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礼拝説教メッセージ音声:取るべき地は、なお多く(ヨシュア記13:1-14):右クリックで保存
ヨシュア記13章以降は、イスラエル12部族に相続地を分与する記録が、暫く続く。
『さてヨシュアは年が進んで老いたが、主は彼に言われた、「あなたは年が進んで老いたが、取るべき地は、なお多く残っている。その残っている地は、次のとおりである、、、。』(ヨシュア記13:1-2)
ヨシュアは年をとったが、主は、「もう充分働いたから隠居しなさい」などとは言わない。
むしろ、獲得すべき地はまだまだ残っているのだから、それを勝ち取りに行きなさい、と言われた。
モーセも120歳まで、死ぬまで現役だったように、また、カレブは85歳になっても戦いに出て勝利したように、神の民は、霊的活動において、生涯現役なのだ。
私達の日々の生活における霊的戦い、すなわち、私達の肢体にこびりついている肉欲や、罪に傾いてしまう性質との戦いには、「もう充分」というものは無く、生涯戦い続けていくべきもので、また、平安や喜びなど、勝ち得て行くべき「領地」も、生涯追求して行くものである。
キリスト者は、いつまでも同じ所に留まるのではなく、日々、完成される事を目指して、進んでいくものである。
『そういうわけだから、わたしたちは、キリストの教の初歩をあとにして、完成を目ざして進もうではないか。今さら、死んだ行いの悔改めと神への信仰、洗いごとについての教と按手、死人の復活と永遠のさばき、などの基本の教をくりかえし学ぶことをやめようではないか。神の許しを得て、そうすることにしよう。』(ヘブル6:1-3)
そして、それら日々の戦いは、主と共同して行うものである。
『わたしはみずから彼らをイスラエルの人々の前から追い払うであろう。わたしが命じたように、あなたはその地をイスラエルに分け与えて、嗣業とさせなければならない。』(ヨシュア記13:6)
この箇所から分かる事は、この戦いには順番がある事で、まずは人の側が、信仰をもって一歩踏み出す所から始まる事で、それをするなら、主の側がその信仰の行いを助けて下さり、敵を追い払って下さるのだ。
ただ主だけが、一方的に、敵の上に石を降らせたり、猛獣をけしかけたりして敵を滅ぼしてくれ、人の側は何もせず黙って待っていれば良い、というわけではない。
人の側にも、果たすべき分があり、その分を果たすなら、主も共に戦って下さり、そして勝利するのだ。
私達の信仰生活も、ひと度、イエス様を信じたら、あとは何から何まで主がしてくれる、というものではない。それは既に経験しているはずである。
むしろ、私達自ら罪やサタンと戦う努力をし、私達の内にある肉的な事柄を捨て去って、主の喜ばれる御霊の人になれるよう、日々、信仰をもって努力をしていくべきなのだ。
そうするなら、主が働いて下さり、聖霊によって助けを得て、私達はますます以前のものは過ぎ去って行き、新しく造り変えられて行くのだ。
『わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。』(ピリピ3:12-14)
礼拝説教メッセージ音声:滅ぼすべきリストと勝ち得るべきリスト(ヨシュア記12章):右クリックで保存
『さてヨルダンの向こう側、日の出の方で、アルノンの谷からヘルモン山まで、および東アラバの全土のうちで、イスラエルの人々が撃ち滅ぼして地を取った国の王たちは、次のとおりである。』(ヨシュア記12:1)
ヨシュア記12章は、それまでに占領した領地と、打ちとった王達のリストが記されている。
1-6節は、モーセが生きていた時代に打ちとった王達であり、7節以降が、モーセの死後、ヨシュア達が打ちとった王達である。
聖書巻末などのカナン地方の地図を見ると、大体、地図の中央に上下に伸びるラインがあり(キネレテ湖あるいはガリラヤ湖 〜 ヨルダン川 〜 死海)、その”中央ライン”の東側が、モーセが生きていた時代に征服した地域、その西側が、ヨシュア達が占領した地域である。
このカナンの占領戦は、現代を生きる私達の、日々の生活における霊的戦いにも、照らし合わせる事ができる。
