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蛇 - 悪魔 - の誘惑の徹底解剖 (創世記3:1-5)
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第二礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
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「主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。」(創3:1) この蛇こそ、天から投げ落とされた、全人類を惑わす者、すなわち悪魔とかサタンとか呼ばれる、あの古い蛇(黙12:9)である。
悪魔の「魔」、その漢字は、广(まだれ:家や庭を意味)の中に、二本の木があり、その間に「鬼」と書くように、悪魔の誘惑の特徴は、いかに人をいのちの木から遠ざけ、善悪の木に向かわせるか、という点にあり、御言葉の肝心な所を抜いたり、不純物を混ぜたりして、人に不安の波紋を起こさせ、御言葉否定へと導く。
神が言われたのは、?「園のどの木からも」 ?「思いのまま食べてよい」、?「しかし善悪の知識の木からは」 ?「取って食べてはならない」だった。(創世記2:16-17)
しかし悪魔であるこの古い蛇は、『?「園にあるどの木からも」 ?「取って食べてはならない」と、ほんとうに神が言われたのですか』(創3:1)、と言っており、肝心の、?と?を除いてしまっている。
蛇は、神様から与えられているあらゆる良き祝福には、全く言及せず、たった一つのしてはならない事にクローズアップさせ、あたかも神は、我々に制限を大きく課しているかのような錯覚を、吹き込ませた。
御言葉をしっかり覚えていないと、容易に騙されてしまう。エバはその掻き乱しに、まんまと乗ってしまった。
皆さんも、エバのように、神様は我々を大きく制限し、良き物を出し惜しみしていると思っていないだろうか。
エバは「園にある木の実を食べてよいのです」と答えたが、「どの木からでも」「思いのまま」を省いている。
神様からのあらゆる豊かな恵みが縮小されてしまっており、さらに「園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」と続けた。
エバが「いけない」を3つも言った所に、神様は「いけない」を良く言うお方だという否定的認識を垣間見る。
皆さんも、エバのように、神様は「いけない」を良く言うお方だという思いに、曇らされていないだろうか。
もしそうなら、蛇は、皆さんの誘惑に成功し、神様からの、あらゆる豊かな恵みが、まんまと曇らされている。
神は「触れてはいけない」とは言っていなかった。エバとしては、神様をかばうつもりで、拡大解釈して言ったのだろうが、神様は、人間の力や思いつきによって弁護されるようなお方ではない。神様はむしろ、人間が御言葉にしっかり留まり、多くの実を結ぶ事によってこそ、栄光をお受けになるのだ。(ヨハネ15:7-8)
御言葉に人間的な解釈をつけ足しする事は、パリサイ派や律法学者の道であり、それは、ますます人を束縛し、人を御言葉の真理から遠ざけさせ、サタンを喜ばせる事である。
神様は「それ(善悪を知る知識の実)を取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」と言われたのに、エバの中では「死んではいけないから」と変換されており、「必ず死ぬ」という確信が揺らいでいるのも分かる。
私達がサタンに、心かき乱されるような事を言われた時、答えに急いて、口からでまかせを言ったり、御言葉に根拠の無い、自分なりの解釈を、ぽろっと言ってはならない。
サタンは、御言葉に根拠の無い解釈や、人間的な力・知恵など、これっぽちも怖くはない。
むしろ、御言葉に付け足したり、差し引いたりする事は、サタンの大好物で、さらに付け上がって来る。
エバの中に御言葉への確信がなく、付け足したり差し引いたりしたのを見たサタンは、今度は、御言葉の完全否定を吹きかけて来た。「蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」(3:4-5)
サタンの本質的な性質は、神を引きずり降ろし、自分が神のように高くなる事である(イザヤ14:12-15)。
それに対し、救いの道はその全く逆で、自分を降ろし、主を高くする事である。
私達が主とするべきお方は、唯一キリストのみ、土台とすべきは、自分の考えではなく、御言葉のみである。
主はサタンに試みられた時、御言葉によってを撥ね付けたように、私たちも、御言葉をそのまま、信仰を混ぜて宣言するなら、サタンはやがて去っていくのだ。
「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。」(コロサイ3:16)
御言葉をたっぷりと蓄え、サタンの策略を知って見極め、その手には乗らず、御言葉によって勝利し、信仰者として堂々と歩み、サタンからはむしろ分捕っていく皆さんでありますように!
