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メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:憐れみの扉を開いていただくには(士師記10:1-18):右クリックで保存

『アビメレクの後、イッサカルの人で、ドドの子であるプワの子トラが起ってイスラエルを救った。彼はエフライムの山地のシャミルに住み、二十三年の間イスラエルをさばいたが、ついに死んでシャミルに葬られた。彼の後にギレアデびとヤイルが起って二十二年の間イスラエルをさばいた。彼に三十人の子があった。彼らは三十頭のろばに乗り、また三十の町をもっていた。ギレアデの地で今日まで、ハボテ・ヤイルと呼ばれているものがそれである。ヤイルは死んで、カモンに葬られた。』(士師記10:1-5)

アビメレクの荒んだ統治の後、主はトラとヤイルという士師を任命し、イスラエルをさばかせた。
その合計45年間、平和だったようであるが、彼らが死んだ後、イスラエルはさっそく主を捨て去り、不従順の時代に逆戻りした。

『イスラエルの人々は再び主の前に悪を行い、バアルとアシタロテおよびスリヤの神々、シドンの神々、モアブの神々、アンモンびとの神々、ペリシテびとの神々に仕え、主を捨ててこれに仕えなかった。主はイスラエルに対して怒りを発し、彼らをペリシテびとの手およびアンモンびとの手に売りわたされたので、彼らはその年イスラエルの人々をしえたげ悩ました。すなわち彼らはヨルダンの向こうのギレアデにあるアモリびとの地にいたすべてのイスラエルびとを十八年のあいだ悩ました。』(士師記10:6-8)
彼らは今までに無いほど多くの種類の神々を拝むようになってしまっている。
今回、イスラエルを悩ませるために主が用いられたのは、ペリシテ人とアンモン人であるが、イスラエルはペリシテ人やアンモン人の神を頼りにした結果、そこの人々によって苦しめられた。皮肉なものである。
人が主を捨てて、別のものに頼るなら、主はその人を立ち返らせるため、その頼りにしたものを用いて懲らしめられる。
例えば主よりもお金に頼るなら、主はその人をお金によって苦しめられ、主よりも異性のほうを取るなら、主は異性を用いて懲らしめられるものだ。

『またアンモンの人々がユダとベニヤミンとエフライムの氏族を攻めるためにヨルダンを渡ってきたので、イスラエルは非常に悩まされた。そこでイスラエルの人々は主に呼ばわって言った、「わたしたちはわたしたちの神を捨ててバアルに仕え、あなたに罪を犯しました」。』(士師記10:9-10)
イスラエルは、自分たちが罪を犯した、と告白している。
今回は18年目にしてやっとである。
しかし、主の返事はつれない。

『主はイスラエルの人々に言われた、「わたしはかつてエジプトびと、アモリびと、アンモンびと、ペリシテびとからあなたがたを救い出したではないか。またシドンびと、アマレクびとおよびマオンびとがあなたがたをしえたげた時、わたしに呼ばわったので、あなたがたを彼らの手から救い出した。しかしあなたがたはわたしを捨てて、ほかの神々に仕えた。それゆえ、わたしはかさねてあなたがたを救わないであろう。あなたがたが選んだ神々に行って呼ばわり、あなたがたの悩みの時、彼らにあなたがたを救わせるがよい」。』(士師記10:11-14)
せっかく人々が自分の罪を告白しているのに、何故、主はそんなにつれないのか。
それは彼らは、口先では自分達が悪かったと告白しているものの、実はまだ偶像の神々を手放していなかったからだ。

もし彼らが、主のつれない返事に引き下がっていたならば、災いはまだ続いていただろう。
しかしイスラエルの民は、主に食い下がった。
『イスラエルの人々は主に言った、「わたしたちは罪を犯しました。なんでもあなたが良いと思われることをしてください。ただどうぞ、きょう、わたしたちを救ってください」。そうして彼らは自分たちのうちから異なる神々を取り除いて、主に仕えた。それで主の心はイスラエルの悩みを見るに忍びなくなった。』(士師記10:15-16)

