メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ
礼拝説教メッセージ音声:のろいの明細 1(レビ記26:14-22):右クリックで保存
14節以降は、主に聞き従わない場合に振りかかる呪いの明細である。
呪いを招いてしまうための条件が、以下の二節である。
『しかし、あなたがたがもしわたしに聞き従わず、またこのすべての戒めを守らず、わたしの定めを軽んじ、心にわたしのおきてを忌みきらって、わたしのすべての戒めを守らず、わたしの契約を破るならば』(レビ記26:14-15)
祝福を受ける条件もわずか二節のみであったが、呪いを受ける条件も二節のみ、非常にシンプルではあるが、人は、シンプルであれば守れる、というものではないようである。
アダムとエバの時も、たった一つの「してはならない」さえ守らなかった。
そして主はまた、アダムとエバの時のように、「してはならない」をしてしまったら何が起こるかを、詳細に、具体的に示された。
呪いが振りかかる場合、少しでも「してはならない」を破ってしまったら、即座にありとあらゆる災いが降りかかるものではなく、徐々に、段階的に災いの度合いが重くなっていくものである。
主の御声に聞き従わないなら、まず、これこれの災いが降りかかり、それでも聞き従わないなら、七倍重い災いが降りかかり、それでも聞き従わないならもっと重く、、、といった形で、五段階に渡る災いが、ここで示されている。
そのまず第一段階の呪いは、身も心も「病む」事である。
『わたしはあなたがたにこのようにするであろう。すなわち、あなたがたの上に恐怖を臨ませ、肺病と熱病をもって、あなたがたの目を見えなくし、命をやせ衰えさせるであろう。あなたがたが種をまいてもむだである。敵がそれを食べるであろう。わたしは顔をあなたがたにむけて攻め、あなたがたは敵の前に撃ちひしがれるであろう。またあなたがたの憎む者があなたがたを治めるであろう。あなたがたは追う者もないのに逃げるであろう。』(レビ記26:16-17)
ここの「肺病」は「憔悴」あるいは「消耗」とも訳せ、「熱病」は「激怒」「興奮」とも訳せる。
御声に聞き従わない者は、諸々の病を患う他、情緒が不安定になって、視力も見識も悪くなり、嫌な敵が栄えて支配するようになり、訳も分からない漠然とした恐怖感に支配され、追われてもないのに逃げるようになるのだ。
『人の霊(ルアッハ:神の息)は病にも耐える力があるが/沈みこんだ霊(破綻してしまった神の息)を誰が支えることができよう。』(箴18:14 新共同訳)
人の内で神の息がしっかり息吹いているなら、どんな病にも耐えぬく力があるが、その、全能者の息が破綻してしまっていたら、どんな些細な事でも恐怖し、すぐに心がしおれてしまうものである。
アダムとエバは、善悪を知る木から取って食べた時、息吹かれていた神の息が破綻し、恐怖に襲われ、神との正常な関係が持てなくなってしまった。
そこから救われるには、「神から離れた善悪判断」を止め、与えられている御声に聞き従い、イエスキリストにあるいのちの路線へと回帰する事である。
そのような災いに遭っても、懲りずに主の御声に聞き従わないなら、第二段階の呪い、すなわち、「作物の不作」が来る。
『それでもなお、あなたがたがわたしに聞き従わないならば、わたしはあなたがたの罪を七倍重く罰するであろう。わたしはあなたがたの誇とする力を砕き、あなたがたの天を鉄のようにし、あなたがたの地を青銅のようにするであろう。あなたがたの力は、むだに費されるであろう。すなわち、地は産物をいださず、国のうちの木々は実を結ばないであろう。』(レビ記26:18-20)
ここの「七倍重く罰する」は「七倍(七回)懲らしめることを増し加える(繰り返す)」という意味である。
主に対して心頑なで、有用な御霊の実を実らせない者に対しては、天もその人に対して頑なに雨を降らせないようになり、土地もその人に対して頑なになって実りを与えないようになる。
それでも懲りずに、主の御声に聞き従わないなら、第三段階の呪い、すなわち、「野獣」が横行する。
『もしあなたがたがわたしに逆らって歩み、わたしに聞き従わないならば、わたしはあなたがたの罪に従って七倍の災をあなたがたに下すであろう。わたしはまた野獣をあなたがたのうちに送るであろう。それはあなたがたの子供を奪い、また家畜を滅ぼし、あなたがたの数を少なくするであろう。あなたがたの大路は荒れ果てるであろう。』(レビ記26:21-22)
