設けた幕屋なる/シロのすまいを捨て、
78:61 その力をとりことならせ、その栄光をあだの手にわたされた。
78:62 神はその民をつるぎにわたし、その嗣業にむかって大いなる怒りをもらされた。
78:63 火は彼らの若者たちを焼きつくし、彼らのおとめたちは婚姻の歌を失い、
78:64 彼らの祭司たちはつるぎによって倒れ、彼らのやもめたちは嘆き悲しむことさえしなかった。
ここでは、士師の時代の最後における、大祭司エリと、その息子たちが、礼拝を退廃させた事に対し、主が為された災いが、書かれてある。
当時、契約の箱はシロに置かれていて、そこで礼拝が捧げられていたが、エリの息子たちは、人々の、神様への捧げものを、肉欲にまみれた手を伸ばして横取りし、しかも、御前で仕える女性たちを汚した。
彼らは、それを戒められても、聞く耳を持たなかった。
それ故、神様は彼らを剣に渡し、その妻はやもめとなって、「イスラエルから栄光は去った」と言った。(1サムエル記4章)
それ以降、シロという礼拝場所からは、主の栄光は離れて行き、そこは廃れて行った。
この、シロに対して主が為された事は、警告である。
エレミヤ7:12 わたしが初めにわたしの名を置いた場所シロへ行き、わが民イスラエルの悪のために、わたしがその場所に対して行ったことを見よ。
7:13 主は言われる、今あなたがたはこれらのすべてのことを行っている。またわたしはあなたがたに、しきりに語ったけれども、あなたがたは聞かず、あなたがたを呼んだけれども答えなかった。
7:14 それゆえわたしはシロに対して行ったように、わたしの名をもって、となえられるこの家にも行う。すなわちあなたがたが頼みとする所、わたしがあなたがたと、あなたがたの先祖に与えたこの所に行う。
7:15 そしてわたしは、あなたがたのすべての兄弟、すなわちエフライムのすべての子孫を捨てたように、わたしの前からあなたがたをも捨てる。
神は、ことごとく悔い改めなかった北イスラエル王国を、ついには捨て去り、南ユダ王国を選ばれた事が、それ以降に記されている。
詩篇78:67 神はヨセフの天幕をしりぞけ、エフライムの部族を選ばず、
78:68 ユダの部族を選び、神の愛するシオンの山を選ばれた。
ヨセフ、エフライム部族は、北イスラエル王国の代表的な部族である。
神は、神を痛め続けて来た北イスラエル王国の、その罪の積み立て分が、主のもうけられた臨界点に達した時、彼らをアッシリヤへと渡し、捨て去った。
その代わりに、南ユダ王国を立てられた。
また、主の臨在が留まる所であったシロは捨て去られ、代わりに、エルサレムに神殿を建てられた。
詩篇78:70 神はそのしもべダビデを選んで、羊のおりから取り、
78:71 乳を与える雌羊の番をするところからつれて来て、その民ヤコブ、その嗣業イスラエルの牧者とされた。
78:72 こうして彼は直き心をもって彼らを牧し、巧みな手をもって彼らを導いた。
ダビデは、主の前に「直き心」だったから、主は選ばれたのだ。
主が彼を選ばれた時は、彼はまだ、誰からも見向きもされず、羊の番をさせられていた少年だった。
神は、全ての人の心を探り、神に対してまっすぐな人を選んで、時代を変える人として、用いられるのだ。その人が、いかに無名で、誰からも見向きもされていなくても。
だから私達も、神様に対して、まっすぐな心をもって、主に仕えるべきである。
この詩篇が書かれた時点では、南ユダ王国は、まだ存続していた。
北イスラエル王国が、ああなってしまったのだから、あなた方・南ユダ王国の皆も、主の御言葉を軽んじる事なく、従順して歩みなさい、という戒めによって、78篇は終わった。
しかし残念ながら、その南ユダ王国も、その後、御言葉を軽んじ続けて来た故、北イスラエル王国の二の舞となって、滅んでしまった。
結局のところ、南ユダ王国も、神に対して逆らい続け、こうしてユダヤ人は切り去られてしまい、そこに、異邦人である私達が接ぎ木されたのだが、パウロは異邦人で救われたローマ人達に、警告している。
ローマ11:19 すると、あなたは、「枝が切り去られたのは、わたしがつがれるためであった」と言うであろう。
11:20 まさに、そのとおりである。彼らは不信仰のゆえに切り去られ、あなたは信仰のゆえに立っているのである。高ぶった思いをいだかないで、むしろ恐れなさい。
11:21 もし神が元木の枝を惜しまなかったとすれば、あなたを惜しむようなことはないであろう。
11:22 神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう。
クリスチャンの中で、たまに、こう言う人がいる。
今は新約時代なのだから、旧約は関係無い、イエス様を一度信じたなら、その人は罪が消されたのだから、もう、救いが取り消される事はない、だから何をしても、罪にはならない、と言う人が。
もし、そんな事が真実なら、果たしてパウロは、書いただろうか。
「高ぶった思いをいだかないで、むしろ恐れなさい。もし神が元木の枝を惜しまなかったとすれば、あなたを惜しむようなことはないであろう。
「そうでないと、あなたも切り取られるであろう。」と。
この詩篇78篇においても、また新約ローマ人への手紙においても、現在の私達に、警告が与えられている。
私達ももし、ユダヤ人がしたように、御言葉を無視し続け、罪を犯し続け、不従順を続けるなら、捨てられてしまうのだ、という事を。
主の恵みの御言葉から、決して離れる事なく、祝福を受け続ける皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
主日礼拝
祝福がバージョンアップし具体的になって行くためには(創世記15章)
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週報/メッセージ(説教)概要
今年に入ってアブラハムの祝福の法則を学んでいる。古い罪のなわばりとしきたりを出て、主の御言葉に示された所に留まり、礼拝生活を続けるなら、7つの祝福を得られる事が創世記12:1-3で示されている。
彼は、留まるべき所に留まった結果、9人の王の頂点になり、メルキゼデクから祝福を受けた(14章)。
そして、ソドムの汚れた富を辞退した彼に、主は、幻の内に彼に臨んで、仰せられた。 『アブラムよ恐れてはならない、わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう』(創世記15:1)
主の幻を見れる人とは、普段から主を慕い求め、切に会いたい、と願う人である(エレミヤ29:12-13)。 礼拝の時間だけでなく、普段の生活で、いつも、見たもの、感じたものの感覚を、全部主に持って行き、主を思う習慣を持つ人に、主は幻で現れて下さる。幻を見た信仰者には、世に、ライバルはいなくなるのだ。
アブラハムは既に、資産や力においては満ち足りていて、世のどんな王にも勝利できる事が分かった。
ただ、この素晴らしい祝福と、素晴らしい神様への信仰を受け継がせるための、子がいない。彼がそれを言うと、主は、言われる。一緒に散歩に行こう、外に出て、天を見上げなさい、そして星を数えなさい、と。
主は言われた。『「あなたの子孫はあのようになるでしょう」。アブラムは主を信じた(アーマン)。主はこれを彼の義と認められた。』(創世記15:5-6) ここのアーマンは、アーメンの元となる動詞で、「建てあげる、サポートする、忠実にする、看護する」の意味があり、また使役態が使われているので、「アブラムは(自分自身を)主へと信じさせた」とも訳せる。 人が義とされるのは、本人自身の意思をフル稼働させ、自分自身を主へと信じ込まさせ、意図して主の言葉をサポートし、建てあげる事による。彼は、星を見なさい、と言われて、いつも見慣れた空を見上げる感覚で見たのではなく、主が言われた故、自らの心を信じさせ、奮い立たせて、見たのだ。すると、闇にキラキラ輝く数え切れない星々が、輝く自分の子々孫々に見えたのだ!
