メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ
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世の法則を上塗りする神の国の法則(マタイ15:29-39)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » マタイによる福音書
- 執筆 :
- pastor 2014-12-21 20:12
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
世の法則を上塗りする神の国の法則(マタイ15:29-39):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
花嫁を迎えた花婿の喜び(雅歌4:1-8):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
悟る人と悟らない人マタイ(2:7-12):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:暴走して何もかも破壊した後に残ったもの(士師記21:1-15):右クリックで保存
『かつてイスラエルの人々はミヅパで、「われわれのうちひとりもその娘をベニヤミンびとの妻として与える者があってはならない」と言って誓ったので、民はベテルに行って、そこで夕暮まで神の前に座し、声をあげて激しく泣いて、言った、「イスラエルの神、主よ、どうしてイスラエルにこのような事が起って、今日イスラエルに一つの部族が欠けるようになったのですか」。』(士師記21:1-3)
彼らは、どうしてイスラエルにこのような事が起ったのですか、と主に叫んだが、全て、自分達で引き起こした事ではなかっただろうか。
ベニヤミン族の悪行について興奮し、議論を飛ばし、彼らの罪に報復するまでは自分らは決して帰らない、と、戦いを仕掛けたのも自分達であるし、2度の敗北の末にやっと勝利した時には、当該の町以外にも攻め入り、女子供や家畜さえも虐殺し、自分の娘は、ベニヤミンには一切嫁がせない、と誓ったのも、自分達ではなかったか。
そのために、ベニヤミンは女子供は全員殺されてしまい、男たち600人ほどだけしか生き残りがなくなってしまった時に、はじめて後悔したのだ。
私達もよく、そのような過ちを犯しやすい。
怒るべき物事が起きたとき、御心を伺う事も、御言葉に聞く事さえしないで、自らを奮い立たせたり、人間同士で議論し意見を述べ合ったりして激昂し、暴走し、後に自分のしてしまった破壊の跡を見て「主よ、なぜこのような事が起きたのですか」と言ってのけるような事を。
『翌日、民は早く起きて、そこに祭壇を築き、燔祭と酬恩祭をささげた。』(士師記21:4)
この事は一見、信仰深いように見えても、実は、律法違反である。
申命記12章によると、主に捧げ物を捧げるのは、ただ主が選ばれた場所でのみ許されており、それ以外の場所に祭壇を築いていけにえを捧げる事は反逆に等しい行為である。
実際、ヨシュアの時代に、ルベン、ガド、マナセの半部族が、自前の場所に祭壇を築いた故に、全イスラエルを巻き込む戦争に発展しかねない事態にまで陥った事は、記憶に新しいはずだ。
彼らは一見、熱心に神に仕えている「つもり」でいて、実は御心にそぐわない事ばかりしているのだ。
このように、御心を外した「ひとりよがりの熱心」は、神にも人にも迷惑な害悪でしかない。
『そしてイスラエルの人々は言った、「イスラエルのすべての部族のうちで集会に上って、主のもとに行かなかった者はだれか」。これは彼らがミヅパにのぼって、主のもとに行かない者のことについて大いなる誓いを立てて、「その人は必ず殺されなければならない」と言ったからである。彼らはまた言った、「イスラエルの部族のうちで、ミヅパにのぼって主のもとに行かなかったのはどの部族か」。ところがヤベシ・ギレアデからはひとりも陣営にきて集会に臨んだ者がなかった。』(士師記21:5-8)
彼らは、今度は自分達が立てていたもう一つの誓い、すなわち、自分達と共に集まらなかった者は必ず殺されなければならない、という誓いを持ち出して、その者を探し出す事に取り掛かる。
彼らは主の御名を用いてはいるが、それは、主を敬っているからではない。
