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メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:ラケルの子達への祝福(申命記33:12-17):右クリックで保存

今回は、ラケルの二人の子、ベニヤミンと、ヨセフへの祝福である。

『ベニヤミンについては言った、/「主に愛される者、/彼は安らかに主のそばにおり、/主は終日、彼を守り、/その肩の間にすまいを営まれるであろう」。』(申命記33:12)
ベニヤミンへの祝福は、主に愛され、守られ、良い所にすまいを得る事であるが、ベニヤミン族の歴史を見ると、その祝福はなるほどと思えてくる。

この部族は、エルサレムのすぐ北に相続地を得、戦闘能力に非常に長け、強くなったが、その祝福にいい気になってしまったのか、士師記の時代には、ソドムやゴモラにも勝るとも劣らない邪悪な集団となってしまった。
それで、ベニヤミン以外のイスラエル全部族が、四十万の軍隊を招集し、討伐に向かったのだが、ベニヤミン族はそれに対し、わずか二万六千七百人で立ち向かい、それで二度も勝利をおさめたのだ。(士師記20章)
しかし、いかに祝福され強くなろうとも、御心に反した歩みをしているなら、長くは続かない。
三度目の戦いの時、ベニヤミンは慢心し、おびきだされ、徹底的に打ち尽くされ、ベニヤミン族で生き残ったのは、わずか600人だけとなった。
そのように、ひと度は絶滅の危機に陥ったにもかかわらず、この部族は生き残り、再び増え、後にはユダ部族と共に末永く生きながらえている。
主は、その愛する民が誤った道に入り、主の道を捨て去るなら、その民を徹底的に懲らしめるが、しかしそれで悔い改め、立ち返るなら、主は再び憐れみを注いで下さるのだ。

『ヨセフについては言った、/「どうぞ主が彼の地を祝福されるように。上なる天の賜物と露、/下に横たわる淵の賜物、日によって産する尊い賜物、/月によって生ずる尊い賜物、いにしえの山々の産する賜物、/とこしえの丘の尊い賜物、地とそれに満ちる尊い賜物、/しばの中におられた者の恵みが、/ヨセフの頭に臨み、/その兄弟たちの君たる者の頭の頂にくだるように。』(申命記33:13-16)
モーセは、ヨセフに対しても、素晴らしい祝福を宣言している。
ヨセフの二人の子であるエフライム・マナセの二部族に与えられた所は、実に広大で肥沃な土地である。

『彼の牛のういごは威厳があり、/その角は野牛の角のよう、/これをもって国々の民をことごとく突き倒し、/地のはてにまで及ぶ。このような者はエフライムに幾万とあり、/またこのような者はマナセに幾千とある」。』(申命記33:17)
ヤコブは死を目前にした時、ヨセフの長子マナセよりも、弟エフライムのほうに右手を置いて祝福した。
そして後には、エフライム部族は、北イスラエル王国を代表する象徴的な部族となった。(エフライムの名前の意味は「実りが多い」)

ソロモン王の時代、ソロモン王は次第に、主に対して不従順な者となって行ったため、それを懲らしめるために、主は、エフライム人・ネバテの子ヤロブアムを選び、彼にイスラエル10部族を治めるという預言を与えられた。
『わたしがあなたを選び、あなたはすべて心の望むところを治めて、イスラエルの上に王となるであろう。もし、あなたが、わたしの命じるすべての事を聞いて、わたしの道に歩み、わたしの目にかなう事を行い、わたしのしもべダビデがしたように、わたしの定めと戒めとを守るならば、わたしはあなたと共にいて、わたしがダビデのために建てたように、あなたのために堅固な家を建てて、イスラエルをあなたに与えよう。わたしはこのためにダビデの子孫を苦しめる。しかし永久にではない。』(1列王記11:37-39)

主はなんと、エフライム人ヤロブアムに対し、ダビデのように長く続く堅固な家を立てる、という約束を与えられたのだ。
歴史に「もし」は禁句だが、もし、彼が主の命令に聞き従って、主の目にかなう事を行っていたのなら、ヤロブアムの名は、ダビデに次ぐ栄光の名前になっていた事だろう。

しかし、実際はそうではなかった。
彼は人を恐れ、金の子牛像を、彼に祝福を与えた神に取り替えて、身勝手に祭司を任命し、勝手に定めた月日に礼拝をささげさせるという罪を行った。(1列王記12章)
主は預言者を遣わし、しるしをもって彼に警告を与えたのに、それでも彼は悪い道から立ち返る事をせず、ついには、彼の子の代には謀反が起こり、ヤロブアムの家は、一族郎党皆殺しにされてしまった。
永遠に堅固な家が立てられるどころか、わずか二代で根絶やしとされ、ヤロブアムの名はその後、呪いの代名詞となってしまったのだ。

