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メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:荒野を覆う巨大な生きた十字架(民数記2:1-34):右クリックで保存

『主はモーセとアロンに言われた、「イスラエルの人々は、おのおのその部隊の旗のもとに、その父祖の家の旗印にしたがって宿営しなければならない。また会見の幕屋のまわりに、それに向かって宿営しなければならない。 』(民数記2:1-2)

民数記2章は、六十万以上のイスラエルの部隊が荒野を行進して行く上で、どのように秩序立って進んでいくべきかが、命じられている。
この荒野の行軍は、誰もがが好き勝手に、無秩序に好きな所へ行って良い、というものではない。
主が定められた配置どおりに進み、主が定められた場所に留まらなくてはならない。
そして、この六十万以上の宿営の中心は、神の幕屋、すなわち、神を礼拝する所である。(17節)

現代を生きるキリスト者の歩みも、約束の地を目指して荒野を行軍して行くイスラエルの民のようなものである。
私達も、彼らと同じく好き勝手に進んではならず、それぞれが立つべき立ち位置につき、主が定められた所に住まい、導きに従って進退しなくてはならない。
主の臨在が進んだなら、私達も進み、主の臨在が留まったなら、そこに留まる、という、主を中心とした歩みをしていくべきである。

荒野を行軍して行く際は、それぞれの部族の旗印にしたがい、宿営すべき場所が主から定められている。
すなわち、神の幕屋を中心として、その東側にはユダ、イッサカル、ゼブルンの3部族、合わせて十八万六千四百人が宿営し、その南側にはルベン、シメオン、ガドの3部族、合わせて十五万一千四百五十人が宿営し、その西側はエフライム、マナセ、ベニヤミンの3部族、合わせて十万八千百人が宿営し、そして北側には、ダン、アシェル、ナフタリの3部族、合わせて十五万七千六百人が宿営する。

さて、この隊形は、天から見ると、どんな形になるだろうか。
それはちょうど、西側を頭とした十字架の形となるはずだ。
イスラエル民族は、普通に天幕生活したり、行軍したりしているつもりでいて、実は、彼ら全体で十字架を表現していたのだ。

私達キリスト者の歩みも、荒野の天幕生活のようである。
その日々の歩みには、キリストの十字架は見えにくいかもしれない。
しかし、天から見れば、そして永遠の視点から見れば、主があちらこちらに配剤されており、そして、私達の「人生」という綾織物が完成した時、実は、この人生の全体を通してキリストが表現されていた事に気づくだろう。
いや、今もすでに人生を振り返った時、人生のあの時この時でキリストが練り込まれていた事に、既に気づいている方が、おられるのではないだろうか。

そういうわけで、私達が人生という荒野の旅路を行軍して行く際、中心とすべきは、主を礼拝する事である。
主が定められた、それぞれの立ち位置につき、主の導きに従って行動すべきである。
主が「東を守れ」と言っているのに、自分の好き勝手で、南西を守っていたら、その人自身も、そして全体にも、支障が来される。
世に出て働く人は、与えられた場所でしっかり働き、主の奉仕が割り当てられている人は、しっかりその務めをなし、そうして私達おのおのは、キリストのからだの各部分として有機的に機能し、全体を通してキリストを表現して行くのだ。

礼拝説教メッセージ音声:レビ人の兵役免除(民数記1:47-54):右クリックで保存

イスラエルの成人男性は皆、戦いに出られる者として登録されたが、レビ人だけは、そうされなかった。
なぜなら、彼らには神の幕屋に関わる、特別な奉仕があるからである。
『「あなたはレビの部族だけは数えてはならない。またその総数をイスラエルの人々のうちに数えあげてはならない。あなたはレビびとに、あかしの幕屋と、そのもろもろの器と、それに附属するもろもろの物を管理させなさい。彼らは幕屋と、そのもろもろの器とを持ち運び、またそこで務をし、幕屋のまわりに宿営しなければならない。』(民数記1:49-50)

神の幕屋の事柄で働くレビ人は、その数を数える事は、許されていない。
人は何か仕事をする時、人数を数え、仕事の量を計算し、配分を決めてとりかかるものだが、主の奉仕に限っては、人間のそうした「計算」は必要ない。
主はちゃんと必要を満たし、働き人を備え、多すぎず、少なすぎずに、全てを配分して下さるのだ。

