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メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

主日礼拝
レムエルの母より、王たるわが子へのメッセージ(箴言31:1-9)
第一礼拝 Youtube動画
週報/メッセージ(説教)概要

 

 本日の箇所には、マサの王の母が、息子レムエルへ贈った言葉が記されている。母は子が正しい道を歩んで欲しいと願い、色々な言葉を残すが、特にここでは、子が「王」として正しく歩むためにどうすべきか、格別な愛情と共にアドバイスをしている。私達もキリストにあって「王なる祭司」とされている。(1ペテロ2:9)
 私たちはどのようにして、王として正しく与えられている場を支配し、治め、また祭司として正しく務めをなし、人々を執り成す事ができるだろう。母の日である今日、レムエルの母からアドバイスを頂きたい。
 
 『わが子よ、何を言おうか。わが胎の子よ、何を言おうか。私が願をかけて得た子よ、何をいおうか』(2節) 
この言葉に、論理的な意味は見いだせないかもしれないが、彼女が主に願をかけて生んだ子・レムエルへの深い愛情と、うめきに溢れている。願いに願って与えられた子よ、王たるあなたが、道を踏み外さぬよう、また、王として正しく治める者となるように、何を言おうか・・・。その、考え抜いて出た言葉が、3節である。
 『与えるな(置くな)、あなたの力(、富、権力)を、女達に。あなたの道を、王たちを摩耗・消滅させる者へ(与えるな)』(3節直訳) 女性は、男性にとって魅力的で、夢中にさせる存在だが、ここの「女」は複数形なので、5章でも示されている通り、神を知らない「異邦の女達」の事だろう。妻に対してはむしろ、「若い時の妻と喜び楽しめ、いつも彼女の愛に夢中になれ」と書いてある。しかし妻といえど、神の言葉より優先してはならない。神の言葉より妻の言葉を優先させた結果、アダムとエバはエデンから追い出されてしまった。
 だから男性に限らず、女性も、夢中になりそうな異性や、溺愛しそうな相手には、気をつけるべきである。
本来、自分が保護者として養い守るべき相手に、力や富や権力をあずけ切って生殺与奪の権を与えてしまうと、神の国の秩序が脅かされてしまう。私達は、主従関係をはっきりさせ、御言葉を第一優先すべきだ。
 
 4-7節はさらに、夢中にさせるものに対する警告が記されている。『レムエルよ、酒を飲むのは、王のする事ではない、王のする事ではない、濃い酒(シェカール)を求めるのは君たる者のする事ではない。』(4節)
 シェカールは元々、うきうきさせるもの、夢中にさせ中毒性をもたらすのの意味である。今、私たちは、神の国とは関係が無い、そして、自分の意思で止める事が難しい、夢中にさせる何かがあるだろうか。レムエルの母は言う。その「シェカール」を求めるのは、王たる者のする事ではない、と。
 5節では、王は勅令を定め(ハカク:文字を彫り込む事)、悩む人を正しくさばくいて幸せへと導くべきものである事が書いてあるが、酒は勅令を忘れさせ、さばきを曲げてしまう。私たちは日々、御言葉を宣言して心に刻み、学ぶべきことを脳に彫り込み、正しくさばくべきである。そういった本来しなくてはならない事から離れさせたり、取り組まなければならない勉強や仕事を、かったるく思わせたりするものが、酒である。
 レムエルの母は、繰り返す。 酒を飲むのは、王のすることではない、王のすることではない、と。
 祭司も、シェカールの類を取るべきではない。レビ記10章には、大祭司の息子達が至聖所にむやみに入って焼き殺された事件があり、そのすぐ直後、祭司たるものは務めに入る時、ぶどう酒や強い酒を飲んではならない、という命令が定められた。酒に酔ったまま、聖なる所に入るなど、もっての他なのだ。
 私たちは、ぼんやりさせ現実を忘れさせるものに、かかずりあってはならない。すべき事は、王なる祭司として、御言葉の勅令を定め、御言葉によって正しく物事をさばき、迷える人々に道を開かせていく事である。
 
 『あなたは黙っている人のために、すべてのみなしごの訴えのために、口を開くがよい。口を開いて、正しいさばきを行い、貧しい者と乏しい者の訴えをただせ。』(8-9節) 王たるものは、苦しんでいる人々のために積極的に口を開き、悪がはびこらないよう、正しくさばくべきであると命じている。その、正しいさばきが出来るための知恵は、御言葉に養われる事によって、である。
 母はいつも思う。子には良いものをあげたい、と。しかし、子が求めるものは何でも無条件に与えるものではない。おりにかなった御言葉を与え、時宜にかなったものをあげることによって、子は、正しく育っていく。
 レムエルの母は、おりにかなった正しいことばで息子を養った。そして偉大な王になっていくために必要なものが、御言葉である。御言葉によって養われ、また御言葉によって子を正しく育て上げ、立派な王として成長して行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

早天礼拝
ほら穴の中で信仰をもって宣言した通りになって行ったダビデ(詩篇57篇)
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詩篇57篇表題「聖歌隊の指揮者によって、「滅ぼすな」というしらべにあわせてうたわせたダビデのミクタムの歌。これはダビデが洞にはいってサウルの手をのがれたときによんだもの」
 
この詩篇57篇が創られたのは、おそらく1サムエル記22章にてダビデがアドラムのほら穴にいた時、あるいは、24章でエン・ゲディのほら穴にいた時であろう。
アドラムもエン・ゲディも、ともに死海の西側、洞窟が多い荒涼とした岩砂漠地帯である。
前回56章は、ダビデがペリシテ人に囲まれて気が違ったふりをして、散々な思いで逃れて来た状況だったが、そのすぐ後、彼はたった一人、アドラムのほら穴にいた。
しかし彼は、一人ではかった。彼の信頼する主がそばにおられ、彼はその主を呼び求める。
 
57:1 神よ、わたしをあわれんでください。わたしをあわれんでください。わたしの魂はあなたに寄り頼みます。滅びのあらしの過ぎ去るまでは/あなたの翼の陰をわたしの避け所とします。
57:2 わたしはいと高き神に呼ばわります。わたしのためにすべての事をなしとげられる神に/呼ばわります。
 
どこにも助けが無い、どこにも居場所が無い、そんな状態で彼にできた事は、ただ主に向かって助けを求めるだけだった。
ちょうど鳩が、敵を逃れて岩の隙間に隠れ、ただうめき鳴いているように。
それは拾は、最も幸いな事である。
主を呼び、主に助けを求める者に、主は平安と確信とを送られる。
 
