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礼拝説教メッセージ音声:死んだ獅子から蜜が出る(士師記14:5-9):右クリックで保存
サムソンは、異邦の女と結婚したいと言い出したり、それをたしなめる父母に従わなかったりと、色々と問題のある士師だったにもかかわらず、主は彼を士師として用いられた。それはまことに、主の憐れみである。
私達も神に選ばれ、キリストにあって召しだされた者であるというのに、サムソンに負けず劣らず、色々問題を起こす事もあるが、それにも関わらず、主の霊が取り上げられず、主の御用に用いられているのは、まことに主の憐れみである。
サムソンの特徴は、主の霊が激しく臨んだ時、尋常ならざる力を発揮する所である。
『かくてサムソンは父母と共にテムナに下って行った。彼がテムナのぶどう畑に着くと、一頭の若いししがほえたけって彼に向かってきた。時に主の霊が激しく彼に臨んだので、彼はあたかも子やぎを裂くようにそのししを裂いたが、手にはなんの武器も持っていなかった。しかしサムソンはそのしたことを父にも母にも告げなかった。』(士師記14:5-6)
ライオンが吼え猛りながら迫ってくる。普通の人は死ぬしか無い状況だが、彼に主の霊が激しく臨む時、あたかも子やぎを裂くように、素手で獅子を裂いた。
このような事が初めてなら、彼自身、驚いたであろうし、主に感謝して悪い行いを改めるべき所であろうが、彼はその直後、どうしたか。
『サムソンは下って行って女と話し合ったが、女はサムソンの心にかなった。』(士師記14:7)
せっかく主からの特別な賜物が与えられ、いのちの危機からも救い出されたというのに、彼は異邦の女から離れず、かえって、彼女をめとろうとするようになる。
『日がたって後、サムソンは彼女をめとろうとして帰ったが、道を転じて、かのししのしかばねを見ると、ししのからだに、はちの群れと、蜜があった。彼はそれをかきあつめ、手にとって歩きながら食べ、父母のもとに帰って、彼らに与えたので、彼らもそれを食べた。しかし、ししのからだからその蜜をかきあつめたことは彼らに告げなかった。』(士師記14:8-9)
獅子を手で引き裂いた事も尋常ではないが、その裂かれた獅子の体に、なんと、蜂が集まっていて、そこには沢山の蜜があった。
一体これらの出来事は、どう捉えて良いのだろうか。
御言葉の解き明かしは、御言葉から、である。
獅子は、聖書の他の箇所ではユダ族を、あるいは、ユダ族から出たキリストを意味している。
『すると、長老のひとりがわたしに言った、「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」。わたしはまた、御座と四つの生き物との間、長老たちの間に、ほふられたとみえる小羊が立っているのを見た。それに七つの角と七つの目とがあった。これらの目は、全世界につかわされた、神の七つの霊である。小羊は進み出て、御座にいますかたの右の手から、巻物を受けとった。』(黙示録5:5-7)
このユダ族の獅子、ダビデの若枝であるキリストは、人類の誰も解くことの出来ない七つの封印を解き、封じられていたなぞを一つ一つ解いて行く事が出来るお方である。
彼は勝利した。
何によってか? それはなんと「ほふられる事によって」である。(黙示録5章)
サムソンに向かってきた獅子は、本来、彼を食いつくすはずだった。
しかしサムソンによって、いとも簡単に引き裂かれてしまった。
人を食いつくすはずの獅子が、人によって、いとも簡単にほふられる。
私達の主・キリストも、本来なら、罪を犯した人間を裁き滅ぼすはずお方なのに、人のところに来た時、なんと、人によっていとも簡単に十字架でほふられてしまった。
そして、サムソンによってほふられた獅子の死体には、蜜蜂がそこを住み家とし、蜜を大量に集めている。
蜂たちは、花の所に行って蜜を集め、巣に戻って蜜を溜めて行くが、キリスト者もまた蜂のようなところがある。
それぞれ使わされている場所において、シャロンの花であるキリスト(雅歌2:1)から甘い御言葉の蜜を集め、十字架上でほふられた小羊キリストの御体(教会)に持ち帰り、共に御言葉の甘さを分かち合い、その麗しさを溜めて行く。
この、サムソンにほふられた獅子は、まさにキリストを現していないだろうか。