私達の肢体、あるいは心の中には、罪深い習慣や、過去の傷、不必要な恐れなど、打ち倒すべき”敵”が棲んでいる領域がある。
そして、まことのヨシュアである主イエス様と共に歩んできた人達には、勝利し自由になった領域もある。
例えばある人は、偶像礼拝という”王”は討ち取ったけれど、怒りやすい性質という”王”との戦いに難しさを覚えているかもしれない。
またある人は、喜びや平安という”領地”は勝ち取ったけれど、自制という”領地”を勝ち取る事に難しさを覚えているかもしれない。
このように、私達の内には討ち取らなければならない邪悪な”王達”、また、征服するべき良き”領地”があるのだ。
次のリストは、”肉の働き”という、私達の内から根絶すべき”王達”である。
『肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。』(ガラテヤ5:19-21)
また、次のリストが、私達が勝ち取るべき良き”領地”である。
『御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。』(ガラテヤ5:22-23)
私達は一生をかけて、これらを獲得する事を怠ってはならない。
その戦いにおける勝利の鍵は、まことのヨシュア(イエシュア)であるイエス様にある。
ヨシュア記12章には、イスラエルが討ち取った王達が合計31あるが、その内、モーセが討ち取った王達は2、ヨシュアが打ちとった王達は29である。
この圧倒的な差は、律法と信仰の圧倒的な差とも言える。
モーセは”律法”の代表格であり、律法を守り行う事には、確かにそれなりの祝福はあるが、残念ながら、律法は”救い”においては不完全であり、私達の内にうごめく罪や肉に対しては力が無く、そして、まことの約束の地である天国を継がせる事は出来ない。
それに対し、まことのヨシュアであるイエス様は、私達の完全なる救い主であり、イエス様を信じる信仰によって、私達は罪に対し、肉に対し、死に対して、圧倒的な勝利者となるのだ。
イエス様を信じ、共に歩むなら、人生のあらゆる領域において、多くの勝利を納める。
ちょうどヨシュア記の快進撃のように。
そして私達は、罪に対し、また悪霊と戦っていく上で、中途半端な”生き残り”を残したままにしてはならない。
そうでないと、それらが苦い根となって生え出て、以前よりも悩ましくなってしまうからである。
実際、イスラエルがそうだった。
せっかくヨシュアと共に快進撃して行ったのに、徹底して滅ぼし尽くす事をせずにいたため、その”生き残り”が後になってイスラエルの悩みの種となってしまった。
主イエスと共に歩み、日々、罪に対し、悪霊に対して勝利し、妥協する事なく自由な領域を勝ち取って行き、ますます新しく造り替えられて行く皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
サライ - 主人に服従した王族の母(創世記12:10-20)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
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今回は、アブラムの妻・サライ(後のサラ)について見て行きたい。
サライは、アブラムの10歳年下の異母兄妹であり、かつ、アブラムとは夫婦の関係である。
アブラムが身の危険を感じる程美しい女性で、名前の意味は王女、高貴な女性で、父のテラは彼女にお姫様のような子になって欲しいとある種の願いを込めてつけたのだろう。しかし彼女は不妊の女だった。
『さて、その地にききんがあったのでアブラムはエジプトに寄留しようと、そこに下った。ききんがその地に激しかったからである。』(創世記12:10) アブラムにとって最初の信仰の試練は、ききんである。
お金や食料が尽きるのは、聖書の中でもよく見るが、そのような時は大抵、信仰が試されている。
アブラムはこの時、大いに祝福して下さると約束して下さった主に頼るのではなく、周りを見渡し、エジプトに食料があると見定め、安直にそちらへ行ってしまった。しかも、エジプトに入る時、彼はサライに言う。