このように、元々は、主から素晴らしい祝福や預言をいただいているのに、その後、主の御声を軽んじ、御言葉に反して身勝手に生きるなら、主は、本来与えようとしていた祝福を取り上げて、それでも悔い改めないなら、徹底的に滅ぼされるのだ。
一体、幾人の人達が、主から素晴らしい祝福や預言をいただいておきながら、不従順によって祝福を逃し、歴史の闇へと消えていった者達がいたのだろうか。
ダビデは、罪が指摘された時、”たまたま”素直に受け入れて、悔い改める性質だったが故に、あれだけの栄光の名が与えられたのだろう。
私達も、主から罪が指摘された時、戒めを受けた時は、素直にそれを受け入れ、悔い改めて立ち返る性質をしっかり身につけ、祝福を逃すことがないようにしたい。

黙示録七章には、神の印が押されたイスラエル12部族が登場するのだが、エフライム部族は、ヤコブやモーセから素晴らしい祝福を受けていたにもかかわらず、そこからは除外されてしまっており、代わりに、モーセの祝福からは除外されていたはずのシメオン部族が、そこに復帰して、名を連ねている。
確かに、親の祝福や、牧師の祝福は、大切である。しかし、その人が祝福を受けるかどうかは、最終的には、本人次第なのだ。

困難な時代の母の信仰(出エジプト記2:1-10)
第一礼拝・礼拝全体音声:右クリックで保存
第二礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

本日は、母の日である。今回は信仰によって幸いを得たモーセの母ヨケベデについて見てみたい。
『レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった。』(出エジプト2:1)
それは、とても困難な時代での結婚である。イスラエル人は奴隷とされ、強制労働で搾取され、虐待され、結婚して子供を産んでも、男の子ならナイル川に投げ込まれてしまうという、絶望的な時代である。
過酷な労働で搾取され、将来に希望が見いだせない時代は、普通、結婚する事や子供を産む事が億劫になって、人口は減って行くものだという事は、現代日本を生きる若者なら、実感する所であろう。
それでもこの男女は結婚し、子供を産み、パロの命令どおりにいのちを消す事は、しなかった。それは、信仰による。『信仰によって、モーセの生れたとき、両親は、三か月のあいだ彼を隠した。それは、彼らが子供のうるわしいのを見たからである。彼らはまた、王の命令をも恐れなかった。』(ヘブル11:23)

時代の王の命令は、いのちを殺す事だったが、この両親は、そんな王の命令を恐れず、むしろ、いのちを守ろうとした。なぜなら、その子のいのちの輝きの美しさ、麗しさを見たからだ。
まったき愛は、恐れを締め出す。(1ヨハネ4:18) 彼らは、愛の故に、王の命令も恐れなかったのだ。
しかし3ヶ月も経つと、さすがに隠しきれなくなったために、彼らは苦渋の決断をする。パピルスで編んだかごを取り、それにアスファルトと樹脂とを塗って、子をその中に入れ、これをナイル川の葦の中においた。
この行動は、赤ちゃんを放棄する事とは違う。他の多くの親たちは、パロの命令は絶対だから、今の世情は、男の赤ちゃんは捨てるべし、という流れだから、みんなも赤ちゃんを捨てているから、と、初めから諦めていたのに対し、この両親は、信仰によって、思いを尽くし力を尽くしていのちを守ろうとしたが、それでも自分の力ではどうしようもなくなったから、神様の御手に委ねたのだ。
私達も、時代が時代だから、と、いのちに対し、子育てに対し、あきらめてはいないだろうか。
しかし主は、それでも信仰によっていのちにあきらめない人に対しては、祝福と守りを与えられる。

かごにかわいい赤ちゃんを入れて水の上に送り出さなければならない母親の心は、断腸の思いだったろう。
水に浮かべたかごに、眼差しを向け、自分の胸に抱いて、自分の乳で養いたかった、成長して行く様を見守りたかった、と思いながらも、彼らの神である主に、赤ちゃんの守りを祈りつつ、見送ったに違いない。
母の、子を思う愛以上の愛は、人間には無い。苦しみながら産んだ子供に、自分のいのちを分け与え、その子を見守り、いつも気にかけ、言葉にならないうめきで執り成し、育てる。母とはそういうものである。
今、私達を言いようもない深いうめきによって執り成して下さる霊は、聖霊である。(ローマ8:26-27)
聖霊はいつまでも、どこまでも私達を探り、追いかける。たとえ私達が、罪と汚れにまみれ、死んだかのようになっても、なお深く憐れみ、弁護し、成長して主の御前に立てるまで、守り、育て、執り成すのだ。
母の自分の子に対する祈りは、絶大である。主は、母の、子に対する愛については、何者も犯してはならない守りを定められた。主に捧げるいけにえの動物でさえ、生まれてから7日間は母親のそばに置かなくてはならないし(出エジプト記22:30)、子をその母の乳で煮てはならないとも命じられた。(申命記14:21)
母は、痛みつつも自らの体を開いて新しい命を生み出し、自らの乳で養い、守り、育てていくものであり、母と子の両方を引き離したり、いのちの養いである乳で子を煮る行為は、いのちを踏みにじる行為なのだ。

