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礼拝説教メッセージ音声:離婚について(申命記24:1-5):右クリックで保存
『人が妻をめとって、結婚したのちに、その女に恥ずべきことのあるのを見て、好まなくなったならば、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせなければならない。』(申命記24:1)
モーセは離縁状を渡して離婚する事を認めているが、離婚は、人の本来の有り方から離れている。結婚は、結婚相手に対しコミットし、自分自身を"唯一の異性”として排他的に捧げる事だからだ。
『イエスは言われた、「だれでも、自分の妻を出して他の女をめとる者は、その妻に対して姦淫を行うのである。また妻が、その夫と別れて他の男にとつぐならば、姦淫を行うのである」。』(マルコ10:11-12)
では、なぜモーセは離婚を許したのか。
『イエスは言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、あなたがたのためにこの定めを書いたのである。しかし、天地創造の初めから、『神は人を男と女とに造られた。それゆえに、人はその父母を離れ、ふたりの者は一体となるべきである』。彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない。」』(マルコ10:5-9)
主は、ひと度結婚して一つ肉となった連れ合いを、裏切ったり、しいたげたり、離婚したりする者を、憎む、と言われる。
『あなたがたはまたこのような事をする。すなわち神がもはやささげ物をかえりみず、またこれをあなたがたの手から、喜んで受けられないために、あなたがたは涙と、泣くことと、嘆きとをもって、主の祭壇をおおい、「なぜ神は受けられないのか」と尋ねる。これは主があなたと、あなたの若い時の妻との間の、契約の証人だったからである。彼女は、あなたの連れ合い、契約によるあなたの妻であるのに、あなたは彼女を裏切った。
一つ神は、われわれのために命の霊を造り、これをささえられたではないか。彼は何を望まれるか。神を敬う子孫であるゆえ、あなたがたはみずから慎んで、その若い時の妻を裏切ってはならない。イスラエルの神、主は言われる、「わたしは離縁する者を憎み、また、しえたげをもってその衣をおおう人を憎むと、万軍の主は言われる。ゆえにみずから慎んで、裏切ることをしてはならない」。』(マラキ2:13-16)
だから、もし伴侶を裏切ったり、しいたげたりしたままで礼拝に来るとしたら「涙と、泣くことと、嘆きとをもって、主の祭壇を覆う」事であり、主は、そのような者の捧げ物は、受け取らない。
創造のはじめ、神である主は、人にいのちの息吹(霊)を吹き入れられ、神の子として創られた。
肉体的に交われば、その相手と一つ肉とされるが、神の民にとっての結婚は、同じ霊において一つとされる事でもである。
『あなたがたは自分のからだがキリストの肢体であることを、知らないのか。それだのに、キリストの肢体を取って遊女の肢体としてよいのか。断じていけない。それとも、遊女につく者はそれと一つのからだになることを、知らないのか。「ふたりの者は一体となるべきである」とあるからである。しかし主につく者は「主と一つの霊」になるのである。
不品行を避けなさい。人の犯すすべての罪は、からだの外にある。しかし不品行をする者は、自分のからだに対して罪を犯すのである。あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。』(1コリント6:15-20)
それ故、どの霊にあって交わるかが肝心であり、結婚は、キリストにあって一つとされるべきものである。
片方が信者となっても、片方はそうでないような場合もあるが、パウロはその場合について、次のように勧めている。
『これを言うのは、主ではなく、わたしである。ある兄弟に不信者の妻があり、そして共にいることを喜んでいる場合には、離婚してはいけない。また、ある婦人の夫が不信者であり、そして共にいることを喜んでいる場合には、離婚してはいけない。なぜなら、不信者の夫は妻によってきよめられており、また、不信者の妻も夫によってきよめられているからである。もしそうでなければ、あなたがたの子は汚れていることになるが、実際はきよいではないか。
しかし、もし不信者の方が離れて行くのなら、離れるままにしておくがよい。兄弟も姉妹も、こうした場合には、束縛されてはいない。神は、あなたがたを平和に暮させるために、召されたのである。なぜなら、妻よ、あなたが夫を救いうるかどうか、どうしてわかるか。また、夫よ、あなたも妻を救いうるかどうか、どうしてわかるか。』(1コリント7:11-16)
結婚は、キリストにあってこその結婚であり、キリストにあって一つ霊につながり、一つからだにつながる事こそ大切だ。
だから、キリストぬきに相手が去っていくのであれば、去らせるに任せなさい、とパウロはすすめているのである。
神様が与えて下さった命令、産めよ、増えよ、地に満ちよ、という祝福から見ると、結婚は、一つの家を作り、神の民である子孫を、氏族を、さらには国を生み出していく「一大事業」である。
モーセは、離縁状を渡して相手を去らせる事を許したが、それは、決して結婚を軽んじているからではない。その証拠に、彼は次の事も同時に命じているからだ。
『人が新たに妻をめとった時は、戦争に出してはならない。また何の務もこれに負わせてはならない。その人は一年の間、束縛なく家にいて、そのめとった妻を慰めなければならない。』(申命記24:5)
この「慰め」なければならない、と訳された語「サーマク」の原意は、「前途有望にする」「前途を明るくする」の意味であり、そこから「喜ばせる」「元気づける」の意味となった。
結婚して一年間、夫は、社会的なつとめという「束縛」からは開放されるが、では全くのフリーかと言うと、とんでもない。
男は、結婚すると、一家の主人となる。
新しくスタートした「一家」の前途を有望にさせるために、まずは妻の前途を明るくさせ、喜ばせ、元気づける事に専念させるために、モーセはこの一年という期間を設けたのだ。
夫は本来、妻に、捧げ尽くす愛(アガペー)で、愛すべきである。以下の御言葉の「愛」には、全てアガペーが使われている。
『夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。それと同じく、夫も自分の妻を、自分のからだのように愛さねばならない。自分の妻を愛する者は、自分自身を愛するのである。』(エペソ5:25-28)
そして妻は、そんな夫を尊敬し、仕えるべきである。
『妻たる者よ。主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。キリストが教会のかしらであって、自らは、からだなる教会の救主であられるように、夫は妻のかしらである。そして教会がキリストに仕えるように、妻もすべてのことにおいて、夫に仕えるべきである。』(エペソ5:22-24)
夫に対する命令、妻に対する命令、いずれも、難しいものである。いや、肉にある人間には、出来ない事である。
しかし、「キリストにあって」可能である。
だから結婚は、キリストにある事こそ、最も大切なのだ。
礼拝説教メッセージ音声:貪りを取り除け(申命記23:15-25):右クリックで保存
今回の箇所でも、主の民が歩むべき聖なる道が示されており、特に、貪欲であってはならない事、弱い人を憐れむべき事が、示されている。