そして心はウキウキし、晴れやかになって、心底アーメンして喜び、神様はそれを、彼の義とされたのだ。
主から受けた言葉を、感動もせず、確認もせず、ただぼんやり受けて過ぎ去らせてはならない。彼はしっかり確認した。「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」(8節)
主からとてつもない、すごい事を言われたからと言って、「そうなんだ、アーメン」と言葉では言っても、実感も感動もしないまま、普段どおりのルーチンワークを続けるなら、ルーチンワーカー以上にはなれない。
自ら、主の言葉に、感動しようと心を奮い立たすべきであり、もし実感が沸かないなら、主に確認すべきだ。
アブラハムは、それが本当なのか、確かなのかを確認した。すると主は、じゃあ契約といこうか、と言われる。
主は契約のために、捧げものを用意せよ、と指示された。捧げものの種類も年齢までも、具体的に。(9節)
『日が沈みかかったころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。』(12-13節) 主は、400年という時を経るまで、四代目になるその時まで、悪辣な者達の「咎が満ちることはない」、と言われた。
現代も悪がはびこっていて、神の民がその奴隷状態であるのを見るかもしれない、主はなぜそれを放置されるのか?それは、その者達が、刑罰を受けるに値するまでの咎が、満ちていないからだ(黙示録6:11)。
悪辣な者達が一見栄えているように見えても、それは、その者達が蓄えたものをそっくりそのまま神の民へと引き渡すためである。神の民は、自分で立てなかった町々や家々、自分で植えなかった畑を得るのだ。
アブラハムは、その400年で子孫が増え、4代目の代では、たった一人だったのが、200万以上へと増えるのだ!それが主の計算である!だから今、私達は、沢山の事は考えなくていい、ただするべき事は、よりすぐりの信仰者の家庭を構築し、子を産んだら、御言葉暗唱のテフィリン教育をして、よりすぐりの信仰者として育てよ!そのシンプルな事が、あなたの子孫が、空の星々のようになるための秘訣なのだ!
そうして主は、アブラハムと契約を結ばれた。彼に与えられる領域は、エジプト川からユーフラテス川まで、渡される民族は、10民族、と、具体的に示された(19-21節)。こうして彼に与えられた祝福は、どんどんバージョンアップし、より具体的になって行く。私達アブラハムの子孫が、空の星のようになるまでには、色々あるけど、最終的に得る地は、エジプトの地のようではなく、山と谷の地、天の雨で潤っている地、主が求められる地で、年の初めから終わりまで主が絶えず目を留めておられる地なのだ(申命記11:10-12)。
人はなぜ神に何度も罪を犯し、神なぜ人を何度も赦し憐れむのか(詩篇78:1-39)
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- 執筆 :
- pastor 2021-3-3 23:16
詩篇 講解説教
人はなぜ神に何度も罪を犯し、神なぜ人を何度も赦し憐れむのか(詩篇78:1-39)
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詩篇78篇表題『アサフのマスキールの歌』
この詩篇には、出エジプトからダビデ時代までの歴史が、それも、主の恵みが注がれたのに、人々はそれに対し、いかに主を無視し失礼を働いて来たか、という歴史が、語られている。
その意図は、北イスラエル王国(エフライム)が、主を軽んじ続けた故に滅んでしまった、その歴史から、教訓を受けて学べ、というものである。
詩篇78:1 わが民よ、わが教を聞き、わが口の言葉に耳を傾けよ。
養いを受けるのに、真っ先に必要な事は、聞くことである事が、最初に宣言された。
詩篇78:2 わたしは口を開いて、たとえを語り、いにしえからの、なぞを語ろう。
78:3 これはわれらがさきに聞いて知ったこと、またわれらの先祖たちが/われらに語り伝えたことである。
これから示されて行く内容は、既に聖書に記されている内容であり、また、ある程度クリスチャンとして教会に通っているなら、既に聞いて来た内容である。
聖書には、救われる法則と、呪われる法則とが書いてあるが、それを単に知っているだけ、というのと、実際に祝福を受ける事とは、別物だ。
聞いているから、知っているから、といって、救われるわけではない。
だから、たとえ「それは何度も聞いた」と言えるような事でも、なおも聞く必要があり、そして何よりも、守り行う必要がある。
詩篇78:4 われらはこれを子孫に隠さず、主の光栄あるみわざと、その力と、主のなされたくすしきみわざとを/きたるべき代に告げるであろう。
78:5 主はあかしをヤコブのうちにたて、おきてをイスラエルのうちに定めて、その子孫に教うべきことを/われらの先祖たちに命じられた。
主は御言葉を、すなわち聖書を、ヤコブの内に、すなわち、イスラエルに与えられ、そしてその子々孫々へと受け継がれて行った。
それは、彼らが神の契約(御言葉)を守り行い、そうして世界に救いをもたらすためであった。
聖書を、一言であらわすなら、どんな言葉になるだろう。
私は、「主は救い」だと思う。
創世記から黙示録まで、主は、人を救う意図でもって人類に関わり、そしてついに、イエス様をこの世に送られた。
イエスのヘブライ語はイエシュア、すなわち、「主は救い」という意味である。
神は、「主は救い」であられるお方を世に遣わして、彼を通して、全人類に救いをもたらして下さった。
詩篇78:6 これは次の代に生れる子孫がこれを知り、みずから起って、そのまた子孫にこれを伝え、
78:7 彼らをして神に望みをおき、神のみわざを忘れず、その戒めを守らせるためである。
78:8 またその先祖たちのようにかたくなで、そむく者のやからとなり、その心が定まりなく、その魂が神に忠実でないやからと/ならないためである。
5-6節で「子孫」というキーワードが3度も繰り返されているように、神の御言葉と信仰を、子どもたちへ、子々孫々へと伝授する事は、私達の人生の中で、最も重要な使命の一つである。
現代の敬虔なユダヤ人の親は、神の命令に従って、子供に必ず神様の御言葉を教えるべき、という使命感を持っている。
彼らは、親としての責任を全うする道とは、どんな時でも、子供に御言葉を教え込む事で、もし、御言葉に従順して生きるような子供に育て上げる前に、死んでしまうとするなら、それは、親としての責任を全うせずして死ぬ事だ、と思っているという。
7節に、重要な3つの動詞が出てくる。
すなわち、神に「望みを置く」、神のみわざを「忘れない」、その戒めを「守る」、であり、それをする理由は、8節の「ならないため」である。
何に「ならないため」か。
それは、「かたくな」にならないため、
「そむく者のやから」にならないため、
「心定まりが無い者」にならないため、
「魂が神に忠実でないやから」にならないため、
である。
そのために、神に「望みを置く」、神のみわざを「忘れない」、その戒めを「守る」のだ。
9節から、イスラエルの歩んだ具体的な歴史が記されている。
それはすなわち、神に対する反逆と、それを覆う神の恵みの、何度も何度も繰り返された歴史であり、そして北イスラエル王国が行き着いた滅びの結末、すなわち、主の御言葉をあえて無視し、御言葉を押しのけて、おのが欲望を成し遂げるという事を、改めない事をあくまで続けたゆえに、ついには滅びへと至ってしまった、という歴史である。
詩篇78:9 エフライムの人々は武装し、弓を携えたが、戦いの日に引き返した。
9節のエフライムとは、北イスラエルの代表的部族であり、北イスラエル王国全体を、象徴的にあらわしている。
北イスラエル王国は、なぜ、戦いの日に引き返し、敗北し、滅んだのか。
その理由は、10-11節に書いてある。
詩篇78:10 彼らは神の契約を守らず、そのおきてにしたがって歩むことを拒み、
78:11 神がなされた事と、彼らに示されたくすしきみわざとを忘れた。
それにも関わらず神の恵みが注がれているさまが、12節から記されている。
詩篇78:12 神はエジプトの地と、ゾアンの野で/くすしきみわざを彼らの先祖たちの前に行われた。
78:13 神は海を分けて彼らを通らせ、水を立たせて山のようにされた。
78:14 昼は雲をもって彼らを導き、夜は、よもすがら火の光をもって彼らを導かれた。
78:15 神は荒野で岩を裂き、淵から飲むように豊かに彼らに飲ませ、
78:16 また岩から流れを引いて、川のように水を流れさせられた。
ここでは特に、出エジプトの出来事を思い起こさせている。
ゾアンとはゴシェンのことで、ナイル川三角州の北西部にあったヒクソス時代の首都である。
海が分かれて乾いた所があらわれ、誰も思ってみない所に、道ができる。
イスラエルの民はそれを渡り、しかしエジプト軍は、その海に飲み込まれてしまった。
イスラエルの民は、昼は雲の柱、夜は火の柱が彼らを照らし、導かれて行った。
岩砂漠地帯において、40年も、200万ほどの民が、一日たりとも水や食料で不足を来たらせる事なく、養われた。
