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礼拝説教メッセージ音声:ろばのあご骨(士師記15:9-20):右クリックで保存
『そこでペリシテびとは上ってきて、ユダに陣を取り、レヒを攻めたので、ユダの人々は言った、「あなたがたはどうしてわれわれのところに攻めのぼってきたのですか」。彼らは言った、「われわれはサムソンを縛り、彼がわれわれにしたように、彼にするために上ってきたのです」。』(士師記15:9-10)
最初は、サムソンとペリシテ女との個人的な結婚騒動だったが、事は大きくなり、部族的な抗争にまで発展した。
『そこでユダの人々三千人がエタムの岩の裂け目に下って行って、サムソンに言った、「ペリシテびとはわれわれの支配者であることをあなたは知らないのですか。あなたはどうしてわれわれにこんな事をしたのですか」。サムソンは彼らに言った、「彼らがわたしにしたように、わたしは彼らにしたのです」。』(士師記15:11)
サムソンの言い分も、ペリシテ人の言い分も、相手がやったから自分も同じようにしてやるのだ、というものである。
今でも世界中で行われている抗争は、大体そのようなものであるが、そもそも今回の事は、サムソンが律法に反する事をしなければ起こらなかったものだ。
彼が両親の戒めに聞き従い、異邦の女をめとろうとしなければ、そして、一度苦い経験をしたのだから、それに懲りて、女の所に戻らなかったなら、このような事にはならなかったはずだ。
ユダ族は、士師の時代の初期はまだ健全な信仰を保っていたのに、「自分よかれ」の時代が長びくにつれ、彼らの信仰も地に落ちてしまった。
もし初期のユダ族だったなら、カレブやオテニエルにならって、自ら進んで敵地に攻めこんで行ったであろうし、あるいはサムソンと力を合わせてペリシテに戦いを仕掛けていたであろう。
それなのに彼らは、今はペリシテ人が自分達の支配者だ、なぜ彼らの機嫌を損ねたのか、と、サムソンを責めている。
彼らのやり取りには、主への言及は一切無く、信仰が地に落ちてしまったのが分かる。
ともかく、ユダ族はサムソンには手を出さない事を合意の上で、サムソンは強固に縛られた状態でペリシテ人の元へと連れて行かれた。
『サムソンがレヒにきたとき、ペリシテびとは声をあげて、彼に近づいた。その時、主の霊が激しく彼に臨んだので、彼の腕にかかっていた綱は火に焼けた亜麻のようになって、そのなわめが手から解けて落ちた。彼はろばの新しいあご骨一つを見つけたので、手を伸べて取り、それをもって一千人を打ち殺した。』(士師記15:14-15)
実に、すさまじい力である。それは「主の霊が激しく彼に臨んだ」ためだ。
主は確かに、一人が一千人の敵を追い払う事が出来る、と言われたが、しかしそれは御言葉を固く守って右にも左にも逸れず、異邦の者と結婚しない事が条件だった。(ヨシュア記23:6-11)
それにもかかわらず、彼がそのように出来たのは、ただ主の一方的なイスラエルに対する憐れみによる。
『そしてサムソンは言った、/「ろばのあご骨をもって山また山を築き、/ろばのあご骨をもって一千人を打ち殺した」。彼は言い終ると、その手からあご骨を投げすてた。これがためにその所は「あご骨の丘」と呼ばれた。』(士師記15:16-17)
「ろば」のヘブライ語「ハモル」には、「ひと山」の意味もあり、この個所は「ハモルのあご骨でハモルを築いた」と、韻を踏んだ詩のようになっている。
ちなみに、ろばは、聖書の他の個所を見ると、イエス様をエルサレムへ運ぶ事ために選ばれたり、また、気違いの預言者バラムを滅びから救ったりと、主のしもべのような形で用いられている。
『時に彼はひどくかわきを覚えたので、主に呼ばわって言った、「あなたはしもべの手をもって、この大きな救を施されたのに、わたしは今、かわいて死に、割礼をうけないものの手に陥ろうとしています」。そこで神はレヒにあるくぼんだ所を裂かれたので、そこから水が流れ出た。サムソンがそれを飲むと彼の霊はもとにかえって元気づいた。それでその名を「呼ばわった者の泉」と呼んだ。これは今日までレヒにある。』(士師記15:18-19)
彼が主に呼び求めた記述は、ここが、初めてである。
普段、主を全く呼び求めていなかった者が、危機に陥った時、思い出したかのように主に助けを求めると、主は答えて下さって助け、潤いを与えて下さった。
私達にも、身に覚えが無いだろうか。
普段から主を軽んじ、何度も主を裏切り、行いにおいても心においても、憐れみを受けるに相応しくない者なのに、わずかばかりの信仰をもって主を呼び求めると、主は応えて下さり、助けて下さり、潤いを与えて下さった。
死んで、骨となり果てたろば(主のしもべ)のようであっても、主はそのあごを大きく用い、強力な敵を討ち取らせて下さった。
全くもって、主は憐れみ深いお方であり、私達はただ、その御前にひれ伏すしか無いのだ。
収穫感謝祭 どんな実りを結ばせるか(ガラテヤ5:16-23)
