メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ
主日礼拝
時代を祈りで支配し栄える者となれ(ダニエル1章)
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週報/メッセージ(説教)概要
今年は、歴史的な一年である事は間違いない。中国武漢でのコロナに始まり、世界がコロナで弱っている最中、中国共産党は世界各国へ様々な侵略を始めたが、その直後、中国は洪水や台風、ばった、雷、雹などの災いが次々降りかかり、普段は絶対、聖書や神について言及しない日本のメディアさえ、出エジプトの記事を引用したり、神の罰と書くようになった。神は、表現しておられる。「わたしはある」と。生きておられる神が、「神はいない」と暴挙を働く者をどのようにあしらい、また、神を信じ、畏れ敬い、神の御旨を行おうとする人に、神はどのように報われるのか。本日、時代に働かれる神のわざを読み解く目を養いたい。
今、世界が今一番求めているものは、コロナに効くワクチンだろう。通常、開発から実用化までに何年もかかるが、アメリカはトランプ大統領によるワープ・スピード作戦が功を奏し、今、早くも治験の最終段階へと入って、3万人を対象に検証しており、これがパスされたなら、即時、大量生産に入る体制に入っている。
もし米国が真っ先にワクチンを世に出せば、トランプ政権のアメリカは大いに栄誉を受けるだろう。一方、コロナを拡散させただけでなく各地へ侵略をしている中国共産党は、世界中から叩かれ排除されるだろう。
聖書で一貫して語られている事は、神を信じ、神の御心どおり生きる人には、栄誉が与えられるが、神を無いものとして暴虐を働く者は、呪われ、あざけりと衰退が待っている事である。私たちは、祈るべきである。
トランプ大統領は、以前は世の罪と欲望に貪欲な人ではあったが、神を敬うようになり、彼の背後では、保守派のクリスチャン達が、祈りにおいて、実質において、強力にバックアップしている。
彼に似た聖書の人物といえば、バビロンの王・ネブカデネザル王かもしれない。ネブカデネザルは当時、世界を制覇し、エルサレム神殿の宝物を奪い、多くのユダヤ人をバビロンへと連行したが、それは当時、ユダヤ人が、主に忌み嫌われる事をし続けた故に、主がそれらを彼に渡されたからだ。(ダニエル1:2 )
神が、汚れた者達に満ちたエルサレム神殿から、バビロンの宝物庫という最も安全な場所に移したのだ。
ネブカデネザル王は、その後、好き勝手な振る舞いをする。自分の夢が解き明かせない知識人達を虐殺しようとしたり、偶像を建てて無理やり拝ませたりしたが、イスラエルの神・主を敬うダニエルと、その3人の友人達を通して働かれる神を恐れるようになり、神である主を拝むように、と、全世界にお触れを出した。
当時、ユダヤ人は一切、神を伝えず、神の栄光を広めるより、むしろ、貶める事ばかりしていたが、ネブカデネザル王は、そんなユダヤ人がしなかった事、神の栄光を全世界に知らせる事に、大いに用いられた。
そしてネブカデネザル王を裏で支配したのが、ダニエルと3人の友人である。『この四人の者には、神は知識を与え、全ての文学と知恵にさとい者とされた。ダニエルはまた全ての幻と夢とを理解した。』(17節)
ダニエルは結局、バビロン、メド・ペルシャの3つの帝国で、重要な地位を務め上げ、栄えた。(20-21節)
それは、彼自身、自らを清く保った故、神が用いたからである。どれ程清く保ったか。それは、彼を訴えようとする者達が、彼についてあら捜ししても、訴えるべき口実や怠慢は、一切、見出だせなかった程である。
神は、きよい器をこそ用いられる。人でさえ、汚物がついた皿やコップは用いない。たとえ、黄金で造られていようとも、汚物がついているなら、主は黄金の器よりも、清い土の器のほうをこそ用いる。
結局、時代を動かし、当時の大勢の人々に神の栄光をあらわしたのは、ダニエルであった。
現代も、同じである。トランプ大統領が今なおその働きで成功しているのは、その背後で多くのクリスチャンの祈りがあり、それが彼を支えているからだ。天声でも、彼が大統領になる前から、祈りを積んでいた。