57:3 神は天から送ってわたしを救い、わたしを踏みつける者をはずかしめられます。〔セラ/すなわち神はそのいつくしみとまこととを/送られるのです。
 
ここにセラが、すなわち、モードチェンジの指示がある。
1-2節では、ダビデはただ主に向かってうめくだけだったが、彼はそれによって主が平安と確信を得て、敵に対する報復を宣言する。
 
57:4 わたしは人の子らをむさぼり食らうししの中に/横たわっています。彼らの歯はほこ、また矢、彼らの舌は鋭いつるぎです。
 
4節で「横たわっています」はヘブライ語でシャーカブ、「休む」「寝る」の意味がある。
彼は、ライオンのような敵に囲まれていても、休みが与えられたのだ。
 
57:5 神よ、みずからを天よりも高くし、みさかえを全地の上にあげてください。
57:6 彼らはわたしの足を捕えようと網を設けました。わたしの魂はうなだれました。彼らはわたしの前に穴を掘りました。しかし彼らはみずからその中に陥ったのです。〔セラ
 
ダビデは宣言した。わなをもって捕らえようとする者は、自ら、その罠にかかる、と。
それは真理であり、法則である。箴言にも記されている。
 
箴言1:15 わが子よ、彼らの仲間になってはならない、あなたの足をとどめて、彼らの道に行ってはならない。
1:16 彼らの足は悪に走り、血を流すことに速いからだ。
1:17 すべて鳥の目の前で/網を張るのは、むだである。
1:18 彼らは自分の血を待ち伏せし、自分の命を伏してねらうのだ。
1:19 すべて利をむさぼる者の道はこのようなものである。これはその持ち主の命を取り去るのだ。
 
もし、罠で捕らえようとする者がいるなら、私達も宣言するのである。
わなをもって捕らえようとする者は、自ら、その罠にかかる、と。
なぜならそれは、真理だから。
 
57:7 神よ、わたしの心は定まりました。わたしの心は定まりました。わたしは歌い、かつほめたたえます。
 
「定まる」のヘブライ語は、クーン。奮い立つ、あるいは揺るがない様を表す。
彼は主にあって、心が定まった。
 
57:8 わが魂よ、さめよ。立琴よ、琴よ、さめよ。わたしはしののめを呼びさまします。
 
立琴や琴は、元々、ダビデが得意とする賛美の道具であった。
彼はそれまで久しく追われていたため、賛美どころではなかったが、彼は奮い立ったゆえに、賛美を呼び覚まし、あけぼのを呼び覚まそうとした。
なんという復帰力だろうか。
その源泉は、鳩のように主に助けを求める所にある。
 
ダビデは、闇夜の状況に、あけぼのを呼び覚ます。
わが「魂」と訳された原語はカヴォド、元々の意味は肝臓で、肝臓は最も重い臓器である事から「重さ」を表し、また「栄光」を表すため、KJVでは「My glory」と訳されている。
ダビデは、すぐ前はペリシテ人の前で気違いを装い、栄光が地に落ちたかのようであったが、彼は、ほら穴の中で主に呼び求め、主にあって奮い立ち、どん底に落ち込んでしまった彼の栄光に向かって「さめよ」と宣言した。
実際彼は、その後、栄光を回復して行く。
 
57:9 主よ、わたしはもろもろの民の中であなたに感謝し、もろもろの国の中であなたをほめたたえます。
 
ダビデは、アドラムのほら穴にいた時、たった一人だった。
にもかかわらず、彼は「もろもろの国」を見据え、国々の間で主をほめたたえる、と宣言している。
 
事実、彼が宣言したとおりに、彼はその後、彼の敵は打ち負かされ、サウルに代わって王となり、聖歌隊を編成し、ダビデ自身が作った詩篇を歌わせ、そして多くの国々を占領し、主の栄光をあまねく告げ知らせて行った。
いかに一人ぼっちで、ほら穴に逃げ隠れしていたとしても、主を拠り所とし、主を信頼して、御言葉を宣言するなら、その宣言したとおりになるのである。
 
57:10 あなたのいつくしみは大きく、天にまで及び、あなたのまことは雲にまで及びます。
57:11 神よ、みずからを天よりも高くし、みさかえを全地の上にあげてください。
 
最初は嘆きで始まったが、最後は賛美で終わる。
彼が主にあって確信を得たからだ。
まさに詩篇23篇で彼が記した通りである。
 
詩篇23:5 あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。
23:6 わたしの生きているかぎりは/必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。
 
ダビデはこの後、彼の元に次々と人々が集まって来るようになり、600人の人々の頭領となった。
その彼らがエン・ゲディのほら穴にいた時、ダビデのいのちをつけ狙って来たサウル王は、ダビデのいたほら穴に、自分から一人で来て、彼の無防備な様を、ダビデ達の前にさらした。
主がダビデの手に、敵であるサウル王を渡して下さったのだ。
 
ダビデはいつでもサウル王に手を下す事はできたが、それをしなかった。
それは、ダビデが大好きな主が、サウルに油を注いで下さったからだ。
そしてダビデは知った。
主により頼むなら、主はいつでも、自分の敵を手に渡して下さる、自分は、主にあって安全に守られるのだ、と。
 
今、コロナが流行っているこの時勢、私達も鳩のように、ただ家の中に閉じこもって主に向かって呼ばわるだけかもしれない。
しかし、そのような時期に、主を呼び求める事は、実は幸いな一時である。
それによって主は、平安と確信を送ってくださり、暁を呼びささます者とし、ゆくゆくは信じて宣言した言葉のとおりに栄光が与えられるからだ。

詩篇 講解説教
主によって黒歴史は感謝の歴史へ変わり、賛美へと変わる(詩篇56篇)
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詩篇56篇表題「聖歌隊の指揮者によって、「遠き所におる音をたてぬはと」のしらべにあわせてうたわせたダビデのミクタムの歌。これはダビデがガテでペリシテびとに捕えられたときによんだもの」
 
この状況は、1サムエル記21:10-16に記されている。
ダビデはサウル王から追われ、イスラエルに居場所がなくなったために、ペリシテのガテへと逃れ、ペリシテの王の元に身を寄せようとした。
ところがガテは、彼が倒したペリシテ人ゴリヤテの故郷であり、ダビデは、そのゴリヤテの剣を身に帯びていた。
結果どうなるか、大体創造できそうなものであるが、ダビデは恐れに取り憑かれ、焦って、そこまでの判断が出来なかったのかもしれない。
自国から遠く離れたペリシテの敵地に、たった一人でいて、敵に囲まれ、うめく声もあげられない状態、まさに「遠き所におる音をたてぬはと」の状況の中、作った詩である。
 
