メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
圧倒的な主のご性質(黙示録1:9-20):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:きよい性質とは(レビ記11:13-23):右クリックで保存
今回は、主が定められた、食べて良い「きよい生き物」「きよくない生き物」の性質について、詳しく見て行きたい。
神はどのような性質をきよい、どのような性質をきよくないとされたのか。
まず、ひずめ、ひれ、うろこを持つ性質、後ろ足で跳躍する性質、それらを持つ動物を「きよい」とされた。
これらの性質に共通する事は、「地面(あるいは海底)に、直接、接しない」事である。
サタンの性質は、「一生腹ばいで歩き、ちりを食べる」(創世記3:14)、あるいは、「地を行き巡り、そこを歩き回る」(ヨブ2:2)ものである。
すなわち、きよい性質とは、地とは直接的に接しない、地に属さない性質である。
「地につくもの」は肉に属するもの、悪魔的なものであると、ヤコブ書3章で記されている。
そして、「上」に属する人、「地」とは距離を置く清い人の性質は、平和、寛容、温順であり、あわれみと良い実とに満ち、かたより見ず、偽りがないものである。(ヤコブ3:14-18)
また、「反芻」する動物はきよい動物、そうでない動物は、きよくない、とされた。
羊や牛などは、草をよく噛んで、胃で一部を消化し、それを再び口に戻してまたよく噛みしめ、また消化する、という事を繰り返すが、ここから、「反芻」する事が、主に喜ばれる性質である事を見る。
私達も、御言葉をよく噛んで咀嚼し、よく消化するなら、主に喜ばれる。
しかし、何でもかんでもそのまま鵜呑みにして消化不良になってしまう「豚」のような性質は、主に嫌われてしまう。
また、レビ記11章にて神がきよいとされた動物は、ほぼ、草食動物である事を見る。
実は、神が全被造物を創造されたはじめ、全ての動物は、皆、草食であった。
『神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。また地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える」。そのようになった。神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。』(創世記1:29-31)
主の創世の当初は、どの生き物も、互いを害したり、食ったりする事などしない、「はなはだ良い」時代であった。
しかし、人間が堕落して早速、人は兄弟姉妹を傷つけたり殺したりするようになり、動物たちもいつしか、他の動物をとらえ、血を流し、捕食するようになってしまった。
鉤爪や牙で傷つけ、血を流し、他を食い物にしたりする性質は、神の性質ではなくサタンの性質、「汚れた」性質である。
創世の当初、全被造物は人によって正しく平和に支配されていたのに、人に罪が入って以来、全被造物は、呪いの下に束縛されてうめき(ローマ8章)、ノアの時代以降、全ての動物は、人間を恐れるようになってしまった。(創世記9:1-6)
しかし後に、預言者イザヤは、次のような平和な様を、幻で示されている。
『おおかみは小羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ、雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に伏し、ししは牛のようにわらを食い、乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。
彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである。その日、エッサイの根が立って、もろもろの民の旗となり、もろもろの国びとはこれに尋ね求め、その置かれる所に栄光がある。』(イザヤ11:6-10)
この、創世当初のような平和な世界の鍵、それは、エッサイの根、すなわち、イエス・キリストによる統治である。
イエスキリストにより、全地が主を知る知識が海の水のように満ちあふれ、主の栄光があらわれるところには、もはや、互いに害する者も、食い物にし合う者もなくなるのだ。
私達キリスト者の中にも、以前は、ライオンやコブラ、ハゲタカのような性質の者達もいたかもしれない。
しかし皆、エッサイの子・イエスキリストによって、そうした肉食の性質、サタンの性質はすっかり抜き取られ、きよく平和な性質へと造り変えられるのだ。
礼拝説教メッセージ音声:私たち異邦人と律法との関わり(レビ記11:1-12):右クリックで保存
11章以降は、聖なるものと俗なるものの区別、きよいものと汚れたものの区別が示されており、いかに自らを清く保って主の民として歩むかというガイドラインが示されている。
そして、この11章では、食物に関する規定が示されている。
