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メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:占領国の女性を妻とする時(申命記21:10-17):右クリックで保存

歴史を見ると、戦勝国は占領国の女性をほしいままに蹂躙する事が多いが、モーセはそのような事を許さず、捕虜の扱いにも、理性と秩序を命じている。
『あなたが出て敵と戦う際、あなたの神、主がそれをあなたの手にわたされ、あなたがそれを捕虜とした時、もし捕虜のうちに美しい女のあるのを見て、それを好み、妻にめとろうとするならば、その女をあなたの家に連れて帰らなければならない。女は髪をそり、つめを切り、また捕虜の着物を脱ぎすてて、あなたの家におり、自分の父母のために一か月のあいだ嘆かなければならない。そして後、あなたは彼女の所にはいって、その夫となり、彼女を妻とすることができる。』(申命記21:10-13)

占領国の捕虜の女性を、妻としてめとる場合は、いきなり妻にしてはならず、彼女が自分の父や母のために泣く期間を1ヶ月与えるよう命じている。
悲しみの感情を正常に吐露する期間を設けぬまま迎え入れるなら、彼女は傷を残したまま来る事となり、彼女にとっても、家にとっても、災いの元となってしまう。

この場合、女性は髪を剃り、爪を切る。
長い髪は女性にとって栄光で(1コリント11:15)、爪も、女性の美しさをアピールする所であるが、その美しさを一旦剥ぎ取る事によって、男性は理性的にその女性を見る事が出来る。
その1ヶ月の間、男性は、美しさを剥がれた女性の、より本質的な姿を見ることが出来、その期間に、やはり妻にはしないほうが良いと思うようになるかもしれないし、ますます妻にしたいと思えるようになるかもしれない。
たとえ結婚はやめようという事になっても、お互い、いらぬ傷を受ける事から免れるし、貞潔を守る事にもなる。
出会ったばかりの男女は、何かと相手が魅力的に映り、結婚を急ぎがちになるものだが、このように、ある程度の冷静かつ客観的に互いを知る期間を設ける事は、互いの将来に有益なものとなる。

そうして結婚した後、もし、その女性と離婚するという事になった場合も、その女性は、奴隷としてどこかに売りつける事はしてはならず、自由人として去らせるよう命じている。(申命記21:14)

モーセは離婚をゆるしているが、元々、離婚は神の御心ではない。
『イエスは答えて言われた、「あなたがたはまだ読んだことがないのか。『創造者は初めから人を男と女とに造られ、そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』。彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」。
彼らはイエスに言った、「それでは、なぜモーセは、妻を出す場合には離縁状を渡せ、と定めたのですか」。イエスが言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、妻を出すことを許したのだが、初めからそうではなかった。そこでわたしはあなたがたに言う。不品行のゆえでなくて、自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行うのである」。』(マタイ19:4-9)

モーセが離婚を許したのは、人がかたくななので、あえてそのように定めた、と、イエス様は言っている。
モーセが次のようにも定めているのも、強い立場の身勝手から、弱い立場の人を守るためだ。
『人が二人の妻をもち、その一人は愛する者、一人は気にいらない者であって、その愛する者と気にいらない者の二人が、ともに男の子を産み、もしその長子が、気にいらない女の産んだ者である時は、その子たちに自分の財産を継がせる時、気にいらない女の産んだ長子をさしおいて、愛する女の産んだ子を長子とすることはできない。必ずその気にいらない者の産んだ子が長子であることを認め、自分の財産を分ける時には、これに二倍の分け前を与えなければならない。』(申命記21:15-17)

