メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
つぶやく事の災いと、そこからの救い(1コリント10:10-13):右クリックで保存
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神殿を建てようとする際の妨害(エズラ記4:1-6):右クリックで保存
【概要】
エズラ記4章1節から6節を通して、神殿再建の際に直面した敵の妨害と、それに対する信仰の姿勢について学びます。
【聖書箇所】
エズラ記4章1-6節
【戒めの言葉】
信仰の働きにおいて、敵の妨害や誘惑に屈することなく、神の御言葉を信じて進むことの重要性を学びます。
【勧めの言葉】
神の御言葉を信頼し、どんな妨害があっても信仰を持って進むことを勧めます。
【***詳細***】
エズラ記4章1節から6節では、ユダとベニヤミンの敵たちが、イスラエルの神殿再建を妨害しようとする様子が描かれています。彼らはゼルバベルと一族の頭たちに近づき、「私たちもあなた方と一緒に建てたい」と申し出ますが、ゼルバベルたちは「あなた方と私たちとは何の関係もない」と断ります。これにより、敵たちはユダの民の気力を失わせ、脅し、さらには役人を買収して計画を妨害しました。
この妨害は、ペルシャの王クロスの時代からダリオスの治世まで続きました。さらに、アハシュエロスの治世にもユダとエルサレムの住民を非難する国訴状が書かれました。これらの妨害は、神殿再建の働きを一時的に中断させましたが、神の御言葉は決して無駄にはなりません。
イザヤ書55章6節からの御言葉では、「私の口から出る私の言葉も、むなしく私のところには帰っては来ない」とあります。神の御言葉は必ず成就し、私たちが信仰を持って進むならば、神の約束は実現します。
このように、信仰の働きにおいては、敵の妨害や誘惑に屈することなく、神の御言葉を信じて進むことが重要です。ゼルバベルとヨシアは、敵の企みを見抜き、神の御言葉を信頼して行動しました。その結果、神殿再建の働きは再び進められ、神の祝福を受けることができました。
【結論】
信仰の働きにおいて、敵の妨害に屈することなく、神の御言葉を信じて進むことが重要です。神の御言葉は必ず成就し、私たちが信仰を持って進むならば、神の約束は実現します。私たちも、神の御言葉を信頼し、どんな妨害があっても信仰を持って進むことを心がけましょう。
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ペルガモにある教会へ - 世と和合するなかれ(黙示録2:12-17):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:大贖罪日の贖いのつとめ(レビ記16:11-22):右クリックで保存
『彼が聖所であがないをするために、はいった時は、自分と自分の家族と、イスラエルの全会衆とのために、あがないをなし終えて出るまで、だれも会見の幕屋の内にいてはならない。』(レビ記16:17)
大贖罪日の贖いの務めは、一人の大祭司の手によって執り行われる。
同じように、人類全体の贖いも、キリストという一人の大祭司によって行われた。
今回の箇所は、大贖罪日にて大祭司が執り行うべき事の指示で、この日、大祭司が為す事は、大きく分けて三段階ある。
その第一のステップは、まず、大祭司自身とその家族のための贖いであり、そのためにまず罪祭の雄牛をほふる。
そして、祭壇から炭火を満たした香炉と、細かくひいた薫香を両手いっぱいに取って垂幕の内に携え入り、主の前に薫香をその火にくべ、薫香の煙で、契約の箱の贖罪蓋を覆わせ(レビ記16:11-13)、大祭司と契約の箱の間に、香り高い香の煙を置く事によって、罪ある大祭司が直接、主の栄光に触れぬようにする。
そうしてから、罪祭でほふった血潮を、七という完全数が満ちるまで、振りかける。
