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メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

平安であれ!それが主があなたに望んでおられる事(ヨハネ16:33) 早天祈祷会 2026年2月2日(Mon)

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【概要】

イエス様が弟子たちに与えた平安(シャローム)について、ヨハネの福音書を通して学びます。世には艱難があるが、イエス様がすでに世に勝利されたので、私たちは勇敢でいることができ、その平安のうちに世へ遣わされていくのです。

【聖書箇所】

  • ヨハネ16:33

  • ヨハネ14:27

  • ヨハネ20:19-23

【励ましの言葉】

イエス様を信じた時、すでにイエス様が私たちのうちにいます。イエス様にとどまり続ける限り、決してこの平安は奪われることはありません。世のどんなものも、この平安を揺るがすことはできないのです。

【勧めの言葉】

聖霊を受けた上で世に遣わされていくべきです。イエス様の平安シャロームのうちに世に出て行く時、私たちは魂を獲得することができます。イエス様を住まわせ、主の働きをしていきましょう。

【***AIによる文字起こし***】

今朝、恵みをいただく御言葉は、ヨハネによる福音書16章33節です。皆さんで一斉に宣言したいと思います。

ヨハネ16:33

「私がこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたが私にあって平安を持つためです。あなた方は世にあっては艱難があります。しかし、勇敢でありなさい。私はすでに世に勝ったのです。」

シャローム、シャローム。これがイエス様が皆さんに与えたいものなんですね。皆さんが平安シャロームであることを主は求めておられるんです。シャローム、それは完全な状態であるということですね。ユダヤ人の挨拶言葉になっております。

なぜユダヤ人はこれが挨拶言葉になっていたか。これはユダヤ人はずっとずっと迫害の歴史をしてきたからですね。本当に多くの人々から迫害されてきました。その中において、本当にいつ命が取られるかわからないような、そういう状況の中において、今日もまたあなたは無事ですかね。あなたは特に健康や、また体が損なわれていないですかね。それがこの挨拶言葉になったんですね。

イエス様が皆さんに求めておられること、これがこの平安シャロームだということを、今日の箇所を見ることができるんです。イエス様は「私がこれらのことをあなた方に話したのは」とおっしゃいます。これは最後の晩餐の場面です。もう弟子たちとイエス様、三年半ずっと一緒に暮らしてきました。寝食共にし、そして養いをイエス様から直接受けてきました。時にはイエス様から叱責もいただきましたね。なんて信仰が弱いものよ、小さいものだと。

そしていよいよイエス様のその十字架の前の晩、ヨハネの福音書において結構長いメッセージを、イエス様はその前の晩、弟子たちに対してしておられます。そしてイエス様がその最後の晩餐の中において繰り返し語られた言葉が、そのキーワードがシャローム、平安なんですね。

私がこれらのことをあなた方に話したのは、イエス様は御言葉を皆さんに語っておられます。皆さんも今までの人生、多くのイエス様からの言葉をいただいてきたことでしょう。それでもこの時、弟子たちは不安があったんですね。イエス様と三年半もずっと一緒、ずっとイエス様のお言葉を耳に聞いてきたけれども、それでも不安になるということがあります。

皆さんもクリスチャン生活何年してきたか。教会に何年帰ってきたか、皆さんそれぞれですね。けれども、なお日ごと不安がのしかかる、そういった材料が世の中にたくさんあるんです。でもイエス様はおっしゃいます。私がこれらのことをあなた方に話したのは、聖書の言葉、皆さんがずっとずっと読み続け、また多くの養いを受け続けてきたのは、それはあなた方が私にあって、イエス様にあって平安を持つためですね。

皆さんに平安になってほしいから、御言葉が皆さんに示されました。聖書というものが世の中に存在するのは、皆さんが平安を持つためであり、そして皆さんがイエス様を知り、イエス様へと帰り、そしてやがては天国において完全なものになる。それを主が皆さんに願っておられるから。だから神の御言葉、聖書は皆さんに平安シャロームを与えるものです。

イエス様が続けるのは、あなた方は世にあっては艱難があります。ですから、皆さんの世の中において艱難がもう一切なくなるための福音ではないんですね。世の中には相変わらず艱難があります。皆さん、世に出ていかなくてはなりません。働かなくてはなりませんし、そして世に出て行ってイエス様を知らない人々に、このイエス様の平安を伝えていかなくてはなりません。

