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恵みにあずかった食卓の下の子犬(マタイ15:21-28)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » マタイによる福音書
- 執筆 :
- pastor 2014-12-13 6:40
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
恵みにあずかった食卓の下の子犬(マタイ15:21-28):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
花婿に迎えられる花嫁(雅歌3:5-11):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
ベネディクトゥス(ルカ1:67-80):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:内戦へと突き進む高揚した集団心理(士師記20:1-11):右クリックで保存
前回の個所は、聖書の内容とはとても思えないほどの凶行が行われたが、その事がきっかけで、士師記時代の中では、かつて無かった事が始まる。
『そこでイスラエルの人々は、ダンからベエルシバまで、またギレアデの地からもみな出てきて、その会衆はひとりのようにミヅパで主のもとに集まった。』(士師記20:1)
ダンからベエルシバまで、とは、イスラエルの最北端から最南端まで、すなわち、イスラエルの全地域をあらわす言葉である。
それまでの士師記の時代は、全体を一つにまとめる王が無く、それぞれが良いと思う事を行い、てんでバラバラに動いていたため、イスラエルはまとまりが無く、霊的にも軍事的にも全く力を失ってしまい、モラルも地に堕ちて、ソドムよりも非道い堕落へと陥ってしまった。
ところが、この、最低最悪の出来事がきっかけとなり、全地域から「主のもとに」「ひとりの人のように」集まって、この問題を真剣に取り組もうという機運が起きた。
『民の首領たち、すなわちイスラエルのすべての部族の首領たちは、みずから神の民の集合に出た。つるぎを帯びている歩兵が四十万人あった。』(士師記20:2)
剣を帯びている男達が40万。この集団の故に、一日だけで、かなりの食料や物資、人員が、この近辺で動いただろう。
ミツパは一気にものものしい雰囲気となり、ベニヤミン族にも、その事が耳に入った。
『イスラエルの人々は言った、「どうして、この悪事が起ったのか、われわれに話してください」。』(士師記20:3)
集まった人々に促されて、レビ人は話し出すのだが、自分に都合の悪い事は伏せ、相手に対しては都合悪く言う。
『殺された女の夫であるレビびとは答えて言った、「わたしは、めかけと一緒にベニヤミンに属するギベアへ行って宿りましたが、ギベアの人々は立ってわたしを攻め、夜の間に、わたしのおる家を取り囲んで、わたしを殺そうと企て、ついにわたしのめかけをはずかしめて、死なせました。それでわたしはめかけを捕えて断ち切り、それをイスラエルの嗣業のすべての地方にあまねく送りました。彼らがイスラエルにおいて憎むべきみだらなことを行ったからです。』(士師記20:4-6)
ベニヤミン族はもともと、彼を殺そうと企てたというより、性的に暴行しようとしたのであり、彼は自分がレイプされるのを避けるために、彼のめかけを彼らに突き放した事が、抜け落ちている。
それで彼女は朝まで暴行され、彼は彼女の死体をバラバラにし、それを全地に送って、これからどうするかを、全イスラエルに促したのである。
『イスラエルの人々よ、あなたがたは皆自分の意見と考えをここに述べてください。』(士師記20:7)
何か事件が起きた時は、本来、レビ人の祭司が、律法に基づいて主の道にそったさばきをすべきであり(申命記17:8)、律法から神の喜ばれる事・忌み嫌われる事の何たるかを、民に教えるのがレビ人務めであるのだが(申命記33:8-11)、彼は律法を持ち出す事も無く、主の御旨を示す事も無く、ただ、人の意見と考えを扇情的に求めている。
そうして人々は、神も律法も抜きにした、直情的な意見を叫び出す。