『主人を避けて、あなたのところに逃げてきた奴隷を、その主人にわたしてはならない。その者をあなたがたのうちに、あなたと共におらせ、町の一つのうち、彼が好んで選ぶ場所に住ませなければならない。彼を虐待してはならない。』(申命記23:15-16)
神の国イスラエルでは、奴隷に逃げられた主人より、逃げた奴隷のほうの人権が保護される。
神は、人を神の似姿として、正しく治めるようにと創られているが故、人が、貪欲な人間の奴隷となる事は、主の御心ではない。
だから、奴隷が逃げてしまうような、正しく治めていない主人の側にこそ、責任があるのだ。(1サムエル25章)
ダビデが留守中に、略奪隊に妻子や持ち物を奪われた時、奪った略奪隊の奴隷を、ダビデは保護した。その結果、彼が追っていた略奪隊に追いつき、圧勝し、分捕られた分よりはるかに多くを分捕る恵みにあずかった。(1サムエル30章)
このように、弱い立場の人を憐れむわざを、主は喜ばれるのだ。
『イスラエルの女子は神殿娼婦となってはならない。またイスラエルの男子は神殿男娼となってはならない。娼婦の得た価または「男娼の価(新共同訳:犬の稼ぎ)」をあなたの神、主の家に携えて行って、どんな誓願にも用いてはならない。これはともにあなたの神、主の憎まれるものだからである。』(申命記23:17-18)
ここの「犬」と訳された言葉は、ヘブル語ではケーレブ、元々の意味は、犬がけたたましく叫ぶ、あるいは犬が攻撃する事の意味である。
平和に暮らしている人の所に来て、犬がけたたましく吠え立てるように、言葉で攻め立てて押し売りしするような稼ぎを、主は忌み嫌われ、また、不品行や汚れた行いによって得た報酬も、主に忌み嫌われるのだ。
『兄弟に利息を取って貸してはならない。金銭の利息、食物の利息などすべて貸して利息のつく物の利息を取ってはならない。外国人には利息を取って貸してもよい。ただ兄弟には利息を取って貸してはならない。これはあなたが、はいって取る地で、あなたの神、主がすべてあなたのする事に祝福を与えられるためである。』(申命記23:19-20)
ある人が、お金を借りるというなら、その人は当然、その時点でお金に困っているわけである。
その、困った人の足元を見て、私腹を肥やそうとするような、憐れみの無い貪欲な者を、主は嫌われる。
むしろ律法では、兄弟姉妹が貧しくなったら、その人のなるべく近い近親者が助けるように、命じられている。(レビ記25章)
『あなたの神、主に誓願をかける時、それを果すことを怠ってはならない。あなたの神、主は必ずそれをあなたに求められるからである。それを怠るときは罪を得るであろう。しかし、あなたが誓願をかけないならば、罪を得ることはない。あなたが口で言った事は守って行わなければならない。あなたが口で約束した事は、あなたの神、主にあなたが自発的に誓願したのだからである。』(申命記23:21-23)
みだりに口約束を連発して人をだましたり、自分に利をかき入れようとする者を、主は嫌われる。
人に「こうする」と言った事を果たさないなら、それは相手に偽りを言った事となり、相手にある程度の損失を与えた事になる。
ましてや、主に対して約束する「誓願」を果たさないとしたら、それはどんなに呪われる行為であろうか。
『あなたが隣人のぶどう畑にはいる時、そのぶどうを心にまかせて飽きるほど食べてもよい。しかし、あなたの器の中に取り入れてはならない。あなたが隣人の麦畑にはいる時、手でその穂を摘んで食べてもよい。しかし、あなたの隣人の麦畑にかまを入れてはならない。』(申命記23:24-25)
全地は主のものである。
イスラエルでは、土地は先祖からゆずり受け、生きている間にその土地からの産物を食べ、そして、子孫へとゆずって行くものである。(レビ記25:23)
大地の実りも、主が与えて下さるものであり、その人の所有ではない。同じように私達は、この地上において、仮に住まわせて頂いている者である。
だから、貧しくてひもじい思いをしている兄弟姉妹がいたならば、畑に入って思うままに食べさせてやるべきである。
しかし、食べ放題の店に器持参で行って、手当たり次第に器に入れて持って帰る事は違法なように、
器を持ってきて、そこにたくさん入れて持ち帰ったり、かまを持って来てたくさん刈り取ったりするのは、やり過ぎである。
なぜなら、その畑に種を蒔いたのも、そして畑がよく実るよう実質的に霊的に管理して来たのも、その畑の持ち主だからである。
一方だけが働き、他方は働きもせず、働いている人からただ受けるだけ、という関係は不健全である。
以上、いずれの場合も、あれもこれも全部わたしのもの、とする事は、貪欲の罪であり、今の日本や世界で行われている搾取や株価操作的な事、押し売りして稼ぐ事や、不品行なビジネスによって暴利をむさぼる事は、主に嫌われることであると分かる。
私達はこの邪悪な世代において、神の義と憐れみを実現する者として、強く雄々しく、正しく支配していくべきである。
『地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのために、神の怒りが下るのである。あなたがたも、以前これらのうちに日を過ごしていた時には、これらのことをして歩いていた。しかし今は、これらいっさいのことを捨て、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を、捨ててしまいなさい。互にうそを言ってはならない。あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。』(コロサイ3:5-10)
礼拝説教メッセージ音声:陣営の中を歩まれる主(申命記23:9-14):右クリックで保存
『敵を攻めるために出て陣営におる時は、すべての汚れた物を避けなければならない。・・・あなたの神、主があなたを救い、敵をあなたにわたそうと、陣営の中を歩まれるからである。ゆえに陣営は聖なる所として保たなければならない。主があなたのうちにきたない物のあるのを見て、離れ去られることのないためである。』(申命記23:9-14)
イスラエルが戦いにおいて勝利する理由は、主が陣営の中を歩まれるからであり、主が陣営の中に留まって下さるためには、陣営の中からは汚れを取り除き、「聖なる所」として保ち続けなくてはならない。
『あなたがたのうちに、夜の思いがけない事によって身の汚れた人があるならば、陣営の外に出なければならない。陣営の内に、はいってはならない。しかし、夕方になって、水で身を洗い、日が没して後、陣営の内に、はいることができる。あなたはまた陣営の外に一つの所を設けておいて、用をたす時、そこに出て行かなければならない。また武器と共に、くわを備え、外に出て、かがむ時、それをもって土を掘り、向きをかえて、出た物をおおわなければならない。』(申命記23:10-13)
人は、どんなに気をつけても、内面から汚れが出てきてしまうものだが、その場合は自らを清めなくてはならないし、また、排泄は陣営の外の一定の場所で為し、事後はそれを覆わなくてはならない。
私達も、世での戦いにおいて、同じ事が言える。
主がイスラエルの陣営のただ中を歩まれたように、私達はキリストにあって神の住まわれる神殿であり(1コリント3:16)、主は私達と共に歩んで下さる。
『あなたの神、主はあなたのうちにいまし、勇士であって、勝利を与えられる。彼はあなたのために喜び楽しみ、その愛によってあなたを新にし、祭の日のようにあなたのために喜び呼ばわられる。』(ゼパニヤ3:17)