1サムエル記21:11 アキシの家来たちはアキシに言った、「これはあの国の王ダビデではありませんか。人々が踊りながら、互に歌いかわして、/『サウルは千を撃ち殺し、/ダビデは万を撃ち殺した』/と言ったのは、この人のことではありませんか」。
 
ペリシテ人らはダビデを「王」と呼び、そして彼がゴリヤテを倒した時に女達が歌った歌も知っている。さらに悪い事に、彼はゴリヤテの剣を身に帯びていた。
まさに彼の命は風前の灯、ダビデが恐れるに十分だった。
そんなダビデには、もはや、一択しか残されていなかった。
すなわち、いつでも彼とともにおられる主に助けを求める、という事を。
 
詩篇56:1 神よ、どうかわたしをあわれんでください。人々がわたしを踏みつけ、あだする人々がひねもすわたしをしえたげます。
56:2 わたしの敵はひねもすわたしを踏みつけ、誇りたかぶって、わたしと戦う者が多いのです。
 
「ひねもす」(新改訳では「一日中」)と訳されたヘブライ語は、「コール・ハイ・ヨム」。コールは「全」、ヨムは「日」の他に、「期間」の意味がある。
ダビデがペリシテにいた期間、ずっと、ひっきりなしに、ダビデはペリシテ人から責め立てられ、虐げられつづけたのかもしれないし、あるいは、サウル王に追われ続けたて来たこの期間、ずっと、そのような心境だったのかもしれない。
 
詩篇56:3 わたしが恐れるときは、あなたに寄り頼みます。
56:4 わたしは神によって、そのみ言葉をほめたたえます。わたしは神に信頼するゆえ、恐れることはありません。肉なる者はわたしに何をなし得ましょうか。
56:5 彼らはひねもすわたしの事を妨害し、その思いはことごとくわたしにわざわいします。
 
 
実に素晴らしい、かっこ良い告白であるが、ダビデがその時、自分のいのちを救うために取った行動は、かっこ良くなかった。
 
1サムエル記21:12 ダビデは、これらの言葉を心におき、ガテの王アキシを、ひじょうに恐れたので、
21:13 人々の前で、わざと挙動を変え、捕えられて気が変になったふりをし、門のとびらを打ちたたき、よだれを流して、ひげに伝わらせた。
 
彼の人生一番の黒歴史かもしれない。
主にあって自分自身を御言葉でふるい立たせ、「恐れません」と告白しても、結局は恐れて、恥ずかしい行動を取ってしまう。
 
それは私達にもあるかもしれない。
せっかく、苦しみの中で信仰を奮い立たせ、素晴らしい信仰告白をしても、弱いゆえに、あるいは恐れ混乱したゆえに、格好悪い事をしてしまう事が。
あの偉大なダビデでさえ、そこを通って来たのだ。
 
しかしダビデは、その事を隠さず、むしろその出来事を詩にして、聖歌隊に賛美させた。
なぜなら、ダビデは、彼を救い出して下さった主への感謝と喜びが、あまりに大きいために、自分の恥さえ喜んでさらして、主を賛美したかったからだ。
だからこそ主は、彼を高め、大きな栄誉を与えたのだ。
 
自分自身の、恥の黒歴史は、主が働く事によって感謝の歴史へと変わり、そして賛美へと変わる。
 
56:8 あなたはわたしのさすらいを数えられました。わたしの涙をあなたの皮袋にたくわえてください。これは皆あなたの書に/しるされているではありませんか。
 
ダビデは弱さのゆえに信仰宣言した通りに凛々しく振る舞えなかった事を悲しみ、涙を流した。
しかし主は、私達・信仰者が、主のゆえに労苦したさすらいの日々を数えておられ、主の書物に記しておられる。
そして、主のゆえに労苦して流した全ての涙を、皮袋にたくわえておられる。
 
ダビデは主の前に凛々しく立ち続けられなかったゆえに流した涙が、無駄にはならず、なおも主により頼んだ故に、確信をいただく。
 
56:9 わたしが呼び求める日に、わたしの敵は退きます。これによって神がわたしを守られることを知ります。
56:10 わたしは神によってそのみ言葉をほめたたえ、主によってそのみ言葉をほめたたえます。
 
ダビデはこの詩篇で、合計、3度も「御言葉をほめたたえた」。(4,10節)
だから、御言葉が彼の盾となり、城壁となって、彼を守る事になる。
いかに敵地の真ん中で、敵に囲まれ、ひっきりなしに責めたてられるような、危機的状況であったとしても。
御言葉は、千万の敵を前にしても決して揺るがされない完全な防護壁である。
だからダビデは、この詩を、賛美で終わらせている。
 
56:11 わたしは神に信頼するゆえ、恐れることはありません。人はわたしに何をなし得ましょうか。
56:12 神よ、わたしがあなたに立てた誓いは/果さなければなりません。わたしは感謝の供え物をあなたにささげます。
56:13 あなたはわたしの魂を死から救い、わたしの足を守って倒れることなく、いのちの光のうちで神の前に/わたしを歩ませられたからです。
 
ダビデはまだ、死ぬような時ではない。
彼はこれから、王としてイスラエルを導き、主の御名を褒め称える賛美をたくさん作り、神殿を建て、主の栄光を多くの人々に伝え残して行かなくてはならないからだ。
主はダビデを守ったように、主は、全て主に従おうとする人々を、あらゆる災いから守られる。
 
ダビデがこの危機的状況から脱出した時に作った、もう一つの詩が、詩篇34篇である。
 
詩篇34篇表題「ダビデがアビメレクの前で狂ったさまをよそおい、追われて出ていったときの歌」
34:1 わたしは常に主をほめまつる(バラク)。そのさんび(テヒラー)はわたしの口に絶えない。
34:2 わが魂は主によって誇る(ハラル)。苦しむ者はこれを聞いて喜ぶであろう。
34:3 わたしと共に主をあがめよ(ガダル)、われらは共にみ名をほめたたえよう(ルーム)。
 