『「イスラエルの人々に言いなさい、『地にあるすべての獣のうち、あなたがたの食べることができる動物は次のとおりである。獣のうち、すべてひずめの分かれたもの、すなわち、ひずめの全く切れたもの、反芻するものは、これを食べることができる。』(レビ記11:2)
『水の中にいるすべてのもののうち、あなたがたの食べることができるものは次のとおりである。すなわち、海でも、川でも、すべて水の中にいるもので、ひれと、うろこのあるものは、これを食べることができる。すべて水に群がるもの、またすべての水の中にいる生き物のうち、すなわち、すべて海、また川にいて、ひれとうろこのないものは、あなたがたに忌むべきものである。これらはあなたがたに忌むべきものであるから、あなたがたはその肉を食べてはならない。』(レビ記11:10-12)
ここを読むと、私達日本人が普通に食べているものの中で、多くのものは、律法上では汚れたもの、食べてはならぬもの、と分かる。
では、私達日本人を含む「全異邦人」は、これらの規定と、どのような関わりがあるのだろうか。
そもそも、律法が特別にイスラエルの民に授けられた意義は、イスラエル民族がまだ一人の人だった頃、すなわち、アブラハムの時代にさかのぼる。
アブラハムがまだ、子供の無い75歳の一老人だった時、はじめて神から召命を受け、その時、子孫が与えられる約束がアブラハムに与えられた。
そして、その子孫を通じて、全人類を祝福へと入る約束が、与えられた。(創世記12:1-3)
つまり、神はアブラハムを特別に選び、彼の子孫、すなわち、イスラエル民族に神の規定を与え、神の基準を示し、神の存在と、神の聖なるご性質、そして、人類の救いの道を、全人類に表明するよう、祭司の民族として特別に定められたのだ。
祭司は自らを清め、世俗と分離する必要があるように(レビ記10:9-11)、祭司たる民族・イスラエルも、神が「汚れている」とされるものは摂ってはならず、そうして神の定めた律法を尊守し、世俗の民と区別する事によって、「祭司の民族」として、全人類を神へと導く務めを為すのだ。
そしてそれは、イエス・キリストのあらわれによって成就し、キリストを信じた者は、いかに「汚れている」とされている民であっても聖霊が与えられ、新しく造り変えられ、きよい、と宣言されるのだ。(使徒10章)
そして、エルサレム使徒会議にて、異邦人には、イスラエルの先祖たちさえ負いきれなかったくびき、すなわち、律法の数々の規定を、負わせない事が決議された。(使徒15章)
律法のもろもろの規定は、私達異邦人には適用されないものではあるものの、律法は、聖なるものと俗なるものの神の基準を知る事が出来、そして、これを守り行う人は、確かに祝福を受ける。
実際、これらを注意深く守り行ったイスラエル民族は、他と比べて伝染病にかかりにくく、平均寿命も長く、学力も社会ステータスも高かった。
ただ、律法を守り行う事によっては、いのちを得る事は出来ない。
結局、律法はあくまでキリストへと導く養育係であり、キリストを信じた事によって、私達も信仰によるアブラハムの子孫とされ、キリストがあらわれた以上、もはや「養育係」の下にいる必要は無いのだ。(ガラテヤ3章)
今や私達にとって、大切なのは、愛によって働く信仰である。
『自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。見よ、このパウロがあなたがたに言う。もし割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに用のないものになろう。割礼を受けようとするすべての人たちに、もう一度言っておく。そういう人たちは、律法の全部を行う義務がある。律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている。
わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている。キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。』(ガラテヤ5:1-6)
礼拝説教メッセージ音声:違反しても赦される人の特徴(レビ記10:12-20):右クリックで保存
『モーセはまたアロンおよびその残っている子エレアザルとイタマルとに言った、「あなたがたは主の火祭のうちから素祭の残りを取り、パン種を入れずに、これを祭壇のかたわらで食べなさい。これはいと聖なる物である。』(レビ記10:12)
あの恐ろしい事件の後、モーセは、アロンとその子達に、祭司たちが受けるようにと定められていた分を食べるよう言ったが、彼らはこの時、規定どおり行わなかった。