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本日は収穫感謝祭、主が与えて下さった実りを主に感謝し、喜び祝う日である。
店頭には、実に色々な作物が並んでいた。畑から採れたものの中には、とてもつやつやした美しい実りもあるが、そうでないものもある。おりに叶った時と場所に、それに見合った種類の種を蒔き、水をやり、よく手入れするなら、豊かな良いものが実を結び、適切な時に収穫するなら、良き収穫物が手に入る。
しかし、あさってな時と場所に、見合わない種を蒔いても、成長しないし、水やりや手入れを怠っても、良い実りは結ばない。また、適切な時期に収穫しないなら、せっかく結んだ良い実も、だめになってしまう。
そしてそもそも、種を蒔かないなら、何の実りも期待出来ない。今年皆さんは、どんな実りを結んだだろうか。
そして私達は、どうすれば、主に喜ばれる良い実を豊かに結ばせられるのだろうか。
私達が主に喜ばれる良い実を結ばせるためには、肉にではなく、霊に蒔く事である。
「自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取る」(ガラ6:8)
「肉」とは、神を除外した、人間の生来の考えや力、罪に傾く性質の全般を言い、肉体が死ねば滅びるが、「霊」とは、神を知覚し交わる事の出来るいのちであり、それは肉体が死んでも存続する永遠のものである。
生来の人は、霊という”いのち”は死んでいるが、キリストを信じた人はそれが息吹き、働くようになり出す。
キリスト者は日々、霊に従って歩むか、肉に従って歩むかという決断に迫られているが、その都度「霊を選択する」という「種まき」をし続けるなら、御霊が結ぶあらゆる良き実にあずかる事が出来る。
ローマ8:1を、ギリシヤ語原典(TR)から訳すと、「こういうわけで、今や、肉に従ってでなく御霊に従って歩むキリスト・イエスにある者は、罪に定められることがない。」となる。だから、「イエスは主です」と告白した人が未来永劫罪に定められることは無い、という事ではなく、肉に従う事を継続的に拒否し、日々御霊に従って歩む事を継続的に選ぶキリスト者は、罪に定められる事が無いのだ。
モーセも、申命記で繰り返し強調した事は、約束の地に入る事よりも、むしろそこに入った後のほうが重要で、主の命令に聞き、守り行う事をキープせよ、という事だった。そのような人は、御霊の実を結んでいく。
御霊の実には「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」がある。(ガラテヤ5:23)
これらの良き実は、肉の頑張りでは決して、逆立ちしても、結ぶ事は出来ない。しかし、霊に従って歩み続けるなら、その人はいのちの御霊の法則の支配下に入っており、坂道を自転車で下るがごとくラクにこれらの実を結んで行き、また現実社会においても、その人に対して祝福の良き産物が豊かに生じる。
しかし、肉に従って歩み続けるなら、その人の人生は茨とあざみを生じ、その行き着く先は、死である。
物事は、私達自身の頑張りによるのではない。私達の意思決定権という実印を、御霊に渡すか、それとも肉に渡すか、という事である。
実印を善い人に渡すなら、その人は知らない内に良いビジネスをして、資産を増やし、いつのまにかこちらの評判も、良くなっていくが、もし悪い人に渡すなら、知らない間に借金だらけになり、いつのまにか色々な人から憎まれるようになっているのと同じ様に、私達も「意志」という実印を、御霊に渡し続けているなら、知らない内に御霊が私達を造り変え、素行も、評判もどんどん良くなって行くが、いつも肉に渡し続けているなら、肉はいつも滅びへと導き、いつの間にか、素行も評判もどんどん悪くなって行く。
皆さんは今年、どのような実を自分自身に対し、また周りに対して結ばせたであろうか。
もし振り返って見て、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のもの(ガラ5:20-21)が目立つなら、肉によって歩んでいたという事であり、御霊の歩みへと矯正すべきであるし、そのような人から支配されてはならず、むしろ御霊にあって戒め支配するべきだ。
もし振り返って見て、 愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制の良き実が結んだ、という自覚があるなら、その御霊による歩みをキープし、また、そのような人がいたら見習うべきである。
『わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば決して肉の欲を満たすことはない。』(ガラ5:16-18)
御霊によって歩み、人生が愛と喜びと平安によって満ち溢れ、その性質がますます寛容に、親切に、善意に溢れ、誠実な人、柔和な人、自制心のある人として、ますます尊敬されていく皆さんでありますように!
