• カテゴリ 礼拝メッセージ説教音声配信 の最新配信
  • RSS
  • RDF
  • ATOM

メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
言葉の行き先と出所元(1コリント14:6-19):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
山上の説教 - 主の祈り2(マタイ6:9-15):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
千年の懲役と千年の支配(黙示録20:1-6):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:私達が正しいからではない(申命記9:1-6):右クリックで保存

イスラエルが、これから攻め込もうとしている地は、イスラエルよりも大きく、強い国々である。
そして、彼らの親の世代から『アナクの子孫の前に、だれが立つことができようか』と言われるのを、彼らは子供の時から聞かされていた。(申命記9:1-2)
不信仰な親によって、「できっこない」という否定的な思考パターンが刷り込まれているとしたら、それは、祝福への歩みの、大きな妨げととなってしまうものであるが、モーセの次の言葉は、その強力な刷り込みを打ち破らせる。

『それゆえ、あなたは、きょう、あなたの神、主は焼きつくす火であって、あなたの前に進まれることを知らなければならない。主は彼らを滅ぼし、彼らをあなたの前に屈伏させられるであろう。主があなたに言われたように、彼らを追い払い、すみやかに滅ぼさなければならない。』(申命記9:3)

信仰をもって進む時、戦うのは私達ではなく、主である。
主が焼きつくす火となって先んじて進み、主が戦い、主が勝利して下さるのだ。
だから私達も、いかに親から、不信仰で否定的な言葉の刷り込みがあったとしても、私達自身が主に信頼し、前進するなら、そうした、強烈に植えられたマイナスなものは、あっけない程簡単に打ち破られ、今まで勝てなかった敵に勝利し、今まで入れなかった領域に、入って行けるようになるのである。

そうなるためには、私達自身が実際、信仰によって一歩踏み出す必要がある。
契約の箱をかつぐ祭司が、水いっぱいたたえているヨルダン川へと、一歩足を踏み入れたら、川は堰き止められて行ったように(ヨシュア記3章)、主の御業は、私達の信仰と共に働くものであるからだ。

「アナクの子孫の前に、だれが立つことができようか」と言った、あの、四十年前の不信仰世代のように、恐れて退くなら、荒野の四十年の放浪が、前途に待ち構えている。
『わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。』(ヘブル10:38-39)
しかし、私達がもし信じて、主の御心に従って行くなら、主の御業は必ず為され、必ず祝福が待っている。

『あなたの神、主があなたの前から彼らを追い払われた後に、あなたは心のなかで『わたしが正しいから主はわたしをこの地に導き入れてこれを獲させられた』と言ってはならない。この国々の民が悪いから、主はこれをあなたの前から追い払われるのである。』(申命記9:4)
主がイスラエルを勝利させて下さるのは、イスラエルが正しいからではない。
その地の先住民が、邪悪なためだ。
これらの国々は、アブラハムの時代からずっと、何百年も悪を行っており(創世記15:16)、ついには、主の憐れみの期間が尽きてしまったため、主はこれらの国々を、イスラエルを用いて、滅ぼすに任されたからだ。

『あなたが行ってその地を獲るのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない。この国々の民が悪いから、あなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるのである。これは主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた言葉を行われるためである。』(申命記9:5)
モーセは同じ事を、繰り返して言っている。
あなたがその地を得られるのは、あなたがたが正しいからではなく、心がまっすぐだからでもない、と。
むしろ、彼らがその良き地を得る事が出来る、もう一つの理由は、彼らの先祖アブラハム、イサク、ヤコブの、信仰の故である。
親の代が信仰をもって主に仕えるなら、確かに、その人自身も、その子・孫も、祝福される。
ただし、もし子や孫の世代が、主に逆らうのであれば、その世代は、確かに呪われてしまう。

『それであなたは、あなたの神、主があなたにこの良い地を与えてこれを得させられるのは、あなたが正しいからではないことを知らなければならない。あなたは強情な民である。』(申命記9:6)
モーセは、これで三度、同じ事を繰り返して言った。「あなたが正しいからではない」と。
むしろ、あなた方は強情である、本来なら、こんな良い目を見させられるには値しない者達だ、と。