レビ族は、兵役が免除され、神様の御そば近くで仕えていられる。
その特権ともいえる立場に、皆さんもなりたいだろうか。
それなら、レビ族がその特権とも言える立場を主から任じられたきっかけを知るべきである。
彼らは実は、他の部族が断念した戦いに自ら参加し、そして、勝利したのだ。
すなわち彼らは、親や子に逆らってでも主の命令に従順せよ、との主の命令に、従い通した。(出エジプト記32:25-29)

モーセが世を去る前にイスラエル十二部族を祝福した時、レビについては、以下のように祈っている。
『「あなたのトンミムをレビに与えてください。ウリムをあなたに仕える人に与えてください。かつてあなたはマッサで彼を試み、/メリバの水のほとりで彼と争われた。彼はその父、その母について言った、/『わたしは彼らを顧みない』。彼は自分の兄弟をも認めず、/自分の子供をも顧みなかった。彼らはあなたの言葉にしたがい、/あなたの契約を守ったからである。
彼らはあなたのおきてをヤコブに教え、/あなたの律法をイスラエルに教え、/薫香をあなたの前に供え、/燔祭を祭壇の上にささげる。主よ、彼の力を祝福し、/彼の手のわざを喜び受けてください。彼に逆らう者と、/彼を憎む者との腰を打ち砕いて、/立ち上がることのできないようにしてください」。』(申命記33:8)

神の幕屋の奉仕は、私情を挟んではならない。親や兄弟よりも、主の命令のほうを、優先させなくてはならない。
彼らは、そのような特別な責任を果たしたからこそ、主の特別な栄光の奉仕が任されるようになったのだ。

それは、新約の今においても、同じである。
『大ぜいの群衆がついてきたので、イエスは彼らの方に向いて言われた、 「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。』(ルカ14:25-27)
私達も、世にあっては自分を捨て、自分の十字架を負い、そうしてキリストについて行くなら、主の幕屋にて永遠に仕える事が出来るのである。

「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」。(黙示録7:14-17)

礼拝説教メッセージ音声:部族ごとの数(民数記1:20-46):右クリックで保存

『そしてイスラエルの人々のうち、その父祖の家にしたがって数えられた者は、すべてイスラエルのうち、戦争に出ることのできる二十歳以上の者であって、その数えられた者は合わせて六十万三千五百五十人であった。』(民数記1:45-46)

今回の箇所は、荒野の生活の第二年目に行われた、第一回目の人口調査の結果であり、イスラエル12部族それぞれの中から、軍務につく事のできる二十歳以上の男子の数が記されている。
尚、ヤコブが産んだ子たちの内、レビとヨセフは除外され、代わりに、ヨセフの二人の子・エフライムとマナセが12部族として名を連ねている。
それは、レビ人は、全ての十分の一が与えられている代わりにゆずりの地は無く、主ご自身が、彼らのゆずりだからである。(民数記18:20-21)
また、ヨセフの二人の子は、ルベンやシメオンのようにヤコブの直属の子とされたからである。(創世記48:5-6)

講解説教を創世記から順番に、一昨年からから続けているが、当初、イスラエル民族は、年をとって死んだも同然のアブラハムたった一人だった。
そのアブラハムが100歳の時、イサクが生まれ、イサクからヤコブが生まれ、そして、ヤコブから12部族の父祖たちが生まれ、創世記の終わりにごろには、七十名にまで増えた。
それから四百三十年経った時は、男子だけで六十万を超えるまでになった。
主がアブラハムに与えられた約束、あなたの子孫を空の星のように、海辺の砂のように増し加える、という約束を、主はまさしく成就して下さった。
主は、約束の確かさを知らしめるために、数えなさい、と言われたのだろう。

主が、与えられた恵みを数えなさい、と言われた時には、数え、主がどんなに祝福して下さったかを喜び、感謝すべきであり、誇るべきではない。
そこまで祝福して下さったのは主であって、自分の何かによるものではないからだ。