主は、その母の執り成す祈りを、聞かれた。主は赤ちゃんをナイルの獣から守り、水に沈める事なく、パロの娘の所へと導いて下さり、しかも、その子を合法的に、自分の乳で養い育てる事が出来るようになり、その報酬さえも、もらえるように、して下さったのだ。
赤ちゃんの親は、一旦は失ったと思っていた子のいのちを、信仰によって、水の中から取り返したのだ。
他の多くの赤ちゃん達は、時代がそうだから、という事で死に渡されて行ったが、どのような時代になったとしても、いのちは主のものである。主は御心のままに人の所に新しいいのちを送り、そのいのちを養うのに必要な物も、力も、全て備えて下さり、いのちを大切にする人には、さらに祝福し、徹底して守られる。
困難な時代にあっても、いのちを大切にし、主ご自身から、全て必要な養いをいただき、家族の中が和気あいあいで、いのちと食べ物と笑いが絶えない家でありますように、イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:レビへの祝福(申命記33:8-11):右クリックで保存

今回は、レビ族への祝福である。
『レビについては言った、/「あなたのトンミムをレビに与えてください。ウリムをあなたに仕える人に与えてください。かつてあなたはマッサで彼を試み、/メリバの水のほとりで彼と争われた。』(申命記33:8)

前回見たように、シメオンとレビは、シェケムの事件での暴虐な行動のため、ヤコブからのろいを受けた。(創世記49:5-7)
シメオン族は荒野での行状が悪かったからなのか、モーセはシメオン族を今回の祝福から外してしまったが、レビ族に対しては、モーセはとても素晴らしい祝福をしている。
それは、レビ族は、イスラエル全体がシナイ山のふもとで堕落して、金の子牛を拝み、戯れた時、彼らは御言葉に従順し、信仰をその行動であらわした唯一の部族だからである。

『彼はその父、その母について言った、/『わたしは彼らを顧みない』。彼は自分の兄弟をも認めず、/自分の子供をも顧みなかった。彼らはあなたの言葉にしたがい、/あなたの契約を守ったからである。』(申命記33:9)
あの事件の時、レビ族は、自分の兄弟姉妹、自分の子供に逆らってでも、主の言葉に従い通した。

『モーセは宿営の門に立って言った、「すべて主につく者はわたしのもとにきなさい」。レビの子たちはみな彼のもとに集まった。そこでモーセは彼らに言った、「イスラエルの神、主はこう言われる、『あなたがたは、おのおの腰につるぎを帯び、宿営の中を門から門へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ』」。』(出エジプト記32:26-27)
モーセはこの時、自分の兄弟、友、隣人は、誰彼かまわず殺せ、というニュアンスで言ったのではなく、モーセが金の子牛を粉々に砕いても、恐れる心なく、なお、ほしいままにふるまっていた者達を見て(25節)、そのような者達を殺すように言ったのであろう。
事実、この時殺されたのは、イスラエル全六十万中、三千人しかいなかった。そして、それだけの人数が、モーセが戒めても、付け上がっていたのだろう。

ひと度つけあがると、そこに指導者が現れても、調子に乗ったまま嘲るような者はいるが、神の会衆の中でそのような者が出た時、放っておいてはならない。
そのまま野放しにしておくと、主の敵に大いに嘲りの心を芽生えさせるからだ。(2サムエル12:14)

『レビの子たちはモーセの言葉どおりにしたので、その日、民のうち、おおよそ三千人が倒れた。そこで、モーセは言った、「あなたがたは、おのおのその子、その兄弟に逆らって、きょう、主に身をささげた。それで主は、きょう、あなたがたに祝福を与えられるであろう」。』(出エジプト記32:28-29)
レビ族にモーセからの祝福が与えられ、主から祭司の任が与えられたのは、実に、「おのおのその子、その兄弟に逆らって、きょう、主に身をささげた」からだ。

私達も、もし、自分の兄弟、友、隣人が、主から離れて反逆した時、彼らには、逆らわなければならない。
聖書は確かに、与えられた権威には積極的に従い、血縁の面倒をしっかり見るよう命じているが、ただし、彼らが信仰を棄却するよう命じて来たり、罪や汚れた事を犯させるように仕向けて来るなら、それに対しては、逆らわなければならないのだ。

