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メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:エリの一族への警告(1サムエル記2:27-36):右クリックで保存

主の御前に不実だったエリとその子達に、いよいよ主から警告が通達される。

『イスラエルのすべての部族のうちからそれを選び出して、わたしの祭司とし、わたしの祭壇に上って、香をたかせ、わたしの前でエポデを着けさせ、また、イスラエルの人々の火祭をことごとくあなたの先祖の家に与えた。それにどうしてあなたがたは、わたしが命じた犠牲と供え物をむさぼりの目をもって見るのか。またなにゆえ、わたしよりも自分の子らを尊び、わたしの民イスラエルのささげるもろもろの供え物の、最も良き部分をもって自分を肥やすのか。』(1サムエル記2:27-29)
主の使いは、エリに対し「なぜ自分を肥やすのか」と言っている。
彼の子達がした事によって、自分が肥えた部分がやはりあったのだろう。
エリは、主と、主の民よりも、自分の子達を優先させた。
エリの子達は、戒められたのに、行状を改めなかった。
それなのにエリは、彼らを祭司職にそのまま留まらせ、そうして彼らは、全イスラエルに対し、そして主に対して罪を犯させ続けた。

『それゆえイスラエルの神、主は仰せられる、『わたしはかつて、「あなたの家とあなたの父の家とは、永久にわたしの前に歩むであろう」と言った』。しかし今、主は仰せられる、『決してそうはしない。わたしを尊ぶ者を、わたしは尊び、わたしを卑しめる者は、軽んぜられるであろう。』(1サムエル記2:30)
主は確かに、アロンの子孫に「あなたの家とあなたの父の家とは、永久にわたしの前に歩むであろう」と約束をされたが、エリの家は、忠実でなかった。
私達キリスト者も、自分は罪赦されたのだ、信仰によってアブラハムの子孫となったのだ、などと言って、キリスト者としての聖なる務めをないがしろにして、主を侮ってはならない。
主は、石ころからでもアブラハムの子孫を起こす事がおできになる方であり、悔い改めに相応しい実を結ばずに罪の苦い実ばかり結んでいるとするなら、もみがらのように投げ捨てられ、焼かれてしまうのだ。

ところで、エリは確かにアロンの子孫ではあるが、実は彼が大祭司職をするのは、正当ではない。
エリはアロンの四男・イタマルの子孫であるが、民数記25:10-13によると、アロンの三男エルアザルの子、ピネハスの子孫が、正当な大祭司の職を継ぐ子孫とされており、エリはそれではないのだ。
どういうわけでエリが大祭司になったのかは、定かではない。しかし主は、エルアザルの子ピネハスに与えられた約束を、ずっと後に、実現される。

『見よ、日が来るであろう。その日、わたしはあなたの力と、あなたの父の家の力を断ち、あなたの家に年老いた者をなくするであろう。そのとき、あなたは災のうちにあって、イスラエルに与えられるもろもろの繁栄を、ねたみ見るであろう。あなたの家には永久に年老いた者がいなくなるであろう。・・・そしてあなたの家で生き残っている人々はみなきて、彼に一枚の銀と一個のパンを請い求め、「どうぞ、わたしを祭司の職の一つに任じ、一口のパンでも食べることができるようにしてください」と言うであろう。』(1サムエル記2:31-36)
エリの家に、明確な警告が為された。
「その日が来る」、という内容なので、これはまだ確定ではなく、警告である。
彼らは警告を与えられたのに、この後、行状を改めなかったため、その警告の通りになってしまう。

『しかしあなたの一族のひとりを、わたしの祭壇から断たないであろう。彼は残されてその目を泣きはらし、心を痛めるであろう。またあなたの家に生れ出るものは、みなつるぎに死ぬであろう。あなたのふたりの子ホフニとピネハスの身に起ることが、あなたのためにそのしるしとなるであろう。すなわちそのふたりは共に同じ日に死ぬであろう。』(1サムエル記2:33-34)
この言葉の通り、エリも、彼の二人の息子ホフニとピネハスも、同じ日に死ぬ。(4章)