礼拝説教メッセージ音声:肉と血(申命記12:15-28):右クリックで保存
荒野の民は、約束の地に入るまでの間、牛や羊、やぎを、身勝手に屠殺してはならず、それを食す時は、必ず「礼拝」を通さなくてはならなかった。
すなわち、それらを主の幕屋の前に連れて来て、酬恩祭(和解のいけにえ)として捧げなければならなかった。(レビ記17:1-9)
しかし、約束の地に入ったなら、牛や羊、やぎも含め、好きなように肉を食べる事ができるようになる。
『あなたの神、主が賜わる恵みにしたがって、すべて心に好む獣を、どの町ででも殺して、その「肉」を食べることができる。すなわち、かもしかや雄じかの肉と同様にそれを、汚れた人も、清い人も、食べることができる。』(申命記12:15)
なぜ、約束の地に入るまでの期間は、牛や羊、やぎの肉を勝手に食べる事は出来ず、必ず「礼拝」というステップを通さなくてはならなかったのか。
それは、彼らがエジプトにいた時に染まってしまった偶像崇拝の習慣からの、「霊的毒抜き」のためと思われる。(レビ記17:1-9)
エジプトでは、牛や羊、やぎなどは、崇拝の対象となっていた。
レビ記の命令が与えられた時点では、エジプトから出てそんなに経っていない時で、体は出エジプトしていも、心は完全に出エジプトしていない民が多かった。
事実、民数記を見ると、イスラエルの民の心は幾度もエジプトへ傾き、エジプトへ戻ろうという扇動が幾度もなされたが、そのような人達は皆、荒野で打たれ、屍となって荒野に置いてけぼりにされた。
イスラエルの民が、以前の奴隷の国・エジプトの習慣から、完全に抜け出す「毒抜き」のために、牛や羊、やぎなど、エジプトでは崇拝の対象となっていた動物をほふるときは、必ず主を通し、主の前で礼拝を行う事を、イスラエルの民は約束の地に入るまでの間、ずっと続けた。
同じように、私達も、毒抜きすべき、以前の「世」の習慣があるかもしれない。
それは、お酒や性的不品行などの肉体的な悪い習慣かもしれないし、あるいは、すぐ暴力を振るったり暴言を吐くといった、性格的な悪い習慣かもしれない。
それらは、奴隷のように私達を縛り、新しい聖なる生活へ入ろうとする事を邪魔する。
しかしそれらは、イエスの御名と血潮によって、束縛から開放される事は可能である。
イスラエルの民が行ったように、そこから完全に抜け出すまでに、自分の中でそれに関わる全てにイエスの御名を通し、兄弟姉妹の祈りを通すのだ。
その事を一定期間続けるなら、段々、以前の悪い習慣や誘惑は、ものともしなくなって行き、やがて、その束縛を断ち切る事が出来るようになる。
主は、約束の地では肉を好きなように食べることを許されたが、二点、注意しなくてはならない事がある。
一つは、牛や羊、やぎなどを「主への捧げ物」とする場合は、荒野で命じられた時のように、主が選ばれる場所でしか、食べてはならない事。(申命記12:17)
もう一つは、血を食べてはならない事。
『その血は食べてはならない。水のようにそれを地に注がなければならない。あなたの穀物と、ぶどう酒と、油との十分の一および牛、羊のういご、ならびにあなたが立てる誓願の供え物と、自発の供え物およびささげ物は、町の内で食べることはできない。あなたの神、主が選ばれる場所で、あなたの神、主の前でそれを食べなければならない。すなわちあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、および町の内におるレビびとと共にそれを食べ、手を労して獲るすべての物を、あなたの神、主の前に喜び楽しまなければならない。』(申命記12:16-18)
血を食べてはならない、これはノアの時代以来、主が命じられた事であるが、血は、聖書では、とても重要な意味がある事が記されている。
実際、血には多くの情報が隠されている事が、科学的にも立証されている。
すなわち、赤血球や白血球など血潮に含まれる全ての細胞には、DNA情報が組み込まれており、その持ち主の全ての情報が記されている。
血は、いのちそのものであり、また、神との契約のしるしとして有効なものである。(出エジプト記24:8、マルコ14:24)
日本では印鑑は契約のしるしとして用いられるが、印鑑の押された文書は、ある種の荘厳さと説得力がある。
それに対し、契約のしるしである血は、印鑑よりも遥かに多くを語り、説得力がある。
血は、語る。血は、叫ぶ。血は、証しする。(創世記4:10、黙示録6:9-10、ヘブル12:24、1ヨハネ5:6-7)
また、血潮はきよめの役割を果たす。(ヘブル9:13-22)
不当に流されたアベルの血は、地面の中から主に向かって叫んだように、イエス様の血潮も、父なる神に向かって叫ぶ。
