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メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:死刑に処せられる罪 - 性的な罪(レビ記20:10-21):右クリックで保存

死刑に相当する罪の内、今回の箇所では特に「性的な罪」が取り上げられている。

『人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者があれば、その姦夫、姦婦は共に必ず殺されなければならない。』(レビ記20:10)
基本的に、夫がいる身の女性と性的関係を持つなら、共に死刑、と定められている。
他にも、父の妻と寝る者(11節)、息子の嫁と寝る者(12節)、男同士で性行為をなす者(13節)、母とその娘とを一緒にめとる者(14節)、動物と寝る者(15節)は、必ず殺さなければならない、と定められている。

神様は、創世当初から男と女とに造られ、「ふたりは」一体となる事を定めとされた。
これらの箇所で、具体的に示されている行為は、「ふたりは一体となる」という「性」と「いのち」の尊厳を、踏みにじる行為である。

『人がもし、その姉妹、すなわち父の娘、あるいは母の娘に近づいて、その姉妹のはだを見、女はその兄弟のはだを見るならば、これは恥ずべき事である。彼らは、その民の人々の目の前で、断たれなければならない。彼は、その姉妹を犯したのであるから、その罪を負わなければならない。人がもし、月のさわりのある女と寝て、そのはだを現すならば、男は女の源を現し、女は自分の血の源を現したのであるから、ふたり共にその民のうちから断たれなければならない。』(レビ記20:17-18)
これらの事をした場合、その者は「絶たれる」と言われており、「絶たれる」の言葉の意味は「捨て去る」「追放される」という意味もあるし、「抹殺される」意味もある。
そのような事をする者は、イスラエルの人々の目には全く触れぬよう、除き去ってしまうべきだ、という事である。

『あなたの母の姉妹、またはあなたの父の姉妹を犯してはならない。これは、自分の肉親の者を犯すことであるから、彼らはその罪を負わなければならない。人がもし、そのおばと寝るならば、これはおじをはずかしめることであるから、彼らはその罪を負い、子なくして死ぬであろう。人がもし、その兄弟の妻を取るならば、これは汚らわしいことである。彼はその兄弟をはずかしめたのであるから、彼らは子なき者となるであろう。』(レビ記20:19-21)
「おば」を犯す者は、子なくして死ななければならないと定められている。
このような、近親の内部で情欲を燃やして生まれてきた子は、生涯、その近親からも、また自分自身からも、憎しみや蔑みを負って生きる事になってしまうし、また、親に姦淫の行動パターンがあると、それが子にも移ってしまう。
だから、そのような者は、子を残さないほうが良いのだ。

列王記や歴代誌を見ると、主の定めを忠実に守った世代のイスラエルは、必ず栄え、幸いになり、栄誉を増し加えたが、主の戒めを軽んじ、ことに偶像礼拝や姦淫の罪を持ち込んだ世代のイスラエルは、必ず衰えた。
レビ記で定められている主の戒めは、家庭に幸いをもたらす掟であり、悲惨な子は決して生まれない掟であり、性といのちが祝福される掟だからである。

では、そのような境遇で生まれてしまった子は、どうなるのだろう。
幸いな事に、キリストにあって、救いの道はある。
『しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、「人の欲(直訳:男の欲望)」にもよらず、ただ神によって生れたのである。』(ヨハネ1:12-13)

また、姦淫の現場で捕らえられた女に対するイエス様の行動も、私達には慰めである。(ヨハネ8:1-11)
姦淫の現場で捕らえられた女は、必ず殺さなければならない、と、レビ記に記されていたが、イエス様に「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と言われた時、人々は誰も、彼女に石を投げられなかった。
姦淫に限らず、人は皆、罪があり、誰しも、律法の基準に達し得る者は、いない。

だから、私達には抜本的な罪の赦しが必要であり、その赦しへの飢え渇きによって、人はキリストへと導かれるのである。
『律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。』(ガラテヤ3:24-25)

『それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。』(ローマ6:15-16)
律法で「してはならない」と定められている事は、神様が忌み嫌う事である。
イエス様も姦淫の女に「もう罪を犯してはならない」と言われた。