『モーセは罪祭のやぎを、ていねいに捜したが、見よ、それがすでに焼かれていたので、彼は残っているアロンの子エレアザルとイタマルとにむかい、怒って言った、「あなたがたは、なぜ罪祭のものを聖なる所で食べなかったのか。これはいと聖なる物であって、あなたがたが会衆の罪を負って、彼らのために主の前にあがないをするため、あなたがたに賜わった物である。見よ、その血は聖所の中に携え入れなかった。その肉はわたしが命じたように、あなたがたは必ずそれを聖なる所で食べるべきであった」。』(レビ記10:16-18)
モーセが、エレアザルとイタマルに怒ったのは、彼らが食べるべきだったものは、「いと聖なるもの(most holy)」であり、祭司たちは、これを食べる事によって会衆の罪を負い、主の前にあがないをするものだから、である。
祭司たちは、その動物がほふられる様を見、血が流れる様を見、その上で食べ、味わうべきものなのだ。
罪祭は、キリストの予表である。
何の罪も無い動物が、会衆の罪を背負い、身代わりに命を絶たれたのと同じように、私達も、キリストが十字架上で裂かれた肉を、流された血潮を、しっかりと覚え、尊びつつ、感謝をもって頂かなくてはならないのだ。
『アロンはモーセに言った、「見よ、きょう、彼らはその罪祭と燔祭とを主の前にささげたが、このような事がわたしに臨んだ。もしわたしが、きょう罪祭のものを食べたとしたら、主はこれを良しとせられたであろうか」。モーセはこれを聞いて良しとした。』(レビ記10:19-20)
モーセは、アロンのこの言葉で、良しとした。
アロンとその子らも、主の言われた事を厳密には守らなかった。なのに、赦された。
ナダブとアビフとは、主に火で焼き滅ぼされてしまった。
一体、滅ぼされた者達と、赦された者達の違いは何だろう。おそらく、次の事によるのではなかろうか。
モーセが怒った対象は、二人の子に、であり、アロンに、ではなかった。つまり、咎めを負っていないアロンが、子達のために、執り成した形になる。
義人による執り成し。それによって滅びを免れたケースは聖書に多い。
また、アロンの言葉からは、自分たちは「分からないで」事を起こしてしまった事を伺う事ができる。
もしかしたら、あまりに恐ろしい出来事の直後で、気が動転していて、命じられた事をつい忘れてしまっていたのかもしれない。とにかく、彼等は故意に命令に逆らったのではなかった事は、確かである。
主は、知らないで犯してしまった罪を、執り成して下さる。イエス様は十字架上で、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と、知らないで犯す恐ろしい罪について、執り成してくださった。(ルカ23:34)
しかし、罪だと指摘され、知りつつも、なお主への捧げものを軽んじた、ホフニとピネハスは、主から下る災いによって、一日にして滅んだ(1サムエル2章)。
また、初代教会において、夫婦で共謀し、意図的に捧げものを偽った夫婦も、たちどころに主に打たれた。(使徒5章)
主は、知らずに犯した罪は憐れんで下さる。しかし、知りつつ意図的に主に逆らう者には、憐れみは無い。
そしてまた、祭司アロンは、自分達の側に非があった事を、認めている。
ダビデも、姦淫と殺人の罪を犯した事を、預言者ナタンに指摘された時、「わたしは罪を犯した」と素直に認めた。
罪を指摘されても、言い訳と自己義を貫き通すような者は、サウル王のように、地位を剥ぎ取られ悲惨な末路を辿る。
罪を指摘されても、開き直って、神に反抗するような者は、カインのように追放され、人々から忌み嫌われ、さすらい人とされてしまうのだ。
罪を正直に告白し、言い表す人に対しては、神は真実で正しいお方であるから、その罪をゆるし、すべての不義から清めて下さる。しかしもし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とする者である。(1ヨハネ1:7-9)
私達も、自分の罪を認め、告白し、悔い改めて赦していただき、そうして、末永く祭司として主に仕える皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:不従順を焼きつくす火(レビ記10:1-11):右クリックで保存
『さてアロンの子ナダブとアビフとは、おのおのその香炉を取って火をこれに入れ、薫香をその上に盛って、異火を主の前にささげた。これは主の命令に反することであったので、主の前から火が出て彼らを焼き滅ぼし、彼らは主の前に死んだ。』(レビ記10:1-2)
前回は、「主がモーセに命じられたとおり」に祭司が行った結果、主が捧げものを受け入れる火が降り、全ての民はそれを見て力づけられたが、今回は、主が命じられなかった事を祭司が行ってしまった結果、その祭司を焼きつくす火が降り、全ての民はそれを見て、主の峻厳なる「聖」を恐れた。
なぜこのような事が起こってしまったのだろうか。
この出来事が起こった直後の9節に、「あなたも、あなたの子たちも会見の幕屋にはいる時には、死ぬことのないように、ぶどう酒と濃い酒を飲んではならない。」と、唐突に「酒」についての命令が出てくるため、もしかすると、彼等は酒を飲み、酔った状態で主に近づいてしまったのかもしれない。