『こうして、彼は死を免れるであろう。』(レビ記16:13)とある通り、一連の手順を一歩でも間違えると、死ぬ事があったのだ。
こうして、まず、贖罪を執り行う大祭司自身の贖いが為される。
第二のステップは、民全体の罪咎の故に汚れてしまった聖所、会見の天幕、祭壇のための贖いである。(レビ記16:15-19)
聖なる場所が、人々の罪の故に汚れ、その「聖」をあらわさなくなってしまう、という事は、実際にある。誤って契約の箱に触れるなら、大祭司でさえ死んでしまったというのに、イスラエルの罪が甚だ大きくなった時には、異邦人の手で、やすやすと、契約の箱が奪われてしまった。
同じように、かつては聖なる性質を現していたキリスト者であっても、罪に罪を重ねているなら、主の栄光は離れ、もはや聖なる趣きを醸さなくなってしまうのだ。
それ故、会見の天幕と、祭壇から、人間の汚れを取り除くための贖いが必要なのである。
『そして彼は主の前の祭壇のもとに出てきて、これがために、あがないをしなければならない、すなわち、かの雄牛の血と、やぎの血とを取って祭壇の四すみの角につけ、また指をもって七たびその血をその上に注ぎ、イスラエルの人々の汚れを除いてこれを清くし、聖別しなければならない。』(レビ記16:18-19)
民の罪を清めるために、祭司は罪祭のやぎをほふり、その血を垂幕の内に携え入って、祭司自身の贖いの時のように、贖罪蓋にその血潮をかける。
こうして大祭司は、イスラエルの人々の汚れと罪咎のゆえに汚れてしまった聖所と、会見の幕屋の贖いをする。
三番目のステップは、イスラエル全体の罪を、一匹のやぎに移し、それを遠くに追いやる事である。
『そしてアロンは、その生きているやぎの頭に両手をおき、イスラエルの人々のもろもろの悪と、もろもろのとが、すなわち、彼らのもろもろの罪をその上に告白して、これをやぎの頭にのせ、定めておいた人の手によって、これを荒野に送らなければならない。こうしてやぎは彼らのもろもろの悪をになって、人里離れた地に行くであろう。すなわち、そのやぎを荒野に送らなければならない。』(レビ記16:20-22)
大祭司が、そのやぎの頭に手を置き、イスラエルが犯してきた思いつく限りの罪をことごとく告白して、全ての罪を、そのやぎに転嫁する。
そしてやぎは荒野へと解き放たれ、イスラエルの共同体から、遠く離れて行く。
このやぎは、まさしくキリストのご性質を現している。
『まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。』(イザヤ53:4-6)
キリストがイスラエル共同体から外へ追い出され、全ての罪、全ての病、全ての悲しみを背負ってくださった。
全イスラエルの罪を負ったやぎが、イスラエルから遠く離れて行くように、主は私達の罪を、全てキリストに背負わせ、私達から罪を遠く引き離して下さる。
そのお陰で、私達はいやされ、彼のその身代わりの懲らしめの故に、私達に平安が与えられたのだ。
『主はわれらの罪にしたがってわれらをあしらわず、われらの不義にしたがって報いられない。天が地よりも高いように、主がおのれを恐れる者に賜わるいつくしみは大きい、東が西から遠いように、主はわれらのとがをわれらから遠ざけられる。』(詩篇103:10-12)
今日は主の不思議なはからいで、急遽、教会に私の両親と、兄家族が訪ねて来てくれました。
当教会にはちょうど、昨晩から泊まりこみで来ておられる兄弟姉妹達がいたので、彼らと共に、楽しい交わりの時が持てました。
姪っ子は、前に会った時は、まだ歩けない赤ちゃんだったのに、今ではあちこち歩き回って、言葉もしゃべれるようになっていて、子供の成長は本当に早いなと驚かされました。
一家が集う機会がこれからますます増えて行くよう、お祈りしました。
礼拝説教メッセージ音声:大贖罪日の準備(レビ記16:1-10):右クリックで保存
レビ記16章は、年に一度の大贖罪日(ヨム・キプール)に、祭司が為す務めについて記されている。