私達は確かに、恵みの故に、信仰によって救われ、新しく生まれた者とされたが、そうであるからには、それに相応しく歩むべきであり、もはや死の向こう側へと逝ってしまった罪汚れを、恋い慕って歩んではならない。
『ゆえにあなたがたは、みずからを聖別し、聖なる者とならなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。あなたがたはわたしの定めを守って、これを行わなければならない。わたしはあなたがたを聖別する主である。』(レビ記20:7)

父の日礼拝 - 父なる神の愛(ルカ15:11-24)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・礼拝説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

今日は父の日である。父親は外に出て働き、あまり家にいないかもしれない。一緒に話したり交わったりという事は母に比べれば少ないかもしれないが、父は言葉には出さずとも、子の事をいつも思っている。
今日は、イエス様がたとえ話の中で話された、ある父親について見て行きたい。
「ある人に、ふたりのむすこがあった。ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。」(ルカ15:11-12)
当時、財産の分け前が与えられるのは、父親が死んだ後のはずだが、この弟は父がまだ死んでいないのに、まだ相続できない時なのに、それを求め、父のほうも、まだ与えるべきでない時なのにそれを与えた。
このたとえの中の父と子の関係は、ちょっと常軌を逸している。しかしこのたとえは、天の父なる神様と、私達との関係を現しており、たとえの中に見えるいびつな有様、すなわち、息子達の父親に対する冷たさや、父親の常軌を逸した「お人好し」さ加減も含め、全て、天の御父と私達との「いびつ」な関係を示している。

この弟息子は、まだ自立してはならない時なのに、自立して父のようになろうとした。
それはちょうど、アダムとエバが「神のようになれる」と唆され、善悪知識の木の実を食べたのと同じである。
父は、この息子に財産を「今」与えたら、必ず罪を飲み食いして放蕩し、全てを失う事を、知っていた。
なのに、息子から言われるまま財産を与え、彼の自由意志に任せ、息子が出て行く時も、止めなかった。
同じように、父なる神様は、アダムとエバが、善悪知識の木の実、すなわち、神のようになれるという、受けるべきでない「財産」を自分のものとしてしまう事を、止めなかった。この、「神のように自ら善悪判断する」という”財産”を、彼らが用い、罪を飲み食いし、放蕩し、やがて全てを失ってしまう事を、知りながら。

なぜ、父なる神様は、人がそのまま行けば酷い目に遭う事を知りつつ、人を自らの赴くままにされたのか。
それは、神様は、御自らを正確に褒めたたえるようプログラムしたロボットと共に永遠を過ごすよりも、多少不完全で不揃いでも、自ら喜んで神に聞き従い、自由意志をもって、心から進んで神に仕える、人格を持った「人」と共に永遠を生きる事を、望んでおられたからではないだろうか。
父なる神は、人間の自由意志を尊重される。なぜなら神は人間を神に似たものとして造られ、自分で自由に考え、意思決定して行動する事、それこそ、人間が神の似姿である事の所以だから。
父なる神は、無表情に、心なしに、人間が為すがままに放って置かれたのだろうか? 否!
弟息子が財産を全部持って出て行ったその日以来、父は、愛と忍耐をもって、ずっと待っていたのである。
父は、息子が出て行ったその先をじっと見つめながら、早く戻ってくるのを、片時も目を離さず、待っていた。だからこそ、息子が帰って来た時、まだ遠くにいる時に見つけて、駆け寄ってきて、抱きしめたのだ。
子の全てを知った上で、敢えて子の好きにさせる。そして、いつも子の事を心にかけながらも、自らの意志で父の元に戻ってきて、心から父を愛するようになるのを、待っている。それが、父親である。

人は、父なる神の完全な保護下にあったエデンを出て行き、神のごとき善悪判断という「財産」を用いて、罪を売り買いし、罪を飲み食いし、尊い神の子としての尊厳を汚して、神から与えられた尊い「いのちの息吹」を、ただ放蕩するしかなかった。
御父を離れた世で、何もかも失っても、なお父の元に戻らず、世の主(サタン)の元に身を寄せても、任される仕事といえば、何でもがさつに口に入れる「豚のエサやり」という、労だけが多い、汚れた仕事である。(豚飼いが卑しく悪い仕事という意味ではなく、当時の律法では、豚は汚れた動物で、豚飼いはイスラエルの民には汚れた職業とされていた。)
御父を離れているなら、豚の食べている汚れたエサさえ欲しいと願うが、豚のエサは聖徒達にふさわしくないため、それは神の子達には、決して与えられない。神の子たる者が、父の元に戻らず、豚のエサを求める状態は、究極の「中途半端」であり、御父の元に戻らない限り、絶対に満たされない。
御父の元を離れて、豚のエサやりをしているのであれば、断然、父の元に戻るべきであり、父が用意してくださったまことの食物、屠られた肥えた動物、すなわち、屠られたキリストを、共に食すべきである。(23節)
「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」(10節)
御父の元を離れず、もし離れてしまったとしても、いつでも悔い改めて御父に戻り、王子としての王服(晴れ着)と権威(指輪)、歩み(くつ)を返していただき、王子としての歩みに戻る皆さんでありますように。