また、16章の1-2節によると、このふたりは、主の栄光が現れる贖罪蓋のある所、すなわち、年に一度大祭司が血を携えてしか入れない至聖所に、むやみに入ったようであり、そこで主の命じられていない異なる火を、身勝手にも捧げてしまったのかもしれない。
酒の故の事件や事故はよくニュースで聞くが、酒を飲むと、あらゆる事において気がゆるくなり、失敗をしてしまいがちである。
こないだの火柱すごかったな、たしか、捧げものには香がなんとかと言ってたぞ、俺たちもやってみよう、皆きっとびっくりするぞ、それで俺たちの格も上がるだろう、などと、酒を飲むと、してはならない領分を犯してしまうものだ。
『まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。』(ガラテヤ6:7-8)
彼らは、自分の考えで、身勝手な流儀で、主が命じられていない事を行い、自分の「肉」にまいて滅びを刈り取ってしまったのだ。
しかし、主をおそれ、主に命じられた事を正しく行う人には、前章でのように、主は栄光の形で現れて下さる。
『その時モーセはアロンに言った、「主は、こう仰せられた。すなわち『わたしは、わたしに近づく者のうちに、わたしの聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現すであろう』」。アロンは黙していた。』(レビ記10:3)
主は、人がどのように行なったとしても、栄光をお受けになられるお方である。
人が主を軽んじ、御言葉を侮るなら、その者がどのような災いに遭うかによって、人々は主の栄光を見る事になる。
また、主を敬い、主を信頼する人には、その人が主から助けを得、祝福を受ける事で、主はそれによっても栄光をお受けになる。
『モーセはアロンの叔父ウジエルの子ミシヤエルとエルザパンとを呼び寄せて彼らに言った、「近寄って、あなたがたの兄弟たちを聖所の前から、宿営の外に運び出しなさい」。彼らは近寄って、彼らをその服のまま宿営の外に運び出し、モーセの言ったようにした。』(レビ記10:4-5)
2つの遺体は、服のまま運びだされた。
という事は、主の火によって焼かれたのは、彼らの体だけで、油注がれ聖別された祭司服は、焼けていなかったようである。
主はそこまで、ピンポイントに、災いにあうべき者と、そうでないものとを区別される。
『モーセはまたアロンおよびその子エレアザルとイタマルとに言った、「あなたがたは髪の毛を乱し、また衣服を裂いてはならない。あなたがたが死ぬことのないため、また主の怒りが、すべての会衆に及ぶことのないためである。ただし、あなたがたの兄弟イスラエルの全家は、主が火をもって焼き滅ぼしたもうたことを嘆いてもよい。また、あなたがたは死ぬことのないように、会見の幕屋の入口から外へ出てはならない。あなたがたの上に主の注ぎ油があるからである」。彼らはモーセの言葉のとおりにした。』(レビ記10:6-7)
髪の毛を乱したり、衣服を裂くのは、イスラエルにおける悲しみの表現だが、なんと、アロンにとっての子供達が、また、エレアザルやイタマルにとってはお兄さんが、あれだけ悲惨な死に方をしたというのに、悲しみの表現をしてはならないというのだ。
その理由は、「死なないため」「主の怒りが、すべての会衆に及ぶことのないため」である。祭司がその任職中に、私情に走って、主の御前に誤った事をしてしまうと、その会衆全体に累が及んでしまうのだ。
主の祭司は、そこまで、私情をはさんではならないのだ。
イエス様も、ある弟子が「まず父を葬りに行かせて下さい」と言われた時、「わたしに従ってきなさい。そして、その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」と、厳しい事を言われた。
それ程、人々の上に立ち、神の国のつとめをする人は、人間的な感情や私情は、降ろさねばならないのである。
牧者や教師、賛美リーダーなど、人の上に立って導く立場は、感情や私情で簡単に動いてしまうような人がやってはいけないのだ。
『「あなたも、あなたの子たちも会見の幕屋にはいる時には、死ぬことのないように、ぶどう酒と濃い酒を飲んではならない。これはあなたがたが代々永く守るべき定めとしなければならない。これはあなたがたが聖なるものと俗なるもの、汚れたものと清いものとの区別をすることができるため、また主がモーセによって語られたすべての定めを、イスラエルの人々に教えることができるためである」。』(レビ記10:9-11)
清められた良心を麻痺させ、霊的な感度を鈍らせる様々な「霊的アルコール」がある。
神の国の働きをする人は、世の価値観や、世のもろもろの楽しみに耽り過ぎる事は禁物である。
それらに浸り続けると、聖なるものと俗なるもの、汚れたものと清いものとの判断を、誤らせてしまうからだ。
アルコールを摂取した状態で車を運転する人への罰則は、かなり厳しくなっているが、霊的なつとめをする人は、車の運転よりもはるかに「重要ないのち」をあずかっている故、なおさら、そうしたアルコール類に気をつけるべきである。