私達・教会は、世という古き家から離れ、キリストという新しい主人の元に嫁いで行った「花嫁」である。
キリストは、この「世」に勝利し、世の支配者であるサタンに勝利され、その支配下にあった私達をサタンから分捕って、戦勝国である神の国へと連れて来られ、そしてさらに、キリストの花嫁とされたのだ。
占領国の女性がめとられる時、髪を剃り、爪を切るように、私達からは以前の世の飾りは脱ぎ捨てられ、キリストが備えて下さる「良き行い」という飾りで、飾られる。
コラの子達は「愛の歌」で、次のように詠んでいる。
『娘よ、聞け、かえりみて耳を傾けよ。あなたの民と、あなたの父の家とを忘れよ。王はあなたのうるわしさを慕うであろう。彼はあなたの主であるから、彼を伏しおがめ。』(詩篇45:10)
私達も、古き世を忘れ、新しい主人であるキリストに伏しおがむなら、キリストは、私達の信仰の美しさを慕い、キリストに愛され、守られ、養われ、ますます幸いで新しい生活を享受できるのである。

礼拝説教メッセージ音声:刺し貫かれて殺された人の対処(申命記21:1-9):右クリックで保存

今回は、刺殺体が見つかり、誰が殺したのか分からない場合の教えである。
『そしてその殺された者のある所に最も近い町の長老たちは、まだ使わない、まだくびきを負わせて引いたことのない若い雌牛をとり、その町の長老たちはその雌牛を、耕すことも、種まくこともしない、絶えず水の流れている谷へ引いていって、その谷で雌牛のくびを折らなければならない。』(申命記21:1-4)

解決困難な事件で、出番となるのは、レビ族の祭司達である。
彼らは、主の御前で仕える者であり、主の御名によって祝福を宣言するために選ばれた者であり、どんな争いも、どんな暴行事件も、彼らの判決によるからである。
『そしてその殺された者のある所に最も近い町の長老たちは皆、彼らが谷でくびを折った雌牛の上で手を洗い、証言して言わなければならない、『われわれの手はこの血を流さず、われわれの目もそれを見なかった。主よ、あなたがあがなわれた民イスラエルをおゆるしください。罪のない者の血を流したとがを、あなたの民イスラエルのうちにとどめないでください。そして血を流したとがをおゆるしください。』(申命記21:6)

日本では、刺殺体が見つかって、誰が犯人か分からない場合は、時効になると、捜査が打ち切られ、そのまま事件は忘れ去られて行くが、神の支配される領域では、そのままフェードアウトという事はありえない。
イスラエルにおいてはそういう場合、最も近い町の長老たちが、祭司達の前に出て行き、たとい自分達の中にそういう事をした者がいないにしても、人の血が流されたという罪の赦しのために雌牛を犠牲にする事と、そして、その罪に関わっていない事の証言とを、しなくてはならない。

ダビデの部下ヨアブが、和平を申し出に来た将軍アブネルを、ダビデの知らない所で勝手に殺してしまった時、ダビデは、アブネルのために手厚い葬儀をし、哀歌を作って歌い、断食して、自分とその家はその罪とは関わっていない事を、そして、そのような事をしたヨアブは呪われるべきである意図を、公に示した。
そのため、『民はみなそれを見て満足した。すべて王のすることは民を満足させた。』(2サムエル3:26-39)

自分達には、無実な人の血を流す罪を犯すつもりは一切無く、これからも一切係るつもりも無く、そのような事をした者は呪われるべきだという意図を表明する事によって、周囲を安心させ、それによって、平和と尊厳の内に長く生きる事が出来るのだ。

『このようにして、あなたは主が正しいと見られる事をおこない、罪のない者の血を流したとがを、あなたがたのうちから除き去らなければならない。』(申命記21:9)
たとえ自分達はやっていないとしても、「共同体として」罪のための犠牲を捧げ、そして、自分達は潔白である事の表明をしなければならない。
それをしないのであれば、「共同体として」罪ある状態のまま、という事であろう。

「手を洗う」という行為は、自分はその罪とは関わりが無い、という、公な表明である。
ポンテオ・ピラトは、イエス様に、十字架刑を負わせる事は、自分には一切関わりが無い、と、群衆の前で手を洗って表明したが、それは間違っている。
彼が「自分には関係がない」という、その行為によって、罪なきイエス様が邪悪な者達の手に渡ったのであるし、そもそも、ピラトも、私達も、全てひっくるめて、人間の全部が、イエス様の十字架刑と関係があるのだ。
なぜなら、イエス様が十字架にかかられたのは、私達人間全ての罪の身代わりとなるためであり、イエス様がよみがえられたのは、私達キリストを信じる人全てがキリストと共によみがえり、永遠のいのちを持つためである。
だから、いくら「自分にはイエス様を十字架につけた事と関係は無い」と、何度手を洗ったところで、罪が洗い流されるわけではない。ただイエス様の流された血潮によってのみ、私達の罪は洗われるのだ。