私達も同じだ。
罪ある人間である私達は、本来、主の愛を受けるに値せず、主の憐れみや恩恵にあずかれるに値しない者である。
それなのに、主は私達を愛し、憐れみ、救って下さった。
それはただ、神は愛であられるからだ。
私達が正しいからでも、他より優れているからでは、決してないのだ。

主は、自分を正しいとするような傲慢な人は、放って置かれる。
むしろ、自分は救いを必要としている罪人だという自覚のある人を、救われる。
「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ9:12-13)

礼拝説教メッセージ音声:成功した時こそ気をつけよ(申命記8:11-20):右クリックで保存

『あなたは、きょう、わたしが命じる主の命令と、おきてと、定めとを守らず、あなたの神、主を忘れることのないように慎まなければならない。あなたは食べて飽き、麗しい家を建てて住み、また牛や羊がふえ、金銀が増し、持ち物がみな増し加わるとき、おそらく心にたかぶり、あなたの神、主を忘れるであろう。』(申命記8:11-14a)
モーセがここでも再度注意しているように、私達は、成功したり、富が増し加わった時こそ、最も気をつけるべきである。

アブラハムは、主がエジプトから金銀や家畜をたくさん得させて、ベテルに帰らせて下さった時、彼はかつて祭壇を築いた場所で、主を礼拝した。(創世記13:1-4)
彼は、富が増し加わった時でも、主を恐れ敬い、礼拝する事を忘れなかったが、甥のロトは、富が増し加わった事が逆に災いとなってしまった。

ロトがアブラハムと共に、生まれ故郷を離れてアブラハムについて行ったのは、アブラハムが主から祝福されているのを見、何をしても祝福される彼について行くなら、祝福のおこぼれにあずかれる、と思っていたのかもしれない。
ともかくロトは、アブラハムについて行って、実際に多くの富を手に入れた。
しかし、富を手に入れた彼は、祝福の元であるアブラハムと、彼が恐れ敬っているアブラハムの神・主と共にいる事よりも、自分が、たくさん得た富の「オーナー」である事のほうを優先させ、アブラハムから離れて行き、そして、不品行の町ソドムが「主の園のように」潤っているのを見て、そちらの方に行ってしまった。

結局ロトは、主がソドムを滅ぼされる時、娘二人と、着の身着のまま、命からがら逃げる事となり、彼の財産は全て、ソドムと共に滅んでしまった。
ロトの妻も、滅んでいくソドムを見続けたままの姿勢で塩の柱となってしまい、ソドムと一緒に滅んでしまった。
だから私達も、富が増し加わった時にこそ、注意して、主から離れないようにすべきである。

『主はあなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出し、あなたを導いて、あの大きな恐ろしい荒野、すなわち火のへびや、さそりがいて、水のない、かわいた地を通り、あなたのために堅い岩から水を出し、先祖たちも知らなかったマナを荒野であなたに食べさせられた。それはあなたを苦しめ、あなたを試みて、ついにはあなたをさいわいにするためであった。』(申命記8:14b-16)
ここでもモーセが、主がイスラエルの民に具体的に何をして下さったのかを思い起こさせているように、私達も、主が何をして下さったかを、いつも思い返すべきである。
私達は主に対しても、主にある兄弟姉妹に対しても、恩知らずになってはいけない。
『あなたは心のうちに『自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た』と言ってはならない。あなたはあなたの神、主を覚えなければならない。主はあなたの先祖たちに誓われた契約を今日のように行うために、あなたに富を得る力を与えられるからである。』(申命記8:17-18)

私の聖書の、この箇所には、ある聖徒の名前と日付が記されている。
その聖徒は当時、ある事業をしていて、その事業はあまりうまく行っていない時だったが、上記の言葉を宣言し、主が自分達を成功させて下さった暁には、決して自分の力で富を得たとは考えるまい、主が荒野のような状況で信仰を鍛えさせ、私達に富を得る力を与えて下さり、そしてついには自分達を幸せにして下さった主の導きを、決して忘れるまい、と、宣言したので、私はその信仰の告白を嬉しく思い、後の日に、この聖徒が幸いを得た暁には、「この御言葉の通り主は真実でしたね」と伝えたいと思ったので、そこに記したのだ。
実際に翌年、その事業は祝福された。
しかし残念ながら、祝福されて以来、その聖徒は、礼拝を捧げに来る事を、ぱったりと止めてしまった。
事業がだんだん衰退して行っても礼拝に来ることはなく、ほどなくしてその事業を畳み、どこかへ行ってしまった。