『民は皆ひとりのように立って言った、「われわれはだれも自分の天幕に行きません。まただれも自分の家に帰りません。われわれが今ギベアに対してしようとする事はこれです。われわれはくじを引いて、ギベアに攻めのぼりましょう。すなわちイスラエルのすべての部族から百人について十人、千人について百人、万人について千人を選んで、民の糧食をとらせ、民はベニヤミンのギベアに行って、ベニヤミンびとがイスラエルにおいておこなったすべてのみだらな事に対して、報復しましょう」。』(士師記20:8-10)
40万の群衆が、剣をかかげ、みだらな者達を討伐するぞ!と、気勢をあげて叫んでいる。そのただ中にいたなら、自分たちは官軍として、何でもやれる気になって奮い立っただろう。
しかし、まことの神の御心を除外し、自らを奮い立たせる事は、日本の戦前の軍国主義と同様、破壊欲や占有欲を正当化させる狂言に過ぎず、かのベニヤミン族と、なんら変わる所は無い。
『こうしてイスラエルの人々は皆集まり、一致結束して町を攻めようとした。』(士師記20:11)
このようにして、イスラエルは、国を上げての内戦状態へと進んで行く。
イスラエルはこれより、痛い所を通らされるが、主は、その向こう側を見ておられる。
ソドム以下に成り下がってしまったイスラエル(士師記19:22-30)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 士師記
- 執筆 :
- pastor 2014-12-11 23:50
礼拝説教メッセージ音声:ソドム以下に成り下がってしまったイスラエル(士師記19:22-30):右クリックで保存
かのレビ人達は、宿が与えられ、ほっと一息ついたのもつかの間、とんでもない事に陥る。
『彼らが楽しく過ごしていた時、町の人々の悪い者どもがその家を取り囲み、戸を打ちたたいて、家のあるじである老人に言った、「あなたの家にきた人を出しなさい。われわれはその者を知るであろう」。』(士師記19:22)
「知る」とは、性的関係を結ぶ、という事である。
そう、この町の男達は、旅客として訪れたレビ人の男性と、性行為がしたいために、暴力的に取り囲んでいるのだ。
もう、旅人をもてなすとか、神の奉仕者・レビ人を大事にするとかいったレベルの事ではなく、相手が旅人であろうが、レビ人であろうが、同性であろうが、とにかくただ性的に犯したいという、獣以下の本能で動いているのだ。
ここに、ソドムやゴモラと全く同じ事が、展開されている。
ソドムといえば、創世記19章で記されている通り、生きたまま地獄の炎が降ってきて神に直接裁かれた、不品行の象徴のような罪深い町であるが、それと全く同じ状況が、神の民イスラエルの中で起きてしまっている。
『しかし家のあるじは彼らのところに出ていって言った、「いいえ、兄弟たちよ、どうぞ、そんな悪いことをしないでください。この人はすでにわたしの家にはいったのだから、そんなつまらない事をしないでください。ここに処女であるわたしの娘と、この人のめかけがいます。今それを出しますから、それをはずかしめ、あなたがたの好きなようにしなさい。しかしこの人にはそのようなつまらない事をしないでください」。』(士師記19:23-24)
この町の者達の要求も、この老人の対応も、創世記19章で記されているロトとソドムの住人の対応に似てはいるが、違う点がいくつかある。
ロトの時は、客人を守るために、処女である自分の二人の娘を渡そうともちかけたが、今回この老人は、自分の娘だけでなく、客人のめかけも差し出そうと提案している。
それだけでも非道い話だが、レビ人は自分の身を守ろうと、次の事をする。
『しかし人々が聞きいれなかったので、その人は自分のめかけをとって彼らのところに出した。彼らはその女を犯して朝まで終夜はずかしめ、日ののぼるころになって放し帰らせた。朝になって女は自分の主人を宿してくれた人の家の戸口にきて倒れ伏し、夜のあけるまでに及んだ。』(士師記19:25-26)
ここでロトの時と決定的に違う事は、ロトの時は御使いによって助けられたが、今回は、助けはどこにも無く、レビ人は無情にも自分のめかけを暴漢どもへ投げやり、暴漢どもは彼女を朝になるまで好き放題に暴行した。
ロトは、信仰者アブラハムによって執り成し祈られていが、この時代、執り成し祈る者は誰もいなかった。
普通のストーリーなら、こういうピンチの時はヒーローが現れて必ず救ってくれる事を期待するが、御言葉を守る事も、執り成しの祈りも無い時代には、残念ながら救いのヒーローは現れず、ただ蹂躙され、やられてしまうだけなのだ。
