メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ
信じない者にならないで信じる者に(ヨハネ20:19-29)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・礼拝説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
『その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。』(ヨハネ20:19-20)
この時、トマスだけが何かの用事のためにそこにおらず、彼が帰って来た時、弟子たちや婦人達は、きっと興奮ぎみに語っただろう。イエス様は確かに現れた、確かに生きておられ、「平和があるように」と言って下さった、そして、その手とわきには痛々しい傷跡があり、聖霊を受けるようにと息を吹きかけられた、と。
『トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」』(同25節)
トマスはそう言ったものの、まさか、10人の弟子たちと婦人達が、よってたかってトマスにウソをついて、からかっていたのだ、などと、本気で思っていたわけではあるまい。
自分が何らかの用事で不在の間に、兄弟姉妹の間に、主が、ありありと現れ、すばらしい事をなされた、と言われたとしたら、どう思うだろうか。きっと、強烈な「置いてけぼり感」にとらわれるのではなかろうか。
しかし、たとい私たちが「わたしは絶対に信じない」と頑なになってしまったとしても、主は憐れんで下さる。
『さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」』(同26-27節)
皆さんはどう思うだろうか。死んだとばかり思っていたイエス様が、肉体を持った人として目の前に現れ、その、刺し貫かれた手と脇腹とを示され、「あなたの指を、ここに差し入れてみなさい」と、やさしい御声で話しかけられ、その刺し貫かれた傷跡、肉が赤く裂け、骨まで見えているその傷跡を、目の前に差し出されたら。
トマスは、涙ながらに言う他になかっただろう。「私の主、私の神。」
私たちの神、私たちの主は、頑なで信じないトマスのような私たちのために、まさにその傷を負われたのだ。
1週間前、トマスが弟子たちに囲まれながらも「信じない」と言ったその時、主はその場にいなかったはずなのに、主はなぜか、トマスの言った言葉を知っており、覚えていた。
主は、私達が不信仰で頑なな時、不信仰な言葉を言った時、たといそこが密室であったとしても、主はそこにいて聞いておられ、また、私たちが主がいないかのように感じたり、取り残されたように感じる時も、実は、ちゃんと共におられて、私達がその時感じた事や心の言葉も、全て知り、覚えておられるのだ。
トマスはイエス様の手や脇腹に指を突き刺してみなければ信じない、と言った。当人がそこにいないと思って、大げさに言ったのであろうが、それは言ってみれば、イエス様を再び刺し貫くような言葉である。
「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
置いてけぼり感や、取り残され感から、イエス様を突き刺すような言葉を思わず口走ってしまうとしても、主は「いいよ、それで信じるなら、あなたの指をここに入れなさい」と、裂かれた手や脇腹を示されるのである。
復活の後のイエス様は、繊細に、そっと、私たちに現れて下さる。強制力によってではなく、愛によって、優雅な品性漂う振舞いによって、頑なな心を溶かし、私達はその愛に触れられ降参するしかなくなるのだ。
現代を生きる私達は、肉体をまとったイエス様を、目で見たり、手で触ったり(通常なら)できないが、当時の目で見たり触ったりした弟子たちより、幸いである。なぜなら、「見ないのに信じる人は、幸いである」から。
『信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。』(1ペテロ1:7-8)
見える所によるのではなく、見えないキリストを信じる信仰によって歩み、キリストのあらわれの時には、称賛と光栄と栄誉に至る皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:レビ記概要(レビ記1:1):右クリックで保存
「主はモーセを呼び、会見の幕屋からこれに告げて言われた」(レビ記1:1)