ダビデは、言葉を変えて色々な表現で主を賛美している。
彼のいのちが助け出された時の、彼の立ち居振る舞いが、いかに恥かしいものであっても、彼は真実な主を褒め称えたい故に、そして、多くの人々にこの主の素晴らしさを知ってほしいから、この詩を公開したのだ。
 
詩篇34:6 この苦しむ者が呼ばわったとき、主は聞いて、すべての悩みから救い出された。
34:7 主の使は主を恐れる者のまわりに/陣をしいて彼らを助けられる。
34:8 主の恵みふかきことを味わい知れ、主に寄り頼む人はさいわいである。
 
あの敵地の只中、敵に囲まれたさ中にあっても、ダビデが守られたのは、目には見えない御使いが陣営をはってダビデを囲み、守っていたからである。
無数の御使いがダビデを守った理由は、ダビデが御言葉を3度もほめたたえ、御言葉を城壁としたからだ。
彼が信仰をまぜて御言葉を宣言し、御言葉を重んじたから、神はダビデを重んじ、御使いたちを遣わして彼を守らせたのだ。
 
主はすべて、御言葉を重んじ、御言葉をほめたたえる人に、御使いの陣営を遣わし、守ってくださる。
そして主は、主のゆえに労苦する信仰者の日々を数えておられ、その記録を主の書物に記しておられ、そして主のゆえに労苦して流した全ての涙を全て、たくわえておられる。
しかし主は、主のゆえでない涙、たとえば罪の楽しみができなかったゆえに流した涙や、騙しが通じなかったゆえに流した涙などは、数えてはおられない。
 
ダビデは常日頃、主により頼んでいたから、敵地の真ん中でも救われた。
しかし、常日頃から御言葉を軽んじている者は、いざという時に助けを求めても、何の答えも助けも無い。
 
箴言1:24 わたしは呼んだが、あなたがたは聞くことを拒み、手を伸べたが、顧みる者はなく、
1:25 かえって、あなたがたはわたしのすべての勧めを捨て、わたしの戒めを受けなかったので、
1:26 わたしもまた、あなたがたが災にあう時に、笑い、あなたがたが恐慌にあう時、あざけるであろう。
1:27 これは恐慌が、あらしのようにあなたがたに臨み、災が、つむじ風のように臨み、悩みと悲しみとが、あなたがたに臨む時である。
1:28 その時、彼らはわたしを呼ぶであろう、しかし、わたしは答えない。ひたすら、わたしを求めるであろう、しかし、わたしに会えない。
 
常日頃から主により頼み、どんな艱難の時代でも主から守られ、やがてダビデのように大いに用いられる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝

世と時代に対し城壁を築く(ネヘミヤ2:17-20)

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週報/メッセージ(説教)概要

 
 ネヘミヤはバビロン捕囚後、長い間がれきの山だったエルサレム城壁をたった52日で再建し、また人々に、主は何を喜び、何を嫌われるかを教えて霊的な城壁も再建した。今、世はまさに「城壁再建」が必要だ。
今、コロナゆえにマスクや外出自粛という「城壁」は張っていても、肝心の「霊的城壁」をおろそかにし、世の有害な情報や享楽が入り放題、しかし将来の不安や心配には、何の対策もできないでいる人々も多い。
 神の民イスラエルがあの時代、勝てなかったのは、世に流れる退廃的情報にあけっぴろげで、何の城壁も張らなかったからだ。今回ネヘミヤ記から正しく城壁を張って自分達を守り、世に勝利する術を学びたい。
 
 主の民がバビロン捕囚から帰還した当時、エルサレム城壁の再建は、誰もやらなかった。誰かがやってくれるだろう、と思って誰もやらず、少しやる気を起こしてみても、やる気をくじく敵が来て、再建させなかった。
それで敵から良いようにふんだくられ、そしりを受け続けていた。ネヘミヤはその現状を聞くと、泣いて断食して祈り、王に懇願し、再建を願い求めると、王は快諾し、彼を遣わした。ネヘミヤの名の意味は「主の慰め」。すなわち、助け主であり慰め主である聖霊と同じである。聖霊は、私達のために深くうめき、執り成す。
 城壁が崩れ、境界線がはっきりしていないと、誰をどこまで受け入れて良いか分からず、大切な財産や時間、エネルギーを奪われ続けたり、そしりを受け続けたりしてしまう。聖霊は教えてくれる。何が罪で、何が義で、何がさばきを招くものか。また何をすべきで何を止めるべきか、どこまで良くて、どこから悪いかを。
 ネヘミヤは到着すると、早速、破壊されている所をくまなく探りまわった(2:9-16)。聖霊も同じように、私達の内側をくまなく探り、傷ついた道のあるかないかを調べ、掃き清めながら、失われている価値を探す。
もし、その人が悔い改めて、価値あるものとなったなら、主は御使いと共に大いに喜ばれる。(ルカ15:8-10)
 ネヘミヤは、『さあ、我々は再び世のはずかしめをうける事のないように、エルサレムの城壁を築こう』と言った(17節)。人々はネヘミヤの言葉で、希望を持つ事ができた。なぜならネヘミヤは、再建については王のお墨付きをいただいており、また、神の御手が彼に恵みを下さった事を、皆に知らせたからだ(18節)。
 私達の人生が再建される事は、私達の王の王、主イエス様のお墨付きであり、主の御手の恵みをいただいている。主は言われた。もし御言葉があなた方の中にとどまるなら、何でもほしいものを求めなさい、と。
 人々は、ネヘミヤの言葉に希望をもって、再建に取り組んで行くが、それを面白がらない人が出てくる。
 