実際、サムソンの時代やヤロブアム王の時代などの不従順な世代では、獅子や熊が横行し、往来を行き来するのも危険であった。
結局、自分の中から頑なさを降ろし、神から離れた善悪判断を止め、主の御言葉に従順し、服従するに限る。
それでも聞き従わないとしたら、主はさらなる災いが下ることを、あらかじめ示されている。
栄光の家系の女達 - タマル1(創世記38:1-11)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・礼拝説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
新約聖書は、いきなりイエス・キリストの系図で始まる。何とも初心者に不親切と思えるが、この系図に名を連ねている人々の成り立ちは、知れば知るほど、人の罪深さと、主の憐れみ深さを知り、いかに、どうしようもない人であっても、栄光の家系に連なる事ができるのだ、という希望が湧いて来る。
これから、この系図に登場する「女性たち」に焦点を当て、何度かに分けて見て行きたい。
系図の中で最初に登場する女性は、タマルである。(マタイ1:3) ユダとタマルによってパレスとザラが生まれた、とあるが、ユダとタマルは、夫婦ではない。タマルは、ユダにとっては、息子の嫁、という関係である。
ユダはイスラエルの王族の父祖であり、全世界を救うメシヤの家系の家長だが、その大切な一族の初期の段階から、既に人の罪が渦巻くドラマがある。一体なぜ、このような事になってしまったのか。
『そのころユダは兄弟たちを離れて下り、アドラムびとで、名をヒラという者の所へ行った。ユダはその所で、名を「シュアというカナンびとの娘」を見て、これをめとり、その所にはいった。』(創世記38:1-2)
事の発端は、ユダが、神に召された家族の元を離れ、異邦人の地に行き、異邦人の娘を見て、それを妻とした所に始まる。神の子達が兄弟姉妹の元を離れ、異邦人を見染めて妻を迎え入れると、必ず多くの悲しみや、時間やエネルギーの多大なロスを生み出す元となってしまうのは、ノアの大洪水前からそうである。
この異邦人の女との間に最初に生まれた息子・エルは、ユダ自身が名付けたが、2番目・3番目の息子はこのシュアの娘が名付けたようである。(同3-5節) 異邦人の妻と暮らしていく中で、ユダの家長としての権威はますます弱くなり、異邦人の娘の影響力がますます大きくなって行ったのだろう。
『ユダは長子エルのために、名をタマルという妻を迎えた。』(同6節)
ユダの妻である「シュアの娘」は、出所は「カナン人」であると記されているのに、名前は聖書に一切記されていない。それに対し、タマルは全く逆で、名前は明確に記されているのに、出所が一切記されていない。
という事は、タマルはアブラハムの家系だったのかもしれない。いずれにせよ彼女は、ユダの子孫を残す事の大切さをユダより意識しており、ユダも、しっかりした彼女によって息子が改善するのを望んだ事だろう。
しかし長男エルは、異邦人の母の影響を多大に受け、主を畏れる心は育たず、主を怒らせるようになり、ついには子供を残さないまま、主に殺されてしまった。
ユダは、次男のオナンに「兄の妻の所にはいって、彼女をめとり、兄に子供を得させなさい」と命じたが、彼は、子が自分のものとならないので、兄に子を得させまいと、行為の度に子種を地面に流した。
それは「生んで増えて地に満ちる」という神の御心にも、また、父の命令にも、反抗する事だったため、主は彼をも殺された。神にも父にも反抗してまで、自分を貫きたい、という者を、主は打たれるのだ。
ところで、ユダを含め、ヤコブの12人の子達は、カナン人に劣らず罪深い行いを沢山したのに、主に打たれていない。それは、主は、罪深い人を打つというより、主に反抗する者を打たれるからである。
息子が二人死んでしまったので、ユダはタマルが縁起悪いと思ったのだろうか、彼女を三男から遠ざけた。
しかし、息子二人が死んでしまったのは、書いてある通り、息子たち二人が、主に逆らったからである。
そしてこの三男シェラも、主に打たれて死ぬ要素が、十分にあった事を、ユダ自身認めていたのだろう。