礼拝説教メッセージ音声:死刑に処せられる罪 - 親子関係(レビ記20:1-9):右クリックで保存

レビ記20章には、「**する者は、必ず殺されなければならない」という言葉が幾度か出てくる。
すなわち、この章は、死刑に相当する刑法が記されている所であり、現代では「えっ、そんな事で死刑になるの?」と思えるような内容もある。
しかし、「**する者は、必ず殺されなければならない」という内容を見る時、神は何を忌み嫌われるかを、また、私達が聖とされる上で何をすべきで、何をすべきでないかを、知る事が出来る。

その中で、真っ先に禁じられている事が、モレクに子供を捧げる事である。
『「イスラエルの人々に言いなさい、『イスラエルの人々のうち、またイスラエルのうちに寄留する他国人のうち、だれでもその子供をモレクにささげる者は、必ず殺されなければならない。すなわち、国の民は彼を石で撃たなければならない。わたしは顔をその人に向け(KJV: set my face against that man)、彼を民のうちから断つであろう。彼がその子供をモレクにささげてわたしの聖所を汚し、またわたしの聖なる名を汚したからである。』(レビ記20:2-3)

モレクとは、自分の子供をその像の手に乗せ、下から火で焼き殺して捧げる、残酷な異教の神である。
それをする者は、石打ちの公開処刑に処せられ、主ご自身もその者に敵対して顔を向け、その者を断たれる。
しかし、イスラエルの歴史では実際、子をモレクに捧げるという事が起きてしまった。(詩篇106:34-43)
モレクに子供を捧げていた場所は、エルサレム近のく、ヘブライ語で「ゲーヒンノーム」(ヒンノムの谷)、ギリシア語で「ゲヘナ」と言われる所である。(2列王記23:10)

主は、そのような事をする者はもちろん、その事を知っていながら目をつぶり、その者を裁かなかった者に対しても、主は敵対される。
『その人が子供をモレクにささげるとき、国の民がもしことさらに、この事に目をおおい、これを殺さないならば、わたし自身、顔をその人とその家族とに向け、彼および彼に見ならってモレクを慕い、これと姦淫する者を、すべて民のうちから断つであろう。』(レビ記20:4-5)
また、死者に伺いを立てる者に対しても、主は敵対され、その者を民の内から絶たれる。(レビ記20:6)

『だれでも父または母をのろう者は、必ず殺されなければならない。彼が父または母をのろったので、その血は彼に帰するであろう。』(レビ記20:9)
イスラエルにおいて、父母は神の掟を伝える役割が託されており、子供にとって父母は、神の代理で権威を行使する立場であり、その権威に逆らう事は、神である主に逆らう事と同じである。
また、父母は、人が従うべき権威の、最も身近、最も基本であり、それに逆らうとするなら、その人には「権威」という概念が無くなってしまい、そのような人達がはびこると、親子や社会、国家の、そして、神の権威という概念まで軽んじられてしまう。
父と母を「のろう」事は、それだけ大きな罪であると主は定められている故、私達はその事に拒絶反応を起こすのではなく、その事に心を留め、父や母を敬うべきである。なぜならそれは、末永く幸いな生活の約束が伴っている事だからだ。(エペソ6:1-3)

『ゆえにあなたがたは、みずからを聖別し、聖なる者とならなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。あなたがたはわたしの定めを守って、これを行わなければならない。わたしはあなたがたを聖別する主である。』(レビ記20:7)
この御言葉から分かるように、主こそ聖別「する」お方、私達人間は、聖別「される」側である。
私達も、主から聖別していただくには、まず、自分は聖なる民であるという自覚を持ち、自分の聖でない性質は悔い改めて捨て去り、主に清くしていただこうという意志をもって主に近づくならば、主がその人を聖別して下さる。
『あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。』(1ペテロ1:15-16)