その死がピネハスの妻に知らされた時にちょうど生まれた子は、イカボデ(「栄光無し」の意)と名付けられ(4:19)、彼の兄であるアヒトブが、その後の祭司の務めを担う事になる。
しかし、アヒトブの子・アヒメレクは、サウル王に言いがかりをつけられ、エリの子孫達や祭司たち85人は、剣によって殺されてしまう事になる。(22章)
こうして、「あなたの家に生れ出るものは、みなつるぎに死ぬ」という預言は成就する。

その時、アヒメレクの子・アビアタルだけが剣を逃れ、ダビデの所に、命からがら逃げて来て、その後、彼はダビデ王によって大祭司に任じられるのだが(22:20、23:6、30:7、1列王記2:27)、結局彼もソロモン王によって罷免され、彼の代わりに、ツァドクの家(ピネハスの子孫)が、大祭司の家系とされる。(1列王記2:35)
こうして「あなたの一族のひとりを、わたしの祭壇から断たないであろう。彼は残されてその目を泣きはらし、心を痛めるであろう。」「そのとき、あなたは災のうちにあって、イスラエルに与えられるもろもろの繁栄を、ねたみ見るであろう。」という預言も、エリの家に成就する事となる。

『わたしは自分のために、ひとりの忠実な祭司を起す。その人はわたしの心と思いとに従って行うであろう。わたしはその家を確立しよう。その人はわたしが油そそいだ者の前につねに歩むであろう。』(1サムエル記2:35)
この、ひとりの忠実な祭司、その家を永遠に確立し、油注いだ者の前を歩むその祭司とは、キリストでなくして、誰だろう。
キリスト(油注がれた者の意)にあって、私達信じる者たちも、祭司職を得ているのだ。

今回のこの箇所は、祭司とされた私達に対しての、戒めである。
祭司職を軽んじているなら、それが取り上げられ、その職は、別の者へと移ってしまうのだ。(使徒1:20)

礼拝説教メッセージ音声:祝福を積み立てるサムエルと滅びを積み立てるエリの家(1サムエル記2:18-26):右クリックで保存

『サムエルはまだ幼く、身に亜麻布のエポデを着けて、主の前に仕えていた。母は彼のために小さい上着を作り、年ごとに、夫と共にその年の犠牲をささげるために上る時、それを持ってきた。(1サムエル記2:18-19)

サムエルの父母は、息子サムエルとは年に一度、捧げ物をする時にしか会えなかったが、母はサムエルのために真心を込めて上着を作り、それを年に一度、サムエルに逢える時に着せてやり、サムエルはそれを身に帯びて御前に仕え、こうして彼は、心も体も霊も健全に育っていった。

『エリはいつもエルカナとその妻を祝福して言った、「この女が主にささげた者のかわりに、主がこの女によってあなたに子を与えられるように」。そして彼らはその家に帰るのを常とした。こうして主がハンナを顧みられたので、ハンナはみごもって、三人の男の子とふたりの女の子を産んだ。わらべサムエルは主の前で育った。』(1サムエル記2:20-21)
祭司は、「子を捧げたほうの妻」すなわちハンナを祝福したのであり、ペニンナではなかった。
ペニンナのように、礼拝という場や捧げ物を、人を煩わせる材料にするような者は、祝福から漏れてしまい、衰えていくのだ。

サムエルは、年に一度しか親に会えず、場所的には離れていたが、愛されている実感と、その愛と真心の実体である手作りの服と、そして親の祈りによって、健全に成長して行った。
それに引き換え、祭司エリの子達は、全く逆の性質を身に付けて行った。

『エリはひじょうに年をとった。そしてその子らがイスラエルの人々にしたいろいろのことを聞き、また会見の幕屋の入口で勤めていた女たちと寝たことを聞いて、彼らに言った、「なにゆえ、そのようなことをするのか。わたしはこのすべての民から、あなたがたの悪いおこないのことを聞く。』(1サムエル記2:22-23)
エリは、息子達の悪行を、人づてに「聞いた」という事は、彼らには普段から親子の会話や交わりが無かったようである。
彼らは共に、シロの主の家で祭司の務めをしていたというのに、心は遠くはなれていたようだ。