私たちも、祈るべきである。世界情勢のために、またアメリカで開発しているワクチンが速やかに完成し、神を敬う民に軍配が上がり、コロナであえいでいる全世界が慰められるように。また、共産主義が世界から根絶され、イスラムの暴挙も根こそぎ取り除かれるように。これら全てを通して、神があがめられるように。
ネブカデネザルを裏で動かしたのは、忠実な神のしもべ達、きよい器たちであったように、主は、主の御言葉をいつも思い巡らすテフィリン世代を、時代の支配者の上に立てられる。私たちもダニエルのようになり、この時代の忠実な主のしもべとして、霊において、祈りにおいて、裏で世界を統治していく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
詩篇 講解説教
キリストにある王族の祭司たちへの、祝福を求める祈り(詩篇72篇)
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・詩篇72篇は、全5巻ある詩篇の、第2巻の最後の詩篇である。
・それで18-19節は第2巻をしめくくるにふさわしい祝祷で終わり、そして最後の20節は「エッサイの子ダビデの祈は終った。」という言葉で締めくくられる。
詩篇72篇表題『ソロモンの歌』
・この表題は、ヘブライ語では「リ・シロモーホ」、「ソロモンのために」「ソロモンについて」「ソロモンによる」のいずれとも訳す事が出来る。なおKJVでは、「for Solomon 」である。
・この詩篇は、ソロモンの父・ダビデが、息子ソロモンがこのような王であってほしい、という祈りを込めた詩であると考えられる。それと同時に、私達キリスト者が、このような王族の祭司、聖なる国民、神の所有とされた者として歩むように、という、私達自身が祈る模範的な祈りともなる。
72:1 神よ、あなたの公平を王に与え、あなたの義を王の子に与えてください。
・「あなたの」とは当然、神であられる主のことであり、私達が祈るべきは、まず主の公平と主の義が私達に与えられ、それをもって、この世を支配できるように、という事である。私達が王になるとしたら、自分判断の公平や義によって支配するのではなく、神の義、主の公平によって、である。
72:2 彼は義をもってあなたの民をさばき、公平をもってあなたの貧しい者をさばくように。
72:3 もろもろの山と丘とは義によって/民に平和を与えるように。
72:4 彼は民の貧しい者の訴えを弁護し、乏しい者に救を与え、しえたげる者を打ち砕くように。
・この詩篇の祈りを、自分のための祈りにするとするなら、「彼」と書かれてあるところに、自分の名前を代入し、あるいは、自分の子やとりなしたい相手のために祈るとするなら、その人の名を代入して祈るのだ。
72:5 彼は日と月とのあらんかぎり、世々生きながらえるように。
72:6 彼は刈り取った牧草の上に降る雨のごとく、地を潤す夕立のごとく臨むように。
72:7 彼の世に義は栄え、平和は月のなくなるまで豊かであるように。
・太陽、月、星は、しるしのため、季節のため、日のため、年のために創られた(創世記1:14)。それがなくなるまで、とは、この世界の秩序がもはや必要なくなるまで、すなわち、神が創造される新天新地に至るまでである。
・その時至るまで、神が立てた王、すなわち、私達・神の民による、恵みの雨のような憐れみに満ちた支配が、ずっと及びますように、という祈りである。
72:8 彼は海から海まで治め、川から地のはてまで治めるように。
72:9 彼のあだは彼の前にかがみ、彼の敵はちりをなめるように。
72:10 タルシシおよび島々の王たちはみつぎを納め、シバとセバの王たちは贈り物を携えて来るように。
・タルシュシュはスペインの南西タルテスースで、港と船で有名。島々とは地中海の島々。シバはアラビヤの南東の富んだ国、セバはエチオピヤの首都と考えられる。
・彼ら・神の民の王による支配が、東西南北全地まで及ぶように、という祈りである。
72:11 もろもろの王は彼の前にひれ伏し、もろもろの国民は彼に仕えるように。
・「もろもろの王は彼の前にひれ伏し、もろもろの国民は彼に仕える」ためには、12-14節の条件が必要である。
72:12 彼は乏しい者をその呼ばわる時に救い、貧しい者と、助けなき者とを救う。
72:13 彼は弱い者と乏しい者とをあわれみ、乏しい者のいのちを救い、