もう一つ、ロトの時と違う事といえば、ソドムは天から火が降って来て裁かれたが、イスラエルはすぐには裁かれない事だ。
人は思う。なぜこのような事が神の民の中で起こるのか、と。
なぜこうなるまで、主は放って置かれたのかと。
逆に見れば、主は、そこまで神の民を”特別扱い”されているのだ。
主は、ソドムの罪悪がある点まで達した時、天から火を降し、滅ぼした。しかし、神の民イスラエルについては、特別扱いされる。
主は彼らが義に立ち返ることを願い、悔い改めるまで待たれ、さばきを先々まで先伸ばしにされるのだ。
しかし、人々は、その主の憐れみを悪用し、いつまでも赦されると思って、さらに悪をし放題してしまった。
神は侮られるようなお方ではない。必ず自分のした事の報いはその身に受ける事になる。
『彼女の主人は朝起きて家の戸を開き、出て旅立とうとすると、そのめかけである女が家の戸口に、手を敷居にかけて倒れていた。彼は女に向かって、「起きよ、行こう」と言ったけれども、なんの答もなかった。そこでその人は女をろばに乗せ、立って自分の家におもむいたが、その家に着いたとき、刀を執り、めかけを捕えて、そのからだを十二切れに断ち切り、それをイスラエルの全領域にあまねく送った。』(士師記19:27-29)
彼女を襲った暴漢も非道いが、このレビ人も、そうとう非道い。
レビ人は、彼女を暴漢どもにつきだしておきながら、彼女が襲われている間、彼自身はそのまま安全な所で睡眠したのだ。
そして起きあがると、彼女をその町に残したまま、自分だけ、旅立つつもりでいたのだ。
彼が旅立とうとして、扉を開けると、そこに彼女が倒れていたのを見たが、安否を気遣う事もなく、そのまま「起きよ、行こう」と言う。
ここまで見ると、このレビ人が彼女をわざわざ父の家に迎えに行ったのは、彼女の人格を愛していたからではなく、性的な快楽の”道具”として有用だったから取り戻しに行っただけだったのかもしれない。
そして、動かなくなった彼女を家に持ち帰ると、なんとその死体をバラバラに解体して、それぞれの部位を、イスラエル各地に送ったのだ。
少しでも共に過ごした女性の死体を、自分の手でバラバラに解体して、各地に送りつける。
現在日本も、死体をバラバラにしてしまう事件を聞く事には、ある程度の耐性がついてしまっているくらいに、異様な時代ではあるが、神に仕えるはずのレビ人がそのようにするというのは、深刻なまでに異常な事態である。
レビ人は、神の専任の働き人として身を清く保ち、汚れた行いからはほど遠い存在であるはずなのに、そのレビ人が率先して堕落し、汚れに身を投じてしまっている。
これら一連の状況を見るに、ソドムやゴモラのほうが、まだましに思えて来てしまう。
『それを見たものはみな言った、「イスラエルの人々がエジプトの地から上ってきた日から今日まで、このような事は起ったこともなく、また見たこともない。この事をよく考え、協議して言うことを決めよ」。』(士師記19:30)
この事によって、悔い改めの祈りが沸き起こったとか、神に立ち返ろうという運動が起こったとかは一切無く、「この事をよく考え、協議して言うことを決めよ」と、神抜きに言っている点が、いかにも士師記らしい。
しかし少なくとも、神の国と言われるイスラエルにおいて、このような事が起こった事については、イスラエル中に衝撃が巻き起こった。
堕落の究極の象徴とも言えるソドムよりも、さらに非道い状況へと落ちいってしまった事に対して、問題意識が本気に芽生えて来たのだ。
大きな前進とも言えるが、やはり、神に立ち返る事なく、互いや自分の意見や考えによって解決しようとしている内は、問題の解決は決して無い。
事態はもっと混乱していくばかりである。
今回の箇所は、聖書の中でも、トップレベルと言える程に非道い内容が記されている。
なぜこのような事が、聖書に記されているのか。
それは、神の民といえども、御言葉から離れて好き勝手を続けるなら、ソドムよりも非道いモラル低下へと陥る可能性が、十分にあると、私達は決して忘れてはならないからだ。
執り成しの祈りが無い所に、御言葉の戒めが無い所には、救いは無く、それを続けるなら、神の民といえどソドム以下になってしまうのだ。
私達はこの個所から戒めを受け、いつも主を意識する事を怠らず、霊的に目を覚まし、アブラハムのようにこの時代を執り成して祈り、神の裁きからこの時代を救う者でありますように!