主を信頼し、信仰をもって御言葉を宣言するなら、主は必ず、100%、最善を為して報いて下さる。
しかし大切なのは、その後、私達が主を忘れず、当初の信仰をキープし続けていられるかである。
主に信頼して行った結果、主から幸いを頂いた、という所までの経験は、結構多くのキリスト者がしている。
しかし、その最初の信仰をキープし続けて、祝福を頂き続ける事も、同様にコンスタントにキープしていられるクリスチャンは、少数になってしまう。

『もしあなたの神、主を忘れて他の神々に従い、これに仕え、これを拝むならば、――わたしは、きょう、あなたがたに警告する。――あなたがたはきっと滅びるであろう。主があなたがたの前から滅ぼし去られる国々の民のように、あなたがたも滅びるであろう。あなたがたの神、主の声に従わないからである。』(申命記8:19-20)
英語の聖書KJVでは「ye shall surely perish. 」と、非常に強い表現である。
そうするなら、あなたは必ず、perish(突然または非業な死に方で死ぬ)と。
滅びるための手っ取り早い方法、それは、主を忘れて、他のものにより頼み、主よりもそちらを拝む事である。
全ての祝福の元である主を忘れ、他の神々、あるいは、皆さんにとって神以上に拠り頼む存在を見つけ、そちらの方に従い仕えるとしたら、必ず滅びてしまうのだ。

成功した時こそ、努めて主を思い出し、主に感謝するように、気をつける事。私達はこれを忘れないでいたい。

礼拝説教メッセージ音声:四十年の荒野の経験を忘れるな(申命記8:1-10):右クリックで保存

『わたしが、きょう、命じるこのすべての命令を、あなたがたは守って行わなければならない。そうすればあなたがたは生きることができ、かつふえ増し、主があなたがたの先祖に誓われた地にはいって、それを自分のものとすることができるであろう。』(申命記8:1)
これと同じ事は、既に、申命記4:1において、また、5:32-33や、6:1-3において、繰り返し命じられている。
主の命令には必ず報いがある。
それを守って行うなら、いのちを得て、いのちが増し加わり、主が誓われた地に入り、それを自分の所有とすることが出来るが、主の命令を軽んじ、守り行わないなら、主が誓われた地から吐出され、死と呪いの実を刈り取る事になるため、モーセは繰り返し命じているのである。

『あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない。それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたがその命令を守るか、どうかを知るためであった。』(申命記8:2)
主は確かに、私達に苦しい所を通らせる事がある。
それは、私達を試み、私達の心の内にあるものを、あらわにするためである。

主は、私達の心の内を全てご存知であるから、わざわざそんな事する必要は無いのでは、と思うかもしれないが、もし、私達がまだ悪い事を「行って」いないのに、心の内で悪い事を思った、という咎で罰されるとしたら、それは不当だ、と叫ぶだろう。
しかし、もし私達が実際に行った事によって裁かれるとしたら、それは正当な裁きであり、私達は何の言い訳も出来ない。

主は、行いの実によって報いをされるお方である、と書かれてある。
『心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである」。 』(エレミヤ17:9)
だから私達は、口先だけでなく、行いによって良き実を結び、主イエスにあって歩み、悪い実を結ばせないよう、心構えしておくべきなのだ。

『それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。』(申命記8:3)
イスラエルの民は四十年、荒野で苦しみ、試みられ、そうして主は、人はパンによって生きるのではなく、神の御口から語られる御言葉に生きるという事を、教育された。

そして、イエス様が四十日、荒野で苦しみ、試みにあわれた時、試みる者に対して主が真っ先に突きつけた御言葉の剣が、『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きる』である。(マタイ4:4)
人間ではない獣は、パン(食物)だけで生きているであろう。しかし人には、主の息吹が宿っている。
神の口から出るすべてのことばこそ、人には必要であり、誘惑する者に対しても、この言葉を突きつける事によって、私達は獣とは違う事を宣言するのである。