父なる神に対しては、キリストにある私達の弁護を叫び、サタンに対しては、イエスの血を流した事の罪定めを叫ぶのだ。
律法では、血を食べてはならない、その内にはいのちがあるから、と言われているが、唯一の例外がある。
いや、それどころか、その血を飲まなくては、いのちは無い、とまで言われている血がある。
それは、イエスの血である。
『イエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。』(ヨハネ6:53-56)
聖書で血潮がとても重要なものとして位置づけられている理由は、イエスの血潮の重要性を示すため、と言っても過言ではない。
イエスの血潮は、私達の罪を完全にきよめ、神に対しては弁護を叫び、サタンに対しては罪定めを叫び、私達が贖われた事の、完全なる契約の調印のしるしである。
私達も、イエスのいのちそのものである血潮を頂く事によって、イエス様のあらゆる優れたDNAが、すなわち、イエスの聖なるご性質、神の子としての完全なご性質が、私達の内にも、組み込まれるのである。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
私の全てを知られる主(詩篇139篇):右クリックで保存
山上の説教 - 明日の事を思い煩うな(マタイ6:24-34)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » マタイによる福音書
- 執筆 :
- pastor 2014-2-1 3:20
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
山上の説教 - 明日の事を思い煩うな(マタイ6:24-34):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
新しいエルサレム - 飾られた花嫁(黙示録21:1-8):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:主を喜ぶ事は力である(申命記12:5-14):右クリックで保存
イスラエルがカナンに入って真っ先に為すべきは事は「きよめ」だった。その次に為すよう命じられている事は、感謝と喜びをもって、礼拝を捧げる事である。
きよめた後に、礼拝を捧げる。この順番は大事である。
『あなたがたの神、主がその名を置くために、あなたがたの全部族のうちから選ばれる場所、すなわち主のすまいを尋ね求めて、そこに行き、あなたがたの燔祭と、犠牲と、十分の一と、ささげ物と、誓願の供え物と、自発の供え物および牛、羊のういごをそこに携えて行って、そこであなたがたの神、主の前で食べ、あなたがたも、家族も皆、手を労して獲るすべての物を喜び楽しまなければならない。これはあなたの神、主の恵みによって獲るものだからである。』(申命記12:5-7)
私達も、主が約束を成就して下さった時には、感謝と喜びをもって礼拝を捧げ、兄弟姉妹と共に、御前で喜び楽しむべきである。
そして、礼拝を捧げる際には、人が勝手に定めた所ではなく、主が定められた所を尋ね求め、そこに行き、主が定められた通りに礼拝を捧げるよう命じられている。
『あなたがたがヨルダンを渡り、あなたがたの神、主が嗣業として賜わる地に住むようになり、さらに主があなたがたの周囲の敵をことごとく除いて、安息を与え、あなたがたが安らかに住むようになる時、あなたがたの神、主はその名を置くために、一つの場所を選ばれるであろう。あなたがたはそこにわたしの命じる物をすべて携えて行かなければならない。すなわち、あなたがたの燔祭と、犠牲と、十分の一と、ささげ物およびあなたがたが主に誓ったすべての誓願の供え物とを携えて行かなければならない。』(申命記12:10-11)
私達も、御言葉というガイドラインを無視して、自分の目に正しいと見られる事を行ってはならない。
『そこでは、われわれがきょうここでしているように、めいめいで正しいと思うようにふるまってはならない。』(申命記12:8)と言われている通りである。
もし、御言葉に聞くということをせず、めいめいが「これが正しい」と見える事に従って、好き勝手に振る舞うとしたら、士師記のような殺伐とした苦しみの時代に突入してしまう。
士師記の時代が、なぜ、殺伐とした時代になってしまったのか。
その理由は「おのおの自分の目に正しいと見るところをおこなった」からだった。(士師記21:25、17:6)
もしある人が「これは神に喜ばれるだろう」と思って、朝夕に冷水浴びを欠かさずするとしたら、それは神様に喜ばれるのだろうか?