キリストを主として受け入れるなら、誰でも、王のような祭司、聖なる国民としての特権が与えられる。(2ペテロ2章)
『彼らはあなたのおきてをヤコブに教え、/あなたの律法をイスラエルに教え、/薫香をあなたの前に供え、/燔祭を祭壇の上にささげる。』(申命記33:10)
祭司のつとめは、ここに記されている通り、御言葉を人々に教え、神と人との間に立って執り成しの祈りをささげる事である。
レビという名には元々、「結ぶ(ラバ)」という意味があり、神と人とを結びつける役割があるのだ。

そして、彼らに対する祝福は、資産が豊かにされ、手のわざが恵まれ、敵の腰が主に打たれて立ち上がれなくなる事である。
『主よ、彼の力を祝福し、/彼の手のわざを喜び受けてください。彼に逆らう者と、/彼を憎む者との腰を打ち砕いて、/立ち上がることのできないようにしてください」。』(民数記33:11)
これが、自分を捨てて自分の十字架を負い、御言葉に聞き従って主についていく者、すなわち、祭司とされる者に与えられる祝福である。
祭司には、このように素晴らしい特権が確かにあるが、与えられたからには、為すべき務めがある事も忘れてはならず、それを怠ってはならないのだ。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
頑なな心を捨てない者の悲惨な結末(エゼキエル33:31-33):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
中風の人の癒し(マタイ9:1-8):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
人が獣に勝るか勝らないかはその人次第(伝道者の書3:16-22):右クリックで保存

【概要】

本日のメッセージは、伝道者の書3章16節から22節を通して、人間の存在と神の視点について考察します。ソロモンが見た不正と正義の欠如、そして人間と獣の違いについての理解を深めます。

【聖書箇所】

伝道者の書3章16-22節

【戒めの言葉】

人は神から離れると獣のようになり、悟りを失います。神の御言葉に基づいて生きることが求められます。

【勧めの言葉】

神の聖女に入り、心と思いを神に向けることで、悟りを得て、獣の状態から脱却することができます。

【***詳細***】

今日の聖書箇所、伝道者の書3章16節から22節には、ソロモンが見たこの世の不正と正義の欠如について記されています。「さらに私は、日の下で裁きの場に不正があり、正義の場に不正があるのを見た。」(伝道者の書3:16)とあるように、ソロモンの時代も現代と同様に不正が蔓延していました。

ソロモンは、「神は正しい人も悪者も裁く。そこでは全ての営みと全ての業には時があるからだ。」(伝道者の書3:17)と述べ、神の裁きがあることを示しています。さらに、「神は彼らを試み、彼らが獣に過ぎないことを彼らが気づくようにされたのだ。」(伝道者の書3:18)と、人間の限界を指摘しています。

人間と獣の結末は同じであり、「人は何も獣に勝っていない。すべては虚しいからだ。」(伝道者の書3:19)とソロモンは言います。しかし、これは本当にそうなのでしょうか。聖書全体を通して見ると、人間は神の姿に似せて創られた特別な存在であることがわかります。

詩編49編20節には、「人はその映画の中にあっても、悟りがなければ滅び失せる獣に等しい。」とあります。悟りを得るためには、神の聖女に入り、神の御前に出ることが必要です。詩編73編では、アサフが神の聖女に入り、悪人の最後を悟ったことが記されています。「私は神の聖女に入り、ついに彼らの最後を悟った。」(詩編73:17)

神の御前に出ることで、私たちは自分の愚かさを認識し、神の導きによって栄光の地に受け入れられることができます。「あなたは私を悟して導き、後には栄光の地に受け入れてくださいましょう。」(詩編73:24)

神は人を獣と同じように創られたのではなく、神の姿に似せて創られました。創世記には、神が人を「ご自身の姿に似せて」創られたと記されています。人は神の息吹を受け、特別な存在として創られたのです。

しかし、神から離れると、人は獣のようになってしまいます。神の御言葉に基づいて生きることで、私たちは獣の状態から脱却し、神の子としての特権を享受することができます。

【結論】

私たちは神の御言葉に基づいて生きることで、獣のような状態から脱却し、神の子としての特権を享受することができます。神の導きに従い、悟りを得て、栄光の地に受け入れられることを目指しましょう。イエス・キリストの名前によって祝福を祈ります。アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:ルベン、ユダへの祝福と、除外されたシメオン(申命記33:6-7):右クリックで保存

6節から、モーセからの各部族への祝福に入る。

「ルベンは生きる、死にはしない。しかし、その人数は少なくなるであろう。」(申命記33:6)
長男ルベンへの祝福は、たとえ人数が少なくなろうとも、生きて、死なない事である。
それがこの部族への祝福なのか、と、驚くかもしれないが、それには訳がある。