「わたしはあなたが美しい女であるのを知っています。それでエジプトびとがあなたを見る時、これは彼の妻であると言ってわたしを殺し、あなたを生かしておくでしょう。」(創12:11-12)
彼のこの言葉から、彼は約束して下さった主よりも、エジプト人やパロのほうを恐れている事がわかる。
一度、主から目をそらし、自分の「不足」に目を向けると、恐れ、不安になる。すると、主にではなく世に頼ろうとするようになり、世に頼ろうとする時、罪と妥協して、ますます主から離れてしまうパターンに陥る。
『どうかあなたは、わたしの妹だと言ってください。そうすればわたしはあなたのおかげで「無事であり(彼らは自分に良くしてくれ)」わたしの命はあなたによって助かるでしょう。』(創世記12:13)
アブラムは、自分達は「夫婦」ではなく「兄妹」だと言うように指示し、そうして彼女がパロに召し入られるなら、自分達は良い待遇が受けられるだろう、という、確信犯的な皮算用さえ見える。
夫婦のどちらかが犠牲になって生活の保証を得る。それは現代もよく見る事で、キリスト者にも同じ誘惑に陥る人は多いが、主がアブラムとサライにして下さった約束は、彼らの間に生まれる子が、おびただしく増えていくものであって、サライがパロの妾の一人になるなど、主の約束の中には一切無いはずである。
彼女は、この非道いように見えるアブラムに指示に、従った。もしかしたら彼女も、アブラムと同意見だったからかもしれないが、とにかく彼女は、無言の振る舞いによって、夫に仕える信仰の持ち主だった。
なにしろ彼女は65歳の時、主がアブラムをどこに導くかも分からないのに、住み慣れた生活の場を放棄して彼と一緒について行ったのだ。『たとえば、サラはアブラハムに仕えて、彼を主と呼んだ。あなたがたも、何事にもおびえ臆することなく善を行えば、サラの娘たちとなるのである。』(1ペテロ3:5-6)
彼女はこの時はまだ未熟だが、彼女のこの「主人に従う」性質こそが、王族の家系の母となる性質である。
エジプトに入った時、果たしてアブラムが言った通りの事になった。エジプト人は、サライの美しいのを見てパロに推薦し、彼女はパロに召し入れられてしまい、そしてアブラムは家畜や奴隷を得た。
アブラムは財産が増えて、自分の思い図った通りに成功した、と思っただろうか?
確かに衣食住の心配は無くなったかもしれないが、彼が正常な信仰者であるなら、主の約束から大分離れてしまった自分達の有り様に、平安が乱されていたのではないだろうか。皆さんも、同じ葛藤に陥っていないだろうか。このように、人の考え出したベストは決して「最善」ではなく、どこかに虚しさや苦々しさがついて回る。しかし主は、そのような人間の失敗さえも「最善」へと導く事の出来るお方である。
「ところで主はアブラムの妻サライのゆえに、激しい疫病をパロとその家に下された。」(17節)
そこで主の直接介入である。主はアブラムの、そしてサライの祈りを聞かれたのだろう。
人は、身勝手な不従順の結果、苦々しさ、災いに陥る事はあるが、主は「それみろ自業自得だ」と言ってほったらかす事はなく、悔い改めの祈りを聞かれる。
18節を見ると、この災いの原因は、アブラムの妻・サライをめとった故だと、パロははっきり認知していた事がわかる。パロはアブラムの背後にいる主を恐れ、サライを無事に返し、全ての所有物と共に送り出した。
アブラムは自分を弱々しいと思ったかもしれないが、彼の背後には、エジプトさえ恐れる主がおられる。
そして、私達が信じる主は、同じ万軍の主であり、私達も主を信じるなら、信仰によるアブラハムの子孫であり、そうであるからには、世の側が、主イエスの故に、私達を恐れるのだ。
向かう所敵なし状態になるための秘訣(ヨシュア記11:10-23)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » ヨシュア記
- 執筆 :
- pastor 2014-7-19 13:52
礼拝説教メッセージ音声:向かう所敵なし状態になるための秘訣(ヨシュア記11:10-23):右クリックで保存