彼らは今まで頼りにしていた神々を捨ててて、主に願い求めた。
そこで、主は彼らをあわれまずにはいられなくなった。
私達も同じである。
主の忌み嫌われるものを手放さないまま、口先でいくら自分が悪かったと告白しても、主からつれない返事を受けるだけである。
しかし、それらを手放して主に憐れみを願うなら、主は私達を憐れまずにはおられない。

主の忌み嫌われるもの、それは、容易には手放せないものかもしれない。習慣的なくせや、性格的な問題、あるいは、依存性のものなど。
そのような場合は、それに対し、「イエス様の名前によって」断ち切る事を、自らに宣言するとよい。
イエス様の名前は何も、誰か他人の病や悪霊を追い出すだけのものではない。
自分自身の手放すべき性質や、自分の人生の呪われている領域に対し、死をいのちに飲み込む事をイエスの名によって宣言するなら、今まで固く縛られていた領域は解放され、それまで閉じていた祝福の窓は開かれて行くのである。

私達も、主以外のものに頼っていたものを捨て去り、主に立ち返るなら、主は憐れみの扉を開いて下さるのだ。

イサクの嫁探しを託されたアブラハムの老僕(創24:1-10)
第一礼拝・礼拝全体音声:右クリックで保存
賛美集会音声:右クリックで保存
第二礼拝・礼拝音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

アブラハムがイサクを捧げて以来、主はあらゆる面で彼らを祝福しておられた。イサクは成長し、嫁を迎えるべき歳になった。イサクが結婚した時は40歳だったが、彼はなぜ、その歳まで結婚しなかったのか。
それは、彼に「相応しい助け手」が見つからなかったからである。相応しい結婚相手とは、家柄でも資産でも、まして美しさでもない。主を敬う信仰がある事である。彼らが住んでいたカナン地方は、偶像礼拝や不品行がはびこり、イサクをそのカナンの女と結婚させるなど、アブラハムは断じて許さなかったが、サラは死んでしまったし、アブラハムも老い、イサクも40歳になろうとしている。そろそろ結婚相手を見つけなくてはならないが、周りはカナン人ばかり。セムの子孫の神を敬う女性は身近にいないし、訪ねにも来ないし、主の具体的な指示も、特に無い。そこで彼は、待ちの姿勢を止め、信仰による攻めの行動に出た。
私達には諸々の選択において、何でもかんでも、具体的な指示が主から与えられる訳ではない。
アブラハムには「あなたの子孫にこの地を与える」(7節)とは言われていたが、イサクにいつ、誰と結婚させよ、などと、具体的な指示まではなかった。将来像は御言葉によってはっきりしているのに、そこに進めず途中で留まってしまっている。そして主の具体的な示しは無い。そういう場合は、どうすべきだろうか。
サラはかつて、自分に中々子が生まれないのに焦り、自ら考案した世の方法を採用して、失敗した。
アブラハムは今回、与えられている約束の御言葉を軸にし、それを元に、今、どう動くべきかを逆算した。
物事が中々進まない時、静かに御言葉を思い起こし、今、主が自分に求めておられる事は何かを見極め、自主的に主と共に歩む(ハーラフする)事を選択し、行動を取る事を、主は望んでおられるのだ。

そこでアブラハムは、最年長の最も信頼の置ける僕を呼び寄せた。この僕は、かつてアブラハムの財産相続の候補だった、ダマスコのエリエゼルと思われる。エリエゼルは「神は助け」「慰め主」という意味で、新約で言う「助け主」と同じ言葉であるが、彼はイサクの嫁探しにおいて、その名前の通りの事を為す事になる。
アブラハムは、手を腿の間に入れる「最も厳かな誓い」を彼にさせたのだが、誓いの内容は成功確率の極めて低いものであった。すなわち、彼の故郷カルデヤのウルに行き、親族の中からイサクに相応しい嫁を連れて来なさい、というのだ。もし皆さんが未婚女性だとしたら、千キロ程むこうの、一度も行った事のない国・一度も会ったことのない男性に、信仰によって嫁ぎに行けるだろうか。
老僕は、イサクをそこに連れて行っても良いかを聞く。実際に面と向かって会っている男性となら、結婚する気も起きるかもしれない、と、考えたのであろうが、アブラハムの答えは、NOであった。(8節)
ロトがソドムやエジプトを見て、悪い価値観に染められてしまったように、イサクが異国の有り様に魅了され、今まで育んできた信仰生活から離れてしまうような事があってはならない、とアブラハムは思った事だろう。
どんな人と結婚するかを、おろそかにしてはならない。ノアの時代、神の子たちは人の女が美しいのを見て妻にして人類を滅びに招いてしまったし、ソロモン王やアハブ王、サムソンも、不信仰な妻によって惑わされ、その身に滅びを招いてしまった。