ダビデはイスラエルの軍団の数を数えたが、主はこのことを悪と見なされ、イスラエルを撃たれた。(1歴代誌21章)
それは、この「数えたい」という願いは主からのものではなく、サタンからのもので(第1歴代誌21:1)、その動機が、主が祝福して下さった恵みを数えて主を褒め讃えるためではなく、自分に属するもののステータスを知りたいと、自分の栄光を誇るためであったからだ。
主は確かに祝福して下さる。しかし、その祝福が主からのものであり、主が祝福して下さった子孫や金銀、権威などが主のものである事を忘れ、身勝手に自分のものとして数えるのは、罪である。

最初の調査からおよそ40年後、イスラエルの民がいよいよカナンに入ろうとしている時、主は、二度目の人口調査を命じられたが(民数記26章)、その時の数も、最初の時と同じ、六十万台であった。
数としてはあまり増減していないが、その中身は、がらりと入れ替わっている。
民数記1章の時点で、二十歳以上だった人は六十万以上いたが、40年経った後にはなんと、わずか二人しか残っていなかった。
神に属する軍団に登録されたからといって、その全員が、約束の地に自動的に入れるわけではない。この事は、現代を生きる私達への警告である事は、以前学んだ通りである。

民の数を見てみると、最初の時点で既に民族の数には差が出ているし、二回目の人口調査の数値と比べると、増加した部族があれば減少してしまった部族もある事が分かる。
ユダ族は一回目も二回目もトップを誇り、マナセ族は最初の調査時点で最も数が少ないが、荒野の四十年におけるマナセ族の増加率は最も高く、プラス64%である。
また、シメオン族は、最初は59300人と結構多かったのに、後には37100人、マイナス63%の減少である。
シメオン族は、二回目の人口調査の直前の、ペオルの事件(民数記25章)で、長の一人であるジムリが率先して罪を持ち込んだが、部族の多くの者が主に打たれる要素を密かに育てていた故に殺されてしまったのかもしれない。

第二回目の人口調査の時の数によって、割り当て地の査定がなされた。
査定の直前まで、いかに数が多くとも、最後のほうに罪を犯すのであれば、あっという間に査定が減らされてしまう事も、ありうる。
今、私達が生きているこの世界は、永遠に受け継ぐべきものを、どれほど任せられるかという査定を受けている期間である。
だから、どんな小さな事でも忠実になり、全ての事を主に対してするかのように、心からするよう、日々、心がけたい。

栄光の家系の女達 - タマル2(創世記38:12-23)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・礼拝説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

イエスキリストの系図の中で、ユダは、アブラハム、イサク、ヤコブにつぐ重要人物である。
ユダとタマル、すなわち義理の父と義理の娘との間に生まれた子から、キリストへと続く王族が生まれ出た。
一族成り立ちの初めから、人の愚かさ、罪深さで満ちているが、主の憐れみと導きは、それを遥かに超えている。主は、そんなユダの家系を、王族の家系へと整えるために、まず、家の清めから始める。
すなわち、家の中から、主に逆う者、家全体を災いへと導く事を止めない者を、まず取り除かれる。
『日がたってシュアの娘ユダの妻は死んだ。その後、ユダは喪を終って・・・』(創世記38:12)
この「喪を終って」と訳された語「nacham」は、「慰める、あわれむ」という意味がある。
また、シュアという名には「叫び」という意味があり、ユダの名には、「褒め称える、賛美する」の意味がある。
つまり、この節は、字義通りに訳すなら「”叫び”の娘は死に、その後、”賛美”は慰められた」となる。
主を褒め称えるべき人(ユダ)が、神の家族から離れ、叫びの娘(シュアの娘)をめとってしまうと、その家の中は、どんどん人間的な「叫び」が大きくなり、主を褒め称える口は、かき消されてしまう。
どんな人であれ、家族の死は、痛く悲しいものがある。しかし、家の中から「叫びの娘」が除かれ、主に逆らう人達が取り除かれるなら、後々、主をほめたたえる家の将来は、慰めを受けるのだ。