レビ記はモーセ五書の第三の書、ヘブル語ではワイクラー、意味は「そして主(彼)は呼び寄せられた」という、このレビ記1章1節の言葉である。
レビはイスラエルの三番目の息子で、その子孫達が人情よりも御言葉に従順したため、神と人との間を取り持つ祭司としての職務が与えられた事は、出エジプト記で学んだ通りである。
ちなみにレビの名は「結びつける」という意味で、神と人とを結びつける祭司にふさわしい名である。
レビ記の内容が主から与えられたタイミングは、エジプトを出て第2年目の1月から2月までの間である。(出エジプト記40:1、民数記1:1)
その間、このレビ記に記されている主の戒めとさとしを、じっくりと主から教わったのだ。
そして、第2月の二十日に、雲があかしの幕屋を離れ、イスラエル人はその主からのゴーサインにより旅立ちを始めた。
私達は、身勝手に行動を始めるべきではなく、まず主の御言葉をじっくり聞いてから、主のゴーサインによって行動を起こすべきなのだ。
このレビ記には、律法の細則が示されており、種々の捧げ物や礼拝、祭りに関する規定や、何が清く何が汚れた事であるのかについて、また、何が義であり何が罪であるのか、何が聖であり何が俗であるのか等を、具体的なケースを用いて詳細に示している。
それらの内容から、主は何を喜ばれ、何を嫌われるのか、主はどのようなご性質であるのかを、私達は知ることが出来る。
レビ記1章から7章までは、神様に捧げるべき捧げ物について記されている。
それは現代の私達にも、捧げ物はどのように、どのような気持ちで捧げれば良いのかのガイドラインとなり、そしてまた、人類を贖うまことの犠牲となられたキリストのご性質を、詳細に知る事が出来る。
レビ記からは、キリストの贖いや、キリストの大祭司としての性質を見ることが出来、また、各種の祭りからも、キリストの誕生や生涯、十字架での死と復活、再臨の性質を知る事が出来る。(ヘブル9章)
旧約律法はもう終わった、異邦人である我々には関係ない、というような心持ちで読むと、レビ記ほどつまらない書は無いだろう。
しかし、レビ記に限らず、モーセ五書は、神がどのように世を造られ、神は人とどのように関わられ、何を好まれ、何を憎まれるのか、そうした神と人との関係の根幹的な事柄が記されているため、決しておろそかにはできない。
よく、「旧約聖書は自分とは関係ない」と思う人がいるが、その人は、以下の御言葉を熟考すべきである。
『兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。また、みな同じ霊の食物を食べ、みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。しかし、彼らの中の大多数は、神のみこころにかなわなかったので、荒野で滅ぼされてしまった。
これらの出来事は、わたしたちに対する警告であって、彼らが悪をむさぼったように、わたしたちも悪をむさぼることのないためなのである。だから、彼らの中のある者たちのように、偶像礼拝者になってはならない。すなわち、「民は座して飲み食いをし、また立って踊り戯れた」と書いてある。
また、ある者たちがしたように、わたしたちは不品行をしてはならない。不品行をしたため倒された者が、一日に二万三千人もあった。また、ある者たちがしたように、わたしたちは主を試みてはならない。主を試みた者は、へびに殺された。また、ある者たちがつぶやいたように、つぶやいてはならない。つぶやいた者は、「死の使」に滅ぼされた。
これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。』(1コリント10:1-12)
ここで明記されている通り、モーセ五書に記されている諸々の事は、世の終わりに臨んでいる私達への警告であり、訓戒としてしっかりと捉えるべきである。
悪をむさぼった彼らが荒野で屍を晒していったように、わたしたちも、悪をむさぼって中途脱退者にならぬように、また、偶像礼拝者となって兄弟姉妹から絶たれてしまわぬように、また、不品行をして倒されてしまう側とならぬように、また、つぶやいたりして「死の使」に滅ぼされぬよう、日々互いに励まし合い、そのような誘惑に陥って、荒野で屍として永遠に置いてけぼりになってしまった者に加わる事のないように気をつけるべきである。
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礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