アブラハムは、約束が中々成就されないからというので、手近なカナンの女から選ぶ事は無く、またイサクをこの約束の地から離れさせる事も無く、人間的に見れば確率の最も低い方法、かつ、御心に最も近い方法を選び、この僕に行動させた。それは主への全き信頼があったからだ。
主は今までの人生を、ずっと導いて下さった。だから、イサクの嫁探しにおいても、主が御使いを使わして導いて下さるに違いない。そう信じたからこそ、しもべに堂々と指示する事が出来たのだ。
結婚に限らず、人生の重要な場面において、望むものが中々与えられないような時、そして主からの具体的な導きが無い時は、与えられている御言葉から逆算し、積極的に信仰の行動を取り、主の守りと導きに従って、祝福を勝ち取るのだ。
今、進もうとしている道が、御心にかなっており、御言葉の裏付けもあるならば、どんなに確率が低いように見えても、主が為して下さると信じ、進んで良いのである。逆に、御言葉の裏付けが無い単なる世の方法であるならば、いかに成功確率が高いように見えても、一旦止めて、御言葉を思い巡らすべきである。
アブラハムのように主への信頼を積み上げ、主の確かなご性質を経験し、ますます信仰によって行動し祝福を勝ち取って行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
十字架につけられたキリストの福音の力(使徒18:24-28):右クリックで保存
祈り会音声:右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
天の御国の弟子となった学者(マタイ13:44-52):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
結局のところ、神を恐れその命令を守れ(伝道者の書12:9-14):右クリックで保存

【概要】

伝道者の書12章9-14節を基に、知恵の真の源と、神を恐れ命令を守ることの重要性について説く。

【聖書箇所】

伝道者の書12章9-14節

【戒めの言葉】

知恵を持つだけでなく、それを実践することが重要である。

【勧めの言葉】

神を恐れ、その命令を守ることが人間にとって最も大切である。

【悔い改めの促しの言葉】

多くの知識を得ても、それを守り行わなければ意味がない。

【***詳細***】

今日、私たちが学ぶみ言葉は伝道者の書12章9節から14節です。この箇所は、ソロモンが書き残したものです。

ソロモンは知恵が与えられた人でした。人類で最も知恵が与えられたと言っても過言ではありません。彼は多くの箴言をまとめ上げました。聖書の中に箴言が記されていますが、ソロモンが本当にたくさんの知恵の言葉をまとめ上げました。その中に記されていることは本当にためになり、また人生の知恵で満ちています。それを守り行うならば、確かに成功して幸いを受けるでしょう。

しかし、知恵を持っているか、あるいは知恵の書を書き記したかどうかよりも、その知恵をその人本人も守って行ったかどうか、それが重要なのです。11節には「知恵あるものの言葉は牧畜のようなもの、編集されたものはよく打ち付けられた釘のようなものである。これらは一人の羊飼いによって与えられた。」と書かれています。

この「一人の羊飼い」とは、主なる神のことです。ダビデも「主は私の羊飼い」と言っています。この羊飼いが、ソロモンに知恵を与えたのです。ソロモン自身がいろいろ本を調べたり勉強したりして知恵を身につけたのではなく、主が誰にも勝る知恵を与えてくださったから、ソロモンはこのような知恵者となったのです。