72:14 彼らのいのちを、しえたげと暴力とからあがなう。彼らの血は彼の目に尊い。
・以上のように、貧しい者、乏しい助けなき者を助ける人は、以下の祝福を得る条件が整う。
72:15 彼は生きながらえ、シバの黄金が彼にささげられ、彼のために絶えず祈がささげられ、ひねもす彼のために祝福が求められるように。
72:16 国のうちには穀物が豊かにみのり、その実はレバノンのように山々の頂に波打ち、人々は野の草のごとく町々に栄えるように。
72:17 彼の名はとこしえに続き、その名声は日のあらん限り、絶えることのないように。人々は彼によって祝福を得、もろもろの国民は彼をさいわいなる者と/となえるように。
・これはイザヤ58章の、主が喜ばれる断食と同じである。そのようにする人には、必ず主がかえりみてくださる。
・ソロモンの前半人生は、ダビデが祈った通り、憐れみの支配をし、まことに広大な土地を支配し、セバの女王をはじめ、国々が贈り物を携え来て、黄金をふんだんに集め、地の産物もふんだんに祝福されたが、安逸を貪って傲慢になり、後半人生は主から離れた故に祝福が離れ、人々から重税を取り立て、貧しい人々を苦しめる者となり、晩年は、伝道者の書に記されている通り、全てが虚しい人生となってしまった。
・私達はキリストにある王族の祭司として、神の言葉どおりを生き、貧しい人を顧み、この詩篇に記されている祝福を生涯、勝ち取り続ける人生でありたい。
主日礼拝
神の「良し(トーブ)」とは(創世記1:25)
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週報/メッセージ(説教)概要
先月より、世界のテフィリンチームと共に同じ創世記1章をテフィリンしているが、同じ御言葉を何百回と反芻していると、この31節の、ほんの数分で読めてしまう箇所から、深い知識や奥義を、大きな喜びや深い慰めを、生きるための秘訣などの宝を、次から次へと掘り起こしている。本日も創世記から恵みを得たい。
『神は地の獣を種類にしたがい、家畜を種類にしたがい、また地に這うすべての物を種類にしたがって造られた。神は見て、良し(トーブ)とされた。』(創世記1:25) 神は、動物や木や草を、鳥や魚を、種類にしたがって創造された。「種類にしたがって」の言葉が、この節で3回、1章全体で10回も繰り返されている。
神がそれらを「良し」としている所から、神の価値観が知れる。神は、多様性を「良し」とされているのだ。
神は、一人ひとりを、固有の存在として創造された。AはAとして、BはBとして。決して、AもBもCもひっくるめてZになれ、とは言わない。それは「種類にしたがって」に反する。それなのに、いかに人は、自分と他人を比べて、自分はだめだと評価したり、神が造られていない別のキャラクターを演じて、疲弊してしまったりしているだろうか。動物や鳥、魚は、しない。あの鳥みたいに美しくなりたいとか、あの獣みたいにうまくできるようになりたい、それに比べて自分はだめだ、などと思って、絶望したり、自殺したりは・・・。
神は、種類にしたがって、様々な個性をもった海の魚、空の鳥、野の獣、家畜、地をはう全てのものに対し、「生めよ、増えよ」と、祝福を宣言された。色々な種類が、それぞれ与えられた個性の本領を発揮し、その全体が、神の栄光をほめたたえる。それが、神の「良し」である。実際、ユダヤ人は、競争教育はしない。
むしろ、それぞれ神から与えられた得意分野を探し、見つけ、それを育成し、関係性を大切にしながら育って行く。彼らの教育法は、御言葉中心であり、小学からずっとクラス替えはせず、互いに同じ御言葉を学び、あるいは同じ学科を学び、それを議論し、口論し、そうして互いが、それぞれの分野でエキスパートに、リーダーとなって行こうという、リーダーシップを養う教育法である。これをハブルタ(友達)教育という。
神の「良し(トーブ)」とは何だろう。私達は、トーブを、パーフェクト、ビューティフル、グッドとして習ったが、一体、誰にとってのパーフェクト、ビューティフル、グッドなのだろうか。創世記から分かる事は、トーブとは、神が「あれ」と言われた通りのまま、また、神が名を付け、神が使命を付与した、そのまま、が、トーブである。
すなわち、神が私達を創造して下さったそのままを、神が付与された意図をそのままを生きる事である。