彼らは主の御旨よりも、自分達の意見を優先しており、自分の思い通りに行かせる道具として、主の御名を用いているに過ぎない。
あたかも、暴走族のリーダーが、自分の召集に集わなかった者をリンチする心情に似ているが、彼らは暴走族よりもひどいことに、町ごと殺してしまうのだ。
『そこで会衆は勇士一万二千人をかしこにつかわし、これに命じて言った、「ヤベシ・ギレアデに行って、その住民を、女、子供もろともつるぎをもって撃て。そしてこのようにしなければならない。すなわち男および男と寝た女はことごとく滅ぼさなければならない」。こうして彼らはヤベシ・ギレアデの住民のうちで四百人の若い処女を獲た。これはまだ男と寝たことがなく、男を知らない者である。彼らはこれをカナンの地にあるシロの陣営に連れてきた。』(士師記21:10-12)
彼らはつい先日、ベニヤミン族ごと虐殺してしまったのに、今度は、ヤベシ・ギレアデの住人を殺戮して、若い処女たちを奪って来てしまう。
もはやイスラエルは、兄弟同士で殺しあう事を何とも思わなくなってしまったようである。
彼らは、自分の立てた誓いの結果、不都合が生じた場合、自分が悔い改めるのではなく、その不都合分を補填するために、町ごと殺して、そこから若い処女たちを得たのだ。
彼らは自分達の立てた誓いのゆえに、イスラエルの一部族を虐殺し、一つの町を虐殺して若い処女たちを奪った。
もう、何が何やらである。
『そこで全会衆は人をつかわして、リンモンの岩におるベニヤミンの人々に平和を告げた。ベニヤミンの人々がその時、帰ってきたので、彼らはヤベシ・ギレアデの女のうちから生かしておいた女をこれに与えたが、なお足りなかった。こうして民は、主がイスラエルの部族のうちに欠陥をつくられたことのために、ベニヤミンをあわれんだ。』(士師記21:13-15)
彼らは、ベニヤミンのために女たちを得たつもりだったが、なお足りなかった。
そこで彼らはさらに、別の解決案を考案し、さらに良くない代償行為を積み重ねようとしている。
イエス様は言われた。
『また昔の人々に「いつわり誓うな、誓ったことは、すべて主に対して果せ」と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。・・・あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。』(マタイ5:34-37)
結局、かろがろしく誓ったり、身勝手な口約束を乱発する事は、自分と他人をがんんじがらめにしてしまい、その結果色々な不都合が生じ、それを補填するために、さらに別の代償行為を乱発して、どんどんいびつな形になって行くという、負の連鎖が生まれてしまう。
だから、はいははい、いいえはいいえ、だけ言うべきで、それ以外は、悪から来るのだ。
自分の立てた誓いや、決まり事は、大勢を殺してでも尊守させ、それでいて、肝心の御言葉は実行しないというのは、パリサイ人の罠である。
『イエスは彼らに答えて言われた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか。・・・こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。偽善者たち。イザヤはあなたがたについて預言しているが、まさにそのとおりです。『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』」』(マタイ15:3-9)
「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ9:12-13)
私達は自分の頭で考案した方法を人に押し付けたり、また自分自身それによって縛られるのでなく、御心を求め、御言葉を守り行う者でありたい。
礼拝説教メッセージ音声:遂行されたベニヤミンに対する主の裁き(士師記20:29-48):右クリックで保存
重なる敗北の末、真剣に主の前に立とうと努力したイスラエルに、主は、勝利の約束を与えて下さった。
すぐに勝利が与えられなかった事は、実は恵みである。
もし、彼らがすぐに勝利していたとしたなら、真剣に主を呼び求める努力もせず、悔い改めも無いまま、さらに悪くなって行っただろう。
『そこでイスラエルはギベアの周囲に伏兵を置き、そしてイスラエルの人々は三日目にまたベニヤミンの人々のところに攻めのぼり、前のようにギベアに対して備えをした。』(士師記20:29-30)