答えは、ノーである。
なぜなら、「主に喜ばれるために冷水を浴びよ」などと聖書のどこにも書いていないし、むしろ、行いではなく信じる事こそ主は喜ばれる事が、聖書の至る所に書いてあるからである。
今の時代、私達が、主の御前に正しく礼拝を捧げるには、どのような手順を踏めば良いのだろうか。
それは、イエス・キリストを通して、である。
『イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』(ヨハネ14:6)
イエス・キリスト無き礼拝は、無効である。
イエス・キリストの名によらない祈りは、無効である。(ヨハネ14:13-14)
イエス・キリストの御名以外に、救いは無い。(使徒4:12)
モーセは、主を礼拝する時は、自分の家族だけでなく、自分のしもべやはしためも、そしてレビ人も、共に主を喜んで礼拝が捧げられるようにしなさい、と、命じている。
『そしてあなたがたのむすこ、娘、しもべ、はしためと共にあなたがたの神、主の前に喜び楽しまなければならない。また町の内におるレビびととも、そうしなければならない。彼はあなたがたのうちに分け前がなく、嗣業を持たないからである。』(申命記12:12)
しもべやはしためには、自分の所有物が無い。そこで、彼らも主に捧げものが出来て、共に礼拝を捧げる恵みに与れるように命じている。
それはちょうど、親が、子供も献金を捧げられるようにと、お金を持たせるのと同じである。
また、レビ人は神に仕える働き人であり、地上の仕事を持ってはならない故、彼らも共に礼拝を捧げる恵みに与かるために、彼らを招くよう命じられている。
私達も、主が願っていた事を叶えて下さった時には、必ず、主の御前に戻って感謝の礼拝を捧げ、御前で喜び楽しむ事を忘れてはならない。
礼拝は、喜びであり、神と人とが共に交わり楽しむものである。
もし礼拝の中に、喜びも無いとしたら、それはどこか間違っている。
もし礼拝に「嫌さ」「窮屈さ」があるとしたら、それは主体が「主」にではなく、自分の「行い」になっているため、そこには何の意義も見いだせないはずである。
礼拝は本来、「主」が主人公であり、主に対する感謝と喜びに満ちたものである。
そして、主を喜んで礼拝するなら、日々の生活に喜びと力が湧き起こってくる。
『主を喜ぶことはあなたがたの力です。』(ネヘミヤ8:10)
礼拝説教メッセージ音声:古き罪の性質は滅ぼし尽くせ(申命記12:1-4):右クリックで保存
『これはあなたの先祖たちの神、主が所有として賜わる地で、あなたがたが世に生きながらえている間、守り行わなければならない定めと、おきてである。』(申命記12:1)
申命記5章から11章までの所では、主の命令を守り行うなら、祝福され、守り行わないなら、呪いを受ける、という法則が、繰り返し述べられて来た。
その中で、最も重要ないましめは、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、主を愛すべき事であり、そして、主の命令を守り行うべき事が再三命じられて来たが、今回の12章から26章までの所では、具体的な生活の場面場面において、どのようにそれらを適用して行くべきかが、記されている。
『あなたがたの追い払う国々の民が、その神々に仕えた所は、高い山にあるものも、丘にあるものも、青木の下にあるものも、ことごとくこわし、その祭壇をこぼち、柱を砕き、アシラ像を火で焼き、また刻んだ神々の像を切り倒して、その名をその所から消し去らなければならない。』(申命記12:2-3)
主と共なる、きよい、新しい生活に入るために、真っ先にしなくてはならないは、「きよめ」である。
イスラエルがカナンに入って、真っ先にするべき事は、以前、その地で行われていた偶像礼拝の痕跡を、跡形もなく滅ぼし尽くし、淫らな行いの痕跡を消し去る事である。
私達も、キリスト者として、聖なる新しい生活に入るためには、以前の古い罪の性質、滅ぼしつくすべきである事を、パウロは命じている。(エペソ4章)
私達はキリストを知る以前、この世にあって虚しく歩み、知性においては暗くなり、無知と頑なな心の故に、神のいのちから遠く離れ、霊的には無感覚となり、あらゆる不潔な行いを、ほしいままに為して放縦に身をゆだねていた。