王たるものに、酒は相応しくない。(箴言31:4)
むしろ、御霊に満たされて、詩と賛美と霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心から賛美の歌を歌うべきである。(エペソ5:18-19)
聖霊を受ける備え:イエス様の証人となる(使徒1:3-9)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・礼拝説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
主は天に挙げられる前、もうすぐ弟子達に聖霊のバプテスマが授けられる事を預言し、その時までの備えとして、「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。」と言われた。(使徒1:4)
エルサレム。その名前の意味は、「平和の土台」であり、神殿のある場所、礼拝者達が集う、神の都である。
私達も、聖霊が与えられるのを待ち望む時は、まず、平和という土台に立ち、主を礼拝する所から離れず、御言葉にとどまり続け、主がかねてから言われている約束を待ち望む事である。
聖霊は、扇動的な言葉によって高揚して得るものではない。御霊の実は、平安である。
続いて主は言われた。「ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」(使徒1:5)
バプテスマには2種類ある。一つは、ヨハネが授けた「水のバプテスマ」。これは、それまでの生き方を悔い改め、生来の自分を「死」へと渡すために、水へと浸しこむものである。もう一つは、主が授けて下さる「聖霊と火とのバプテスマ」(マタイ3:11)で、力を受け、全世界に対しイエスキリストの証人となるしるしである。
キリストの弟子としての条件は、ヨハネのバプテスマから、キリストの昇天まで、いつも行動を共にした者であり、「イエスの復活の証人」たる者である。(使徒1:22) つまり、キリストの弟子として聖霊を頂くには、悔い改めた者である事は必須条件であり、聖霊を受ける目的も、イエス・キリストの証人となる事である。
まもなく聖霊を受ける事を言われた弟子達は、イエスに問うて言った。「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」。(使徒1:6)
弟子達が望んでいた事は、イエス様が王権を取り、イスラエルがローマ帝国の支配から脱却し、支配される側から、支配する側となり、自分たちが栄える事であったが、主は彼らに言われた。「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。」(使徒1:7)
イエス様はその直後、人の世の王座に座して君臨するのではなく、天に挙げられ、人々の目から見えなくなるのである。主が実権をもって直接世を支配されるその時は、父なる神が主権をもって定めておられるが、その前に、弟子達が、そして私達が、為さねばならない事がある。
「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となるであろう。」(使徒1:8)
弟子達が、そして私達が、主が実権をもって来られる前に、為さねばならない事、それは、地の果てにまで、イエス・キリストの証人となる事である!そのためにこそ、聖霊が与えられ、力を着せられるのだ。
「こう言い終ると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。」(使徒1:9) まさにこの時以降、弟子達は、イエス様と顔と顔とを合わせて会う事が、もはや無くなる。
ある意味、8節の言葉が「最後のお別れの言葉」であったのだが、とてもそうとは思えない内容である。
他の福音書のイエス様の最後の言葉も、とても、お別れの言葉とは思えない。
「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。」(マルコ16:16)
「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。(マタイ28:20)
「それから、イエスは彼らをベタニヤの近くまで連れて行き、手をあげて彼らを祝福された。祝福しておられるうちに、彼らを離れて、天にあげられた。」(ルカ24:50-51)
イエス様は「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。」と言われた。真理の御霊が来る時、私達は知るのである。主が御父におり、私達が主におり、主が私達におる事を。(ヨハネ14:16-20)
そして私達は、地の果てまでイエス様の証人となる。イエス様をあかしする霊を宿し、全ての事について教えられ、イエス様が生きている事の証人として、地の果てまで出て行くのである!