 『ところがホロニ人サンバラテ、アンモン人奴隷トビヤおよびアラビヤ人ガシムがこれを聞いて、われわれをあざけり、われわれを侮って言った、「あなたがたは何をするのか、王に反逆しようとするのか」。』(19節)
 なぜ彼らは、再建されて良くなる事を邪魔するのか。それは彼らは今まで、城壁が無かったからこそ自由に出入りし、搾取し、こきつかって、うまい汁を吸っていたからだ。だから彼らは、再建のわざを「王に対する反逆」と、あたかも後ろめたい事、悪い事かのような気をさせるのだ。彼らはさらに、再建をしている人を巧妙に仲違いさせ、悪く印象づけ、もうだめだ、いくら努力しても報われない、と、再建をあきらめさせる。
それは、悪魔サタンの策略である。しかし私達は、主が見捨てていないなら、自分や相手に失望したり、諦めたりしてはならない。諦めさせようとする悪魔の策略に対しては、ネヘミヤのように宣言すべきである。
 『わたしは彼らに答えて言った、「天の神がわれわれを恵まれるので、そのしもべであるわれわれは奮い立って築くのである。しかしあなたがたはエルサレムに何の分もなく、権利もなく、記念もない」。』(20節)
 そう、私達は神の民であり、神が私達を成功させて下さるのであり、それだから、神の僕である私達は、再建にとりかかっているのだ。私達の貴重な人生、貴重な時間、貴重なエネルギーを盗んで再建を妨げている者達に対しては、お前たちは何のわけまえも、権利も、記念も無い!と、宣言するのだ。
 今まで、悪い者に、良いように言われ、信じ込まされ、奪われ続けて来たとしても、聖霊が来るなら、聖霊が私達に言うべき言葉を備え、力と勇気と大胆さを備えて下さる。そして、思い出させてくださる。イエス・キリストはどなたであり、何を語られたのかを。私達は、イエス様に救われ、聖霊の息を吹きかけられ、神の子とされ、王族の祭司、聖なる国民、神の所有とされ、地の塩、世の光として召し出された事を。
 世の声は、混沌や絶望を仕掛け、奴隷生活を仕掛けてくる。その者達には、「天の神が私達を成功させて下さる!その神のしもべである私達は、再建にとりかかっているのだ!」と宣言し、城壁をしっかり築き上げ、この時代を治めていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

早天礼拝
親しい友に裏切られた時の詩(詩篇55篇)
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詩篇55篇表題「聖歌隊の指揮者によって琴をもってうたわせたダビデのマスキールの歌」
 
マスキールはサーカル(指示する、教示する、理解する)が元になっていると思われる。この詩は、私達に教訓を与えてくれる詩篇である。
 
ダビデは特に、親しい友人に裏切られた時の心情を、主に激しく吐露し、祈っている。
一体誰が彼を裏切ったのか、その裏切り者の名は記されていないが、この詩の内容は、第2サムエル記15章の記事、すなわち、彼の息子アブシャロムがクーデターを起こし、彼の有能な議官アヒトフェルほか、彼に親しかった者達がこぞってアブシャロムについた記事によくあてはまる。
 
アブシャロムは年月をかけて人々の心にダビデへの不平不満を植え込んだ。
アブシャロムは親しげに民衆に語りかけ、時にはハグし、口づけして人心に取り込みつつ、ダビデ王は人心を汲み取ってはくれない事、自分のほうこそ王に相応しい器だ、という事を、じっくりゆっくりと人々の心に浸透させていった。
このように巧妙に闇の中で下準備を整え、そして4年目のある日、満を持して王を名乗り、多くの民衆がアブシャロムについた。
ダビデは息子アブシャロムがクーデターを起こしたと聞いたが、彼はいつも、主を助けとした。
 
詩篇55:1 神よ、わたしの祈に耳を傾けてください。わたしの願いを避けて身を隠さないでください。
55:2 わたしにみこころをとめ、わたしに答えてください。わたしは悩みによって弱りはて、
55:3 敵の声と、悪しき者のしえたげとによって/気が狂いそうです。彼らはわたしに悩みを臨ませ、怒ってわたしを苦しめるからです。
 
この詩の最初の3節において、ダビデは神に切に求めている。
祈りを耳に入れて下さい、身を隠さないで下さい、御心を留めてわたしに答えてください、と。
ダビデはこの時の心情を、続く節で表しているが、それはかなり激しい。
 
詩篇55:4 わたしの心はわがうちにもだえ苦しみ、死の恐れがわたしの上に落ちました。
55:5 恐れとおののきがわたしに臨み、はなはだしい恐れがわたしをおおいました。
 
彼は死の恐れ(複数形)が彼の上に落ちた、と言った。
愛する子アブシャロムに裏切られ、また親しかった人々がこぞって彼から離れて行った時、死ぬほどの苦しみと恐れを、いくつも感じたのだ。
 
詩篇55:6 わたしは言います、「どうか、はとのように翼をもちたいものだ。そうすればわたしは飛び去って安きを得るであろう。
55:7 わたしは遠くのがれ去って、野に宿ろう。〔セラ
55:8 わたしは急ぎ避難して、はやてとあらしをのがれよう」と。
 
鳩は、その鳴き声から、うめく鳥と言われている。
彼は翼をかって、遠くに逃げ去りたい、と願った。
彼はアブシャロムのクーデターを聞いた時、真っ先にしたのは、速やかに野のほうへ逃れて行った事だった。
彼は息子には手をかけられないし、また、もし戦争となったら、戦場は国内の町々やエルサレムでの市街戦となり、多くの同胞たちが、同士討ち同然の戦いで死ぬ事になってしまうからだ。
ただ、逃げるしか無い。
このように行き場を失った時の彼の心情が、この詩篇によく現れている。
 
55:9 主よ、彼らのはかりごとを打ち破ってください。彼らの舌を混乱させてください。わたしは町のうちに暴力と争いとを見るからです。
55:10 彼らは昼も夜も町の城壁の上を歩きめぐり、町のうちには害悪と悩みとがあります。
55:11 また滅ぼす事が町のうちにあり、しえたげと欺きとはその市場を/離れることがありません。
 
彼は「彼らのはかりごとを打ち破ってください。彼らの舌を混乱させてください。」と祈っている。
その祈りは第2サムエル記15章においてダビデが祈った内容と一致している。
 
2サムエル記15:31 時に、「アヒトペルがアブサロムと共謀した者のうちにいる」とダビデに告げる人があったのでダビデは言った、「主よ、どうぞアヒトペルの計略を愚かなものにしてください」。
 
私達も、祈るべきである。
現在、韓国において、まさにダビデの時代に起きたクーデターのような事が起きている。
戦後、韓国では共産主義者たちが密かに、そしてじっくりと政界に浸透し、長年かけて教育業界に共産主義者たちを送り込み、子供たちに、共産主義を何か良いもの、かっこいいものであるかのように教育し、そうして長年浸透して来たある日、ムン・ジェイン政権が立ち上がり、そして4月15日の選挙では多数の議席を獲得してしまった。
もし韓国が北朝鮮に併合されるような形で共産化してしまったら、日本はロシア、中国、そして朝鮮半島と、共産国に囲まれ、孤立してしまい、大いに危険な立場に立たされてしまう。
 