ユダは、タマルを遠ざけるよりも、自分達の内にある神に嫌われる性質を遠ざけるべきだったのに、それをせず、一人の弱い立場の女性・タマルを遠くにやって、嫌な事はうやむやのまま、葬り去ろうとした。
しかし、神に属する一族にあっては、罪の問題やいのちを生む事、神へ果たすべき責任を、うやむやのまま先延ばしにして、そのままフェードアウト出来るわけは無いのだ。
ユダは悔い改めを先延ばしにしてしまった結果、後に神と人の前でとても恥ずかしい思いをする事となる。
ちょっとした信仰の妥協は、大きなロスと悲しみを生み出し、果たすべき謝罪や悔い改めを、先延ばしにすればする程、後に受ける恥も災いもどんどん膨れ上がっていく。その詳細は、次回にゆずりたい。
主の御声は、どんなささやかなものでも、正確に聞く耳が開かれ、その導きに従って歩み、時間も、いのちも、ロスする事なく歩んで行く皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:祝福の明細(レビ記26:1-13):右クリックで保存
26章は祝福とのろいの約束である。
その祝福を受けるための条件は、1-2節に記されており、その時受けるべく祝福はどのようなものであるかが、3節から13節の所に具体的に記されている。
また、主の命令を守り行わず、呪いを受けるとしたら、それはどのようなものであるのかも、14節から39節にかけて、詳細かつ具体的に記されている。
この章は、「こうすればこうなる」という約束の目録であるが、読んでみると、あたかも旧約聖書のイスラエルが辿った歴史を読んでいるかように思える程、そまんまの祝福とのろいがイスラエルに起きている。
祝福を受けるための条件は、以下の二節である。
『あなたがたは自分のために、偶像を造ってはならない。また刻んだ像も石の柱も立ててはならない。またあなたがたの地に石像を立てて、それを拝んではならない。わたしはあなたがたの神、主だからである。あなたがたはわたしの安息日を守り、またわたしの聖所を敬わなければならない。わたしは主である。』(レビ記26:1-2)
ここでは特に、偶像の禁止と、安息日の尊守の二点が命じられているが、それらは、十戒の中でも特に重要なものである。
偶像とは天地を創られたまことの神以外の「神」であり、偶像礼拝とは、まことの神と自分との間に「別の何か」を置いて、それにより頼む事である。
その「別の何か」とは、何も、神社仏閣にある偶像とは限らない。お金も、仕事も、異性も、そして自分自身も、偶像になりうる。
祝福の第一条件は、偶像の禁止、すなわち、神と私達との間に、何も置かない事である。
また、「わたしの安息日を守り、またわたしの聖所を敬わなければならない。」と言われており、つまり主は、「主が定めた日」と、「主が定めた場所」とを重んじ、敬うべきだと言っている事がわかる。
キリスト者の中には、礼拝は「何も主日ではなくても良い」「教会でなくてもどこでもできる」と言って、主日以外の日、教会以外の場所で礼拝を行う人がいる。
確かに、主を礼拝するのは、いつでも、どこでも出来る。事実、迫害下にあった時のキリスト者はそのように行った。
だからと言って、特にやむを得ない理由も無いのに、敢えて主日礼拝に行かないとしたら、それは、自分の好き勝手を優先させているのであり、主が定めた日、主が定めた場所を軽んじる事である。
『もしあなたがたがわたしの定めに「歩み」、わたしの戒めを「守って」、これを「行う」ならば、わたしはその季節季節に、雨をあなたがたに与えるであろう。地は産物を出し、畑の木々は実を結ぶであろう。』(レビ記26:3-4)
祝福は、主の定めに歩む事、主のいましめを「守り行う事」によるのであり、聞いて頭の中に留めておくだけでは、与えられない。
しかし主の御言葉を守り行う人には、時に叶った雨が与えられ、蒔いた種に対し、大地には産物が、仕事場には勤労の実が、豊かに与えられる。
『あなたがたの麦打ちは、ぶどうの取入れの時まで続き、ぶどうの取入れは、種まきの時まで続くであろう。あなたがたは飽きるほどパンを食べ、またあなたがたの地に安らかに住むであろう。』(レビ記26:5)
麦の収穫は春のイースター時期に始まり、ぶどうの取り入れは九月ごろである。つまり、麦打ちが春から秋までずっと続く程の、大収穫が与えられる、という事である。
そんなに大量に穫れてどうするのか、と思うだろうか?
