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礼拝説教メッセージ音声:祝福の明細(申命記28:7-14):右クリックで保存
主の御言葉に聞き従い、守り行ったなら、どんな祝福があるのか。今回の箇所には、その明細が記されている。
『敵が起ってあなたを攻める時は、主はあなたにそれを撃ち敗らせられるであろう。彼らは一つの道から攻めて来るが、あなたの前で七つの道から逃げ去るであろう。』(申命記28:7)
まずは、勝利の祝福である。この勝利の約束は、聖書の他の至る所にある。
『もしあなたがたがわたしの定めに歩み、わたしの戒めを守って、これを行うならば、・・・あなたがたは敵を追うであろう。彼らは、あなたがたのつるぎに倒れるであろう。あなたがたの五人は百人を追い、百人は万人を追い、あなたがたの敵はつるぎに倒れるであろう。』(レビ記26:3-8)
実際聖書は、少数主に忠実な信仰の精鋭たちが、強大な敵に立ち向かい、大勝利した記録が多い。(創世記14章、民数記31章、士師記7章、1サムエル14章、2歴代誌20章、他多数)
主の御心に反している軍がいかに強大であろうと、主の御心に適っている軍がいかに弱小に見えようとも、両者が戦うとしたら、必ず後者が勝つ。
主の民にとって、戦いは、人数や知恵、力よりも、御言葉に聞き、守り行っているかどうかが遥かに大事なのだ。
また主は、主の民の周りの被造物に対し祝福を「命じ」られる。
『主は”命じて”祝福をあなたの倉と、あなたの手のすべてのわざにくだし、あなたの神、主が賜わる地であなたを祝福されるであろう。』(申命記28:8)
『「七年目に種をまくことができず、また産物を集めることができないならば、わたしたちは何を食べようか」とあなたがたは言うのか。わたしは”命じて”六年目に、あなたがたに祝福をくだし、三か年分の産物を実らせるであろう。あなたがたは八年目に種をまく時には、なお古い産物を食べているであろう。九年目にその産物のできるまで、あなたがたは古いものを食べることができるであろう。』(レビ記25:20-22)
主は「光よあれ」と命じられて光を創造し、光だけでなく、御口から出る言葉によって全てのものを創造し、完成されたお方である。
だから私達は、主の命令に従って歩むなら、この全被造物の中を歩む全行程において、全てが追い風、全てが順風満帆となる。しかし、主の命令に逆らうなら、この被造物世界において、全てが向かい風、波乱万丈、四面楚歌、踏んだりけったりなのである。
『もし、あなたの神、主の戒めを守り、その道を歩むならば、主は誓われたようにあなたを立てて、その聖なる民とされるであろう。そうすれば地のすべての民は皆あなたが主の名をもって唱えられるのを見てあなたを恐れるであろう。』(申命記28:9-10)
私達が主の御言葉を守り行うなら、主の名が記された民として、全ての人々に知られる。
自分の所有物に、自分の名を記したなら、他人はおいそれと手出し出来ないし、それを盗んだり破損したりするなら、賠償請求したり訴えたり堂々と出来て当然である。
だから、主の名が記された私達に、もしサタンが勝手に病や貧しさ、災いなどを振りかけるのは、不当であり、主イエスの御名によって堂々と訴え、賠償請求できるのは当然だ。
主イエスの名によって、主の名がつけられている私達に、病や貧しさ、災いなどは、相応しくない。なぜなら主は完全で健やかな方であり、富んでおられ、祝福の源であられるお方だからだ。
私達が主の御言葉に留まるなら、主の名を用いて、欲しいものはなんでも求める事が出来るのである。(ヨハネ15:7)
『主があなたに与えると先祖に誓われた地で、主は良い物、すなわちあなたの身から生れる者、家畜の産むもの、地に産する物を豊かにされるであろう。主はその宝の蔵である天をあなたのために開いて、雨を季節にしたがってあなたの地に降らせ、あなたの手のすべてのわざを祝福されるであろう。あなたは多くの国民に貸すようになり、借りることはないであろう。』(申命記28:11-12)
既に何度も言われている通り、主に聞き従い、命令を守り行うなら、いのちも、大地の実りも、豊かに祝福され、それも、春の収穫物の脱穀が秋まで続き、秋の収穫物の取り入れが、穀物の種まきの時期まで、ずっと続く程の収穫で満たされ、穀物倉が空になる事はあり得ず、新しい収穫物が入る頃には、倉庫に余った古い収穫物は捨てるほどまでの祝福である。