共産主義とは、神無しとする思想であり、共産化された国は、一部の特権階級が搾取し、その国の多くの人々があえぐようになってしまっているのは、共産国の現状を見れば明らかである。
 
私達も、ダビデのように祈るべきである。
彼ら・共産主義者たちの計略が、愚かなものになり、彼らのはかりごとを打ち破って下さい、彼らの舌を混乱させてください、わたしは町のうちに暴力と争いとを見るからです、と。
 
詩篇55:12 わたしをののしる者は敵ではありません。もしそうであるならば忍ぶことができます。わたしにむかって高ぶる者はあだではありません。もしそうであるならば身を隠して/彼を避けることができます。
55:13 しかしそれはあなたです、わたしと同じ者、わたしの同僚、わたしの親しい友です。
55:14 われらはたがいに楽しく語らい、つれだって神の宮に上りました。
55:15 どうぞ、死を彼らに臨ませ、生きたままで陰府に下らせ、恐れをもって彼らを墓に去らせてください。
 
一緒に育ち、一緒に学び、一緒に多くの時間を過ごし、しかも一緒に礼拝を捧げた人が、神に喜ばれない卑劣な手段で裏切った。
それは、単に悪人にののしられたり圧迫されるより、はるかに心のダメージが大きい。
私達はそのような苦しみに遭った時、どうくぐり抜けるか。
 
ダビデは、決して裏切らない主への心情吐露と、祈りと、信仰告白によって切り抜けた。
彼が真っ先に行った事は、主に対する心情吐露であった。
その次は、祈りによって心を整え、そしてその後、彼は信仰告白の宣言に入る。
 
詩篇55:16 しかしわたしが神に呼ばわれば、主はわたしを救われます。
55:17 夕べに、あしたに、真昼にわたしが嘆きうめけば、主はわたしの声を聞かれます。
55:18 たといわたしを攻める者が多くとも、主はわたしがたたかう戦いから/わたしを安らかに救い出されます。
55:19 昔からみくらに座しておられる神は/聞いて彼らを悩まされるでしょう。〔セラ/彼らはおきてを守らず、神を恐れないからです。
55:20 わたしの友はその親しき者に手を伸ばして、その契約を破った。
55:21 その口は牛酪よりもなめらかだが、その心には戦いがある。その言葉は油よりもやわらかだが、それは抜いたつるぎである。
 
主は全て、真実に主に求め祈る人に、聞いて下さる。
そして、主に忌み嫌われる事を敢えて行う人、戒めても聞かない人に対し、主は敵対される。
主は、心の真実な人を喜ばれる。詩篇15篇に記されている。
 
詩篇15:1 主よ、あなたの幕屋にやどるべき者はだれですか、あなたの聖なる山に住むべき者はだれですか。
15:2 直く歩み、義を行い、心から真実を語る者、
15:3 その舌をもってそしらず、その友に悪をなさず、隣り人に対するそしりを取りあげず、
15:4 その目は神に捨てられた者を卑しめ、主を恐れる者を尊び、誓った事は自分の損害になっても変えることなく、
15:5 利息をとって金銭を貸すことなく、まいないを取って/罪のない者の不利をはかることをしない人である。これらの事を行う者は/とこしえに動かされることはない。
 
ダビデはさらに、三人称の視点で記して、自分自身を奮い立たせ、また、この詩を読む全ての人に対し、断言する。
 
詩篇55:22 あなたの荷を主にゆだねよ。主はあなたをささえられる。主は正しい人の動かされるのを決してゆるされない。
55:23 しかし主よ、あなたは彼らを/滅びの穴に投げ入れられます。血を流す者と欺く者とは/おのが日の半ばも生きながらえることはできません。しかしわたしはあなたに寄り頼みます。
 
ダビデは、血を流す者と欺く者とは、そのいのちの日の半ばも生きながらえられない、と宣言した。
いのちの日は、それぞれ、神によって量り与えられている。
敢えて血を流す者、欺く者は、もし80年の命が量り与えられていたとしても、40年も生きる事ができないようにされるのだ。
 
この詩篇は最初、子供が親に泣きつく「泣き言」のような祈りで始まったが、しかし最後は凛々しい信仰告白と宣言で終わった。
前知識が無い人が詩篇を見ると、ダビデという人物は、いつも泣いて呻いて神に祈っていて、ずいぶん弱々しいのかな、と思われそうだが、サムエル記におけるダビデの勇士然とした有様と、また彼の英雄的な行動は、主と彼との親密な交わりの中に秘訣がある。
私達も、主の前では幼子のように親しく交わり、何かあったら何でも主の前に泣きつき、そうして主から慰めと力を得たなら、凛々しく世に立って出ていき、勇士となり勝利し、英雄となって行くのである。

 

詩篇 講解説教
主の御名の力(詩篇54篇)
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詩篇54篇表題「聖歌隊の指揮者によって琴をもってうたわせたダビデのマスキールの歌。これはジフびとがサウルにきて、「ダビデはわれらのうちに隠れている」と言った時によんだもの」
 
この表題の出来事は、1サムエル記23:19-29である。
ダビデがサウル王に追われていた時、ダビデが隠れている場所を、ジフ人がサウルに告げ口した。
それでサウル王は喜んで、ジフ人に言った。
「あなたがたはわたしに同情を寄せてくれたのです。どうぞ主があなたがたを祝福されるように。」(1サムエル記23:21)
 
ジフ人は、ダビデを差し出す事によって、時の権力者・サウルに気に入られ、地位なり富なりを得たかったのだろう。
対してダビデは、誰から救いを得ようとしたか。
 
詩篇54:1 神よ、み名によってわたしを救い、み力によってわたしをさばいてください。
54:2 神よ、わたしの祈をきき、わが口の言葉に耳を傾けてください。
 
ダビデは、まず神を呼び求め、「御名」によって救って下さい、と祈った。
この詩篇54篇は、最初と最後(1節と6節)が、「御名」によってサンドイッチされており、その間に「神は」「主は」と、主のご性質を宣言しており、全体を通して、神の「御名」による救いが主題となっている。
 
名。
それは、その相手を識別し、相手の身元を明らかにするものであり、相手の本質を表していることばである。
ダビデはそれを宣言し、主はいかなるお方であるのかを表明して行く。
 