主に従順な世代のイスラエルは、それこそ、ねずみ算式に増えて行くのであるから、主は、食料をそれ程に豊かな実りをもたらして下さるのである。
だから、教会に人数が大いに増えたらどうしよう、食事や集会の場所はどうしよう、などという「嬉しい心配」さえ、無用である。主がその全てをちゃんと備えて下さるから。
『わたしが国に平和を与えるから、あなたがたは安らかに寝ることができ、あなたがたを恐れさすものはないであろう。わたしはまた国のうちから悪い獣を絶やすであろう。つるぎがあなたがたの国を行き巡ることはないであろう。』(レビ記26:6)
イスラエルの近辺は、聖書にも幾度か記されている通り、古くから戦争の多い所で、熊や獅子などの獣も出没する所である。
そのような危険な場所にあっても、主の御言葉を守り行うのであれば、それら全ての危険から守られ、安息が与えられ、安らかに寝る事が出来るのだ。
また、敵への勝利の約束が与えられている。
『あなたがたは敵を追うであろう。彼らは、あなたがたのつるぎに倒れるであろう。あなたがたの五人は百人を追い、百人は万人を追い、あなたがたの敵はつるぎに倒れるであろう。』(レビ記26:7-8)
実際聖書には、主に忠実なわずかな人数が、圧倒的多数の敵に勝利した記事が、幾つもある。
『わたしはあなたがたを顧み、多くの子を獲させ、あなたがたを増し、あなたがたと結んだ契約を固めるであろう。あなたがたは古い穀物を食べている間に、また新しいものを獲て、その古いものを捨てるようになるであろう。』(レビ記26:9-10)
主の御言葉を守り行うなら、子供たちはおびただしく多くなって行く。それでいて、穀物倉から食料が尽きてしまう、という事も、一切無いのだ。
そして、何よりの祝福は、以下である。
『わたしは幕屋をあなたがたのうちに建て、心にあなたがたを忌みきらわないであろう。わたしはあなたがたのうちに歩み、あなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となるであろう。わたしはあなたがたの神、主であって、あなたがたをエジプトの国から導き出して、奴隷の身分から解き放った者である。わたしはあなたがたのくびきの横木を砕いて、まっすぐに立って歩けるようにしたのである。』(レビ記26:11-13)
主が共におられる事、主が私達のうちに住んで下さる事。
それこそ、何にもまさる祝福である。
主はイスラエルをエジプトから救い出し、奴隷のくびきの横木を砕いて、祝福の道へと導いて下さったように、私達をも、希望なき世から救い出し、罪の奴隷状態から開放し、罪のくびきを打ち砕いて下さった。
この主と共に歩むこと、主が共に住んでいて下さる事の幸いが、どれ程であるのかを、ますます知り、ますます拠り頼んで歩んでいく皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
栄光の家系に入るために(ルツ2:1-3):右クリックで保存
祈りと御言葉:右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
第二神殿の栄光(エズラ記6:13-22):右クリックで保存
【概要】
エズラ記6章13節から22節における神殿再建の物語を通して、神の御言葉の確実な成就と、信仰に基づく従順の重要性を学びます。
【聖書箇所】
エズラ記6章13節から22節
【励ましの言葉】
神の御言葉は決してむなしく地に落ちることはありません。どんな困難があっても、神の計画は必ず成就します。
【戒めの言葉】
神の訪れを知らずに拒むことは、神の祝福を失うことにつながります。私たちは常に神の御言葉に従順であるべきです。
【勧めの言葉】
私たち一人ひとりが神の宮であり、イエス・キリストを心に迎え入れ、従順に歩むことが求められています。
【***詳細***】
エズラ記6章13節から22節は、ダリオス王の命令により、ユダヤ人たちが神殿を再建する様子を描いています。彼らは多くの妨害を乗り越え、預言者ハガイとゼカリヤの言葉に励まされて神殿を完成させました。この神殿の完成は、ダリオス王の治世の第6年、アダルの月の3日でした。