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
真の自由とは(ヨハネ8:31-36 ダブルメッセージ):右クリックで保存
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礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
五つのパンと二匹の魚(マタイ14:13-21):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
よく訓練された王の雌馬(雅歌1:9-17):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
助け主、聖霊(ローマ8:12-17):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:壮大で手間暇のかかるいたずら(士師記15:1-8):右クリックで保存
サムソンは、ペリシテ人の女がらみで散々な目に遭ったというのに、それでも懲りず、自分をだました女の所に贈り物を持って戻って行った。
それが発端で、彼は再び、苦々しい経験へと入っていく。
『日がたって後、麦刈の時にサムソンは子やぎを携えて妻をおとずれ、「へやにはいって、妻に会いましょう」と言ったが、妻の父ははいることを許さなかった。そして父は言った、「あなたが確かに彼女をきらったに相違ないと思ったので、わたしは彼女をあなたの客であった者にやりました。彼女の妹は彼女よりもきれいではありませんか。どうぞ、彼女の代りに妹をめとってください」。サムソンは彼らに言った、「今度はわたしがペリシテびとに害を加えても、彼らのことでは、わたしに罪がない」。』(士師記15:1-3)
ペリシテ人の女をめとる事がそもそも罪であり、災いの元であるのに、彼はその事に目を向けず、自分の思い通りに行かない事で怒り、次のような事をする。
『そこでサムソンは行って、きつね三百匹を捕え、たいまつをとり、尾と尾をあわせて、その二つの尾の間に一つのたいまつを結びつけ、たいまつに火をつけて、そのきつねをペリシテびとのまだ刈らない麦の中に放し入れ、そのたばね積んだものと、まだ刈らないものとを焼き、オリブ畑をも焼いた。』(士師記15:4-5)
三百という数字と、たいまつという言葉から、ギデオンの三百人の勇士を思い起こさせるが、ギデオンのそれと比べれば、なんと稚拙ないたずらまがいの事を彼はしているだろうか。
ようは、ペリシテ人の畑に火を放つだけの話なのだが、その準備のために、狐を三百匹も野で捕らえ、それぞれのしっぽを合わせてたいまつを縛り、火をつけて畑に解き放つ、という、非常に手間暇のかかる「仕返し」を行った。
何メートルもの巨大な落とし穴を一日がかりで掘るような”盛大ないたずら”は、せいぜい血気盛んな若い時分しかしようとは思わないものだが、このような盛大で下らない事を、手間暇を厭わずやってのける所に、彼の幼稚さと、怒りの執念深さが垣間見られる。
『ペリシテびとは言った、「これはだれのしわざか」。人々は言った、「テムナびとの婿サムソンだ。そのしゅうとがサムソンの妻を取り返して、その客であった者に与えたからだ」。そこでペリシテびとは上ってきて彼女とその父の家を火で焼き払った。』(士師記15:6)
ペリシテ人はこのようにされても、サムソンに直接の仕返しが出来ないため、その矛先を、サムソンが愛した女性へと向けた。
ペリシテ人達は元々、彼女に、サムソンのなぞを聞き出さなければ、おまえも父の家も火で焼くぞ、と脅し、彼女はそれを恐れて夫を裏切ったのだが、結局、彼女はペリシテ人に言われた通りしても、自分も父の家も焼かれてしまった。
サムソンを裏切った彼女自身の身から出た錆、とも言えるかもしれないが、約束を守っても破っても結局焼き討ちにしてしまう所に、ペリシテ人の邪悪さがよく分かる。
サムソンはさらに怒った。
