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羊飼いダビデによる平和な統治の約束(エゼキエル34:23-31):右クリックで保存
めいめいが自分の目に正しいと見える事を行う呪いの時代(士師記21:25)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 士師記
- 執筆 :
- pastor 2014-12-25 20:38
礼拝説教メッセージ音声:めいめいが自分の目に正しいと見える事を行う呪いの時代(士師記21:25):右クリックで保存
『そのころ、イスラエルには王がなかったので、おのおの自分の目に正しいと見るところをおこなった。』(士師記21:25)
これは、士師記が荒んだ時代になってしまった原因を端的に表す言葉であり、私達もこの言葉のように、キリストという王を退け、自分の目に正しいと見える所を行って行くなら、士師記の暗黒時代へと邁進してしまう、という、シンプルで明瞭な法則でもある。
聖書は始めから、人には二通りの道がある事を示し、また、それぞれの道に歩んだ結果も示している。
その二つの道とはすなわち、いのちの道と、善悪判断の道である。
「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記2:16-17)
人類なら誰しも避けては通れない究極の二者択一がある。
それは、いのちの木を取るか、それとも善悪の知識の木を取るかである。
究極の二択とは「善か悪か」ではない。聖書が提示する究極の選択とは、「いのちか、善悪判断か」なのだ。
神は、善悪の知識の木から食べる事を禁じられた。神から離れた善悪判断の歩みは、いわば「神のようになる事」(創世記3:5,22)であり、サタンの道である。
サタンは神のようになろうとした結果、地に投げ落とされてしまった。(イザヤ14:14)
神から独立した善悪判断の道は、サタンの道であり、その行き着く先は破滅である。
士師記の時代のように、御言葉を離れ、おのおの自分の目に正しいと思える事を行う事は、まさにこの善悪判断の道であり、そのまま破滅へと向かう道であった。
荒野の40年の終わりの時、モーセは最後の説教において、めいめい正しいと思うように歩んではならない、と、警告し、むしろ主が定められた事を守り行うように命じたが(申命記12:8-11)、めいめいが正しいと思うようにふるまった人々は、荒野で40年放浪した末に、屍となって荒野に打ち捨てられてしまった。
また、士師記の時代も同様に、おのおの自分の目に正しいと見るところをおこなった結果、あのような罪深く荒んだ時代へと落ち込んで行ってしまった。
まさにイザヤ書59章の状態である。
『それゆえ、公義は私たちから遠ざかり、義は私たちに追いつかない。私たちは光を待ち望んだが、見よ、やみ。輝きを待ち望んだが、暗やみの中を歩む。私たちは盲人のように壁を手さぐりし、目のない者のように手さぐりする。真昼でも、たそがれ時のようにつまずき、やみの中にいる死人のようだ。私たちはみな、熊のようにほえ、鳩のようにうめきにうめく。公義を待ち望むが、それはなく、救いを待ち望むが、それは私たちから遠く離れている。
それは、私たちがあなたの御前で多くのそむきの罪を犯し、私たちの罪が、私たちに不利な証言をするからです。私たちのそむきの罪は、私たちとともにあり、私たちは自分の咎を知っている。私たちは、そむいて、主を否み、私たちの神に従うことをやめ、しいたげと反逆を語り、心に偽りのことばを抱いて、つぶやいている。こうして公正は退けられ、正義は遠く離れて立っている。真理は広場でつまずき、正直は中にはいることもできない。
そこでは真理は失われ、悪から離れる者も、そのとりこになる。主はこれを見て、公義のないのに心を痛められた。主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。』(イザヤ59:9-16)
こうして、人々が神の民の有り様から遠く離れてしまった様を悲しみ、御言葉から離れるならば、自ら苦々しい結果しかもたらさない事に懲り、どうしようもなくなった時に、主ご自身が働かれるのだ。
『わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。主であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデはあなたがたの間で君主となる。主であるわたしがこう告げる。』(エゼキエル34:23-24)
そして主は、いよいよ、一人の羊飼い・ダビデを起こされる。士師記の次の書・ルツ記は、ダビデが生まれる事の予告で終わる。
人々の罪悪が増し加わり、人々の心に主を渇き求めた時、ダビデが生まれるのは、旧約と新約の間の沈黙の400年の後、ダビデの子孫でありまことの牧者であるキリストがお生まれになったのと同じである。
ダビデも、キリストも、ともにベツレヘムで生まれた。
ベツレヘム、それは「パンの家」という意味であり、このベツレヘムから離れた者は、ろくなことが起こらなかった。(士師記17章、19章)
しかし、このベツレヘムから離れずにいて、士師記の混迷の時代においても、着実に有力者として育っていった者があった。
その人については、次のルツ記にて見ていきたい。
今、私達も、おのおのが良かれと思う事を行っている混迷の時代を生きている。
その中において、「御言葉のパンの家」から離れず、しっかりと御言葉から養いを受け、有力者となっていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
礼拝の場を、女性を強奪する場に変えてしまう愚かさ(士師記21:16-24)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 士師記
- 執筆 :
- pastor 2014-12-25 7:39
礼拝説教メッセージ音声:礼拝の場を、女性を強奪する場に変えてしまう愚かさ(士師記21:16-24):右クリックで保存
『会衆の長老たちは言った、「ベニヤミンの女が絶えたので、かの残りの者どもに妻をめとらせるにはどうしたらよいでしょうか」。彼らはまた言った、「イスラエルから一つの部族が消えうせないためにベニヤミンのうちの残りの者どもに、あとつぎがなければならない。しかし、われわれの娘を彼らの妻に与えることはできない。イスラエルの人々が『ベニヤミンに妻を与える者はのろわれる』と言って誓ったからである」。』(士師記21:16-18)
彼らは、主が定められたイスラエル12部族の一つを絶滅の危機へと追い込み、浅はかに誓ってしまった自分達の誓いの故に、その生き残りに助けの手をのべる事も出来ない状況に陥ってしまった。
人が立てた浅はかな取り決めによって、どうにもならない状況へと誰かを追い込んでしまう、あるいは、自分自身が追い込まれてしまうような事は、確かにある。
自分の勝手によって、どうにもならない状況に陥ってしまった時こそ、自分のやり方を捨て、主に伺うべきである。
しかし、それでも自分で編み出した苦肉の策を押し通すなら、さらに罪悪を増し加えてしまう事になる。
アブラハムも、子がなかなか生まれなかった時、妻が勧めた世の方法、苦肉の策に乗っかってしまい、その結果、苦々しい根を後々ずっと引きずる事になってしまった。
それに懲りた彼は、イサクの嫁となるべき女性が見つからないという時、世の方法に妥協する事なく、苦肉の策を考案する事もなく、ただ主の御心に適った方法、それも、世の常識で見るなら不可能に近いような方法を選択して、見事、ぴったりの女性・リベカの元へと導びかれた。
ひるがえって、士師記の時代の指導者達といえば、主に伺う姿勢も、御言葉に聞いて実行しようという思いも、一切無かった。
そのため、この悩ましい問題に直面した時、彼らは自分達で編み出した、こじつけ的な苦肉の策を採用し、さらに罪深い行いを重ねてしまう。
『それで彼らは言った、「年々シロに主の祭がある」。シロはベテルの北にあって、ベテルからシケムにのぼる大路の東、レバナの南にある。そして彼らはベニヤミンの人々に命じて言った、「あなたがたは行って、ぶどう畑に待ち伏せして、うかがいなさい。もしシロの娘たちが踊りを踊りに出てきたならば、ぶどう畑から出て、シロの娘たちのうちから、めいめい自分の妻をとって、ベニヤミンの地に連れて行きなさい。』(士師記21:19-21)