サムソンは、死んだ獅子から蜜をかき集めて食べ、父母にも分与した。
父母は、その蜜がどこから来たのかを知らなかったが、私達もキリストを信じたなら御言葉の蜜によって養われ、家族にもその甘さは伝わる。
家族の人は、なぜその人が甘い蜜を持っているのか、その由来を知らないが、本人はキリストが由来であると知っている。
聖書は、旧約も新約も全てキリストを現し、彼の栄光で満ちている。
『それから彼らに対して言われた、「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」。』(ルカ24:44)
日々、十字架のキリストの元に巣作りし、聖徒と共に御言葉の蜜を集め、歩んでいく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:イスラエルには女が一人もいないというのか(士師記14:1-4):右クリックで保存
生まれる前から士師として選ばれていたサムソンは大人になり、士師として活躍できる年齢になった。
今までの士師は、主から与えられた力や知恵、統率力などを用いて、正攻法で戦ったものだったが、サムソンの場合の活動の始まりは、少々ややこしかった。
『サムソンはテムナに下って行き、ペリシテびとの娘で、テムナに住むひとりの女を見た。彼は帰ってきて父母に言った、「わたしはペリシテびとの娘で、テムナに住むひとりの女を見ました。彼女をめとってわたしの妻にしてください」。』(士師記14:1-2)
彼はあろうことか、神の民の敵の、ペリシテ人の女を見初め、それと結婚したいと申し出たのだ。
信仰の無い女と結婚する事は、神の国の家系にあっては、ご法度である。
聖書では、信仰なき女との結婚が、家族や国を破滅へと導いた記事が沢山あり、また、人類全体さえ破滅へと導いた記事さえある。(創世記6章)
信仰なき異邦の女との結婚が、いかに災いであるかをよく知っていたアブラハムは、自分の子はを決してカナン人の女からめとらせてはならない、と、固く誓わせたし、エズラも、異邦の女と結婚し始めたイスラエルに対して、断固とした対応を取った。
『父母は言った、「あなたが行って、割礼をうけないペリシテびとのうちから妻を迎えようとするのは、身内の娘たちのうちに、あるいはわたしたちのすべての民のうちに女がないためなのですか」。しかしサムソンは父に言った、「彼女をわたしにめとってください。彼女はわたしの心にかないますから」。』(士師記14:3)
イスラエルには、信仰者の女がたくさんいるであろうに、それを全部無視して、異邦の女を妻にしたいなどとは、全イスラエルの女性への冒涜であり、それは、女性の男性に対しても同じである。
サムソンの父も母も当然、彼を戒めたが、サムソンは父母の戒めも聞かなかった。
この3節の、「彼女はわたしの心にかないますから」は、直訳すると「彼女は私の目に喜びですから」となる。
私達も、「目に喜び」となるものに惹き寄せられて、いらぬ災いを招いてしまいやすい。
神の民が、神の目に適う事を捨てて、自分の「目」に好む事を選ぶ時、生み出されるものは呪いであり、滅びである。
エバは「目」に良いと映った禁断の実を食べて、人類全体を呪いへと導いてしまったし(創世記3章)、ノアの洪水の元凶も、神の子達が人の女の美しいのを「見て」、好き勝手に妻をめとった事が原因だった。(創世記6章)
『父母はこの事が主から出たものであることを知らなかった。サムソンはペリシテびとを攻めようと、おりをうかがっていたからである。そのころペリシテびとはイスラエルを治めていた。』(士師記14:4)
このように記されているが、果たして主は、イスラエルに益をもたらすために、敢えてサムソンに異邦の女を惹き寄せさせたのだろうか。
そうではないと思われる。なぜなら、次のように書いてあるからだ。
『だれでも誘惑に会う場合、「この誘惑は、神からきたものだ」と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。愛する兄弟たちよ。思い違いをしてはいけない。』(ヤコブ1:13-16)
主は、人が情欲に突っ走って、両親や兄弟姉妹が戒めても聞かないような場合、敢えてそのまま好きな道を行かせ、ひどい目に遭わせて戒められる。
主のすごい所は、単に戒めるだけに終わらず、そのような人の愚かささえ用いて、益と為し、それをきっかけとして、イスラエルに救いを与えられる所だ。