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
心でつぶやく事の災い:右クリックで保存
聖絶すべきものを聖絶せよ(1サムエル15章):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
預言によって奮い立つ - ハガイの預言(エズラ5:1-5):右クリックで保存

※ 録音に不備がありましたため、ノイズが大きいです。

【概要】

エズラ記5章1節から5節における神殿再建の物語を通して、神の導きと預言者の役割について考察します。神の宮を建てることの重要性と、それに伴う神の祝福について学びます。

【聖書箇所】

  • エズラ記5章1-5節

  • ハガイ書1章1-15節

  • 第一コリント3章9節

【励ましの言葉】

神は私たちと共におられ、私たちの働きを助けてくださいます。神の宮を建て上げることに専念するならば、神の祝福が私たちに与えられます。

【戒めの言葉】

神の宮をないがしろにすることは、私たちの生活において多くを労しても少ししか得られない結果を招きます。

【勧めの言葉】

神の宮を建て上げるために、私たち一人一人ができることを行いましょう。神の宮とは私たち自身であり、神の栄光を表すために日々の生活を捧げましょう。

【***詳細***】

エズラ記5章1節から5節では、預言者ハガイとゼカリアが神の名によってユダヤ人に預言し、神殿の再建を促しました。シェアルティエルの子ゼルバベルとエホサタクの子ヨシアは、預言者たちの助けを受けてエルサレムの神の宮を建て始めました。神の目がユダヤ人の長老たちに注がれていたため、彼らの働きは止められることなく続けられました。

ハガイ書1章では、神殿が廃墟となっていることを神が嘆き、民に神の宮を建てるように命じます。神殿を建てることを怠ると、労しても少ししか得られないという呪いがもたらされると警告されます。預言者ハガイは、神の宮を建てることが神の喜びと栄光をもたらすと語ります。

第一コリント3章9節では、私たち自身が神の宮であり、神の協力者であることが述べられています。私たちはイエス・キリストという土台の上に神の宮を建て上げるべきであり、その働きは神の火によって試されます。

神の宮を建て上げることは、私たちの生活において神を第一にすることを意味します。神の宮を建てるために、私たちは日々の生活を神に捧げ、神の栄光を表すことを心がけましょう。

【結論】

神の宮を建て上げることは、私たちの信仰生活において重要な役割を果たします。神の導きと預言者の言葉に従い、神の宮を建てることに専念するならば、神の祝福が私たちに与えられます。私たち自身が神の宮であることを自覚し、日々の生活を通して神の栄光を表しましょう。

礼拝説教メッセージ音声:尊厳ある歩みをせよ(レビ記19:26-37):右クリックで保存

今回の箇所では、聖なる民として尊厳ある歩みをなすべき事、特に、異教の風習を真似てはならない事を命じている。
異教の風習は、極度に人間の尊厳を貶めるものである。

『あなたがたは何をも血のままで食べてはならない。また占いをしてはならない。魔法を行ってはならない。あなたがたのびんの毛を切ってはならない。ひげの両端をそこなってはならない。死人のために身を傷つけてはならない。また身に入墨をしてはならない。わたしは主である。』(レビ記19:26-28)
これらは、異教の民がしている事である。
血はいのちそのものである事は以前学んだが、その、いのちに対する尊厳を犯してはならない。
また、占いや魔法のような、悪魔由来の導きや、超自然的な力を追求してはならず、また、死人のために体を傷つけたり、入墨をしたりして、主が創造された有り様から離れるような体の改造をする事を、禁じている。
それは、主がデザインされた人間の有様を侵害する事である。

『あなたの娘に遊女のわざをさせて、これを汚してはならない。これはみだらな事が国に行われ、悪事が地に満ちないためである。あなたがたはわたしの安息日を守り、わたしの聖所を敬わなければならない。わたしは主である。』(レビ記19:29-30)
みだらな事や、不品行が、いかに世に邪悪をもたらすか、いかに呪いを招くかは、18章で学んだ。
神の民の女性たちは(もちろん男性も)、きよい、聖なる歩みをなすべきである。
「すべての人は、結婚を重んずべきである。また寝床を汚してはならない。神は、不品行な者や姦淫をする者をさばかれる。」(ヘブル13:4)