ヤコブも死ぬ前、12人の子たちを呼び寄せ、彼らが今後どのようになるかという預言的な言葉を残したが、ルベンへの言葉は以下だった。
『ルベンよ、あなたはわが長子、/わが勢い、わが力のはじめ、/威光のすぐれた者、権力のすぐれた者。しかし、沸き立つ水のようだから、/もはや、すぐれた者ではあり得ない。あなたは父の床に上って汚した。ああ、あなたはわが寝床に上った。』(創世記49:3-4)
ルベンは、沸き立つ水のように奔放で、父のそばめと寝る、という、性的な罪を犯したため、彼の長男の権利は剥奪されてしまった。
この部族は、死海東岸付近に相続地が与えられたが、その部族は後の歴史で、冴える事は無かった。

『ユダについては、こう言った、/「主よ、ユダの声を聞いて、/彼をその民に導きかえしてください。み手をもって、彼のために戦ってください。彼を助けて、敵に当らせてください。」』(申命記33:7)
ユダへの祝福は、主がユダの声を聞いて下さり、主が助け、ユダのために戦って下さり、彼の元に彼の民を導き返して下さる事である。
創世記49章のヤコブの預言では、ユダは獅子の子として勝利し、支配者の杖は離れる事は無いという、素晴らしいものだったが、それに比べると、このモーセの祝福は見劣り感が否めない。
しかし、このモーセの祝福は、ソロモン王以降の時代、イスラエルの他の部族がこぞってユダから離れ、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂して後のユダに対しては、実に的確な執り成しの祈りであると言える。

さて、実は、この申命記33章には名が出てこない部族、モーセの祝福の祈りから除外されてしまった部族がいる。それはシメオン族である。
シメオンとレビは、創世記34章のシェケムの事件で見せた暴虐な行動の故に、ヤコブは以下のように言った。
『シメオンとレビとは兄弟。彼らのつるぎは暴虐の武器。わが魂よ、彼らの会議に臨むな。わが栄えよ、彼らのつどいに連なるな。彼らは怒りに任せて人を殺し、/ほしいままに雄牛の足の筋を切った。彼らの怒りは、激しいゆえにのろわれ、/彼らの憤りは、はなはだしいゆえにのろわれる。わたしは彼らをヤコブのうちに分け、イスラエルのうちに散らそう。』(創世記49:5-7)

また、民数記25章にて、イスラエルが異邦の女達とみだらな事をしだした時、主の罰を受けて、皆が悲しみながら、自分達の中から悪を取り除こうと、悔い改めの集会をしている最中、その目の前で、シメオン族の長の男が、異邦の女を自分の天幕に連れ込む、という事をした。
それを見たレビの子孫・祭司ピネハスが、その男女の腹を槍で一突きにして殺し、主の怒りを自分の怒りとしてあらわしたため、イスラエルへの疫病が止んだ。
シメオン族の長が、このような事を平気でしていた、という事は、一族もろとも、それに同意するような霊的状況であった事が伺える。
そのためか、シメオン族は荒野の40年で、イスラエル12部族中、最も減少率の激しい一族であった。

このように、モーセの祝福からも除外されてしまう程の、どうしようもないシメオン族だったが、新約においては、シメオンの名を持つ人には良い人物が多く、黙示録では、贖われたイスラエル12部族の一つとして、シメオンは復活している。

イエス様の十二弟子の筆頭であるシモンは、ヘブライ語読みはシメオンである。
また、イエス様が誕生した時、正しく信仰深いシメオンという人が、幼子イエス様を抱き、イエス様とその両親について、将来を預言し、祝福した。(ルカ2:25-35)
彼は、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた敬虔な人で、聖霊が宿っており、救い主に会うまでは死ぬことはない、という、聖霊の示しを受けていた。
また、イエス様の受難の時、イエス様の十字架を一緒に背負ったのも、クレネ人シモン(シメオン)であった。

シメオン、その名の意味は「聞く」である。
申命記でよく言われている「シェマー・イスラエル(聞けイスラエル)」の、シェマーである。
聞く姿勢があるシメオンには、イエス様の誕生にも、イエス様の働きの時にも、イエス様の十字架の時にも、そこに同席する恵みに与る事が出来、そして、黙示録においては、新しくされたイスラエル12部族の一つとして、共に栄誉に与る事が出来るのである。

モーセの祝福から漏れてしまった事で、シメオン族は、きっとあわてた事だろう。
しかし、いかにモーセの祝福から除外されたとしても、悔い改めて、主に立ち返り、主に聞く姿勢へと帰るなら、再び恵みに与ることが出来るのだ。