伏兵と言えば、ヨシュア記を思い出す。
ヨシュアの時代も、エリコでの勝利に慢心し、主に伺いも立てずにアイの町を攻めて行った結果、敗北し、36人が打たれてしまったが、その時ヨシュアは対応が早かった。
彼はすぐにへりくだって主に伺い、自分達の中に聖絶のものがある事が示され、それを除き去った結果、すぐに主の守りが戻った。
その際、主は伏兵を用いて戦うように示され、ヨシュア達はその通りに戦って、勝利を得た。
今回の戦いでは、伏兵を置くように特に指示はされていないが、きっとイスラエルは信仰の先祖達の歴史をひもとき、彼らの信仰に倣ったのだろう。
『ベニヤミンの人々は出て、民を迎えたが、ついに町からおびき出されたので、彼らは前のように大路で民を撃ちはじめ、また野でイスラエルの人を三十人ばかり殺した。その大路は、一つはベテルに至り、一つはギベアに至るものであった。ベニヤミンの人々は言った、「彼らは初めのように、われわれの前に撃ち破られる」。しかしイスラエルの人々は言った、「われわれは逃げて、彼らを町から大路におびき出そう」。
そしてイスラエルの人々は皆その所から立ってバアル・タマルに備えをした。その間に待ち伏せていたイスラエルの人々がその所から、すなわちゲバの西から現れ出た。すなわちイスラエルの全軍のうちから精兵一万人がきて、ギベアを襲い、その戦いは激しかった。しかしベニヤミンの人々は災の自分たちに迫っているのを知らなかった。主がイスラエルの前にベニヤミンを撃ち敗られたので、イスラエルの人々は、その日ベニヤミンびと二万五千一百人を殺した。これらは皆つるぎを帯びている者であった。』(士師記20:31-35)
この戦いは、主(エホバ)が戦われた、と記されている。
主は侮られるような方ではない。いつまでも悪が罰せられないまま生き残って栄えるわけではない。
最初と、2回目の戦いでは、ベニヤミン族が勝利したが、それによって彼らがますます驕り高ぶり、その者達をいちどきに滅ぼすために、敢えて泳がされていたのだ。
『まことにあなたは彼らをなめらかな所に置き、彼らを滅びに陥らせられる。なんと彼らはまたたくまに滅ぼされ、恐れをもって全く一掃されたことであろう。』(詩篇73:18-19)
主は、ソドム以下の罪を犯すような者がいつまでも勝ち誇る事を、許されない。
その者の奢りが誰の目にも明確となり、「滅ぼされるに相応しい」というリミットに達したある時、滅びが適用されてしまうのだ。
ゆえに、悪者がますます栄えるのを見た時、その者の終わりが近づいていると思って良い。
『その時イスラエルの人々が向きを変えたので、ベニヤミンの人々は災が自分たちに迫ったのを見て、うろたえ、イスラエルの人々の前から身をめぐらして荒野の方に向かったが、戦いが彼らに追い迫り、町から出てきた者どもは、彼らを中にはさんで殺した。』(士師記20:41-42)
このようにして、主による、ベニヤミンへの正当な裁きが為された。
ソドムは、地獄の炎で焼きつくされたが、神の民と呼ばれる者の、主をも恐れぬ横暴さへのさばきは、神の民の剣と、火による。
『すると、獣は捕えられた。また、獣の前でしるしを行ない、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕えられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている”火の池”に、生きたままで投げ込まれた。残りの者たちも、馬に乗った方の口から出る”剣”によって殺され、すべての鳥が、彼らの肉を飽きるほどに食べた。』(黙示録19:20-21)
『しかし六百人の者は身をめぐらして荒野の方、リンモンの岩まで逃げて、四か月の間リンモンの岩に住んだ。そこでイスラエルの人々はまた身をかえしてベニヤミンの人々を攻め、つるぎをもって人も獣もすべて見つけたものを撃ち殺し、また見つけたすべての町に火をかけた。』(士師記20:47)
イスラエルの民も、ベニヤミン族にも勝るとも劣らない野蛮さがある。
律法では、町ぐるみで偶像礼拝が行われていたなら、その町を聖絶し尽くすべき事は確かに記されているものの(申命記13章)、実際に罪が行われたギブアのみならず、周辺のベニヤミンの町々までも、見つけ次第、女子供や家畜さえ虐殺し、滅ぼし尽くしたのだ。
(もっとも、その律法に照らすなら、偶像礼拝はイスラエル全体ではびこっているわけであるから、イスラエルは誰も彼も、滅ぼし尽される対象となるはずだが)