『その時、ヨシュアはひきかえして、ハゾルを取り、つるぎをもって、その王を撃った。ハゾルは昔、これらすべての国々の盟主であったからである。』(ヨシュア記11:10)
ハゾル(ハツォル)は、ガリラヤ湖の北15kmほどの町で、周辺地域の首都的な場所だった。
エリコの時のように、ハツォルの町を攻撃した時は、人も全て家畜も聖絶し尽くしたが、その他の町々は、アイの時のように、人は聖絶し尽くしても家畜は分捕って良いとされた。
『主がそのしもべモーセに命じられたように、モーセはヨシュアに命じたが、ヨシュアはそのとおりにおこなった。すべて主がモーセに命じられたことで、ヨシュアが行わなかったことは一つもなかった。』(ヨシュア記11:15)
私達も、御言葉が示されたなら、その通りに守り行うべきであり、御言葉に対して付け加えたり、除いたりしてはならない。
『この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。』(黙示録22:18-19)
『ヨシュアはこれらすべての王たちと、長いあいだ戦った。』(ヨシュア記11:18)
これら王達との戦いは、どのくらい続いたのか。
士師記の1章を見ると、ヨシュア達の後の世代のイスラエル12部族は、それぞれの領地で先住民を聖絶し尽くさず、そのわずかに残った先住民が仇となって、士師記の荒んだ時代が始まった。
つまり、このヨシュア記11-12章の戦闘で、敵に壊滅的なダメージを与えたものの、生き残った者達(ヨシュア記10:20)を徹底して滅ぼず事をせず、残したままにしてしまったのだろう。
『ギベオンの住民ヒビびとのほかには、イスラエルの人々と和を講じた町は一つもなかった。町々はみな戦争をして、攻め取ったものであった。彼らが心をかたくなにして、イスラエルに攻めよせたのは、もともと主がそうさせられたので、彼らがのろわれた者となり、あわれみを受けず、ことごとく滅ぼされるためであった。主がモーセに命じられたとおりである。』(ヨシュア記11:19-20)
これらの住民の心を頑なにしたのは、主である。(ローマ9章) エジプトのパロの時も、そうであった。
それは、彼らは主の恵みが示されてたのに、悔い改める事をせず、かえって恵みと憐れみを放縦に変えてしまい、ほしいままに罪深いことを行っても、中々裁きが下されないので、いい気になって、四百年もの長きに渡って神の民を圧迫し、弱い人達を圧迫し続け、その叫びが天に達したために、ついには憐れみの時は尽き、主は彼らを滅ぼすために、心を頑なにされたのだ。(創世記15:16、19:13、出エジプト記3:7-9、7:3)
『こうしてヨシュアはその地を、ことごとく取った。すべて主がモーセに告げられたとおりである。そしてヨシュアはイスラエルの部族にそれぞれの分を与えて、嗣業とさせた。こうしてその地に戦争はやんだ。』(ヨシュア記11:23)
以上、ヨシュア記11章までは、ヨシュア達がカナンをほぼ平定するまでの戦いが概略的に記されており、12章以降では、戦いや土地の分配についての詳細な記録が続く。
ヨシュアが生きている間は、向かう所敵なしの、連戦連勝状態だったが、その秘訣はやはり、次の御言葉だろう。
『主がそのしもべモーセに命じられたように、モーセはヨシュアに命じたが、ヨシュアはそのとおりにおこなった。すべて主がモーセに命じられたことで、ヨシュアが行わなかったことは一つもなかった。』(15節)
ヨシュアは主に命じられた通り、御言葉から右にも左にもそれなかったがために、ことごとく勝利を得、誰もヨシュアの前に立ちはだかるものがいないようにされたのだ。
全ては、主がヨシュア記1章で約束して下さった通りである。
『あなたが生きながらえる日の間、あなたに当ることのできる者は、ひとりもないであろう。わたしは、モーセと共にいたように、あなたと共におるであろう。わたしはあなたを見放すことも、見捨てることもしない。強く、また雄々しくあれ。あなたはこの民に、わたしが彼らに与えると、その先祖たちに誓った地を獲させなければならない。