ユダはその後、ティムナに上り、自分の羊の毛を切る者のところへ行った。タマルはそれを聞くと、やもめの服を脱ぎ捨て、遊女の格好をし、ユダが通りそうな道の傍らに座った。それは、シェラが成人したのに、ユダは約束どおりに行わず、自分がその妻にされないのを知ったからである。(創世記38:13-14)
タマルのこの行動は、理解し難い。ユダと出会えるか分からないし、出会っても遊女として買ってくれるか分からないし、買ってくれても身篭るかも分からないし、いずれにしても、悪い結果以外が想像できない。
一体どうして彼女はそのような行動に出たのか。
タマルは、自分の夫達が主の怒りを買い、主に打たれて死んだのを、二度も、生々しく見ている。
ユダと共におられる主に逆らう事が、いかに恐ろしいか。人間の好き嫌いや、良し悪し判断を優先させ、アブラハムの子孫を生まない事が、いかに災いを招くか。それを、身をもって、二度も体験している。
今、ユダは自分に子を産ませないようにしているが、それはオナンと同じ罪、「生んで増える」という主のいのちの祝福に逆らう罪であり、このままでは、どんな恐ろしい災いが主から降されるか、分からない。
それで彼女は、一見愚かで、確立のとても低い、そして、命がけの、大胆な行動に出たのかもしれない。

ユダは、遊女の格好をしたタマルを見ると、まんまと引っ掛かり、「遊女を買うため」の交渉を始める。
タマルは報酬の抵当として、ユダに「印と紐と、つえ」を要求したが、なんと、ユダはそれらを彼女に預け、そして彼女の所にはいった。(創世記38:17-18) ユダが遊女の報酬の抵当として預けた3つの品々は、いずれも、持ち主本人を特定できるもので、むやみに他人に手渡してはならぬ貴重品の類である。
まず「印」は、指輪のように指にはめられる「印鑑」で、その人そのものを表明するしるしである。
「紐」は聖書の他の箇所を見ると、飾りや服、エポデなどを固定させるためのもので、持ち主の特徴が出る。
そして「つえ(matteh)」は、杖や棒の意味のほか、旗ざお、権標、部族という意味まである。
つまり、これらは、一族の支配と権威の象徴である。そんなに大切なものを、ユダはなんと、遊女と寝るための抵当として、預けてしまったのだ。中身はタマルではあっても、ユダにとっては「異邦の遊女」である。
主を褒め讃えるはずのユダは、異邦人の価値観に染まり切り、神の民としてのアイデンティティが地に堕ちてしまったのが伺える。しかし主は、そんなユダを、懲らしめのむちによって、地の底から救い出して下さる。

ユダがやった事も、タマルがやった事も、カナン人の女も、息子たちも、いや、人類は皆、する事は、主の御前に最低である。しかし、いのちの主は、全ての人間の罪と死を、いのちの中へと飲み込んで下さる。
人は罪深く、どうしようもない事しか出来ない。しかし、そのどうしようもない「人」の子孫から、神の子キリストは人として宿り、罪こそ犯されなかったものの、人と共に生き、人としての貧しさ悲惨さを全て味わい、人の身代わりとなって死んで下さり、人としてよみがえって下さったのである。
人間の罪に汚れた有様の中に、主の憐れみ、主の良きご性質だけが、ただひときわ際立つ。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
自分と家族と預言者を養う(1列王記17:1-16):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
次から次へと降り注ぐ祝福の元(エズラ7:11-28):右クリックで保存

【概要】

絵面記7章11節から28節では、アルタシャスタ王が祭司であり学者であるエズラに与えた手紙を通じて、イスラエルの民がエルサレムに戻るための支援が描かれています。神の御手がエズラの上にあり、王の心を動かして特別な便宜を図らせたことが強調されています。

【聖書箇所】

  • 絵面記 7:11-28

【慰めの言葉】

神は時に応じて私たちに必要な助けを与えてくださいます。

【励ましの言葉】

信仰を持ち続けることで、神の計画が私たちの人生に現れることを信じましょう。

【戒めの言葉】

神の立法を知り、それを守ることの重要性を忘れないようにしましょう。

【勧めの言葉】

神の御手が私たちの上にあることを信じ、日々の歩みを続けましょう。

【悔い改めの促しの言葉】

神の計画を信じられずにいたことを悔い改め、信仰を新たにしましょう。

【***詳細***】

絵面記7章11節から28節は、アルタシャスタ王がエズラに与えた手紙の内容を記しています。エズラは主の命令の言葉とイスラエルに関する主の掟に精通した学者であり、祭司でした。アルタシャスタ王は、エズラに対してエルサレムに戻ることを許可し、さらにイスラエルの神の宮のために銀と金を捧げるよう命じました。