彼らがベニヤミン人の嫁を得るために利用したのは、なんと、主の祭りだった。
「主の祭り」に人々が行くのは、主の定めどおりに礼拝するためであり、祭りの中で女性達が踊るのも、主の恵みに感謝し、喜びを表現するためのはずだ。
日本では、踊りをするために祭りに来る人は多いが、イスラエルでは、祭りの主人公である「主」を喜ぶ故に、踊るものだが、当時のイスラエルの長老たちは「そうだ、主の祭の時に、娘たちが踊りに来る」などと、いらぬ事を思い立ち、主の祭りを強奪の場にしてしまう。
人の都合、人の思い立ちによって、礼拝が軽んじられ、強盗どもの巣にされてしまう。
それはキリストの時代にもあったし、また現代においても、自分の気に入った女性を探すために礼拝という場に来る人は、いる。
『もしその父あるいは兄弟がきて、われわれに訴えるならば、われわれは彼らに、『われわれのために彼らをゆるしてください。戦争のときにわれわれは、彼らおのおのに妻をとってやらなかったし、またあなたがたも彼らに与えなかったからです。もし与えたならば、あなたがたは罪を犯したことになるからでした』と言いましょう」。』(士師記21:22)
自分達は、もう誓ってしまった。ベニヤミン人に、自分の娘を嫁にやる事はしない、と。
しかし、意図的に嫁にやる、という形ではなく、「奪われた」という形を取るなら、自分達は誓いを破った事にはならない。
だから、その方法で行こう、という事なのだ。
それは、強引なこじつけである事には変わりない。
『ベニヤミンの人々はそのように行い、踊っている者どものうちから自分たちの数にしたがって妻を取り、それを連れて領地に帰り、町々を建てなおして、そこに住んだ。こうしてイスラエルの人々は、その時そこを去って、おのおのその部族および氏族に帰った。すなわちそこを立って、おのおのその嗣業の地に帰った。』(士師記21:23-24)
こうしてベニヤミンの血は絶えることなく、なんとか保たれた。
私達は、ここから知るべきである。
人の都合を、主の御言葉よりも優先させてしまうなら、尊ぶべき主の祭りさえも、強奪の場に変えてしまう程に、愚かで堕落した者になってしまう事を。
確かに、私達の愚かさの故に行き詰ってしまう事はあるだろう。
しかしそのような時こそ、アブラハムのように主に求め、主に信頼し、そうして主から最善のものが備えられる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
主の牧場を汚す羊もどきへの宣告(エゼキエル34:17-24):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
怠慢な羊飼いへの主の宣告(エゼキエル34:1-16):右クリックで保存
羊飼い達 - 忠実な養い人達への特別な現れ(ルカ2:8-20)
第一礼拝・礼拝全体音声:右クリックで保存
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第二礼拝・礼拝音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
イエス様の誕生を祝いに来たのは、博士たちの他に、もう一組あった。羊飼い達と羊達である。
博士(マゴス)たちは、異邦人でありながら、キリストのおとずれをイスラエルの誰よりも早く察知し、自ら贈物を携え、遠くから旅して来たのに対し、羊飼い達はベツレヘム(意味:パンの家)近辺に住んでいたが、主のお生まれは知らなかった。しかし、主の御使達によって、直接的にメシヤのおとずれを告げられるという栄誉にあずかる事が出来た。今回、そのような栄誉に与る事の出来た彼らの性質を見て行きたい。
羊飼いの仕事は、羊達が十分に食べる事ができるよう牧草地や水のほとりへと導き、野獣が現れた時には、杖やむち、石投げ等を用いて追い払う事である。羊は近視眼で、愚かで、養うのに忍耐と手間がかかる。
そんな面倒臭い羊の面倒なんか見たくないからか、イエス様がお生まれになる時代は、羊を飼う職業よりも、商売人になったり、王宮で仕えたりと、より楽で華やかな職業へ、人々は流れて行ったのかもしれない。