ただ強く、また雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法をことごとく守って行い、これを離れて右にも左にも曲ってはならない。それはすべてあなたが行くところで、勝利を得るためである。この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜もそれを思い、そのうちにしるされていることを、ことごとく守って行わなければならない。そうするならば、あなたの道は栄え、あなたは勝利を得るであろう。』(ヨシュア記1:5-8)
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
主のしもべの義務と特権(イザヤ書49章):右クリックで保存
祈り会音声:右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
わたしは剣をもたらすために来た(マタイ10:34-42):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
地上の歩み方と聖徒の歩み方(伝道者の書7:15-20):右クリックで保存
【概要】
知恵の追求と神との歩みについての教え
【聖書箇所】
伝道者の書7:15-20
ガラテヤ人への手紙5:16-17, 24
創世記17:1
【戒めの言葉】
この世の知恵に頼るのではなく、神の知恵を求めましょう。
【勧めの言葉】
神と共に歩み、御霊に導かれて生きる者となりましょう。
【***詳細***】
今日の箇所は伝道者の書7章15節から20節です。ソロモンはこの世の中で様々なことを見てきて、次のような結論に達しました。「あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。なぜあなたは自分を滅ぼそうとするのか。悪すぎてもいけない、愚かすぎてもいけない。」
一見すると、これは賢明な助言に聞こえるかもしれません。しかし、私たちクリスチャンにとって、これは神の望まれる生き方ではありません。
神は、アブラハムに「私はエル・シャダイである。あなたは私の前を歩み、全きものであれ」(創世記17:1)と言われました。また、イエス様も「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全でありなさい」(マタイ5:48)と教えられました。
では、罪ある人間である私たちはどうすれば良いのでしょうか。それは、神と共に歩むことです。エノクもノアも「神と共に歩んだ」と聖書は記しています。神と共に歩む人は、全き者となることができるのです。
ガラテヤ人への手紙5章16-17節には「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです」とあります。
私たちクリスチャンは、御霊によって歩む者です。御霊に導かれて生きる時、私たちは神の知恵を得、神の聖さにあずかることができます。
ソロモンは「正しすぎてはならない、知恵がありすぎてはならない」と言いましたが、これは神の知恵ではなく、この世の知恵です。私たちは逆に、神の知恵を求め、神の御言葉をむさぼるように学ぶべきです。御言葉は私たちを霊的に健やかにし、成長させてくれます。
イエス・キリストこそが真の知恵です。ヨハネの福音書の冒頭で、イエス様は「ロゴス(言葉、理性)」と呼ばれています。このロゴスなるお方が私たちと共に住まわれることこそ、究極の知恵であり、私たちの命そのものなのです。
【結論】
私たちは、この世の中庸を行く知恵ではなく、神の知恵を求めましょう。イエス・キリストと共に歩み、御霊に導かれて生きる時、私たちは真の知恵を得、神の聖さにあずかることができます。永遠を見据えて、神の御前を歩む者となりましょう。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
旅人であり寄留者である私達(創世記12:4-9):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:人の兵器を打ち壊される主(ヨシュア記11:1-9):右クリックで保存