刺殺体が見つかった時、町の長老たちが祭司たちの前に出て、雌牛を犠牲にして、その上で告白したのと同じように、私達も、まことの大祭司であり、ほふられた小羊キリストの御前に出るべきである。
そこで、自分は元々罪人であり、それをイエス様が身代わりとなって犠牲となって下さった事を、神と人との前で表明するのである。
人は心で信じて義と認められ、口で告白して救われるのである。(ローマ10:10)

礼拝説教メッセージ音声:実を結ばせる木と結ばせない木(申命記20:19-20):右クリックで保存

続いてモーセは、長期の攻城戦となった場合の指示をしている。
長期の攻城戦は大抵、多くの犠牲を伴うものであるが、モーセはどんなアドバイスをしているか。
『長く町を攻め囲んで、それを取ろうとする時でも、おのをふるって、そこの木を切り枯らしてはならない。それはあなたの食となるものだから、切り倒してはならない。あなたは田野の木までも、人のように攻めなければならないであろうか。ただし実を結ばない木とわかっている木は切り倒して、あなたと戦っている町にむかい、それをもってとりでを築き、陥落するまで、それを攻めることができる。』(申命記20:19-20)

面白い事に、モーセは人の心配より、木の心配のほうをしているかのようだ。
主が手渡して下さった敵との戦いは、たとえ攻城戦であろうと長期になろうと、人よりも木の犠牲のほうが心配されるほどまでに、人身の損害は無い、という事が、当たり前なのだろう。
実際、主が手渡して下さった敵との戦いは、見事な程に、犠牲者はいない。(民数記31章、1サムエル13-14章、他多数)
しかし、御胸でない戦いや神を怒らせた状態での戦いは、必ず惨敗する。(民数記14:41-43、1サムエル4章、他多数)

ここの節は、訳によって意味が分かれる所で、KJVでは次のように訳されている。
「thou shalt not cut them down (for the tree of the field is man's life) to employ them in the siege(あなたはそれらを切り倒してはならない。(野の木々は、人の命であるから。)包囲戦のために”徴用”しなさい。) 」
きっとこの箇所は、人に対してだけでなく、木などの自然界に対しても、むやみに生命を奪ってはならない事を命じているのであろうが、聖書の他の箇所の「木」を「人」として照らし合わせると、色々見えてくるものがある。

『ヨハネは、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けようとしてきたのを見て、彼らに言った、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、おまえたちはのがれられると、だれが教えたのか。だから、悔改めにふさわしい実を結べ。
自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ。』(マタイ3:7-10)

パリサイ人やサドカイ人といえば、当時の宗教指導者達であるが、ヨハネは彼らに、躊躇なく言い放った。まむしの子らよ、と。悔い改めにふさわしい実を結べ、と。
外見的に、あるいは、言っている事が、いかに立派に見えても、悔い改めにふさわしい”実”を結んでいないなら、切り倒す斧は、木の根元に置かれている。
良い実を結ばない木は、ことごとく切られて、火の中に投げ込まれてしまうのだ。

結ぶべき実とは、何か。
それは、ガラテヤ書5章に書いてある御霊の実である。

私達は、あるいは、私達が先生と仰いでいる人は、兄弟姉妹や隣人への愛があるだろうか。喜んでいるだろうか。平安だろうか。
寛容だろうか。親切だろうか。善意にもとづいて行動しているだろうか。
誠実だろうか。柔和だろうか。自制があるだろうか。
バプテスマのヨハネは、パリサイ人やサドカイ人がこれらの「実を結んでいない」事で、彼らを見ぬいたのだろう。