『もしあなたがたがわたしの定めに歩み、わたしの戒めを守って、これを行うならば、わたしはその季節季節に、雨をあなたがたに与えるであろう。地は産物を出し、畑の木々は実を結ぶであろう。あなたがたの麦打ちは、ぶどうの取入れの時まで続き、ぶどうの取入れは、種まきの時まで続くであろう。あなたがたは飽きるほどパンを食べ、またあなたがたの地に安らかに住むであろう。・・・あなたがたは古い穀物を食べている間に、また新しいものを獲て、その古いものを捨てるようになるであろう。』(レビ記26:3-10)
そういう訳で、主の御言葉に聞き従い、それを守り行う事は、まさしく「至れり尽くせり」「良いことづくし」である。
『主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせられないであろう。あなたはただ栄えて衰えることはないであろう。きょう、わたしが命じるあなたの神、主の戒めに聞き従って、これを守り行うならば、あなたは必ずこのようになるであろう。きょう、わたしが命じるこのすべての言葉を離れて右または左に曲り、他の神々に従い、それに仕えてはならない。』(申命記28:13-14)
主を軽んじ、主の御声に聞き従わず、主の命令を守り行わないなら、「至れり尽くせり」の逆、ふんだり蹴ったりの呪いが下る。それは次回以降、詳細に見て行きたい。
どうして私達は、主の御言葉に聞き従わないような、主の命令を守り行わないような「愚か」を、「損」を、演じ続けられようか。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
あなたの旅程を書き記せ(民数記33章):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
愚かさを敢えて身につける愚かさ(伝道者の書2:1-11):右クリックで保存
【概要】
今日のメッセージは、伝道者の書2章1節から11節を通して、快楽の虚しさと神に従うことの重要性について考えます。
【聖書箇所】
伝道者の書2章1節から11節
【戒めの言葉】
快楽を追求することは虚しいものであり、神から離れることは愚かさに繋がります。
【勧めの言葉】
神を主とし、神の導きに従うことで、永遠の喜びと平安を得ることができます。
【***詳細***】
伝道者の書2章1節から11節には、ソロモンが快楽を追求した結果、すべてが虚しいと感じたことが記されています。彼は心の中で「さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。」と考えましたが、結局それも虚しいことだと悟りました。ソロモンは知恵によって導かれていたにもかかわらず、葡萄酒で体を元気づけ、愚かさを身につけようとしました。
彼は事業を拡張し、邸宅を建て、葡萄畑を設け、庭と園を作り、あらゆる快楽を追求しました。しかし、彼が手に入れたものは虚しさだけでした。ソロモンは「私の目の欲するものは何でも拒まず、心の赴くままにあらゆる楽しみをした」と言っていますが、最終的には「すべてが虚しいことよ。風を追うようなものだ。」と結論づけています。
この箇所から学べることは、神から離れた快楽の追求は虚しいものであり、最終的には何も残らないということです。ソロモンは知恵を持ちながらも、愚かさを選び、快楽に溺れました。その結果、彼は虚しさを感じ、神の前に戻ることの重要性を悟りました。
詩編16編11節には「あなたは私に命の道を知らせてください。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には楽しみが常しえにあります。」とあります。神の御前には永遠の喜びと楽しみがあります。世の快楽は一時的であり、神の与える喜びとは比べ物になりません。
私たちは、ソロモンのように愚かさを選ぶのではなく、ダビデのように神を主とし、神の導きに従うべきです。ダビデは「私はいつも私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私は揺るぐことがない。」と告白しています。神を前に置くことで、私たちは揺るぐことなく、永遠の喜びを得ることができます。
【結論】
快楽を追求することは虚しいものであり、神から離れることは愚かさに繋がります。私たちは神を主とし、神の導きに従うことで、永遠の喜びと平安を得ることができます。ソロモンのように愚かさに溺れることなく、ダビデのように神を前に置き、神の道を歩むことを選びましょう。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
イエス様に信仰を褒められた百人隊長(マタイ8:5-13):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:祝福される条件とその範囲(申命記28:1-6):右クリックで保存