だから、まず皆さん自身がイエス様にあって平安を保ちなさいということがここで示されております。あなた方は世にあっては艱難があります。しかし、勇敢でありなさい。

勇敢であるためには根拠が必要ですね。皆さんが何か力強く武装しているのであるならば、剣を持っているのであるならば勇敢になれるかというと、クリスチャンとしてはそうではないですね。皆さんにとっての、その勇敢である根拠。それはイエス様がここに書いておっしゃっています。最後のところで、私はすでに世に勝ったのです。

皆さんのうちにいますお方が、もうすでに世に勝った。皆さんのうちにもうすでに世に勝ったお方がいるのだから、だから勇敢でありなさいということです。

昨日、メッセージにおいて、迫害の下にあるクリスチャンたちのお話をしましたね。彼ら、コロシアムの中に引きずり出されていた彼ら、不安があったことでしょう。けれども、イエスキリストがうちにいますということに目覚めたクリスチャンたちは心が安らかであり、そして目の前にライオンがいたとしても、もうこれからこのライオンによって殺されるとしても、しかし彼らは賛美をしておりました。歴史書に書いてあるんですね。

『クオ・ヴァディス・ドミニ』という映画があるんですけども、最初に作られたものと、それをカバーした、より長い長編の映画があるんです。おすすめするのは初めに作られた方の方ですね。そちらの方がよりこのイエス様が身近に感じられる、そういう映画です。

私たちの平安の元は、なんか偉大なアクションで、力ずくで平安を勝ち取るものではなく、皆さんのうちにいます、イエス様、すでに世に勝利したイエス様。死も命も御使いも、今あるものも、後に来るものも、この世のどんなものも、高さも深さも、この世のどんな被造物も、これ決して及ぶことがないイエス様。イエス様が皆さんのうちにいます。イエス様を信じた時、もうすでにイエス様が皆さんのうちにいまして、そして決して皆さんを揺るがすことがないんです。

この『クオ・ヴァディス』という映画の中において、聖徒たちがそのコロシアムの中に引きずり出されます。群衆たち、その周りの観客席で見ている安全な立場に高みの見物して、それで人がライオンに食い殺されるというのをエンターテインメントとして見ている。そういう群衆の歓声の中で、クリスチャンがグラウンドに投げ出されております。みんな震えております。怖がっております。

でもそこに使徒ペテロが来るんですね。使徒ペテロが、周りのクリスチャンたちから、もうどうぞローマから離れてください。あなたは一番狙われていますからということで、ペテロはローマから離れていっていく。その道すがら、ペテロはイエス様に出会うんですね。ペテロはローマから離れる方向の道を進んでいきます。でも、その向こうの方から人が近づいてきて、ローマの方に行くんです。その人をよく見ると、ペテロがよく見ると、それはなんとイエス様でした。

イエス様、あなたは主よ、あなたはどこに行かれるのですか。主よ、あなたはどこに行かれるのですか。これのラテン語が「クオ・ヴァディス・ドミニ」ですね。主よ、あなたはどこに行かれるんですか。イエス様が答えます。ローマにおいて私の聖徒たちが苦しんでいる。だから私が行くのだ。そしてもう一度十字架にかかって苦しみを受ける。そういうことを幻の中でイエス様が語られたということで、それでペテロがハッとして。ああ、私は逃げている場合ではない。ローマに行かなくてはと。

そしてローマに戻って、そしてそのローマのそのコロシアムの中において、本当にこれから処刑されようとしている、本当に観衆のその嘲笑いの中で怖がっている聖徒たち、彼らに対して観客席の方に立って、ペテロの声が響くんです。そしたら観客席のみんなは、ペテロを見て、ペテロのその話を聞いて、心安らかになって、みんな賛美を始めるんですね。そういう場面がありました。ペテロ、その時、捕まえられて、そして結局、逆さ十字架の刑に処されてしまうんですけども、このように、心の中にイエス様が思い浮かばされた時、たとえどんな嘲笑いの群衆の中にあったとしても、たとえ目の前にライオンがいたとしても、どんな艱難の中にあったとしても、心安らかで、そしてイエス様がいらっしゃる天国、安息の地に行くんですね。