『この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。あなたはまた人がその子を訓練するように、あなたの神、主もあなたを訓練されることを心にとめなければならない。』(申命記8:4-5)
主は、神の民が、ぼろぼろの古い服をまとって、みずぼらしくしている様を、主の敵に見せるようなお方ではない。
主は私達を敵の前で油を注ぎ、装わせて下さるお方だ。
「天はやがて煙のように消え失せ、地は衣のように古びる。しかし、主の義はとこしえに続く」と、イザヤ51:6-8に記されている通り、服は元々、古びるものである。
しかし、神の民の衣は古びなかった、という事は、神の民は、決して古びる事の無い主の義を着ている事を、あらわしている。

『あなたは食べて飽き、あなたの神、主がその良い地を賜わったことを感謝するであろう。』(申命記8:10)
私達は満ち足りた時こそ、感謝すべきである。
主の御言葉によって生きるべき事を忘れず、末永く幸いと祝福に歩む皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:勝って兜の緒を締めよ(申命記7:17-26):右クリックで保存

『あなたは心のうちで『これらの国民はわたしよりも多いから、どうしてこれを追い払うことができようか』と言うのか。彼らを恐れてはならない。あなたの神、主がパロと、すべてのエジプトびととにされたことを、よく覚えなさい。すなわち、あなたが目で見た大いなる試みと、しるしと、不思議と、強い手と、伸ばした腕とを覚えなさい。あなたの神、主はこれらをもって、あなたを導き出されたのである。またそのように、あなたの神、主はあなたが恐れているすべての民にされるであろう。』(申命記7:17-19)

私達は、目の前に敵がいたり、実際に問題が起きてそれと戦わなくてはならない時、何かと恐れに捕われ主を忘れやすいが、その時こそ、主が今まで為して下さった良き事を、思い起こすべきである。
ダビデも「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」と、自らの心に言い聞かせ、信仰を奮い立たせた。

皆さんは、今までの人生で、主に信頼して失望させられた事は、あっただろうか。
もし、主に失望させられた、という思いがあるとしたら、よく思い返してみると、荒野での40年の放浪の原因を作ったあの世代のように、実は、自分が主に信頼しておらず、手前勝手な行動を取って、荒野の放浪のような実を刈り取っている事に対して、主に逆恨みしているだけだったりする。
主はいつでも、いつまでも、真実である。

モーセは今一度、民に「恐れてはならない」と言っている。
そして、主が良くして下さった事を忘れるな、主が敵に対して恐るべき御業を働かせて、救いだして下さった事を思い起こせ、と言っている。
主が良くしてくださった数々を数えるなら、「この問題も、主が必ず最善へと導いて下さる」と希望が湧いて来て、そして実際、その通りになるのだ。

『あなたの神、主はまた、くまばちを彼らのうちに送って、なお残っている者と逃げ隠れている者を滅ぼしつくされるであろう。』(申命記7:20)
私達が戦う時、主も共に戦って下さり、勝利を与えられる。
そればかりでなく、私達が取り逃がした敵さえ、主がくまばちを送って、滅ぼし尽くして下さる。
私達は思う。主がはじめからくまばちで一気に滅ぼし尽くしてくれればいいのに、と。
しかし、人生で為すべき物事の全ては、主とのコラボレーションであり、私達自身が実際に信仰を働かせ、主に命じられた通りに出て行き、主とともに勝ち取る必要があるのだ。

『あなたの神、主はこれらの国民を徐々にあなたの前から追い払われるであろう。あなたはすみやかに彼らを滅ぼしつくしてはならない。そうでなければ、野の獣が増してあなたを害するであろう。』(申命記7:22)
私達は、目の前にいる敵や、問題課題に対しても、主が今すぐ目の前から滅ぼし尽くし、なくして下さればいいのに、と思うかもしれない。
しかし、そうされないのに理由がある。
それは、滅びるべき敵が一気に滅びる事によって環境も一気に変わり、私達や周辺環境を害する「別の敵」がはびこる事の無いためだ。