豊かに結ばせるためのコツが、ヨハネ15章に記されている。
イエス様は、主こそまことのぶどうの木であり、私達はその枝、御父は農夫である事を言っている。
『わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。』(ヨハネ15:2)

私達が御神に対して、有用な実を、それも、豊かに結ばせる方法は、ただ一つ。
それはキリストに、すなわち、御言葉にしっかりとつながっている事だ。
そうでないなら、主に対して何の有用な実を結ばせる事はできず、外に投げすてられ、枯れ、集められ、火に投げ入れられるだけである。(同6節)

長期に渡る攻城戦になる時は、実を結ばせる木々が”徴用”されたように、私達も、キリストにつながり、豊かに実を結ばせるなら、主の働き人として”徴用”されるのである。
そして、神の軍の兵士として、キリストと共に、世に対し、サタンに敵対し、戦うのだ。
また、実を結ばせない木は切り倒され、邪悪な町を攻撃する際のとりでとして使われたように、主に対し有用な実を結ばせない者、肉由来の悪しき実ばかりを結ぶ者は、倒され、その持ち物は有用な実を結ばせる主の働き人達に渡され、用いられる事となるのだ。
「神は、その心にかなう人に、知恵と知識と喜びとをくださる。しかし罪びとには仕事を与えて集めることと、積むことをさせられる。これは神の心にかなう者にそれを賜わるためである。」(伝道者2:26)

イエス様が、働きに疲れて、空腹を覚えられた時、一本のいちじくの木があるのを見て、そこに行かれたが、ただ葉のほかは何も見当らなかったため、その木にむかって、「今から後いつまでも、おまえには実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。
『弟子たちはこれを見て、驚いて言った、「いちじくがどうして、こうすぐに枯れたのでしょう」。イエスは答えて言われた、「よく聞いておくがよい。もしあなたがたが信じて疑わないならば、このいちじくにあったようなことが、できるばかりでなく、この山にむかって、動き出して海の中にはいれと言っても、そのとおりになるであろう。また、祈のとき、信じて求めるものは、みな与えられるであろう」。』(マタイ21:18)

イエス様の呪いの奇跡は、この、実を結ばせないいちじくの木に対してのみであったが、私達も、信じて疑わないなら、私達の前に横たわっている妨害の山に対し、海に移れ、と、イエスの名によって命じる事が出来るのだ。
そして、私達がキリストの言葉にとどまっているなら、欲しいものは何でも主に求める事が出来、それが与えられ、ますます主に栄光を捧げる事が出来るのだ。(ヨハネ15:7-8)

礼拝説教メッセージ音声:古き滅ぼし尽くすべきものは、滅ぼし尽くせ(申命記20:10-18):右クリックで保存

イスラエルから遠く離れている町々を攻撃する際は、以下のように命じられている。
『一つの町へ進んで行って、それを攻めようとする時は、まず穏やかに降服することを勧めなければならない。もしその町が穏やかに降服しようと答えて、門を開くならば、そこにいるすべての民に、みつぎを納めさせ、あなたに仕えさせなければならない。もし穏やかに降服せず、戦おうとするならば、あなたはそれを攻めなければならない。』(申命記20:10-12)
主は、戦いの際でも、ある程度の秩序を持つよう命じており、テロのように奇襲攻撃を仕掛けたり、有無を言わせず蹂躙する事は許されておらず、まずは、穏やかに降伏する事を勧めなくてはならない。

『そしてあなたの神、主がそれをあなたの手にわたされる時、つるぎをもってそのうちの男をみな撃ち殺さなければならない。』(申命記20:13)
ここに記されてる通り、戦闘を仕掛けて良いのは、「あなたの神、主がそれをあなたの手にわたされる時」である。
だから、主が許されるのでなければ、戦いを仕掛けてもいけない。
ヨシヤ王は、とても良い王であったのに、戦いにおいて踏むべき手順を誤ったために、命を落としてしまった。(2歴代誌34-35章)