平和の土台に立ち、主を礼拝する所から離れず、御言葉にとどまり続け、聖霊に満たされる事を待ち望む皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
ある姉妹が、集中的に御言葉を学びたいという事で金曜から来ており、そこで、第二テモテの全4章を、三日がかりでじっくりと学んだのですが、その学びに同席した兄弟姉妹みんなが、たくさんの恵みをいただきました。
ある姉妹に示された御言葉が、別の姉妹を潤し、その分かち合いがまた別の兄弟を潤し、と、恵みが恵みを呼んで、もう涙、涙。もちろん涙ばかりでなく、喜びと笑いもいっぱいで、本当に、いのちの分かち合いでいっぱいの、祝福の時でした。
初めは、その姉妹のためにと始まった事でしたが、主から注がれた恵みの油が、周りへと滴って潤して行きました。
まさしく、詩篇133篇にある通りです。
「見よ、兄弟が和合して共におるのは/いかに麗しく楽しいことであろう。それはこうべに注がれた尊い油がひげに流れ、アロンのひげに流れ、その衣のえりにまで流れくだるようだ。またヘルモンの露がシオンの山に下るようだ。これは主がかしこに祝福を命じ、とこしえに命を与えられたからである。」
今、これから大勢で食卓を囲んで、楽しい夕食に入ろうとしている所です。
御言葉はまさしく、掘れば掘るほどざくざく出てくる、いのちの宝箱です。
礼拝説教メッセージ音声:コンシューマー・サービス(レビ記9:15-14):右クリックで保存
自分自身の贖いを済ませた祭司アロンが、次に為す事は、民のための贖いであり、そのために主から命じられている事は、罪祭、燔祭、酬恩祭、素祭を捧げる事である。
真っ先に罪祭(罪のためのいけにえ)を捧げる所は、祭司の贖いと同じである。
民も、まず罪を取り扱わなくてはならない。
なぜなら、罪は神と人との隔たりとなってしまうからだ。
『見よ、主の手が短くて、救い得ないのではない。その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。ただ、あなたがたの不義が/あなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。またあなたがたの罪が/主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ。あなたがたの手は血で汚れ、あなたがたの指は不義で汚れ、あなたがたのくちびるは偽りを語り、あなたがたの舌は悪をささやき、ひとりも正義をもって訴え、真実をもって論争する者がない。彼らはむなしきことを頼み、偽りを語り、害悪をはらみ、不義を産む。』(イザヤ59:1-4)
続いて捧げられるのが、燔祭(全焼のいけにえ)である。
燔祭は、自らを捧げる献身を意味し、献身なくば、祝福はいただけない。
「この時代において幾倍もの祝福を受け、来るべき世で永遠のいのちを受ける」者とは、「神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者」であり(ルカ18:29-30) 、食べ物や着る物などがすべて添えて与えられる者とは、「まず神の国と神の義とを求め」た者である。(マタイ6:33)
主から祝福をいただくには、必ず、それなりの「献身」が必要だという事ある。
それに続いて捧げられるのは、素祭(穀物の捧げもの)である。
祭司の場合は、罪祭と燔祭のみだったが、祭司には土地の相続が与えられていない。
それ故、一般人は、自分達の相続地から得られた、勤労の実である穀物を捧げるのだ。
そして、最後に捧げられるのが、酬恩祭(和解のいけにえ)である。
酬恩祭は、以前も学んだとおり、神と、祭司と、捧げた人とが、共に同じ食物からいただくごちそうであり、同じテーブルに座って共に宴会をするかのような、神と人との楽しい交わりである。
これを捧げる事によって、神と人との平和が実現する事になる。
そして今や、キリストこそ、まことの和解のいけにえである。
『キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。』(エペソ2:14-16)
以上、これら全てのいけにえを捧げた後、アロンは祝福した。そしてアロンの祝福は神に受け入れられ、神の元から火がくだり、いけにえを受け入れられた。
『モーセとアロンは会見の幕屋に入り、また出てきて民を祝福した。そして主の栄光はすべての民に現れ、主の前から火が出て、祭壇の上の燔祭と脂肪とを焼きつくした。民はみな、これを見て喜びよばわり、そしてひれ伏した。』(レビ記9:23-24)
主は、焼きつくす火である。(ヘブル12:29) 英語の聖書では、コンシューミング・ファイアーである。