神殿の再建は、イスラエルの人々にとって70年越しの念願でした。多くの妨害がありましたが、神の御言葉は決してむなしく地に落ちることはありません。神の言葉は、雨が地を潤し、植物を育てるように、必ず成就します。
この箇所では、川向こうの総督タテナイやシェタルボズナイが神殿の建設を妨害していましたが、最終的には彼らも神殿の建設を手伝わざるを得なくなりました。これは、ダリオス王が神殿の建設を命じたからです。神の御業が行われるとき、どんな妨害があっても、神の御心が成就することを示しています。
神殿の完成後、イスラエルの人々は大いに喜び、神殿の奉献式を行いました。彼らは牛100頭、お羊200頭、子羊400頭を捧げ、イスラエルの部族の数に従って親子12頭を罪のための生贄として捧げました。彼らはまた、エルサレムでの神への奉仕のために、祭司とレビ人を任命しました。
この第二神殿は、ソロモンが建てた第一神殿に比べて見劣りするものでしたが、神は預言者ハガイを通して「この宮のこれから後の栄光は、先の者より勝ろう」と語られました。これは、神が求めるのは生贄の数ではなく、御言葉に従う心であることを示しています。
イエス・キリストがこの第二神殿を訪れたことにより、その栄光はさらに増しました。私たちも神の宮であり、イエス・キリストを心に迎え入れることで、神の栄光を表すことができます。
しかし、エルサレムの人々はイエス・キリストを拒否し、その結果、神殿はローマ軍によって破壊されました。これは、神の訪れを知らずに拒むことの危険性を示しています。
私たちは、神の御言葉に従順であり続け、イエス・キリストを心に迎え入れることが求められています。そうすることで、私たちは神の祝福を受け、永遠の命に至る道を歩むことができます。
【結論】
神の御言葉は必ず成就し、私たちはその御言葉に従順であることが求められています。イエス・キリストを心に迎え入れ、神の宮としての役割を果たすことで、私たちは神の栄光を表すことができます。常に神の御言葉に耳を傾け、従順に歩むことを心がけましょう。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
ほふられた小羊(黙示録5章):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:兄弟姉妹が身売りしてしまったら(レビ記25:47-55):右クリックで保存
ここでは、イスラエル人の誰かが貧しくなり、しかも、自分自身を「在住異国人」に身売りしてしまう程に落ちぶれてしまった場合の教えである。
『あなたと共にいる寄留者または旅びとが富み、そのかたわらにいるあなたの兄弟が落ちぶれて、あなたと共にいるその寄留者、旅びと、または寄留者の一族のひとりに身を売った場合、身を売った後でも彼を買いもどすことができる。その兄弟のひとりが彼を買いもどさなければならない。あるいは、おじ、または、おじの子が彼を買いもどさなければならない。あるいは一族の近親の者が、彼を買いもどさなければならない。あるいは自分に富ができたならば、自分で買いもどさなければならない。』(レビ記25:47-49)
神の民の領域居住地の中で、異邦人が栄え、その傍らで神の民イスラエルが貧しくなり、身売りしてしまう。それは実に、嘆かわしい事態である。
そのような場合は、その人のなるべく近い近親者が買い戻すように、命じられている。
このことは、現代を生きる私達キリスト者も、気をつけるべき戒めである。
もし、主にある兄弟姉妹の誰かが、霊的に落ちぶれてしまったら、なるべく近親のキリスト者が、霊的に立ち直るまで養いをするべきであり、そしてもし、そのような養いが出来るほどの霊性に富んだ人が近くにいないとしても、同じキリスト者が、その人を霊的に養うべきである。
世に身売りしてしまうほどに霊的に落ちぶれてしまったキリスト者がいたなら、なおさらである。
『その時、彼は自分の身を売った年からヨベルの年までを、その買い主と共に数え、その年数によって、身の代金を決めなければならない。その年数は雇われた年数として数えなければならない。なお残りの年が多い時は、その年数にしたがい、買われた金額に照して、あがないの金を払わなければならない。またヨベルの年までに残りの年が少なければ、その人と共に計算し、その年数にしたがって、あがないの金を払わなければならない。』(レビ記25:50-52)