ヨシヤ王は、エジプトのファラオ・ネコが、他の国と戦うために行軍している所を、戦いを仕掛けようとして、出て行った。
『しかしネコは彼に使者をつかわして言った、「ユダの王よ、われわれはお互に何のあずかるところがありますか。わたしはきょう、あなたを攻めようとして来たのではありません。わたしの敵の家を攻めようとして来たのです。神がわたしに命じて急がせています。わたしと共におられる神に逆らうことをやめなさい。そうしないと、神はあなたを滅ぼされるでしょう」。』(2歴代誌35:21)
しかしヨシヤは引き返すことを好まず、かえって彼と戦うために、変装までして戦いに行ったのだが、彼は射手に射抜かれ、その傷が元で死んでしまった。

エジプトは「イスラエルから遠く離れている町々」に当たるため、戦いを仕掛けるにしても申命記20:10-15節の御言葉を適用すべきであったのに、それをせず、また、主に伺いを立てる事もしなかった。
良い行いを積んで来た王と言えども、主の命令を離れ、むやみに戦うなら、命を落としてしまう。
この出来事を、私達は教訓として、肝に命じておきたい。

なお、主が約束して下さったカナンの地へと攻め入るための戦い、すなわち、自分の生活の場を勝ち得るための戦いについては、全く別の命令が与えられている。
『あなたの神、主が嗣業として与えられるこれらの民の町々では、息のある者をひとりも生かしておいてはならない。すなわちヘテびと、アモリびと、カナンびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとはみな滅ぼして、あなたの神、主が命じられたとおりにしなければならない。これは彼らがその神々を拝んでおこなったすべての憎むべき事を、あなたがたに教えて、それを行わせ、あなたがたの神、主に罪を犯させることのないためである。』(申命記20:16-18)

これらの国々の住人は、老若男女を問わず、滅ぼし尽くさなくてはならない、と、定められている。
なぜなら、この地域の人々は、アブラハムの時代より以前より、主が忌み嫌われる事を御前に積み上げ(創世記15:16)、その目盛りが、いよいよ滅ぼされるべき所へと達したからである。
イスラエルが主の命令どおり、これらの国に攻め入るなら、必ず勝利を与えて下さる。
しかしそれは、イスラエルが正しいからでも、心がまっすぐだからでも無い。逆にイスラエルの民は、主の前に強情である。
主がこれらの国を滅ぼされるのは、これらの国が、悪いからだ。(申命記9:4-6)

しかし結局イスラエルは、妥協してしまい、滅ぼすべきを、滅ぼし尽くさなかった。(士師記1章)
そのためそれが罠となり、イスラエルは偶像礼拝へと傾いてしまい、主から懲らしめを受ける事を、たびたび繰り返す歴史となってしまった。

私達にも、生活の場に残してはならない”滅ぼし尽くすべきもの”がある。
『ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。このようなことのために、神の怒りが下るのです。あなたがたも、以前、そのようなものの中に生きていたときは、そのような歩み方をしていました。しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。
互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。』(コロサイ3:5-11)

イスラエルの民が、もしあの時、滅ぼし尽くすべき者をしっかり取り除いていたなら、どんなに妨げ無く祝福されていただろうか。
私達も、生活の場の中から、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを引き起こすようなものは、すっかり取り除くべきであり、そして、キリストという新しい人を”着”続けるべきである。
キリストという新しい人を”着”続ける人は、ますます新しくされ、真の知識に至り、そして、あらゆる死は勝利に飲まれるのである。
『朽ちるものは、必ず朽ちないものを”着”なければならず、死ぬものは、必ず不死を”着”なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを”着”、死ぬものが不死を”着”るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」』(1コリント15:53-55)

生活の中から、主の忌み嫌われるものを滅ぼし尽くすし、新しい人であるキリストを着て、ますます造り替えられ、清められ、あらゆる死を、勝利へと飲み尽くす皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

アダム - 土地の呪いとそこからの救い(創世記3:17-24)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・礼拝全体音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。」(創世記3:17-18)
アダムの御言葉に対する不従順への報いは、土(アダマ)への呪いである。男は一生、汗水流し、労苦して働くけれど、土地はそれに対抗して、わずかしか実らせず、しかもわざわざ茨やあざみを生えさせるのだ。
私達はどうしたら、このアダムへの呪いから開放されるのだろうか。今回は、その方法を学びたい。