この慰めに満ちた御言葉は、懲らしめを受けて悔い改めた者に与えられる御言葉である。(ゼパニヤ1−3章)
だから、私達が悔い改めなくては、主は、救いの勇士となっては下さらないし、清めなければ私達を喜ばれる事も無い。
もし、いつも何かに負け通しである場合、あるいは、主が共におられないような感じがする場合、まず、自分の中から主が忌み嫌うようなものを持ち合わせていないか確認してみてはどうだろうか。
そしてそれが示されたなら、それを生活ステージの中から取り除き、きよめてみてはいかがだろうか。
主は私達に、汚れから分離せよ、と、言われている。
『不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、/「わたしは彼らの間に住み、/かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となるであろう」。
だから、「彼らの間から出て行き、/彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触れてはならない。触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。そしてわたしは、あなたがたの父となり、/あなたがたは、/わたしのむすこ、むすめとなるであろう。全能の主が、こう言われる」。』(2コリント6:14-18)
また、私達と共に歩まれる主への信仰が無くては、勝利はあり得ない。
イスラエルの民は、巨人ゴリアテを恐れ、イスラエルの陣営をなぶる事を40日もゆるしていたが、ダビデはゴリアテを見て「この割礼なきペリシテびとは何者なので、生ける神の軍をいどむのか。」と言った。(1サムエル17章)
ダビデ以外のイスラエルの民は、ゴリアテの巨体と装備、強そうな成り立ちを見て恐れた。
しかしダビデは、これを「イスラエル人対ペリシテ人」という戦いとは見ず、「神対ペリシテ人」という戦いとして見て、勝利は当然のもの、神に敵対したペリシテは、しかばねとなって当然のもの、と、真理に基づいた信仰告白をした。
「おまえはつるぎと、やりと、投げやりを持って、わたしに向かってくるが、わたしは万軍の主の名、すなわち、おまえがいどんだ、イスラエルの軍の神の名によって、おまえに立ち向かう。きょう、主は、おまえをわたしの手にわたされるであろう。わたしは、おまえを撃って、首をはね、ペリシテびとの軍勢の死かばねを、きょう、空の鳥、地の野獣のえじきにし、イスラエルに、神がおられることを全地に知らせよう。
またこの全会衆も、主は救を施すのに、つるぎとやりを用いられないことを知るであろう。この戦いは主の戦いであって、主がわれわれの手におまえたちを渡されるからである。」
そうダビデが信仰告白した通りに、ゴリヤテはダビデに倒され、ペリシテは敗走し、その日、イスラエルは大勝利した。
私達も、ダビデと同じ神、主が、私達の内に「救いの勇士」として、共にいてくださる!
いかに敵が力強く、装備も数も勝っていようとも、私達の内にいます主イエスが「救い主」であると信じ、この御方に委ねるなら、主がその戦いを戦ってくださるのだ。
カイン - 罪に慕われる時、支配せよ(創世記4:3-7)
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人類史上、初の「死」は、兄の手による弟の殺人であり、その動機は、捧げものに関するねたみであった。ねたみや怒りの衝動は、現代を生きる私達にも、ありありと存在し、それを対処する責任は私達にある。
そうした性質は、どのように対処すべきか。今回はそれを学びたい。
『カインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。』(創世記4:5)
神は、気まぐれや意地悪でカインの捧げ物を顧みられなかったのではない。彼が神を主としておらず、自分を主とする傲慢な心があったから、御前に正しくなかったから、その捧げ物を受け取らなかったのだ。
彼の行動は、明らかに、彼は自己流の方法を、神よりも高い所に置いていた事を示している。
私達の主は、キリストであって、自分ではない。まず、高ぶる心を下ろし、主を主として拝するべきである。
御前で怒り、顔を背けるという、尊大な態度を取ったにもかかわらず、神は彼を救うために、取り扱われた。
「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。(創世記4:6-7)
罪が戸口の隙間から私達を慕い求めながら見ている時、私達には二つの道がある。
その罪を「支配」するか、それとも、怒りや欲望の欲するままに罪に飲み込まれるか。怒りや欲望の欲するままに罪に飲み込まれるのは、ラクで、ある種の爽快感もあるが、その行く先は、呪いと放浪、死である。
罪を「支配」するのは、ちょっとした我慢と努力が必要だが、その行く先は、いのちと祝福である。
礼拝や奉仕で、思い通りに行かずに「怒り」がこみ上げた時、神と人の前から「顔を伏せたい」時は、罪が私達をのぞき見して、待ち伏せしている事を知るべきであり、その時私達はそれを支配しなくてはならない。罪を支配するとは、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにして「キリストに従わせ」、完全に服従させる事である。(2コリント10:5-6) すなわち、こみ上げて来た怒りを、湧き起こって来た欲望を、イエスキリストの名によって捕縛し、キリストの前に引きずり出して、宣言するのである。
「イエス様、この罪が、怒りが、欲望が、私に誘惑をかけて来ましたので、逮捕して、あなたの御前に引きずり出しました。どうか、あなたがこれを永遠の火の牢屋に入れ、私の事は、あなたが支配して下さい」と。
私達は日々、礼拝においても、日常においても、常に自分を御言葉の光に照らし合わせて、主の道を正しく歩んでいるかどうかチェックすべきである。自分が為そうとしている事が、御心にかなっているかどうかをチェックする、最も簡単な方法は、真理なるお方、御言葉なるお方である、イエス・キリストの名によって、その事が出来るかどうかを問う事である。(コロサイ3:17)
皆さんが成しているあの事、この事は、イエス様の名によって堂々と出来るだろうか?もし、そうでないのなら、それをとりこにし、キリストにあって支配すべきである。
カインとアベルは、何月何日に信仰の試験があるから、その日に備えて準備しておこう、などとは思っていなかったはずだ。信仰の試験は、盗人のように、ある日突然来るものだ。それは私達も同じである。
その試験の時、私達がどんなパフォーマンスをするかは、私達が日常をどんな心構えで過ごすかで決まる。
彼らが、主に、供え物を捧げた時、彼らが普段、どういう信仰態度であったのかが、如実に示された。
普段から、神と人とに感謝が無い者は、とっさに感謝は出せないものであるし、また、普段から怒りに身を任せている者は、怒ってはならぬ時に、それが制御できないものである。
カインは「主の前」という、決して怒ってはならない時に怒り、主に顔を背けるという尊大さが現れた。突発的な怒りが、彼を尊大にさせたのではなく、普段から怒りを制御しない事の、「霊的怠慢」が、露わにされ、その怠慢の刈り取りは、永遠に受けるのだ。それ故、私達は普段の心がけが大事である。