しかしキリストは、私達を罪と死の行いから離れ、義と聖とを備えた新しい人を着て生きるようにと、召し出して下さったのだ。
『あなたがたはたしかに彼に聞き、彼にあって教えられて、イエスにある真理をそのまま学んだはずである。すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。』(エペソ4:21-24)
そういうわけで、私達は、以前の古い生き方を捨て去るべきである。
『神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである。すべての無慈悲、憤り、怒り、騒ぎ、そしり、また、いっさいの悪意を捨て去りなさい。互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。』(エペソ4:30-32)
神は、イスラエルの民に、かつてそこで行われていた偶像崇拝の痕跡を、一切消し去るよう命じられたように、私達も、怒る事、盗む事、悪い言葉を口から出す事、また、すべての無慈悲、騒ぎ、そしり、いっさいの悪意などを、古い生き方と共に、滅ぼしつくす事が、命じられている。
それらを滅ぼし尽くして、はじめて、新しい聖なる生活を営む事が出来るのだ。
だがイスラエルは、滅ぼしつくすべき事を、徹底して行わず、追い払うべきものを追い払わず、妥協したまま、それらとの共存生活を始めかけていた頃、主の使いが現れ、言われた。
『あなたがたはわたしの命令に従わなかった。あなたがたは、なんということをしたのか。それでわたしは言う、『わたしはあなたがたの前から彼らを追い払わないであろう。彼らはかえってあなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたのわなとなるであろう』と」。主の使がこれらの言葉をイスラエルのすべての人々に告げたので、民は声をあげて泣いた。』(士師記2:2-4)
そしてイスラエルは、暗く、殺伐とした、士師記の時代へと、突入して行ったのだ。
私達も、以前の古い性質、神に喜ばれない滅ぼしつくすべきものを滅ぼしつくさないでいると、主は、私達の前から敵を追い払わず、私達は敵の前で立てなくなってしまい、士師記のような、人生の荒んだ時代へと、突入してしまう。
私達が、きよい、聖なる生活をしたいと思うのなら、まず、滅ぼしつくすべきものを滅ぼしつくすべきなのだ。
以前の古い性質、すなわち、怒り、偽り、不品行をしっかり取り除き、生きている限り幸いと祝福の生活を続けていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:祝福と呪いの宣言(申命記11:22-32):右クリックで保存
モーセは再度、主の命令を、努めて守り行うように命じている。
『もしわたしがあなたがたに命じるこのすべての命令をよく守って行い、あなたがたの神、主を愛し、そのすべての道に歩み、主につき従うならば、主はこの国々の民を皆、あなたがたの前から追い払われ、あなたがたはあなたがたよりも大きく、かつ強い国々を取るに至るであろう。あなたがたが足の裏で踏む所は皆、あなたがたのものとなり、あなたがたの領域は荒野からレバノンに及び、また大川ユフラテから西の海に及ぶであろう。』(申命記11:22-24)
モーセは神を、「あなたの神である主」と言っているが、皆さんは、両親を「わたしの父と母」と当然のように呼ぶごとく、皆さんの信じている神、主を、「わたしの神」と当然のように呼んでいるだろうか。
この主を「わたしの神」として愛し、主が命じられた道に歩み、つき従うなら、主は敵を、目の前から追い払われる。
いかに相手が自分達よりも強く、大きくとも、主が勝利させて下さるのだ。
私達が御言葉を守り行うなら、主は、今まで私達の通った事の無い、「広々とした良き地」を踏みゆかせ、そこを与えて下さる。
その「広々とした良き地」とは、実際の土地かもしれないし、社会的なポジションかもしれないし、あるいは、心の領域かもしれない。
主の御言葉を守り行う度に、内側が清められ、力強くされ、開放されて行くため、心の内が、ますます広々となって自由になり、今まで恐れや未熟さの故に「あれは出来ない」「これも出来ない」と、狭まっていた心が開放され、出来なかった事が出来るようになって行き、考えもしなかったよう領域へと、踏み込んで行く事が出来るようになるからだ。