『主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」』(創世記3:22)
神から離れ、ほしいままに罪の善悪判断をすようになった人間を、永遠に生きないようにされたのは、神の大きな憐れみである。実際、後の時代になると、道ならぬ性によっていのちが呪われ、ネフィル(原意:伐採者。巨人、いじめっ子、暴君の意味もある)がはびこり、虐待が虐待を生み、暴力が暴力を生み、憎しみが憎しみを生んで、新しく世に生まれてくる命たちは、ただ無防備に、暴虐に満ちた世へと、送り出されて行くだけだった。それで神は、人の齢を120年程度とされたのだ。(創世記6章)
神を知らぬ善悪判断を持った巨人達が、ほしいままに振舞っている世界、痛みと悲惨に満ちた世界の中で、決して死ぬ事が出来ないとしたら、それこそ地獄である。

神は、人が罪を犯したからと言って、そのまま滅ぼすことをせず、また裸のまま追い出す事はしなかった。
「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。」(創世記3:21)
人は裸を覆うために自分の編み出した方法(いちじくの葉)によって取り繕いをしたが、それでは不完全だ。
真に裸を覆うのは、主の方法でなければならない。
日本で犯罪を犯したら、日本の法律に則って対処しなくてはならないように、人の弱さや罪を覆う方法は、神の方法に乗っていなくてはならない。その神の方法とは、犠牲である。
何かの動物を犠牲として、人に「皮の衣」が与えられたように、神は、私達の罪や弱さという”裸”を覆うために、キリストという、罪を贖うまことの小羊を犠牲として与えて下さり、”裸”を覆おうとされた。
キリストこそ贖いの衣であり(ガラテヤ3:27)、この衣を着ているなら、神と悪魔の前に、決して裸ではない。
アダムとエバはいちじくの葉で取り繕ったが、そういう自前の方法では、罪や弱さという裸を覆った事にはならない。ただ、神が与えて下さった”衣”で覆われてのみ、御前に有効なのだ。

罪や弱さという裸を覆う、神が与えて下さるまことの”衣”。それはキリスト、すなわち”第二のアダム”である。
ヤコブが動物の毛皮を着た事で、祝福を受けるべき子と認定され、祝福を勝ち得たように(創世記27章)、私達もキリストを着るなら、父なる神様から「祝福を受けるべき子」と認定され、祝福を勝ち得られるのだ。
キリストを受け入れた人、その名を信じた人には、神の子どもとされる特権が与えられる。(ヨハネ1:12)
神の子と認定された人には、もはや第一のアダムの呪いは、及ばない。(1コリント15:42-49)
第一のアダムの失敗以来、被造物は切実な思いで神の子ども達の現われを待ち望んでいる。(ロマ8:19)
つまり被造物は、神の子達、すなわち、イエス様を信じるキリスト者達の現れを切に待ち望み、罪ある人達の支配から解放され、神の子たちによる正当な支配に入る事を、アダム以来の呪いから解放される事を、切望しているのだ。だから被造物は、キリスト者が目の前に現れたなら、両手を上げて喜び歓迎するのだ。

キリストにあって歩み続ける人は、神の子としての性質をますます帯び、ますます被造物から歓迎される。
人がまだ善悪を知る前、神は人に、生んで増えるように、全ての生物を支配するようにと命じ、祝福された。
「他を支配するのは良くないのでは」と思う方もいるが、そう思う理由は、神を恐れぬ者による圧政や搾取などの「悪い支配」にうんざりしており、それを無意識的に恐れているからだ。
しかし、キリストにあって歩む人、御言葉に忠実な人が行う「正しい支配」は、確かに存在する。
神の子とされたキリスト者は、世の中から悪い支配権を奪回し、多くの人を、全被造物を、幸いにすべきだ

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
ヨセフの性質(創世記39:1-10):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
偽か本物かの見分け方(マタイ7:13-20):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
行いに応じた報い(黙示録22:10-15):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:神の戦いにおいて最も邪魔するもの(申命記20:1-9):右クリックで保存