礼拝説教メッセージ音声:寄留者によってもてなされた寄留者(士師記19:16-21):右クリックで保存
レビ人の旅人は、近くにある異邦人の町に滞在する事を避け、わざわざ遠くのギブアまで来たというのに、あいにく、彼らをもてなそうとする人は誰もいなかった。
ようやく彼らに声をかけたのは、この町の者ではなかった。
『時にひとりの老人が夕暮に畑の仕事から帰ってきた。この人はエフライムの山地の者で、ギベアに寄留していたのである。ただしこの所の人々はベニヤミンびとであった。彼は目をあげて、町の広場に旅人のおるのを見た。老人は言った、「あなたはどこへ行かれるのですか。どこからおいでになりましたか」。』(士師記19:16-17)
律法では、同族の人が困っている時には助けてやるべきことが命じられているのに、ベニヤミン族はそれをしなかった。
旅人をもてなす事は、パレスチナでは、何も律法を持っていない民であっても、当然のごとく行う事であり、それをしない事は品格を疑われるものであった
つまり彼らは、神の国の美徳どころか、世の美徳も全くもって意に介さなかったようである。
御言葉なしに生きていると、世の人よりも、モラルが低下してしまうのだ。
『その人は言った、「われわれはユダのベツレヘムから、エフライムの山地の奥へ行くものです。わたしはあそこの者で、ユダのベツレヘムへ行き、今わたしの家(原文:主(エホバ)の家に帰るところですが、だれもわたしを家に泊めてくれる者がありません。』(士師記19:16-18)
主(エホバ)の家は当時、エフライム山地の近くのシロにあった。
彼らはもしかしたら、自分の家に帰る途中、シロに寄ろうとしていたのかもしれない。
『われわれには、ろばのわらも飼葉もあり、またわたしと、はしためと、しもべと共にいる若者との食物も酒もあって、何も欠けているものはありません」。老人は言った、「安心しなさい。あなたの必要なものはなんでも備えましょう。ただ広場で夜を過ごしてはなりません」。そして彼を家に連れていって、ろばに飼葉を与えた。彼らは足を洗って飲み食いした。』(士師記19:19-21)
彼らは、主に仕えるレビ人であり、また、彼ら自身が食料や飼料も持っていたため、宿を貸すだけでも十分だったのに、誰もそれをしなかった。
しかし彼らは、寄留の人の家に寄留する形で、ようやく一息つくことが出来た。
この地上においては、私達は旅人であり、寄留者である。
神の国であるべき場が神の品性を捨てる時、神の国の中では”寄留者”と呼ばれるような人こそ、神の人をもてなすようである。
主イエス様は言っている。
『そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、「わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである。」
そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、「主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか。」すると、王は答えて言うであろう、「あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである。」』(マタイ25:34-40)
主は全てを見ておられる。
世が創造される以前から用意されている御国(マタイ25:34)を受け継ぐ事ができるのは、主にある兄弟姉妹をよくもてなす人、小さな事に忠実な人である。
王となられた主から誉められた人達は、自分がそれをしたのに、それを覚えていない程「当然に」その行動を行っており、また、永遠の呪いに定められる人も、自分たちがいつ主を軽んじたのかを知らないほど「当然に」その行動を行っている。