この後、サムソンはその女性の故にカナン人と敵対する事となり、サムソン本人としては、自分の身に振りかかる「女性問題」を対処しているつもりが、実はそれによって多くのカナン人を滅ぼし、イスラエルに益をもたらす事になる。
そういう意味で、サムソンと異邦の女との結婚は、まさに「主から出たもの」なのだ。
サムソンは正当に妻をめとって、その力を用いて正当に戦えば良いものを、自分の肉欲を満足させる方向で、自分の力を用いる。
しかし主は、その出来事をもって、「サムソンの懲らしめ」ばかりでなく、「イスラエルの救い」も、両立させてしまわれる。
『世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。』(1ヨハネ2:15-17)
私達は、サムソンのような懲らしめや災いに遭う事は避け、最初から御胸に従順し、主と共に心地よく歩む者でありたい。
エリエゼル - 天からの縁談話を携え来る助け主(創24:34-53)
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第二礼拝・礼拝音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
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主はアブラハムの老僕の旅を守られ、彼とアブラハムが求めた通りの、ぴったりの娘の所へと導かれた。
この老僕は、15章に登場したダマスコのエリエゼルと思われるが、エリエゼルの名は「助け主」「慰め主」の意味があり、聖霊を意味するギリシア語の「パラクレートス」に相当する。彼のこのイサクの嫁探しの旅は、現代、私達に働かれる聖霊の働きと、とても一致しているので、今回、その視点から見ていきたい。
彼は、リベカの父ベトエルの家に招かれ、食事が並べられた時、食事に手をつける前に要件を伝えようとする。その要件とは、つまるとこと縁談話なのだが、それは、世の縁談話とは全く異なったものであった。
彼はまず、自分は、主人アブラハムに仕える僕である事を紹介する。
主人は大いに富んでおり、通常ではあり得ない仕方でひとり子を授かり、彼に全ての富と権威を相続させた事、そして、主人は彼のために花嫁を求めており、その花嫁たる条件は、堕落したカナンの娘ではなく、アブラハムの家系の信仰者から探す、という事を伝えた。(33-38節)
聖霊も、同じように、キリストの花嫁候補である私達の所に遣わされ、私達に偉大なる神と、神のひとり子イエスキリストを紹介される。聖霊は、あかしする。御子キリストは、人間わざではあり得ない仕方で生まれ、父なる神はこの御子に全ての権威と富を相続させた事、そして、キリストは花嫁を求めており、その花嫁たる条件は、堕落した世の人間ではなく、信仰によって救われた「アブラハムの子孫」であるべき事を。
しもべは、心配した。『もしその女がわたしについてこない時はどういたしましょうか』(39節)
聖霊も、うめきをもって心配する。その人が、せっかくのキリストとの縁談話を、断ってしまわないか、と。
アブラハムは「その女があなたについて来ることを好まないなら、あなたはこの誓いを解かれる。ただわたしの子を向こうへ連れ帰ってはならない」(8節)と言ったが、聖霊は、人にキリストとの縁談話をもちかけても、強制はしない。もしその人が断るようなら、残念ながらその人の所に決してキリストが訪れる事は無い。
「あなたがたが、もしわたしの主人にいつくしみと、まことを尽そうと思われるなら、そうとわたしにお話しください。そうでなければ、そうでないとお話しください。それによってわたしは右か左に決めましょう。」(49節)
ラケルがこの僕について行って、栄光の花婿に嫁いで行くかどうか、決断が迫られたように、私達も、聖霊の導きに従ってキリストの元へ嫁ぐかどうか、決断を迫られる。それは全く私達の自由意志に任されている。
なんと、世の縁談話とはかけ離れたやり取りであろうか。普通、縁談なら「おたくのお嬢さんを下さい」と頭を下げるものだが、このしもべはそうした事は一切無い。自分は神の一族から使わされた者、そして神の御心はこうで、神はこのように導いて来られ、今ここに来て、話をしております。さて、あなたはどうしますか?