この事を教えるにあたり、真っ先に主が思い起こさせた事は、あの恐ろしい事件、主の御前から火が出て、アロンの二人の子を焼き尽くした出来事だった。
『アロンのふたりの子が、主の前に近づいて死んだ後、主はモーセに言われた、「あなたの兄弟アロンに告げて、彼が時をわかたず、垂幕の内なる聖所に入り、箱の上なる贖罪所の前に行かぬようにさせなさい。彼が死を免れるためである。なぜなら、わたしは雲の中にあって贖罪所の上に現れるからである。』(レビ記16:1-2)
人は、いたづらに聖なる主の御前に出てはならず、必ず、主が提示された方法に従うべき事を教えている。
主の栄光が現れる。
それは素晴らしき事である。
主の臨在、それはキリスト者であるなら、誰でも求めるものであろう。
しかし、主の御前に出る時、人間の側の「勝手」は一切通用しない。
主の側が示された作法に、100%従うべきである。
そうでないと、主の栄光は逆にその人自身を滅ぼしてしまうものとなってしまう事は、レビ記10章で既に見ているし、民数記の至る所でも記されている通りである。
『アロンが聖所に、はいるには、次のようにしなければならない。すなわち雄の子牛を罪祭のために取り、雄羊を燔祭のために取り、聖なる亜麻布の服を着、亜麻布のももひきをその身にまとい、亜麻布の帯をしめ、亜麻布の帽子をかぶらなければならない。これらは聖なる衣服である。彼は水に身をすすいで、これを着なければならない。』(レビ記16:3-4)
大贖罪日において、まず真っ先に為すべきは、イスラエル全体の贖いを執り行う大祭司自身の、罪の贖いである。
そのために、雄の子牛を罪祭として取り、雄羊を燔祭のために取る。
人間の祭司は、弱さがあり、罪を犯すし、不完全である。キリストこそ、罪なく完全な大祭司である。
『このように、聖にして、悪も汚れもなく、罪人とは区別され、かつ、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとってふさわしいかたである。彼は、ほかの大祭司のように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために、日々、いけにえをささげる必要はない。なぜなら、自分をささげて、一度だけ、それをされたからである。律法は、弱さを身に負う人間を立てて大祭司とするが、律法の後にきた誓いの御言は、永遠に全うされた御子を立てて、大祭司としたのである。』(ヘブル7:26-28)
そして、次に準備するのが、イスラエルの人々のための贖いとなる雄やぎ二頭、これを罪祭のために取り、雄羊一頭、これを燔祭のために取る。
二頭のやぎに関しては、特別な捧げ方をする。
『アロンはまた二頭のやぎを取り、それを会見の幕屋の入口で主の前に立たせ、その二頭のやぎのために、くじを引かなければならない。すなわち一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためである。そしてアロンは主のためのくじに当ったやぎをささげて、これを罪祭としなければならない。』(レビ記16:7-8)
アザゼルとは、アザール(完全に除去する)の変化形で、KJVではスケープゴートと訳されており、人々の罪を一身に負い、人々の身代わりとなって荒野を遠く追いやられる山羊である。
大贖罪日、それはイスラエル全体の罪を贖い、神の御前に「罪なき」とされる日であるが、人類全体の罪を取り除く、まことのいけにえは、イエスキリストである。
神様が規定したこれらの行為の背後には、いつも、キリストがいる事を忘れてはならない。
『しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。
もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。』(ヘブル9:11-14)
礼拝説教メッセージ音声:女性の過多月経(長血)についての教え(レビ記15:25-33):右クリックで保存