私たちは、すべての知恵の源である主を求めるべきです。知恵と刑事の例は主から来るものです。そしてその知恵にあって、歩むもの、そして知恵が与えられたのであるならば、その知恵を用いて、確かに知恵を人に伝えること、それも重要です。でも、人に伝えても自分自身がその知恵に記されていることを守り行わないなら、一体何になるでしょうか。

ソロモンは知恵が与えられて、それを書き記して多くの人々に伝導しました。宣べ伝えました。でも結局のところ、彼は彼自身を救ったわけではありませんでした。12節には「我が子よ。これ以外のことにも注意せよ。多くの本を作ることには限りがない。多くのものに熱中すると体が疲れる。」と書かれています。

彼自身、多くの本を作りました。多くのものに熱中しました。でも結局それは彼自身の体を疲れさせるだけでした。神様抜きで、また御言葉を守り行うこと抜きでいろいろなことをしても、それはただただ体が疲れるだけなのです。御言葉を除いたところで空回りしてもどうしようもありません。

本当に滅びる人、あるいは幸いを得られない人の共通する特徴というのが、自分の中が忙しい、頭の中が自分の言いたいこと、自分の訴えたいことでいっぱいいっぱいの人です。そういう人は聞く耳を持たないのです。自分の口で何かを教えたい、自分で何か言いたい、自分で編み出したことを伝えたいという、そういうことだけで思いが塞がれて、唇からベラベラと出すのです。

そういう人は、御言葉が語られている時や、誰か人が話している時に、その話している言葉に耳を傾けません。むしろ思いの中でぐるぐる巡らして、それで、その話している人の話が途切れた途端、その自分の中に思い巡らしていたことをバーッとぶちまけるのです。

ソロモンはその羊飼いの声をないがしろにして、みことばが語られているとき、それを書き記して、本にして、編集するということをしました。確かに与えられた恵みを書き記すことは良いことですが、でも、その聞いている時間を紛らわすために書いているような人もまたいるのです。与えられた言葉「ああ、ありがたい、ありがたい」と言ってノートに書き記しはするのですが、でも翌日たっても、その翌々日になっても、その書き記された言葉を思い出すことなく、もう書き記したら、もうページの狭間に埋もれさせるだけで、そういう人は本当に災いが多いものです。

皆さん、どうかそのようなものにならないで、書き記されているみ言葉はしっかりと守り行うこと、それにて幸いを得るべきです。ソロモンは結論として言います。「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ、神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」

結局のところ、多くの書物を書き記すことはただ疲れるだけです。むしろ、書き記すことよりも、守り行うことをしなさいということが肝心です。ソロモン自身、本当に書き記してきた、また多くの知恵を人々に伝えた。それだけでは、ただ単に疲れるのです。むしろ自分自身が神様を恐れて神様の命令を守り行うことが大切なのです。

教会においては、もう耳にタコができるほど聞いてきたことですね。神様の命令を聞いて守り行いなさい。旧約聖書にも何度も何度も耳にタコができるほど書いてあることですが、でも人は何かと、もう耳にタコができることほど守り行うということをしないのです。そういう性質があるのか、それとも神様の命令を守り行うことが、よっぽど耳にタコができるほど言っても言っても聞かない性質が人間にあるのか。とにかく幸いの法則、それは主のみ言葉を聞いて守り行うことであるのですが、でもそれをしないのです。

【結論】

皆さん、どうか守り行ってください。神様を恐れ、敬い、御言葉に記されていることを守り行うならば、皆さんは幸いを得ます。ソロモンは本当に多くの箴言や、また知恵の言葉を記してきました。皆さんも多くのことを記したりするでしょう。でもそれも確かにある程度は有益ですが、最も大事なのは、皆さんの心の板に書き記して、それを守り行うことです。紙のノートに書くよりも、皆さん自身の心の板に記して、そして皆さん自身が御言葉を守り行うということ、これを実践すること、これがすべてのすべてです。どうか皆さんはこの幸いの法則、御言葉を聞いて守り行うということ、もうこの聖書には何度も何度も記されていることをしっかりと守って、そして幸いの人生を歩んでいく皆さんでありますように、イエス様の名前によって祝福いたします。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
愛しあう故に与え合う(創世記22:1-2):右クリックで保存