天からもたらされる縁談話はそのようなもので、人に媚びる事は一切無く、ただ決断を迫るものである。
『ラバンとベトエルは答えて言った、「この事は主から出たことですから、わたしどもはあなたによしあしを言うことができません。リベカがここにおりますから連れて行って、主が言われたように、あなたの主人の子の妻にしてください。」』(50-51節) 彼らは「良し悪し」を論ずる事なく、主のご意思に従うと告白した。
もし彼らが拒んでいたならば、リベカはイサクと結婚する事なく、リベカは全人類を救いへ導く王族の家系に嫁ぐ事も、莫大な栄誉と財産を継ぐ事も、無かった。同様に私達も、主のご意志を拒否し、自分由来の善し悪しを論じて、遣わされた聖霊を拒否するなら、自ら栄光への道を閉ざしてしまい、天の王族の家系へ嫁ぐ事も、莫大な栄誉と財産を継ぐ事も無い。それは、途方もなくもったいない事である。
「アブラハムの僕はこの言葉を聞くと、地に伏して主を拝した。そして、金銀の装身具や衣装を取り出してリベカに贈り、その兄と母にも高価な品物を贈った。」(52-53節)
栄光の家系への縁談が成立したなら、本人にも、家族にも、さらなる贈り物が与えられる。
天の縁談話を受け入れた私達への贈り物は、聖霊ご自身であり、それは御国を受け継ぐための手付金である。(エペソ1:14) そして、家族への贈り物とは、救いである。(使徒16:31)
私達は常に、御霊に従って歩むか、肉に従って歩むかの決断に迫られているが、都度、御霊を選んで、天の花嫁として磨きがかけられていく皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
異言と預言を秩序正しく行っていた初代教会(1コリント14:26-33a):右クリックで保存
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最も偉大な人の最もみじめな死に様(マタイ14:1-12)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » マタイによる福音書
- 執筆 :
- pastor 2014-11-8 14:09
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
最も偉大な人の最もみじめな死に様(マタイ14:1-12):右クリックで保存
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黒いけれども美しい(雅歌1:5-8):右クリックで保存
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主は御使いを使わしてあなたの旅を守らせる(創世記24:26-27):右クリックで保存
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サマリヤの女(ヨハネ4:15):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:その名は、不思議(士師記13:15-25):右クリックで保存
『マノアは主の使に言った、「どうぞ、わたしたちに、あなたを引き留めさせ、あなたのために子やぎを備えさせてください」。主の使はマノアに言った、「あなたがわたしを引き留めても、わたしはあなたの食物をたべません。しかしあなたが燔祭を備えようとなさるのであれば、主にそれをささげなさい」。マノアは彼が主の使であるのを知らなかったからである。マノアは主の使に言った、「あなたの名はなんといいますか。あなたの言われたことが事実となったとき、わたしたちはあなたをあがめましょう」。』(士師記13:15-17)
イスラエルは長い間、民族レベルで主から離れていたため、主がどのようなお方か、また、主と向かう時の正しい流儀知らなかったのだろう。
マノアは、御使いを、何か霊的なレベルの高いな人であるかのように思って、ごちそうで接待しようとしたが、御使いは、人の飲み食いするものを食べたりはしない。ただ、人の主への捧げ物や祈りを受け取って、それを主の元へと運んでいく。(黙示録8:3-4)