礼拝説教メッセージ音声:モーセの最後の祝福の祈り(申命記33:1-5):右クリックで保存

『神の人モーセは死ぬ前にイスラエルの人々を祝福した。祝福の言葉は次のとおりである。』(申命記33:1)
モーセは、先祖の列に加えられる間際、すなわち、死を目前にして、イスラエル民族を祝福した。
彼らの祖先のヤコブ、すなわち、イスラエルも、先祖の列に加えられる間際に、彼の12人の子たちを呼び寄せて、祝福したし、主イエス様も、十字架にかかられる直前、弟子たちを御名と御言葉へと託す祈りをし(ヨハネ17章)、また、イエス様がよみがえってから、天にあげられる際にも、イエス様は祝福の姿勢のまま、挙げられて行った。(ルカ24:50-51)

祝福、それは私達聖徒が、たがいに愛する者に対して、為すべき事である。
パウロも、殉教を覚悟した時、自分がそれまで養ってきた聖徒達を集め、彼らを、主の恵みと、御言葉とに託す宣言をした。
『だから、目をさましていなさい。そして、わたしが三年の間、夜も昼も涙をもって、あなたがたひとりびとりを絶えずさとしてきたことを、忘れないでほしい。今わたしは、主とその恵みの言とに、あなたがたをゆだねる。御言には、あなたがたの徳をたて、聖別されたすべての人々と共に、御国をつがせる力がある。』(使徒20:31-32)私達聖徒が、息子や娘たち(肉的であれ霊的であれ)に残すべきは、祝福の祈りであり、そして託すべき先は、決して変わる事の無い御言葉であり、神の恵みなのだ。

『「主はシナイからこられ、/セイルからわれわれにむかってのぼられ、/パランの山から光を放たれ、/ちよろずの聖者の中からこられた。その右の手には燃える火があった。』(申命記33:2)
主は、荒野の行程におけるそれぞれの場所で、必要な御言葉を授け、時に道を示し、時には戒め、懲らしめ、そして憐れみで包んで下さった。
私達の人生においても、それぞれの場面場面において、主が御言葉を授けて下さり、導いて下さり、時には訓戒し、そして、私達弱さや罪を、憐れみによって包んで下さった事を、思い出すはずである。

『まことに主はその民を愛される。すべて主に聖別されたものは、み手のうちにある。彼らはあなたの足もとに座して、/教をうける。』(申命記33:3)
主は、主に聖別された民を愛される。それは何も、イスラエルだけに限った事ではない。
「彼らはあなたの足もとに座して、/教をうける。」とある通り、主の御言葉を慕い求める、主の足元に座して教えを受ける人なら、全て、主の民であり、そこには、国籍も血筋も関係無いのだ。

イエス様は、十字架の前夜、弟子たちのために祈られたが、その祈りは、何も、そこにいた弟子たちだけに対してのものではない。
その時代にはまだ生まれていなかった「私達」も含め、将来、キリストにあって信じる全ての者に対し、主は、祈られたのである。
『わたしは彼らのためばかりではなく、彼らの言葉を聞いてわたしを信じている人々のためにも、お願いいたします。父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。
わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります。』(ヨハネ17:20-23)
ゆえに、私達は主の執り成しと、御言葉によって、聖められ、世から分離されるのである。

『モーセはわれわれに律法を授けて、/ヤコブの会衆の所有とさせた。民のかしらたちが集まり、/イスラエルの部族がみな集まった時、/主はエシュルンのうちに王となられた」。』(申命記33:4-5)
再び、「エシュルン」という言葉が用いられている。
エシュルンは、イスラエルをあらわす言葉であるが、最初に登場したエシュルンは、主に良くしていただいて肥え太った時に裏切る者として記された。(32:15)
そして、次に登場するエシュルンが、今回の箇所であり、主が王となられる様が記されており、そして、最後に登場するエシュルンは、主が共におられるさいわいな者として、記されている。(26節)
これは、私達が造り変えられていく有り様にも似ている。
最初は主を裏切っていた私達も、主が王となられ、私達を支配し、私達が主の支配の内に整えられて行く内に、とこしえに主が共におられる幸いへと入るのである。
『見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである。』(黙示録21:3-4)

礼拝説教メッセージ音声:御言葉は虚しい言葉ではなく、いのちである(申命記32:44-52):右クリックで保存

『モーセとヌンの子ヨシュア(原文:ホシェア)は共に行って、この歌の言葉を、ことごとく民に読み聞かせた。モーセはこの言葉を、ことごとくイスラエルのすべての人に告げ終って、彼らに言った。』(申命記32:44-46a)

