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メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
ロゴスとレーマ(マタイ8:14-17):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
善悪の目を凝らして見る事ののろい(伝道者の書2:12-17):右クリックで保存

【概要】

今日のメッセージは、伝道者の書2章12節から17節を通して、知恵と愚かさ、そして人生の虚しさについて考察します。ソロモンが感じた虚しさを通して、私たちがどのように永遠の視点を持つべきかを探ります。

【聖書箇所】

  • 伝道者の書2章12節から17節

  • 創世記3章4節から7節

  • 黙示録20章11節から15節

  • 第2コリント5章7節から10節

【慰めの言葉】

イエス・キリストを信じる者は、その行いも地上でのことも決して虚しくなることはありません。

【励ましの言葉】

私たちは見えるところによってではなく、信仰によって歩むべきです。

【戒めの言葉】

目で見ること、じっと見ること、それは諸悪の根源であることを覚えてください。

【勧めの言葉】

信仰の創始者であり、完成者であるイエス様から目を離さないでください。

【悔い改めの促しの言葉】

この世の虚しさに陥ることなく、永遠の視点を持ち続けましょう。

【***詳細***】

今日の箇所である伝道者の書2章12節から17節では、ソロモンが知恵と愚かさを振り返り、人生の虚しさを感じています。「私は振り返って、知恵と狂気と愚かさとを見た。一体、王の後を継ぐ者も、既になされたことをするのに過ぎないではないか。」と彼は言います。知恵ある者も愚かな者も、結局は同じ結末に行き着くと彼は悟ります。

この虚しさの原因は、創世記3章にあるように、アダムとエバが善悪の知識の木の実を取って食べたことに始まります。「そこで蛇は女に言った。あなた方は決して死にません。あなた方がそれを食べるその時、あなた方の目が開け、あなた方が神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」このようにして人間の目が開かれ、愚かさが入り込んでしまいました。

ソロモンはこの世の知恵と愚かさを見つめ、虚しさを感じました。しかし、私たちは知っています。死の向こう側に永遠があることを。黙示録20章では、最終的な裁きが描かれています。「また、私は死んだ人々が大きいものも小さいものもミザの前に立っているのを見た。そして数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは命の書であった。」

私たちは見えるところによってではなく、信仰によって歩むべきです。第2コリント5章には、「確かに私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。」とあります。私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。

【結論】

ソロモンが感じた虚しさは、目で見ることに依存することから来ています。しかし、私たちは信仰によって歩むことが求められています。イエス・キリストを見つめ、永遠の視点を持ち続けることで、この地上での歩みが決して虚しくないことを実感できます。どうか、信仰の創始者であり完成者であるイエス様から目を離さず、祝福された歩みを続けていきましょう。アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:親が子の肉を食う程の食糧難(申命記28:49-57):右クリックで保存

それでも主の御声に聞き従わず、頑なに自分のやりたい事、自分の行きたい道を貫こうとする者には、さらに激しいのろいが示されている。
『主は、遠く地の果てから、わしが飛びかかるように、一つの国民にあなたを襲わせる。その話すことばがあなたにはわからない国民である。その国民は横柄で、老人を顧みず、幼い者をあわれまず、あなたの家畜の産むものや、地の産物を食い尽くし、ついには、あなたを根絶やしにする。彼らは、穀物も、新しいぶどう酒も、油も、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊も、あなたには少しも残さず、ついに、あなたを滅ぼしてしまう。』(申命記28:49-51)
この事は、イスラエルの歴史で実際に起こった。
ずっと後の時代、北イスラエル王国はアッシリアに、南ユダ王国はバビロン王国に攻め落とされ、散らされ、鉄の枷に繋がれて、連れて行かれた。

『その民は全国ですべての町を攻め囲み、ついにあなたが頼みとする、堅固な高い石がきをことごとく撃ちくずし、あなたの神、主が賜わった国のうちのすべての町々を攻め囲むであろう。あなたは敵に囲まれ、激しく攻めなやまされて、ついにあなたの神、主が賜わったあなたの身から生れた者、むすこ、娘の肉を食べるに至るであろう。』(申命記28:52-53)
これ程の深刻な食糧難は、預言者エリシャの時代のサマリヤに、バビロン捕囚前後のイスラエルに、そして、イエス様を十字架につけた直後のイスラエルにおいて実際に起こった。
その時の人々の霊的状況や、主に対する態度はどのようであったのか、2列王記6−7章から知ることが出来る。