『サムソンは彼らに言った、「あなたがたがそんなことをするならば、わたしはあなたがたに仕返しせずにはおかない」。そしてサムソンは彼らを、さんざんに撃って大ぜい殺した。こうしてサムソンは下って行って、エタムの岩の裂け目に住んでいた。』(士師記15:7-8)
悪人は、悪人どうしで悪を重ね、互い食い合い、互いに滅びへと落ち込んで行くものである。
そもそも全ての発端は、サムソンだった。
彼が律法をしっかり守って、異邦の女をめとらず、父母の言う事を聞いていれば、そんな事はそもそも起きなかった。
そしてひと度苦い思いをして、それに懲りて、ペリシテの女の所に戻りさえしなければ、このようなことは無かった。
しかしその背後で、多くのペリシテ人がサムソンによって苦しめられ、結果、イスラエルは恩恵を受けており、神様の御旨はしっかりと進んでいる。
私達は、こんなややこしい形で用いられないために、最初から主に聞き従い、幸いを得ていくものでありたい。
礼拝説教メッセージ音声:サムソンの出した”なぞ”(士師記14:10-20):右クリックで保存
『そこで父が下って、女のもとに行ったので、サムソンはそこにふるまいを設けた。そうすることは花婿のならわしであったからである。人々はサムソンを見ると、三十人の客を連れてきて、同席させた。』(士師記14:10-11)
サムソンは、主の霊に満たされ獅子をほふり、危機から救い出されたにもかかわらず、ペリシテ人の女と結婚するという堕落の方向性は変えず、その女との結婚手続きに入ったばかりか、祝宴の席で、かの獅子との出来事をネタにして、なぞかけをする。
『サムソンは彼らに言った、「わたしはあなたがたに一つのなぞを出しましょう。あなたがたがもし七日のふるまいのうちにそれを解いて、わたしに告げることができたなら、わたしはあなたがたに亜麻の着物三十と、晴れ着三十をさしあげましょう。しかしあなたがたが、それをわたしに告げることができなければ、亜麻の着物三十と晴れ着三十をわたしにくれなければなりません」。彼らはサムソンに言った、「なぞを出しなさい。わたしたちはそれを聞きましょう」。』(士師記14:12-13)
サムソンも、ペリシテ人も、賭け事が好きだったようである。
サムソンがなぞなぞで賭るものは、亜麻の着物三十と晴れ着三十。
サムソン一人には高額であるが、勝てれば一獲千金できるような、また、ペリシテ人にしてみれば一見おいしく見えるような賭けである。
というより、彼は元々、亜麻の着物三十と晴れ着三十など持っていなかった。それなのに賭けたのは、このなぞは絶対に解けない、と思っていたのだろう。
『サムソンは彼らに言った、/「食らう者から食い物が出、/強い者から甘い物が出た」。彼らは三日のあいだなぞを解くことができなかった。』(士師記14:14)
確かに、獅子がいとも簡単にほふられて、そのほふられた獅子から蜜が取れるなど、人の心に思い浮かぶような事ではない。
まことにキリストも、人の心に思い浮かんだ事のない方法で、人に救いを与えられた。
預言者イザヤは言っている。
『彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。』(イザヤ53:7-8)
一体誰が思い浮かんだだろうか。
神の御子キリストを砕く事が父なる神様の御心であり、その従順と死によって死と悪魔に勝利し、彼を信じる信仰によって多くの人が救いを勝ち取る事が出来るなどと。
そのような”なぞ”は、誰にも解けるものではない。
キリストは、ユダの獅子であられるお方なのに、ほふられた小羊となって下さり、そしてほふられた小羊は、人類の誰も解くことのできなかった七つの封印を、一つづつ解いて行って下さるのだ。
三日経ってもサムソンのなぞが解けなかったペリシテ人は、姑息な手段を用いる。
『四日目になって、彼らはサムソンの妻に言った、「あなたの夫を説きすすめて、なぞをわたしたちに明かすようにしてください。そうしなければ、わたしたちは火をつけてあなたとあなたの父の家を焼いてしまいます。あなたはわたしたちの物を取るために、わたしたちを招いたのですか」。』(士師記14:15)