この申命記28章は、受けるべき祝福と呪いの、それぞれの具体的な内容が、68節という長きに渡って、詳細に記されている。
祝福を受ける条件は、実にシンプルだ。
『もしあなたが、あなたの神、主の声によく聞き従い、わたしが、きょう、命じるすべての戒めを守り行うならば、あなたの神、主はあなたを地のもろもろの国民の上に立たせられるであろう。もし、あなたがあなたの神、主の声に聞き従うならば、このもろもろの祝福はあなたに臨み、あなたに及ぶであろう。』(申命記28:1-2)
主の声によく聞き従い、主の命令を守り行う事。
この祝福の条件は、既に、申命記に入ってからは何度も聞かされている。
『あなたがたがこれらのおきてを聞いて守り行うならば、あなたの神、主はあなたの先祖たちに誓われた契約を守り、いつくしみを施されるであろう。あなたを愛し、あなたを祝福し、あなたの数を増し、あなたに与えると先祖たちに誓われた地で、あなたの子女を祝福し、あなたの地の産物、穀物、酒、油、また牛の子、羊の子を増されるであろう。あなたは万民にまさって祝福されるであろう。あなたのうち、男も女も子のないものはなく、またあなたの家畜にも子のないものはないであろう。』(申命記7:12-14)
つまり、御声に聞き従って御言葉を守り行う事は、いのちの祝福の約束があり、生んで、増えて、地に満ちていくという、創造本来の祝福の命令が実体化するものである。
エジプトは、イスラエル民族がおびただしく増えていくので恐れ、虐待し、男子をナイルに投げ込みさえしたが、主が祝福されたいのちが増え広がって行くは、止められなかった。
主は、いのちの主であり、主にあって、死は、いのちに飲み込まれて行くのである。
また、『あなたは町の内でも祝福され、畑でも祝福されるであろう。』(申命記28:3) とある通り、その人は、街に住んでも、田舎に住んでも栄えるのだ。
ヤコブの子ヨセフは、奴隷としてエジプトに売られて行ったが、彼は、神を知らぬエジプトの中でも、主にあって真実に生きる道を貫き通したため、あらゆる面で祝福を受けた。
ヨセフのように、主に聞き従う生き方を貫き通すなら、たとえ奴隷として売られても、牢屋にいても、栄えるのである。
そればかりでなく、『あなたのかごと、こねばちは祝福されるであろう。』(申命記28:5) とある通り、家の奥の台所事情も祝福されるのである。
イスラエルを虐待したエジプトに対する主の災いの中に、かえるの災いがあったが、その時、かえるは、かごにもこね鉢にも侵入して来た。
私達のかごやこね鉢に、祝福が入るか、それともかえるが入るかは、御言葉に聞き従うか否かであり、主の民を虐待する者は、台所の隅々にさえ汚れが侵入して来るのだ。
『あなたは、はいるにも祝福され、出るにも祝福されるであろう。』(申命記28:6)
主を助けとし、御声に聞き従い、御言葉を行う人は、仕事先でも学校でも、家を守るにしても、出るにも入るにも祝福される。
詩篇121編に記されている通りである。
『わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。わが助けは、天と地を造られた主から来る。主はあなたの足の動かされるのをゆるされない。あなたを守る者はまどろむことがない。見よ、イスラエルを守る者は/まどろむこともなく、眠ることもない。
主はあなたを守る者、主はあなたの右の手をおおう陰である。昼は太陽があなたを撃つことなく、夜は月があなたを撃つことはない。主はあなたを守って、すべての災を免れさせ、またあなたの命を守られる。主は今からとこしえに至るまで、あなたの出ると入るとを守られるであろう。』
礼拝説教メッセージ音声:律法は呪いの宣言しか出来ない(申命記27:9-26):右クリックで保存
イスラエルがヨルダンを渡った時、まずは、御言葉を記した石をエバル山に建てる事が命じられていたが、もう一つ、為すべき事がある。
それは、祝福と呪いの宣言である。
『その日またモーセは民に命じて言った、「あなたがたがヨルダンを渡った時、次の人たちはゲリジム山に立って民を祝福しなければならない。すなわちシメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ヨセフおよびベニヤミン。また次の人たちはエバル山に立ってのろわなければならない。すなわちルベン、ガド、アセル、ゼブルン、ダンおよびナフタリ。』(申命記27:14)
祝福するためにゲリジム山に立つ組と、のろいのためにエバル山に立つ組とに分かれ、そして、以下の通りにレビ人が大声でイスラエルのすべての人々に向かって宣言し、それに呼応して、一般のイスラエル人が応答する。