兄弟姉妹が悪い事を犯した時、それを大上段に振りかざして、何をしても良いとばかりに仕返しするのは、横暴である。
当時のイスラエルは、その過度の横暴の故に、神が育まれたイスラエル12部族から、一つが欠けてしまう危機に陥った。
イスラエルは、御言葉が無い故に暴走し、自分達の罪という壁のあちこちにぶつかって、傷を受け、とても痛々しく悲しい所を通らされている。
主は、待っておられる。
彼らが自分達の罪に懲りて、主に立ち返る事を。
私達は、この士師記から戒めを得て、決して御言葉から離れる事なく、主の道を外さずに歩む者でありたい。
礼拝説教メッセージ音声:主に正しく向き合うまでの惨敗続き(士師記20:19-28):右クリックで保存
『そこでイスラエルの人々は、朝起きて、ギベアに対し陣を取った。すなわちイスラエルの人々はベニヤミンと戦うために出て行って、ギベアで彼らに対して戦いの備えをしたが、ベニヤミンの人々はギベアから出てきて、その日イスラエルの人々のうち二万二千人を地に撃ち倒した。しかしイスラエルの民の人々は奮いたって初めの日に備えをした所にふたたび戦いの備えをした。』(士師記20:19-22)
ベニヤミン族と、残りのイスラエル11部族との戦いの火蓋が、いよいよ切って落とされた。
ベニヤミンは数では圧倒的不利であるし、大義も彼らの側には無く、神と人との前に悔い改めも無いまま、強情にも戦いに来たのに対して、イスラエルの側は、数では既に圧倒し、神に伺いを立てた所、「ユダが先に行け」という示しまで頂いた。
兵力においても、大義においても、霊性においても、イスラエル側のほうに分がある、と思いきや、初日の戦いでイスラエルは惨敗を喫してしまう。
一体どうした事だろう。
大義はこちら側にあるはずなのに、そして主に伺って導きまで頂いたというのに惨敗し、悪が栄えてしまうような時は、疑うべきだ。
自分達はほんとうに、主の御前に正しく立っていたかどうかを。
『そしてイスラエルの人々は上って行って主の前に夕暮まで泣き、主に尋ねた、「われわれは再びわれわれの兄弟であるベニヤミンの人々と戦いを交えるべきでしょうか」。主は言われた、「攻めのぼれ」。』(士師記20:23)
彼らはここに来て、はじめて「われわれは戦いを交えるべきでしょうか」と、質問をした。そう、イスラエルは元々、そんな根本的な質問さえ、していなかったのだ。
彼らは最初、神抜きの議論熱弁に激昂し、ベニヤミンを打ち滅ぼすまでは決して引くまい、と、堅く決意した後で、取って付けたかのように主に伺いを立て「誰が最初に行くべきか」と主に伺った。
彼らは自分の意見主義主張を御心よりも優先させたために、惨敗を喫したのだ。
その結果、彼らは少しだけ、霊的にまともになった。
その日の内に、ギブアから10kmほど北へ上って、夕暮れまで御前で泣き、その上で、主に伺うようになったのだ。
『そこでイスラエルの人々は、次の日またベニヤミンの人々の所に攻めよせたが、ベニヤミンは次の日またギベアから出て、これを迎え、ふたたびイスラエルの人々のうち一万八千人を地に撃ち倒した。これらは皆つるぎを帯びている者であった。』(士師記20:24-25)
今度は、主から「攻めのぼれ」という示しがあり、戦う事が御心であると明確に分かった。
しかし、今度もまた惨敗を喫してしまった。
まだ、彼らの主に対する態度が正しくなかったのである。
これまでの戦績を見ると、イスラエルは、40万の十分の一に相当する4万人が、既に殺されてしまった。それなのに相手は全く被害が出ていない。
イスラエルは、うろたえただろう。
こうして彼らは、さらに真剣になって、主の前に立つようになった。
『これがためにイスラエルのすべての人々すなわち全軍はベテルに上って行って泣き、その所で主の前に座して、その日夕暮まで断食し、燔祭と酬恩祭を主の前にささげた。そしてイスラエルの人々は主に尋ね、・・・そして言った、「われわれはなおふたたび出て、われわれの兄弟であるベニヤミンの人々と戦うべきでしょうか。あるいはやめるべきでしょうか」。主は言われた、「のぼれ。わたしはあす彼らをあなたがたの手にわたすであろう」。(士師記20:26-28)
イスラエルは今までに無かった事を行っている。
それは、主の前に「座した(ヤーシャブ:座る、住む、留まる)」事、また、断食した事、そして、全焼のいけにえと、和解のいけにえとを捧げた事だ。
彼らはまず「主の前に座した。」