主と共に歩むならば、勝利がある。しかし、勝利した場合にこそ、もっとも気をつけるべき事がある。
『あなたは彼らの神々の彫像を火に焼かなければならない。それに着せた銀または金をむさぼってはならない。これを取って自分のものにしてはならない。そうでなければ、あなたはこれによって、わなにかかるであろう。これはあなたの神が忌みきらわれるものだからである。あなたは忌むべきものを家に持ちこんで、それと同じようにあなた自身も、のろわれたものとなってはならない。あなたはそれを全く忌みきらわなければならない。それはのろわれたものだからである。』(申命記7:25-26)

私達は成功した時、勝利した時こそ、注意しなければならない。
実際、ヨシュア記において、強固な城塞都市エリコの大勝利の直後に、イスラエルの内に油断が生じ、アカンによる失敗があった。(ヨシュア記7章)
イスラエルが主に従順し、指導者であるヨシュアに言われた通りを、守り行った時、いかにエリコという城塞都市が強大であろうとも、犠牲者は一切出なかったようである。
しかし、自分達の身内にいる、アカンの「むさぼり」によって、実際に三十六名という犠牲者が出た。

私達が主に従順する時、主の敵は、敵とは言えない。
主が必ず勝利を与えて下さるからだ。
敵とはむしろ、私達の内にいる。それは、むさぼりであり、主に従順しない心である。

私達は、それまで手にした事の無かったような、富を手にした時、力や権力を手にした時、今まで知らなかった誘惑もまた存在する事を、忘れてはならない。
ダビデは羊飼いであった時、まさか自分が将来、人妻を手に入れたいがために、その夫を激戦区に行くよう命じ、敵の手で謀殺するなどとは、考えもしなかっただろう。
勝利した時、富を手にした時、力や権力を手にした時こそ、まさに、気をつけるべきである。
モーセはそのために、前もってしっかりと戒めを与えたのだ。
私達も、主から戒めを受ける時、祝福の地に入る準備が、ますます整えられて行くのだ。

人間の存在する理由と目的(創世記1:26-31)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・礼拝説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

昨年は、イエスキリストの系図に登場する女性たちに的を絞り、どのような性質の持ち主が栄光の家系に入ったのか学んだが、今回から、男性・女性に関わらず、また、栄光の家系に入った・入れなかったに関わらず、聖書の登場人物を観察し、どういう性質の持ち主が、神の民となれるのか、なれないのか、あるいは、神の民であっても、どういう性質であるなら追い出されてしまうのかを、学んで行きたい。
この学びを始める前に、そもそも、神は何のために人間を創られたのか、人間を本来、どのような存在として創られたのか、人が歩むべき本質とは何かをまず知る必要がある。
そうするなら、聖書のあの人物はどういう性質なのか、というのを容易に理解出来るようになり、また、私達が今、人生において、正しい歩みをしているかどうかも、分かるようになるからだ。

まず、人は何のために創造されたのか。それを一言で言うなら、御子キリストのためである。
『万物は、天にあるものも地にあるものも見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。』(コロサイ1:16-17)
そして私達は、万物の創造される前から、既に、キリストにあって選ばれており、父なる神は、天にあるすべての霊的祝福をもって私達を祝福され、御前で聖く、傷のない者にしようとされ、イエス・キリストによって私たちをご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのだ。(エペソ1:3-5)
だから人間は、神抜きに、キリスト抜きに歩むなら、本質を外した、あさっての、とんちんかんな歩みである。
聖書が言う「罪」の元々の意味は、「的外れ」であり、この、本質という「的」を射た歩みをするか、的を外した歩みをするかによって、その人の人生は祝福か呪いか、生か死かの、真逆の実を刈り取る事になる。

神は人を、どのような存在として創られたのか。
『神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。』(創世記1:26-27)
神は元々、人を聖なる神のかたちに、似姿として創られた。だから人は聖なる歩みをすべきであり、神もまた、人に聖である事を求めておられる。(レビ記19:2)
そして、神が創造した全被造物を管理し、全生物を支配するようにと、人は創られている。
果たして人間ごときが全てを支配して良いものだろうか?という疑問が沸くかもしれない。それは、人に罪がある故であるが、神が人類を創造された当初、人は罪を知らなかった。
逆に言えば、人は罪の問題を取り扱わなければ、何事も正しく支配する事は出来ない。
神はまた、人を男と女とに創造された。男と女との関係、それはキリストと教会との関係のひな形である。
男性は、妻や子のために必要なものをもたらして養い、女性は、いのちを生み、夫が与えてくれたものを用いて、家や子供たちの面倒をみて来た。最近はどうあれ、古来より男女はそのような役割分担をして来た。
キリストと人との関係も、同じである。キリストは、私達に必要な良きものをもたらして来る主人であり、そして私達はキリストの妻として、全被造物という家全体を管理し、キリストのいのちを産んで増やし、そのいのち達や、全ての生き物を、妻が家全体のめんどうを見るように、正しく治めるのである。