この、主に喜ばれる事を、当然のごとくに、無意識のうちにしてしまう性質は、主を意識し、天の御国を意識して過ごす日々の積み重ねによって、培われる。
私達は、いつもどこでも主がおられる事を意識し、無意識に主を喜ばせる特性を日々積み上げたい。
礼拝説教メッセージ音声:姦淫の裏切り女を引き戻すレビ人(士師記19:1-15):右クリックで保存
前章までの所では、イスラエルではいかに偶像礼拝が蔓延しているかを見た。
しかしこの19章以降、イスラエルの堕落はもっと深刻な事態になっている様を見る事になる。
『そのころ、イスラエルに王がなかった』(士師記19:1a)
イスラエルは本来、神である主こそが唯一の王であるはずなのに、そうではなく、ある者はあの神を、別の者はこの神を、別の者はあの人この人を、それぞれ好き勝手に王としている時代であった。
『エフライムの山地の奥にひとりのレビびとが寄留していた。彼はユダのベツレヘムからひとりの女を迎えて、めかけとしていたが、そのめかけは怒って、彼のところを去り、ユダのベツレヘムの父の家に帰って、そこに四か月ばかり過ごした。』(士師記19:1b-2)
前回は、ベツレヘム出身のレビ人が、エフライム山地のミカの家に行った。
今回は、エフライム山地のレビ人が、ベツレヘム出身の女性を「めかけ」としてめとっている。
ルツ記を見ても、ベツレヘム出身のエリメレク一家がモアブへと出て行ったように、このベツレヘムという地からは、出て行く人は多かったかもしれないが、この地はダビデ王の故郷であり、イエス・キリストの生まれた場所でもある。
ベツレヘム(パンの家)という地は、そこに留まる信仰者は、幸いを受けるが、そこから出て行く人には碌な事が起こらない。
このレビ人の「めかけ」の女性も同じである。
彼女は「怒って」彼のところを去ったとあるが、「怒る」と訳された後のヘブライ語「ザーナー」は、「姦淫を犯す」という意味である。
KJVでは、「his concubine played the whore against him」と記されており、明確に、彼女が姦淫を犯したためにこのレビ人の所を去ったと記されている。
律法に照らすなら、夫のある身でありながら姦淫の罪を犯した女は死刑であり(レビ記20:10)、もしこのレビ人が祭司であるなら、女は火で焼かれなければならない。(レビ記21:9)
しかしこのレビ人は、彼女を平和の内に連れ戻そうとした。
これを読む時、預言者ホセアを思い出す。
主はホセアに「姦淫の女をめとれ」と命じ、そして彼はその通りに実行したのだが、その女は夫に子を産んで愛されていながら、姦淫するために出て行ってしまった。
そこで主は、彼女を呼び戻せ、と言われる。
『主はわたしに言われた、「あなたは再び行って、イスラエルの人々が他の神々に転じて、干ぶどうの菓子を愛するにもかかわらず、主がこれを愛せられるように、姦夫に愛せられる女、姦淫を行う女を愛せよ」と。そこでわたしは銀十五シケルと大麦一ホメル半とをもって彼女を買い取った。わたしは彼女に言った、「あなたは長くわたしの所にとどまって、淫行をなさず、また他の人のものとなってはならない。わたしもまた、あなたにそうしよう」と。』(ホセア3:1-3)
本来なら死刑のはずの、姦淫の裏切り女にやさしく声をかけ、銀で買い戻し、「もう他の所に行くな、いつまでもわたしの所にとどまれ」と言う。
それはまさしく、イエス様と私達の関係と同じではなかろうか。
かのレビ人も、ねんごろに裏切り女に声をかけ、よりを戻そうとした。しかし残念ながら、このレビ人は、彼女を命がけで守ろうという気概は、さらさら無かった。(後述)
それに引き換え、私達の主イエス様は、平気で裏切った私達のために命を投げ出し、私達が受けるべき罪の刑罰を身代わりに受けくださり、そしてねんごろに声をかけ、主の元へと引き寄せて下さった。
