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メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
花嫁衣装を紡ぐ地上の日々(黙示録19:1-10):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:御言葉の先にある分かれ道(申命記5:22-33):右クリックで保存

主が、大きな火の中から十戒を授けられた時、民は恐れ、モーセに言った。
『およそ肉なる者のうち、だれが、火の中から語られる生ける神の声を、われわれのように聞いてなお生きている者がありましょうか。あなたはどうぞ近く進んで行って、われわれの神、主が言われることをみな聞き、われわれの神、主があなたにお告げになることをすべてわれわれに告げてください。われわれは聞いて行います。』(申命記5:26-27)

主が圧倒的な臨在の中から御言葉を語られる様は、とても恐ろしく、人は無事に立ちおおせるものではない。
預言者イザヤも、エゼキエルも、ダニエルも、使徒ヨハネも、その圧倒的「聖」を前にして倒れ、死人のようになった。
人がそのままで主の御前に立つなら、主のあまりにも「聖」なる有り様に打たれて死んでしまうのだ。

しかし、いずれの聖徒も、死ぬことはなかった。
むしろその時、主は「恐れるな」と言って、立ち上がらせて下さり、御言葉の深みへとさらに導いて下さった。

モーセも民に「恐れるな」と言った。しかし民は恐れ、近づこうとはしなかった。(出エジプト記20:18-21)
モーセも「わたしは震える」と言った程、恐ろしかったのだが、それでもモーセは、民を残し、一人、主の御元に近づいて行った結果、彼は死ぬ事なく、誰よりも主と親しく交わり、主から直接の御言葉の養いを受けた。

イスラエルの民のように、直接主に近づこうとせず、モーセなど霊的指導者に「あなたが代わりに行って下さい、わたしは聞き従いますから」と言うような人の信仰には、やはり、脆弱さがある。
その証拠に、イスラエル民はその後、わずか40日後に、早速偶像を作って、その前で座しては食い飲みし、立っては戯れた。
主があれだけはっきりと、圧倒的な臨在の中から「わたしの他に神があってはならない」「偶像を作ってはならない」と戒められたというのに。
しるしや現象ばかりを追求し、いかに多くそれらを経験しても、御言葉に直接向き合おうとしない者は、すぐ御言葉を忘れ、主を怒らせる事をしてしまうものなのだ。

御言葉の剣が立った時、私達には、二つの道しか無い。
聞き従って、いのちを得るか。それとも、従わずに死へ向かうか。

御言葉を元に祝福と呪いの道を示したのに、どちらを取るとも言わず、5分も10分もただ沈黙してやり過ごそうとする人達を見て来たが、そういう人は、御言葉に聞き従う事は嫌、でも、聞き従わない結果の災いも受けたくない、という、どっちつかずの人だ。
そのように「御言葉に沈黙する人」が刈り取ってしまう実は、「手足を縛られ、外の暗闇に追い出され泣いて歯ぎしりする」という実である。(マタイ22:12)

主の願いは、人が常に、主に対する恐れと敬意を持ち、御言葉を守り、そして、子々孫々と永遠に幸いを得る事である。
『ただ願わしいことは、彼らがつねにこのような心をもってわたしを恐れ、わたしのすべての命令を守って、彼らもその子孫も永久にさいわいを得るにいたることである。』(申命記5:29)

私達は「守り行え」と言われる時、ある種の窮屈さを覚えるかもしれない。
しかし、主の御言葉を守り行った先には、必ず幸いがあるのだ。
『それゆえ、あなたがたの神、主が命じられたとおりに、慎んで行わなければならない。そして左にも右にも曲ってはならない。あなたがたの神、主が命じられた道に歩まなければならない。そうすればあなたがたは生きることができ、かつさいわいを得て、あなたがたの獲る地において、長く命を保つことができるであろう。』(申命記5:32-33)