トーブは、誰か人間基準の「良し」では、決して、ない。怠け者にとっては、怠ける事が良しであるし、共産党にとっては、神が無い事、人民は意見や知識を持たず「見ざる、言わざる、聞かざる」なのが良しである。
神のよしではなく、人間の良しに従って行くと、必ず、死に通じる。他と比べて優れているとか、劣っているとか、良いとか悪いとか、そういった神から離れた善悪判断こそ、死をもたらす概念である。神は言われた。善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ、と。
私達は、他人の目から見る”良かれ”から解放され、神のトーブへと入って行くべきである。また、自分の目の”良かれ”からも解放され、サタンからの、御言葉に反する方向へと仕向けるささやきに、勝利するべきである。サタンがエバをそそのかした時、『女が見ると、その木はまことに食べるのに「良く(トーブ)」、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった』(創世記3:6)ので、彼女は食べてしまった。
「神が創られた通り」「神の意図どおり」。それが真のトーブであり、エデンをキープする道、祝福の道である。
私達は神のトーブを知り、その道を歩むべきである。私達は、分からないかもしれない。はたして今、自分の道が、神のトーブに沿っているだろうか。どうしたら、神のトーブを知り、そうある事ができるだろうか・・・。
それは、とてもシンプルである。「御言葉どおり」がトーブである、という事は、御言葉を暗唱し、昼も夜も口ずさみ、御言葉の通り歩む事。すなわち、テフィリンする事である。御言葉を暗唱すれば、神の基準を知り、神のトーブは何で、今、自分がどのような地点を歩んでいるのかが分かるようになる。そして日々の選択において、どちらが神の目に良いのかが分かるようになる。そればかりではない。神のトーブに反するものが、自動的に嫌いになり、神のトーブに則したものが、自動的に好きになるようになって行く。
今、私達も教会も、神のトーブを見いだし、伝えていかなくてはならない。神様の御心であるトーブな生き方を正しく教え、多くの人々を養い、栄光の次世代を産み出していく皆さんでありますように!
主日礼拝
まことの光をどんどん灯して行くテフィリン世代(創世記1:14)
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週報/メッセージ(説教)概要
今、私達は、世界のテフィリンチームと共に同じ創世記1章をテフィリンしている。同じ御言葉を何度も口ずさんでいると、今まで気づかなかった天地創造の真理に光が照らされ、自分には関係ないと思っていた内容が、実は今の自分にとても密接に関わっていたのだと気づいたりする。本日も恵みを分かち合いたい。
『神は仰せられた。「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。』(創世記1:14) 神は創造の第四日、昼と夜とを具体的に仕分けるために、また、時や時期を定義的に仕分けるため、大空に光る物、すなわち、太陽や月、星々を、すなわち、光を放つ「発光体」を置かれた。これら発光体がつくられた理由は、4つある。
その第一は「しるし(オート:象徴、証拠、記念)」のため、第二は「季節(モーエド:約束された時、場所での、約束された出会いや集会、すなわち「祭り」)」のため、第三は「日(ヨーム:日の出から日没まで、暑くなる期間、一定の期間)」のため、第四は「年(シャーネー:歳、公転周期、周回する期間)」のためである。
それでは、これら発光体が示す「しるし」は、誰が受け取るものだろうか。また、約束された時に、神と約束の出会いをする「祭り」は、誰が行うものだろうか。それは、人間である。つまり神は、当時まだ創られていない人間を念頭に置いて、これらを創られたのだ。人や地球よりも、遥かに巨大な太陽や星々は、なんと、人が神との約束された出会いを、すなわち祭りをできるように、また、時期を示すために、造られたのだ。
大人は赤ちゃんのために、赤ちゃんがすっぽり入るベビーベッドを用意するが、神のスケールは天文学的に大きく、私達が生存し、また神と出会い、神を知り、神を喜べるために、壮大な宇宙を創られたのだ!