『この後スリヤの王ベネハダデはその全軍を集め、上ってきてサマリヤを攻め囲んだので、サマリヤに激しいききんが起った。すなわち彼らがこれを攻め囲んだので、ついに、ろばの頭一つが銀八十シケルで売られ、はとのふん一カブの四分の一が銀五シケルで売られるようになった。』(2列王記6:24-25)
銀一シケルは、日当の3〜4倍相当であるから、食料価格のとてつもない暴騰である。

そのような時、ある女が王に訴えをした。
『「この女はわたしにむかって『あなたの子をください。わたしたちは、きょうそれを食べ、あす、わたしの子を食べましょう』と言いました。それでわたしたちは、まずわたしの子を煮て食べましたが、次の日わたしが彼女にむかって『あなたの子をください。わたしたちはそれを食べましょう』と言いますと、彼女はその子を隠しました」。』(同28-29節)
まさに、次の御言葉の、文字通りの成就である。
『あなたがたのうちのやさしい、柔和な女、すなわち柔和で、やさしく、足の裏を土に付けようともしない者でも、自分のふところの夫や、むすこ、娘にもかくして、自分の足の間からでる後産や、自分の産む子をひそかに食べるであろう。敵があなたの町々を囲み、激しく攻めなやまして、すべての物が欠乏するからである。』(申命記28:56-57)

この女の王への訴えとしては、約束した通り行使しなかったのだから、当初の約束の通りに、相手の女の子供を食わせて欲しい、という事であろうが、内容が内容である。
このような常軌を逸した内容を、それも、恥も外聞も無しに、大勢の前で、城壁を歩いている王に向かって大声で訴えている。
もはや、人間性のかけらもない状態である。

『王はその女の言葉を聞いて、衣を裂き、――王は城壁の上をとおっていたが、民が見ると、その身に荒布を着けていた―― そして王は言った「きょう、シャパテの子エリシャの首がその肩の上にすわっているならば、神がどんなにでもわたしを罰してくださるように」。』(同30-31節)
彼は荒布を着けていて、外見上は、あたかも悔い改めて身を慎んでいるかのように見えるが、この王の言葉は、注目に値する。
その言っている事は外面の装いとは真逆で、神の遣わされた預言者エリシャは殺すべし、と言っているのだ。
御言葉に照らすなら、自分の衣を裂くより、むしろ、自分達が神の御言葉に背いた事を悔い、臣下にこのような不幸を招いてしまった事を、心を裂いて悔い改めるべきなのに、それをせず、むしろ、災いを預言した預言者が悪い、あんな預言をするから、この国にこんな悲惨が起きただ、だから殺してやる、という考えなのだ。

また、王の使者もエリシャに言っている。
「この災は主から出たのです。わたしはどうしてこの上、主を待たなければならないでしょうか。」(同33節)
自分達は主に幸いを期待していたのに、でも来たのは、こんなにも非道い災いだ、一体主に、何を期待できようか、という考えなのだ。

思い出して欲しい。祝福が与えられるためには条件があり、順序があった事を。
主から幸いが与えられるためには、順序として、まず人の側がしなければならない事がある。すなわち、主の御声によく聞き従い、主の全ての命令を守り行なう、という”条件”を、人の側が満たしたなら、主はその人に幸いを与えられる。(申命記28:1)
しかし、主の御声に聞き従わず、主の全ての命令とおきてを守り行う事をいつまでも保留し、行なわないのであれば、申命記28章15節以降に記されている全ての呪いが臨む、と、モーセは既に何百年も前から条件開示している。(同15節)

『エリシャは言った、「主の言葉を聞きなさい。主はこう仰せられる、『あすの今ごろサマリヤの門で、麦粉一セアを一シケルで売り、大麦二セアを一シケルで売るようになるであろう』」。時にひとりの副官すなわち王がその人の手によりかかっていた者が神の人に答えて言った、「たとい主が天に窓を開かれても、そんな事がありえましょうか」。エリシャは言った、「あなたは自分の目をもってそれを見るであろう。しかしそれを食べることはなかろう」。』(2列王記7:1-2)
王の副官もまた、「主はそんな事はなさらない」と”不信仰告白”をしている。
そのような主に期待しない心の持ち主は、主が顧みて下さり恵んで下さる”わざ”は目にしても、それを享受する事は出来ないのである。