『女にもし、その不浄の時のほかに、多くの日にわたって血の流出があるか、あるいはその不浄の時を越して流出があれば、その汚れの流出の日の間は、すべてその不浄の時と同じように、その女は汚れた者である。その流出の日の間に、その女の寝た床は、すべてその女の不浄の時の床と同じようになる。すべてその女のすわった物は、不浄の汚れのように汚れるであろう。』(レビ記15:25-26)
ここは、いわゆる不正出血、過多月経(長血)などの場合についての教えである。
月経は、女性の体が子供を産む準備をしているために起こるものであり、子供を産むためには、当然、精子(ギリシア語ではスペルマ:種、子孫の意味もある)が必要である。
女性は精子(スペルマ)が無ければ、どうあがいても子供を身篭れないように、私達も、キリストというまことのスペルマが無ければ、永遠のいのちは生じない。
『約束は、アブラハムと彼の子孫(スペルマ)とに対してなされたのである。それは、多数をさして「子孫(スペルマ)たちとに」と言わずに、ひとりをさして「あなたの子孫(スペルマ)とに」と言っている。これは、キリストのことである。』(ガラテヤ3:16)
また、みことばの種(スペルマ)が、私達という土地に蒔かれなければ、いのちの実を結ぶ事は出来ない。
肉の命は血の中にある(レビ記17:11)、とある通り、女性が、血を排出すべきでない時に排出し続ける事は、霊的には、いのちを無駄に流し続けているようなもので、御言葉の「種」を受けず、まことのスペルマなるキリストを受け入れもしない状態では、いたずらにいのちを流し出すのみである。
女性が受精した時、血のいのちは、胎内に宿った新しいいのちに流れ込むようになって、決して無駄にはならないように、人が、キリストというまことのスペルマを受けた時、いのちを無駄に垂れ流すという事は無くなり、キリストのいのちが、その人の内ですくすくと育って行く事となるのだ。
世界という器は、キリストというまことのスペルマが来なければ、この世界に、いのちは無い。
しかしある時、人間のスペルマ無しに、一方的な神の力添えによって身ごもった女性がいた。それが、乙女マリヤである。
彼女は、人のスペルマによってではなく、いと高き方から力が流れてきて、聖霊によって身ごもったのだ。
私達の救いも、人でによるのではなく上から与えられ、聖霊によって「イエスは主です」と告白する事によって、救われるのである。
『その女の流出がやんで、清くなるならば、自分のために、なお七日を数えなければならない。そして後、清くなるであろう。その女は八日目に山ばと二羽、または家ばとのひな二羽を自分のために取り、それを会見の幕屋の入口におる祭司のもとに携えて行かなければならない。』(レビ記15:28-29)
鳩は聖霊を意味する。
いのちを不正に流し出す汚れからきよめられた時、聖霊によって歩む決心をするのである。
新約聖書にも、長血を患う女が登場する。
彼女は12年もそのジレンマにあり、律法上は汚れたものとして苦しんで来たが、多くの医者にかかっても何の助けにもならず、その持ち物をみな費してしまっても、なんのかいもないばかりか、かえってますます悪くなる一方であった。(マルコ5:26)
人間の医学も、お金も、罪に対し、汚れに対し、何の力も持たない。それらに頼っても、逆にますます悪くなる一方で、ただ、いのちと、お金と、時間、若さを費やすのみである。
彼女が唯一救われたのは、まことのスペルマなるイエス様を信じ、信仰をもって触ったからである。
罪と汚れからの救いは、ただイエスキリストのみである。
キリストを信じる信仰を持って、彼に手を延ばすなら、誰でも救われる。
『イエスはその女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」。』(5:34)
イエス様に信仰をもって手を伸ばし、罪と汚れから、病から癒していただき、健やかに、安心して行く皆さんでありますように!