こんなにも、想像し難い奇跡を体験しておきながら、彼らはは背いてしまった。(17-20節)
詩篇78:17 ところが彼らはなお神にむかって罪をかさね、荒野でいと高き者にそむき、
78:18 おのが欲のために食物を求めて、その心のうちに神を試みた。
想像し難い奇跡を体験しておきながらも、背いてしまう原因は、主に対する敬いと感謝が無い事、それと、18節にある「おのが欲望」である。
どんなに奇跡を見ても、しるしを見ても、
「ふーん、すごいね。でもわたしは肉が食べたい、肉を食べさせてくれないなら、あなたを神として認めない」
というような思考なのだ。
結局、17節の「罪」「そむき」とは、それの事である。
彼らは、神が主なのではなく、おのが欲望が主なのだ。
神の集会の中で、「おのが欲望」のままに、食べ物で罪を犯す時、本人自身の体に、病気という形で変調があらわれ、そして遂には、死に至るのは、新約においても同じである。
1コリント11:29 主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。
11:30 あなたがたの中に、弱い者や病人が大ぜいおり、また眠った者も少なくないのは、そのためである。
18節後半の「試み」の内訳が、19-20節にある。
詩篇78:19 また彼らは神に逆らって言った、「神は荒野に宴を設けることができるだろうか。
78:20 見よ、神が岩を打たれると、水はほとばしりいで、流れがあふれた。神はまたパンを与えることができるだろうか。民のために肉を備えることができるだろうか」と。
78:21 それゆえ、主は聞いて憤られた。火はヤコブにむかって燃えあがり、怒りはイスラエルにむかって立ちのぼった。
78:22 これは彼らが神を信ぜず、その救の力を信用しなかったからである。
19-20節で、彼らは「主は**できるだろうか?」と3度も繰り返している。
それが、逆らう事、試みる事、主を憤らせ、怒らせる事である。
これは私達がよく犯してしまいがちな罪ではないだろうか。
「主は**できるだろうか?」と、何度も心で繰り返したりして、いないだろうか。
マルコ9:23 イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。
9:24 その子の父親はすぐ叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。
「主を試みてはならない」。
この御言葉は、イエス様が荒野で悪魔の試みを受けた時、宣言した言葉のうちの一つだ。
イエス様はその時、3つの御言葉をもって、悪魔を撃退したが、いずれも、申命記の御言葉であった。
たまに、今は新約こそ必要で、旧約はあまり関係がない、と言う人がいるが、旧約律法を軽んじてはならない。
申命記を軽んじる人は、サタンに向かって「イエス様の名前によって出ていけ」と言う時、軽んじていた分だけ、サタンから軽んじられる。
詩篇78:23 しかし神は上なる大空に命じて天の戸を開き、
78:24 彼らの上にマナを降らせて食べさせ、天の穀物を彼らに与えられた。
78:25 人は天使のパンを食べた。神は彼らに食物をおくって飽き足らせられた。
人々が神を信じず、また救いの力を信じなかった、にも関わらず、神は彼らに恵みをほどこし、彼らの望みどおり、パンと肉を与えられた。
ここでは、70人訳に従って「天使のパン」と訳されているが、原文ヘブライ語はアビィリーム、すなわち、強き者達、勇者達、という意味である。
荒野でマナを食べた民は、強き者だっただろうか?いや、弱い者達だった。
しかし、主が与えてくださる特別の恵みを受ける者は、たとえ弱くても、強い者となる。
なぜなら、彼らが弱くても、彼らを守る主が強いからである。
詩篇78:26 神は天に東風を吹かせ、み力をもって南風を導かれた。
78:27 神は彼らの上に肉をちりのように降らせ、翼ある鳥を海の砂のように降らせて、
78:28 その宿営のなか、そのすまいのまわりに落された。
78:29 こうして彼らは食べて、飽き足ることができた。神が彼らにその望んだものを与えられたからである。
肉を求める彼らのところに、うずらがおびただしく飛んできた奇跡(民数記11章)が記されている。
しかしである。
詩篇78:30 ところが彼らがまだその欲を離れず、食物がなお口の中にあるうちに、
詩篇78:31 神の怒りが彼らにむかって立ちのぼり、彼らのうちの最も強い(マシュマーン:太った、肥えた)者を殺し、イスラエルのうちのえり抜きの者(バフゥル:選ばれた者、若者)を打ち倒された。
肉をほおばった人の、誰も彼もが打たれたのではない。
肉が与えられても、一切感謝もなく、欲望にかられて、我先にと、肉を口に放り込んだ者、最もマシュマーン(太った、肥えた)な者、選ばれた者(バフゥル)を、狙い撃ちに打たれたのだ。
肉欲が強い者、「感謝なさ」において選り抜きの者を、主は狙い撃ちにされたため、そこは、「キブロテ・ハタワワ(欲望の墓)」と呼ばれるようになった。
これは、私達に、欲望のまま・ほしいままにふるまってはならない、肉欲を優先させて主への感謝を忘れてはならない、という警告である。
そのような目に遭っても、まだ、人々は懲りない。
詩篇78:32 すべてこれらの事があったにもかかわらず、彼らはなお罪を犯し、そのくすしきみわざを信じなかった。
78:33 それゆえ神は彼らの日を息のように消えさせ、彼らの年を恐れをもって過ごさせられた。
78:34 神が彼らを殺されたとき、彼らは神をたずね、悔いて神を熱心に求めた。
78:35 こうして彼らは、神は彼らの岩、いと高き神は/彼らのあがないぬしであることを思い出した。
彼らはなおも罪を犯し。なおも信じず、それで災いが送られる。
そして災いに遭って、ようやく神様を求める。
こんなにも懲りずに、またまた罪を犯してしまうという、そのどうしようもないまでの理由は、39節にある通り、彼らが肉に過ぎず、また弱い者であるからだ。
それでもなお、この詩篇ではもう何度目になるか、という程の「しかし」が繰り返される。
詩篇78:36 しかし彼らはその口をもって神にへつらい、その舌をもって神に偽りを言った。
78:37 彼らの心は神にむかって堅実でなく、神の契約に真実でなかった。
マソラ学者の計算によれば、この36節は、詩篇の総節(2527節)の真中に当り、
37節は、詩篇の総行(5896行)の真中である。(実用聖書注解)
ちょうど詩篇全体の、位置的中心にあたる内容が、なんと、
人々は神にへつらいの口を叩き、偽り、その心は神に対して堅実ではなく、神の契約に対して真実でない、という内容なのだ。
なんと象徴的な事だろう。
まことに詩篇は、神に逆らい、偽り、堅実でなく、真実でない人間が、神に向かって救いを祈り、叫び求める歌なのだ。
詩篇78:38 しかし神はあわれみに富まれるので、彼らの不義をゆるして滅ぼさず、しばしばその怒りをおさえて、その憤りをことごとくふり起されなかった。
詩篇78:39 また神は、彼らがただ肉であって、過ぎ去れば再び帰りこぬ風であることを思い出された。
人はなぜ、神にこうも何度も何度も逆らい、何度も何度も同じミスを繰り返すのか。
なぜ神はこうも、そんな人間を、何度も何度も赦し、憐れむのか。
それは39節にある通り、人は肉に過ぎず、そして神はその事を、よくご存知であるからに他ならない。
神は、心のうちの真実を喜ばれる。
ダビデが詩篇51篇で告白したように、罪を犯しやすい自分を悲しみ、清められ、癒やされる事を、神に求め、また叫ぶ人を、神は赦し、憐れみ、救ってくださるのだ。
しかし、強情になって、罪を改めようとせず、かえって罪に開き直り、改めようとしない者は、やがて滅ぼされる、という事を、この詩篇では教えている。
結局、私達は、私達の向きが、天に向っているか、それとも下に向っているかによって、天国に行くか、地獄に行くかが決まるのだ。
神の御言葉に向いている人は、何度倒れても起き上がる。
しかし、自分の欲する事を求める事を改めない者は、あちこちぶつかって痛い思いをした挙げ句、地の下に降っていくのだ。
主日礼拝
栄光に満ちた神の都シオン(詩篇87篇)
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週報/メッセージ(説教)概要
成田エクレシアは本日より、礼拝する場所を新しい所に移してスタートする事となった。整えの祈りをするために行ってみると、既に清らかに整えられていて、主がここに目を留めておられた事を共に喜び合った。
成田エクレシアや天声教会を思う時、いつも出てくる賛美は、韓日讃頌歌245番「栄に満ちたる」である。
1,主の栄光に満ちていて、主がいしずえを堅く置いておられ、救いの石垣に高く囲まれ、御民の平安が、決して乱されない教会。 2,主の尽きせぬ愛が源流となって、流れてくるいのちの泉は豊かに湧き出て、汲んでも汲んでも尽きないため、御国の世継ぎ達は決して渇かず、溢れる恵みに、絶えず潤っている教会。