この時代のサマリヤは、預言者に示された主の御声に聞き従わず、かえって預言者を殺そうとするような霊的状態だったからこそ、親が子の肉を食べるまでの食糧難に陥ってしまった。
バビロン捕囚直前のイスラエルも、預言者エレミヤに示された主の御声に聞き従わず、その手紙を破って火にくべ、預言者を迫害したからこそ、そこまでの食糧難に陥った。
そしてイエス様の時代、神が御子キリストを直接使わして、御国の福音を語ったにもかかわらず、人々は悔い改めるどころか、逆に御子を退け、外に追い出し、十字架につけて殺してしまった。
だからこそローマ帝国に攻められ、イスラエルは、城壁も神殿も石が一つも積み上がっていない程にまで崩され、マサダの要塞に立て籠もったユダヤ人達は、深刻な食糧難の末に、壮絶な最後を遂げた。

いずれの時も、御言葉への不従順を繰り返し、主から遣わされた預言者の言葉を拒否し、迫害したり、殺したりしたからこそ、このような悲惨な事態に陥ったのだ。
私達もそうならないためには、主への不従順は速やかに捨て、頑なさを捨て去るべきである!
御言葉によって悔い改めが促されたら、すぐにでも自分を下ろし、悔い改め、御言葉に従順し、速やかに幸いを得る皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:「働けど働けどわが暮らし楽にならざり」に陥る人(申命記28:36-48):右クリックで保存

御声に聞き従わず、御言葉を守り行わない者が受けるべき「のろい」の数々が示されているが、それらを受けても、なお自分の道を曲げず、主に立ち返らない人へののろいは、さらにひどくなって行く。

『主はあなたとあなたが立てた王とを携えて、あなたもあなたの先祖も知らない国に移されるであろう。あなたはそこで木や石で造ったほかの神々に仕えるであろう。あなたは主があなたを追いやられるもろもろの民のなかで驚きとなり、ことわざとなり、笑い草となるであろう。』(申命記28:36-37)
こののろいは、何百年も後に現実のものとなってしまった。有名なバビロン捕囚である。
詩篇137篇は、一人のユダヤ人が、バビロンで余興のネタにされ、笑い草にされている様が、示されている。
モーセは、もし主の民が、主の御声に聞き従わない事を続けているなら、このようになってしまう事を、何百年も前から警告していたのに、人々はきっと、それらの御言葉を、何か大げさなおどしだとか、誰かが気まぐれに書いたものだとか、思っていたのかもしれない。実際、聖書をそのように評価している人は、いる。
しかし、そのように御言葉を軽んじている人には、実際に、これらののろいが振りかかってしまうのだ。

『あなたが多くの種を畑に携えて出ても、その収穫は少ないであろう。いなごがそれを食いつくすからである。あなたがぶどう畑を作り、それにつちかっても、そのぶどう酒を飲むことができず、その実を集めることもないであろう。虫がそれを食べるからである。あなたの国にはあまねくオリブの木があるであろう。しかし、あなたはその油を身に塗ることができないであろう。その実がみな落ちてしまうからである。
むすこや、娘があなたに生れても、あなたのものにならないであろう。彼らは捕えられて行くからである。あなたのもろもろの木、および地の産物は、いなごが取って食べるであろう。』(申命記28:38-42)

御声を無視し御言葉に反する人は、ますます収入が少なくなる。なぜなら、彼らが稼いだ労役の実は、全て、虫や他人に持って行かれてしまったり、立ち消えしてしまうからだ。
まさに、「働けど働けど、わが暮らし楽にならざり」状態である。

ちなみに、「働けど働けど、わが暮らし楽にならざり」の歌を作った石川啄木は、曹洞宗住職の家の生まれである。
働いても一向に暮らしは楽にならず、お金を借りる事はあっても、貸す事は無く、病弱で、早死にし、子を産んでも三代続かずに家が絶えてしまった彼の家は、残念ながら、偶像礼拝をしている人はこのようになる、という聖書の法則が、まさしく実体化してしまった形だ。
多くの日本人は、彼のこの歌に共感を覚える。働いても働いても楽にならない事が多いからだが、残念ながら、偶像礼拝をしている限り、聖書が示す呪いの法則から逃れる術は、ない。
唯一救われる道が、悔い改めてイエス様を信じる事だ。
私達はこの偶像崇拝の多い日本という国に使わされている者としてうめき、祭司として執り成し祈るべきだ。