『あなたがたは口寄せ、または占い師のもとにおもむいてはならない。彼らに問うて汚されてはならない。わたしはあなたがたの神、主である。』(レビ記19:31)
霊媒や口寄せは、死んだ人間にではなく、悪霊に導きを求めるものであり、その人自身の霊性を汚す行為である。
人は元々、神の似姿として創られ、私達を創られた神をこそ主とすべきであって、死人に伺いをたてようとしたり、死人の故に体や心をあえて傷つけるような事をすべきでない。
親しい人が亡くなった時は、悲しむのが、人間である。しかし、悪魔はその悲しみを利用して、人々を不健全さや束縛の中へへ引きずり込もうとするものだ。
誰が天国に行って誰が地の底に下ったか、それを詮索しても何にもならないし、知りもしないのに先走った答えをしてもならない。
大切な事は、私達の近くにある御言葉を守る事であり、今生きていている全て人が、いかにサタンの惑わしから逃れ、いかに真理を知り、いかにイエス様と共に歩んで行くか、である。(ローマ10:6-9)

『あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。』(レビ記19:32)
信仰の日々を長く重ね白髪となった老人は、存在自体が証であり、多くの若い聖徒たちの慰めとなるため、彼らは尊敬すべきであり、また、多くを学ぶべきである。

『もし他国人があなたがたの国に寄留して共にいるならば、これをしえたげてはならない。あなたがたと共にいる寄留の他国人を、あなたがたと同じ国に生れた者のようにし、あなた自身のようにこれを愛さなければならない。あなたがたもかつてエジプトの国で他国人であったからである。わたしはあなたがたの神、主である。』(レビ記19:33-34)
イスラエルは元々、エジプトでは寄留者だった。その事を忘れてはならず、弱い立場である在留異国人からかすめたり、虐げたりしてはならない事を命じられている。
そして私達も、今のこの世では寄留者であり、国籍は天にある事を忘れてはならず、天国人として相応しい品性と振る舞いをもって周囲と接するべきである。

『あなたがたは、さばきにおいても、物差しにおいても、はかりにおいても、ますにおいても、不正を行ってはならない。あなたがたは正しいてんびん、正しいおもり石、正しいエパ、正しいヒンを使わなければならない。わたしは、あなたがたをエジプトの国から導き出したあなたがたの神、主である。』(レビ記19:35-36)
主は公平で正しくあられ、私達にも、そのようである事を求めておられる。
誰かをえこひいきしたり、人によって態度を変えたりする事は、聖なる民のする事ではない。
『あなたがたはわたしのすべての定めと、わたしのすべてのおきてを守って、これを行わなければならない。わたしは主である』」。』(レビ記19:37)

礼拝説教メッセージ音声:聖なる民のいのちの扱い(レビ記19:19-25):右クリックで保存

『あなたがたはわたしの定めを守らなければならない。あなたの家畜に異なった種をかけてはならない。あなたの畑に二種の種をまいてはならない。二種の糸の混ぜ織りの衣服を身につけてはならない。』(レビ記19:19)
主は、生き物を色々な種類に従って創造され、一つ一つをそれ自体、良きものとして完成された。
それ故、それを不服として、人為的に別種のいのちとかけ合わせる事を、主は禁じている。
『不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、/「わたしは彼らの間に住み、/かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となるであろう」。』(2コリント6:14-17)

次に、婚約相手のいる女奴隷を、別の男が寝て交わる場合について、主は教えている。
『だれでも、人と婚約のある女奴隷で、まだあがなわれず、自由を与えられていない者と寝て交わったならば、彼らふたりは罰を受ける。しかし、殺されることはない。彼女は自由の女ではないからである。しかし、その男は愆祭を主に携えてこなければならない。すなわち、愆祭の雄羊を、会見の幕屋の入口に連れてこなければならない。そして、祭司は彼の犯した罪のためにその愆祭の雄羊をもって、主の前に彼のために、あがないをするであろう。こうして彼の犯した罪はゆるされるであろう。』(レビ記19:20-23)
こうした場合、本来なら、男も女も両方石打ちにされるはずである(申命記22:23-27)が、女が奴隷だった場合、他人の財産に損害を与えた場合の賠償が適用され、双方が殺される事は無い。
と言っても、男が愆祭の雄羊を捧げて、それで済むという話でもない。愆祭とは、「賠償」の意味もある事を、以前習った。
その男は償いをし、その女奴隷に対しては、出エジプト記21:7-11の規定どおり養って、食物と衣服を与えることと、その夫婦のつとめを絶えさせてはならない。