彼らは、晴れ着三十着を惜しむが故に、あるいは、欲しいがために、同族である彼女と、その父の家とを、火で焼いてしまう、というのだ。
それほど人の命を軽んじ、そして欲深いのが、ペリシテ人である。
そのような民族と結婚し、一つになろうとしていた事の愚かさに、サムソンは気づいて離れるべきだったが、残念ながら彼はその後もペリシテの女から離れようとはしない。
『そこでサムソンの妻はサムソンの前に泣いて言った、「あなたはただわたしを憎むだけで、愛してくれません。あなたはわたしの国の人々になぞを出して、それをわたしに解き明かしませんでした」。サムソンは彼女に言った、「わたしは自分の父にも母にも解き明かさなかった。どうしてあなたに解き明かせよう」。彼女は七日のふるまいの間、彼の前に泣いていたが、七日目になって、サムソンはついに彼女に解き明かした。ひどく彼に迫ったからである。そこで彼女はなぞを自分の国の人々にあかした。』(士師記14:16-17)
男性は、女性のこのような怒涛の”泣き落とし攻撃”に弱いものである。
『賢い妻はその夫の冠である、恥をこうむらせる妻は/夫の骨に生じた腐れのようなものである。』(箴言12:4)
『雨の降る日に雨漏りの絶えないのと、争い好きな女とは同じだ。この女を制するのは風を制するのとおなじく、右の手に油をつかむのとおなじだ。』(箴言27:15)
『七日目になって、日の没する前に町の人々はサムソンに言った、/「蜜より甘いものに何があろう。ししより強いものに何があろう」。サムソンは彼らに言った、/「わたしの若い雌牛で耕さなかったなら、/わたしのなぞは解けなかった」。この時、主の霊が激しくサムソンに臨んだので、サムソンはアシケロンに下って行って、その町の者三十人を殺し、彼らからはぎ取って、かのなぞを解いた人々に、その晴れ着を与え、激しく怒って父の家に帰った。サムソンの妻は花婿付添人であった客の妻となった。』(士師記14:18-20)
このように、ペリシテ人の女との結婚をしようという試みは、苦々しい結果となるサムソンだが、彼は懲りておらず、また改めてもいない。
彼は、与えられた力と賜物を、イスラエルのため、あるいは主のために用いるではなく、相変わらず自分の欲望のために用いた。
それ故、彼はさらに苦々しい思いをして行くのだが、しかし、彼の意図していない所で、実は主の御胸が為されている。
彼が自分の好むようにしようとして、もがけばもがくほど、多くのペリシテ人は倒されて行き、その結果、イスラエルの益となっているのだ。
私達は、そのようなややこしい用いられ方ではなく、正当に御言葉に従って歩み、正当に祝福を受けるものでありたい。
礼拝説教メッセージ音声:死んだ獅子から蜜が出る(士師記14:5-9):右クリックで保存
サムソンは、異邦の女と結婚したいと言い出したり、それをたしなめる父母に従わなかったりと、色々と問題のある士師だったにもかかわらず、主は彼を士師として用いられた。それはまことに、主の憐れみである。
私達も神に選ばれ、キリストにあって召しだされた者であるというのに、サムソンに負けず劣らず、色々問題を起こす事もあるが、それにも関わらず、主の霊が取り上げられず、主の御用に用いられているのは、まことに主の憐れみである。
サムソンの特徴は、主の霊が激しく臨んだ時、尋常ならざる力を発揮する所である。
『かくてサムソンは父母と共にテムナに下って行った。彼がテムナのぶどう畑に着くと、一頭の若いししがほえたけって彼に向かってきた。時に主の霊が激しく彼に臨んだので、彼はあたかも子やぎを裂くようにそのししを裂いたが、手にはなんの武器も持っていなかった。しかしサムソンはそのしたことを父にも母にも告げなかった。』(士師記14:5-6)
ライオンが吼え猛りながら迫ってくる。普通の人は死ぬしか無い状況だが、彼に主の霊が激しく臨む時、あたかも子やぎを裂くように、素手で獅子を裂いた。
このような事が初めてなら、彼自身、驚いたであろうし、主に感謝して悪い行いを改めるべき所であろうが、彼はその直後、どうしたか。