最近、ビジネス用語でコンシューマーという言葉を良く耳にする。
コンシューマーとは、お客様、消費者であり、コンシューマーを意識したビジネス展開が重要であるが、神こそ、真に私達のコンシューマーである。
人々の中には、色々な教会の礼拝を物色し、あっちの礼拝(サービス)は甘い、こっちのは辛い、などと、自分をコンシューマーとし、教会をサービス提供者のように思っている人がいるが、そのような人は、自分の立場が分かっていない。
神こそコンシューマーであり、私達はサービス(礼拝)を捧げる側である。
主を敬う心をもって正しく礼拝を捧げるなら、主は炎をもってその礼拝を受け入れて下さるが、身勝手に捧げるならば、主は、その人自身を焼きつくす火として現れる。
その事については、次回見て行きたい。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
40年前のリベンジ(ヨシュア記3章):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
一時期低くされても(エステル9:20-10:3):右クリックで保存
以下AIによるメッセージ概要
【概要】
本日はエステル9章20節から10章3節および1ペテロ5章6節〜11節の御言葉を通して、神の救いの計画と、謙遜・信仰・忍耐の大切さについて学び、日々の生活にあらわれる御業を振り返ります。
【聖書箇所】
・エステル9:20-10:3
・1ペテロ5:6-11
【慰めの言葉】
苦難や敵の陰謀の中でも、神は決してあなたを見捨てず、必ず良い時に高く引き上げ、平和と喜びへと導いてくださいます。
【励ましの言葉】
恐れや不安が襲ってくる時、イエス・キリストの御名にあって、あなたは必ず信仰による勝利と慰めを得ることができます。神の恵みは絶えることがありません。
【戒めの言葉】
高ぶる者に敵対し、謙遜をもって生きることが求められています。どんな状況でも自己中心的な態度を改め、神の御心に従う生活を心がけましょう。
【勧めの言葉】
日々の暮らしの中で、聖書の御言葉・エステル記と1ペテロの教えに立ち返り、互いに支え合いながら信仰を実践し、平和と和解の証となるよう努めましょう。
【悔い改めの促しの言葉】
過去に傲慢や自己中心的な行いによって御心から逸れてしまったことがあれば、今一度心を改め、神に立ち帰って悔い改めることこそが新たな祝福への第一歩です。
【***詳細***】
本日の説教は、エステル記の9章20節から10章3節までの御言葉と、1ペテロ5章6節〜11節の御言葉を中心に、神の御計画、イスラエルの民が受けた大いなる祝福、そして私たち一人ひとりに求められる謙遜と信仰についてのお話です。
冒頭、エステル記では、モルデカイがアハシュエル王の国内全域にわたって、ユダヤ人に向けた書簡を送る様子が記されています。「アハシュエル王のすべての州の近いところや遠いところにいるユダヤ人全部に手紙を送った」と記され、ユダヤ人にはアダル月の14日と15日が、かつて敵に虐げられていた悲しみの日が、今日では喜びと祝宴の日に変えられたことが告げられています。ここでモルデカイは、ユダヤ人がすでにその日を守り始めた事実と、かつて迫害の道具となった者ハマンへの報いが、神の御計画のもとにあることを強調します。「ユダヤ人を滅ぼそうと企んだ者の企みが、王の耳に入り、その悪い計略をその頭上に返す結果となった」という出来事は、単なる偶然ではなく、神が正義をもって働かれた証と捉えることができます。
このエステル記の記述は、当時のユダヤ人にとって絶大な慰めであり、また新たな希望の光でもありました。書簡により、彼らは毎年この祭日の慶びを忘れることなく、家族や親しい者たちと互いにご馳走を送り合い、貧しい者へも惜しみない贈り物がなされるように定められたのです。モルデカイは、「これを廃止してはならないと定め」と強く謳い、これが子孫に渡り絶えないようにする意志を表明しました。
さらに、説教は歴史的出来事だけに留まらず、現代に生きる私たちへの霊的なメッセージへと話は展開します。聖書の中で語られる、ハマンの悪計が逆に彼自身やその子どもたちに返された事実は、世における善と悪、正義と不正の戦いの中で、神が決して義人を見捨てないことの証です。実際、歴史上のユダヤ人が迫害や絶望の中からいかにして這い上がり、神の御加護を受けて幸運をつかんできたかを、私たちは今日の生活の中にも当てはめながら考えるべきです。