3,御恵みを受けつつ生きる御民は、はかない楽しみや、虚しい富、奢り高ぶる世人のあざみに会っても、全く動じず、この上ない喜びは、全く変わらない。このような教会となりますように、と、いつも祈りが出てくる。
この幸いは、アブラハムの祝福が、子へと、孫へと、子々孫々が、どんどん増えて行くほどに、どんどんバージョンアップし増し加わって行く祝福である。彼らの受け継ぐ地は、山と谷の地であり、天の雨で潤っている地、主が求められる地で、年の初めから年の終わりまで、主が絶えず目を留めておられる地である。
この賛美の元となった聖句が、詩篇87篇である。この詩篇は、神の都シオンが、やがて全世界の中心となる事を示した、預言的な歌である。シオンは神殿の丘、もしくはエルサレムを、あるいはその住民を表す名として、聖書に多く登場する。そこは、アブラハムの時代、モリヤという名前だった。アブラハムはそこで信仰の最終試験を受け、彼は一人子のイサクを捧げるが、主は、イサクの身代わりとして雄羊を備え、イサクを死者の中から取り戻した。アブラハムは最愛の一人子を捧げるという、信仰の実体を行ったため、主は、彼に対する祝福を揺るぎないものとされた。すなわちシオンは、アブラハムの信仰が完成した地なのだ。
シオンは、このようにすばらしい地だったのに、いつしかエブス人(意味は「踏み潰す」)が占拠するようになってしまった。彼らはシオンの要害の強さを頼みに、驕り高ぶり、好き放題な事をしていたが、ダビデがその要害を攻略し、神の民を入植させ、ダビデ自身が住む、偉大な王の町とした。そこはダビデによってさらに強固に建て直され、後には聖なる神殿が建てられ、その神殿の丘が、シオンと呼ばれるようになった。
この、シオンの成り立ちは、私達・神の民や教会(エクレシア)の成り立ちを、よく表している。
私達は元々、神の似姿として創造され、永遠に神と共に生き、神を礼拝する永遠を生きるはずだったのに、人はいつしか、サタンという「踏み潰す者」に踏みにじられ、占拠されてしまった。罪の奴隷状態となって、汚れた感情や思いの占拠状態だった、そんな私達に、まことのダビデであられるイエス様が、介入して来られ、踏み潰す者・サタンを打ち破り、その圧政から、私達を分捕り返して下さった。
終わりの日、キリストによって贖われた人々は、啓示録に書かれてある通り、世界中から集められ、神は彼らの中に住み、彼らはその民となる。それはキリストが、あの恵みの丘で十字架につけられ、全ての人々の身代わりとして、ほふられて下さったからである。ちょうどモリヤでイサクの身代わりとなった雄羊のように。
『主が基をすえられた都は聖なる山の上に立つ。』(1節) この都、すなわち、エクレシアの基(土台)を揺るぎなく据えられたのは、主である。そして私達キリスト者の土台は、キリストご自身である。(1コリント3:11)
『主はヤコブのすべてのすまいにまさって、シオンのもろもろの門を愛される。』(2節) 主は、他のどの町よりシオンを愛し、選ばれた。「もろもろの門」と書かれてあるように、シオンには沢山の出入り口があり、やがてそこから、諸国の人々が、主に栄光を捧げるために、入って来る。(黙示録21:12,22:14)
4節で示されている諸々の国々は、神に敵対した、邪悪な事で有名な国々なのに、神はなんと、このような者達さえ、神の国へと取り込まれるのだ。この国々は、神の国の市民権を得る。その救いを生み出したのがシオンであり(5節)。主はやがて、全国民、民族、部族を、神の民として登録される(6節)。その登録されるための資格は、血筋ではなく、それまでの行いでもなく、ただ、小羊によって贖われた事である。
シオンの丘とはモリヤであり、モリヤの地は、アブラハムが従順を示して信仰を完成した地、そして、小羊が身代わりとなってほふられた地、そこが、エクレシアの原点である。私達エクレシアは、シオンとして、主が置かれた基に堅く立ち、救いの石垣に高く囲まれ、平安が決して乱されない教会とされ、また、主の尽きせぬ愛が豊かに流れ、いのちの泉が豊かに湧き出るエクレシアの皆さんでありますように!
心病ませる「わたし・わたし」の夜想曲と、そこから解放される術(詩篇77篇)
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- pastor 2021-2-24 9:10
詩篇 講解説教
心病ませる「わたし・わたし」の夜想曲と、そこから解放される術(詩篇77篇)
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詩篇77篇表題『聖歌隊の指揮者によってエドトンのしらべにしたがってうたわせたアサフの歌』
再びアサフの歌である。前篇と同じく、アッシリヤの時代背景が考えられる。
この詩の前半は、弱気で、悲観的な雰囲気である。なぜそのようになってしまうのか?
その理由は、この詩の前半の主語を見れば、わかる。
すなわち、この詩の前半の主語は、「わたし」「自分」で埋め尽くされているのだ。
心病んでしまう人の特徴は、心が、「わたし」で埋め尽くされている事が多い。
詩篇77:2 わたしは悩みの日に主をたずね求め、夜はわが手を伸べてたゆむことなく、わが魂は慰められるのを拒む。
アサフは、この詩篇のはじめの状況は、慰められる事を拒むほど、ひねくれてしまっていた。
なぜ、ひねくれてしまうのか。それは、彼は、自分の悩みについて、主に尋ね求めてはいても「わたし」「自分」を主張しているからだ。
いかに「祈り」と名のつく行動をしてはいても、ヨブのように、主の御言葉を聞く事なしに、「自分」の主張ばかりをするなら、主は何も答えてくださらない。
それでも語気を荒げて続けるなら、もっと主が黙っているかのようになり、それをこじらせてしまうと、無益な自問自答や、主の御名が無い、無味な議論討論が、延々と始まる。
実際、ヨブ記3章から37章の長い議論の中には、「主(ジェホバ)の御名」は、1回しか登場しない。
結局、主の御名なき人間の自問自答や議論は、ますます、人を病ませてしまう。
祈りとは、主との対話であり、全て問題の解決は、「わたし」の願望を主にごり押しする所にはなく、主の言葉に聞き従う所にあるからだ。
詩篇77:3 わたしは神を思うとき、嘆き悲しみ、深く思うとき、わが魂は衰える。〔セラ
神を思い起こすと、嘆き悲しみが起きてしまう原因、また、深く思う時に魂が衰え果ててしまう原因は、何だろう。
続く節の内容から、その理由を導き出せる。
詩篇77:4 あなたはわたしのまぶたをささえて閉じさせず、わたしは物言うこともできないほどに悩む。
77:5 わたしは昔の日を思い、いにしえの年を思う。
77:6a わたしは夜、わが心と親しく語り
(NKJV: I call to remembrance my song in the night 私は夜、かつての詩(歌)を呼び起こし)
77:6b 深く思うてわが魂を探り、言う、
この、3節だけでも、「わたし」「わが」という主語が、6回も登場する。
「夜」という時間に、自分で作った詩をひもといては、自分の「たましい」に繰り返し自問自答し続けて行くと、悪霊が寄ってきて、云々して来る。
「魂」という漢字は、「鬼が云々する」と書くのは、伊達ではないのだ。
心病むためのコツは、夜中じゅう、ずっと「わたしのしたい事」「わたしの現状」「わたしの将来どうなるか」を思い巡し続け、朝になったら、夕方まで寝るだけで、どんなに健全な人でも、心を病ませるのに、一ヶ月はかからない。
夜という時間は、安息して休む時間である。
創世記1章にある通り、聖書的には、「夕(日没)」が、一日の初まりであり、一日のはじまりをしっかり安息してこそ、朝、力強く働きができ、そうして、神が創造された本来のあり方へと回復する法則が働く。
詩篇19:2に書いてある通り、被造物は、昼に活動し成長するが、そうこうしている内に、バランスを崩してしまったり諸々を壊してしまったりするのを、夜、休んでいる間、主が組み込まれた”知識”へと戻る方向へ修復するのだ。
悩みの解決を、世の中の情報や、インターネットや本で、あるいは友人に電話して求めると、一時的には、気分が晴れたかのような気がするかもしれないが、所詮は神から来るものでなく、真理ではない。
だから、真の解決には至らない。
夜中に、友人に電話して、長々と相談しても、うんざりされるだけである。
だから、夜眠れない時は、完全なる御言葉を思い巡らし、宣言し、そして主に「祈り」という電話をするべきである。
天地を創造した力ある御言葉を宣言すると、その人の中で、御言葉が力を持ち、傷つき壊れてしまった心や体は回復し、癒やされていく。
この詩篇の作者は、夜に、御言葉ではないもの、自分の思いや、昔創作した詩や歌を呼び出し、思い巡らした結果、以下のような、真理とは真逆の思考へと導かれてしまった。
詩篇77:7 「主はとこしえにわれらを捨てられるであろうか。ふたたび、めぐみを施されないであろうか。
77:8 そのいつくしみはとこしえに絶え、その約束は世々ながくすたれるであろうか。
77:9 神は恵みを施すことを忘れ、怒りをもって/そのあわれみを閉じられたであろうか」と。〔セラ
主はとこしえに、捨てられる?