『あなたがたが、かの地にはいって、もろもろのくだものの木を植えるときは、その実はまだ割礼をうけないものと、見なさなければならない。すなわち、それは三年の間あなたがたには、割礼のないものであって、食べてはならない。
四年目には、そのすべての実を聖なる物とし、それを「さんびの供え物」として主にささげなければならない。しかし五年目には、あなたがたはその実を食べることができるであろう。こうするならば、それはあなたがたのために、多くの実を結ぶであろう。わたしはあなたがたの神、主である。』(レビ記19:23-25)
ここは、約束の地カナンに入った時に、果物の木を植えた場合のその実りに対する命令であるが、このように、三年の間は誰もその実りに手を付けてはならず、四年目にはそれを「賛美の供え物」として主に捧げ、五年目から食べるようにすると、その木はとても多く実を結ぶようになる。

初物を主に捧げると、確かに、実り豊かになる。(箴言3:9-10)
律法を守っているイスラエルは、実に産物が祝福されており、現代でも、色とりどりの野菜を毎日たっぷりと食べられる。
「イスラエルは中東に位置し、国土の60%が乾燥地に覆われている。雨季は11月から4月までの間しかない。その降雨量は北部で平均700ミリ、南部では50ミリ以下である。ちなみに、農業県の新潟、高知、鹿児島の降雨量は1800ミリから2500ミリである。
この過酷な条件にもかかわらず食料自給率は93%以上を維持している。イスラエルの農業人口は8万人。一方日本の農業人口は400万人。現在の農業輸出高は21億ドルでほぼ同じだ。イスラエルは日本の50倍の生産性を持っていると言える。」(「食糧自給率」より「稼ぐ農業」!:日経ビジネスオンラインより: http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20110124/218115/?rt=nocnt)
律法を尊守すると、農産物も、科学技術も、相乗効果で祝福されるのだ。

果物の実りは、三年間は「未割礼のもの」で、四年目の実りが「賛美の供え物(holiness of praises to the Lord)」と呼ばれる事は、実に興味深い。
私達は元々、くちびるの汚れた民の中に住んでおり、世から贖い出されたままでは、未割礼の者である。
そのくちびるを、賛美に用いるとするなら、罵詈雑言や呪い、下品な冗談など、汚れた言葉を一定期間、断食すべきである。
賛美のいけにえ、すなわち、御名をたたえるくちびるの果実(ヘブル13:15)を捧げる者が、もし、罵詈雑言や呪い、下品な冗談などを、世の人と変わらずに続けているとしたら、そのような「果実」を、果たして主は受け取るだろうか。
賛美とのろいが同じくちびるから出てくるような事はあってはならない。

賛美のいけにえは、礼拝中やステージで歌っている「その時」が良ければいいというものではない。
果実は、人間の誰にも味わわせない三年間、そして、四年目には神にのみ捧げる事、それを通してこそ、実り豊かなものとなる。
それと同様に、賛美の果実も、人間の誰にも味わわせない整えの期間と、神にのみに捧げる賛美があってこそ、人々を恵みへと導く賛美ができるのである。
セミは、六年の地中生活を経て、七年目に、自由に空を駆け巡るが、その地中での6年も、全部ひっくるめた期間が、セミの一生であるように、賛美も、人前で歌う時だけが賛美ではなく、その背後にある、誰にも人間には味わわせぬ期間も、神様のみに捧げた心や思いも、それら全てをひっくるめたものが、賛美なのだ。

礼拝説教メッセージ音声:聖なる民としての人間関係(レビ記19:11-18):右クリックで保存

今回の箇所は、特に、兄弟姉妹や隣人との「関係」において、いかに「聖」を保って行くべきかが示されている。
『あなたがたは盗んではならない。欺いてはならない。互に偽ってはならない。わたしの名により偽り誓って、あなたがたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。』(レビ記19:11-12)
ここでも十戒がいくつか引用されている。
第八戒の「盗んではならない」、第九戒の「偽ってはならない」、また、第三戒の「主の御名をみだりに唱えてはならない」、これらは、人と人との関係において重要な戒めであり、神の民の人間関係は、いつも真実であるべき事が命じられている。
そして、続く節では、弱い人に対する配慮が命じられている。