『見よ、わたしは、きょう、あなたがたの前に祝福と、のろいとを置く。もし、きょう、わたしがあなたがたに命じるあなたがたの神、主の命令に聞き従うならば、祝福を受けるであろう。もしあなたがたの神、主の命令に聞き従わず、わたしが、きょう、あなたがたに命じる道を離れ、あなたがたの知らなかった他の神々に従うならば、のろいを受けるであろう。』(申命記11:26-28)
祝福と呪い、この、とてもシンプルな二者択一は、私達の人生の前にいつもつきまとう。誰も、この二択、すなわち、神である主の御言葉に聞き従うか、それとも、それに反して生きるかという選択からは、逃れられない。
もし主の御言葉に聞き従って生きるなら、祝福され、幸いを得る。しかし、主の御言葉に聞き従わずに自分の好き勝手に生きるなら、のろいを受け、不幸せになる。
これは、誰もが例外なく、そうである。
『あなたの神、主が、あなたの行って占領する地にあなたを導き入れられる時、あなたはゲリジム山に祝福を置き、エバル山にのろいを置かなければならない。これらの山はヨルダンの向こう側、アラバに住んでいるカナンびとの地で、日の入る方の道の西側にあり、ギルガルに向かいあって、モレのテレビンの木の近くにあるではないか。』(申命記11:29-30)
モレのテレビンの木の近く、それは、主がおよそ500年も前に、イスラエルの先祖・アブラハムが初めてカナンの地に入り、そこで主が子孫にこの地を与えると約束された場所であり、アブラハムはその約束を受けた時、祭壇を築いて、主を礼拝を捧げた場所である。(創世記12:5-7)
主は、およそ500年も前からの約束を、誠実に果たそうとしておられたのである。
主がその500年来の約束を果たされた暁には、その重要な場所で、祝福と呪いを宣言しなさい、と、主は命じている。
具体的には、もしこれから主が命じられた事を守り行わず、主の忌み嫌われる事をするなら、呪われよ、と、自ら宣言するのである。(申命記27章)
私達も、主から幸いを受けた時こそ、油断せず、主の憐れみといつくしみを思い起こすよう、幸いを受ける前の段階から、信仰をもってシュミレーションしておくべきだ。
御言葉を守り行って生きるなら祝福を、御言葉を軽んじ守り行わないなら、呪いを受ける。
その事を日々宣言しつつ、恐れとまごころを持って主に仕えていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:メズーザー(申命記11:13-21):右クリックで保存
『もし、きょう、あなたがたに命じるわたしの命令によく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心をつくし、精神をつくして仕えるならば、主はあなたがたの地に雨を、秋の雨、春の雨ともに、時にしたがって降らせ、穀物と、ぶどう酒と、油を取り入れさせ、また家畜のために野に草を生えさせられるであろう。あなたは飽きるほど食べることができるであろう。』(申命記11:13-15)
祝福の条件は、やはり「命令によく聞き従う事」であり、既に6章でも命じられた通り「あなたがたの神、主を愛し、心をつくし、精神をつくして仕える」事である。
モーセはこの命令を再度繰り返したし、イエス様もこれは最も大切な戒めであると言われた。
これをするなら、主は、秋の雨と春の雨を時に従って降らせ、穀物や果物を豊かに取り入れさせ、また、家畜のための養いも豊かにして下さる。
『あなたがたは心が迷い、離れ去って、他の神々に仕え、それを拝むことのないよう、慎まなければならない。おそらく主はあなたがたにむかい怒りを発して、天を閉ざされるであろう。そのため雨は降らず、地は産物を出さず、あなたがたは主が賜わる良い地から、すみやかに滅びうせるであろう。』(申命記11:16-17)
前回の箇所では、イスラエルがこれから入ろうとしている地が、どんなに素晴らしいかが、強調されていた。
そこは、山と谷の多い地で、天から降る雨で潤っている地、主の目が年がら年中注がれている良き地であるが、しかし、もし主から離れ去り、偶像を拝むようになるとするなら、その良き地は、逆に不毛の地となり、災いと滅びの地に早変わりしてしまう。