この事がイスラエルの領地の中で起こった事であれば、在住異国人であってもイスラエルの神が定められた法が、すなわち、ヨベルの年を基準とした計算法が、適用されなければならない。
だから、イスラエルの中にいる限りでは、たとい近親者で誰も買い戻せる人がいないにしても、イスラエル人の誰かに助けてもらえる望みはあり、最悪でも、ヨベルの年には、開放されることができる。
『イスラエルの人々は、わたしの「しもべ(直訳:奴隷)」だからである。彼らはわたしがエジプトの国から導き出したわたしのしもべである。わたしはあなたがたの神、主である。』(レビ記25:55)
イスラエルの人々はかつて、エジプトの奴隷だった。しかし、主が力強い御手によって、贖って下さった。
彼らは主によって買い取られ、主のものとされた故に、主のしもべである。
それは、主が人々を奴隷としてこき使うためではなく、むしろ愛して下さり、世の奴隷状態にある人達を憐れんで下さったからだ。
『わたしはあなたの神、主である、イスラエルの聖者、あなたの救主である。わたしはエジプトを与えてあなたのあがないしろとし、エチオピヤとセバとをあなたの代りとする。 あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの、わたしはあなたを愛するがゆえに、あなたの代りに人を与え、あなたの命の代りに民を与える。 』(イザヤ43:3-4)
イスラエルの所有権はエジプトから主へと移ったように、キリストを信じた私達の所有権も、世から主へと移った。
私達は主のもの、主の民である。
私達も霊的に落ちぶれる事が無いよう、日々互いに励まし合い、たとい、落ちぶれた人がいたとしても、その人をしっかりと霊的な養いを与える事が出来る皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:兄弟姉妹が貧しくなったら(レビ記25:35-46):右クリックで保存
イスラエルの中で誰かが落ちぶれて暮らして行けなくなった場合は、その近親の人が扶養し養わなくてはならず、その際は、困っている兄弟姉妹の足元を見て利息を取ったり、利得を貪ったりしてはならない事が命じられている。(レビ記25:35-37)
家族や近親者から利息を取ったり利得を貪ったりするような事は神の民のする事ではない。
『わたしはあなたがたの神、主であって、カナンの地をあなたがたに与え、かつあなたがたの神となるためにあなたがたをエジプトの国から導き出した者である。あなたの兄弟が落ちぶれて、あなたに身を売るときは、奴隷のように働かせてはならない。彼を雇人のように、また旅びとのようにしてあなたの所におらせ、ヨベルの年まであなたの所で勤めさせなさい。その時には、彼は子供たちと共にあなたの所から出て、その一族のもとに帰り、先祖の所有の地にもどるであろう。』(レビ記25:38-41)
イスラエル民族は皆、同じアブラハムから生まれ出た「兄弟姉妹」であり、同じアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神に、拠り頼んでいる者達である。
そして共に奴隷の国エジプトから導き出された者達であり、素晴らしきゆずりの地・カナンが共に主から与えられたのだ。
だから、彼らの誰かが落ちぶれたとしても、奴隷のようにしてはならない。
むしろ雇い人のようにしてしっかり働かせ、蓄えさせ、ヨベルの年には、しっかりと独り立ちできるようにさせなくてはならない事が命じられている。
もし困っている兄弟姉妹の足元を見て、隷属的に扱うならば、主が黙っていない。
ヤコブが身を寄せた、彼のおじ・ラバンは、ヤコブを少ない報酬で何年もこき使ったり、幾度も報酬をだましたりして、ヤコブは何の蓄えもできずにずっといたが、主が祝福の御手を動かして下さったために、ヤコブの持ち物は祝福され、ラバンは逆にどんどん衰退していった。
『彼らはエジプトの国からわたしが導き出したわたしのしもべであるから、身を売って奴隷となってはならない。あなたは彼をきびしく使ってはならない。あなたの神を恐れなければならない。』(レビ記25:42-43)