『工人の手の作である刻んだ像、または鋳た像は、主が憎まれるものであるから、それを造って、ひそかに安置する者はのろわれる』。民は、みな答えてアァメンと言わなければならない。『父や母を軽んずる者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。『隣人との土地の境を移す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。・・・『この律法の言葉を守り行わない者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。』(申命記27:15-26)
宣言する内容は、十戒の内容もあるし、律法の細則的な内容もあるが、興味深い事に、「祝福と呪いの宣言をせよ」と言っておきながら、ここで宣言する内容には「何々する者は祝福される」という祝福の宣言が、一つも無い。
また、前回の箇所で学んだ通り、御言葉を刻む記念の石を建てるのは、呪いを宣言するエバル山である。
これらの事は、実は、律法の性質について、非常に象徴的な意味を含んでいる。
モーセに与えられた律法の務め、すなわち、石に刻まれた「文字に仕える務め」は、罪を宣告し、呪いを宣告する「死の務め」である。
『文字は人を殺し、霊は人を生かす。もし石に彫りつけた文字による死の務が栄光のうちに行われ、そのためイスラエルの子らは、モーセの顔の消え去るべき栄光のゆえに、その顔を見つめることができなかったとすれば、まして霊の務は、はるかに栄光あるものではなかろうか。もし罪を宣告する務が栄光あるものだとすれば、義を宣告する務は、はるかに栄光に満ちたものである。・・・
いったい、律法の行いによる者は、皆のろいの下にある。「律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず、これを行わない者は、皆のろわれる」と書いてあるからである。律法によっては、神のみまえに義とされる者はひとりもないことが、明らかである。』(ガラテヤ3:6-11)
しかしキリストは、そんな呪いの内に束縛されている私たちを解放するため、自らが十字架上で呪われた者となって下さり、いのちを差し出して、私たちを買い戻して下さった。
『キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。それは、アブラハムの受けた祝福が、イエス・キリストにあって異邦人に及ぶためであり、約束された御霊を、わたしたちが信仰によって受けるためである』(ガラテヤ3:13)。
このように、イエス様を信じる私たちには、律法の呪いからの解放と自由が与えられるのである。
私達キリスト者は、イエス・キリストを信じる信仰によって、アブラハムの子孫である。
文字は殺すのみであり、善悪の羅列は、ただ私達に死を宣告するのみである。なぜなら、私達の肉の内には、律法を守り通せるような性質は無いからだ。
だから、律法には、「いのち」を与える事は出来ないという、致命的な欠陥がある。(ガラテヤ3:21)
しかし主は、律法とは別の救いの道、すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による救いの道を開いて下さった。
この信仰の務めは、死の務めではなく、いのちの務めであり、モーセに与えられた栄光よりも、はるかに優れた、永遠の栄光の務めである。
私達はキリストにあって、それに与っているのである。
礼拝説教メッセージ音声:御言葉と一つとなれ(申命記27:1-8):右クリックで保存
ここでは、イスラエルが約束の地に入っていく際に行うべき事が命じられている。
『あなたがたがヨルダンを渡ってあなたの神、主が賜わる国にはいる時、あなたは大きな石数個を立てて、それにしっくいを塗り、そしてあなたが渡って、あなたの先祖たちの神、主が約束されたようにあなたの神、主が賜わる地、すなわち乳と蜜の流れる地にはいる時、この律法のすべての言葉をその上に書きしるさなければならない。すなわち、あなたがたが、ヨルダンを渡ったならば、わたしが、きょう、あなたがたに命じるそれらの石をエバル山に立て、それにしっくいを塗らなければならない。』(申命記27:2-4)
イスラエルが主が約束して下さった地に入った際には、真っ先に、その地に御言葉の石を建て、これから住むべきその地に、御言葉を刻み付けなければならない。
イスラエルが、御言葉という岩の上に立って定住するためであり、また後々、子孫たちがそれを見て、自分達が主から特別な恩恵を受け、主の御言葉が委ねられている民である事を覚え、そして、そこに記されている御言葉を守り行うためである。