礼拝説教メッセージ音声:モーセが示した十戒の第十戒(申命記5:21):右クリックで保存

十戒の第十戒は、『あなたは隣人の妻をむさぼってはならない。また隣人の家、畑、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをほしがってはならない。』(申命記5:21)である。
ここの箇所も、出エジプト記の記述と若干違っている。

見比べてみると、出エジプト記では、主は「隣人の”家”をむさぼってはならない。」と始まるのに対し、申命記では、「隣人の”妻”をむさぼってはならない。」と始まる。
モーセが四十年、イスラエルを指導したり観察し続けて来た結果、「隣人の家」より「隣人の妻」を気をつけるべきだと気付き、そこを強調したのかもしれない。
現代日本でも、浮気、というと、そんなに珍しいものではなくなっているが、それ程に、人が陥りやすい罠である。
隣人の妻、それは、手を出してはならない禁断の実であり、それに手を出したら、両者の家族を、もろとも破滅へ突き落としてしまうものだ。

この箇所の「むさぼる」あるいは「欲しがる」と訳されたヘブライ語「カゥマド」は「好ましく思う」、「あこがれる」等の意味がある。
殺すな、盗むな、という法律は、大抵の国にあるだろうが、隣人のものを欲しがったり、あこがれたりしてはならない、という法律は、とても珍しい部類に入るかもしれない。
しかし、この「他の人のものを欲しがったりあこがれたりする心」こそ、自分の身ばかりでなく、自分の周り全体をも滅びへと導いてしまう根源である。

この「カゥマド」という言葉が聖書で最初に出て来るのは、創世記3章6節である。
「女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには「好ましい(カゥマド)」と思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。」
エバが禁断の木に手を伸ばして、人類全部に罪と死を導入してしまった背景に、この、「好ましい(カゥマド)」があったのだ。

もう一つ、多くの人を滅びへと導いた事例の中に、ヨシュア記のアカンがいる。
『アカンはヨシュアに答えた、「ほんとうにわたしはイスラエルの神、主に対して罪を犯しました。わたしがしたのはこうです。わたしはぶんどり物のうちに、シナルの美しい外套一枚と銀二百シケルと、目方五十シケルの金の延べ棒一本のあるのを見て、「ほしくなり(カゥマド)」、それを取りました。わたしの天幕の中に、地に隠してあります。銀はその下にあります」。』(ヨシュア記7:20-21)

彼は、手に入れてはならぬ「聖絶すべきもの」を欲しがり、それを自分の中に導入した結果、イスラエル宿営全体を「聖絶すべきもの」としてしまい、それが明るみに出された暁には、彼自身だけでなく、彼の家族をも滅びへと導いてしまった。
この、自分の分ではないものを、欲しがったり、あこがれたりする心こそ、自分だけでなく、自分の家族をも滅びへと導いてしまう根源である。

なお、聖書の他の箇所を見ると、カゥマドする事が、大いに推奨されるべきものもある。

『主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、主の戒めはまじりなくて、眼を明らかにする。主を恐れる道は清らかで、とこしえに絶えることがなく、主のさばきは真実であって、ことごとく正しい。これらは金よりも、多くの純金よりも「慕わしく(カゥマド)」、また蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い。あなたのしもべは、これらによって戒めをうける。これらを守れば、大いなる報いがある。』(詩篇19:7-11)
主のおきて、主のあかし、主のさとし、主の戒め、主へのおそれ、主のさばき。それらは、大いにあこがれ求めて良いものである。
それらの良さ、麗しさが分かると、ますますそれらを純金よりも慕わしく、蜜よりも甘く慕わしいものとなり、ますます祝福され、大きな報いを受けるようになるのだ。
また、もう一つ、慕い求めて良いものがある。