彼ら(イスラエルの民)は「わたしのしもべ」だと、主は言われた。故に、主にある兄弟姉妹は、人間の奴隷になってはならない。
これらの命令は、信仰によってアブラハムの子孫となった私達にも命じられている事である。
主にあって私達はもはや人の奴隷ではなく、罪の奴隷でもなく、キリストにあって自由とされた。
そして同時に私達は、キリストの血の代価で買い取られた、キリストの奴隷である。
『主にあって召された奴隷は、主によって自由人とされた者であり、また、召された自由人はキリストの奴隷なのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。人の奴隷となってはいけない。』(レビ記7:22-23)
礼拝説教メッセージ音声:買い戻しの権利(レビ記25:23-34):右クリックで保存
『地は永代には売ってはならない。地はわたしのものだからである。あなたがたはわたしと共にいる寄留者、また旅びとである。』(レビ記25:23)
これは、全ての人が持つべき価値観である。
全地は主のものであり、私達はこの地上において、仮に住まわせて頂いている者である。
私達は、不動産買った時、その土地は自分のものであるかのように錯覚しがちだが、元々、土地は本来主のもので、私達は主から土地をお借りして、そこに住まわせて頂いたり、そこで作物の実りを頂いているに過ぎない。
そしてその事は、土地や畑のみならず、今置けれている環境も、与えられている子供も、自分自身の体さえも、主から借り受けているものである事を忘れてはならない。
だから、それらを身勝手に用いたり、粗末に扱ったりしてはならないし、また、貪欲に富を増し加えようとして人の土地を買い漁ったり、労働者をこき使ったりしてはならない。
『貧しい者を、貧しいゆえに、かすめてはならない、悩む者を、町の門でおさえつけてはならない。それは主が彼らの訴えをただし、かつ彼らをそこなう者の命を、そこなわれるからである。』(箴言22:22-23)
富む者も貧しい者も、両方創られたのは主であり(箴言22:2)、主は、それぞれが分かちあい、助けあって、共に生きるよう創られたのだ。
『あなたがたの所有としたどのような土地でも、その土地の買いもどしに応じなければならない。あなたの兄弟が落ちぶれてその所有の地を売った時は、彼の近親者(ゴエル)がきて、兄弟の売ったものを買いもどさなければならない。』(レビ記25:24-25)
ここで「ゴエル」とは、ただ「親類」という意味ではない。
「買い戻しの権利のある親類」「家を絶やさぬ責任のある人」とも訳す事が出来、ルツがボアズに訴えた言葉である。
『「お前は誰だ」とボアズが言うと、ルツは答えた。「わたしは、あなたのはしためルツです。どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です。」』(ルツ3:9 新共同訳)
『人が城壁のある町の住宅を売った時は、売ってから満一年の間は、それを買いもどすことができる。その間は彼に買いもどすことを許さなければならない。満一年のうちに、それを買いもどさない時は、城壁のある町の内のその家は永代にそれを買った人のものと定まって、代々の所有となり、ヨベルの年にももどされないであろう。しかし、周囲に城壁のない村々の家は、その地方の畑に附属するものとみなされ、買いもどすことができ、またヨベルの年には、もどされるであろう。』(レビ記25:29-31)
城壁のある町の中の住宅については、買い戻しできる権利は、一年と決まっている。
城壁は、人の手による守りであり、多くの人がその中で売り買いして生活す場所で、その中には大地の実りは無く、主の守りも主の保証も、あまり無いものである。
『レビびとの町々、すなわち、彼らの所有の町々の家は、レビびとはいつでも買いもどすことができる。レビびとのひとりが、それを買いもどさない時は、その所有の町にある売った家はヨベルの年にはもどされるであろう。レビびとの町々の家はイスラエルの人々のうちに彼らがもっている所有だからである。ただし、彼らの町々の周囲の放牧地は売ってはならない。それは彼らの永久の所有だからである。』(レビ記25:32-34)