実際、エリヤの時代のイスラエルがそうだった。(1列王記17章)
当時の王・アハブも、またイスラエルの民も、バアルやアシェラ等の偶像礼拝を盛んに行ったために、天の雨が閉ざされ、それで三年たってもなお主に立ち返ろうとしなかった。
しかし、イスラエルの民が「主こそ神です」と叫び、バアルやアシェラの預言者を殺したところ、イスラエルに雨が戻ってきた。
私達は、どんな良きポジションを得るかを求め急ぐより、もっと大切な事がある。
荒野にいようとも、乳と蜜の流れる良き地にいようとも、私達を導かれる主を愛し、主の命令を守り行う事が、はるかに大切だ。なぜなら、いかに乳と蜜の流れる豊かな地にいようとも、どんなに富や権力、名声を手に入れようとも、もし、主から心が離れ、主以外の何かを主以上に頼りとするなら、どんなに頑張っても、必ず廃れ、滅んでしまうからだ。
そして私達は、体だけ礼拝に参加すれば良いものではない。
いかに、礼拝や聖徒の交わりに欠かさず参加しても、それらの中で取り交わされる「御言葉」に対する感動や喜び、主イエス様に対する感謝も、期待する心も無いなら、ただ、聖なる時間と空間と、愛さん会のお菓子を食いつぶしているだけである。
大切なのは、どこにいるかではない。誰といるかでもない。
本人自身が、御言葉なる主イエス様と、どのように向き合うか、である。
『それゆえ、これらのわたしの言葉を心と魂におさめ、またそれを手につけて、しるしとし、目の間に置いて覚えとし、これを子供たちに教え、家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、それについて語り、また家の入口の柱と、門にそれを書きしるさなければならない。そうすれば、主が先祖たちに与えようと誓われた地に、あなたがたの住む日数およびあなたがたの子供たちの住む日数は、天が地をおおう日数のように多いであろう。』(申命記11:18-21)
ユダヤでは、今回の箇所・申命記11:13-21が、小型の羊皮紙に記したものを、メズーザー(ヘブル語で「門柱」)と呼ばれる小型のケースに納め、それを家の柱や門柱に打ち付けている。
それは「家の入口の柱と、門にそれを書きしるさなければならない。」という命令を、そのまま守り行うためである。
しかし、御言葉を門に打ち付けたり、トイレに飾ったりする事よりも、むしろ御言葉を心に打ち付け、御言葉通りの良き行いで身を飾る事のほうが大切である。
パリサイ人は、御言葉の書かれた経札を額に結びつけ、その経札の幅を広くするなど、人に見せるためのパフォーマンスは派手にして、それでいて、正義やあわれみ、誠実という、さらに大切にしなくてはならないものを、おろそかにしている様を、主に咎められた。(マタイ23章)
大切なのは、御言葉に書いてある事を、信仰によって結びつけ、実践する事である。
そうでないなら、聞いた言葉も、益とはならない。
『福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。信じた私たちは安息にはいるのです。』(ヘブル4:2-3)
『もし、きょう、あなたがたに命じるわたしの命令によく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心をつくし、精神をつくして仕えるならば、主はあなたがたの地に雨を、秋の雨、春の雨ともに、時にしたがって降らせ、穀物と、ぶどう酒と、油を取り入れさせ、また家畜のために野に草を生えさせられるであろう。あなたは飽きるほど食べることができるであろう。』(申命記11:13-15)
御言葉をしっかり心に刻み、御言葉どおりの行いによって身を飾り、申命記に約束されている通りの幸いと祝福にあずかる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
エバ – 女 - の成り立ち (創世記2:18-25)
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「また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう。」
主が創られたものは、全て良かったが、一つの事を「良くない」と言われた。それは、人が一人でいる事だ。