この手紙は、エズラが神の立法に従ってユダとエルサレムを調査するために使わされていることを示しています。王とその義官たちは、エルサレムの神に捧げるための銀と金をエズラに託し、エルサレムの神殿のために必要なものを調達するよう命じました。

アルタシャスタ王は、エズラに対して神の知恵に従って裁判官を任命し、神の立法を知らない者には教えるよう命じました。また、神の立法と王の立法を守らない者には厳しい罰を与えるよう指示しました。

エズラは、これらのことが主の御手によるものであることを認識し、主を褒め称えました。彼は、主がエルサレムにある主の宮に栄光を与えるために、王の心を動かしたと理解していました。

【結論】

絵面記7章は、神の御手がエズラの上にあり、アルタシャスタ王を通じてイスラエルの民に特別な便宜を図らせたことを示しています。私たちも、神の計画が私たちの人生に現れることを信じ、信仰を持ち続けることが大切です。神の御手が私たちの上にあることを信じ、日々の歩みを続けましょう。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
あかしの故に殺された人達と殺した人達(黙示録6:9-17):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:軍務につく者として登録する(民数記1:1-19):右クリックで保存

『人々がエジプトの国を出て二年目の第二月の一日に、【主】はシナイの荒野の会見の天幕でモーセに告げて仰せられた。』(民数記1:1)
イスラエルの民は、エジプトの国を出て二年目の第一月から第二月までの間、レビ記という「学科授業」を主から受けた。
そして第二月の一日以降、危険な荒野を編隊を組んで進み行き、約束の土地カナンを占領するという「実地訓練」を受けなくてはならない。

約束の地は、ただ口を開けて待っていれば、棚からぼた餅が降ってくるかのように与えられるものではない。
荒野を進むにも、約束の地に入るにも、危険があり、戦いがある。
そこで、主が真っ先に命じられた事は、イスラエルの中から軍務につく事の出来る者達を、登録する事だった。
『イスラエルのうちで、すべて戦争に出ることのできる二十歳以上の者を、あなたとアロンとは、その部隊にしたがって数えなければならない。』(民数記1:3)

イスラエルの男子は、二十歳を超えたなら、自動的・強制的に、軍務につく者として登録される。
私達のこの世の信仰の歩みも、荒野を行軍して行くのと同じで、必ず、試練と戦いがあり、それは、信仰者であれば誰もが自動的かつ強制的に通らされるもので、それに対し、いつまでも逃げまわったり、安全な所でぬくぬくとしていられるものではない。

私達は、主キリストに対しては妻という立場で、イエス様を主人とすべきだが、世に対して、サタンに対しては、男子として、勇者として、立ち向かい戦うべきなのだ。
信仰を用い、御言葉に服従して進み行くのであれば、その戦いは、必ず勝利するものである。
「神に従いなさい。そして、悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう。」(ヤコブ4:7)
「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。・・・御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」(エペソ6:11-17)

そして、軍事行動は、個人プレーではなく、チームワークである。
誰か一部の人達だけが戦っていて、他の人は逃げまわったり兵舎で寝食してばかりしている、などという事は、ありえない。
イスラエルが荒野の行程の終わりに、ヨルダン川の東側を制圧した時、ガド族とルベン族は、既に得たこの東側の良き土地を下さいと言った時、モーセは言った。
「あなたがたは兄弟が戦いに行くのに、ここにすわっていようというのか。どうしてあなたがたはイスラエルの人々の心をくじいて、主が彼らに与えられる地に渡ることができないようにするのか。あなたがたの先祖も、わたしがカデシ・バルネアから、その地を見るためにつかわした時に、同じようなことをした。すなわち彼らはエシコルの谷に行って、その地を見たとき、イスラエルの人々の心をくじいて、主が与えられる地に行くことができないようにした。」(民数記32:6-9)

ある人が戦い、ある人は既に得たものに安穏とする。ある人は働き、ある人は安穏として、それを食いつぶす。それは、戦う人、働く人の意気を挫き、全体を良くない思いへと引っ張っていく事である。
教会も、キリスト者も、信仰をもって戦うよう召されたのであればみんな戦うべきであり、働くよう召されたのであれば、みんな働くべきである。
結局、ガド、ルベン族は、ヨルダン川を渡った先でも、先陣を切って戦った。
私達も、キリストにある群れ全体が安息を得るまで、共に戦うべきである。