申命記二十章は、戦いに出る時のおしえである。
『あなたが敵と戦うために出る時、馬と戦車と、あなたよりも大ぜいの軍隊を見ても、彼らを恐れてはならない。あなたをエジプトの国から導きのぼられたあなたの神、主が共におられるからである。』(申命記20:1)
私達にも、日々、諸々の戦いがある。病や貧困、将来についての問題や課題、超えるべき壁など。

戦いに際して、真っ先にアドバイスを伺うべきは、将軍ではなく、祭司であると、モーセは命じているが、私達も同様である。
私達が真っ先にアドバイスを伺うべきは、まことの大祭司、イエス・キリストである。
『あなたがたが戦いに臨むとき、祭司は進み出て民に告げて、彼らに言わなければならない、「イスラエルよ聞け。あなたがたは、きょう、敵と戦おうとしている。気おくれしてはならない。恐れてはならない。あわててはならない。彼らに驚いてはならない。あなたがたの神、主が共に行かれ、あなたがたのために敵と戦って、あなたがたを救われるからである。」』(申命記20:2-4)

人は、軍勢の多い事によって救われない。馬や装備などによっても、救われるものではない。主は、馬の力を喜ばず、歩兵を好まない。ただ、主を恐れる人と、御恵みを待ち望む人とを、主は喜ばれる。(詩篇147:10-11)
だから、あらゆる戦いの勝利の鍵は、いかに主を喜ばせているか、である。
数は多いけれど主の御心に反している軍と、人数は少なくても主の御心に適っている軍とが、戦った場合、必ず後者が勝つ。(創世記14章、民数記31章、士師記7章、1サムエル14章、2歴代誌20章、他多数)
神の民にとって、戦いは、人数や知恵、力よりも、主にまっすぐにより頼んでいるかどうかが大事なのだ。

それ故、戦いに際して排除しなくてはならないものは、「恐れ」であり、「未練」である。
『次につかさたちは民に告げて言わなければならない。「新しい家を建てて、まだそれをささげていない者があれば、その人を家に帰らせなければならない。そうしなければ、彼が戦いに死んだとき、ほかの人がそれをささげるようになるであろう。ぶどう畑を作って、まだその実を食べていない者があれば、その人を家に帰らせなければならない。そうしなければ彼が戦いに死んだとき、ほかの人がそれを食べるようになるであろう。
女と婚約して、まだその女をめとっていない者があれば、その人を家に帰らせなければならない。そうしなければ彼が戦いに死んだとき、ほかの人が彼女をめとるようになるであろう。」』(申命記20:5)

神の国の戦いにおいて、最も邪魔するものは、この、気後れしている者、恐れている者、おくびょう者である。
手勢の少なさや、装備の無さは、主の戦いの妨げとなるものではない。
むしろ、気後れや恐れ、おくびょうこそ、有害である。

イスラエルが荒野で40年も回り道をしてしまった原因は、何だったか。
それは、わずか十名の斥候の、「恐れ」が発端だった。(民数記13-14章)
十人の恐れが百人の恐れとなり、千人の恐れとなり、万人に、そして六十万人にまで膨れ上がって、収集がつかなくなってしまった。

地獄の火の池で永遠に苦しむ者の、筆頭たる者は、どんな者かご存知だろうか。
それは、「おくびょうな者」である。
『しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である。』(黙示録21:8)
人殺しや姦淫を行う者より、なぜ、おくびょう者や、信じない者のほうが、地獄を受け継ぐ者の筆頭に来るのか。
それは、イスラエル六十万を荒野の四十年へ導いたのは、人殺しや姦淫を行う者ではなく、おくびょうな者や信じない者だったからである。

『つかさたちは、また民に告げて言わなければならない。『恐れて気おくれする者があるならば、その人を家に帰らせなければならない。そうしなければ、兄弟たちの心が彼の心のようにくじけるであろう。』(申命記20:8)
恐れは火のように飛び火すると、多くの人の心を汚染してしまう。
それは「気後れ」も、「不信仰」も、「なまけ心」も同様である。
だから私達は、信仰の戦いにおいては、まずそのような心を、まず取り除かなくてはならない。