主は恵みを、施されない?
主のいつくしみは、とこしえに絶えた?
主の約束は、世々永く廃れる?
神は恵みを施す事を、忘れた?
神は怒りをもって、その憐れみを閉じられた?
全部、御言葉と真逆の内容である!
これこそ、夜闇の中で「わたし・わたし夜想曲」を巡らした結果であり、闇の考えに侵されてしまった好例である。
サタンはいつでも、御言葉とは真逆の考えを吹き込むものなのだ。
結局のところ、「わたし」の思い巡らしは、主の御言葉の真実をねじ曲げてしまう結果となるのだ。
サタンが人を堕落させるやり方は、エデンの園の時から変わっていない。御言葉をねじ曲げる事だ。
以上、9節までの内容がしっくりくる、という人は、心病ませるパターンに、はまってしまっている。
そこから抜け出すには、10節以降の対処をする必要がある。
詩篇77:10 その時わたしは言う、「わたしの悲しみは/いと高き者の右の手が変ったことである」と。
ここは、日本語訳は、意訳となっている。
英語の聖書KJVでは、
And I said, This is my infirmity: but I will remember the years of the right hand of the most High.
すなわちヘブライ語原典には、元々、「いと高き者の右の手が変わった」は、無い。主の右の手は、決して変わらない。
むしろ、「これが私の弱さです。しかしわたしは、いと高き方の右の手の日々を思い起こします。」が、10節の正しい内容である。
詩篇77:11 わたしは主のみわざを思い起す。わたしは、いにしえからの/あなたのくすしきみわざを思いいだす。
作者は、この10-11節で、方向転換し、詩の雰囲気ががらっと積極的になる。
なぜなら、この節以降、主語が「わたし」から、「神」「あなた」に変わり、そして、彼がこれから思い起こしていくのは、「自分」ではなく、主の右の手のわざの日々、御言葉に記されている事だからだ。
詩篇77:12 わたしは、あなたのすべてのみわざを思い、あなたの力あるみわざを深く思う。
77:13 神よ、あなたの道は聖である。われらの神のように大いなる神はだれか。
77:14 あなたは、くすしきみわざを行われる神である。あなたは、もろもろの民の間に、その大能をあらわし、
77:15 その腕をもっておのれの民をあがない、ヤコブとヨセフの子らをあがなわれた。〔セラ
主語が、自分から神に変わった事で、そして主のなされた事を思い起こしていく事によって、それまで問題だと思っていたものは、どんどん、問題ではなくなっていく。
全ての問題を解決して下さる救い主を、自分自身の中へと、招き入れるからだ。
アサフは特に、出エジプトの記事を思い巡らし、そして主をほめたたえたが、そのように、私達も、聖書に記されている主のわざを思い巡らす時、それはまことに、私達の心を喜ばせていく。
詩篇77:16 神よ、大水はあなたを見た。大水はあなたを見ておののき、淵もまた震えた。
出エジプト記において、神がモーセに、彼の杖を海に向かって差し伸べるよう指示を与え、その御言葉どおりにすると、水は左右に分かれ、海の中に道が出来た。
なお、淵と訳されたヘブライ語「テホム」は、創世記1:2に登場する「大水」あるいは「深淵」である。
人はおおげさに、わたしの煩いは深淵よりも深い、と言うかもしれない。
しかし、たとえ本当にその人の煩いの深さが、深遠ほどであったとしても、神は、暗闇の深淵に「光があれ」と御言葉で命じ、光を創造し、大水の真っただ中に、空を創られたお方である。(創世記1:1-8)
『「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。』(2コリント4:6)
詩篇77:17 雲は水を注ぎいだし、空は雷をとどろかし、あなたの矢は四方にきらめいた。
77:18 あなたの雷のとどろきは、つむじ風の中にあり、あなたのいなずまは世を照し、地は震い動いた。
主は自然を動かされるお方である。
私達の主イエス様は、あらしの中、大波に揺れ動く小舟にも、水の上を歩いて来られるお方。
主は雷、雲、つむじかぜをもって、エジプトをかき乱したように、呼び求める私達の煩いをも、薙ぎ払ってくださる。
詩篇77:19 あなたの大路は海の中にあり、あなたの道は大水の中にあり、あなたの足跡はたずねえなかった。
77:20 あなたは、その民をモーセとアロンの手によって/羊の群れのように導かれた。
イスラエルの民にも、またエジプトにとっても、まさか、海の中に、神の民が通るべき道があったとは、誰も予想だにしなかった。
そして、その海の中に出来た道は、神の民でない者が追いかけてきても、かえって海は、その者を飲み込むのである。
主が備えておられる道、人の目に隠されて、ただ主の他にのために用意しておられる道は、みなそうである。
ただ主の民だけが通り、それ以外の者は、入ってはならない。
そして主は、神の民のために、世の人々が誰も見いだせない隠された宝を、また、秘められている財宝を用意し、蓄えておられるのである
イザヤ45:3 あなたに、暗い所にある財宝と、ひそかな所に隠した宝物とを与えて、わたしは主、あなたの名を呼んだ/イスラエルの神であることをあなたに知らせよう。
詩篇77:1 わたしは神にむかい声をあげて叫ぶ。わたしが神にむかって声をあげれば、神はわたしに聞かれる。
私達は、主を呼び求める時に、「自分」「わたし」を主張してしまうような間違いを犯してしまうが、少なくとも、神に向かって声をあげているなら、それは祈りとなり、主はそのような過ちを正して、正しい道へと戻して下さる。
いつも主の御言葉を思い巡らし、健やかな、真昼のような人生の歩みである皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
尊い命を、戯れや気まぐれでひねり潰すような事は、決してお許しにならない主(詩篇76篇)
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- pastor 2021-2-22 19:00
詩篇 講解説教
尊い命を、戯れや気まぐれでひねり潰すような事は、決してお許しにならない主(詩篇76篇)
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詩篇76篇表題は、『聖歌隊の指揮者によって琴にあわせてうたわせたアサフの歌、さんび』であるが、70人訳の表題には「アッシリヤについて」という説明が付けられており、この詩篇は、アッシリヤがエルサレムを包囲した、ヒゼキヤ王の時代が、背景にあると考えられる。
詩篇76:1 神はユダに知られ、そのみ名はイスラエルにおいて偉大である。
76:2 その幕屋はサレムにあり、そのすまいはシオンにある。
ユダ、イスラエルは、いずれも神の民であり、サレム、シオンは、いずれも神の民が住む聖なる都、現代でいう、教会である。
なぜなら、教会と訳されたギリシア語・エクレシアは、元々「召し出された者達」という意味であり、すなわち教会とは、建物や場所というよりも、むしろ、神様から呼び出された人々をあらわすからだ。
なお、サレムはエルサレムの古い呼び名で、アブラハムの時代、サレムはメルキゼテクという神様の祭司が、王として治めていた事が、創世記14章に記されているが、ヘブル書によると、メルキゼデクはイエス・キリストである事を示している。
教会は、イエス・キリストが王として、また祭司として治める神の民、また場所なのだ。
ゆえに、この詩篇は、現代の私達・神様を礼拝する教会と、その聖徒たちに直接関わる内容である。
神様は、昔も今も変わらず、圧倒的な力をもって、神様を恐れ敬う人々を救い、しかし主の敵に対しては、恐ろしいお方だ。
詩篇76:3 かしこで神は弓の火矢を折り、盾とつるぎと戦いの武器をこわされた。〔セラ
神様は、神の民に敵対する、あらゆる兵器を破壊される。
そして神様は、私達・神の民にとっては、鋭い矢であり、盾であり、剣であられる。
実際、神様は、アッシリヤの18万5千の軍勢を、たった一人の御使いを遣わして、たった一晩で滅ぼした。
詩篇76:4 あなたは永久の山々にまさって/光栄あり、威厳があります。
「永久の山々」は、70人訳での表記で、ヘブライ語聖書では「えじきの山」となっている。
何が「えじき」となったのか。それは、アッシリヤだ。