『サムソンは下って行って女と話し合ったが、女はサムソンの心にかなった。』(士師記14:7)
せっかく主からの特別な賜物が与えられ、いのちの危機からも救い出されたというのに、彼は異邦の女から離れず、かえって、彼女をめとろうとするようになる。
『日がたって後、サムソンは彼女をめとろうとして帰ったが、道を転じて、かのししのしかばねを見ると、ししのからだに、はちの群れと、蜜があった。彼はそれをかきあつめ、手にとって歩きながら食べ、父母のもとに帰って、彼らに与えたので、彼らもそれを食べた。しかし、ししのからだからその蜜をかきあつめたことは彼らに告げなかった。』(士師記14:8-9)
獅子を手で引き裂いた事も尋常ではないが、その裂かれた獅子の体に、なんと、蜂が集まっていて、そこには沢山の蜜があった。
一体これらの出来事は、どう捉えて良いのだろうか。
御言葉の解き明かしは、御言葉から、である。
獅子は、聖書の他の箇所ではユダ族を、あるいは、ユダ族から出たキリストを意味している。
『すると、長老のひとりがわたしに言った、「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」。わたしはまた、御座と四つの生き物との間、長老たちの間に、ほふられたとみえる小羊が立っているのを見た。それに七つの角と七つの目とがあった。これらの目は、全世界につかわされた、神の七つの霊である。小羊は進み出て、御座にいますかたの右の手から、巻物を受けとった。』(黙示録5:5-7)
このユダ族の獅子、ダビデの若枝であるキリストは、人類の誰も解くことの出来ない七つの封印を解き、封じられていたなぞを一つ一つ解いて行く事が出来るお方である。
彼は勝利した。
何によってか? それはなんと「ほふられる事によって」である。(黙示録5章)
サムソンに向かってきた獅子は、本来、彼を食いつくすはずだった。
しかしサムソンによって、いとも簡単に引き裂かれてしまった。
人を食いつくすはずの獅子が、人によって、いとも簡単にほふられる。
私達の主・キリストも、本来なら、罪を犯した人間を裁き滅ぼすはずお方なのに、人のところに来た時、なんと、人によっていとも簡単に十字架でほふられてしまった。
そして、サムソンによってほふられた獅子の死体には、蜜蜂がそこを住み家とし、蜜を大量に集めている。
蜂たちは、花の所に行って蜜を集め、巣に戻って蜜を溜めて行くが、キリスト者もまた蜂のようなところがある。
それぞれ使わされている場所において、シャロンの花であるキリスト(雅歌2:1)から甘い御言葉の蜜を集め、十字架上でほふられた小羊キリストの御体(教会)に持ち帰り、共に御言葉の甘さを分かち合い、その麗しさを溜めて行く。
この、サムソンにほふられた獅子は、まさにキリストを現していないだろうか。
サムソンは、死んだ獅子から蜜をかき集めて食べ、父母にも分与した。
父母は、その蜜がどこから来たのかを知らなかったが、私達もキリストを信じたなら御言葉の蜜によって養われ、家族にもその甘さは伝わる。
家族の人は、なぜその人が甘い蜜を持っているのか、その由来を知らないが、本人はキリストが由来であると知っている。
聖書は、旧約も新約も全てキリストを現し、彼の栄光で満ちている。
『それから彼らに対して言われた、「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」。』(ルカ24:44)
日々、十字架のキリストの元に巣作りし、聖徒と共に御言葉の蜜を集め、歩んでいく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:イスラエルには女が一人もいないというのか(士師記14:1-4):右クリックで保存
生まれる前から士師として選ばれていたサムソンは大人になり、士師として活躍できる年齢になった。
今までの士師は、主から与えられた力や知恵、統率力などを用いて、正攻法で戦ったものだったが、サムソンの場合の活動の始まりは、少々ややこしかった。