そういうわけで、私達には「主人」とすべきキリストがおり、父なる神様は私達を、キリストの「妻」としての目的をもって創造された。故に私達には、キリストのいのち産んで増やし地に満ちていく役割と、また、 キリストと共に住むスイートホームであるこの世において、全被造物を、全生物を正しく治め、いのちを養い、管理する責任がある。人は、キリストを差し置いて好き勝手する存在ではないのだ。
全生物が、まだ罪なき人間によって治められ、人が完全にその目的に従って歩んでいた頃、神がそれを見られると、「はなはだ良かった」と評価された。(創世記1:31)
人が創られた目的に従って歩むなら、それは「はなはだ良い」状態であり、充実し、幸い多き人生を送れるが、神から離れ、自分の身勝手な善悪判断によって生きるなら、それは本質を外した歩みである。

礼拝説教メッセージ音声:祝福されるには(申命記7:12-16):右クリックで保存

『あなたがたがこれらのおきてを聞いて守り行うならば、あなたの神、主はあなたの先祖たちに誓われた契約を守り、いつくしみを施されるであろう。あなたを愛し、あなたを祝福し、あなたの数を増し、あなたに与えると先祖たちに誓われた地で、あなたの子女を祝福し、あなたの地の産物、穀物、酒、油、また牛の子、羊の子を増されるであろう。あなたは万民にまさって祝福されるであろう。あなたのうち、男も女も子のないものはなく、またあなたの家畜にも子のないものはないであろう。』(申命記7:12-14)

祝福されるための条件、それは、もう何度も語られている通り、主の御言葉を聞いて、それを守り行う事である。
申命記28章や、レビ記26章には、御言葉を守り行った結果に与えられる祝福の明細と、そしてその反対の、御言葉を軽んじ守り行わなかった場合に与えられる呪いの明細とが、事細かに示されている。

主の御言葉を聞いて、守り行うなら、その人の土地は豊かな産物で満たされ、仕事は祝福される。
『もしあなたがたがわたしの定めに歩み、わたしの戒めを守って、これを行うならば、わたしはその季節季節に、雨をあなたがたに与えるであろう。地は産物を出し、畑の木々は実を結ぶであろう。あなたがたの麦打ちは、ぶどうの取入れの時まで続き、ぶどうの取入れは、種まきの時まで続くであろう。あなたがたは飽きるほどパンを食べ、またあなたがたの地に安らかに住むであろう。』(レビ26:3-5)
麦の収穫は春に始まり、ぶどうの取り入れは九月ごろであるから、麦打ちが春から秋までずっと続く程、また、ぶどうの取り入れが種まきの時期まで続く程の、大収穫が与えられる、という事である。

『わたしが国に平和を与えるから、あなたがたは安らかに寝ることができ、あなたがたを恐れさすものはないであろう。わたしはまた国のうちから悪い獣を絶やすであろう。つるぎがあなたがたの国を行き巡ることはないであろう。』(レビ記26:6)
イスラエルの近辺は、古くから戦争の多い所で、また、熊や獅子などの獣も出没する所である。
そのような危険な場所にあっても、主の御言葉を守り行うのであれば、それら全ての危険から守られ、安息が与えられ、安らかに寝る事が出来るのだ。

また、敵への勝利の約束が与えられている。
『あなたがたは敵を追うであろう。彼らは、あなたがたのつるぎに倒れるであろう。あなたがたの五人は百人を追い、百人は万人を追い、あなたがたの敵はつるぎに倒れるであろう。』(レビ記26:7-8)
実際、聖書には、主に忠実なわずかな人数が、圧倒的多数の敵に勝利した記事が幾つもある。