なぜアッシリヤは、えじきとなったのか。
それなりの理由があるからだ。
アッシリヤは当時、残虐な方法で諸国を震え上がらせ、恐怖によって国々を支配して来た。
一時は、預言者ヨナの警告でへりくだり、悔い改めたが、すぐ、その心をひるがえして傲慢になり、ヒゼキヤ王の時代には、イスラエルの神様に対して大口を叩くまでになった(イザヤ36-37章)。
それで神様は、アッシリヤを、「えじきの山々」で裁かれると言われる。
イザヤ14:25 わたしはアッスリヤびとをわが地で打ち破り、わが山々で彼を踏みにじる。こうして彼が置いたくびきは/イスラエルびとから離れ、彼が負わせた重荷は/イスラエルびとの肩から離れる」。
主は確かに、ヒゼキヤのように、主に助けを呼び求める人々に、答えてくださる。
たとえ、アッシリヤのような、圧倒的な力と残虐さを持って向かって来ても、その人が、主に助けを呼び求めるなら、主は助け、救って下さる。
詩篇76:5 雄々しい者はかすめられ、彼らは眠りに沈み、いくさびとは皆その手を施すことができなかった。
76:6 ヤコブの神よ、あなたのとがめによって、乗り手と馬とは深い眠りに陥った。
エルサレムを包囲したアッシリヤの軍勢18万5千だったが、この節によると、その軍勢が滅ぼされた時、彼らは眠りこけるように横たわっていたようだ。
それも、人間だけでなく、馬までも。
6節の「深い眠り」は、ヘブライ語ではラーダム、原意は「気絶させる」事で、速やかに深い睡眠へと、あるいは、死へと落とし込まれる事を意味する。
ちなみに、創世記2:21にて、神様がアダムに深い眠りで眠らせ、彼の脇腹を元にして女を造られた場面では、「ラーダム」から派生した「タルデマール」(昏睡状態、トランス状態的な深い眠り)が用いられている。
詩篇76:7 しかし、あなたこそは恐るべき方です。あなたが怒りを発せられるとき、だれがみ前に立つことができよう。
原文では「あなた(アター)」が反復され、「あなた(神様)」の恐ろしいまでの力が、強調されている。
確かに神様は恐るべきお方であるが、気まぐれや戯れで簡単に人を殺したりするようなお方ではない。
映画や、ゲーム、マンガ等では、魔法や超能力的な力を持った者が、大勢の人々を一瞬で次々殺すような場面を、目にするかもしれない。
言うまでもなくその創作物は、人の想像の中にあるだけで、現実世界には決して起こらない。
なぜなら、いのちを大切にしておられる主は、生きておられ、たとえ、誰かが超能力を得たとしても、神様の尊い似姿である命を、戯れや気まぐれにひねり潰すような事は、決して、お許しにならないからだ。
御霊が無い人は、願望する。憎たらしい相手を、思いのままに、一瞬にして、むごたらしい方法で、抹殺できないだろうか、と。
しかし、現実世界で、そんな事はできない。できない理由は、神様が許可しておられないから、であるが、その事を彼らは知らない。
できないから、それを、デザイナーやクリエイターは、映画やゲーム、マンガなどで表現する。
それは、人を貶めたい欲求を持つサタンが、彼らに吹き込んだ、偽りのイマジネーションである。
クリエイターを目指す人は、特に、そういう方面の闇に、陥りやすく、それを創作する人も見る人も共々、それを見る事で、鬱積した情緒の解放が起こり、また、怖いもの見たさを求める心情もあって、そういったホラーもの、残虐ものというジャンルが、いつの時代でも流行るものである。
そして、そのような、悪魔サタンの願望と、常に同調している人は、悪魔や、悪霊からインスピレーションを浴び続け、悪霊との交流をいつも続けているために、霊的・身体的な障りが起こったり、その人の運命にも、どんどん不調があらわれ、ついには、悲惨な死へと導かれてしまう。
反キリスト的な、あるいはホラーもののアーティストやクリエイターに、悲惨な、あるいは不可解な死が多いのは、そのためなのだ。
そこから唯一、救い出せるお方がおられる。
救い主イエス・キリストであり、そして、まことのクリエイターであられる神様である。
愛であられる主、すなわち、全被造物のまことのデザイナーであり、クリエイターであられる主は、人に、神様の似姿としての尊厳を与えられた。
創世記1:27 神様はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神様のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
その故に、神様は、人の命の尊厳を汚したり、いたずらに殺す事は、お許しにならない。
創世記9:6 人の血を流す者は、人によって、血を流される。神様は人を神様のかたちにお造りになったから。
天地を創られた主は、いかに悪辣な人であっても、悔い改めて主に立ち返る事を望んでおられ、気まぐれや戯れで人の命をもてあそぶなど、一切、心に無いお方なのだ。
エゼキエル18:31 あなたがたの犯したすべてのそむきの罪をあなたがたの中から放り出せ。こうして、新しい心と新しい霊を得よ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。
18:32 わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからです。――神様である主の御告げ。――だから、悔い改めて、生きよ。
しかし、たまにある種の人を、殺さざるを得ないくなる時がある。
それは、あまりに悪辣な人で、多くの人々を罪へと不幸へと陥れ、その人を生かしていたら、もっと多くの人を罪に陥れ、また地獄へ導いてしまうような。
そういう者を、殺さなければならない場合でも、主は、天上会議をわざわざ開いて、そうそう簡単に殺すという事はしない。(1列王記22章)
詩篇76:8 あなたは天からさばきを仰せられました。神様が地のしえたげられた者を救うために、さばきに立たれたとき、地は恐れて、沈黙しました。〔セラ
ヒゼキヤ王は、常に神様に信頼し、祈り求め続けた故に、神様は救いの行動を起こされ、アッシリヤの軍勢を滅ぼされた。
諸国の民はそれを聞いた時、イスラエルとヒゼキヤ王を恐れた。
76:10 まことに人の怒りはあなたをほめたたえる。怒りの余りをあなたは帯とされる。
いかに力強い相手が、怒り狂いつつ、神の民を攻撃するとしても、神様は、その怒る者をも用いて、今まで御力と栄光を現して来られた。
当時のアッシリヤに対して、そうだったし、また、エジプトのパロに対しても、そうだった。
76:11 あなたがたの神様、主に誓いを立てて、それを償え。その周囲のすべての者は/恐るべき主に贈り物をささげよ。
76:12 主はもろもろの君たちのいのちを断たれる。主は地の王たちの恐るべき者です。
「もろもろの君たちのいのちを断たれる」の「いのち」はヘブライ語でルアッハ、すなわち、霊である。
主は、地の支配者たちの誇り高ぶった精神様を打ち砕かれるお方であり、また、肉体だけでなく、たましいも、霊も、共にゲヘナに投げ込む権威を持っておられるお方である。
実際、黙示録に、それが記されている。
黙示録20:7 千年の期間が終ると、サタンはその獄から解放される。
20:8 そして、出て行き、地の四方にいる諸国民、すなわちゴグ、マゴグを惑わし、彼らを戦いのために召集する。その数は、海の砂のように多い。
20:9 彼らは地上の広い所に上ってきて、聖徒たちの陣営と愛されていた都とを包囲しました。すると、天から火が下ってきて、彼らを焼き尽した。
20:10 そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられる。
今の時代、映画やゲーム、マンガなどに、邪悪なイマジネーションを吹き込み、多くのクリエイターや、その作品を視聴する人たちを惑わした、悪魔や、悪霊は、永遠に、火と硫黄の池に、投げ込まれる、と書いてある。
主は、人の尊厳をけなす悪霊やサタンや、主に敵対する、全ての者に対しては、まことに恐ろしいお方であるが、愛であられる主は、悪人が救われるように、悔い改めて主に立ち返るようにと、忍耐をもって、待っておられる。
主は実に、ノアの洪水を起こすまでに千年以上も待たれたが、結局世界には、悪辣ではない人はノアの家族8人しか残らなくなってしまった故、彼らを救うために、大洪水を起こされた。
主は、誰も滅びる事を望んではおられない。