『あなたのうちに寄留する他国人は、ますます高くなり、あなたの上に出て、あなたはますます低くなるであろう。彼はあなたに貸し、あなたは彼に貸すことができない。彼はかしらとなり、あなたは尾となるであろう。』(申命記28:43-45)
これは12-13節の逆である。
主に聞き従わず、あくまで自分の好む道に固執するなら、人に借りるばかりで返す事が出来ず、いつも下っ端で、いつまでも上に上がる事はできないのだ。

なぜ、これらののろいが降りかかるか。
その理由は、既に何度も聞かされている通り、主の声に聞き従わず、主から命じられた戒めと定めとを守らなかったからである。(申命記28:15,45)

『あなたがすべての物に豊かになり、あなたの神、主に心から喜び楽しんで仕えないので、あなたは飢え、かわき、裸になり、すべての物に乏しくなって、主があなたにつかわされる敵に仕えるであろう。敵は鉄のくびきをあなたのくびにかけ、ついにあなたを滅ぼすであろう。』(申命記28:47-48)
物が豊かになる事を、祈り求める人は、多い。
しかし、たとえその祈りが聞かれて、物が豊かに与えられたとしても、その人に、主への感謝が無く、主を喜ぶ感性が無いなら、何もならない。
主は逆に、そのような人を、飢えさせ、渇かせ、裸にし、すべての物に乏しくし、敵に仕えるようになり、ついには滅ぼされる。
なぜなら、私達にとって重要な人生の目的は、持ち物が豊かになる事ではなく、全ての祝福の源であり、全てのいのちの源であられる主と、愛と喜びの関係を築く事だからである。

礼拝説教メッセージ音声:皮膚病、錯乱、負け続け、奪われ続ける呪い(申命記28:25-35):右クリックで保存

御胸に逆らって歩む者、すなわち、御声に聞き従わず、御言葉を守り行わない者の受けるべき「のろい」は、実に惨憺たるものばかりだった。
しかし、それらを受けても、なお自分の道を曲げず、主に立ち返らない人に対するのろいは、まだまだ続く。

『主はあなたを敵の前で敗れさせられるであろう。あなたは一つの道から彼らを攻めて行くが、彼らの前で七つの道から逃げ去るであろう。そしてあなたは地のもろもろの国に恐るべき見せしめとなるであろう。またあなたの死体は空のもろもろの鳥と、地の獣とのえじきとなり、しかもそれを追い払う者はないであろう。』(申命記28:25)

これは7節「彼らは一つの道から攻めて来るが、あなたの前で七つの道から逃げ去る」の、真逆である。
主の御言葉に逆らう人は、敵に勝つ事は出来ない。
それも、「一つの道から彼らを攻めて行くが、彼らの前で七つの道から逃げ去る」と、実に”派手”な負けっぷりをし、その死体はさらされ、野の獣や猛禽類についばまれてしまう。
列王記や歴代誌を見ると、実際にイスラエルの歴史で、この事は何度もあった事が分かる。

『主はエジプトの腫物と潰瘍と壊血病とひぜんとをもってあなたを撃たれ、あなたはいやされることはないであろう。』(申命記28:27)
主が病で体を打つ時、皮膚に疾患を現す事が、多い。

その人の外見や皮膚にありありと現れる症状を、人が見る時、この人はやはり、その強情を捨てなかった報いを、主から受けたのだな、と、分かるのである。
実際、ミリヤムやウジヤ王は、主が立てた権威や指導者に逆らった時に、すぐにツァラアト(らい病)が現れ、それを見た人達にとって戒めとなった。

もちろん、これらの症状が出た人イコール御言葉に反した人とは限らないが、御言葉を軽んじ、主に逆らい続ける人には、100%、何かしらののろいの兆候が現れる事は間違いない。
そういう人は、外見的な疾患だけでなく、心の疾患にも侵される。

『また主はあなたを撃って気を狂わせ、目を見えなくし、心を混乱させられるであろう。あなたは盲人が暗やみに手探りするように、真昼にも手探りするであろう。』(申命記28:28-29)
彼らは、真理に対して目が見えなくなるため、本質を外した歩みに陥り、何をしても、とんちんかんであり、常に何かに怯えている。
サウル王は、頑なな道を改めなかったため、主からの悪い霊にいつも怯え、狂ったような行いをした。