礼拝説教メッセージ音声:不正な者に対抗される主(申命記19:14-21):右クリックで保存

『あなたの神、主が与えて獲させられる地で、あなたが継ぐ嗣業において、先祖の定めたあなたの隣人の土地の境を移してはならない。』(申命記19:14)
受け継ぐ事の出来る相続地の広さは、荒野での第二回目の人口調査の時の部族の人数によって、永遠に決定づけられ、この時に決定された相続地の境界線は、後代もずっと変えてはならないと、主は定められた。(申命記27:17、箴言22:28、23:10)
荒野で過ごした期間は、いかに良き地を継げるか、という、査定期間のようなもので、その期間、主に喜ばれ祝福されるように過ごした部族には多くが与えられ、主の怒りを買って人数を減らしてしまった部族には、少ししか与えられなかった。

同じように今、私達が生きているこの人生は、天の国という永遠の相続というボーナスを得るための、ボーナス査定期間みたいなものだ。
天には、キリスト者が永遠に住まうマンションが、相続地として用意されており、いかに良いグレードのマンションに住まう事が出来るかというのは、この、地上での人生という査定期間にかかっているのである。(2コリント5:10)

『どんな不正であれ、どんなとがであれ、すべて人の犯す罪は、ただひとりの証人によって定めてはならない。ふたりの証人の証言により、または三人の証人の証言によって、その事を定めなければならない。』(申命記19:15)
約束の血において、不正な事が行われた場合、それを罰すべき罪として定めるには、必ず二人以上の証人がいなければならない事は、既に17章で学んだ通りであるが、この制度を悪用する者が出てくる事も、当然考えられる。
証人が二人以上いれば、それで罪定めが成立してしまう、という事は、偽りの証人を二人立てるなら、無実の罪を着せる事も可能である、という事だ。

『もし悪意のある証人が起って、人に対して悪い証言をすることがあれば、その相争うふたりの者は主の前に行って、その時の祭司と裁判人の前に立たなければならない。』(申命記19:16-17)
もし、証人が偽りを言っている疑いがある場合は、係争中の二者は主の前に出て、この事を時の祭司と裁判人の元に持って行かなくてはならない。

『その時、裁判人は詳細にそれを調べなければならない。そしてその証人がもし偽りの証人であって、兄弟にむかって偽りの証言をした者であるならば、あなたがたは彼が兄弟にしようとしたことを彼に行い、こうしてあなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。そうすれば他の人たちは聞いて恐れ、その後ふたたびそのような悪をあなたがたのうちに行わないであろう。あわれんではならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足をもって償わせなければならない。』(申命記19:18-21)
このように、偽りの証人に対しては、その者がたくらんだ訴えた罪状に対する処罰が、そのままその者に返される。
相手の財産を取るための偽りの訴えなら、その金額をそのまま相手に渡す事となり、相手を亡き者にしようという偽りの訴えなら、その者が、亡き者とされてしまうのだ。

ダニエルを陥れるために、「王以外を礼拝する者は死刑」という法律をわざわざ作り、潔白なダニエルを亡き者にしようとする者達があった。
そしてダニエルは「主を礼拝した」かどで捕らえられ、ライオンの穴に投げ込まれたが、主は御使いを送り、ライオンの口を塞いで、主ご自身が、ダニエルの潔白を証明して下さった。
それで、ダニエルを陥れようと企んでいた者達が、自分達が計ったとおりに計り返され、妻子もろともライオンの穴に投げ込まれる事になり、彼らが穴に落ち込む前に、ライオンに食い尽くされた。
このように、主の御前に、いつも正しく歩もうとする人は、主ご自身が潔白を証明され、守って下さるのである。

聖書の考え方に、現代蔓延している「言った者勝ち」という概念は無い。
むしろ、訴える事はサタンのする事であり、不当な「訴え」をする者には、それ相応の報いがそのまま返って来るものだ。
聖書はむしろ、「主に委ねた者勝ち」なのだ。

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