普段から、少しずつでも罪や怒り、欲望をキリストにあって制御し続け、良きものはキリストに捧げ続けるのであれば、それが積りに積もって、いざという時、正しい立ち居振る舞いが出来るのである。
皆さんはいざという時、カインのように振る舞うだろうか。それとも、アベルのように振る舞うだろうか。
礼拝説教メッセージ音声:主の会衆に加わってはならない者なのに(申命記23:1-8):右クリックで保存
今回の箇所では、主の会衆に加わってはならない者の特徴が示されているが、これを見ると、主の会衆に本来加わる事が出来る人は、非常に限られている事が分かる。
『すべて去勢した男子は主の会衆に加わってはならない。』(申命記23:1)
そのような傷のあるレビ人の祭司も、御前で奉仕する事は禁じられているし、そのような傷のある動物も、主に捧げるいけにえにしてはならないと定められている。(レビ記21,22章)
だから、異邦人の宦官は、御前に出る事が出来ない”筆頭”と言えるだろう。
『私生児は主の会衆に加わってはならない。その子孫は十代までも主の会衆に加わってはならない。アンモンびととモアブびとは主の会衆に加わってはならない。彼らの子孫は十代までも、いつまでも主の会衆に加わってはならない。』(申命記23:2-3)
私生児は、親の権威に対しての認識や、性的な認識において、傷を負っている事が多いからかもしれない。
また、アンモン人やモアブ人は、アブラハムの親戚(すなわちイスラエル民族の親戚)であるにもかかわらず、イスラエルが荒野を放浪している時、「助け」ではなく「呪い」を与えようとしたからであり、彼らに対しては、『あなたは一生いつまでも彼らのために平安をも、幸福をも求めてはならない。』(6節)とまで命じられている。
以上のように、宦官や私生児、モアブ人などは、主の会衆に加われない事が分かったが、聖書を見ると、このような人たちが、なぜか、主の会衆に加えられているケースを多く見る。
異邦人の中で最初に洗礼を受ける栄誉にあずかったのは、エチオピア人の宦官であったし(使徒8章)、エフタは私生児で本家から追い出されていたのに、主は彼を士師として用いられたし(士師記11章)、ルツはモアブ人であるのに主の集会に加えられ(ルツ記)、ダビデは彼女の十代以内の子孫なのに、イスラエルの王とされている。
一体なぜ、このように、律法に矛盾するような事がまかり通っているのか。
一体なぜ、神の民から疎外されるべき者が受け入れられ、恵みを受けるに相応しからぬ者が、相応しいとされるのだろう。
その理由を探っていくと、私達のような、主の前に全く相応しからぬ者が、主に受け入れられる事の答えが見えてくる。
結論から言えば、この矛盾を一気に飛び越え、矛盾を矛盾でなくするものは、信仰である。
エフタはアンモン人に対して立派な信仰告白をしているし(士師記11章)、ルツもナオミに対して立派な信仰告白をした。(ルツ記1:16)
ダビデは、まだ紅顔の少年だった時に、イスラエルの誰よりも主に信頼し、巨人ゴリアテを打ち倒した。(1サムエル17章)
エチオピア人の宦官の、主を求める心は、並々ならぬものだった。(使徒8章)
彼のような異邦人はエルサレム神殿に詣でても、神殿の「異邦人の庭」より先には入れないし、宦官であるため、イスラエルの民に加えられる事は律法によって禁じられている。
そして彼は、高い地位の忙しい身であるにもかかわらず、エチオピアから、はるばる礼拝のため上り、しかもその帰り道、彼はサスペンション無しの馬車で、舗装されていない道を走りながらでも、イザヤ書を朗読し、思い巡らしていたのだ。
彼は普通のユダヤ人に比べ、一体幾つのハンディキャップがあっただろう。にもかかわらず、どれほど熱心に主を求めていた事だろう。
主は、こう言われる。
『主に連なっている異邦人は言ってはならない、「主は必ずわたしをその民から分かたれる」と。宦官もまた言ってはならない、「見よ、わたしは枯れ木だ」と。主はこう言われる、「わが安息日を守り、わが喜ぶことを選んで、わが契約を堅く守る宦官には、わが家のうちで、わが垣のうちで、むすこにも娘にもまさる記念のしるしと名を与え、絶えることのない、とこしえの名を与える。
また主に連なり、主に仕え、主の名を愛し、そのしもべとなり、すべて安息日を守って、これを汚さず、わが契約を堅く守る異邦人は―― わたしはこれをわが聖なる山にこさせ、わが祈の家のうちで楽しませる、彼らの燔祭と犠牲とは、わが祭壇の上に受けいれられる。わが家はすべての民の/祈の家ととなえられるからである」。』(申命記イザヤ56:3-7)
このように、主を求める人は、いかに異邦人の宦官であっても、神に受け入れられる。
しかし、自分は既に神の民である事に安住し、悔い改める事をしない者は、かえって、神の民から除外されてしまうのである。
『イエスは言われた、「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。というのは、ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった。』(マタイ21:31-32)
今を生きる私達が、主の集会に加われたのは、ただ、イエス様の恵みである。
『私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。』(ローマ5:6-10)
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
預言者としての分(エレミヤ1章):右クリックで保存
主よ、主よ、と言えば良いというものではない(マタイ7:21-23)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » マタイによる福音書
- 執筆 :
- pastor 2014-3-15 2:54
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
主よ、主よ、と言えば良いというものではない(マタイ7:21-23):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
伝道者の書概要(伝道者1:1-3):右クリックで保存
【概要】
人類最高の知恵を与えられたソロモンが、神から離れた結果たどり着いた結論は「空の空、すべては空」という虚しさであった。キリスト抜きの人生がいかに虚しいか、そして主にあってこそ満ち満ちた人生を歩めることを、伝道者の書を通して学ぶ。
【聖書箇所】
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伝道者1:1-3
-
第一列王記3:3-14
-
第一列王記11:1-13
-
詩篇127編
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コロサイ2:8-10
【戒めの言葉】
礼拝を軽んじて世の仕事に明け暮れることの愚かさ。神から離れて得た知恵や富は、結局虚しさに終わってしまう。
【勧めの言葉】
キリストにあって歩むなら、人生は満ち満ちたものとなる。主が建てる家、主と共に歩む人生こそが真の祝福である。
【***AIによる文字起こし***】
今まで水曜のこの時間は黙示録でしたけれども、それが終わりました。今日からは伝道者の書に入りたいと思います。今日の箇所は、伝道者の書1章1節から3節です。
「エルサレムの王、ダビデの子、伝道者の言葉。空の空、伝道者は言う。空の空、すべては空。日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。」(伝道者1:1-3)