エリの子達は、人々が主に捧げる捧げものを食い物にしたばかりでなく、会見の幕屋の入口で勤めていた女たちと寝るという事さえした。
女たちは、主の御そば近くに居たい心・主に捧げ仕えたい心をもって、幕屋の近くで奉仕していたはずなのに、エリの子らはそれさえ食い物にし、踏みにじった。
祭司の子によるこのような悪行は、アロンの子ナダブとアビフのように、主の御前から火が降って来てもおかしくはない状況であるが、主の憐れみは、まだ注がれていた。

『わが子らよ、それはいけない。わたしの聞く、主の民の言いふらしている風説は良くない。もし人が人に対して罪を犯すならば、神が仲裁されるであろう。しかし人が主に対して罪を犯すならば、だれが、そのとりなしをすることができようか」。しかし彼らは父の言うことに耳を傾けようともしなかった。主が彼らを殺そうとされたからである。』(1サムエル記2:24-25)
エリはこのように戒めはしたのに、子達は、全く親や権威を、そして主を恐れるという事なく、行ないも改めなかった。
大人になってからでは、厳しい言葉で戒めたり、また戒めを受け入れて行状を改めるという事が、中々難しくなってしまう。だから箴言にある通り、子の内から、しっかり御言葉によって訓戒しつつ、教育する事が大事である。
『望みのあるうちに、自分の子を懲らせ、これを滅ぼす心を起してはならない。・・・子を懲らすことを、さし控えてはならない、むちで彼を打っても死ぬことはない。もし、むちで彼を打つならば、その命を陰府から救うことができる。』(箴言19:18、23:13-)

このように、人々が主に捧げたい心を持って御前に捧げ物をする度に、罪を犯し、人々をつまづかせ、それを戒めても、行ないを改めないからには、もはや、一刻の猶予なく、彼らを祭司の座から取り除けるべきなのに、エリはそうせず、そのまま放置した。
エリは98歳になっても体が重かった(4:18)、という事は、もしかしたら彼も、息子達の持ってくる脂つきの肉に、日常的にあやかっていたのかもしれない。
とにかく彼らはこうして、ますます滅びの炭火を、自分達の頭上に積み上げていく。

『わらべサムエルは育っていき、主にも、人々にも、ますます愛せられた。』(1サムエル記2:26)
サムエルは、このような環境の中であっても、悪く染まる事が無かった。
それは、信仰の父母の御言葉に基づく愛や祈りの故だろうか。あるいは、生まれながら頭にかみそりを当てられず、他の人とは違う、聖別された者という意識ゆえだろうか。
とにかく彼は、主の御前に誠実に仕えつつ育って行った。
私達もサムエルのように、邪悪な周囲に流されず、ただ主を見上げ、自分がキリストにあって聖別された者、神の子とされた者であるという自覚を持ちつつ、自らをきよく保ち続けたい。

礼拝説教メッセージ音声:人々の主への捧げ物を食い物にしたエリの子達(1サムエル記2:11-17):右クリックで保存

『エルカナはラマにある家に帰ったが、幼な子は祭司エリの前にいて主に仕えた。』(1サムエル記2:11)

エルカナの妻ハンナは、幼い長男という、若き母にとっては最も尊いものを主に捧げ、そして主はそれを豊かに用いられた。
それに引き換え、祭司の子たちは、主の前に悪を行ない、自らの頭上に滅びを積み上げていた。

『エリの子らは、「よこしまな人々(直訳:ベリヤアルの子)」で、主を恐れなかった。』(1サムエル記2:12)
祭司とは、神と人との間に立って執り成しの務めを果たすはずの者だが、祭司エリの子らは、なんと、「主を知らなかった」。
主を知らない祭司。
それは、法定を知らない弁護士や、操縦桿を知らないパイロットよりも、はるかに意味不明な、無価値な存在である。
ベリヤアル(ベリアル)とは元々、無価値な者、邪悪な者の意味である。いかに祭司の子であっても、主を知らないとしたら、ベリヤアルの子になってしまうのだ。
私達も、主の御言葉という「塩気」を失ってしまうなら、無価値なもの(ベリヤアル)として、外に投げ捨てられ、人々に踏みにじられてしまうのである。