礼拝説教メッセージ音声:民数記概要(民数記1:1-2):右クリックで保存

『エジプトの国を出た次の年の二月一日に、主はシナイの荒野において、会見の幕屋で、モーセに言われた、「あなたがたは、イスラエルの人々の全会衆を、その氏族により、その父祖の家によって調査し、そのすべての男子の名の数を、ひとりびとり数えて、その総数を得なさい。』(民数記1:1-2)
モーセ五書の第四番目の書、「民数記」は、ヘブライ語では、この書の冒頭の言葉、「ベミドバル(荒れ野に、という意味)」であるが、七十人訳ギリシア語聖書では「アリスモイ」、すなわち、「数」という意味、英語では「ナンバーズ」である。
「数」という言葉が名前に入るのは、主は真っ先にイスラエルの全会衆の数を数える事を命じられ、また、荒野での生活の終わりにも、主は人口の数を数えるよう命じられたからであろう。

この書には、エジプトを出てから二年目の二ヶ月目以降、荒野での生活を終え、いよいよ安息の地・カナンに入る直前の、ヨルダン川東に至るまでの、荒野での三十九年間ほどの長き行程が記されている。
一〜十章は、荒野の旅の準備の命令と記録で、一章の人口調査に始まり、荒野での行軍の各民族の配置や、レビ人のそれぞれの奉仕分担が記されている。
十一〜十二章は、イスラエルの民の不満と、アロンとミリヤムがモーセに反対する場面もあり、そして、十三〜二十章までは、安息の地にすぐに入るチャンスを失ってしまったあの大きな失敗、十二人の斥候によるカナン偵察の出来事あり、さらにイスラエル民族の中からの反逆と、荒野での放浪が記されている。
二十一〜二十五章には、バラムの事件が記されており、それから第二回目の人口調査(二十六章)、ヨシュアの任命(二十七章)、その間、諸々の規定の制定や事件などが記され、三十三〜三十六章は、荒野での全行程が記されている。

この書は、言ってみれば、安息の地・カナンへの歩みではあるが、その内容は、恐ろしさを感じるものである。
よく、旧約聖書は怖いという人はいるが、しかし結局、愛と憐れみに富んでおられる主を、怖くさせてしまった原因は、人の側にあり、人の不従順にある。
エジプトを出て約束の地へと向かったのは、男子だけでも六十万以上いたが、そこに入れたのは、たった二人のみ。
それは、イスラエル民族の失敗中の失敗と言え、彼らとしては、記録に残したくない事であろう。
しかし、それらの事が記されたのは、私達への教訓のためである。

『兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。また、みな同じ霊の食物を食べ、みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。しかし、彼らの中の大多数は、神のみこころにかなわなかったので、荒野で滅ぼされてしまった。
これらの出来事は、わたしたちに対する警告であって、彼らが悪をむさぼったように、わたしたちも悪をむさぼることのないためなのである。・・・これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。』(1コリント10:1-6)

民数記は、私達はどうすれば失敗するのか、どうすれば神を怒らせ、どうすれば安息の地に入れないか、それらが克明に記されており、中にはもしかしたら私達に当てはまり過ぎて、目を背けたくなる記事もあるかもしれないが、私達は決して目をそむけてはならない。
それは、私達も彼らにならって、失敗しないためにである。

『だから、聖霊が言っているように、「きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら、荒野における試錬の日に、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。あなたがたの先祖たちは、そこでわたしを試みためし、しかも、四十年の間わたしのわざを見たのである。だから、わたしはその時代の人々に対して、いきどおって言った、彼らの心は、いつも迷っており、彼らは、わたしの道を認めなかった。そこで、わたしは怒って、彼らをわたしの安息にはいらせることはしない、と誓った」。』(ヘブル3:7-11)
ここに記されている通り、安息に入れない者とは、主の御業を見ておきながら、それでもなお心をかたくなにし、さらに主を試み、ためすような者である。
また、不従順な者、不信仰な者こそ、安息に入れない者の特徴である。(同18-19節)