『またそこにあなたの神、主のために、祭壇、すなわち石の祭壇を築かなければならない。鉄の器を石に当てず、自然のままの石であなたの神、主のために祭壇を築き、その上であなたの神、主に燔祭をささげなければならない。また酬恩祭の犠牲をささげて、その所で食べ、あなたの神、主の前で喜び楽しまなければならない。あなたはこの律法のすべての言葉をその石の上に明らかに書きしるさなければならない」。』(申命記27:5-8)
祭壇は、主に捧げものをする所であるが、それは鉄器を使うなどした「人の手」は一切加えてはならない。
主への礼拝は、人が好き勝手に編み出した物事は一切許されておらず、ただ、主の側が提示した方法で捧げなければならないのだ。
この祭壇を建てたなら、まず、そこで燔祭(全焼のいけにえ)を捧げる事が命じられている。
全焼のいけにえは、その人自身が、全身全霊をに捧げる事を意味し、新しく入ったその地において、全てを尽くして主に仕える決意を新たにするのだ。
また、酬恩祭(和解のいけにえ)を捧げる事も命じられている。
和解のいけにえは、神と人と祭司とが同じ食物を食べて、神と人との和解を祝うものである。
以前の神に敵対する罪深き生き方は脱ぎ去って、今や新しい地において、神と和解している事を祝うのだ。
ところがイスラエルのその後の歴史は、神への不従順と処罰と悔い改めの繰り返しとなってしまった。
イスラエルだけでなく、人類全体も、罪と弱さを持っている故に、主が提示する御言葉を守り行う事が出来ないのだ。
そこで主は、人のために、新しい契約を立てられた。
『主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。わたしは彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの契約を破ったと主は言われる。
しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。』(エレミヤ31:31-34)
今、この新しい契約の時代を生きる私達は、イエス・キリストを信じる信仰によって、聖霊が与えられ、その聖霊が私達の内に住み、私達に御言葉を思い起こさせ、御言葉にあって歩めるようにして下さった。
『助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。』(ヨハネ14:26)
主イエスキリストを信じる信仰によって、私達は、御言葉なるキリストと一体となり、その時、もはや私達と御言葉とは別々ではなく、一つである。
『そして、あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。・・・神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。』(2コリント3:3-6)
そしてこの新しい務めは、石の板に記されている「文字に仕える務め」よりも、はるかに栄光のあるものである。
『もし石に彫りつけた文字による死の務が栄光のうちに行われ、そのためイスラエルの子らは、モーセの顔の消え去るべき栄光のゆえに、その顔を見つめることができなかったとすれば、まして霊の務は、はるかに栄光あるものではなかろうか。もし罪を宣告する務が栄光あるものだとすれば、義を宣告する務は、はるかに栄光に満ちたものである。』(2コリント3:7-9)
だから私達は、いつも感謝と喜びの心をもって、この栄光の務めにあずかるべきである。
礼拝説教メッセージ音声:主の宝の民(申命記26:16-19):右クリックで保存
申命記5章から26章までの所では、主が与えられた十戒や律法の再確認的なメッセージが続いていたが、いよいよ、それらの結論的なメッセージに入る。
『きょう、あなたの神、主はこれらの定めと、おきてとを行うことをあなたに命じられる。それゆえ、あなたは心をつくし、精神をつくしてそれを守り行わなければならない。』(申命記26:16)
主は私達に「心をつくし、精神をつくす」姿勢を、すなわち、主を愛し主に敬意をもって御言葉を守り行おうとする心をこそ、求めておられる。
それはちょうど、いかに出来が良くても親を敬わない子よりは、多少出来が悪くても、親を愛し敬う心で両親に聞こうとする子供のほうがかわいいのと同じである。
イスラエルの民は、モーセから示されていた主の教えを、守り、御声に聞き従うと明言した。(申命記26:17)
そして主は、これらの命令を守り行うなら、彼らをご自身の「宝の民」とされると約束された。(同18節)
宝。それは、適当に扱われるようなものではなく丁重に扱うものであり、放っておかれるものではなくいつも気にかけられ、時に取り出しては、眺められ、楽しまれるものである。