『人々が脂肪を焼く前にもまた、祭司の「しもべ(ナーリ:若者、ベイビー)」がきて、犠牲をささげる人に言うのであった、「祭司のために焼く肉を与えよ。祭司はあなたから煮た肉を受けない。生の肉がよい」。その人が、「まず脂肪を焼かせましょう。その後ほしいだけ取ってください」と言うと、しもべは、「いや、今もらいたい。くれないなら、わたしは力づくで、それを取ろう」と言う。』(1サムエル記2:15-16)
民の捧げるいけにえからは、確かに、特定の部位を祭司が自由に受け取って良い。
しかし、脂肪の部分は人が手をつけてはならず、主の御前に焼き煙にして捧げるべき「神の食物」である。(レビ記21:6)
『イスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは、すべて牛、羊、やぎの脂肪を食べてはならない。自然に死んだ獣の脂肪および裂き殺された獣の脂肪は、さまざまのことに使ってもよい。しかし、それは決して食べてはならない。だれでも火祭として主にささげる獣の脂肪を食べるならば、これを食べる人は民のうちから断たれるであろう。』(レビ記7:23-25)
彼らは、してはならない事と知りつつも、敢えて行っていたのだろう。
なにしろ、祭司ではない一般の民が「まず脂肪を焼かせましょう。その後ほしいだけ取ってください」と諌めているくらいだから。

現代風に言うなら、聖徒が講壇の前に献金をささげ、主に祈っている最中に、牧師がやってきて、その献金をわしづかみにして持ち去ってしまうようなものだろうか。
あるいは、聖徒の食事のもてなしを「牧師は、食事やもてなしでは受けない、ただ現ナマのピン札でしか受け取らない、拒否するなら、そのお代は力づくで取ろう」などと言うようなものだろうか。
そのような事をされたら、その聖徒の主への思いがどうなってしまうかは、想像に難くない。

『このように、その若者たちの罪は、主の前に非常に大きかった。この人々が主の供え物を軽んじた(naats)」からである。』(1サムエル記2:17)
ここは、「人々が主に供え物をする事を忌み嫌わせた」とも訳せる。

捧げものは、主を愛する人々が、主に、愛と真心と感謝を込めて捧げるものであるのに、祭司がそれを独り占めにし、全部食い物にしていたのだ。
これでは、人々は「もう捧げるものなぞ持って来るか」となってしまっても、仕方がない。
主は、そのような事を、決して放置して置かない。
そのような事をするしている者は、自らにさばきを招き、弱くなったり、病になったり、死へと向かっているのだ。
『ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。あなたがたの中に、弱い者や病人が大ぜいおり、また眠った者も少なくないのは、そのためである。・・・もし空腹であったら、さばきを受けに集まることにならないため、家で食べるがよい。』(1コリント11:27-34)

私達は、礼拝に集う時は、教会がキリストのからだである事を意識し、聖徒の交わりや愛さん、また、主への奉仕や捧げ物を、あたかも、自分の所有物のように勘違いしたり、あるいいは軽んじたりして、その身にさばきを招いてはならない。

礼拝説教メッセージ音声:ハンナの賛歌(1サムエル記2:1-10):右クリックで保存

今回の箇所は、ハンナの喜びに溢れた祈りが記されており、その内容は、イエスの母マリヤの賛歌に、非常によく似ている。

天地宇宙を造られた、永遠なる主が、こんなにも小さな、貧しい、取るに足らない自分に関わって下さって、とても大きな事を為して下さった。
その事を、マリヤもハンナも大いに喜んでいる。
当然その喜びは、私達キリスト者の喜びでもある。

ハンナは、主は全部知っておられた、あの時の言葉にならない呻きの祈りも、長い間ペニンナに心悩まされていた事も、あの時この時の私の心理状態や状況も、全部知っておられたのだ、と驚いている。(3節)
それはキリスト者なら皆味わうはずの共通の驚きと喜びであり、有名な「おどろくばかりの(アメージンググレース)」の賛美も、そのようにして生まれた。

『ハンナは祈って言った、/「わたしの心は主によって喜び、/わたしの力は主によって強められた、/わたしの口は敵をあざ笑う、/あなたの救によってわたしは楽しむからである。』(1サムエル記2:1)
ハンナは、最もいとしいであろう幼子を、神の家に預けたその直後の時期に、なぜ、こんなにも喜んでいられるのか。
それは、主が彼女を全部知っておられた事、主ご自身が直接的に関わって下さった事が、嬉しくて嬉しくて仕方なかったのだろう。
そして、その子が全能なる主の元で養われる事が、彼にとって何より幸せであると、わかっていたからだろう。
事実、サムエルの名は、聖書の一巻の名前にもなる程、重要な人物となった。
それはまさしく、彼女の信仰による行いの故である。