礼拝説教メッセージ音声:性器からの流出物(レビ記15:1-15):右クリックで保存
レビ記15章は、性器からの流出物がある場合についての教えである。
『だれでもその肉に流出があれば、その流出は汚れである。』(レビ記15:2)
ここの「だれでも」の原語「イシュ」は、英語で言う所の「man」、「男」をあらわすと同時に、女性も含めた「人」全般を意味する。
「肉(バサー)」には、「体」や「肌」の意味もあるが、特に男性器をあらわす言葉でもあり、例えば、主がアブラハムに「包皮の"肉"を切り捨てなければならない」という割礼の命令を与えられた時にも用いられている言葉である。
また、「流出」という言葉は、原語では、ひっきりなしに流れ出る、という意味があるため、今回の箇所は、特に、性病などによって男性器からの不自然な漏出が常にある場合、と見る事ができる。
その流出が停止している時でも、その人は汚れた状態であり(3節)、その人が寝た床も、座ったものも、乗った鞍も、その下にあったものは、全て、汚れたものであるとされる。
また、それに触れたり、運んだりする人も、水を浴びなければならず、その人も夕方まで汚れた者とされる。
『流出ある者の肉に触れる者は衣服を洗い、水に身をすすがなければならない。彼は夕まで汚れるであろう。流出ある者のつばきが、清い者にかかったならば、その人は衣服を洗い、水に身をすすがなければならない。彼は夕まで汚れるであろう。』(レビ記15:7-8)
流出がある人の、その部位に触れた場合や、その人のつばきがかかった場合など、そう滅多に起きないであろう場合について、わざわざ指示している点は、興味深い。
また、彼の下になった物は汚れ、それに触れる人も、夕方まで汚れる、とさる。
さらには、流出ある人が、水で手を洗わずに人に触れる場合もその人は汚れ、流出ある人が触れた土の器は、砕かなければならないほどに、この汚れについての指示は、徹底している。(同10-12節)
創世のはじめ、神は「生」も「性」も祝福され、それらは良きものであったが、アダム以来、人類には罪がはびこるようになってしまい、「生」も、「性」も、主の前に汚れたものとなってしまった。
事実、神を知らない異教徒は、性的に乱れやすく、性行為から感染する泌尿器系の病にかかりやすかった。
性器に由来する汚れは、徹底して清めなければならないのは、イスラエルの民がそのような汚れに染まらないように、という、予防的な意味も、もちろんあっただろう。
「肉」の奥底からひっきりなしに流れ出てくるもの、それは、新約においても、汚れているとされている。
『わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。
そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。わたしの内に、すなわち、わたしの”肉”の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。』(ローマ7:15-18)
パウロが言うように、肉の内には善は宿っておらず、そこから絶え間なく流れ出てくるものは、罪であり、人を汚すものである。
肉からの噴出物、すなわち、肉由来のものは、「汚れている」とされ、良いものは何一つ無い。
『 肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。』(ガラテヤ5:19-21)
このように、「肉」を源とする者の座に、自らも座るなら、汚れているとされ、その者の口から出たもの(つばき)に触れる者も、汚れる。
肉から汚れを噴出している者が、清められるためには、御子イエスの御言葉の水で洗われ、新しく生まれ変わり、御霊に満たされる以外に無い。
『肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。
しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。』(ローマ8:6-9)
肉にあって歩む者の結ぶ実は、罪であり、死である。それは、神を喜ばせない。
しかし、御霊にあって歩む者の結ぶ実は、あらゆる良きもので満たされており、神の御前に有用である。
『御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。』(ガラテヤ5:22-24)
肉からの噴出を病む者が清められるには、七という完全数を経て、衣服を水で洗い、すすいで清くされる。
『八日目に、山ばと二羽、または家ばとのひな二羽を取って、会見の幕屋の入口に行き、主の前に出て、それを祭司に渡さなければならない。祭司はその一つを罪祭とし、他の一つを燔祭としてささげなければならない。こうして祭司はその人のため、その流出のために主の前に、あがないをするであろう。』(レビ記15:14)
ここで鳩が使われているのは興味深い。
鳩は御霊を意味する。
肉にあって歩むのを止め、御霊によって新しく歩みをはじめる。そうするならば、清くされるのである。
聖霊のご性質(ヨハネ14:16-20)