悪者は墓穴に入る(エステル記7章):右クリックで保存
【概要】
エステル記7章の中に現れる勇気ある王妃エステルの告白と、神の救いのタイミングの奇跡を通して、私たちは主への信頼と謙虚な心の大切さを学びます。主は正しい者を守り、悪者の策略を必ず退けられると約束されています。
【聖書箇所】
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エステル記 7章1節〜10節
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詩篇37編(特に32節以降:「悪を行うものに対して腹を立てるな。不正を行うものに対して妬みを起こすな。彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れる」)
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箴言16章 17節〜19節(「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ」)
【慰めの言葉】
どんなに困難な状況にあっても、主は必ず正しいもののそばにおられ、悪者の思惑をお打ち砕きくださいます。主にすがるならば、その憂いは希望と救いに変わります。
【励ましの言葉】
エステル王妃が自らの命と民族の救いを求めたように、私たちも恐れず主に立ち向かい、心からの信頼をもって御声に応じる勇気を持ちましょう。主はその一歩一歩に、確かな栄誉と祝福を与えてくださいます。
【戒めの言葉】
高ぶりや傲慢は必ず自らの破滅を招きます。箴言16章にあるように、心の高慢は倒れに先立つという戒めを真摯に受け止め、常に謙虚な態度で歩むよう注意しましょう。
【勧めの言葉】
日々の祈りと断食を通して主に近づき、御言葉にしっかりと立脚した生活を送りましょう。信仰による正しい道は、私たちを悪の罠から救い、真の平安へと導いてくださいます。
【悔い改めの促しの言葉】
もし自らの傲慢や過ちに気づいたなら、深い悔い改めと謙虚な心で神に立ち返りましょう。主は、真心から悔い改める者に対して、必ず救いの手を差し伸べてくださいます。
【***詳細***】
本日お読みする箇所はエステル記7章です。先週の受難週を経て、2週間ぶりとなるこの説教では、エステルがどのように王の前に立ち、イスラエル民族の危機を告げる勇気を振り絞ったか、その瞬間の圧倒的な真実が語られています。宴会の席で、王とともに杯を交わす中、エステル王妃は神の導きにより、**「もしも王様のお許しが得られ、王様がよろしければ、私の願いを聞き入れて、私に命を与え、私の民族にも命を与えてください」**と、素朴ながらも力強い言葉を王に伝えました。彼女のその一言には、己の命だけでなく、民族全体の未来を賭ける深い決意と信仰が感じられます。
ここで私たちは、かつてのエステル記の情景を思い起こすとともに、現代においても、神が正義をもって悪を裁かれるという御約束を確信せずにはいられません。旧約聖書の中でも、モルデカイに対し迫害を企てたハマンは、50キビトの高い柱を用意し、彼を吊るし上げようと計画しました。しかし、王の前で大胆にも振るわれたエステルの告白と、突然立ち上がった王の怒りにより、ハマンは己の罠に嵌り、破滅への道を歩むこととなりました。これは、**「悪者は自らが掘った穴に陥る」**という神の裁きの生きた証拠であり、私たちにとって大いなる励ましとなるのです。
また、聖書は私たちに慰めの言葉も届けています。詩篇37編には、**「悪を行うものに対して腹を立てるな。不正を行うものに対して妬みを起こすな。彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れる」**と記され、正しい者に対する主の保護と、悪に対する厳しい裁きが確約されています。この御言葉を心に留めるとき、たとえ私たちの周りに偽りの友や悪意ある者が増えたとしても、主が必ず真実と正義をもって報いてくださると信じることができます。
さらに、箴言16章においては、**「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ」**と明言されています。ハマンの姿は、この戒めの通り、自らの誇りと傲慢に溺れた結果、破滅への道を辿るものであり、私たちにとっても、謙虚さと誠実な心で歩むことの重要性を教えてくれます。私たちが日常の中で、時に誘惑や権力に目が眩むことがあっても、主の前では常に謙虚さを忘れず、誠実な信仰の道を選び続けるべきであると改めて示されています。