『兄弟たちよ。気をつけなさい。あなたがたの中には、あるいは、不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者があるかも知れない。あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。』(ヘブル3:12-14)

礼拝説教メッセージ音声:主のもの(レビ記27:26-34):右クリックで保存

レビ記の最後で、主は、捧げ物としてはならぬ「主のもの」を示しておられる。
『しかし、家畜のういごは、ういごとしてすでに主のものだから、だれもこれをささげてはならない。牛でも羊でも、それは主のものである。』(レビ記27:26)
全てはじめに胎を開くものは主のものである、と、イスラエルがエジプトを出る直前で、主は既に言われていた。(出エジプト記13:2)
つまり、人も動物も、初子は元々主のものであるので、人が自ら進んで捧げる捧げ物とする事は出来ない。それだとダブルブッキングになってしまう。

『ただし、人が自分の持っているもののうちから奉納物として主にささげたものは、人であっても、家畜であっても、また相続の畑であっても、いっさいこれを売ってはならない。またあがなってはならない。奉納物はすべて主に属するいと聖なる物である。またすべて人のうちから奉納物としてささげられた人は、あがなってはならない。彼は必ず殺されなければならない。』(レビ記27:28-29)
ここは、必ず滅ぼし尽くさなくてはならないもの、いわゆる「聖絶のもの」についてのおしえである。

「聖」とは元々、主なる神の、絶対的かつ排他的な、決して犯してはならぬ性質のものである。
主が「聖絶すべし」としたものを、人がとやかくしてはならず、それを犯してしまうと、その人は必ず尋常でない死に方をした。
例えば、アカンは聖絶のものに手を出してしまい、自分のみならず、イスラエル全体に災いを招いてしまったし、サウル王も、聖絶のものを見て自分の善し悪し判断を混ぜ込んでしまい、主から見放され、王座を奪われてしまった。
主が聖絶すべきとしたものは、人はただそれを滅ぼし尽くすのみ、それ以外は災いをもたらすのである。

『地の十分の一は地の産物であれ、木の実であれ、すべて主のものであって、主に聖なる物である。もし人がその十分の一をあがなおうとする時は、それにその五分の一を加えなければならない。』(レビ記27:30-31)
地の産物の十分の一も、主のものであると主は主張されている。そうであるからには、人がことさら「進んで捧げる捧げ物」とする事はできない。
本来的には、「全地は主のもの」(詩篇24:1、詩篇95篇)であるはずだが、しかし主はあえて、人に、その十分の一を主のものとして捧げるよう命じられ、人の側がそれに従うのであれば、その人は、神と人との主従関係を行動をもって示した事になるのだ。

『牛または羊の十分の一については、すべて牧者のつえの下を十番目に通るものは、主に聖なる物である。その良い悪いを問うてはならない。またそれを取り換えてはならない。もし取り換えたならば、それと、その取り換えたものとは、共に聖なる物となるであろう。それをあがなうことはできない』」。』(レビ記27:32)
家畜の中で、どれを十分の一の聖なるものとして選別するか。
そのやり方は、家畜の群れに牧者のつえの下を通らせて、その十番目に通るものが、聖別すべきものである、と、主は定められた。
そして、その十番目に通るものについて、人は、とやかく言ったり判断したりしてはならない。
十番目に通ったものの善し悪しを見て、取り替えてはならず、取り替えようとするなら、両方を「聖なるもの」として、捧げなくてはならない。

『これらは主が、シナイ山で、イスラエルの人々のために、モーセに命じられた戒めである。』(レビ記27:34)
このレビ記において、主は私達に、何を求めておられ、どうなる事を望んでおられ、どのようになる事を忌み嫌われるか、そして、主の忌み嫌われる事を続けていると、どうなるか等を、はっきりと示され、イスラエルの民は、それを学習した。

レビ記で学んだ主の命令は、全て、法則である。
幸いを得る法則に従えば、必ず幸いになるが、呪いの法則に従えば、必ず呪われる。それ以上でもそれ以下でもない。
レビ記が学科であるなら、その次の民数記は、実技試験の記録である。
イスラエルの多くは、早くも学科で学んだ事を大いに違反し、災いを招いてしまったが、中には、少数ながらも主に従って幸いを得た人もいた。
主の法則にはシンプルに従い、幸いを得る皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

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