54:3 高ぶる者がわたしに逆らって起り、あらぶる者がわたしのいのちを求めています。彼らは神をおのが前に置くことをしません。〔セラ
 
「高ぶる者」と訳された語ザールは「ほかの者」「異邦人」とも訳せ、特に、主の民を迫害する者、神を否定する者の事である。
ジフ人は、サウル王が主の祭司たちを虐殺したり、明らかに主の御旨に逆らう事をして来たにもかかわらず、サウルに媚びて、ダビデを売り渡そうとした。
彼らは、サウルを拠り所としたが、それに対し、ダビデは主を拠り所として宣言した。
一体どちらがいのちを長らえ、栄えるか。主はダビデに軍配をあげた事を、歴史は証明している。
 
ダビデはここで「セラ」を宣言した。
「セラ」は、雰囲気を変えなさい、転調しなさい、休みなさい、という意味で、今までは受身的・防御的な内容だったのが、ここからは積極的・攻撃的に変わる。
 
詩篇54:4 見よ、神はわが助けぬし、主はわがいのちを守られるかたです。
 
ダビデは、神は助け主、と告白したが、それはイエス・キリストによって成就した。
イエス、ヘブライ語ではイエシュア、その名の意味は「主は救い」、そのヘブライ語は「ישוע」(ユッド、シン、ヴァヴ、アイン)であるが、「ユッド」は「手」の意味、「シン」は「聖なる」あるいは「破壊された」、「ヴァヴ」は「釘」、「アイン」は「目」、の意味がある。
これをつなげると、聖なる、破壊された御方の、手の釘を、その目で見よ、という意味になる。
だから私達が「イエスよ」と呼び求める時、イエス様の十字架の贖いを見据え、救いを求めているのである。
だから、イエス様の御名の中に、この詩篇54:1-4でダビデが宣言し求めた内容は、全部、含まれているのである。
 
イエス様は言った。
ヨハネ14:13 わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。
14:14 何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。
 
だから私達は、イエス様の御名によって、大胆に父なる神様に求める事が出来る。
『その日には、あなたがたがわたしに問うことは、何もないであろう。よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう。今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう。』(ヨハネ16:23-24)
 
詩篇54:5 神はわたしのあだに災をもって報いられるでしょう。あなたのまことをもって彼らを滅ぼしてください。
 
主の真実、それは、神を恐れぬ者、主の民を迫害する者に、力強い御腕で報いを与える。
 
54:6 わたしは喜んであなたにいけにえをささげます。主よ、わたしはみ名に感謝します。これはよい事だからです。
54:7 あなたはすべての悩みからわたしを救い、わたしの目に敵の敗北を見させられたからです。
 
ダビデは最後に、御名をもって、感謝をもって結んだ。
そして、敵の敗北を宣言した。
 
私達は祈る時、イエス様の御名によって、祈りを閉じるが、御名を単なる「閉じ言葉」にしていないだろうか。
私達はいつでも御名を呼び求め、積極的に御名によって宣言すべきである。
そうするなら、御名に込められた力強い力が私達のうちに現れるのだ。

 

主日礼拝

正しいひきこもり生活の過ごし方(ガラテヤ5:13-26)

第一礼拝 Youtube動画

賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 

 現在、コロナウイルスのために、今まで普通にしていた事業や学校生活が出来ず、先が見えない状況だ。
そんな中にあっても私達キリスト者には、主イエス・キリストと御言葉にあって希望がある。私達はこの時期、与えられた時間をどのように有効活用して、時代の有力者へ飛躍して行けるか、ガラテヤ書から学びたい。
 
 パウロは言う。与えられた自由は肉の働く機会とせず、愛をもって互に仕え合いなさいと。(ガラテヤ5:13)
愛をもって仕え合う相手は、まず、家の中の目の前にいる夫や妻、子供、親である。『律法の全体は「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。』(14節) 彼らが健やかになるよう仕え、時に戒め、共にいのちの喜びを増し加えて行くのだ。もし互いにかみ合ったり食い合ったりしているなら、互いに滅ぼされてしまう(15節)。もし家族が噛み合う相手なら、この時勢どれほど辛いだろう。
 さらにパウロは言う。『私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。』(16節) 生まれつきの人間は「肉(サルクス)」の存在である。「肉」とは、神を除外した人間的な考え方・肉体的な力を行うもので、そこには、罪の棘が刺さっており、罪に傾く性質がある。
 このようなご時勢、世の中では、持て余した時間を、映画や動画、漫画やゲームなどに投じる人が多い。
それらはインターネットから、幾らでも観たり遊んだり出来るが、それらは御霊ではなく肉を刺激するものが多い。事実、人気と言われる番組やゲームは、19-21節に記されている性質を「売り」にしている事が多い。
『不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のもの』(19-21節) 人には罪のとげが刺さっているため、どうしても不品行や好色、魔術や魔法、妬みや憤り、戦闘意欲を駆り立てる系統のテーマや話題に、惹き込まれる性質があるからだ。
 「偶像」を表すヘブライ語の一つに、「エリィル」がある。エリィルは偶像の他に「空しいもの」「意味の無いもの」、特に、占い師が作った実体的な意味が無い、空しいものを現す。仮想世界の映像やゲームは、視覚・聴覚などあらゆる感覚に訴え、夢中にさせ、それに時間、お金、エネルギーを費やさせ、神の似姿である人の尊い霊性と人生の時間を奪っていく。まさにエリィルだ。それらの映像や物語という「偶像」に浸り切っていると、神が創造してもいない魔物や架空の能力、架空の恐怖や架空の快楽を夢想するようになる。
 それは「肉」にとっては非常に心地よく、どんどん霊的な感覚や健全性や、真理の感覚がすたれて行くのみならず、肉体的・精神的にも不健全になり、社会性や、コミュニケーション力、思考力、生きる意欲がどんどん萎えて行く。そして、現実世界の、目の前の愛し仕えるべき家族や伴侶が、つまらなくてうっとおしい存在となり、罵声を浴びせたり、攻撃したりするようになってしまう。サウル王がまさにそうだった。
 サウル王は、健全な主の言葉に耳を傾けず、気分に流されるまま、「妬み」「怒り」「殺意」など悪霊好みの言葉をいつも思い巡らしたため、悪霊に憑かれ、常に刃物を持ち歩くようになり、自分の思い通りに行かないと、ダビデであろうとヨナタンであろうと槍を投げつけていた。それで自分の身を滅ぼしてしまった。
 私達の「思い」は、常時、何かの「言葉」が電光掲示板のように流れている。その思い巡らす言葉の内容を、管理し、支配すべきだ。なぜなら私達は、内外に流れる「ことば」に影響を受けながら「人となり」が形成されて行くからだ。こうした思いが思考パターン化してしまった「要塞」は、普通なら到底太刀打ちできない。
 