現代においても、私たちの周囲には常に「サタン」という名の霊的な敵が存在しています。説教では、これを「日々、日が攻め立てる敵」と例え、私たちはキリストにあって、恐れや不安という死に至る闇に対して、光と命に変える力を持っていると強調されました。具体的には、「恐れや恐怖といった死にかかわる勢力は、イエス・キリストの名前によって打ち消すことができ、結果として平安と休みが与えられる」と説かれています。私たちが心からイエスにあって信仰を保ち続けるならば、たとえどんな激しい敵対勢力が襲いかかっても、必ずや神の保護と導きを受けることができるのです。
また、説教は人間関係の中での妬みや争い、兄弟姉妹間での憎しみについても触れています。これらの悪しき感情は、まさに悪魔にとっての攻撃材料であり、私たちが内面で抱えるすべての否定的な感情は、霊的な平安を乱す要因となります。だからこそ、キリストにあってそれらを打ち消し、自己の自我や誇りを十字架に釘付けにすることこそが、神の国において高められるための最も確かな道であると教えています。
続いて、説教は1ペテロの御言葉に移ります。1ペテロ5:6-11では、「若い人たちは長老たちに従い、皆互いに謙遜を身につけなさい。神は高ぶるものに敵対し、へりくだるものに恵みを与えられる」と書かれており、ここからは謙遜と信仰の実践がいかに重要かが説かれています。説教者は、こうした御言葉を通して、常に「神の力強い見ての下にへりくだる」ことの大切さと、敵である悪魔が獅子のように獲物を狙っている現実を強調します。私たちは、霊的な目を覚まし、信仰に立ち続けることによって、悪魔の策略に決して屈してはならないという、戒めと励ましの両面のメッセージが込められています。
説教はその後、歴史上の偉人、例えばヨセフやモルデカイの例を引き合いに出し、低いところから神に守られ、ひたむきな誠実さゆえに高い地位へと導かれたその姿勢を紹介します。ヨセフが奴隷売られ、牢獄に送られた後に、神の計らいにより王の右にまで上り詰めたこと、そしてモルデカイが最初はささやかな役職であったにもかかわらず、最終的にはアハシュエル王の次に位するに至ったことは、どんなに苦しい状況の中でも真摯な信仰と正直な行いが報われることを、私たちに示しています。
ここで注意すべきは、世間の常識や、短絡的な手段に頼るのではなく、純粋な信仰と謙遜、そして神の御言葉に従う生活が、最終的に神様の大いなる祝福と平安へと導くという確信です。説教者は現代のユダヤ人がプリム祭を祝う様子にも触れ、その伝統が家族や地域、さらには異文化間の交流を通して生き続けていることに感嘆を示しています。一方で、同じ祭りの日に大人たちが過度に飲酒にふける現状もあり、このような習慣が本来の霊的な意味や感謝の念をかすめる危険性についても戒めがなされています。
更に説教は、日常生活における人間関係の葛藤や、不和が生じた際の和解の大切さについても触れています。過去に己の誤りを謝ることなく放置していた結果、関係に亀裂が生じた事例を紹介し、誠心誠意謝罪し、改めることで和解へと向かったエピソードは、私たち一人ひとりにとって大きな励ましであり、また悔い改めの動機となるべきものです。
最後に、説教は私たちが今日この場所において学んだエステル記や1ペテロの教えを、霊的なアブラハムの子孫としての責務と受け止め、全世界に福音の良い知らせを伝える使者となるよう呼びかけています。イエス・キリストがご自分を無にして人々に仕え、十字架の死に忍び従った後、天に高く引き上げられたことは、私たちにとっても大いなる希望であり、模範です。どんなに一時的に挫折や苦難の中にあっても、神の御計画の中では必ず「ちょうど良い時」に引き上げられると信じ、それに向かって謙遜と誠実をもって歩むことが大切です。
この説教を通して、私たちが学ぶべき点は、神が歴史・人の運命に働きかけ、あらゆる状況の中で救いと平安をもたらしてくださるという確かな御約束、そして私たち自身が日々の生活の中で謙遜に、真摯な信仰によってその祝福に応えるべきだということです。
改めて、エステル記にあるように、絶望の中にあっても神は救いの日、喜びの日を準備され、また1ペテロの御言葉は、私たちに常に「へりくだること」を求め、悪魔や世の迷いを退けるための忠告として語られています。今日の説教が、あなた自身の心に光をともすとともに、日常生活の中で勇気と決意を新たにする契機となることを、心から祈っております。
【結論】
エステル記と1ペテロの御言葉は、神の救いの計らいと、私たちに求められる謙遜な生き方、信仰の堅持を教えています。暗い時にあっても神は必ず光を差し、苦難の後に喜びと平安をもたらしてくださいます。私たちは、イエス・キリストにあって真摯な信仰を持ち、謙遜な心で日々を歩むことにより、いずれ神の大いなる祝福に導かれることでしょう。