エステル王妃がまず自身の命を、そして後に民族全体の救いを願い出たその賢明かつ勇敢な姿勢は、私たちに重大なメッセージを投げかけています。それは、単に自らを救うのではなく、私たちの周りにいる愛する人々、家族、そして共同体全体を守るためには、まず自分自身の弱さや罪に正直になり、悔い改めることが必要であるという教えです。イスラエル民族が3日間の断食を通して主に身を避けたように、私たちもまた、日々の生活の中で自分を見つめ直し、神に従う決意を新たにするべきです。
現代社会において、私たちは数多くの誘惑や虚偽、さらには偽預言者に左右されがちです。しかし、神は常に正しいもののために戦われ、真実の光をもって悪を打ち砕かれるお方です。エステル記、詩篇37編、そして箴言16章に描かれるこの御業は、どんなに困難な状況にあっても、主に信頼し従うならば救いと栄誉を受けるという確固たる約束であります。
今日の説教を通して、私は皆さんに、エステルのような勇気と、モルデカイのような忍耐、そして謙虚な心を持って、どんな試練にも主に頼む生き方を勧めたいと思います。私たちが心から主に立ち返り、祈りと断食、そして真摯な信仰をもって歩むならば、主の手が決して私たちを離すことはなく、悪者は必ず自らの罠に捕らわれると信じております。
イエス様のお名前のもと、主の恵みと救いが私たち一人ひとりの人生に豊かに注がれることを、心から願い、感謝する次第です。私自身も、エステル王妃の勇気に学び、日々の生活の中で主への信頼を新たにしながら、皆さんとともに歩む覚悟を固めております。主の奇跡的な御業に励まされ、正しい道を着実に進むために、どうかこの御言葉を胸に刻んでいただければ幸いです。
【結論】
エステル王妃の勇気と、主が悪を打ち砕かれる奇跡的な働きを通して、私たちはどんな危機の中でも主に信頼することの大切さと、謙虚な心で生きる喜びを学びます。今日からも、悔い改めと祈りを絶やさず、主に導かれる正しい道を歩んでいく決意を新たにしましょう。イエス様のお名前によって、皆さん一人ひとりに祝福がありますように。アーメン。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
自分のほうへ引き寄せる偽教師(ユダの手紙17-19):右クリックで保存
いよいよ、出エジプト記の講解説教が終わりました。合計で112回に渡るシリーズでしたが、全てを恵みの内に終えられた事を、主に感謝します。
学生だった頃、聖書通読の、ちょうど出エジプト記の中盤のあたりの、律法や幕屋の詳細にわたる命令が、つまらなく感じていたものですが、実は、その一つ一つが私達キリスト者と密接な関係があり、荒野の民の生活は、キリスト者の信仰生活をも如実にあらわしており、幕屋の特徴や、神の定めた律法の一つ一つから、私達の主イエス・キリストのご性質を多く発見できて、とても面白く、興味深く務めさせていただきました。
次章のレビ記は、かつて学生の頃、さらに輪をかけてつまらなく感じていた箇所でしたので、主がどのように導かれるか、とても楽しみです。
礼拝説教メッセージ音声:主が命じられた通りに(出エジプト記40:16-38):右クリックで保存
『モーセはそのように行った。すなわち主が彼に命じられたように行った。』(出エジプト記40:16)
出エジプト記の終わりは、主が命じられていた事を民はことごとく忠実に実行し、その結果、主の臨在の雲が幕屋に満ちた事によって締めくくられている。
今回の短い箇所からも、「主がモーセに命じられたとおりである」という表現が8度も出てくるように、出エジプト記の後半は、主が命じられたあの事、この事を、その通りに行った、という表現が続くため、あたかも、同じ内容のコピーペーストを読んでいるような感じで、見ている側としては、つまらないかもしれない。
しかし、主が言われた事を、そのままコピーペーストのように実行する事こそ、主の祝福と、栄光の臨在を招くコツである事を私達は学んだ。
『彼はまたあかしの板をとって箱に納め、さおを箱につけ、贖罪所を箱の上に置き、箱を幕屋に携え入れ、隔ての垂幕をかけて、あかしの箱を隠した。主がモーセに命じられたとおりである。』(出エジプト記40:20-21)
この「あかしの板」は英語では「the testimony」、ヘブライ語では「アイドース」、すなわち「あかし」や「証人」を意味する「アイド」の、女性形である。
律法の石板が、女性形である事は、実に興味深い。