主から使わされている者は、人であれ、天使であれ、自分が伏し拝まれる事を好まない。
使徒ヨハネは自分に啓示を伝えてくれた御使いにひれ伏したが、御使いは言った。「そのようなことをしてはいけない。わたしは、あなたと同じ僕仲間であり、またイエスのあかしびとであるあなたの兄弟たちと同じ僕仲間である。ただ神だけを拝しなさい。」(黙示録19:10)
また、使徒パウロもペテロも同様に、自分が拝まれる対象である事を拒否し、主のみを礼拝するよう勧めた。(使徒14:15、10:26)
『主の使は彼に言った、「わたしの名は不思議です。どうしてあなたはそれをたずねるのですか」。』(士師記13:18)
マノアは御使いに、あなたをあがめたいから名前を教えて欲しい、と聞いたが、それに対し主の使いは、自分の名を「不思議」と言った。
そう、私達があがめるべきは、御使いや誰か人間ではない。主の不思議なわざ、くすしいわざである。
詩篇には「主の不思議なわざをほめたたえます」「主のくすしいわざをほめたたえます」と、至る所に散りばめられているように、私達も、主の不思議なわざ、くすしいわざをこそ、誉め称えるべきなのだ。
子が生まれるには、もう望み得ないようなマノア夫婦の間に、ひとりのみどりごが与えられる。そしてその子は、暗闇に満ちた時代のイスラエルを、救うという。
それはまさしく、キリストの型である。
『苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。・・・ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。』(イザヤ9:1-6)
キリストは、その名を、「不思議な助言者(ワンダフル・カウンセラー)」ととなえられる。
士師の時代、ひとりのみどりごがイスラエルを救うという預言が、御使いによって、不妊の女マノアの妻に与えられた。
同じように、この暗闇に満ちた全世界に、ひとりのみどりごが与えられるという約束が、子を産むなど決して望み得ない一人の処女マリヤに、御使いを通して与えられた。
まさにサムソンの生まれる様は、キリストの生まれる様によく似ている。
聖書には至る所に類似性があり、それらは全て、キリストを示している。
律法も、預言書も、詩篇も、キリストのご性質、キリストの品性を示しているのだ。
『「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」。そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。』(ルカ24:44-47)
不思議な助言者・キリストに聞き従い、キリストのみを伏し拝み、キリストを至る所に宣べ伝え、暗闇に満ちたこの世界に、キリストの光を届ける皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:母の胎にいる時から任命された士師(士師記13:1-14):右クリックで保存
先の12章では、4人の士師たちが、現れては消えて行ったが、この4人の統治した中で最長が10年と、かなり短い統治期間となって来ており、イスラエルの混迷はどんどん深くなっている事がわかる。
『イスラエルの人々がまた主の前に悪を行ったので、主は彼らを四十年の間ペリシテびとの手にわたされた。』(士師記13:1)
士師記では、このパターンは既に何度も繰り返されているが、40年という被虐期間は、過去最長である。
そして、いつものパターンなら、イスラエルは悔い改めて主に叫び、それで主が助けを送られるものであるだが、今回は、イスラエルが悔い改めたという記述は、無い。
40年経っても、全然主に立ち返らなかったのだ。
それだけ、イスラエルの霊的状態は地に落ちているのだが、今回、主のただ一方的な憐れみの故に、イスラエルに士師が使わされる。
それは、士師記の中では最後の士師・サムソンである。
『ここにダンびとの氏族の者で、名をマノアというゾラの人があった。その妻はうまずめで、子を産んだことがなかった。主の使がその女に現れて言った、「あなたはうまずめで、子を産んだことがありません。しかし、あなたは身ごもって男の子を産むでしょう。