ヨシュア率いるイスラエルによって、死海西岸地域がほぼ制圧された事が、周辺地域に知れ渡った。
『ハゾルの王ヤビンは、これを聞いて、マドンの王ヨバブ、シムロンの王、およびアクサフの王、また北の山地、キンネロテの南のアラバ、平地、西の方のドルの高地におる王たち、すなわち、東西のカナンびと、アモリびと、ヘテびと、ペリジびと、山地のエブスびと、ミヅパの地にあるヘルモンのふもとのヒビびとに使者をつかわした。そして彼らは、そのすべての軍勢を率いて出てきた。その大軍は浜べの砂のように数多く、馬と戦車も、ひじょうに多かった。』(ヨシュア記11:1-4)
ハゾル(ハツォル)は、ガリラヤ湖より北側の都市である。
10章は、死海の西から南西地域にかけての戦いの記録であったが、この11章は、そこからさらに北方での戦いの記録である。
「その大軍は浜べの砂のように数多く、馬と戦車も、ひじょうに多かった。」と記されているからには、敵は、装備も数もかなり揃えて、イスラエルに攻めて来たのだろう。
装備と数だけを見るならば、イスラエルは圧倒的に不利に見えたかもしれないが、主は再びヨシュアを励まして下さる。
『「彼らのゆえに恐れてはならない。あすの今ごろ、わたしは彼らを皆イスラエルに渡して、ことごとく殺させるであろう。あなたは彼らの馬の足の筋を切り、戦車を火で焼かなければならない」。そこでヨシュアは、すべてのいくさびとを率いて、にわかにメロムの水のほとりにおし寄せ、彼らを襲った。主は彼らをイスラエルの手に渡されたので、これを撃ち破り、大シドンおよびミスレポテ・マイムまで、これを追撃し、東の方では、ミヅパの谷まで彼らを追い、ついにひとりも残さず撃ちとった。』(ヨシュア記11:6-8)
主は今回、”いつ”までに敵を渡されるかは示されたものの、アイの時のように”方法”は示されなかった。
しかしヨシュア達はすぐさま、敵を打ち破るために、普通に出て行った。
今回の戦いでは、主が特に奇跡的な事を起こされた記述は無いが、それでも彼らは大勝利を収めた。
人は何かと、自分でプランを立て、その計画どおりに進む生き方に慣れているため、”方法”を知りたがるものであり、また、前回は主は雹を降らせて下さったから、今回もそうして下さい、と、過去に主がして下さった事を期待しがちであるが、主の方法は人の思い計りに囚われるお方ではないし、ワンパターンなお方でもない。
主は、主の御声に聞き従う人には、どんな方法であっても勝利させて下さるのである。
『ヨシュアは主が命じられたとおりに彼らに行い、彼らの馬の足の筋を切り、戦車を火で焼いた。』(ヨシュア記11:9)
これもまた不思議な命令に見えるかもしれないが、主は、馬の力を喜ばず(詩篇147:10-11)、戦車や軍馬のような、人を攻撃し殺めるような”兵器”を喜ばれない。
今までカナンの地で人々を蹂躙して来た馬や戦車などは、この地にはもう必要ない物であり、これからは、そうした兵器に頼るのでなく、ただ主にのみ頼って生きるのが、この”約束の地”での生き方ある。
主の救いは、馬や兵器によるものではなく、むしろ、ひとりのみどりごによって、もたらされるのだ。
『すべて戦場で、歩兵のはいたくつと、血にまみれた衣とは、火の燃えくさとなって焼かれる。ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもって/これを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。』(イザヤ9:5-)
主は、人々が編み出した兵器を火の中に投げ込み、人々の罪や傲慢の結果である悲惨を打ち壊し、人の目から涙をすっかり拭い去って下さり、とこしえにダビデの王座について、平和の統治をして下さるのだ。
礼拝説教メッセージ音声:連戦連勝の理由(ヨシュア記10:28-43):右クリックで保存
28節から39節までは、「ヨシュア達は**の町を攻め寄せ、主がそこを手に渡されたので全ての住人を聖絶した」といった記述が7回続き、じつに、とんとん拍子に勝ち進んで行った事がわかる。