『主のように聖なるものはない、/あなたのほかには、だれもない、/われわれの神のような岩はない。』(1サムエル記2:2)
主を「岩」とする表現は申命記にも少し出てきたが、岩なる主は、キリストを意味している。(1コリント10:4)
「岩」であられる主は、信じる人には頼もしい救いの拠り所だが、信じない人には、妨げの岩、つまづきの岩である。(1ペテロ2:8)

『あなたがたは重ねて高慢に語ってはならない、/たかぶりの言葉を口にすることをやめよ。主はすべてを知る神であって、/もろもろのおこないは主によって量られる。勇士の弓は折れ、/弱き者は力を帯びる。飽き足りた者は食のために雇われ、/飢えたものは、もはや飢えることがない。うまずめは七人の子を産み、/多くの子をもつ女は孤独となる。』(1サムエル記2:3-5)
自分の力や富、持ちものの故に高慢になっている者は、必ず衰える。そして、主に信頼を置く者こそ、永遠に幸いを得る。
彼女はその事を歌っており、これはマリヤも同じ賛歌を歌っている。
『主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。』(ルカ1:51-53)
全てのものは主から出たものであり、その主を重んじるか、軽んじるかによって、人の永遠は決まってしまうのだ。

『主は殺し、また生かし、/陰府にくだし、また上げられる。主は貧しくし、また富ませ、/低くし、また高くされる。貧しい者を、ちりのなかから立ちあがらせ、/乏しい者を、あくたのなかから引き上げて、/王侯と共にすわらせ、/栄誉の位を継がせられる。地の柱は主のものであって、/その柱の上に、世界をすえられたからである。』(1サムエル記2:6-8)
これはまさしくメシヤなるキリストを現している。
彼は殺され、また生かされた。陰府に降り、三日目に上げられ、天に昇られた。
主はひと度、貧しくなられ、低くされ、そして圧倒的に高くされ、富む者となった。
これはまさに、十字架につけられた神の子キリストの有り様であり、そして私達キリスト者も、キリストと同じく、世にあっては低い身分のように見えても、天においては高い身分であり、悲しんでいるかのように見えても、大いに喜んでおり、死んだも同然のような者であっても、永遠に生きるものとされ、何も持たないかのように見えても、全てを持っている。(2コリント6:1-10)

『主と争うものは粉々に砕かれるであろう、/主は彼らにむかって天から雷をとどろかし、/地のはてまでもさばき、/王に力を与え、/油そそがれた者の力を強くされるであろう。』(1サムエル記2:10)
ここに「油注がれた者(ヘブライ語:マシヤハ)」と記されているが、それはメシヤなるキリストが力を受け、神の敵を永遠に滅ぼす事を預言している。
一介の、貧しい、一女性が、メシヤを預言した。
私達信仰者も、メシヤなるキリストを表現する者である。
ただ主にだけ寄り頼む者に、主はインマヌエル(共におられる主)として現れ、プライベートに密接に関わってくださり、そしてメシヤなるキリストの有り様を、細かく示して下さるのだ。

モルデカイ - 死の法令は命の法令で塗り替えよ(エステル8章)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
賛美集会音声:右クリックで保存
第二礼拝・礼拝音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

ハマンは、自ら立てた木に架けられ、呪われた者となり、その代わりにモルデカイは栄誉を受け、ハマンの家もモルデカイのものとなった。ハマンに与えられていた支配の実印は、そのままモルデカイに渡された。
イエス様も私達の身代わりとなるため、父なる神様から、ハマンと同様の罪人とされ、木にかけられた。
そのお陰で、私達はイエス様の家と、イエス様の実印が渡され、神の子としてのあらゆる良き特権を得た。
ハマンは死に、モルデカイには支配の実印が渡され、ハマンの家も与えられたが、まだ一件落着ではない。
このままでは、ハマンが定めたユダヤ人殺害の日、12月13日に、モルデカイもユダヤ人も殺されてしまう。
そこでエステルは、この今だ有効なユダヤ人殺害命令を取り消してもらうために、再び王の前に出たが、王が彼らに言った事は、一度発布してしまった法は取り消せない、だから、ハマンが定めた法律に対抗する法律を定めて、王の名で実印を押し、それをこの国で有効化させなさい、というものだった。