私達が、主への愛と敬意をもって、心と思いと力を尽くして御言葉を守り行うなら、ますます主との関係が豊かになり、必要の満たしを主から充分受ける事が出来、主に喜ばれる実を豊かに結ぶようになっていく。
『あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである。』(ヨハネ15:7-10)
主との愛の関係がますます深まると、主に何のわだかまりも無く求める事が出来、そしてそれらが与えられる。
このような、主の「宝の民」としての「特典」を享受するための条件が、本日の箇所に、まさに記されている。
すなわち、私達が心をつくし、精神を尽くして主を愛し、敬い、その御言葉に聞き従い、守り行う事。
そうするなら、主は私達をご自分の宝の民とされ、私達に誉と良き名と栄えとを与えて下さり、すべての国民にまさるものとして下さり、主の聖なる民として下さるのだ。
『主は誉と良き名と栄えとをあなたに与えて、主の造られたすべての国民にまさるものとされるであろう。あなたは主が言われたように、あなたの神、主の聖なる民となるであろう」。』(申命記26:19)
レメクとセツ - 神抜きで生きる子孫と、主を呼ぶ子孫(創世記4:19-24)
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第二礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
神は、カインが犯した殺人と傲慢の罪に対し、彼が示した、僅かばかりの悔いる心に、憐れみで応え、誰もカインを撃つことのないようにと、しるしを与えて下さった。
彼は、その後、主の前から(KJV:主の臨在から)去って、町(城)を建てて住み、その町の名は、自分の子の名にちなんだ名をつけ、そうして子孫を産んで行った。
カインの来孫(らいそん)にあたるレメクは、二人の妻をめとり、家畜を飼う者の先祖・ヤバル、笛と竪琴を巧みに奏する者の先祖・ユバル、青銅と鉄のあらゆる用具の鍛治屋の先祖・トバル・カインとを産んだ。
地が呪われ、農耕ができなくなってしまったカインは、城を建て、結束し、その子孫たちは畜産や芸術、技術などの文明を発達させた。神に頼るのではなく、人々を結束させ、その力に頼って生きるようになった。
しかしそれは、アダムの以来の「いちじくの葉」の進化形に過ぎず、自分の裸を覆うための取り繕いに過ぎない。このいちじくの葉は、代を降るごとに発展し、鎧となり、城壁となり、兵器となって行く。
神抜きの必要の満たし、神抜きの娯楽や慰め、神から離れたテクノロジーの発達は、代を降って行くごとに暴虐さ邪悪さが増し加わって行くのだ。
カインの子孫は、代を重ねるごとに、どのような価値観を培ってきたのか。レメクの言葉から見る事が出来る。
『レメクはその妻たちに言った、「アダとチラよ、わたしの声を聞け、レメクの妻たちよ、わたしの言葉に耳を傾けよ。わたしは受ける傷のために、人を殺し、受ける打ち傷のために、わたしは若者を殺す。カインのための復讐が七倍ならば、レメクのための復讐は七十七倍。」』(創世記4:23-24)
カインを殺す者には七倍の復讐、だったのに、レメクの代では、それが七十七倍に増加している。
少しでも傷を受けたなら、相手を殺す。しかも、その事を妻たちに誇らしげに自慢している。
集結し、城を建ててそこに住み、文明を発達させ、やられたら倍返しする。まるでマフィア同じ性質だ。
神はなぜカインを生かし、カインを殺す者には7倍の復讐を受けるようにされたのか。それは、神の彼に対する憐れみであって、決して倍返しの爽快感を彼に味わわせるためではないし、誇らせるためではない。
それなのに彼は、神様が与えて下さった憐れみを、悪用し、自分のため、人を脅すために用いた。
このように、やられたら何倍にもして返す生き方、共に結束し、力を合わせて文明を発達させる生き方を続けて行くと、やがて地は堕落し、暴虐に満ちて行き、神が心痛めるまでになるのである。(6章)
カインのような者は、すぐにでも滅ぼせば良かったのに、と人は思うかもしれない。しかし、もし神がそのようなお方だったとしたら、人は誰も残っていなかっただろう。
神は、忍耐と赦しに富みたもうお方だからこそ、私達は救われたのだ。
神は、主を呼び求める子孫、すなわち、神と共に歩む子孫をも、備えて下さる。(創世記4:25-26)
カインとは別の、アダムとエバの子「セツ(約束された、倍賞)」の子孫は、主の御名を呼ぶ事をはじめた。
エバに約束された、サタンの頭を踏み砕く「女の子孫」は、彼の系列から生まれる。
世の中がいかに不信仰に満ちようとも、主は、残された民を備えておられるのだ。
私達はカインとセツのうち、属するとしたらどちらに所属して生きたいだろうか?