この伝道者の書という書物は、その冒頭の言葉がそのまま書名になっています。ヘブライ語で「ディブレイ・コヘレト」という言葉で始まります。ですから、カトリック訳の聖書は「コヘレトの言葉」という名前でこの書が記されています。コヘレト、それは伝道者、あるいは宣教者、教えを伝える者という意味です。
誰が書いたかについては、長らくダビデの子ソロモンが記した言葉ではないかと言われていました。しかし、宗教改革のルターは別の人だと言い、あるいはバビロン捕囚の後に書かれたという説もあります。いろいろな解釈はあるのですが、この伝道者の書を書いた本人がどういう人物であるかを見ると、エルサレムの王でダビデの子であること、多くの知恵が与えられた者であること、また多くの女たちを囲み、多くの事業をして、たくさんの輝かしい実績を残したということから、これを記したのはソロモン以外の何者でもないと、多くの人たちに言われています。
この書を記している人は、本当に命を何も知らない、神様のもとにある命を知らないなという印象をよく受けます。そしてこの書が聖書の他の箇所と比べてすごく違って異色なものであること、これは誰が読んでも分かるのですが、要するに虚しさで満ちているのです。
伝道者の書のキーワードは「むなしい」ということです。空の空、すべては空である、と。面白いことに、この「むなしい」という言葉、ヘブライ語で「ヘーベル」と言うのですが、旧約聖書全体で検索すると64回出てきます。そして、その「むなしい」という言葉が、伝道者の書では38回も使われているのです。半数以上、聖書全体の「むなしい」の半分以上が、この伝道者の書で使われています。
新約聖書の方で日本語で「むなしい」という言葉で検索すると、全部で16箇所出てきます。新約聖書全体で16です。でも伝道者の書では、新約聖書全体の中の「むなしい」という言葉の数をはるかに上回る38も、この1書で使われているのです。
もうひたすら「むなしい、むなしい、むなしい」。ちなみに新約聖書の方では、この世が虚しいとか、そういう人生とか、この世とか、神様の御業とかを「むなしい」という言葉で表現しているものは一つも出てきません。むしろ新約聖書で「むなしい」という言葉が使われているのは、「行いのない信仰はむなしい」とか、「騙し事の哲学、むなしい哲学に惑わされるな」とか、そういう積極的な意味で「むなしい」という言葉が使われています。
でもこの伝道者の書に限っては、すべてはむなしい、この世はすべてむなしい、すべて空の空だと言っているのです。
伝道者の書1章12節のところでは、「伝道者である私はエルサレムでイスラエルの王であった」と書いてあります。要するにイスラエルの王であった、と過去形が使われており、これを記した時点で既に王ではないことを示しています。ですから、おそらくソロモンがこれを記したのは、若かりし頃ではない、栄華を極めた時でもない、王で亡くなった後に記されているのではないかと言われています。
ソロモンは確かに知恵が与えられました。多くの良いもの、良い書、詩篇も記しましたし、箴言も記しました。箴言では本当に多くの良い言葉が示されているのですが、でも、ひるがえってこの伝道者の書は、その成れの果てと言いますか、本当に書いていることが全てが虚しい、希望が一切ないということです。箴言を読んだ後に伝道者の書を見ると、本当に同じ人が書いた書物なのだろうかと思うほどです。人生の途中で神様から離れて、その人の行き着く先は結局、虚しいものしかないわけです。
そして3節を見ますと、「日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になろう」とあります。これは、この人生、私たちは労苦しても何にも益にならないんだ、全部が虚しいんだ、そういう風に生きなくてはならないのかって思う人もいるかもしれませんが、でも、これよく見ると、3節、「日の下で」って書いてあるんですよ。これは新約聖書における「この世」ということを意味しています。
ですから「この世で」言い換えると、「この世でどんなに労苦しても、それが人に何の益になろう」ということです。日の下、日というのは太陽とか大きな輝きを意味しているのですが、その下において、この地上における太陽の下において、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。これは真実ですね。この太陽の下でどんなに労苦しても、この太陽の下に何を積み立てようとしても、どんな大きな事業を起こしても、それは何の益にもならない。
ちなみにこの「益」という言葉は、ヘブライ語では会計の貸借対照表の余剰金、会計用語の余剰金を意味しています。要するに、その余剰金、自分の手元に残らない資産、余分なもの、この伝道者の書の中において、私がどんなに事業を起こして拡大して多くの資産を手に入れても、それは結局他の人に渡ってしまう。余剰金だ。虚しい、そういう風に言っているのです。
そういうわけで皆さん、この太陽の下においてどんなに労苦して働いて糧を得たとしても、それは余剰金です。一旦自分の手元にあったかと思えるものとしても、それは結局、主にある人ではないもの、主にないものは余剰金として他の人の手に渡ってしまうわけです。だから、礼拝を軽んじて、主一にこの世の仕事に明け暮れている人は本当に、まさしくこれですね。「日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になろうか」。
礼拝を軽んじる人の大先輩がこのソロモンです。その大先輩がこういう風に言ってるんですよ。「日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になろう」。それは余剰金に過ぎない。結局は、その持て余したお金、それで心配しなくてはならない。その持て余したお金が何か責められる対象になってしまう、そういうものになってしまうわけです。
私たちはこの伝道者の書を学んでいく上で、前提意識として持っていなくてはならないのは、それは確かに神様のことを知っている人であるけれども、でも神様から離れた成れの果てはこうなるよっていう、そういう書物であるという、そういう意識を持ってこれを読むべきです。
ソロモンがまずどういう人か。第一列王記の3章を開きたいと思います。第一列王記の3章のところに、ソロモンが王になったばかりの時に、主からどのようなことをいただいたか知らされています。
まず第一列王記の3章3節のところを見ますと、「ソロモンは主を愛し、父ダビデの掟に歩んでいたが、ただし彼は高き所で生贄を捧げ、香を焚いていた」とあります。
「王は生贄を捧げるためにギブオンへ行った。そこは最も重要な高き所であったからである。ソロモンはそこの祭壇の上に、千頭の全焼の生贄を捧げた。その夜、ギブオンで主は夢のうちにソロモンに現れた。神は仰せられた。『あなたに何を与えようか。願え』」
それでソロモンは知恵が与えられるように、この全イスラエル、もうおびただしく栄えているこのイスラエル、多くの人々がおり、多くの事業が行われており、その全イスラエルを、自分はまだ若い。だから正しくこれを治めるための知恵を与えてくださいということを願います。
3節を読みますと、この時点でまだソロモンは主を愛して、それで父ダビデの掟に歩いていたんですね。まだ何も知らぬ頃、知恵がまだない頃、力がなく、また経験もまだまだ浅かった頃。この時点ではソロモンはまだ素晴らしかったのです。まだ主の御教えに従って歩んでおり、主に喜ばれていたからこそ、何でも欲しいものを願いなさいと主から言われていたのです。