この世界を、また多くの人々を、主の御言葉に従って救うために、主と豊かに交わり、主の御心を行う皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
主日礼拝
限りない東西南北で信仰の勇士を育てよ(創世記13章)
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週報/メッセージ(説教)概要
今年に入って以来、アブラハムの祝福の法則を学んでいる。それは、創世記12:1-3の通り、以前の罪のなわばりやしきたりから出て、主の御言葉で示された所へ留まる事。そうすれば、7つの祝福を得られる。
アブラハムは御言葉に従い、ひと度、約束の地に入ったものの、目の欲におびき寄せられて、主の約束の地ではない所、主の保護が無いエジプトへと行ってしまい、嘘の生活を続けた挙げ句、妻を奪われたり、散々な目に遭ったが、そこから再び約束の地に戻って、主が示された地に留まり、礼拝の生活を続けた結果、外からの災いは一切起こらなくなり、持ち物もおびただしく増えていった。(創世記13:1-4)
しかし、「内部から」問題が沸き起こった。持ち物があまりに増えすぎて行ったため、アブラハムの使用人と、甥のロトの使用人との間に争いが起こったのである(5-7節)。富や地位は、それを得て傲慢になるか、それとも、謙虚さを貫き通すかという信仰のリトマス試験紙となる。ロトは本来、目上のアブラハムの使用人との間で争いが起きたなら、率先して戒めなければならないのにそれをせず、敢えて争わせておいたのだ。
もし、富や地位を得たら、そのような傲慢が出てくるような人とは、一緒にいてはならない。このような人が、集いの中にいる間、その集いには、祝福が来ないからだ。なぜならそういう人は、主の祝福を受けると、それを利用してさらに罪を犯し、聖なる交わりに争いを引き起こして汚して、主の顔にドロを塗るからである。
アブラハムは、ロトと穏便に別れるために、場所を移り住む事において優先権をロトに与えた。私達は主の約束に留まっているなら、相手に優先権を与えたとしても、不安になる必要は無い。むしろ御言葉に自分を降ろし、御言葉の思考で、まだ見ぬ将来を見るべきだ。目の欲に従っていく人は、欲におびき寄せられ、自分の頭でいいなと思っている世界を見積もり、主の約束の地とはかけ離れた方を選んで行く。
ロトは結局、神に対して甚だ罪深いソドムへ向かって離れて行った。信仰によってではなく、欲によって物事を計る人は、どんなに良い条件を得ても、後には何も残らない。宝くじで一等を当てた人の多くは、数年で散財してしまう統計結果もあるのだ。しかし、聖なる交わりには、「ロトの類」が離れたとたん、祝福が来る。
『ロトがアブラムに別れた後に、主はアブラムに言われた、「目をあげてあなたのいる所から北、南、東、西を見わたしなさい。』(14節) この時、主は初めて「目を上げなさい」と言われた。ロトと別れた事によって、その東西南北は、一切妨げが無い東西南北となったのだ。私達も主がOKするまでは、自分の目で東西南北を見てはいけない。かつてアブラハムがエジプトに目を向けたように、誤った判断をしてしまうからだ。
しかし、主が「目をあげよ」と許可された東西南北は、もはや、何の妨げも邪魔者もいない東西南北である。
主はそこに、「永久に子孫に与える」と約束し、「子孫を地のちりのように多くし」、「その地を縦横に行き巡りなさい、それをあなたに与える」、と言われた(14-17節)。そこに至るまで、私達も従順を続けるのである。
アブラハムは、ヘブロンにあるマムレのテレビンの木の傍らに住み、そこで祭壇を築いて留まった(18節)。
そこにおいて、彼は、自分の家で生まれ育った信仰の勇士318人を訓練し、礼拝を欠かさない生活を続けた結果、前回見た、あの強力な王達に、大勝利するまでに至ったのである。
私達も、ロトのたぐいとは離れ、一切の邪魔する者がいない東西南北のまぼろしを主から得て、そこで、信仰の318人を、すなわち、栄光のテフィリン世代を育てるべきである。私たちの戦争は、世の王との戦争というよりむしろ、いかに御言葉のまぼろしをキープできるか、という戦争なのだ。主が与えて下さるまぼろしを信じ、何が起ころうともそれをキープし続け、行動するなら、一切の妨げが無い東西南北が与えられる。
そこで信仰の勇士、栄光のテフィリン世代を養い、礼拝し続けるなら、どんな世の王達にも勝利できるのだ。
今の世の中、御言葉に敵対する勢力が集結して、強大な権力や資金によって世論を支配し、嘘も強引にまかり通し、盤石の体制を整えようとしている。これは、バベルの塔の名残であるが、私達はテフィリンに よって、御言葉の塔を建てるのだ。バベルの塔は神の言葉によって崩され、バベルの塔が立った地・シヌアルの王は、前回見た通り、アブラハムの勢力318人によって討ち滅ぼされ、囚われ人は分捕り返された。 今、主は、共にコラボレーションして、信仰の次世代を育てる人を探しておられる。このグループの中で、目に見えるものによってでなく、主が見させてくださるまぼろしによって歩み、この世の王達に打ち勝つ、信仰のテフィリン世代を育て上げて行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
詩篇 講解説教
何のために主の御名は近くにあるのか(詩篇75篇)
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詩篇75篇表題『聖歌隊の指揮者によって、「滅ぼすな」というしらべにあわせてうたわせたアサフの歌、さんび』
この詩篇では、主は、悪しき者がいつまでも栄えてほしいままにふるまう事は許さず、やがて必ず公正な裁きをして下さる、という事を示している。
続く76篇の表題は、70人訳聖書では「アッシリヤについての歌」とあるため、この75篇も、ヒゼキヤの時代のアッシリヤが、傲慢にも主を侮ったものの、たった一晩で主に打ち砕かれた事を背景としているのかもしれない。
預言者ハバククも、悪い者がいつまでも力を振るって栄え、弱い人々がいつまでも虐げられている状況について、主に叫んだ時、主は答えられた。
ハバクク2:2 主はわたしに答えて言われた、「この幻を書き、これを板の上に明らかにしるし、走りながらも、これを読みうるようにせよ。
2:3 この幻はなお定められたときを待ち、終りをさして急いでいる。それは偽りではない。もしおそければ待っておれ。それは必ず臨む。滞りはしない。
2:4 見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰によって生きる。
2:5 また、酒は欺くものだ。高ぶる者は定まりがない。彼の欲は陰府のように広い。彼は死のようであって、飽くことなく、万国をおのれに集め、万民をおのれのものとしてつどわせる」。
悪い者が永遠に栄え、弱い者が永遠に虐げられ続ける、という事は、ない。
主のさばきは、必ず来る。
世の歴史でも、悪がいつまでも永遠に栄えた歴史は、無かった。
その理由は、まさに、裁き主である神が、生きておられるからだ。
もしも神がいない、とするなら、この世は、騙しにおいて、卑怯さにおいて、腕ずくにおいて、強い者が、延々と延々と栄え続け、弱い人々は、延々と虐げられ、搾取され続ける、という世界がずっと広がり、酷い状況になっているはずだが、そうなっていないのは、悪を裁かれる神が生きておられるからだ。
神を知らない世の人も「正義は必ず勝ち、悪は必ず滅びる」と言っている通りである。
もし、悪しきものが延々とはびこっている、とするなら、その国民全体が「神はいない」とする共産主義国であったり、偶像崇拝国であったりする場合だ。
主は、そのような、主を呼び求めない人には、救いの御手を伸ばしようがない。
しかし、主に救いを求める人に、主は確かに答えてくださる。
そこで1節では、先取りして、主に感謝が捧げられている。
75:1 神よ、われらはあなたに感謝します。われらは感謝します。「われらはあなたのみ名を呼び」、あなたのくすしきみわざを語ります。
この「われらはあなたのみ名を呼び」の部分は、新共同訳では「御名はわたしたちの近くにいまし」、KJVでは「thy name is near」である。
そう、主の御名は、近くにあるのだ。
何のために、主の御名は、近くにあるのか?