『あなたの隣人をしえたげてはならない。また、かすめてはならない。日雇人の賃銀を明くる朝まで、あなたのもとにとどめておいてはならない。』(レビ記19:13)
若かったり、没落したりして、土地や定職が持てていない日雇い人などから搾取する事は、聖なる民がする事ではない。
彼らの叫びは主が聞いておられ、そのように搾取するような者は、やがて万軍の主にほふられてしまう。
『見よ、あなたがたが労働者たちに畑の刈入れをさせながら、支払わずにいる賃銀が、叫んでいる。そして、刈入れをした人たちの叫び声が、すでに万軍の主の耳に達している。 あなたがたは、地上でおごり暮し、快楽にふけり、「ほふらるる日」のために、おのが心を肥やしている。 』(ヤコブ5:4-5)
そういう意味で、現代社会は本当に呪いを招く事をたくさんしているわけである。

『耳しいを、のろってはならない。目しいの前につまずく物を置いてはならない。あなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。』(レビ記19:14-15)
耳が聞こえない人が聞こえないのを良い事に、のろいの言葉を発したり、目が不自由な人が見えないのを良い事に、つまづかせる物を置いたりする。
そのように、知識や能力が無いのを利用して、その人を陥れたり、搾取したりする事は、聖なる民がする事ではない。
彼らが主に叫ぶ時、主が訴えを聞き入れ、そのような者の命は、そこなわれてしまう。
『貧しい者を、貧しいゆえに、かすめてはならない、悩む者を、町の門でおさえつけてはならない。それは主が彼らの訴えをただし、かつ彼らをそこなう者の命を、そこなわれるからである。 』(箴言22:22-23)

『さばきをするとき、不正を行ってはならない。貧しい者を片よってかばい、力ある者を曲げて助けてはならない。ただ正義をもって隣人をさばかなければならない。』(レビ記19:15)
強い人や多数意見に自分も流されたり、その逆の、弱者に同情したりして、黒を白としたり、白を黒としたりしてはならない。主は、公正にジャッジする事を求めておられる。

『民のうちを行き巡って、人の悪口を言いふらしてはならない。あなたの隣人の血にかかわる偽証をしてはならない。わたしは主である。』(レビ記19:16)
誹謗中傷する事、これは、悪魔の性質である。(悪魔:「ディアボロス」のギリシア語の意味は、告発者、中傷者)
そのような者は、天から投げ落とされてしまう運命にある。(黙示録12:10)

『あなたは心に兄弟を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろにいさめて、彼のゆえに罪を身に負ってはならない。』(レビ記19:17)
表面上は穏やかに繕ろっていても、心中はおだやかではない。それは、偽りの生活である。
もし兄弟姉妹に人をつまづかせるような性質があるのなら、面と向かって言うべきである。
『あからさまに戒めるのは、ひそかに愛するのにまさる。愛する者が傷つけるのは、まことからであり、あだの口づけするのは偽りからである。 』(箴言27:5-6)

『あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしは主である。』(レビ記19:18)
隣人関係において、最も大切な戒めは、この「あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない」である。
イエス様も、最も大切ないましめの内の一つである事を言われた(マタイ22:39、マルコ12:31-34)し、パウロも、律法全体はこれに尽きると言っている。
『互に愛し合うことの外は、何人にも借りがあってはならない。人を愛する者は、律法を全うするのである。 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というこの言葉に帰する。 』(ローマ13:8-9)

礼拝説教メッセージ音声:聖なる民としての生活(レビ記19:1-10):右クリックで保存

「イスラエルの人々の全会衆に言いなさい、『あなたがたの神、主なるわたしは、聖であるから、あなたがたも聖でなければならない。」(レビ記19:2)
レビ記19章は、一見すると、十戒をはじめとした様々な規定が、雑然と並んでいるかのように見えるが、この箇所は、イスラエルの人々が日常生活において、いかに「聖なる民」とされる、いかに「聖」を保って行くべきかが、示されている。
今まで記されてきた祭儀規定は、祭司の視点で分類的に記されていたのに対し、この章は、イスラエルの一般的な「生活者」としての視点で記されていると言える。