そこでソロモンは知恵が与えられるように願いました。すると10節、「このことを求め、自分のために長寿を求めず、自分のために富を求めず、あなたの敵の命も求めず、むしろ自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、今わたしはあなたの言った通りにする。見よ、わたしはあなたに知恵の心と判断する心とを与える。あなたの先にあなたのような者はなかった。また、あなたの後にあなたのような者も起こらない。その上、あなたの願わなかったもの、富と誉れとをあなたに与える。あなたの生きている限り、王たちの中であなたに並ぶ者は一人もいないであろう」
「また、あなたの父ダビデが歩んだように、あなたもわたしの掟と命令を守ってわたしの道を歩むなら、あなたの日を長くしよう」
この時はまだまだ希望に満ちていましたね、ソロモン。そして祝福の命令も与えられていました。14節のところで、「あなたの父ダビデが歩んだように、あなたもわたしの掟と命令を守って、わたしの道を歩むなら、あなたの日を長くしよう」。
ソロモンは、今日読んだ伝道者の書で、「日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になろう」になっちゃいました。なぜなら、ソロモンはダビデの道に歩んでいなかったからです。ソロモンには知恵の心と判断する心が与えられました。そして、あなたの先にも、あなたの後にも、ソロモンを凌駕するような者は起こらない。ですから、今2014年に生きていますけれども、2014年、これからもずっとでしょうね、ソロモンに勝るような者は起こらないわけです。
その人類全てをひっくるめて豊かな知恵が与えられ、また知恵ばかりでなく、富と誉れが与えられた。ソロモンなんですよ。そのソロモン、人類のあらゆる英知を集結したソロモンがたどり、神様から離れてたどり着いた結論が、「空の空、すべては空」であるわけです。
ソロモンはそのうちどういう風になったか、第一列王記の11章を開いてください。第一列王記の11章1節からお読みします。
「ソロモン王は、ファラオの娘のほかに多くの外国の女、すなわちモアブ人の女、アモン人の女、エドム人の女、シドン人の女、ヒッタイト人の女を愛した。この女たちは、主がかつてイスラエル人に、『あなた方は彼らの中に入っていってはならない。彼らをもあなた方の中に入れてはならない。さもないと彼らは必ずあなた方の心を転じて彼らの神々に従わせる』と言われたその国々の者であった。それなのにソロモンは彼女たちを愛して離れなかった。彼には700人の王妃としての妻と300人のそばめがあった。その妻たちが彼の心を転じた」
「ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心を他の神々の方へ向けたので、彼の心は父ダビデの心とは違って、彼の神、主と全く一つにはなっていなかった。ソロモンはシドン人の神アシュタロテとアモン人の憎むべきミルコムに従った。こうしてソロモンは主の目の前に悪を行い、父ダビデのようには主に従い通さなかった。当時ソロモンはモアブの憎むべきケモシュとアモン人の憎むべきモレクのために、エルサレムの東にある山の上に高き所を築いた。彼は外国人の自分のすべての妻のためにも同じようなことをしたので、彼女たちは自分たちの神々に香を焚き、生贄を捧げた」
「主はソロモンに怒りを発せられた。それは彼の心がイスラエルの神、主から移り変わったからである。主は二度も彼に現れ、このことについて他の神々に従って行ってはならないと命じておられたのに、彼は主の命令を守らなかったからである。それゆえ主はソロモンに仰せられた。『あなたがこのように振る舞い、わたしが命じたわたしの契約と掟とを守らなかったので、わたしは王国をあなたから必ず引き裂いてあなたの家来に与える。しかしあなたの父ダビデに免じて、あなたの存命中はそうしないが、あなたの子の手からそれを引き裂こう。ただし王国全部を引き裂くのではなく、わたしのしもべダビデとわたしが選んだエルサレムのために一つの部族だけをあなたの子に与えよう』」
本当にこのモレクとか、またミルコム、子供を火に投げ込んで生贄に捧げるあの邪教の神ですよ。ソロモンはそれにその前にひれ伏してその像を建てて、そればかりでなく、この女たち、エジプトとかエドムとかシドンとかヒッタイトとかアモン人、モアブ人のその神々の像までもエルサレムの中で作って、それで彼女たちはその神々にエルサレムの中、イスラエルの中でそういう香を焚いて生贄を捧げたという、本当に恐ろしい悪、神様への反逆、それを行ったのです。これがソロモンが王であった時期、そういう風になりました。
そしてひるがえって伝道者の書では、もう「私はイスラエルの王であった」と過去形で、昔そこで王だったけども、今は王ではない。私が伝道者として言う、「空の空だ。日の下で行われることはどんなに苦労してもそれが何の益にもならない」。
皆さん、知恵を得ればいいってものじゃありません。頭良くなればいいってものじゃありません。主から離れたのであれば、その知恵は逆に災いとなって跳ね返ってきてしまいます。イエス様抜きのこの人生はただ辛いものだらけです。
ですからこの世の知恵者、キリスト抜きのIQだけがやたら高い人が行き着く先がこの伝道者の書です。だからある人たちはこの伝道者の書はなんか最高の知恵の書だって言う人がいます。確かにイエス様抜きの最高の知恵はこれです。「空の空、全ては虚しい」。虚しいってこの伝道者の書では38回も、このわずか何ページにも満たないところで、聖書中最も「虚しい」が多い書になってしまうわけです。
イエス様抜きの人生、礼拝を軽んじて世のビジネス、世の仕事に邁進していく人の成れの果てはこれです。あのソロモンでさえ、人類のあらゆる英知を獲得したソロモンでさえ、皆さんの何倍も頭がいいあのソロモンでさえ、キリスト抜きではこうなってしまうんです。ましてや皆さんはどうなるでしょうね。礼拝よりも世のビジネス、世の仕事の方に邁進して世の富を得ようとすることがいかに愚かであるか、ここを見ただけでも分かりそうですね。
伝道者の書を学ぶ上で、私たちが前提意識として持っていなくてはならないのは、それは確かに神様のことを知っている人であるけれども、でも神様から離れた成れの果てはこうなるよっていう、そういう書物であるという、そういう意識を持って、これを読むべきです。
だから、「日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になろう」という言葉が出てきたとしても、これは確かに日の下で、要するにこの世において労苦しても、そう、何の益になるだろう、というのは真実でしょう。しかし、主イエス・キリストを持っている私たちは、労苦も、でも、それは益になるんです。
全てのことを益としてくださるという言葉がローマ書にありますね。私たちはどんなに罪を犯しても、どんなに失敗しても、イエス・キリストにある人は、その全てが益になる。ですから伝道者の書の学びをするときには、それに対するカウンターの言葉で返すということを私たちはしています。「日の下で、どんなに労苦しても、何の益になろう」。