 もし、そうした「要塞」が構築されてしまった場合、それを打ち破る効果的な武器がある。その武器とはキリストへの服従である。自分の理屈や計算を破り、神の知恵に逆らって立つあらゆる高慢を打ち壊し、全てのはかりごとや所存をイエスの名によって「逮捕」し、キリストに服従させ、その服従が完全になった時、要塞をも破る大砲の玉が込められ、全て不従順なものが処罰される準備が整うのである。(2コリント10:3-6)
 ただ、服従には骨が折れる。一番ラクな方法は、御言葉をそのまま暗記し体質化する「テフィリン」である。
 御霊の剣である神の言葉が入り、体質化すると、肉への攻撃も防御も全自動となる。御心にかなった健全な方法を選択し行う事と、罪と滅びの性質を避ける事が、思考パターン化・行動パターン化するからだ。
そうなると、22節以降に記されている御霊の実(愛、喜び、平安など)を結んで行くのも、自動化される。
だからこの時期こそ、テフィリンをして、将来に向けて知恵と洞察力と人間力、霊性を磨いて行くべきだ。
 肉に興じて、ラクな”時間つぶし”をしている人が多い中、家族に愛をもって仕え、御霊に従って歩み、時の有力者を目指して、ぐんぐん成長する皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

 早天礼拝

御霊が来るとどうなるか(ヨハネ16:1-16)

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 早天礼拝

邪悪な時代に染まらず栄光の次世代を残すために(エレミヤ35章)

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主日礼拝
主の民は、主の御名にふさわしく生きよ(黙示録3:8-11)
第一礼拝 Youtube動画
賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
週報/メッセージ(説教)概要

 現在、コロナウイルス感染症緊急事態宣言が、全国都道府県にも拡大され、平和に生きてきた私達は、今まで体験した事の無い時代に突入している。今、全世界が、特に政府や指導者が、試されている。
この時代を私達キリスト者は、いかに無事に乗り切って行くべきか。その秘訣は、主の御名にある。
 
 主は「忠実また真実」と呼ばれる方であり、その名は「神のことば」と呼ばれ、その着物にも、ももにも、「王の王、主の主」という名が書かれている(黙示録19:11-16)。もしこの時期、忠実さ・真実さを捨て去って、嘘で塗り固めたり、事実とは違ったふりをしたり、現実的でないロマンを押しつけたり、怠慢や不真実な対応で乗り切ろうとするなら、コロナは無慈悲なまでに襲いかかって来る。これは誰に対しても同じである。
 主は言われる。たとえ小さな力しかなくても、忍耐してわたしの言葉を守り、わたしの名を否まないなら、地上に住む者達を試みるために、全世界に来ている試練の時に、あなたを守ろう、と。(黙示録3:8-10)
 主の民は、主の御名にふさわしく生きるべきであり、そこに留まるために、忠実と忍耐が求められている。
 
 主ジェホバの呼び名は、聖書全体では81種類も登場すると言われる(ジェホバ・ジレ、ジェホバ・シャンマ等)。それらを代表する8種類の呼び名が、実は、詩篇23篇に隠されている。
1,「主はわたしの牧者」(1節a) ヘブライ語では「ジェホバ・ロイ」、羊飼いである主の御名が表現されている。私達が主が羊飼いである事を否まず、あくまでそれを認めるなら、以下の特典が私達へついて来る。
2,「わたしには乏しいことがない」(1 節b)。ここには「ジェホバ・イルエ」という主の御名が隠されている。
この御名が登場するのは創世記22:14で、「主の山には備えあり」として有名であるが、正しくは「ジェホバ(主)+ラアー(見つめるの未完成形)」、「主は今なおずっと見つめ続けておられる」である。主は見つめておられる。主は確かに必要なものを備えて下さるが、それは人の欲する最善ではなく、「主の最善」である。
3,「主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいの水際に伴われる」(2節)。ここには「ジェホバ・シャローム(主は平安)」という主の御名が隠されている。それが示されたのは、部族の中で最も小さく、弱く、臆病だったギデオンに対し、彼を大勇士にして下さった場面においてである(士師記6:24)。イエス様も、恐れ隠れている弟子達に現れ、平安(シャローム)があなた方にあるように、と宣言し、その手とわき腹を示された。
4,「主はわたしの魂をいきかえらせ」(3節) ここには「ジェホバ・ロフェ」すなわち「癒し主」という御名が隠されている。『あなたが、もしあなたの神、主の声に良く聞き従い、その目に正しいと見られることを行い、その戒めに耳を傾け、すべての定めを守るならば、わたしは、かつてエジプト人に下した病を一つもあなたに下さないであろう。わたしは主であって、あなたを癒やす者(ロフェ)である。』(出エジプト記15:25-26)
5,「み名のためにわたしを正しい道に導かれる。」(3節) ここには、「ジェホバ・チヅケヌ(義なる主 エレミヤ23:6)」の御名が隠されている。主が人を立て直す順番は、最初に「たましいを生き返らせ」、次に「義の道に導かれる」であり、主が人を義とする理由は、ただ「主ご自身の御名のために」である。
6,「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。」(4節) ここに隠されている御名は「ジェホバ・ニシ」、「主はわが旗」(出エジプト記17:8-15)という意味である。その箇所では、モーセが手を上げて祈り、勝利をもたらした。同じように、私達が手を上げて祈る事は、主の旗を掲げる事なのである。
7,「あなたがわたしと共におられるからです」(4節) ここには「ジェホバ・シャンマ」、すなわち「共におられる主」(エゼキエル48:35)の御名が隠されている。イエス様は、インマヌエル(主が共におられる)であられる。
8,「あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる」(5節) 
ここには「ジェホバ・メカディシケム(聖別する主 出エジプト記31:13)」という御名が込められている。主は、敵の面前で油を注いで聖別し、任職して下さる。そして主は、敵の面前で、宴会を設けてくださる。
 
 以上は、主のご性質を表す御名の、ほんの一部である。私達がこの時代、主の御名を否まず、忍耐して主の言葉を守るなら、既に来ている全世界の試練の時、主に守られ、主から栄誉を頂く事ができる。
この素晴らしい御名という冠を、誰にも奪われないようしっかりと持ち、勝利を得る者として、主の御名と、新しいエルサレムの名が書き記される皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
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