御声に聞き従わず、御言葉を守り行わない者は、いかに物持ちであったとしても、ただただ人にかすめ奪われるのみである。
具体的には、自分の愛する異性や伴侶が奪われ、自分の住まいが奪われ、仕事場が奪われ、また、働いて蓄えた資産が奪われ、そして、自分の愛する息子や娘が、目の前でどんどん他人に奪われていくのに、それをただ見ているだけで、どうする事もできず、ついには、それらを慕い求めて狂うまでになる、と書かれてある。(申命記28:29-34)

『主はあなたのひざと、はぎとに悪い、いやし得ない腫物を生じさせて、足の裏から頭の頂にまで及ぼされるであろう。』(申命記28:35)
足の先から頭のてっぺんまで、癒しがたい腫物のために、特に、膝や脚が打たれるのだ。

もし、これらの疾患や災いが続き、栄える事なく、負け続け、ただ奪われているサイクルに陥っているなら、今一度、御言葉に照らし合わせ、御声に聞き従わない所が無かったか、御言葉を守り行わなかった所は無かったか、自分自身を省みるべきである。

主日の礼拝や、主への捧げ物、聖徒の交わりを、軽視していなかったか。
主を敬うと言いつつも、周囲に妥協し、偶像や占いの類を自分の所に持ち込んでいないか。
父や母を軽んじていないか。憎んでいないか。
性的な罪なや、盗む事、うそをつく事などが、日常的になっていないか。
兄弟姉妹を赦さず、執拗に憎しみを握りしめていなかったか。
あるいは、かつて主から「この道を行け」と示されていたのに、それを嫌がって、自分のしたい道に歩んだままではなかったか。

自分は祝福と呪いのどちらを受けているか、という問がある時、呪いのほうを受けている、と思い当たる人は、今一度、御言葉に照らすべきである。
主に対する姿勢が正しいか、御心にかなった道を正しく歩んでいるかをチェックし、思い当たる御言葉が示されたなら、すぐにでも、主の怒りを引き起こすものを捨て去り、道を改めるアクションを起こすべきである。

礼拝説教メッセージ音声:のろいの条件(申命記28:15-24):右クリックで保存

『しかし、あなたの神、主の声に聞き従わず、きょう、わたしが命じるすべての戒めと定めとを守り行わないならば、このもろもろののろいがあなたに臨み、あなたに及ぶであろう。』(申命記28:15)

申命記28章の15節以降、68節までは、御胸に逆らって歩む者が受ける「のろい」の明細が、こと細かに記されている。
祝福されるための条件は、実にシンプルだったが、その逆の、呪われるための条件も、実にシンプルで、それは、御声に聞き従わない事、御言葉を守り行わない事である。

『あなたは町のうちでものろわれ、畑でものろわれ、あなたのかごも、こねばちものろわれ、あなたの身から生れるもの、地に産する物、牛の子、羊の子ものろわれるであろう。あなたは、はいるにものろわれ、出るにものろわれるであろう。』(申命記28:16-19)
御声に聞き従わず、御言葉を守り行わない人は、都会に住んでも、田舎に戻って住んでも、栄える事なく、自分や家族、家畜のいのちにおいて、何かしらの支障があり、また、台所事情においても、出入りにおいても、栄える事が無い。

『主はあなたが手をくだすすべての働きにのろいと、混乱と、懲らしめとを送られ、あなたはついに滅び、すみやかにうせ果てるであろう。これはあなたが悪をおこなってわたしを捨てたからである。』(申命記28:20)
呪われている人の、大きな特徴の一つは、混乱している事である。
そのような人は、何かととんちんかんな言動をして、的を射ず、その働きも、労多くして益少ない。それでいて、何で自分がいつもそうなのか、わかっていないのである。

『主は疫病をあなたの身につかせ、あなたが行って取る地から、ついにあなたを断ち滅ぼされるであろう。主はまた肺病と熱病と炎症と間けつ熱と、かんばつと、立ち枯れと、腐り穂とをもってあなたを撃たれるであろう。これらのものはあなたを追い、ついにあなたを滅ぼすであろう。』(申命記28:21-22)

呪われている人の特徴の、もう一つは、病や災いにつきまとわれる事である。
災いや病が、ストーカーのように追いかけて来るので、一難去っても、また一難が連続する人生である。
いつまでのろいが追いかけて来るか。それは、打たれて滅ぼされるまで、と22節に書いてある。
それらからの、唯一の脱出方法は、のろいの条件の逆を行う事、すなわち、主に立ち返って御声に聞き従い、御言葉を守り行うしか無い。