『そこで夫は彼女をなだめて連れ帰ろうと、しもべと二頭のろばを従え、立って彼女のあとを追って行った。彼が女の父の家に着いた時、娘の父は彼を見て、喜んで迎えた。娘の父であるしゅうとが引き留めたので、彼は三日共におり、みな飲み食いしてそこに宿った。四日目に彼らは朝はやく起き、彼が立ち去ろうとしたので、娘の父は婿に言った、「少し食事をして元気をつけ、それから出かけなさい」。』(士師記19:3-5)
彼女の父はこのレビ人によほど好意を寄せたのだろう、何日も彼を引き止めて歓待した。
創世記でも学んだように、パレスチナ地方では、旅人を篤くもてなす事が美徳とされている。
しかし、何日も歓待が続くので、彼らは、実に悪いタイミングで出立してしまう。
『その人がついにめかけおよびしもべと共に去ろうとして立ちあがったとき、娘の父であるしゅうとは彼に言った、「日も暮れようとしている。どうぞもう一晩泊まりなさい。日は傾いた。ここに宿って楽しく過ごしなさい。そしてあしたの朝はやく起きて出立し、家に帰りなさい」。しかし、その人は泊まることを好まないので、立って去り、エブスすなわちエルサレムの向かいに着いた。くらをおいた二頭のろばと彼のめかけも一緒であった。』(士師記19:9-10)
あまりにずるずると引き止めてしまう事も、引き止められてしまう事も、共に良くない。
アブラハムのしもべは、わずか1日歓待を受けただけで、翌日に早速出立したが(創世記24章)、それはやはり賢かったのだ。
『彼らがエブスに近づいたとき、日はすでに没したので、しもべは主人に言った、「さあ、われわれは道を転じてエブスびとのこの町にはいって、そこに宿りましょう」。主人は彼に言った、「われわれは道を転じて、イスラエルの人々の町でない外国人の町に、はいってはならない。ギベアまで行こう」。
『彼はまたしもべに言った、「さあ、われわれはギベアかラマか、そのうちの一つに着いてそこに宿ろう」。彼らは進んで行ったが、ベニヤミンに属するギベアの近くで日が暮れたので、ギベアへ行って宿ろうと、そこに道を転じ、町にはいって、その広場に座した。だれも彼らを家に迎えて泊めてくれる者がなかったからである。』(士師記19:11-15)
ギベアはベニヤミン族の領地であり、イスラエルの初代王・サウル王の故郷であるが、どうも様子がおかしい事に、この町の住人は誰一人として、家に迎えようとはしない。
不信仰の異邦人の町に留まるよりは、イスラエル人の町に留まる、という判断は正しいはずなのに、実は、この判断は、後に災いの元となってしまう。
人から御言葉から離れ、おのおの、自分のよかれで動くような時代は、何が安全で確実であるのかも、分からない時代になってしまうのだ。
ザカリヤ - 口を閉ざされるしるし(ルカ1:5-23)
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暗く荒んだヘロデ大王の時代、ザカリヤという名の祭司がいた。主のご降誕におけるしるしが、最初に現れたのは、彼であった。待降節の第二日、この人物について見て行きたい。
彼の妻はエリザベツで、この夫婦は御前に正しかったが、子に恵まれなかった。彼らは若い時から子を授かるように願って来たのに、歳を取っても叶えられず、その祈りはますます切なるものとなって行っただろう。
それでも彼らは、御前に、誰より凛と立ち、落ち度なく戒めを行っていたが、もう産むには難しい年齢に達してしまった。そんなある日の事、くじによって、ザカリヤに日毎の香を捧げる役が決まった。
大勢の人々が祈る中、役目を遂行する為に彼が聖所に入って行った所、なんと、香壇の右に御使いが立っていた。恐怖に襲われた彼に、御使いは言う。「恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈が聞きいれられたのだ。あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名づけなさい。」(13節)