 

礼拝説教メッセージ音声:アビメレクという茨から火がのぼり(士師記9:41-57):右クリックで保存

『こうしてアビメレクは引き続いてアルマにいたが、ゼブルはガアルとその身内の人々を追い出してシケムにおらせなかった。翌日、民が畑に出ると、そのことがアビメレクに聞えた。アビメレクは自分の民を率い、それを三組に分け、野に身を伏せて、うかがっていると、民が町から出てきたので、たちあがってこれを撃った。』(士師記9:41-43)


アビメレクは、ガアルを追い出しただけでは飽きたりなかった。
シェケムの人々は、畑仕事をするために町から出てきた。
アビメレクはもうガアルが追い出された事で「気が済んだ」と彼らは思っていたのだろう、日常生活に戻ろうとしていたた所を、アビメレクは待ち伏せして、殺戮し、また、町を襲って住人を殺し、破壊した後、塩をまいた。(士師記9:43-45)
塩をまいたのは、その町が汚れたものである事を示し、それを自分達”正規軍”が懲罰して清めた、という事を内外に示すためであろう。
それで彼はさらに勢いづき、別の所を攻め取るために、進んで行った。

『シケムのやぐらの人々は皆これを聞いて、エルベリテの宮の塔にはいった。』(士師記9:46)
ここで「塔」と口語訳で訳された言葉は、元来、戦いの時に立て篭って抗戦するために用いる「とりで」のようなものの意味で、新改訳では「地下室」、新共同訳では「地下壕」と訳されている。
また、「エルベリテの宮」を直訳するなら「ベリテの神の家」、つまり彼らは、偶像礼拝施設の中の、敵がうかつに攻め込めないような所に、立て籠もったのである。

『アビメレクは自分と一緒にいた民をことごとく率いてザルモン山にのぼり、アビメレクは手におのを取って、木の枝を切り落し、それを取りあげて自分の肩にのせ、一緒にいた民にむかって言った、「あなたがたはわたしがしたことを見たとおりに急いでしなさい」。そこで民もまた皆おのおのその枝を切り落し、アビメレクに従って行って、枝を塔によせかけ、塔に火をつけて彼らを攻めた。こうしてシケムのやぐらの人々もまたことごとく死んだ。男女おおよそ一千人であった。』(士師記9:48-49)
アビメレクは、逃げ場の無い彼らを、火攻めという残酷な方法で殺し、それでも飽きたらず、さらに次の所を攻めに行く。
彼は一見、勝利に勝利を重ね、快進撃しているように見えるが、それは一時的であり、彼がもっと傲慢になって自ら滅びへと邁進して行くように、主がしておられるのである。

『ついでアビメレクはテベツに行き、テベツに向かって陣を張り、これを攻め取ったが、町の中に一つの堅固なやぐらがあって、すべての男女すなわち町の人々が皆そこに逃げ込み、あとを閉ざして、やぐらの屋根に上ったので、アビメレクはやぐらのもとに押し寄せてこれを攻め、やぐらの入口に近づいて、火をつけて焼こうとしたとき、ひとりの女がアビメレクの頭に、うすの上石を投げて、その頭骸骨を砕いた。
アビメレクは自分の武器を持つ若者を急ぎ呼んで言った、「つるぎを抜いてわたしを殺せ。さもないと人々はわたしを、女に殺されたのだと言うであろう」。その若者が彼を刺し通したので彼は死んだ。』(士師記9:50-54)

将軍シセラがヤエルに殺された時のように、将軍や王などが女に殺されて死ぬは、かなりの恥であった。
それでアビメレクは、そのそしりを受けないようにと、道具持ちの若者に自分を殺させるという”工夫”をしたものの、のちの時代には、彼は「女によって殺された」と語り継がれており、しかも、城壁にうっかり近づき過ぎると、アビメレクのように女にも殺されかねない、と、注意喚起の象徴のようにされたようである。(2サムエル記11:20-21)