『わが愛する者の若人たちの中にあるのは、林の木の中にりんごの木があるようです。わたしは大きな「喜び(カゥマド)」をもって、彼の陰にすわった。彼の与える実はわたしの口に甘かった。彼はわたしを酒宴の家に連れて行った。わたしの上にひるがえる彼の旗は愛であった。』(雅歌2:3-4)
皆さんの伴侶も、慕わしく求めて然るべきものである。
そして私達にとって、慕い求めるべきまことの主人は、キリストである。

自分の領分に入れてはならない禁断のものは、手に入れてしまうと、自分だけでなく、周囲をも滅びへ突き落とす。
私達はそうではなく、御言葉を、伴侶を、そして真の主人であるキリストをこそ、慕い求めるべきなのだ。

礼拝説教メッセージ音声:モーセが示した十戒の第八、第九戒(申命記5:19-20):右クリックで保存

十戒の第八戒は、『あなたは盗んではならない。』(申命記5:19)である。
盗むとは、勝手に他人の領域に侵犯し、他人の所有物を自分のものとする事であるが、これこそ、サタンの性質である。
神は、私達人間を、神の子として召されたのだから、私達はサタンの性質を帯びてはならない。

サタンは元々、神をたたえる天使であったのに、自分のおるべき所をよしとせず、神の栄光を盗もうとして、神の領域である栄光の座に侵入して来た。
『あなたはさきに心のうちに言った、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』。しかしあなたは陰府に落され、穴の奥底に入れられる。』(イザヤ14:13-14)
このように、自分のおるべき領分を守らず、侵犯し、他人のものを奪うサタンのような者を主はさばき、地の底へと落とす。
『主は、自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った御使たちを、大いなる日のさばきのために、永久にしばりつけたまま、暗やみの中に閉じ込めておかれた。』(ユダ6節)

主のご性質は、盗人や強盗とは真逆である。
『よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。わたしよりも前にきた人は、みな盗人であり、強盗である。羊は彼らに聞き従わなかった。わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。』(ヨハネ10:7-11)
盗人は、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりする。それに対し、主は私達にいのちを得させ、それも、豊かに得るようにさせて下さる。
そしてよき羊飼いであられる主は、私達羊のために、いのちを捨てて下さった。
サタンはいのちを奪い、主は、いのちを与える。
だから私達は、盗むという性質を捨て去るべきである。

十戒の第九戒は、『あなたは隣人について、偽証してはならない。』(申命記5:20)である。
「隣人に」とあるが、それでは隣人ではない人には偽証しても罪にならないのだろうか?
答えは否である。神は真実な御方であり、神の性質に「偽り」なるものは無い。
偽りは、サタンのアイデンティティとも言える性質であり、その性質は私達の内から滅ぼし尽くすべきものだ。

『あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ。』(ヨハネ8:44)
ここは「人が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら、彼の父もまたうそつきだからです」とも訳せる。
悪魔の欲望は殺す事であり、偽りがその本性である。

私達は誰に対しても、「偽り」というサタンの性質に染まってはならない。
神は、善人にも悪人にも太陽を上らせ雨を降らせて下さる真実な御方であるが、同じように、神の子とされた私達も、全ての人に対して真実であるべきなのだ。

礼拝説教メッセージ音声:モーセが示した十戒の第五〜第七戒(申命記5:16-18):右クリックで保存

十戒の第四戒までは神と人との関わりについての戒めであったが、第五戒からは、人と人との関わりについての戒めとなる。
その人間関係における第一の戒めは、以下である。
『あなたの神、主が命じられたように、あなたの父と母とを敬え。あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く命を保ち、さいわいを得ることのできるためである。』(申命記5:16)

この世のあらゆる関係は、権威構造によって成り立っているが、立てられている権威に服さないと、権威構造で成り立つ世界・全てに敵対してしまう事になる。
例えば、罪を犯した指名手配犯は、警察や人の目から逃げるようにして生きなくてはならず、心落ち着かず、国や世間からの恩恵にも預かれないが、それと同じように、神の権威に服さない人は、神からの恩恵に預かれないまま、神の処罰を恐れて生きなくてはならず、平安も無く生きなくてはならない。
しかし主イエス様は、そんな私達の身代わりとして罪の処罰を受けて下さった。
私達は彼を信じる事によって、神との和解をいただき、神からの恩恵にも預かって生きるようになったばかりでなく、神の国の市民としての特権をも得るようになったのだ。