『サムソンはテムナに下って行き、ペリシテびとの娘で、テムナに住むひとりの女を見た。彼は帰ってきて父母に言った、「わたしはペリシテびとの娘で、テムナに住むひとりの女を見ました。彼女をめとってわたしの妻にしてください」。』(士師記14:1-2)
彼はあろうことか、神の民の敵の、ペリシテ人の女を見初め、それと結婚したいと申し出たのだ。
信仰の無い女と結婚する事は、神の国の家系にあっては、ご法度である。
聖書では、信仰なき女との結婚が、家族や国を破滅へと導いた記事が沢山あり、また、人類全体さえ破滅へと導いた記事さえある。(創世記6章)
信仰なき異邦の女との結婚が、いかに災いであるかをよく知っていたアブラハムは、自分の子はを決してカナン人の女からめとらせてはならない、と、固く誓わせたし、エズラも、異邦の女と結婚し始めたイスラエルに対して、断固とした対応を取った。
『父母は言った、「あなたが行って、割礼をうけないペリシテびとのうちから妻を迎えようとするのは、身内の娘たちのうちに、あるいはわたしたちのすべての民のうちに女がないためなのですか」。しかしサムソンは父に言った、「彼女をわたしにめとってください。彼女はわたしの心にかないますから」。』(士師記14:3)
イスラエルには、信仰者の女がたくさんいるであろうに、それを全部無視して、異邦の女を妻にしたいなどとは、全イスラエルの女性への冒涜であり、それは、女性の男性に対しても同じである。
サムソンの父も母も当然、彼を戒めたが、サムソンは父母の戒めも聞かなかった。
この3節の、「彼女はわたしの心にかないますから」は、直訳すると「彼女は私の目に喜びですから」となる。
私達も、「目に喜び」となるものに惹き寄せられて、いらぬ災いを招いてしまいやすい。
神の民が、神の目に適う事を捨てて、自分の「目」に好む事を選ぶ時、生み出されるものは呪いであり、滅びである。
エバは「目」に良いと映った禁断の実を食べて、人類全体を呪いへと導いてしまったし(創世記3章)、ノアの洪水の元凶も、神の子達が人の女の美しいのを「見て」、好き勝手に妻をめとった事が原因だった。(創世記6章)
『父母はこの事が主から出たものであることを知らなかった。サムソンはペリシテびとを攻めようと、おりをうかがっていたからである。そのころペリシテびとはイスラエルを治めていた。』(士師記14:4)
このように記されているが、果たして主は、イスラエルに益をもたらすために、敢えてサムソンに異邦の女を惹き寄せさせたのだろうか。
そうではないと思われる。なぜなら、次のように書いてあるからだ。
『だれでも誘惑に会う場合、「この誘惑は、神からきたものだ」と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。愛する兄弟たちよ。思い違いをしてはいけない。』(ヤコブ1:13-16)
主は、人が情欲に突っ走って、両親や兄弟姉妹が戒めても聞かないような場合、敢えてそのまま好きな道を行かせ、ひどい目に遭わせて戒められる。
主のすごい所は、単に戒めるだけに終わらず、そのような人の愚かささえ用いて、益と為し、それをきっかけとして、イスラエルに救いを与えられる所だ。
この後、サムソンはその女性の故にカナン人と敵対する事となり、サムソン本人としては、自分の身に振りかかる「女性問題」を対処しているつもりが、実はそれによって多くのカナン人を滅ぼし、イスラエルに益をもたらす事になる。
そういう意味で、サムソンと異邦の女との結婚は、まさに「主から出たもの」なのだ。
サムソンは正当に妻をめとって、その力を用いて正当に戦えば良いものを、自分の肉欲を満足させる方向で、自分の力を用いる。
しかし主は、その出来事をもって、「サムソンの懲らしめ」ばかりでなく、「イスラエルの救い」も、両立させてしまわれる。
『世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。』(1ヨハネ2:15-17)
私達は、サムソンのような懲らしめや災いに遭う事は避け、最初から御胸に従順し、主と共に心地よく歩む者でありたい。