レビ人は、主の御前で仕える奉仕が割り当てられ、全ての十分の一が与えられている代わりに、彼らへのゆずりの地は無い。なぜなら、主ご自身が彼らのゆずりの地である。(民数記18:20-21)
そのレビ人の放牧地は、売買してはならない、と定められている。
主の御前に仕えるレビ人は、本来、民の十分の一で養われているはずであり、貧しくなって土地させも手放すという事は、そもそもあってはならないからだ。
世に満ちるもの全ては、主のものであり、私達はその中に仮住まいさせていただいている者達である。
そして私達は、自らの罪の故に落ちぶれ、破産したような者達であったが、私達はまことのボアズであるキリストによって買い戻され、キリストに嫁ぐ者とされ、栄光の家系へと加えられる栄誉に預かった。
主イエスこそ、私達を絶やさぬ責任のある方であり、私達もルツのように、イエス様こそ自分の主人であると訴えるべきである。
そして、そのように訴えるからには、イエス様を主として歩むべきである。
礼拝説教メッセージ音声:安息させるための祝福(レビ記25:18-22):右クリックで保存
『「七年目に種をまくことができず、また産物を集めることができないならば、わたしたちは何を食べようか」とあなたがたは言うのか。わたしは命じて六年目に、あなたがたに祝福をくだし、三か年分の産物を実らせるであろう。あなたがたは八年目に種をまく時には、なお古い産物を食べているであろう。九年目にその産物のできるまで、あなたがたは古いものを食べることができるであろう。』(レビ記25:20-22)
主は、人が当然のように心配する事について、どのようにフォローして下さるかを、先んじて教えて下さる。
事実、イスラエルの民が命じられた通りに、安息を守った時、前もって、三年分の祝福を与えて下さったのだ。
もしそうでなかったとしたら、イスラエルの民は、とっくの昔に滅んでいただろう。
主は、マナを与えて下さった時も、同じような指示をされ、イスラエルの民がしっかり「安息」を守って主を覚えるようにと、安息日の前には、二倍の祝福を与えられた。(出エジプト記16章)
主は人に、一気に何年分もの食い扶持を与える事は、滅多にしない。
何年分も先の食料を貯められ、たましいに安心を宣言した者に、主は愚か者と言われた。
『「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」』(ルカ12:21)
主が、この先何年分も暮らしていけるような金銀や食料を一気に与えない事が多いのは、祝福が与えられて、なお主への忠実さを失わない人よりも、むしろ傲慢になって、主を軽んじてしまう人のほうが、多いためだ。
『貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ。」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。』(箴言30:8-9)
私達は、先々も安心して暮らせる金銀を求める事にたましいを使うのではなく、日々、主を求め、御言葉をしっかりと守り、毎日を主と共に歩む事を求めるべきだ。
地は主のものであり、金銀は主のものである。
主は、御言葉を守り行う人には、地に三倍の実りを命じて下さるお方であると同時に、主を軽んじた世代には、三年半の間雨を降らせる事をしなかったお方でもある。
だから私達は、主こそ第一とすべきである。
『あなたがたも、何を食べ、何を飲もうかと、あくせくするな、また気を使うな。これらのものは皆、この世の異邦人が切に求めているものである。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要であることを、ご存じである。ただ、御国を求めなさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられるであろう。
恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである。自分の持ち物を売って、施しなさい。自分のために古びることのない財布をつくり、盗人も近寄らず、虫も食い破らない天に、尽きることのない宝をたくわえなさい。あなたがたの宝のある所には、心もあるからである。』(ルカ12:29-34)