その当時のローマ皇帝はネロという皇帝でしたけども、その皇帝ネロが、このクリスチャンたちの有様を見て、またクリスチャンたちがライオンに殺された死体、その一人一人の顔を見て、クリスチャンたちが笑いながら、笑顔で死んでいるその様をネロが見て、むしろもう震えおののいている。ネロは確かに権力が、権威がありますけれども、しかし、どんな権威を持ったとしても、どんなお金持ちになったとしても、決して得られない平安というものがあります。真の平安は、このイエスキリスト、このお方から来るんです。

冒頭で宣言したのはヨハネの14章27節なんです。同じヨハネの福音書ですので、皆さん開きたいと思います。ヨハネ14章27節では、みんなで一緒に宣言します。

ヨハネ14:27

「私はあなた方に平安を残します。私はあなた方に私の平安を与えます。私があなた方に与えるのは、世が与えるのとは違います。あなた方は心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」

人生のどんな時においても、決して変わらない平安。この節でイエス様が2回も繰り返しますね。あなた方に平安を残します、あなた方に私の平安を与えますと。

イエス様が与えてくださる平安、それは世が与える平安とは違います。人がどんなにお金を得ても、またどんなに権力を得ても、皇帝ネロのような立ち位置になったとしても得られない平安をクリスチャンたちは持っているんです。だから世は恐れるんです。そして世の権力は、このイエス様の平安にチャレンジするんですね。挑戦して、なんとかしてクリスチャンから平安を取り除いてやろうと言って。それでもう、あらゆる妨害をしてくるんですけど、しかし、イエス様にとどまり続ける限りでは、決してこの平安は奪うことができないんです。

あの殉教の聖徒たちのように、また今この時代の皆さんにおいてもそうです。皆さんがイエス様に向くのであるならば、決してその平安は奪われることはないんです。悪魔サタンは皆さんを脅してきます。世は皆さんを脅してきます。皆さんからなんとかして、その平安を覗き去ってやりたいと妬んで歯ぎしりして、世がいろんな妨害、あるいは悪霊、悪魔サタンが皆さんの心の中に囁きかけて、なんとかしてかき乱そう、イエス様から引き離そうとしてくる時、皆さんは、それに対して皆さんの力技では対抗できません。

イエス様にとどまり続けること。何かを、皆さんが力を持って征服するものではない。皆さんの内にいます、もうすでに世に勝ったお方、イエス様にとどまり続けること。これが平安がかき乱されないというコツです。

もう一箇所、ヨハネの福音書20章を今度は開いてください。ヨハネの20章の19節、20章の19節を皆さんと一緒に宣言したいと思います。では、ヨハネの20章の19節。

ヨハネ20:19

「その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸が閉めてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。平安があなた方にあるように。」

イエス様は十字架の後も真っ先に弟子たちに言った言葉が、平安があなた方にあるようにでしたね。イエス様は十字架の前も、十字架の後も平安があなた方にあるようにということを繰り返し強調されておられます。

平安の根拠は20節に書いてあるんです。20節も皆さんで一緒に宣言しましょう。

ヨハネ20:20

「こう言って、イエスはその手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。」

平安の根拠、それはイエス様の十字架の釘跡です。イエス様が十字架で皆さんの身代わりになって、罪を処罰してくださった。皆さんの身代わりになって、罰を受けてくださった。そして復活してくださったその十字架の釘跡。これが皆さんにとっての平安の根拠です。弟子たちは主を見て喜んだと書いてあります。確かにイエス様は十字架にかかったんだ。あの3日前の出来事は夢幻ではなかった。

多くの無神論者たちは、イエス様という人物がいたかもしれないけれども、十字架で死んだんだとか、あるいは実は十字架、誰か別のものが身代わりになって、そしてイエス様が復活したかのように見せてるんだとか、そういった人間のなんか小賢しい理解、落とし込めるようなね、そういう聖書とは違うことが実はあったんだって言ってくるんですけども、こういった小賢しい、そういった議論に皆さんはかき乱されてはなりません。