『あなたの頭の上の天は青銅となり、あなたの下の地は鉄となるであろう。主はあなたの地の雨を、ちりと、ほこりに変らせ、それが天からあなたの上にくだって、ついにあなたを滅ぼすであろう。』(申命記28:23-24)

イスラエルが、民族的に主から離れ去っていた時は、大体、かんばつや飢饉に悩まされた。
現代でも、頑なになって主の御声に聞き従わない人に対しては、その人にとっての天も、地も、頑なになって、恵みを降らせず、いのちを生じさせないのだ。
それでも主に立ち返らない人に与えられる呪いの明細は、まだまだ続く。
ここまでさんざんな目に遭うとしたら、さっさと頑なさを捨て去って、主に立ち返るほうが得だ、と思うであろうが、頑なな人は、それでもまだ懲りず、自分のしたいように生きたいものである。

エノク – 邪悪な世で死を免れた預言者(創世記5:19-24)
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第二礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
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カインの子孫は、城を建てて集結し、文明を発達させ、やられたら何倍にもして仕返しする性質によって勢力を伸ばして行った。そのような者達が増え栄えて行くと、地は堕落し、暴虐に満ちて行ってしまう。
そんな彼らを、神はすぐに裁く事はせず、神に従う子孫、すなわち、主の御名を呼び求め祈る子孫達を備え、彼らを通して全世界の人々に御言葉を伝え、平和の内に、人々を神に立ち返らせようとした。
主のその方法は、昔も今も全く同じである。主は、裁きよりも憐れみを、滅びよりも救いを望まれるからだ。
今回はそのように、主の預言者として用いられ、愛され、死を見なかった人・エノクについて見て行きたい。

エノクが他の人達と違う所は、「エノクは神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった」点である。エノクは、信仰によって、神に喜ばれていた。(ヘブル11:5)『信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。』(同6節)
エノクのように、裁きの日の前に、神に取られ、天に引き上げられ、死を見る事が無い人は、確かにいる。
イエス・キリストを信じる人は、決して滅びる事がなく、永遠のいのちを持つ。(ヨハネ6:50、11:26)
エノクは、その型である。すなわち、信仰によって永遠のいのちへと移される人の型なのだ。

彼のもう一つの性質は”預言者”であり、不信心な世代に対し警鐘を鳴らした。『アダムから七代目のエノクも、”彼ら”について預言してこう言っています。「見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる。すべての者にさばきを行ない、不敬虔な者たちの、神を恐れずに犯した行為のいっさいと、また神を恐れない罪人どもが主に言い逆らった無礼のいっさいとについて、彼らを罪に定めるためである。」』(ユダ14,15節)
エノクは、当時のカイン系列の不信心な”彼ら”に、そのように預言した。その”彼ら”とは、どういう性質か。
『彼らはぶつぶつ言う者、不平を鳴らす者で、自分の欲望のままに歩んでいます。その口は大きなことを言い、利益のためにへつらって人をほめるのです。』(同16節)
私達も、ぶつぶつ言う者、不平を鳴らす者、自分の欲望のままに歩む者、大きなことを言う者、利益のためにへつらって人をほめる者には、御言葉を宣言して戒めるのだ。それ以上の事は、するべきではない。
カインの子孫のような者達を見る時、怒ったり、思い煩ったり、悩んだり、苦しんだりしがちだが、そのようにして、心と思いを汚してはならない。
聖なる御言葉を宣言し、跡の裁きは、主に委ね、自分はただ、聖なる御言葉に心と思いを向けるべきだ。

ユダ書に共通して示されている事は、裁きは主がなさる事、その主に委ねよ、自分で何かを行うな、である。
主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日の裁きのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められた。(6節) また、ソドムとゴモラのように、好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めた者達を、永遠の火の刑罰を受けさせ、みせしめにした。(7節)
また、御使いのかしらミカエルは、悪魔と論じ言い争った時、相手を罵り裁くような事はせず、「主があなたを戒めてくださるように」とだけ言って、後の裁きは主に委ねた。ミカエルは悪魔より強いにもかかわらず、主の裁きの時でないなら、自分の力を行使しなかった。そして、エノクも、「主は裁かれる」と言った。
私達聖徒が身につけるべきたしなみは、ユダ書17節以降に記されている。
私達は、主に愛された者として、いつも御言葉を思い出すべきである。
今の終わりの時、不自然な欲望のままに振舞う”あざける者”が現われる。彼らは御霊を持たず、分裂を起こす”肉の人”であるが、私達は、聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、神の愛のうちに自分自身を保ち、主イエス・キリストのあわれみを待ち望むべきである。(17-21節)
疑いを抱く「人々」は、あわれむべきであって、憎むべきではない。彼らを火の中から掴み出して救い、それでいて、肉によって汚された「行い」は、徹底して忌み嫌うのだ。(22-23節)
この邪悪な時代にあって、カインのような者には、御言葉をただ宣言し、そして自身は、聖なる御言葉に浸され、清められ、愛の内に命を養われる皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:祝福の明細(申命記28:7-14):右クリックで保存