私達はキリストに対しては、男性も女性も、全て「女」の立場である。キリストこそ唯一の主人であり花婿であり、私達教会はその妻、花嫁である。
旧約においては、神のあかしは石板に神の指によって記されたが、新約の今、神のあかしは、私達の「心」に、神の指によって刻み込まれている。
『しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。』(エレミヤ31:33)
『わたしたちの推薦状は、あなたがたなのである。それは、わたしたちの心にしるされていて、すべての人に知られ、かつ読まれている。そして、あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。』(2コリント3:2-3)
新約の私達は、神の言葉が心に刻み込まれており、そして、新約の私達自身は聖霊が宿る神の宮であり、幕屋に置かれた一つ一つの祭具のようであり、キリストの花嫁、妻である。
自らをキリストの言葉によって清めるなら、聖なる祭具としてますます聖なる事に用いられる器となって行くのである。
私達が約束の地、安息の地にどうすれば入れるか。それは、日々、主の導き通りに歩んでいく事によって、である。そうするなら、必ず入れる。
『雲が幕屋の上からのぼる時、イスラエルの人々は道に進んだ。彼らはその旅路において常にそうした。』(出エジプト40:36)
この、昼は雲の柱、夜は火の柱によって導かれていく様は、民数記9章のほうに詳しく記されている。
『幕屋を建てた日に、雲は幕屋をおおった。それはすなわち、あかしの幕屋であって、夕には、幕屋の上に、雲は火のように見えて、朝にまで及んだ。常にそうであって、昼は雲がそれをおおい、夜は火のように見えた。雲が幕屋を離れてのぼる時は、イスラエルの人々は、ただちに道に進んだ。また雲がとどまる所に、イスラエルの人々は宿営した。
すなわち、イスラエルの人々は、主の命によって道に進み、主の命によって宿営し、幕屋の上に雲がとどまっている間は、宿営していた。幕屋の上に、日久しく雲のとどまる時は、イスラエルの人々は主の言いつけを守って、道に進まなかった。また幕屋の上に、雲のとどまる日の少ない時もあったが、彼らは、ただ主の命にしたがって宿営し、主の命にしたがって、道に進んだ。また雲は夕から朝まで、とどまることもあったが、朝になって、雲がのぼる時は、彼らは道に進んだ。また昼でも夜でも、雲がのぼる時は、彼らは道に進んだ。
ふつかでも、一か月でも、あるいはそれ以上でも、幕屋の上に、雲がとどまっている間は、イスラエルの人々は宿営していて、道に進まなかったが、それがのぼると道に進んだ。すなわち、彼らは主の命にしたがって宿営し、主の命にしたがって道に進み、モーセによって、主が命じられたとおりに、主の言いつけを守った。』(民数記9:15-23)
この、神の臨在の導きに従って進んだり留まったりする様は、現代この世界を生きる私達が、いかにして主に導かれていくべきかを示している。
主がおられる所なら、いかなる所であろうとも、いかなる働きであろうとも、そこに留まるべきであり、主の臨在がそこから無くなったならば、そこがいかなる所であろうとも、いかなる働きであろうとも、出て行くべきである。
主がおられる所へ私達がついて行くなら、誰でもやがて約束の地、安息の地に入るが、主の導きに反対し、身勝手に進む者は、やがて荒野で屍となって取り残されて行ってしまう。
この出エジプト記の終わりの時点、誰もが約束の地へと入れる可能性があったし、荒野で40年もさまよい歩く理由も、この時点では、無かった。
主の導きに従い、御言葉に従って歩むなら、必ず誰でも安息の地に入れるのだが、しかし、約束の地カナンへは、この世代では僅か二人しか入れなかった。御言葉に従って歩まなかったからである。それは、現代を生きる私達への警告であり、戒めである。
『また幕屋と祭壇の周囲に庭を設け、庭の門にとばりをかけた。このようにしてモーセはその工事を終えた。そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。』(出エジプト記40:33)
出エジプト記は、神の民がエジプトの圧政による奴隷状態であった所に始まり、神の顕現、敵の懲らしめ、奴隷状態からの脱出を経て、荒野での神の戒めの授与、そして、礼拝場所である幕屋が完成し、主の栄光の臨在が満ち溢れた所で終わる。