ヨシュアは、以前はホシェアという名前だったが、エジプトを出たばかりの40年前、彼が12人の斥候として約束の地を探りに行く際に、モーセが彼の名前をヨシュアに変えたのだ。(民数記13:16)
モーセは、信仰のチャレンジが要求される任務に就かせるにあたって、救いの拠り所は「主」にあると、明確にしたのだろう。
ホシェアは「救い」という意味であるが、ヨシュアは「主は彼の救い」という意味であり、また、ヨシュア(イエシュア)は、イエス様と同じ名前である。
私達も、救いの拠り所が「主」であると明確にされる時、強く雄々しくなれる根拠が、はっきりとされる。

『「あなたがたはわたしが、きょう、あなたがたに命じるこのすべての言葉を心におさめ、子供たちにもこの律法のすべての言葉を守り行うことを命じなければならない。この言葉はあなたがたにとって、むなしい言葉ではない。これはあなたがたのいのちである。この言葉により、あなたがたはヨルダンを渡って行って取る地で、長く命を保つことができるであろう。」』(申命記32:46-47)

主の御言葉を「難しい」「堅い」などと言って、自分の中で「むなしい」と見做したり、捨て去ってはならない。
「これはあなたがたのいのちである」からである。

もし、御言葉をつまらない、むなしい、とするなら、いのちを捨てるようなものである。
だから、もし御言葉が難しいなら、その内容が理解できるよう、祈り求めるべきである。
御言葉は、実は自分を生かすいのちそのものである事が分かる知恵を下さい、その良き「いのち」の魅力がわかるように、もっと慕い求める事が出来るように、と、祈り求めるべきである。
求めるなら、主は、必ず与えて下さる。

『この日、主はモーセに言われた、「あなたはエリコに対するモアブの地にあるアバリム山すなわちネボ山に登り、わたしがイスラエルの人々に与えて獲させるカナンの地を見渡せ。あなたは登って行くその山で死に、あなたの民に連なるであろう。あなたの兄弟アロンがホル山で死んでその民に連なったようになるであろう。
これはあなたがたがチンの荒野にあるメリバテ・カデシの水のほとりで、イスラエルの人々のうちでわたしにそむき、イスラエルの人々のうちでわたしを聖なるものとして敬わなかったからである。それであなたはわたしがイスラエルの人々に与える地を、目の前に見るであろう。しかし、その地に、はいることはできない。」』(申命記32:48-52)
いよいよモーセの最後の時が近づいた。
イスラエルをここまで導いて来た立役者であるモーセ自身は、その地をはるかに仰ぎ見る事は出来ても、入れないのである。
律法は、せよ・するなの集大成であり、彼はその律法の象徴的な存在であるが、律法によっては、まことの約束の地である天の御国に入れないのだ。

『いったい、律法はきたるべき良いことの影をやどすにすぎず、そのものの真のかたちをそなえているものではないから、年ごとに引きつづきささげられる同じようないけにえによっても、みまえに近づいて来る者たちを、全うすることはできないのである。もしできたとすれば、儀式にたずさわる者たちは、一度きよめられた以上、もはや罪の自覚がなくなるのであるから、ささげ物をすることがやんだはずではあるまいか。しかし実際は、年ごとに、いけにえによって罪の思い出がよみがえって来るのである。なぜなら、雄牛ややぎなどの血は、罪を除き去ることができないからである。』(ヘブル10:1-4)

律法は、来たるべき良いことの影であり、罪のきよめも、永遠のいのちの授与も、無い。
しかし人は、キリストを信じる信仰によって、新しく造り替えられる望みが与えられた。

最初の人アダムの失敗により、罪が混じって台無しになってしまった古きこの肉の体は、イエスを信じる信仰によって、死へと明け渡され、イエスの復活と共によみがえらされ、新しい、永遠のいのちが与えられる望みが開かれたのだ。
まことの約束の地へと導くのは、モーセや律法ではない。ヨシュア(イエシュア)、すなわち、私達の主・イエス様なのだ。
『ただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである。こうして、すべての祭司は立って日ごとに儀式を行い、たびたび同じようないけにえをささげるが、それらは決して罪を除き去ることはできない。しかるに、キリストは多くの罪のために一つの永遠のいけにえをささげた後、神の右に座し、それから、敵をその足台とするときまで、待っておられる。彼は一つのささげ物によって、きよめられた者たちを永遠に全うされたのである。』(ヘブル10:10-14)

礼拝説教メッセージ音声:主は打ち、また癒やす(申命記32:36-43):右クリックで保存

『主はついにその民をさばき、/そのしもべらにあわれみを加えられるであろう。これは彼らの力がうせ去り、/つながれた者もつながれない者も、/もはやいなくなったのを、主が見られるからである。』(申命記32:36)
主は懲らしめられるが、いつまでも罰するという事はしない。主は、人を打ち叩く事を趣味とはされず、むしろ立ち返って幸いを与える事を、望まれる。