詩篇127篇を見ますと、伝道者の学びであるある姉妹が、ここを読んで、なんかすごい違和感を覚えて、でも詩篇の127篇にはこう書いてあるよということで、そのカウンターを示してくれました。詩篇127篇、これは都上りの歌、ソロモンによると。ソロモン自身がまだ主を敬って、主を礼拝するために主に通っていた時代に詠んだ詩篇が、この127篇です。
「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きは虚しい。主が町を守るのでなければ、守る者の目覚めは虚しい。早く起き、遅く休み、辛苦の糧を食べる、これは虚しい。主はその愛する者には、眠っている間にこのように備えてくださる。見よ、子供たちは主の賜物。胎の実は報酬である。若い時の子らは、まさに勇士の手にある矢のようだ。幸いなことよ、矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは門で敵と語る時にも恥を見ることがない。アーメン」
その後ソロモンは言いますね、「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きは虚しい」と。でも、その者は主抜きで家を建てて、虚しさに落ち込んでしまったのです。主抜きで家を建てるのは虚しいです。皆さんの家庭、皆さんの家族、家族構成、家族計画、そうしたものを主が建てるのでない家は、虚しさで終わってしまうんです。いくらその人が財産を貯め込んだとしても、その財産、その人が死んだときに、いろいろと奪われてしまうんです。いろいろな人に、多くの人たちの手によって引き裂かれてしまうんですね。主が成すのでないことは全て虚しいんです。
早く起きて、遅く休んで、早朝から夜遅くまで残業して働いても、主抜きで働くのは虚しいものです。「主はその愛する者には、眠っている間にこのように備えてくださる」と書いてあります。
ですから伝道者の書を読んで読み進めていく上で、それをそのまま鵜呑みにするのではなく、聖書の他の箇所と比べて、いかに神様抜きの人の知恵が虚しいか、いかにイエス様とともにある人生が潤いで満ちているか、それを対比しながら読み進めていくと、本当にこの伝道者の書は喜びと幸い、祝福で満ち満ちたものとなっていきます。
コロサイ書の2章にこう書いてあります。コロサイ書の8節から10節までのところをこう書いてあります。
「この虚しい騙し事の哲学によって、誰の虜にもならぬよう注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません。キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そして、あなた方はキリストにあって満ち満ちているのです。キリストは全ての支配と権威の頭です。アーメン」(コロサイ2:8-10)
ソロモンが記した伝道者の書、それはキリスト抜き、神様から離れた人が行き着いた知恵の書として、反面教師としてこの聖書に残されています。そういったものだと思います。ただ伝道者の書に書いてあることは、この地上で生きる人々にとって真実です。そして私たちもキリスト抜きで歩めば、この伝道者の書の通りになることが起こります。ですからこれは真実です。聖書であることには変わらないのですけれども、しかしキリスト抜きで行くものは幼稚な教えです。この世に属するものです。
キリストのうちにこそ神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っております。どうか皆さんは虚しく歩むのではなく、皆さんは命にあって歩んで、キリストにあって歩んで、そうして私たちのこの人生、キリスト抜きではただ虚しいだけです。でもキリストと共に歩むのであれば満ち満ちております。どうか皆さんは満ち満ちた人生を歩みますように。
他に知恵を蓄えたところで、キリスト抜きで蓄えた知恵はキリストに行き着きません。人間が、人間がいかにIQが何百あろうと何千あろうとも、キリストに行き着かないんです、人の知恵は。ただ虚しさに行き着くんです。でも、キリストは信仰によって皆さんのものとされました。IQそんなに必要ありません。皆さんは力もそんなに必要ありません。ただキリストに留まっているだけで、全ての満ち満ちた祝福が皆さんのものとなります。どうかその祝福の人生を歩み、虚しさ、それらは御言葉によって覆い尽くし、死は命で覆い尽くして、そして勝利の人生を歩んでいく皆さんでありますように、イエス様の名前によって祝福いたします。アーメン。
【結論】
伝道者の書は、人類最高の知恵を得たソロモンが、神から離れた結果たどり着いた「空の空、すべては空」という虚しさの書である。この書は反面教師として、キリスト抜きの人生がいかに虚しいかを私たちに教えている。どんなに知恵があっても、富があっても、主から離れたなら全ては余剰金に過ぎず、虚しさに終わる。しかし、キリストにある者は、どんな労苦も益とされ、満ち満ちた人生を歩むことができる。私たちはキリストに留まり、主と共に歩む祝福の人生を選び取るべきである。
礼拝説教メッセージ音声:一人の異性にコミットする(申命記22:22-30):右クリックで保存
聖書の示す所では、肉体関係を結んで良い相手は、ただ一人、結婚した相手のみであり、それ以外は許されていない。
つまり結婚は、結婚相手に対し、自分を排他的に”唯一の異性”として、コミットする事である。
具体的には、女性であれば、相手の男性にとって唯一の専属的な「女性」となる事、また、男性であれば、相手の女性にとって、唯一の専属的な「男性」となる事だ。
そして、コミットした相手以外の異性に対しては、性的な目で見る事や、他の異性に対して”色目”をつかう事を、もはや止めるのだ。(マタイ5:28)
『もし夫のある女と寝ている男を見つけたならば、その女と寝た男およびその女を一緒に殺し、こうしてイスラエルのうちから悪を除き去らなければならない。もし処女である女が、人と婚約した後、他の男が町の内でその女に会い、これを犯したならば、あなたがたはそのふたりを町の門にひき出して、石で撃ち殺さなければならない。これはその女が町の内におりながら叫ばなかったからであり、またその男は隣人の妻をはずかしめたからである。あなたはこうしてあなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。』(申命記22:22-24)
イスラエルにおいて「婚約」は、その、男女のコミットの関係に入るものであり、相手に対して純潔を守る事の責任は、結婚と代わりは無い。
独身者は、特別な異性がいる事に憧れを持つものだが、特別な異性がいる、という事には、相手に対しての責任も生じる事を忘れてはならない。
その責任は、厳粛に、そして日々地道に果たして行くべきものだ。
だから、もし相手のある身であるにもかかわらず、それとは別の相手に自ら進んで体を明け渡す事は、してはならない。
もし、自分には特別な相手がいるのに、肉体関係を求めて言い寄ってくる者がいたとしたら、うやむやでどっちつかずな返事はしてはならず、明確に抵抗し、叫んででも止めさせるべきなのだ。
『しかし、男が、人と婚約した女に野で会い、その女を捕えてこれを犯したならば、その男だけを殺さなければならない。その女には何もしてはならない。女には死にあたる罪がない。人がその隣人に立ちむかって、それを殺したと同じ事件だからである。これは男が野で女に会ったので、人と婚約したその女が叫んだけれども、救う者がなかったのである。』(申命記22:25-27)
このような強姦事件の場合は、「人がその隣人に立ちむかって、それを殺したと同じ事件」と言われている。