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聖霊はどのような霊であり、どのような特徴があるのか。聖書の色々な箇所から見て行きたい。
聖霊の「霊」は、神の「息」や「風」をあらわす「プネウマ」であり、「聖霊」「御霊」いずれも同じ神の息である。
聖霊は、イエスキリストをあかしする霊である。「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。」(ヨハネ15:26) 「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。」(1ヨハネ4:2-3)
誰でも聖霊によるのでなければ、イエスは主であると告白できない。(1コリント12:3)
イエスを主とする人は、既に、聖霊を受けている人である。しかし、聖霊が充満したとは限らない。
聖霊の「満たし」には二段階ある。最初の段階は、イエスを主とした人が誰でも受ける「満たし」(プレレース、あるいはプレロー)であり、それは公ではなく密かに、しかし、本質的に聖霊が備わった事を意味する。
次に、ペンテコステのような外面的で力を伴った「充満」(プレソー)という段階があり、イエスを力強く証したり(使徒4:8)、真理の対決をしたり(使徒13:9)、しるしと不思議など(4:31)、力強く機能的な現れである。
御霊には色々な種類がある、などと勘違いされやすいが、現れ方や働き方が違うだけで、御霊は一つであり、皆、同じ御霊を飲む者とされた(エペソ4:4)。その同じ一つの御霊から、一人ひとりに違った”現れ”がある。(1コリント12章) 「霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである。務は種々あるが、主は同じである。働きは種々あるが、すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる神は、同じである。」(1コリント12:4-7)
また、聖霊は、自分から語るのではなく、父なる神から聞くままを話す(ヨハネ16:13)。この、自分から語るのではなく、聞くままを話す、という特徴は、キリストも同じであり(ヨハネ12:49、14:10)、聖霊に導かれるキリスト者も、同じ性質である。弟子達は、ペンテコステ以前は自分から語って色々な失敗をしたが、ペンテコステ以降は、自分由来の事は一切語らず、ただ、聖霊に導かれるままを話した。(使徒4:1-21)
また、聖霊の働き方や現れは、旧約と新約では、違う。
旧約時代は、神様がある人をある特別な任務に就かせるために、聖霊をその人に注ぎ、王や祭司、士師、預言者などの、特別な役割を与えら、その人の不従順や罪の故に、聖霊がその人から離れる、という事もあった。(1サムエル16:14、詩篇51:11)
しかし今、新約において、聖霊が与えられるなら、それが離れてしまう、という事は、無い。(ヨハネ14:16)
ただ、その人が聖霊を悲しませたり(エペソ4:30)、聖霊を侮ったり、という事は可能である。
ひとたび聖霊が与えられて、なお、聖霊を侮る者には、重い罰が下る。(ヘブル10:26-31)
聖霊は、人の本質的な渇きを癒し、その人の内から、霊的な潤いが、生ける泉として沸き上がってくる。
『「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかった(直訳:御霊はまだ無かった)のである。』(ヨハネ7:37-39)
イエス様がこれを宣言された時点、イエス様はまだ父の御元に上っておらず(ヨハネ14:16-28)、イエスを証する御霊、イエスの言われた事をことごとく思い起こさせ、世ならぬ平安で満たし、決して離れる事の無い助け主は、まだ、弟子達に下っていなかったのだ。
しかし、十字架以降、イエスを信じる人々には全て聖霊が与えられ、それが離れる事は、決して無い。
「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である。・・・それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。
わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。」(ヨハネ14:16-28)
家に現れたツァラアト - 教会の汚れの対処(レビ記14:33-57)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » レビ記
- 執筆 :
- pastor 2013-5-25 17:32
礼拝説教メッセージ音声:家に現れたツァラアト - 教会の汚れの対処(レビ記14:33-57):右クリックで保存
今回は、家にツァラアトが発生した場合の教えである。
『「あなたがたに所有として与えるカナンの地に、あなたがたがはいる時、その所有の地において、家にわたしがらい病の患部を生じさせることがあれば、その家の持ち主はきて、祭司に告げ、『患部のようなものが、わたしの家にあります』と言わなければならない。』(レビ記14:34-35)