聖書で示された最も基本的な「祭り」には、七日ごとに訪れる安息日が、新月ごとに来る新月祭がある。
また、初穂の祭りや、七週の祭り、仮庵祭などは、収穫と密接に関係しており、実りを備えて下さった神に感謝し、喜びの交わりを神と共にするようにと、主はその日時を知らせるために、天の発光体を創造された。
人は、太陽や月、星の運行を見て時期をはかり、また、季節季節によって実る果物や穀物の種類に従って、種まきや刈り入れをし、季節ごとに実った食物を喜び、神に感謝し、神と交わるように、定められている。
これらの発光体は、光そのものではなく、光を放つものである。光そのものは、第一日目に創造された。
イエス様こそ、天地に存在する全てのものを、真理で照らす「真理の光」そのもので(ヨハネ1:9)、全ての人のいのちを育む「いのちの光」である。イエス様は、私達の本来のあり方を照らし、イエス様に照らされた人は、どんどん輝きを増し、本来的に神が備えて下さった役割へ回帰し、意義ある人生へと導かれていく。
今、私達は、神の言葉を暗唱するテフィリンをしているが、御言葉を1節また1節と暗唱できるようになっていく内に、御言葉なるキリストが、つまり真の光であられるキリストが、どんどん私達の中に「在れ」「在れ」と、その存在が増して行き、神を知る知識も、世についての理解も、ますます増し加わって、天地創造の神のパワーと知恵が蓄えられて行く。そうして闇が光へ、不毛の地が、色々な果樹を実らせる所へ、いのちの無かった所にいのちが満ちていく。
創世記1章は、いわば「仕分け」の章である。神が「**あれ」と、ことばを宣言する度に、茫漠として何も無かった所が、次々と仕分けられ、ものが生じ、神による名付けがなされ、意味付けがなされ、使命が与えられ、それが完成した時、「良し(トーヴ)」と宣言し、そして夕があり、朝があった。 私達も、ことばによって区切って行くのだ。茫漠として何もない状態であるなら、言葉の宣言によって、神の秩序を取り戻すのだ。
エバが、蛇の誘惑によって惑わされてしまったように、私達は悪い人間の「闇があれ」「茫漠があれ」の言葉に汚されてはならない。むしろ私達は、良き交わりに入り、神のことばにいつも馴染んでいるべきである。
私達がテフィリンし、御言葉が1節つづ入って行くと、茫漠とした闇に、神の言葉が、神の光が、神の秩序が、ひとつ、またひとつ、と「有る」ようになって行き、御言葉の光が、ぽっと灯って行く。そして、神が言葉で仕分けたように、私達も御言葉によって人生を、状況を仕分け、支配して行けるようになっていくのだ。
テフィリンは、神の「在れ」を具体的に行うものである。テフィリンによって、意味の無かった者が意味ある者へ戻り、茫漠とした人生が、いのちが満ち、そうして光を放つ者、発光体となっていき、夜をつかさどり、昼をつかさどり、そして、太陽のように輝く者となっていく(マタイ13:43)。神のことばをどんどん摂り入れ、ますます輝き渡っていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
死と契約を結ぶ者vsシオンに据えられた石に寄り頼む者(イザヤ28:14-29)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 定期祈祷会メッセージ
- 執筆 :
- pastor 2020-8-7 23:20