キリスト者なら「セツ」と答えるのが模範的だろうが、本当にそうだろうか。別の観点から質問しよう。
城を建て、その中で結束して住み、肉を食べ、スタイリッシュな音楽を聞き、発達したテクノロジーの恩恵に与り、力と知恵を集結して文化を発展させ、やられたら7倍返しができる。けれども、神様からは離れた価値観で生きている集団と、そのような神を知らぬ集団からは離れ、主の御名を呼び、主と共に歩む集団。
一体どちらに所属して生きたいだろうか?クリスチャンの中には、「セツの道を選びます」と口先で言いながら、実はカインの道に憧れて、そちらの集団で生きている者は、意外と多いのではないだろうか。
カインの子孫は、やがて水で滅ぼし尽くされ、カインの子孫と結合した神の子達も、同じ運命をたどる。
それは現代を生きる私達も、同じである。
私たちは、主に呼び出された者達、エクレシア(教会)である。私達は主キリストから呼び出されているからには、主の御名を呼ぶ事をやめてはならない。
礼拝説教メッセージ音声:主の命令を守り行った事の報告(申命記26:12-15):右クリックで保存
前回の箇所では、主の側が、私達にどんなに良くして下さったのを告白し、報告すべき事を学んだ。
今回の箇所では、私達の側が、主から与えられた命令をどのように守り行ったかを報告するべき事が、示されている。
『第三年すなわち十分の一を納める年に、あなたがすべての産物の十分の一を納め終って、それをレビびとと寄留の他国人と孤児と寡婦とに与え、町のうちで彼らに飽きるほど食べさせた時、あなたの神、主の前で言わなければならない、『わたしはその聖なる物を家から取り出し、またレビびとと寄留の他国人と孤児と寡婦とにそれを与え、すべてあなたが命じられた命令のとおりにいたしました。わたしはあなたの命令にそむかず、またそれを忘れませんでした。』(申命記26:12-13)
この「十分の一を納める第三年」については、申命記14章で示されている。
その時には、十分の一を町の中に蓄え、それを町の中の在留異国人や孤児など弱い立場の人や、主の働き人であるレビ人に食べさせ、彼らを満足させなければならない、と命じられている。
「そうすれば、あなたの神、主はあなたが手で行うすべての事にあなたを祝福されるであろう。」(申命記14:28-29)
私達は何かと、主から命じられた事を守り行う以前に「祝福を下さい」と祈りがちであるが、祝福が与えられるためには、まず、私達の側が主に敬意を払って、主から命じられた事を守り行う必要がある。
行いの無い信仰は、虚しく、死んだも同然である。
『ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合、あなたがたのうち、だれかが、「安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。』(ヤコブ2:15-16)
働いてもいないのに、給料を「くれ」と求めても、無視されたり、怒られたりするのは当然であるように、主から「こうするならば祝福される」という言葉を無視し、実践しないままに、ただ祝福を「くれ、くれ」と求めても、主から無視されたり、怒られたりするのは、当然である。
しかし、働いたのであれば、給料は当然のように求める事が出来る。
だから私達も、主から命じられた事を、守り行ったのであれば、次のように求める事も正当である。
『わたしはその聖なる物を喪のうちで食べたことがなく、また汚れた身でそれを取り出したことがなく、また死人にそれを供えたことがありませんでした。わたしはわたしの神、主の声に聞き従い、すべてあなたがわたしに命じられたとおりにいたしました。あなたの聖なるすみかである天からみそなわして、あなたの民イスラエルと、あなたがわれわれに与えられた地とを祝福してください。これはあなたがわれわれの先祖に誓われた乳と蜜の流れる地です。』(申命記26:14-15)
主の命令を守り行う事、それは、律法の膨大な「こうせよ/するな」の集大成を記憶して、一つ一つ行ったか・行わなかったに注意する事ではなく、律法を成就して下さったお方・イエス・キリストを、愛をもって信じる事であり(ガラテヤ5:1-6)、この主イエス・キリストに日々導かれて歩む事である。
例えば、「うそをつくな」という御言葉が、特に最近主から示されているのであれば、そのように守り、「憐れみなさい」という御言葉が特に主から示されているのであれば、主にあって努めて憐れむ事。
そのように、都度、御言葉に導かれている通りに歩んで行けば良いのである。
『キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。』(ガラテヤ5:6)