メド・ペルシヤの法令は一度発令されてしまったらもう取り消し出来ないが、天の法令も、そうである。
人は、罪を犯したら必ず死ななければならない、という天の法令は、決して取り消す事ができない。
ハマンは最初、ユダヤ人を殺害し、富を分捕り、それを国庫に収めようとしたが、サタンも同じ目論見をした。
人は神に愛され、守られ、神と共に永遠に生きるはずが、サタンは人を妬んでそそのかし、人が生来持っていないもの、すなわち、外来性の罪の刺を、人に刺した。それで人は、したくない罪を犯すようになってしまった。『この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。』(ロマ7:17)
憐れみ深い主は、それに対抗する法令、すなわち、私達の罪の身代わりとなって木に架けられ死なれたイエスキリストを信じる信仰により、罪赦され、死を免れるという、いのちの御霊の法則を制定して下さった。
『こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。』(ローマ8:1-2)
サタンはキリストによって既に頭を砕かれたが、それでも、サタンが人をそそのかし罪へ陥れたその効力は、今だに猛威を振るったままである。しかし、それに対するカウンターの法則に乗れば、罪と死に打ち勝つ事が出来る。それは、イエス・キリストを信じる信仰の法則によってである。
勝利の鍵は、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の法則に、乗る事であり、そこには自分の資質や能力、努力など、一切関係無い。飛行機に乗るなら、重力の法則を打ち負かして飛行して行くように、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則に乗るなら、罪と死の法則を打ち負かして、死をいのちへと飲み込んで行くのである。主は、法則に束縛された私達に、人の資力によらぬ、法則による解放を与えて下さったのだ。

モルデカイは、ユダヤ人の敵に対しては残らず根絶やしにし、その家財を分捕る事も許す法令を発布した。(9-11節) その良き知らせが早馬によって世界中に告げ知らせられたが、同じように今、福音(エヴァンゲリオン:勝利の良き知らせ)が、世界中に届けられつつある。サタンに敵対して打ち破り、サタンの家財を大いに分捕って良しという勝利の良き知らせは今、全世界に告げ知らされ、私達はその使者となった。
しかし、法則をただ単に知っているだけでは、効力は発動されない。ハマンが定めた法令に対抗手段を講じず、そのまま置くなら、12月13日には滅ぼされてしまうように、日々迫り来る罪や死、病や困難に対し何の行動も起さなければ、やがて滅んでしまう。私達は日々迫り来る罪や死に対しては、イエス・キリストの名によって拒否し、イエスにつく者として勝利を宣言し、そして、信じた通りに、行動しなくてはならない。
サタンが定めた罪と死の法則を鵜呑みにしたままなら、いかに神の民といえ滅んでしまうが、キリストが定めたいのちの御霊の法則を適用し、その通り行動するなら、確かに救われ、勝利し分捕る事ができるのだ。

モルデカイは栄誉が与えられ、青白の王服と金の冠を身に帯びて、王の前から出てきた。(15節)
同じように私達も、王族の祭司の特権と栄冠が与えられ、王として統べ治めるのだ。(1ペテロ2:9)
だから今、私達は主イエス・キリストが定めて下さった、いのちの御霊の法則に、しっかり根ざすべきだ。
サタンは一度、罪と死を人類に導入し、人はそれに何ら対抗できなかったが、今や主イエス・キリストが勝利し、彼にあって堂々と対抗できるようになった。私達は彼にあって、必ず勝利し、分捕る事が出来る!
この法則に従って、勝利の内に歩む皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
ともし火と共に油を用意せよ(マタイ25:1-13):右クリックで保存
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礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
これはわたしの愛する子、これに聞け(マタイ17:1-13):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
正しい夫婦関係の回復(雅歌6章):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
つくばエクレシア礼拝(エステル記7章):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
高ぶりは破滅に先立つ(箴言16:13-22):右クリックで保存

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