以前は主の御前に低くなる事無しに、主に伺うだけ伺って、示しが与えられたならそのまま出て行ったものだが、今回は、主の前に自らを低くし、主の御前にとどまったのだ。
また「断食」をし、御旨が示されるまでは、自分の好むことを主の前で止めたのだ。
そして「全焼のいけにえと、和解のいけにえを捧げた。」すなわち、全身全霊を捧げるための捧げ物と、神と和解するための捧げ物を主に捧げた。
主は、敢えて悪人を栄えさせ、神の民を災い続きにされる事がある。
それは、神の民が御前に正しく立つべき事を教えるためであり、また、主の真実と公平が、主のすばらしき御業が、誰の目にも明らかにさるためである。
『主はモーセに仰せられた。「パロのところに行け。わたしは彼とその家臣たちを強情にした。それは、わたしがわたしのこれらのしるしを彼らの中に、行なうためであり、わたしがエジプトに対して力を働かせたあのことを、また、わたしが彼らの中で行なったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせるためであり、わたしが主であることを、あなたがたが知るためである。」』(出エジプト記10:1-2)
士師記の時代のイスラエルは、主の御前に正しくない態度を取り続けて来たために、惨敗続きとなった。
その結果、彼らは本気で主との正しい関係を持とうと努力するようになった。
そして彼らは、自ら高慢を捨て、自分の好む事を捨て去って、一心に主に求めるようになり、そして、主の前に犠牲を捧げた。
そうしてようやく、主から「わたしはあす彼らをあなたがたの手にわたすであろう」と、勝利の約束をいただけたのだ。
もし、こちら側に正義がある筈なのに、また、主に伺いを立てているつもりなのに、惨敗続きで、悪がただ栄えているとしたならば、まず、主との関係を吟味する必要がある。
主の前に高慢になっていなかったかどうか。
主に伺う事よりも、自分の好む事を優先して行っていなかったかどうか。
そして、主に捧げ物をする事を怠ってはいなかったか。
また、悔い改めるべきを、悔い改めず、主と和解していない状態のままではなかったか。
『そのころ神の契約の箱はそこにあって、アロンの子エレアザルの子であるピネハスが、それに仕えていた』(20:27-28)
ピネハスと言えば、イスラエルが荒野で40年さまよい歩いていた終盤の時期、イスラエルの中で不品行が生じた時に、主の怒りを自分の怒りとし、みだらな事をしていた男女を、槍で一刺しに貫き、神の怒りをなだめた、あの祭司である。(民数記25章)
彼は御前に忠実で、罪に対して決して妥協しなかったからこそ、いのちが祝福され、出エジプト記から士師記の時代に至るまで主の前に仕えていたのだ。
『「祭司アロンの子なるエレアザルの子ピネハスは自分のことのように、わたしの憤激をイスラエルの人々のうちに表わし、わたしの怒りをそのうちから取り去ったので、わたしは憤激して、イスラエルの人々を滅ぼすことをしなかった。このゆえにあなたは言いなさい、『わたしは平和の契約を彼に授ける。これは彼とその後の子孫に永遠の祭司職の契約となるであろう。彼はその神のために熱心であって、イスラエルの人々のために罪のあがないをしたからである』と」。』(民数記25:11-13)
彼がまだ主の御前につかえていた、という事は、これら一連の忌まわしい事件は、ヨシュアの死後、さほど経っていない時期に起きた事になる。
中々信じがたい事かもしれないが、いかに信仰者の子であっても、性的・モラル的に堕落してしまうのは、あっという間に起こりうるという事も、忘れてはならない。
だからこそモーセは、申命記で口を酸っぱくして命じたのだ。
生まれてきた子には律法を朗読し、守り行わせ、しっかり信仰を継承すべき事を。
私達もいつも霊的に目を覚まし、信仰が途絶えてしまわないように、気をつけていなくてはならない。
礼拝説教メッセージ音声:ベニヤミン族との決裂(士師記20:12-18):右クリックで保存
『イスラエルのもろもろの部族は人々をあまねくベニヤミンの部族のうちにつかわして言わせた、「あなたがたのうちに起ったこの事は、なんたる悪事でしょうか。それで今ギベアにいるあの悪い人々をわたしなさい。われわれは彼らを殺して、イスラエルから悪を除き去りましょう。』(士師記20:12-13)
全イスラエルは、かの邪悪な事をしたベニヤミンの者達に報復しようと共に集ったが、いきなり戦いを仕掛ける事はせず、まずは話し合いで解決しようと、使者を遣わした。