主の御言葉に聞き従い、守り行ったなら、どんな祝福があるのか。今回の箇所には、その明細が記されている。

『敵が起ってあなたを攻める時は、主はあなたにそれを撃ち敗らせられるであろう。彼らは一つの道から攻めて来るが、あなたの前で七つの道から逃げ去るであろう。』(申命記28:7)
まずは、勝利の祝福である。この勝利の約束は、聖書の他の至る所にある。
『もしあなたがたがわたしの定めに歩み、わたしの戒めを守って、これを行うならば、・・・あなたがたは敵を追うであろう。彼らは、あなたがたのつるぎに倒れるであろう。あなたがたの五人は百人を追い、百人は万人を追い、あなたがたの敵はつるぎに倒れるであろう。』(レビ記26:3-8)
実際聖書は、少数主に忠実な信仰の精鋭たちが、強大な敵に立ち向かい、大勝利した記録が多い。(創世記14章、民数記31章、士師記7章、1サムエル14章、2歴代誌20章、他多数)
主の御心に反している軍がいかに強大であろうと、主の御心に適っている軍がいかに弱小に見えようとも、両者が戦うとしたら、必ず後者が勝つ。
主の民にとって、戦いは、人数や知恵、力よりも、御言葉に聞き、守り行っているかどうかが遥かに大事なのだ。

また主は、主の民の周りの被造物に対し祝福を「命じ」られる。
『主は”命じて”祝福をあなたの倉と、あなたの手のすべてのわざにくだし、あなたの神、主が賜わる地であなたを祝福されるであろう。』(申命記28:8)
『「七年目に種をまくことができず、また産物を集めることができないならば、わたしたちは何を食べようか」とあなたがたは言うのか。わたしは”命じて”六年目に、あなたがたに祝福をくだし、三か年分の産物を実らせるであろう。あなたがたは八年目に種をまく時には、なお古い産物を食べているであろう。九年目にその産物のできるまで、あなたがたは古いものを食べることができるであろう。』(レビ記25:20-22)

主は「光よあれ」と命じられて光を創造し、光だけでなく、御口から出る言葉によって全てのものを創造し、完成されたお方である。
だから私達は、主の命令に従って歩むなら、この全被造物の中を歩む全行程において、全てが追い風、全てが順風満帆となる。しかし、主の命令に逆らうなら、この被造物世界において、全てが向かい風、波乱万丈、四面楚歌、踏んだりけったりなのである。

『もし、あなたの神、主の戒めを守り、その道を歩むならば、主は誓われたようにあなたを立てて、その聖なる民とされるであろう。そうすれば地のすべての民は皆あなたが主の名をもって唱えられるのを見てあなたを恐れるであろう。』(申命記28:9-10)

私達が主の御言葉を守り行うなら、主の名が記された民として、全ての人々に知られる。
自分の所有物に、自分の名を記したなら、他人はおいそれと手出し出来ないし、それを盗んだり破損したりするなら、賠償請求したり訴えたり堂々と出来て当然である。
だから、主の名が記された私達に、もしサタンが勝手に病や貧しさ、災いなどを振りかけるのは、不当であり、主イエスの御名によって堂々と訴え、賠償請求できるのは当然だ。
主イエスの名によって、主の名がつけられている私達に、病や貧しさ、災いなどは、相応しくない。なぜなら主は完全で健やかな方であり、富んでおられ、祝福の源であられるお方だからだ。
私達が主の御言葉に留まるなら、主の名を用いて、欲しいものはなんでも求める事が出来るのである。(ヨハネ15:7)

『主があなたに与えると先祖に誓われた地で、主は良い物、すなわちあなたの身から生れる者、家畜の産むもの、地に産する物を豊かにされるであろう。主はその宝の蔵である天をあなたのために開いて、雨を季節にしたがってあなたの地に降らせ、あなたの手のすべてのわざを祝福されるであろう。あなたは多くの国民に貸すようになり、借りることはないであろう。』(申命記28:11-12)