それは他でもない。
私達が、すぐに、主の御名を呼ぶため、である。
アッシリヤの王セナケリブが、主に対して驕り高ぶり、神の民イスラエルに向かって傲慢な汚しごとをわめき散らした時、また、傲慢な手紙を送りつけて来た時、ヒゼキヤ王はそれをそのまま、主のもとに差し出し、主の御名を呼んで祈った。
すると、主が動いて下さり、アッシリヤの軍勢18万5千人を、たった一晩で全滅させた。
主は、主の御名を呼び求める人に答え、助けを送ってくださるが、神に逆らう者に対しては、裁き主として現れてくださる。
2節以降、主こそ裁き主であり、そのさばきの時と方法は、主が定めておられるという事が、記されてある。
75:2 定まった時が来れば、わたしは公平をもってさばく。
主は、定めておられる。御手を動かして裁かれる時を。
75:3 地とすべてこれに住むものがよろめくとき、わたしはその柱を堅くする。〔セラ
地が揺れ動く、という時がある。
それは実際に、地震という形かもしれないし、あるいは、悪辣な勢力が、地を轟かすような形で世を動かしている形であるかもしれない。
しかし、御言葉をもって天地の基を造られた主は、御言葉という「柱」でもって、揺れ動く地に対しては秩序を固く立て、地を轟かせている悪辣な者達は、平定してくださる。
75:4 わたしは、誇る者には「誇るな」と言い、悪しき者には「角をあげるな、
75:5 角を高くあげるな、高慢な態度をもって語るな」と言う。
高慢な者は、何も起きないと、どんどんつけあがって高慢になって行く。
それが、強力な国家の元首であったりするなら、世の人は、全く手がつけられない。
しかし主が「誇るな」「角をあげるな」「高慢な態度をもって語るな」と命じられるなら、その者達は、退場せざるをえない。
次のように書いてあるとおりである。
『神は時と季節とを変じ、王を廃し、王を立て、知者に知恵を与え、賢者に知識を授けられる。』(ダニエル2:21)
75:6 上げることは東からでなく、西からでなく、また荒野からでもない。
75:7 それはさばきを行われる神であって、神はこれを下げ、かれを上げられる。
「上げること」(ルーム)は、高く上げる事の意味で、KJVではプロモーションと訳されている。
プロモーションといえば、自分のものを広く知らしめる活動、として知られているが、他にも、進級や昇進などの意味がある。
私達を世においてプロモーションし、高く上げて下さるのは、主である。
その、高く上げる事は、東からでなく、西からでなく、また、荒野からでもない。
東(モーツァー)の原意は、出ること、噴出することで、そこから、太陽が出てくる東となった。
西(マアラーブ)は、陰る事の意味から、太陽が沈む西を意味するようになった。
荒野(ミドバル)は、KJVでは「南」と訳されており、牛を放牧する地、荒野の意味がメインである。
私達を高くする事の源は、東西南北のどこからでもないし、また、世の何者によってでもない。ただ、主が源である。
高く上げられる事も、低くされることも、またプロモーションも、全てをさばかれる、主から来るのだ。
75:8 主の手には杯があって、よく混ぜた酒があわだっている。主がこれを注ぎ出されると、地のすべての悪しき者は/これを一滴も残さずに飲みつくすであろう。
杯は、聖書では多く登場するキーワードで、主に、災いや裁きを意味している。(エレミヤ25章、黙示録14:10,16:19)
主は、地のすべての悪しき者に、さばきの杯を飲ませる。
イエス様は、十字架につけられる前の晩、
「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ26:39)
と祈られた。
イエス様は、父なる神から与えられた災いとさばきの杯を、私達の代わりに、飲み尽くして下さった。
それは、全て罪を持つ全人類の、身代わりとして、十字架にかかられるためであり、そのイエス様を、救い主として信じる人は、もはや、裁きにあう事はなく、永遠のいのちを得て、救われるのである。
75:9 しかしわたしはとこしえに喜び、ヤコブの神をほめうたいます。
75:10 悪しき者の角はことごとく切り離されるが/正しい者の角はあげられるであろう。
作者はこの詩篇の最後にも、主は救いを与えてくださる事の故に、先取りして、賛美を捧げている。
主の御名は、近くにある。
なんのために近くにあるのか?
それは、いつでも、どこでも、私達が呼び求めるため、であった。
悪がはびこる場面に出くわす度に、また、悪しき者が政権を取って、不当な政治を行っているのを見聞きする度に、主の御名を呼び求めるのだ。
主は、公正に裁かれるお方である故に。
イエス様に贖われ、救われ、王かつ祭司とされた者として、積極的に主を呼び求め、私達の身の回りに、そしてこの時代に、世界に、主のさばきと助け、そして、主の支配を呼び込む皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
主日礼拝
主からのまぼろしを得て語れ(創世記14章)
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週報/メッセージ(説教)概要
アブラハムが神様に導かれ、カナンに定住した頃、カナンの5人の王達は、バビロン地方の王達に反抗して、戦争が起きた。バビロン地方の4人の王達が攻めて来て、行く所々で連勝し、南端の紅海の港町エル・パランまでも制圧した。そして、カナンの5人の王の財産を全部奪い、多くの捕虜を連れて悠々と引き返して行った。その囚われ人の中に、アブラハムの甥のロトもいた。一見、災いにも見える中に、主の意図がある。主はアブラハムに、「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う、あなたの名は、大いなる者となる」と言った、祝福の実体を披露するために、敢えて、この事を許されたのだ。
『一人の逃亡者がヘブル人アブラムの所に来て、その事を告げた。アブラムはエモリ人マムレの樫の木の所に住んでいた。マムレはエシュコルとアネルの親類で、彼らはアブラムと盟約を結んでいた。』(13節)
ここに初めて「ヘブル人」という言葉が出てくる。ヘブル人とは「川(境界)を超えて渡ってきた者」の意味、すなわち、古い生き方を捨て、境界を超え、主にある新しい生き方に入って来た者達である。私達もアブラハムにならって、古い罪のしきたりと縄張りを出て、水のバプテスマを経て、主に示された所に留まり、礼拝を捧げつつ生活して行くなら、力強くなり、どんどん周囲から尊ばれる存在へ、壮大な者へとなって行く。
アブラハムが、あの勢いづいているバビロンの4人の王に、わずか318人で戦いを仕掛けるなど、とんでもなく無茶な事だった。それなのに、同盟を結んだマムレ達は、どういう訳か、アブラハムの呼びかけに応じ、一緒に戦いに出た。なぜそんな無茶な戦いに参戦したのか?その理由は、彼らは、アブラハムには確かに背後に神がついておられ、神が彼を祝福している様を見て、「彼ならやってのけるかもしれない」「あの悪辣で手がつけられない王達に、もしかしたら勝利して、9人の王のてっぺんに立つかもしれない」「自分も一緒に戦いに出るなら、その恩恵にあずかれるかも知れない」、というまぼろしが見えたのだ。
実際、アブラハムは見事に勝利し、彼らは、戦利品を勝ち取る恩恵に預かった。アブラハムは、ソドムの王からの汚れた富は、くつひも一本も取らなかったが、マムレ達は、自由に取らせたのだ。(24節)
主が私達に見せて下さるまぼろしの内容は、世の人が見れば、滅茶苦茶かもしれない。しかし私達は、アブラハムの子孫として「この人と一緒なら、何だって大丈夫!」という存在となれるよう、求めるべきである。
そして、同じビジョンを一緒に見て繰り出して行けるような、右に左に立って一緒に戦う友を求めるべきだ。
そのためには、日々、主が示された約束の地にしっかりとどまり、礼拝し、主から与えられる恵みを日々数え、記録する事を、習慣化しておくべきである。主が与えて下さったまぼろし、すなわち、御言葉の約束から目を離さず、それを書き記し、昼も夜も口ずさみ、それが成る、と信じて、日々歩むのだ。日々、主がして下さった小さな恵みを書き記し、それを数えて行くなら、「主は確かである」という信頼が、遥かに強固なものとなり、主が見せて下さるまぼろしは、腹の奥底から湧き上がる自信となって、周囲に伝染し、周囲を動かして行くようになる。そうすると、「主は今度何を起こしてくださるのだろう、主はこの問題を、どう解決して下さるのだろう」と、主に限りなく期待できるようになり、周りを主のまぼろしへと巻き込む先駆者となれる。
世の人は、現実的な事実を、計算機ではじいて、一番有利なものに飛びつくが、私達はそうではなく、主が示して下さる、いのちにみなぎった、わくわくするようなまぼろしを見て、それを生き生きと語るべきだ。
もし相手が、主が示して下さるまぼろしに、同意しないのであれば、ああ、この人はわたしと組めない人だ、と分かる。主は「この人と組みなさい」と定められた人を、脱落させるような事は、なさらないお方だからだ。
アブラハムは見事勝利した後、二人の王が出迎えて来た。一方はサレム(平和)の王、いと高き神の祭司、メルキゼデクで、他方は、不品行と汚れの町ソドムの王である。私達も、信仰によって進み出て勝利した時、二人の王が現れる。その時、汚れた王は、汚れた富を手にするよう誘って来るが、そのような者の誘導に引っかかってはならない。後で恩着せがましく主張する機会を作ってしまい、主の栄光ではなくなるからだ。
私達はむしろ、勝利した時こそ、本当に御前にへりくだらなければならないお方・イエス様にひれ伏し、十分の一を捧げ、罪深い王から提示された富は、くつひも同然に見做し、きよく自分を保つのだ。
主が「とどまれ」と言われた地にしっかり留まり、礼拝を続けていくなら、主は、壮大な者として下さる。
そこで、与えられた御言葉の約束のまぼろしを日々仰ぎ見て、右に、左に、そのまぼろしに同意する同盟者を得て、時代の勝利者となっていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!