それであなたは気をつけて、ぶどう酒または濃い酒を飲んではなりません。またすべて汚れたものを食べてはなりません。あなたは身ごもって男の子を産むでしょう。その頭にかみそりをあててはなりません。その子は生れた時から神にささげられたナジルびとです。彼はペリシテびとの手からイスラエルを救い始めるでしょう」。』(士師記13:2-5)
士師サムソンは、生まれる以前から主に選ばれたナジル人であった。(ナーザル:「聖別する」「分離する」の意)
ナジル人については民数記6章で学んでいるが、彼らは特別な誓願により世俗から分離され、神のものとして聖別された特別な人で、ぶどうの実によるものは摂ってはならず、頭にかみそりを当ててはならない等の、様々な規定がある。
自ら誓願をかけて一定期間ナジル人となる人もいれば、今回のように、生まれる前から一方的に捧げられている人もいる。(他にはサムエル、バプテスマのヨハネ等)
『そこでその女はきて夫に言った、「神の人がわたしのところにきました。その顔かたちは神の使の顔かたちのようで、たいそう恐ろしゅうございました。わたしはその人が、どこからきたのか尋ねませんでしたが、その人もわたしに名を告げませんでした。しかしその人はわたしに『あなたは身ごもって男の子を産むでしょう。それであなたはぶどう酒または濃い酒を飲んではなりません。またすべて汚れたものを食べてはなりません。その子は生れた時から死ぬ日まで神にささげられたナジルびとです』と申しました」。』(士師記13:6-7)
彼女が神の人から言われた事の中で、夫に伝えていなかった事が一つあった。
それは、「その頭にかみそりをあててはなりません。」(15節)という事である。
この士師は、彼女が伝えこぼした「頭にかみそりを当てる事」において、将来失敗してしまう。
私達は、主から御言葉を受けた時、それを取りこぼす事なく、軽んじる事なく、心してそれを覚えて、その通り実行するように気をつけるべきだ。
『そこでマノアは主に願い求めて言った、「ああ、主よ、どうぞ、あなたがさきにつかわされた神の人をもう一度わたしたちに臨ませて、わたしたちがその生れる子になすべきことを教えさせてください」。神がマノアの願いを聞かれたので、神の使は女が畑に座していた時、ふたたび彼女に臨んだ。しかし夫マノアは一緒にいなかった。女は急ぎ走って行って夫に言った、「さきごろ、わたしに臨まれた人がまたわたしに現れました」。』(士師記13:8-10)
マノアは主に求め、それは聞き入れられたが、主の使いは二度、妻の所に現れた。
それは、乙女マリヤの時と同じように、子を身ごもる女性のほうに、特別な指示を主が与えるためだろう。
『マノアは立って妻のあとについて行き、その人のもとに行って言った・・・「あなたの言われたことが事実となったとき、その子の育て方およびこれになすべき事はなんでしょうか」。主の使はマノアに言った、「わたしがさきに女に言ったことは皆、守らせなければなりません。すなわちぶどうの木から産するものはすべて食べてはなりません。またぶどう酒と濃い酒を飲んではなりません。またすべて汚れたものを食べてはなりません。わたしが彼女に命じたことは皆、守らせなければなりません」。』(士師記13:11-14)
主の命令は、「わたしがさきに女に言ったことは皆、守らせなければなりません。」だった。
私達も子育てについては、主からあらかじめ命じられている通りの事、すなわち、御言葉によって育てるべきである。
このように御使いが二度現れ、生まれてくる子は、確かに将来、イスラエル人を敵の虐げから救う者であると宣言された。
聖書は実に、不妊の女、生まれるはずのない女に、奇跡的に子を生まれさせ、その子に特別な役割を与えられる記述が多い。(サラ、ハンナ、エリザベツ、そして乙女マリヤ)
それは、救いは人の力によるのではなく主によるものであると示し、おごり高ぶる者を退け、卑しくされている人を高く引き上げ、力ある方が、貧しい者に大いなる事をして下さったと、多くの人々が誉め称えるためである。(ルカ1:46-55)