主にある兄弟姉妹が、何か罪を犯したという事であるなら、いきなり制裁を加えたり、除名したりするのではなく、まずは事実関係を正確に知り、二人また三人で忠告するべき事が主から命じられている。(マタイ18:17-20)
二人でも三人でも、主の名の元に集まるなら、そこには主がおられ、彼らが地上で心を合わせて祈るなら、それは天においても繋がれ、あるいは解かれたりするという権威を、主は、教会にお与えになった。
私達教会は、その偉大な権威を正しく行使しなくてはならない。
『イスラエルのもろもろの部族は人々をあまねくベニヤミンの部族のうちにつかわして言わせた、「あなたがたのうちに起ったこの事は、なんたる悪事でしょうか。それで今ギベアにいるあの悪い人々をわたしなさい。われわれは彼らを殺して、イスラエルから悪を除き去りましょう」。しかしベニヤミンの人々はその兄弟であるイスラエルの人々の言葉を聞きいれなかった。
かえってベニヤミンの人々は町々からギベアに集まり、出てイスラエルの人々と戦おうとした。その日、町々から集まったベニヤミンの人々はつるぎを帯びている者二万六千人あり、ほかにギベアの住民で集まった精兵が七百人あった。このすべての民のうちに左ききの精兵が七百人あって、いずれも一本の毛すじをねらって石を投げても、はずれることがなかった。イスラエルの人々の集まった者はベニヤミンを除いて、つるぎを帯びている者四十万人あり、いずれも軍人であった。』(士師記20:12-17)
ベニヤミン族は、ソドム以下の蛮行に及んだ者が、自部族の中から出てしまったというのに、それを自分達の中から除き去ろうとはせず、かえって、彼等をかばう行動に出て、徹底抗戦の構えを見せた。
他のイスラエル全体を敵に回して戦うには、数としては圧倒的不利だというのに、それでも彼等は心頑なになってしまった。
もはや意地の張り合いになってしまったのかもしれないが、いずれにせよ彼らは、自分達はソドム以下の蛮行をする者であっても命がけで守り、彼らの行動に同意します、と、公に表明してしまったようなものだ。
主は侮られるようなお方ではない。その報いは、非常に高くついてしまう。
『イスラエルの人々は立ちあがってベテルにのぼり、神に尋ねた、「われわれのうち、いずれがさきにのぼって、ベニヤミンの人々と戦いましょうか」。主は言われた、「ユダがさきに」。』(士師記20:18)
ここに来て、イスラエル側は主に伺いを立てている。
主に伺う事は「良い事」であるのに変わりはないが、問題なのは、そのタイミングである。
彼らは、自分達が何をするかを既に決定してしまった後で、後付けのように主に伺いを立てており、自分達の意志のほうが主の御心よりも優先させてしまっている。
普段は主に伺う事をせず、自分で何もかも計画し、立案し、決定してから、取ってつけたかのように主に祈る人は多いが、そのような人は、やがて大失敗するものだ。
ヨシュアは、強敵エリコを攻略する前は、主の軍の将から必勝法を伝授してもらった。
その内容は、人の知恵では実に愚かに見えるものだったのに、それでも彼らが御言葉に従順したら、あっさりと勝利できた。
しかし、その後のアイの攻略の時は、主に伺う事をしなかった。
彼らはその時、決して戦ってはならない状態、すなわち、聖絶のものを抱え持った状態であるのに、それに気づかず、人間の見た目や判断に従って戦いに出て行ってしまったため、惨敗してしまった。
そこでヨシュアは、すぐに主に伺いを立てた所、自分達の中に聖絶のものがある事を示され、それを取り除いた時、再び勝利できる状態に戻った。
私達も、主に伺う事をせしないで、自分達の「良かれ」で進んでいってしまうと、災いをもたらしてしまう事になる。
この後、イスラエルは散々な目に遭う事になる。
しかしそれは、彼らが真に主に立ち返るための主の懲らしめであり、訓練なのだ。
主に打ち叩かれて強制的に修正されるのではなく、細書から主の御旨を求め、御言葉から外れて災いの道へと遠回りする事なく、安全に主の道を歩む皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
東方の博士達 - 礼拝者への宇宙規模の贈り物(マタイ2:1-12)