父と母、それは、最も身近で根本的な「権威」である。
その最も身近な権威である父母に服すなら、目に見えない神との正しい関係も容易に構築しやすい。
しかし、最も身近な権威である父母にさえ服す事が出来ないなら、ましてや、この世の社会や、目に見えない神に服す事は、いかに難しいだろうか。
だから、父母という、目に見える、最も身近な権威に服す事が、人間関係における第一優先あり、それは「長く命を保ち、さいわいを得ることのできる」祝福の約束を伴ったものである。

ただし権威には順序がある。
『子たる者よ。「主にあって」両親に従いなさい。これは正しいことである。「あなたの父と母とを敬え」。これが第一の戒めであって、次の約束がそれについている、「そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう」。』(エペソ6:1-3)
ここで忘れてはならない事は、「主にあって」両親に従う事である。
主を度外視した世の権威への服従は、たといその相手が両親であっても、過ちの元である。

十戒の第1〜第4に示されていた通り、権威の第一は、両親よりも、主である。
「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。」(マタイ10:37)
このように、主に反する事以外であれば、父母は敬い服従すべきものである。それによって幸福になり、地上で長く生きる事ができるからだ。

第六戒は『あなたは殺してはならない。』(申命記5:17)である。

聖書には、人がいかに尊い存在であるのかが、書いてある。
『神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。』(創世記1:26-28)

人は、神の息吹が吹き込まれた「神の似姿」であり、本来、全ての生き物を治めるものとして創造され、生んで増えて地に満ちる祝福された存在である。
人が神に不従順して罪と死を導入し、神の怒りを受けるべき存在となっても、なお、神はひとり子を賜ったほどに世を愛し、御子を人の身代わりとして差し出したほどに、人は神に愛され、神から大切にされた存在である。
それほどまでに尊ばれた人のいのちを奪う事は、どれほどに神を冒涜する事だろう。

第七戒は『あなたは姦淫してはならない。』(申命記5:18)である。

姦淫とは、妻や夫など、唯一愛すべき相手がいるにもかかわらず、それ以外の者と愛の関係を結ぶ事である。
なぜそれがいけないのか。
姦淫は、性的な罪であり、性的な事柄とは、いのちを生み出し家庭を築き上げて行く事柄であり、父あるいは母たる人が、姦淫を犯すなら、その家庭は崩壊してしまうからである。

主は人を、創造のはじめから男と女とに創られた。
『そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、/わたしの肉の肉。男から取ったものだから、/これを女と名づけよう」。それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。』(創世記2:23)
ここには「ふたりは一体である」と書かれてある。
ソロモンには妻と妾があわせて千人いたが、神は、ご自分のかたちに人を創造され、男と女とに創造されたのは、千対一ではなく、一対一なのだ。
アブラハムにもヤコブにもダビデも妻は複数いたが、いずれの妻も、子供も、それによって災いが起きて不幸になっている。
主の御心は、夫と妻との関係は「一対一」で、排他的なものである。

以上の三つの戒めには、従うべき権威と、自分がおるべき立場、保つべき立ち位置が示されている。
それは創造の秩序であり、主が立てられた権威を守ることが、人間にとって最も幸せへの近道なのである。

主は私達の羊飼い(詩篇23篇)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・礼拝説教音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