『わたしは確かに、エフライムが/こう言って嘆くの聞いた、『あなたはわたしを懲らしめられた、わたしはくびきに慣れない子牛のように/懲らしめをうけた。主よ、あなたはわたしの神、主でいらせられる、わたしを連れ帰って、もとにかえしてください。わたしはそむき去った後、悔い、教をうけた後、ももを打った。若い時のはずかしめが身にあるので、わたしは恥じ、うろたえた。』
主は言われる、エフライムはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ子であろうか。わたしは彼について語るごとに、なお彼を忘れることができない。それゆえ、わたしの心は彼をしたっている。わたしは必ず彼をあわれむ。』(エレミヤ31:18)

人が心から悔い改め、主に立ち返るなら、主は再び憐れみの御手で包み、癒して下さる。
心から悔い改める、とは、このエフライムの嘆きのように、自分がして来た事の罪深さを知り、悲しみ、ももを打ち叩くような恥ずかしさを覚える事である。
もし自分がして来た事を理解せず、それを恥じたり悲しんだりという事が無いとするなら、再びその罪を繰り返すものだ。

『そのとき主は言われるであろう、/『彼らの神々はどこにいるか、/彼らの頼みとした岩はどこにあるか。彼らの犠牲のあぶらを食い、/灌祭の酒を飲んだ者はどこにいるか。立ちあがってあなたがたを助けさせよ、/あなたがたを守らせよ。今見よ、わたしこそは彼である。わたしのほかに神はない。わたしは殺し、また生かし、/傷つけ、またいやす。わたしの手から救い出しうるものはない。』(申命記32:37-39)

人が主を離れ、それぞれ好き勝手な神々により頼み、何の恩恵も無いどころか、災いばかりが降され、さんざんな目にあった時、主は、その人に思い起こされる。
あなた方が頼みとして来た神々は、一体、どこにあったのか。
結局、わたしこそが唯一の主、唯一の神ではなかったのか。思い出してみなさい、と。

ハンナも、同じ賛美をしている。
『主は殺し、また生かし、/陰府にくだし、また上げられる。主は貧しくし、また富ませ、/低くし、また高くされる。貧しい者を、ちりのなかから立ちあがらせ、/乏しい者を、あくたのなかから引き上げて、/王侯と共にすわらせ、/栄誉の位を継がせられる。
地の柱は主のものであって、/その柱の上に、世界をすえられたからである。主はその聖徒たちの足を守られる、/しかし悪いものどもは暗黒のうちに滅びる。人は力をもって勝つことができないからである。主と争うものは粉々に砕かれるであろう、/主は彼らにむかって天から雷をとどろかし、/地のはてまでもさばき、/王に力を与え、/油そそがれた者の力を強くされるであろう」。』(1サムエル2:6)

主は確かに、一時的に懲らしめられる。しかし、再び憐れんで下さる。それは、私達の中から高ぶりや罪の愚かさを取り除くためである。
主は確かに、一時的に痛めつけられるが、再び癒やして下さる。それは、主に仕える事の幸いと謙遜さを学ばせるためである。
そして、懲らしめの中から学ぶべき事を学んだ時、主は再び高くあげ、もう二度と、私達を不従順による滅びには向わせないようにされるのだ。

『わたしは天にむかい手をあげて誓う、/「わたしは永遠に生きる。わたしがきらめくつるぎをとぎ、/手にさばきを握るとき、/わたしは敵にあだを返し、/わたしを憎む者に報復するであろう。わたしの矢を血に酔わせ、/わたしのつるぎに肉を食わせるであろう。殺された者と捕えられた者の血を飲ませ、/敵の長髪の頭の肉を食わせるであろう」』。国々の民よ、主の民のために喜び歌え。主はそのしもべの血のために報復し、/その敵にあだを返し、/その民の地の汚れを清められるからである。」』(申命記32:40-43)
主は、民を懲らしめるために、敵をも用いられるが、もし彼らが、神の民に勝利した事でいい気になり、勝利させて下さった主を恐れず、主の民を打ち叩くを止めないなら、主はその者達をも必ず罰されるのだ。

以上が、イスラエルの民が約束の地に入る直前、モーセが死ぬ間際に、イスラエルに主が与えられた歌の全容であるが、この内容は、キリストにあって神の民とされた私達にも、深く関わりのある事である。
主は、主をないがしろにする者に対しては、災いをもって懲らしめるが、悔い改めるなら癒やし、再び愛の御手で包まれる。
そして主の敵に対しては、必ず復讐される。
私達は、決して、主をないがしろにしたり、主からの恩を仇で返すこと無く、初めから終わりまで、主を敬い、御言葉を守り行い、災いに遭わされる事なく、いつも祝福が注がれる者でいたい。

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