『イスラエルの人々はアビメレクの死んだのを見て、おのおの去って家に帰った。このように神はアビメレクがその兄弟七十人を殺して、自分の父に対して犯した悪に報いられた。また神はシケムの人々のすべての悪を彼らのこうべに報いられた。こうしてエルバアルの子ヨタムののろいが、彼らに臨んだのである。』(士師記9:55-57)
エルバアルの血の唯一の生き残りであるヨタムは、こう預言していた。
『アビメレクから火が出て、シケムの人々とベテミロとを焼きつくし、またシケムの人々とベテミロからも火が出てアビメレクを焼きつくすでしょう。』(士師記9:20)
彼が預言した通り、アビメレクという”いばら”は、シェケムを焼き、アビメレク自身も、相手に”火”をつけようとしている最中に、女によって脳天を割られ、火の滅びは自分の頭上に返った。

血を流すものは血を流され(創世記9:6)、剣を取る者は剣によって滅びる。(マタイ26:52)
『あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される。あわれみは、さばきにうち勝つ。』(ヤコブ2:13)
私達は神を恐れつつ、御言葉に従い、柔和な者、地を相続する者として、安全に歩んでいきたい。

礼拝説教メッセージ音声:神を恐れない者に現れる特徴(士師記9:26-40):右クリックで保存

アビメレクがイスラエルを治めるようになって以来、アビメレクとシェケムの人々との間に、争いが続いていたが、そこに、ガアルという者が来た。

『さてエベデの子ガアルはその身内の人々と一緒にシケムに移住したが、シケムの人々は彼を信用した。人々は畑に出てぶどうを取り入れ、それを踏み絞って祭をし、神の宮に行って飲み食いしてアビメレクをのろった。』(士師記9:26-27)

神の宮、といっても、それは偶像の宮であり、ガアルはそこでシェケムの人々と一緒に飲み食いしながら、アビメレクの悪口に花を咲かせた。
シェケムの人々は、ガアルのアビメレク叩きに、そうだそうだと言って持ち上げたのだろう。
ガアルは気が大きくなって「アビメレクに向かって『おまえの軍勢を増して出てこい』と言うであろう。」と大言壮語した。(士師記9:28-29)
上司の面前では言えない大口を、陰の酒の席で互いに言い合っているようなものである。

しかし、それを聞いていたアビメレクの役人ゼブルは、彼らに反乱の心がある事を、アビメレクに告げ口する。
『町のつかさゼブルはエベデの子ガアルの言葉を聞いて怒りを発し、使者をアルマにおるアビメレクにつかわして言わせた、「エベデの子ガアルとその身内の人々がシケムにきて、町を騒がせ、あなたにそむかせようとしています。それであなたと、あなたと共におる人々が夜のうちに行って、野に身を伏せ、朝になって、日ののぼるとき、早く起き出て町を襲うならば、ガアルと、彼と共におる民は出てきて、あなたに抵抗するでしょう。その時あなたは機を得て、彼らを撃つことができるでしょう」。』(士師記9:30-33)

アビメレクはこれを聞いて、先手を打ち、ゼブルの言うとおりに備えて、この反乱を未然に防いだ。
そうしてガアルは追い出され、多くの人々が刺殺され、倒れた。
こうしてアビメレクは反乱分子を平定した、はずだが、彼はなおシェケムを徹底的に攻撃して行く。
このように彼らが憎みあい、骨肉の争いをするのは、神がそのようにしているためである。

神を恐れず、人を人とも思わず、そして自分の欲望を遂げるためには、手段を選ばないような者達を、神はさらに良くない思いへと引き渡され、自滅して行くに任せられる。
『彼らは神を認めることを正しいとしなかったので、神は彼らを正しからぬ思いにわたし、なすべからざる事をなすに任せられた。すなわち、彼らは、あらゆる不義と悪と貪欲と悪意とにあふれ、ねたみと殺意と争いと詐欺と悪念とに満ち、また、ざん言する者、そしる者、神を憎む者、不遜な者、高慢な者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者となり、無知、不誠実、無情、無慈悲な者となっている。』(ローマ1:28-31)
この、神を恐れない者に現れる特徴のリストを見ていると、実に、アビメレクやガアル、シェケムの人々の性質そのものであると分かる。