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全世界を救いへと導く、天地を創られた神の御子が地上に来られたのは、一介の貧しい夫婦の元、それも、馬小屋の馬槽の中に、赤ちゃんとして宿られた。バプテスマのヨハネのように公ではなく、密やかにであったため、そのお生まれはユダヤでは誰も知らなかったが、それは、東方の博士達は知っていた。
東方の「博士」はギリシャ語ではマゴス、まじないをする人や占星術者であり、救いから程遠い汚れた者とされる者だったが、彼らはメシヤのお生まれを真っ先に悟り、はるばる旅して礼拝しに来た。
ユダヤの王がお生まれになったとあれば、ユダヤの王宮に行けば出会えると思って王宮に入り、その王座に座っているヘロデ大王に尋ねたのだが、王とエルサレム中の人々は、博士達を驚かせる反応をした。
ユダヤの王宮にいた彼らはメシアがお生まれになった事を誰も知らないばかりか、それを聞いて真っ先に起こしたリアクションは、恐れと、惑いであり、待ちに待ったお方が来られる事の喜びや歓喜ではないのだ。
もし独裁国に新しい王が現れたとなると、その国民はきっと恐れ惑うだろう。それと同じで、自分が一番の王になっていたい者や、甘い汁を吸って来た取り巻きには、新しい王など、来て欲しくないのだ。
ヘロデ大王は、何百年も前に書かれた預言書から、キリストはベツレヘムでお生まれになると知った。
すると彼は密かに博士達を呼び、星の出現の時間をつきとめた。
なぜ密かに呼んだか。それは、キリストがいつお生まれになったのかを逆算して、殺すためだった。
何百年も前から預言されていた神のわざを知り、しるしも見て、それで主を恐れ敬うのではなく、短絡的に、抹殺しようとするのは、自分が王でいたいがためだ。そのような者は口先は「自分も行って拝む」と礼拝者であるが、内は殺人者である。今でもそのようなニセ礼拝者はいるが、全能なる主は黙っていない。
博士達は、何か解せない思いがあっただろう。行って拝むつもりなら、自分達のような異邦のマゴスに外注するのではなく、自ら祭司や学者の調査団を組織して行くのがスジであろうに、誰も行かないのだから。
ともかく博士達は送り出された。とりあえず、ユダヤのベツレヘム地方、という情報だけは入手できたが、その以外の情報は一切無し、助けもいっさい無しである。博士達はふたたび頼りを失ってしまった。
ところがなんと、東方で見たあの星が、彼らを導くのだ。彼らはその星を見て、この上もなく(メガス)喜んだ。
神は星の配置を定め、光のスピードを定め、博士達がこの時代のこの時メシアを礼拝するために出かける事を、何千年何万年前から既に知っておられ、星の配置をあらかじめそのように定めておられたのだ。
神はまことに人の知恵では計り知れない。私達は主のわざの仕組みを、物理などで理解する必要は無い。
ザカリヤは理解しようとして口を閉ざされたが、私達は主が真実で偉大なお方であり、イエス様を礼拝したいと願う礼拝者のためには、星さえも動かして都合つけてくださるお方だと喜ぶだけで良いのだ。
ヘロデ王の宮殿に留まった者は誰一人、この天文学的レベルの奇跡に預かることは出来ず、預かれたのはたった三人の礼拝者、イスラエルから疎外されたこの博士達だけだった。
博士達は星の導きに従って、示された家に入った。そこには、若き母マリヤと赤ちゃんイエス様がいたのを見て、赤ちゃんの前にひれ伏して拝み、黄金、乳香、没薬を捧げた。
万物はこの御方よって成り、この、御方のために創られた、その御方は赤ちゃんの成りをして来られたのだ。
この三人の博士は王のような、とても高貴な身分であったと言われているが、そんな高貴な壮年男性達が、生まれたばかりの赤ちゃんを前にひれ伏して拝む。彼らはこの旅で受けた物は何もなく、ただ捧げたのだ。
ただ捧げに行き、手ぶらで帰る。礼拝とはそういうものである。礼拝は何か受けるにあらず、礼拝とは、捧げに行くことだ。博士達は、物理的には失ったが、しかし誰よりも素晴らしい体験がプレゼントされた。
全能の主、宇宙を創られた主が、なんとこの私達のために現れ、あらゆる便宜を図って下さり、イエス様の元へと導いてくださった。これ以上の喜びはあろうか。それは世の王達、権威者たちには分からない密かな喜びである。今、権威の世界は、闇の混沌が渦巻き、蹴落とし蹴落とされの、非常にどろどろした世界だが、そこに憧れる必要は無い。イエス様を求め、礼拝する事を求めるのならば、主はあらゆる便宜をはかり、宇宙規模の不思議を働かせて、礼拝へと導かれるのである。
博士達のように素晴らしい恵みと特権に預かる事ができますように、イエス様の名前によって祝福します!