いよいよ今年最後の礼拝である。今までを振り返るに、まことに主が羊飼いとなって導いて下さった。
「主は私の羊飼い。私は、乏しいこと(欠乏)がありません。」(詩篇23:1 ) 
羊は弱く愚かな動物で、もし羊飼いたる人がいなかったら、とうの昔に絶滅していただろうと言われている。
同じようにこの教会も、主イエス・キリストを羊飼いとしていなかったなら、とうの昔に滅んでいただろう。
ダビデ王も、主が、自分の羊飼いである事を告白した。
彼自身、元々羊飼いだった。羊を緑の牧場や水のほとりへ導いた事もあるし、羊を守るためライオンや熊と戦った事もある。それで彼は、羊の弱く愚かな性質を、守り養わなければならない事を、よく知っている。
彼は、自分は弱く愚かな羊のような存在である事を認め、そして、主を羊飼いとした。その結果、彼はこの詩を詠んだ日に至るまで一切の欠乏は無かったし、これからも決して無い、と、告白している。
私達も、主を羊飼いとするなら、一切の欠乏は無い。
「いや、自分は主を羊飼いとして来たけれど、欠乏ばかりだった」と言う人は、自分が望んでも与えられなかったもの、というのは、実は有害なもので、むしろ主が羊飼いとして、それらに毒されぬよう、今まで守っておられた事を、そして、自分はそれさえ見えなかった、無知な羊であった事を、悟るべきである。

「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。」(2-3節)
羊は目が悪いため、自分で食べ物や飲み物を探しに行けない。同じように、私達も未来は分からず、この先に何が待ち受けているかを知らない。だから未来も最善も全てを見通す主を羊飼いとする必要がある。
主は、導く。義の道へと。主は、伴われる。緑の牧場と、憩いの水のほとりへと。人にとって、真のたましいの潤いは、主から来る。私達が主の導きに従って歩むのであれば、私達は決して飢える事も渇く事も無い。

「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわい(悪)を恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」(4節)
私達はできれば死の陰の谷は歩みたくないものだが、しかし主は、敢えてそこを通らせる事もある。
この一年、ある聖徒にとっては、死の陰の谷を通らされたような状況もあったし、今まさに通っている最中の聖徒もいる。しかし主は、無意味に、死の陰の谷を通らせる訳ではない。その向こうに最善があるからだ。
「あなたがたが、色々な試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。」(ヤコブ1:2)
主がわざわざそこを通らせているという事は、想像もつかないスペシャルな未来がその先にあるという事だ。
「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」(5-6節)
私達が主を羊飼いとしているなら、主は敵の面前で私達に宴席を設けて下さり、頭に油を注いで下さる。
主を羊飼いとしているなら、恵みと慈しみとの方が、私達を追いかけて来る。しかし、主を羊飼いとしていないなら、敵の前で逆に冷や水を浴びせられ、恵みと慈しみを追いかけても追いかけても、それは逃げてしまって、決して追いつく事はない。
主イエスの元にこそ、恵みといつくしみが豊かにあり、他には無いのだ。(1歴代16:34、詩篇86:5、118:1)

ヨハネ10章には、良き羊飼いなる主イエス様と、私達・羊との間の正しい関係がある。(ヨハ10:1-6)
羊飼いは、自分の羊の名を呼んで連れ出して先頭を歩き、羊は、羊飼いの声を聞き分け、ついて行く。
その逆は無いのだ。羊は、目が悪い。だから羊は目に頼らず、耳に頼る。
同じように私達も、主の御声であられる御言葉によく耳を傾け、ついて行くなら、乏しい事も、飢える事も渇く事も決して無く、死の陰の谷のさなかでも安全に導かれ、やがては、いこいの水のほとりへ、緑の牧場へと導かれ、敵の目前で宴席が設けられ、頭に油が注がれる。そして、恵みと慈しみとが、ついてまわる。
来る2014年は、何が起きるのか私達には分からないが、ひとつ確かな事、それは、主を羊飼いとして私達がついて行くなら、この詩篇23篇の祝福が、私達のほうを追いかけて来るという事だ。今までのように。