『わたしはあなたがたを顧み、多くの子を獲させ、あなたがたを増し、あなたがたと結んだ契約を固めるであろう。あなたがたは古い穀物を食べている間に、また新しいものを獲て、その古いものを捨てるようになるであろう。』(レビ記26:9-10)
主の御言葉を守り行うなら、子供たちはおびただしく多くなって行く。それでいて、穀物倉から食料が尽きてしまう、という事も、一切無い。
新しい収穫物を倉庫に入れる時、そこには昨年穫れた作物がまだ残っており、それを捨てる、という事が、毎年あるのだ。

主の御言葉を守り行う事によって、確かに色々な祝福はあるが、その祝福の中で、最たるものは、「主に愛される事」である。(申命記7:13)
主に愛される人は、どういう人か。
『わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう。』(ヨハネ14:21)
主の御言葉を聞いて、それを守り行う人が、主に愛される、というのは、結局、旧約も新約も同じである。
イエス様が言われた最も大切ないましめも、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ」であった。

私達にとって大切な事は、「良いこと」をするよりも「良い方」である主を愛する事である。
主を愛さない人は御言葉を軽んじ、御言葉の抜け道を考え出して御言葉を守り行えない事の言い訳をしたり、自分で作った神学を人に押し付けたりする。
しかし、主を愛する人には、さらに守る力が与えられ、あらゆる面で、ますます富む者となって行き、敵に勝利するのだ。

『主はまたすべての病をあなたから取り去り、あなたの知っている、あのエジプトの悪疫にかからせず、ただあなたを憎むすべての者にそれを臨ませられるであろう。』(申命記7:15)
主は、主を愛する人の敵に、エジプトの災いを送られる。しかし、主を愛して主に愛される人には、そのような災いには主が遭わせない。
主は言われた。「あなたが、もしあなたの神、主の声に良く聞き従い、その目に正しいと見られることを行い、その戒めに耳を傾け、すべての定めを守るならば、わたしは、かつてエジプトびとに下した病を一つもあなたに下さないであろう。わたしは主であって、あなたをいやすものである。」(出エジプト記15:26)

また、受けている祝福をキープするためには、私達の内に、主の憎まれるものを持ち込まない事である。
『あなたの神、主があなたに渡される国民を滅ぼしつくし、彼らを見てあわれんではならない。また彼らの神々に仕えてはならない。それがあなたのわなとなるからである。』(申命記7:16)
もし、キリストを信じているのに、何しても成功しない、という事であるなら、滅ぼし尽くすべきものを、自分の中に相変わらず持ち続けていないか、点検すると良いかもしれない。

これら祝福の条件は、既に何度も聞いている通りで、モーセも何度も同じことを繰り返しているが、実際に守り行う人は少ないようである。
主を愛し、主の御言葉を聞いて、それを守り行い、ここに記されている全ての祝福で覆われる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
誰も否めない神のしるし(民数記17:1-11):右クリックで保存

メインメニュー
礼拝ライブ中継

礼拝ライブ中継!

礼拝ライブ中継!

過去の礼拝映像も視聴できます

メッセージ
このページを紹介!

 
 
 
礼拝週報
メッセージ音声
携帯メールで毎日メッセージを購読!無料!

以下コードを読み込み、空メールを送信すれば登録できます。

パソコン/ウィルコム/スマートフォンで受信:以下にメールアドレスを入力下さい。

メルマガ購読・解除
日々のバイブルメッセージ
   
バックナンバー
powered by まぐまぐトップページへ
Podcast

以下画像をitunesへドラッグすれば、更新が自動的にPodcast配信されるようになります。

※2020/1/1より以前に登録された方は、再度、以下Podcast画像をitunesへドラッグする必要があります。

 主日礼拝ポッドキャスト

定期祈祷会ポッドキャスト

その他音声 ポッドキャスト

検索
Copyright ©Yokohama Voice of Christ Church 横浜天声キリスト教会
All Rights Reserved.
 〒231-0058 神奈川県横浜市中区弥生町2-17 ストークタワー大通公園?-201
TEL/FAX:045-326-6211

ephes_03-tensei@ yahoo.co.jp
© 2022 Powered by XOOPS Cube 2.1
Welcome Guest