現代を生きる私達キリスト者も、出エジプトの民のように、はじめはサタンの圧政による奴隷状態であった所に、主イエスが現れ、彼を信じ、御言葉の通りに歩んだ結果、サタンの奴隷状態から脱出でき、礼拝場所である教会へと導かれ、戒め御言葉をいただき、キリスト者の交わりに加えられ、永遠のいのちの約束が与えられた。
そして、誰もが御国という約束の地へと入れる可能性を持っている。
『あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように、また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。』(ヘブル12:15-16)
礼拝説教メッセージ音声:幕屋建造の準備完了(出エジプト記40:1-15):右クリックで保存
エジプトを脱出した年が明け、荒野での生活は二年目に突入した。
『主はモーセに言われた。「正月の元日にあなたは会見の天幕なる幕屋を建てなければならない。』(出エジプト記40:1-2)
幕屋を建てるのに必要な部品や祭具類は、全て、前回の箇所までに造り終えているため、あとはそれを用いて組み立てるのみである。
これらの部品や祭具類は、どのくらいの期間で造られたのだろうか。
まず、エジプト脱出したのが、前の年の第一の月で、第三の月にシナイ山に到着し、そこで四十日間、モーセは主と共におり、幕屋建造の命を受け、律法の石板をいただいたが、イスラエルは金の子牛をつくって堕落してしまった。
しかしモーセの執り成しのお陰で、主は再びあかしの板を授けて下さる約束をして下さり、再び四十日を経て後、主からその板が授けられた。
これで半年ほどが既に経過している、という事は、幕屋の部品を集め初めてから建造し終わるまでの工期は、およそ半年間、という事になる。
元々、水も食料も材料も無いような岩砂漠である。
まず、民から必要な材料を募る所から始め、金を約一トン、銀を三トン半ほど、他にも、青銅や宝石類、アカシヤ材や多くの撚り糸、革を集め、それらの金銀を打ったり溶かしたり、木材を加工したり、布製品を織ったり、革製品を加工したり、それら全てを手作業で行なって、大小の精巧な細工の施された祭具を造ったのだから、半年という工期は、驚くべき短さである。
ネヘミヤも、七十年もの間がれきのままで誰も手を付けなかったエルサレムの城壁を、わずか五十二日という早さで再建した。
このように、主から志が与えられ、人々にやる気があるのなら、驚くべきような早さで、驚くべき事業をやってのけるものである。
これら、聖所で用いられる祭具は、それぞれ、私達キリスト者をあらわしている。
私達はキリストのからだの各器官、各部分であり、それぞれが主にあって適材適所に配置される。
そして、働くべき場所にただ配備されただけでは、主の用は為さない。
『注ぎ油をとって、幕屋とその中のすべてのものに注ぎ、それとそのもろもろの器とを聖別しなければならない、こうして、それは聖となるであろう。』(出エジプト記40:9)
私達も、聖霊の油が注がれて、はじめて、主にあって用意の整った状態とされ、大祭司に用いられて、はじめて主のご用を為すのである。
『アロンとその子たちを会見の幕屋の入口に連れてきて、水で彼らを洗い、アロンに聖なる服を着せ、これに油を注いで聖別し、祭司の務をさせなければならない。』(出エジプト記40:12-13)
まことに油注がれた大祭司は、イエスキリストである。(「キリスト」は元々、「油注がれた者」という意味。)
イエス様は、水のバプテスマによって「水の洗い」を受けた時、天から聖霊が鳩のように下ってきて、彼の上に留まり、天から声がした。
「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」(マタイ3:17)
こうしてキリストは、神と人との前で、公に聖霊の油が注がれ、大祭司として任職を受けたのである。
『大祭司なるものはすべて、人間の中から選ばれて、罪のために供え物といけにえとをささげるように、人々のために神に仕える役に任じられた者である。彼は自分自身、弱さを身に負うているので、無知な迷っている人々を、思いやることができると共に、その弱さのゆえに、民のためだけではなく自分自身のためにも、罪についてささげものをしなければならないのである。
かつ、だれもこの栄誉ある務を自分で得るのではなく、アロンの場合のように、神の召しによって受けるのである。同様に、キリストもまた、大祭司の栄誉を自分で得たのではなく、/「あなたこそは、わたしの子。きょう、わたしはあなたを生んだ」/と言われたかたから、お受けになったのである。』(ヘブル5:1-5)