既に何度も言われている通り、主に聞き従い、命令を守り行うなら、いのちも、大地の実りも、豊かに祝福され、それも、春の収穫物の脱穀が秋まで続き、秋の収穫物の取り入れが、穀物の種まきの時期まで、ずっと続く程の収穫で満たされ、穀物倉が空になる事はあり得ず、新しい収穫物が入る頃には、倉庫に余った古い収穫物は捨てるほどまでの祝福である。
『もしあなたがたがわたしの定めに歩み、わたしの戒めを守って、これを行うならば、わたしはその季節季節に、雨をあなたがたに与えるであろう。地は産物を出し、畑の木々は実を結ぶであろう。あなたがたの麦打ちは、ぶどうの取入れの時まで続き、ぶどうの取入れは、種まきの時まで続くであろう。あなたがたは飽きるほどパンを食べ、またあなたがたの地に安らかに住むであろう。・・・あなたがたは古い穀物を食べている間に、また新しいものを獲て、その古いものを捨てるようになるであろう。』(レビ記26:3-10)

そういう訳で、主の御言葉に聞き従い、それを守り行う事は、まさしく「至れり尽くせり」「良いことづくし」である。
『主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせられないであろう。あなたはただ栄えて衰えることはないであろう。きょう、わたしが命じるあなたの神、主の戒めに聞き従って、これを守り行うならば、あなたは必ずこのようになるであろう。きょう、わたしが命じるこのすべての言葉を離れて右または左に曲り、他の神々に従い、それに仕えてはならない。』(申命記28:13-14)

主を軽んじ、主の御声に聞き従わず、主の命令を守り行わないなら、「至れり尽くせり」の逆、ふんだり蹴ったりの呪いが下る。それは次回以降、詳細に見て行きたい。
どうして私達は、主の御言葉に聞き従わないような、主の命令を守り行わないような「愚か」を、「損」を、演じ続けられようか。

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あなたの旅程を書き記せ(民数記33章):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
愚かさを敢えて身につける愚かさ(伝道者の書2:1-11):右クリックで保存

【概要】

今日のメッセージは、伝道者の書2章1節から11節を通して、快楽の虚しさと神に従うことの重要性について考えます。

【聖書箇所】

伝道者の書2章1節から11節

【戒めの言葉】

快楽を追求することは虚しいものであり、神から離れることは愚かさに繋がります。

【勧めの言葉】

神を主とし、神の導きに従うことで、永遠の喜びと平安を得ることができます。

【***詳細***】

伝道者の書2章1節から11節には、ソロモンが快楽を追求した結果、すべてが虚しいと感じたことが記されています。彼は心の中で「さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。」と考えましたが、結局それも虚しいことだと悟りました。ソロモンは知恵によって導かれていたにもかかわらず、葡萄酒で体を元気づけ、愚かさを身につけようとしました。

彼は事業を拡張し、邸宅を建て、葡萄畑を設け、庭と園を作り、あらゆる快楽を追求しました。しかし、彼が手に入れたものは虚しさだけでした。ソロモンは「私の目の欲するものは何でも拒まず、心の赴くままにあらゆる楽しみをした」と言っていますが、最終的には「すべてが虚しいことよ。風を追うようなものだ。」と結論づけています。

この箇所から学べることは、神から離れた快楽の追求は虚しいものであり、最終的には何も残らないということです。ソロモンは知恵を持ちながらも、愚かさを選び、快楽に溺れました。その結果、彼は虚しさを感じ、神の前に戻ることの重要性を悟りました。

詩編16編11節には「あなたは私に命の道を知らせてください。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には楽しみが常しえにあります。」とあります。神の御前には永遠の喜びと楽しみがあります。世の快楽は一時的であり、神の与える喜びとは比べ物になりません。

私たちは、ソロモンのように愚かさを選ぶのではなく、ダビデのように神を主とし、神の導きに従うべきです。ダビデは「私はいつも私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私は揺るぐことがない。」と告白しています。神を前に置くことで、私たちは揺るぐことなく、永遠の喜びを得ることができます。

【結論】

快楽を追求することは虚しいものであり、神から離れることは愚かさに繋がります。私たちは神を主とし、神の導きに従うことで、永遠の喜びと平安を得ることができます。ソロモンのように愚かさに溺れることなく、ダビデのように神を前に置き、神の道を歩むことを選びましょう。

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