ここに「家にわたしがらい病の患部を生じさせることがあれば」とあるが、つまり、神が、その家に汚れがある事を示し、対処が必要である事を、明示されるのである。
家に現れたツァラアトへの対処は、他の場合と比べて、寛大である。
他の場合なら、症状が現れて、七日間の様子見の後、患部が広がっていたなら、「汚れている」宣言され、衣類や革製品なら、その時点で焼き捨てられる事が確定する。
しかし家の場合はそうではなく、その部分の石を取り除き、他の石でそこを埋め、家の内側を削らせて、漆喰を塗り直させる。
家全体が取り壊しになるのは、上記の事をしても、なお、再びツァラアト現れた場合である。
では、この「家」は、霊的には何を意味するだろうか。
『神の家というのは、生ける神の教会のことであって、それは真理の柱、真理の基礎なのである。』(1テモテ3:15)
『もしわたしたちが、望みの確信と誇とを最後までしっかりと持ち続けるなら、わたしたちは神の家なのである。』(ヘブル3:6)
上記の御言葉の通り、神の家とは教会であり、そして教会(エクレシア)とは「召しだされた者達」、つまり、キリストにあって召しだされた”私達”である。
私達は、キリストのからだであり、おのおのが各器官であるとコリント書に記されている通り、教会が神の家であり、私達は、その構成要素である。
つまり、家に現れるツァラアトは、霊的に、教会に罪をはびこらせる「人」として解釈する事が出来る。
そのような人への対処について、イエス様は次のように言っている。
『もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。もし聞いてくれないなら、ほかにひとりふたりを、一緒に連れて行きなさい。それは、ふたりまたは三人の証人の口によって、すべてのことがらが確かめられるためである。もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。もし教会の言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい。』(マタイ18:15-17)
「人」に対する対処は、ツァラアトを取り除くような機械的なものではなく、まずその人を諭し、それでも聞かなければさらに二人、三人と証人を増やして行き、教会の言う事も聞かなければ、その人を異邦人や取税人同様に扱う、すなわち、神の共同体からは切り離されたものと見なす。
それが、主が定めた教会における対処方法であるが、それをしなかったケースが、第一コリントの手紙に記されている。
『現に聞くところによると、あなたがたの間に不品行な者があり、しかもその不品行は、異邦人の間にもないほどのもので、ある人がその父の妻と一緒に住んでいるということである。それだのに、なお、あなたがたは高ぶっている。むしろ、そんな行いをしている者が、あなたがたの中から除かれねばならないことを思って、悲しむべきではないか。
しかし、わたし自身としては、からだは離れていても、霊では一緒にいて、その場にいる者のように、そんな行いをした者を、すでにさばいてしまっている。すなわち、主イエスの名によって、あなたがたもわたしの霊も共に、わたしたちの主イエスの権威のもとに集まって、彼の肉が滅ぼされても、その霊が主のさばきの日に救われるように、彼をサタンに引き渡してしまったのである。』(1コリント5:1-5)
教会とは、何でもかんでも愛して赦して受け入れて・・・という集団ではない。
主が忌み嫌われる事を、平然とし続けているような者を同居させたまま、自分も健全に保っていける、と思っているとしたら、それはパウロが言っているように「高ぶっている」のだ。
そのように罪をはびこらせて平然としている者は、あえてサタンに引き渡し、その人が終わりの日に救われる事に賭ける勇気も、必要である。
もちろん、信徒をサタンに引き渡したい牧会者など、一人もいないし、パウロも怒りに任せて「サタンに引き渡す」などと言ったのではない。
パウロは愛の故に「主の日に彼の霊が救われるため」そうしたのであり、大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらにあの手紙を書いた、と、後に記している。(2コリント2:4)
パウロは、得るか失うかの賭けに出た結果、後に「得た」ようである。(2コリント2:5-11 http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=745&cid=16 )
いずれにせよ、教会に罪を持ち込み、はびこらせ、注意しても聞かないようであるなら、たとい痛みを覚えようとも、交わりから断つ、というのは、旧約にも新約にも記されている聖書のスタンダードである。
その事をしない教会は、どんどん汚れが進行し、ついには、ツァラアトが再発する家のように、ばらばらにされてしまう。
何でもかんでも愛して赦して受け入れて・・・という雰囲気が、キリスト教界ではびこっている昨今、この事はよく肝に銘じるべきである。