これらの良くない思いは、ひとえに、神を恐れない所から来る。
そしてその特徴は、特に、偶像礼拝者に顕著である。
『なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり、不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである。ゆえに、神は、彼らが心の欲情にかられ、自分のからだを互にはずかしめて、汚すままに任せられた。彼らは神の真理を変えて虚偽とし、創造者の代りに被造物を拝み、これに仕えたのである。創造者こそ永遠にほむべきものである、アァメン。』(ローマ1:21-25)
私達はいつも神への畏れを持ち、御言葉に親しみ、自らをきよく保つべきである。
そうするなら、さらにさらに良き性質を身に帯びるようになり、主に愛され、守られるようになって行くからだ。

礼拝説教メッセージ音声:主が悪霊を送られる時(士師記9:22-25):右クリックで保存

『アビメレクは三年の間イスラエルを治めたが、神はアビメレクとシケムの人々の間に悪霊をおくられたので、シケムの人々はアビメレクを欺くようになった。これはエルバアルの七十人の子が受けた暴虐と彼らの血が、彼らを殺した兄弟アビメレクの上と、彼の手を強めてその兄弟を殺させたシケムの人々の上とに報いとなってきたのである。シケムの人々は彼に敵して待ち伏せする者を山々の頂におき、すべてその道を通り過ぎる者を略奪させた。このことがアビメレクに告げ知らされた。』(士師記9:22-25)

主は、敢えて邪悪な事を行う者や、御言葉を退けて肉欲に従って歩むような者達には悪い霊を送り、その者を災いへと向かわせる事がある。
イスラエルの最初の王・サウルは、主の御声に聞き従わず、御言葉を退け続けたので、主は彼を王位から退けて悪い霊を送り、彼は狂気へと走って行ったし、イスラエル最悪の王・アハブの時も、主は彼に惑わす霊を送り、滅びへと導いた。

サウル王も、アハブ王も、共通している事は、預言者の言う事を聞かず、自分に都合の良い事を言ってもらう者を身近に囲って、真実である主の言葉を退けた事だ。
真理から目をそむけ、自分に都合の良い「偽り事」にばかり目を向けている者には、主から悪い霊を送られてしまうのだ。
『不法の者が来るのは、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力と、しるしと、不思議と、また、あらゆる不義の惑わしとを、滅ぶべき者どもに対して行うためである。彼らが滅びるのは、自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いである。そこで神は、彼らが偽りを信じるように、迷わす力を送り、こうして、真理を信じないで不義を喜んでいたすべての人を、さばくのである。』(2テサロニケ2:8-12)

霊だからと言って、何もかも信じてはならない。
主からのものでない霊は、その人を滅びに導き、神の民を惑わし、混乱させ、滅びへと導いてしまうからだ。
『愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである。あなたがたは、こうして神の霊を知るのである。すなわち、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているものであり、イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である。あなたがたは、それが来るとかねて聞いていたが、今やすでに世にきている。』(1ヨハネ4:1-3)

私達はむしろ、あらゆる偽りや悪しき霊に対し、また、戦いを挑んでくる肉欲に対し、対抗するべきである。
いつもキリストと交わり、いつも御言葉によく親しんでいるなら、そのような「偽り」が来た時にはすぐに分かるし、どのように対処すれば良いのかも判る。
人々が健全な教えから離れ、勝手気ままな道に歩んでいこうとするような時代こそ、真理の御言葉に目を向けるべきである。

『御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。』(2テモテ4:2-5)

礼拝説教メッセージ音声:主を差し置いて王を求める事の災い(士師記9:7-21):右クリックで保存

イスラエルに誠実を尽くしたギデオンすなわちエルバアルの七十人の子達は、アビメレクの野心によって虐殺され、その惨劇の唯一の生き残りであるヨタムは、ゲリジム山に登って、その事をした者達に呼ばわった。
『ある時、もろもろの木が自分たちの上に王を立てようと出て行ってオリブの木に言った、『わたしたちの王になってください』。しかしオリブの木は彼らに言った、『わたしはどうして神と人とをあがめるために用いられるわたしの油を捨てて行って、もろもろの木を治めることができましょう』。』(士師記9:8)