行く町々を聖絶していく、というのは、残酷なように思えるかもしれないが、一体なぜ神は、こんなにもイスラエルに味方し、徹底的にこの地の住人を滅ぼさせたのだろうか。
ヨシュア記の戦いは、力づくで他国を自分色に塗り替えたり、富や利権を分捕ったり、欲しいままに略奪したり殺したりして、所有欲や破壊欲を満足させるような「世の戦争」とは、全く違う。
主が「約束の地」「乳と蜜の流れる地」と示した地は、主の御心が常に注がれている地であるにもかかわらず、その地に住んだ住人は、端から端まで暴虐や不品行に満ちており、その町々の叫びは天にまで届き、ついにのそ悪は、主の憐れみの目盛りを超えてしまったために、主は、イスラエルの民を用いて、その地の悪い者達を滅ぼされたのだ。(創世記15:16、申命記9:4)
『あなたはあなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。』(申命記7:6)
主は、主の民を「聖なる民」「自分の宝の民」とされた。
聖なる主の宝の民であるからには、先住民がそこで行っていた汚れに染まってはならず、その痕跡を、残してはならなかったのだ。
それはキリストにある私達も同じであり、以前の暗闇の生き方を捨て去るべきだ。
私達の内から滅ぼし尽くすべきものは、肢体に宿る、主に敵対する欲望である。
『地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのために、神の怒りが下るのである。』(コロサイ3:5-6)
私達の内に巣食う、とめどもない情欲や、頑固に定着してしまった罪深い行動パターンを見るに、これらと戦っても、絶対にかないそうにない、と思うかもしれない。
ちょうど、イスラエルの民が当初、先住民を見て「絶対かなわない」と、しりごみしたように。
しかし、私達がまことのヨシュア(イエシュア)であるイエス様に従順し、その御声に聞き従い続けるなら、御霊が働いて下さり、私達の内に巣食う情欲や不品行などを殺し、今まで自分には到底入れなかったような、きよい、安息の領域へと、やすやすと入って行けるのである。
「もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。」(ローマ8:13)
私達の人生の中に巣食って来た邪悪な強敵、不品行と暴虐の”カナン人”を打ち取るためには、私達自身も自ら信仰の戦いに参加する必要がある。
ちょうど、ヨシュア達の軍隊が、剣を実際に手に取り、敵陣へと足を用いて走って行ったように。
御言葉に聞き従って行動を起こすなら、敵陣に石を降らせ、太陽や月の動きを止めてまで、イスラエルに味方して下さった主が、私達にも味方して下さり、私達の内外で苦しめて来た邪悪な”カナン人”と戦って、勝利して下さるのだ。
『イスラエルの神、主がイスラエルのために戦われたので、ヨシュアはこれらすべての王たちと、その地をいちどきに取った。』(ヨシュア記10:42)
ヨシュア記10章の快進撃を読んでいると、とても弱い敵と戦っていたかのように見えるが、決してそうではない。
これら7つの民は、イスラエルよりも数多く、強かったし、実際に40年前、彼らの父の世代は「こんな強い民とは戦えない」と恐れ、夜通し泣き明かし、エジプトに帰ろうとまで言い出した程だった。
しかし、父たちの世代があんなに恐れたカデシュ・バルネア以北の国々は、いとも簡単に制圧された。
それは「イスラエルの神、主がイスラエルのために戦われた」(42節)おかげである。
『そしてヨシュアはイスラエルのすべての人を率いて、ギルガルの陣営に帰った。』(ヨシュア記10:43)
このギルガルは、主がヨルダンの水を枯らして下さった所を、ヨシュア達が渡って最初に降り立った地であり、そこには、川底から持ってきた12の石の記念碑が建てられている。
そして、40年来、無割礼だった状態を脱却し、割礼を受けて、肉を切り捨てた所であり、最初の過越祭を祝った地でもある。
ギルガルはいわば、信仰の原点の地である。
主が大勝利させて下さった後、彼らは勝利に浮かれる事なく、分捕りに奔走してむさぼる事なく、すぐに信仰の原点へと帰ったのだ。
私達も、大勝利した直後こそ、初心に帰るべきである。