つまり、男が力づくで女性を犯す行為は、その女性を殺したも同然の行為であり、その女性の貞潔や人格、将来を殺すばかりでなく、その女性がコミットした相手の心をも、ぐちゃぐちゃに踏みにじる行為なのだ。
『まだ人と婚約しない処女である女に、男が会い、これを捕えて犯し、ふたりが見つけられたならば、女を犯した男は女の父に銀五十シケルを与えて、女を自分の妻としなければならない。彼はその女をはずかしめたゆえに、一生その女を出すことはできない。』(申命記22:28-29)
婚約前の状態で、肉体関係を持った男女は、死刑ではなく、一生涯、相手に対しコミットする責任が生じる。
これらの事から、婚前交渉より、むしろ、コミットした相手を裏切る肉体関係こそ、重大な罪である事が分かる。
今、私達キリストには、コミットすべき特別な相手がいる。それは、キリストである。
私達は、以前はキリストから離れ、神の国から除外され、この世にあって望みもなく、神もない者だった。
しかしキリストは私達を、ご自身の血で買い取って下さり、以前は遠く離れていた私達も、今や、キリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって、神に近い者とされた。
『キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。』(エペソ2:14-15)
今や、キリスト者である私達は、キリストを「主人」として、コミットした者達である。
婚約関係に入ると、女性は、相手の男性に唯一専属的な「女性」となるように、キリストは、私達にとって、唯一の専属的な「主人」である。
そして、人が浮気したらねたみを引き起こすように、主も、私達の霊的な浮気を、ねたまれる。
『私たちは主のねたみを引き起こそうとするのですか。まさか、私たちが主よりも強いことはないでしょう。』(1コリント10:22)
キリストに対してコミットしたからには、もはや、キリスト以外に霊的な”色目”を使う事は止めるべきである。
礼拝説教メッセージ音声:結婚前の純潔を保つ事(申命記22:13-21):右クリックで保存
神は、創造の初めから人を男と女とに造られた。人はやがて父母を離れ、結婚すると、彼らはもはやふたりではなく、一つの肉となる。(マルコ10:16-19)
聖書が示している所では、肉体関係を結んで良い相手は、ただ一人、結婚相手のみであり、それ以外の肉体関係は不当としている。
『もし人が妻をめとり、妻のところにはいって後、その女をきらい、『わたしはこの女をめとって近づいた時、彼女に処女の証拠を見なかった』と言って虚偽の非難をもって、その女に悪名を負わせるならば、その女の父と母は、彼女の処女の証拠を取って、門におる町の長老たちに差し出し、そして彼女の父は長老たちに言わなければならない。
『わたしはこの人に娘を与えて妻にさせましたが、この人は娘をきらい、虚偽の非難をもって、「わたしはあなたの娘に処女の証拠を見なかった」と言います。しかし、これがわたしの娘の処女の証拠です』と言って、その父母はかの布を町の長老たちの前にひろげなければならない。』(申命記22:13)
ここでは、結婚した男が、妻が気に食わず、妻を非難する理由として「処女でなかった」と訴えて来た場合の対処が示されている。
『その時、町の長老たちは、その人を捕えて撃ち懲らし、また銀百シケルの罰金を課し、それを女の父に与えなければならない。彼はイスラエルの処女に悪名を負わせたからである。彼はその女を妻とし、一生その女を出すことはできない。』(申命記22:18-19)
もし、男が手前勝手に、妻の「貞潔さ」について、虚偽の訴えをするとしたら、その罰は重い。
その訴えは、女性を死刑にするかどうかの訴えであるからだ。
律法では、虚偽の訴えをして相手を陥れようとするなら、「目には目、歯には歯」の法則で裁かれる。(申命記19:18-21)
例えば、気に食わない男性に、痴漢の嫌疑をかぶせて、拘束させようとしたり、慰謝料を取ろうとしたりする場合、その訴えが偽りだと分かった際には、彼にかぶせようとした拘束や罰金が、そのまま自分の身に振りかかる事になる。
妻の貞潔さについて偽りの嫌疑をかけた場合の報いは、石打ちではなく、むち打ちと、百シケルの罰金と(奴隷の値段は三十シケル、花嫁料は五十シケルであるから、百シケルはかなりの額)、生涯、彼女の面倒を見なくてはならない責任が生じる。
『しかし、この非難が真実であって、その女に処女の証拠が見られない時は、その女を父の家の入口にひき出し、町の人々は彼女を石で撃ち殺さなければならない。彼女は父の家で、みだらな事をおこない、イスラエルのうちに愚かな事をしたからである。あなたはこうしてあなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。』(申命記22:20)
もし、彼女が訴えの通り処女でなかった場合、彼女は、父の家の門で石打ちの刑に処せられる。
そこまで重い刑罰の理由は、「父の家で、みだらな事をおこない、イスラエルのうちに愚かな事をしたから」である。
もしそうなった場合、父は、とてもつらいであろう。
しかし、それ程までに、イスラエルでは、結婚における純潔さは重要だという事だ。
なぜ、そんなに純潔さが重要なのか。
結婚して夫婦となる事は、産んで増えて地に満ちていくという、主の祝福の命令を遂行する事であり、一つの家を、家系を、氏族を、新しく築き上げていく一つの事業である。
もし、妻あるいは夫の「貞潔さ」が失われてしまうとしたら、人の営みの中で最も親密であるべき「夫婦」の関係さえ、信頼できないものとなってしまい、夫婦関係だけでなく、親子関係もバラバラになってしまい、家族全員に深い傷を残す事となってしまう。
自分の結婚相手が、あるいは、自分の父や母が、息子や娘が、性的な不貞を犯すとしたなら、ひどく打ちのめされるだろうし、少なくとも、不快な思いにはなるだろう。
その事は誰も否めないはずだ。
だから、自分の貞潔さを守る事は、自分自身のためというより、結婚する相手のため、そして、これから築いて行く家や、生まれて来る子供達、孫達のためにこそ、重要なのだ。
そしてまた、聖書は言っている。
結婚関係は、キリストと教会の関係をあらわしており、その関係においては、やはり純潔さが求められる事を。
果たして私達は、キリストの花嫁として、相応しく振る舞って来ただろうか。
キリストに対して、純潔を保って来ただろうか。
私達は皆、罪の故に堕落し、自らを汚し、キリストの花嫁としては、とてもではないが、相応しくない者であった。
しかしキリストは、そんな私達を清めるために、自らのいのちを犠牲にして下さった。
『夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。』(エペソ5:25-27)
私達は、キリストの御言葉によって汚れた心と体は清められ、聖なるものとされ、しみや、しわや、その類の一切無い、清くて傷のない者として、御前に迎えられるのである。
キリストは、私達を愛するがために、ご自身を捧げられたのだ。
いのちを投げ出して下さってまで、私達を清めて下さったキリストの愛を、私達は、決してないがしろにしてはならない。
『もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。・・・神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう。』(ヘブル10:26-29)