みどり子が生まれる事を久しく切望し、その祈りが切々と積まれた時、聖なる所の奥深くで、待望していた子の生まれる事が告げられる。それはメシヤのお生まれを象徴的に表している。
子が与えられる事は老夫婦の願いであったが、神は一夫婦の願いを叶える以上の事をご計画されていた。
ヨハネの名には、「神は恵み深い」「神の賜物」という意味がある。神のそのご計画とは、人類全体が久しく待望し、人類全体に注がれる、神の深い恵みであり、慈しみであり、喜びである。
その子は胎内にいる時から既に聖霊に満たされており、御前に大いなる者となって、イスラエルの民の多くを主立ち帰らせる。しかもその子は、エリヤの霊と力をもって御前に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、そうして整えられた民を、主に備えるというのだ。(15-17節)
人は、人並みのささやかな幸せを求めがちだが、神を愛し恐れる人達に用意されているご計画は、途方もなく素晴らしいもの、にわかには信じ切れない次元のものである。(1コリント2:9)
「どうしてそんな事が、わたしにわかるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」(18節)
ザカリヤは乙女マリヤと違って「祭司」という公の立場にあり、そして彼自身、長年祈り求めて来た事が、やっと叶えられるというのに、「何によって」「わたしは」「知ることができるか」と、神の聖所で要求したのだ。
御言葉が与えられても「自分が」理解したがる人に与えられるしるしは、その口が閉ざされてしまう事である。
御言葉に従順できない人にとっての最善は、口をつぐむ事であり、それは周囲にとっても益である。
この、彼が口をつぐまされている時、彼の妻エリザベツは受胎した。
「さてエリサベツは月が満ちて、男の子を産んだ。」(57節)老夫婦に子が与えられるのは大きな慰めである。
人々は共に喜び、その子に父ザカリヤと同じ名をつけようとしたが、エリザベツは、そうではなくて「ヨハネ」にしなくてはならないと答え、人々を不思議がらせた。
その子は、ザカリヤの一後継者としてではなく、生まれる前から最も偉大な務めが与えられているのだ。
彼はその名の通り、神が贈られた最高の賜物・神様の恵みであるイエス様への道を、人々に整えさせる。そしてこのヨハネの名が人々に知られる毎に、神様の恵み深さ、賜物の素晴らしさが広まって行くだろう。
ザカリヤの口が開かれたのは、「その子の名はヨハネ」、と、主に命じられた通りに、公に示した時であり、口が開かれてから真っ先に彼の口から出たのは、神への賛美と、預言だった。
ザカリヤ自身、やっと与えられた念願の子に、自分の名をつけたかったであろう。しかし、彼らが人間的な願望を手放し、口をつぐんで従順を学び、御言葉の通りを、神と人との前で行うその時、主の素晴らしさは公に明かされ、賛美の口は開け、人々は、神が確かにみわざを働かれるのだと知るのだ。
ザカリヤはかつて、自分が「理解」する事を御使いに要求し、それで口をつぐまされてしまったが、その「要求」を止め、言葉をつぐんだこの期間、彼はバプテスマのヨハネの父として訓練され、練られていたのだ。
ヨハネは成長すると霊は強くなったが、彼もまた、主が定めた時まで荒野におり、公に活動する事が許される日まで、口をつぐんだ。主の御言葉は、理解してから実行するものではなく、実行したなら、素晴らしさを理解する。その上で口をつぐむ事は、とても有益である。人間由来の唇は閉じ、御言葉に従順して主を待ち望む皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!