この「もろもろの木」は、アビメレクをかついだシェケムの人々をあらわしているのだろう。
たとえの中で、その木々は、自分達を治める王になって欲しいと、オリーブの木、いちじくの木、ぶどうの木に求めているのだが、次々と断られる。
オリーブの木からは『わたしはどうして神と人とをあがめるために用いられるわたしの油を捨てて行って、もろもろの木を治めることができましょう。』と、またいちじくの木からは『わたしはどうしてわたしの甘味と、わたしの良い果実とを捨てて行って、もろもろの木を治めることができましょう。』と、ぶどうの木からは、『わたしはどうして神と人とを喜ばせるわたしのぶどう酒を捨てて行って、もろもろの木を治めることができましょう。』と言って断られた。

自分の分をわきまえている人は、敢えて王となる事は望まないものであり、ただ、神様から与えられた賜物を用いて、神と人とを喜ばせる良き実を結ばせる事で満足するものである。
しかし、どうしても自分たちが好むように治めて欲しいと願う者達は、どうしても王を求めるものであり、そして彼らはその事が主を退けている事に気づいていない。(1サムエル8章)
結局、彼らが王になって欲しいと行き着いた最終先は、いばらであった。

『そこですべての木はいばらに言った、『きてわたしたちの王になってください』。いばらはもろもろの木に言った、『あなたがたが真実にわたしを立てて王にするならば、きてわたしの陰に難を避けなさい。そうしなければ、いばらから火が出てレバノンの香柏を焼きつくすでしょう』。』(士師記9:14-15)
この「いばら」はアビメレクを指している。彼らは、最も愚かなものを、王に立ててしまったのだ。
そこでヨタムは言う。

『あなたがたがアビメレクを立てて王にしたことは、真実と敬意とをもってしたものですか。あなたがたはエルバアルとその家をよく扱い、彼のおこないに応じてしたのですか。わたしの父はあなたがたのために戦い、自分の命を投げ出して、あなたがたをミデアンの手から救い出したのに、あなたがたは、きょう、わたしの父の家に反抗して起り、その子七十人を一つの石の上で殺し、その腰元の子アビメレクをあなたがたの身内の者であるゆえに立てて、シケムの人々の王にしました。』(士師記9:16-18)
シェケムの者達は、エルバアルの恩を、仇で返して来た。
自分達に都合よくしてもらいたいがために、恩ある人々を平気で殺して、都合よく王を仕立てる。そのような者には、呪いがもたらされる。

『あなたがたが、きょう、エルバアルとその家になされたことが真実と敬意をもってしたものであるならば、アビメレクのために喜びなさい。彼もまたあなたがたのために喜ぶでしょう。しかし、そうでなければ、アビメレクから火が出て、シケムの人々とベテミロとを焼きつくし、またシケムの人々とベテミロからも火が出てアビメレクを焼きつくすでしょう」。』(士師記9:19-20)
ヨタムはこのように宣言したが、最終的にはその通りに、彼らは互いを火で焼き合うような事になって行く。

ヤコブは言う。
『わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が、他の人たちよりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。・・・舌は小さな器官ではあるが、よく大言壮語する。見よ、ごく小さな火でも、非常に大きな森を燃やすではないか。舌は火である。不義の世界である。舌は、わたしたちの器官の一つとしてそなえられたものであるが、全身を汚し、生存の車輪を燃やし、自らは地獄の火で焼かれる。』(ヤコブ3:1-6)

私達は、いたずらに人の上に立って教師のようになろうとしたり、まことの王であるキリストを差し置いて、自分が王のようになろうとすると、その高慢が、自分自身を焼きつくし滅ぼしてしまう元となる。
私達はただ、与えられている賜物に従って、神と人とを喜ばせる実を結んでいくべきである。

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