当時のイスラエルでは、羊飼いは卑しい仕事とされ、住民登録にも呼ばれない程だった。
しかし、私達・教会は、まことの羊飼いであられるイエス様を中心とした、羊飼いと羊達の集団である。
羊飼いの祖先はアベルで、アブラハムも、その子たちも皆、牧者として生活して来た。モーセもダビデも皆、羊飼いを経験して来た。そしてまことの羊飼いは、主キリストである。羊飼いは、神の民の性質とも言える。
羊飼いという「主の働き人」たる資格は、「イエス様を愛します」という告白にある。ペテロは主から「わたしを愛するか」と3度問われ、彼は「はい」と応える度に「わたしの羊を飼いなさい」と言われた。(ヨハネ21章)
現代の教会も、まことの牧者であるイエス様に養われるべき羊たちを、養い、育て、訓戒するべきなのだ。
主のお生まれを告げ知らされる栄誉に与ったのは、羊飼いである。彼らにメシヤのおとずれが告げ知らされた時は、夜、人々が眠る時間であり、その時、彼らは目を覚まして、羊たちを見守っていた。(8節)
クリスマスのイメージといえば、やはり夜であり、闇世の中で光を輝かせる性質が、クリスマスにはある。
同じように、キリストがやがて来られる時も、夜のような闇の時代であり、その中でメシヤのおとずれにあずかれる人とは、霊的にいつも目を覚まし、養うべき羊達を、汚いなどと言って厭う事無く忠実に養い、食事時にはきちんと食事を与える、思慮深く、いつも心ぞなえしている人である。(マタイ24:42-51)
主は、羊飼い達に「恐れるな」と言われた。そして、全ての民に与えられる大きな喜びを「あなたがたに」伝える、と言われ(10節) また、救い主が「あなたがたのために」お生まれになった、とも告げられた。
救い主の恩恵に真っ先にあずかれるのは、羊飼い達であり、彼らに与えられるしるしとは、「幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてある」事。きょう、私達のためにお生まれになった救い主、キリストは、なんと粗末な布にくるまれ、馬のエサ箱に入れられ寝かされているという。ユダヤ人の王であられる尊いお方であるはずのキリストは、何ととぼしく、何と低く、卑しくなられただろう。そのお陰で、卑しく貧しい私達でも、救い主のおとずれを祝い、喜び、そこに集う事が出来るようになったのだ。
『するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。』(13−14節)
この賛美は、なんと荘厳で、美しいハーモニーの内に歌われたであろうか。この賛美は、何万もの聴衆が集う世界最大の劇場のような所でこそ相応しいと思うものだが、これに同席できた者は、僅かな羊飼い達と、羊達だけだった。なんともったいない、と思うかもしれないが、それが主の方法である。
主は、主の恵みを受け取るべき人には、これ以上無いと思える程のゴージャスな恵みを与えてくださるが、それは限られた聖徒達へ密かに与えられるものであり、そうでない者には、決してあずかれないのだ。
羊飼い達は、このお告げを受けた時、急いで見に行った。彼らは博士達のような捧げ物は持っていなかったが、「御声に聞き従い、すぐに行動する」という、雄羊の脂肪にも勝るいけにえを捧げた。(1サム15:22)
私達は王になりたがったり、王宮のような華やかな晴れ舞台でラクに活躍したい所があるが、主はむしろ、羊飼いのように、養いを必要としている羊の面倒を、労苦を厭わず率先して行う人にこそ、現れてくださる。
この暗闇の時代、御言葉のパンの家で、主の羊達を忠実に養い、誰にも味わう事の出来ない素晴らしい救いのおとずれと、栄光の賛美に与る皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
霊的アルバイターを卒業せよ(創世記17:1-5):右クリックで保存
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世の法則を上塗りする神の国の法則(マタイ15:29-39)
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- 執筆 :
- pastor 2014-12-21 20:12