そこで主は、彼のために「ふさわしい」「助け手」、すなわち、女を造る事にされた。
「ふさわしい(ネゲド)」という言葉は、向き合う者、ペアの一方、対応する同等のものを意味する。
また、旧約聖書で「助け手(エゼル)」という言葉は、そのほとんどの場合、人を助けて下さる神をあらわす言葉で、その「助け」が無ければどうしようもないような、重要な存在である。
つまり女は、男の重要な助け手(エゼル)として造られた。通常、エゼルの言葉が使われる多くの場合、エゼル(助け手)の側が上位であるが、男と女は互いに同等の命であり、互いは助け合い、不足を補いあうものである。『主にあっては、男なしには女はないし、女なしには男はない。それは、女が男から出たように、男もまた女から生れたからである。そして、すべてのものは神から出たのである。』(1コリント11:11-12)
『人にはふさわしい助け手が見つからなかった。そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。』(創世記2:20-22)
未婚の男女が、ふさわしい助け手を得る条件、それは、深い眠り、すなわち、死を通る必要がある。
結婚は人生の墓場だと良く言われるが、それはある意味正しい。独身時代は自分の思うがままに生き、あらゆる異性が、結婚相手になるかもしれない可能性があったが、結婚してからは、そうはいかない。
自分に対して死に、伴侶のために、そして新しく生まれるいのちのために生きるのでなければ、結婚生活は成り立たないが、自分に死ぬのであれば、結婚生活において、すぐれた命の喜びを見出す事になる。
そういうわけで、結婚のための第一条件は「自分に対して死ぬ」事である。
キリストもいのちを投げ出した事によって、助け主・聖霊が、私達に与えられるようになった。(ヨハネ16:7)
『そのとき、人は言った。「これこそ、ついに(今や、今度こそ)わたしの骨の骨、/わたしの肉の肉。男から取ったものだから、/これを女と名づけよう」。』(創世記2:23) 「これこそ、ついに(今や、今度こそ)」という言葉に、アダムが待ちに待っていたものが与えられ、大喜びしている様を見て取れる。
聖書に記録される人間の言葉は、骨の骨、肉の肉が現れた事を喜ぶ言葉である。
アダムは、動物たちに名前をつけて行く際、雄と雌のつがいが、産んで増えて行く様を見て、自分もパートナーを持ちたいと思っていた事だろう。そんな彼が、深く眠らされ、自分のあばら骨を元に、同じいのちを共有する「女」が造られ、彼が目覚めた時、その女が、彼の前に立ったのだ。
神は、アダムも含め全生物を全て、土のちりから創られたが、唯一例外がある。それは、女である。
女は、男の脇腹の骨を元に、同じ骨、同じ肉、同じいのちとして造られた。それで女は、男の脇腹の所が本来の居るべき場所であり、男も、女を同じいのちを共有するものとして尊敬すべきである。(1ペテロ3:7)
『それで人はその父と母を離れて、妻と「結び合い(くっついて離れない)」、一体(一つ肉)となるのである。』(創2:34) これは、男と女の結婚の事にとどまらない。夫と妻との関係は、キリストと教会の関係のひな形であり、パウロは、この奥義は偉大である、と言っている。(エペソ5:32)
そして結婚のための第二条件は、父母の庇護から離れて、一人立ちしている事である。(エペソ5:31-32)
男も女も、親の庇護から離れなくては、伴侶を苛立たせてしまうように、私達も、キリストの庇護に入ったからには、世という親元からは離れていなければならない。
キリストは第二のアダムであり(1コリント15:45)、教会はキリストの花嫁、第二のエバである。
キリストは、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるために、いのちを投げ出され、激しい苦しみによって生み出された教会を見て満足された(イザヤ53:11)。そして、花婿が花嫁を喜ぶように、主は教会である私達を喜ばれるのだ。(イザヤ62:5)
皆さんは、こんなにも愛して下さったキリストに、ふさわしい助け手として、苦しみと喜びを共に受ける生き方をしているだろうか。主人であるイエス様の言うとおりにして、彼に養われる事を望んでいるだろうか。