礼拝説教メッセージ音声:命じられたとおりに(出エジプト記39:32-43):右クリックで保存
『こうして会見の天幕なる幕屋の、もろもろの工事が終った。イスラエルの人々はすべて主がモーセに命じられたようにおこなった。』(出エジプト記39:32)
主から命じられていた奉仕を、イスラエルの民は全て守り行い、幕屋の工事はいよいよ終わる。
36章以降、主が山で「このように造りなさい」と命じられた事を、そのまま守り行った事がずっと記されて来たが、それはあたかも、前出した箇所のコピーペーストのような文章で、読み手としては「同じ事が書いてある」と、つまらなく思えたかもしれない。
しかしそこに、私達が学ぶべきとても重要な事柄がある。
それは、「主が命じられた事を、そのまま守り行う」事である。
「人々は、主が命じられた通りに全て行った」という表現は、39章では幾度も見られる。(1,5,7,21,26,29,31,32,42,43節)
主が命じられた事をそのまま守り行う・・・それは、自分で考え出して行動する事が好きな人には、つまらないかもしれない。
しかし、主から命じられた事を、コピーペーストかと思えるまでに正確に守り行う事は、主の御前に立派な行為であり、豊かに祝福を受けるコツである。
逆に言えば、主から命じられた事を自分で考え出した何かで上塗りしてしまう事は、呪いの元である。その典型的な事例が、1サムエル15章のサウル王の箇所である。
サウル王は、あらかじめ主から次のように命じられていた。
「今、行ってアマレクを撃ち、そのすべての持ち物を滅ぼしつくせ。彼らをゆるすな。男も女も、幼な子も乳飲み子も、牛も羊も、らくだも、ろばも皆、殺せ』」(1サムエル15:3)
しかし彼は、その通り行わず、主の怒りを買ってしまった。
『サウルと民はアガグをゆるし、また羊と牛の最も良いもの、肥えたものならびに小羊と、すべての良いものを残し、それらを滅ぼし尽すことを好まず、ただ値うちのない、つまらない物を滅ぼし尽した。・・・「わたしはサウルを王としたことを悔いる。彼がそむいて、わたしに従わず、わたしの言葉を行わなかったからである」。サムエルは怒って、夜通し、主に呼ばわった。』(1サムエル15:9-11)
サウルとしては、主の命令を実行したつもりだったようだが、そうではなく、かえって主を怒らせていた。
私達も、主の命令どおりに実行した「つもり」になっていても、実は、主を怒らせている時があり、その時、表層意識には出なくとも、なんとなく主に対して「うしろめたさ」があるもので、わざわざ「主の祝福がありますように。私は主のことばを守りました。」とオーバーに言ってみたり(13節)、「いいわけ」という形になって表層に出てくるものである。(19-21節)
『サムエルは言った、/「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、/燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、/聞くことは雄羊の脂肪にまさる。そむくことは占いの罪に等しく、/強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。あなたが主のことばを捨てたので、/主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた」。』(1サムエル15:22-23)
サウル王が主の御声に聞き従わなかったのは、主から滅ぼすように命じられたものを「惜しみ」、そうする事を「好まなかった」からである。(同9節)
主の言葉を、自分の「好み」「好まざる」で、聞き従わない事。それは、引きずり降ろされてしまう元である。
主が私達に求められておられる事、それは、御言葉をより好みしたり、加えたり減らしたりせず、出エジプトの民のように、主から命じられたままを、違わず守り行う事なのだ。
『イスラエルの人々は、すべて主がモーセに命じられたように、そのすべての工事をした。モーセがそのすべての工事を見ると、彼らは主が命じられたとおりに、それをなしとげていたので、モーセは彼らを祝福した。』(出エジプト記39:42-43)
主の言葉を違わずに全て行った時、私達も祝福を得るのである。
今日もまた静岡に来て、教会建て上げの手伝いをしています。
今回は荷物を2Fから3Fに運ぶ力作業メインで、体力的にきついですが、一番最初に見た状況から、だいぶ変わって、どんどん教会らしくなっていく様を見るのは、とても嬉しいです。