『あなたがたは、おのおのその母とその父とをおそれなければならない。またわたしの安息日を守らなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。 むなしい神々に心を寄せてはならない。また自分のために神々を鋳て造ってはならない。わたしはあなたがたの神、主である。 』(レビ記19:3-4)

聖なる生活を送るための命令の中で、まっ先に命じられた事は、十戒の第五戒、母と父を敬え、である。
最も身近な権威者である父母を敬う事、それは、最高権威者である主に従う雛形であり、目で見える父母を敬えずしては、目に見えない神を敬う事ができない。
そしてそれは、末永く幸いな生活の約束を伴った命令である。
『子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである。「あなたの父と母とを敬え」。これが第一の戒めであって、次の約束がそれについている、「そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう」。』(エペソ6:1-3)
なお、父母を敬う命令は聖書の他の箇所でも多く登場するが、「母と父」と、母を先に出しているのは、レビ記のこの箇所だけである。
父は一家の長として、権威的に先んじて敬われなくてはならないが、やはり「生活者」として最も頻繁に親しく接するのは、「母」の方なのだろう。

そしてその次の命令は、十戒の第四戒、安息日の尊守である。
世に出て働く人は、仕事に夢中になるあまり、主が聖別された安息日を忘れやすいため、順番的に先の方で命じられたのだろう。
主が礼拝するようにと定められた日を守る事は大切であるが、しっかりと「安息する」事もまた大切である。

続く命令は、十戒の第二戒、偶像の禁止である。
天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものの、どんな像(イメージ)も作ってはならず、それに仕えたり拝んだりしてはならない。(出エジプト記20:4-6)
偶像(アイドル、イメージ)を崇拝する、とは、まことの主以外のものを神とする行為である。
異教の寺院などに限らず、実体を持たないイメージ、すなわち、イデオロギーや論理、時にはサイエンスや神学さえ、神よりも優先した「頼りどころ」という偶像となりうる。
私達は、「神以外のものを神とする」偶像崇拝に気をつけなくてはならない。

『酬恩祭の犠牲を主にささげるときは、あなたがたが受け入れられるように、それをささげなければならない。 それは、ささげた日と、その翌日とに食べ、三日目まで残ったものは、それを火で焼かなければならない。 もし三日目に、少しでも食べるならば、それは忌むべきものとなって、あなたは受け入れられないであろう。 それを食べる者は、主の聖なる物を汚すので、そのとがを負わなければならない。その人は民のうちから断たれるであろう。 』(レビ記19:5-8)

ここでは、酬恩祭(和解のいけにえ)で民が守るべき事を、日常生活者の視点で命じられている。
酬恩祭(和解のいけにえ)は、神と祭司と人とが、同じ一頭の動物を共に食するもので、民が捧げるいけにえの中で、唯一、民がいけにえを食べる事の出来るものであり、約束の地に入るまでは、牛や羊、山羊を食す場合は、かならず「和解のいけにえ」という儀式を通して食さねばならない事が、一七章で規定されている。

この肉を食べる際は、捧げた当日と、その翌日は食べても良いが、三日目は食べてはならない。
それは、冷蔵が出来ない当時の、衛生的の観点から、というより、主がそのように命じられた命令を尊守するためで、日が経って肉が腐っている・いない、の問題ではなく、主がNOと言うなら、してはならず、主がYESと言うなら、するべきなのだ。

『あなたがたの地の実のりを刈り入れるときは、畑のすみずみまで刈りつくしてはならない。またあなたの刈入れの落ち穂を拾ってはならない。あなたのぶどう畑の実を取りつくしてはならない。またあなたのぶどう畑に落ちた実を拾ってはならない。貧しい者と寄留者とのために、これを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。 』(レビ記19:9-10)

実りを全部独り占めする事は、汚れた人がやる事である。
聖なる主は、憐れみ深い。同じように、畑を刈り尽くさず、貧しい人々のためにとっておく事は、聖なる民の性質であり、地の実りを一粒たりとも残すまいと、畑を刈り尽くす事や、貧しい人や寄留者を憐れまない者は、聖なる民ではない。

全てのものは主のものであり、人を富ませるのも、貧しくさせるのも、畑を実らせるのも、実らせないのも、主の御手の内で為される事である。
だから私達は、与えられている恵みを、自分一人のものとせず、貧しい人には、主の代理として恵みを施し、そうする事によって聖なる主のわざに私達も加わるのだ。

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