礼拝説教メッセージ音声:モーセが示した十戒の第三と第四(申命記5:11-15):右クリックで保存

十戒で三番目に重要な事は、主の御名をみだりに唱えてはならない、という事である。
『あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。主はその名をみだりに唱える者を罰しないではおかないであろう。』(申命記5:11)

主の御名を乱発すると同時に、不誠実な行いも乱発して、主を貶めている人は確かにいるが、主はそのような者に言われる。
『お前はわたしの掟を片端から唱え/わたしの契約を口にする。どういうつもりか。お前はわたしの諭しを憎み/わたしの言葉を捨てて顧みないではないか。盗人と見ればこれにくみし/姦淫を行う者の仲間になる。悪事は口に親しみ/欺きが舌を御している。座しては兄弟をそしり/同じ母の子を中傷する。
お前はこのようなことをしている。わたしが黙していると思うのか。わたしをお前に似たものと見なすのか。罪状をお前の目の前に並べて/わたしはお前を責める。神を忘れる者よ、わきまえよ。さもなくば、わたしはお前を裂く。お前を救える者はいない。告白をいけにえとしてささげる人は/わたしを栄光に輝かすであろう。道を正す人に/わたしは神の救いを示そう。」』(詩篇50:16-23)

御言葉をたくさん口にする人が主に愛される訳ではない。
サタンでさえ御言葉を引用し、主イエスを誘惑しようとした。
御言葉を口にする人が主に愛されるのではない。御言葉を心に留め、それを行う人こそ、主に愛されるのであって、守る気も無いのに、みだりに御言葉を連発したり、恐れ気もなく主の御名をみだりに連発する者を、主は罰せずにはおかない。

そして第四戒は、安息日の遵守である。
『安息日を守ってこれを聖とし、あなたの神、主があなたに命じられたようにせよ。六日のあいだ働いて、あなたのすべてのわざをしなければならない。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたも、あなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、牛、ろば、もろもろの家畜も、あなたの門のうちにおる他国の人も同じである。こうしてあなたのしもべ、はしためを、あなたと同じように休ませなければならない。』(申命記5:12-14)

ここ、申命記の第四戒の記述は、出エジプト記での記述と、若干違う。
出エジプト記では、以下のように続いた。
「六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。」(出エジプト記20:8-11)
すなわち、主が六日かかって創世した後、第七の日に安息されたから、この第七の日を聖として覚えよ、というのが出エジプト記での趣旨である。

それに対し、申命記では、モーセはイスラエルがかつてエジプトで奴隷であった事を思い起こさせ、他国人や固持、寡婦などの弱者に「安息」を与えさせる事に重点を置いる。
実際、出エジプト記では単に「家畜」と記されている所が、申命記では「牛、ろば、もろもろの家畜」とされ、「こうしてあなたのしもべ、はしためを、あなたと同じように休ませなければならない。」と、家畜も男奴隷も女奴隷もひとしく主の安息に預からせるように命じている。

『あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。』(申命記5:15)
このように、モーセは弱者を休ませるために安息を守らせる事を、特に強調している。
実際、申命記の他の箇所でも、モーセがイスラエルがかつてエジプトで奴隷だった事を思い起こさせている場面が多い。(15:15, 16:12,24:18-22)

人は、権力を持ちはじめると、従業員や奴隷を休まずフル稼働で働かせて利益をむさぼる罪に陥りやすい。
実際、ネヘミヤの時代、イスラエルはバビロンから帰って来たばかりだというのに、早速同国人を奴隷にこき使って主の戒めに反する事をし出した。
安息の主は、人が安息する事を大切にされた。
それ故、私達はしっかり安息を守り、七日ごと安息の主を覚え、礼拝を守るべきである。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
知識も無く摂理を暗くする者(ヨブ記38:1-15):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
神から離れた文明の行き先(黙示録18:21-24):右クリックで保存

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