聖書の御言葉が真実であり、イエス様が真実であり、そしてイエス様が皆さんの内にいます時に、世のものならぬ平安で満たされる。だから歴史を見ますに、本当にクリスチャン、日本でも殉教者、たくさん出てきましたけれども、本当に日本の迫害厳しかったです。本当にねちっこかったですね。簀巻きにして海に投げたりとか、また、もう逆さ釣りにして、ずっと水の滴りを受けさせるとか。九州の、あの熱い熱い温泉、あの、まあ地獄谷というところ、行ったことあるんですけども、本当にもう硫黄の匂いがして、煙が吹き上げて、その地獄のような熱湯をクリスチャンにかけてかけて。そしてね、さあ、もうキリストを呪え、キリストを捨てろ。そしたらこういうこともしなくなって済むぞって、それでも決してキリストを捨てなかった、そういう人たち、なんででしょうね。

イエス様は生きておられるんです。皆さんの内にイエス様がいますならば、世のものならぬ平安に満たされて、たとえ艱難があるとしても、それでもこの平安の源であられるイエス様を捨てるなんて、もうとんでもない。そんなことできないというふうになってしまうんですね。皆さん、イエス様を住まわせてください。艱難が皆さんに襲いかかる時、イエス様を招き入れてください。そうするならば、世の何物にもまさる平安が皆さんにとどまるでしょう。そして皆さんのうちに平安がとどまるのであるならば、皆さん、働きに出て行くべきです。

21節から23節までをみんなで一緒に宣言します。

ヨハネ20:21-23

「イエスはもう一度彼らに言われた。平安があなた方にあるように。父が私を遣わしたように、私もあなた方を遣わします。そしてこう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。聖霊を受けなさい。あなた方が誰かの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。あなた方が誰かの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」

イエス様は繰り返し言われました。もう一度言われました。平安があなた方にあるように。そしてイエス様が託したのは働きです。世に遣わすということです。父が私を遣わしたように、私もあなたがたを遣わします。ただ単に遣わすんじゃないんです。イエス様は息を吹きかけた上で遣わすんです。聖霊を受けなさいと言って、イエス様の息、聖霊の息吹き。これを受けて遣わされていく。

だからペテロはあのローマの聖徒たちを励ましに、彼らに平安を持っていくために、ペテロはローマに行くことができました。皆さんも聖霊を受けた上で世に遣わされていくべきです。聖霊抜きで伝道に行っても虚しい目に遭うだけです。イエス様の聖霊を身に帯びて、イエス様の平安シャロームのうちに世に出て行く時、皆さんは獲得することができるんです。魂を、命を。

今、私たちもこの世の中に遣わされていく時間がやってきます。その中において皆さん、イエス様を住まわせてください。イエス様の平安に満たされ、聖霊の息吹を受けて、そして主の働きをしていきましょう。それならば、世の何者にも勝る平安のうちに、イエス様と共に働き、イエス様と共に勝利し、イエス様と共に勝ち得て余りある祝福を得ていくことができます。イエス様にあって歩んでいく時に、この幸いにあずかることができます。

【結論】

イエス様が私たちに与えてくださる平安シャロームは、世が与えるものとは全く違います。それは、イエス様がすでに世に勝利されたという事実に基づく、決して揺るがされることのない完全な平安です。十字架の釘跡がその根拠であり、イエス様が私たちの内にいてくださることが、どんな艱難の中にあっても勇敢でいられる理由です。この平安を受けた私たちは、聖霊の息吹を受けて世に遣わされ、イエス様と共に働き、勝利する者とされるのです。

 

主日礼拝

必ず勝利して輝くキリスト - まことの光(ヨハネ1:5)

第一礼拝 Youtube動画

English Service Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 今月の御言葉 ヨハネ1:5


 イエス様が十字架にかかり、復活し、天に昇られた後、弟子たちは世界に出て行って福音を伝えました。

しかし、すぐに迫害の時代が始まります。実は初代のキリスト者たちのシンボルは、十字架ではありませんでした。 何だったでしょうか?それが、丸の中に、交差する二つの文字、「Χ(キー)」と「Ρ(ロー)」です。

それはギリシャ語で「キリスト」と書くときの最初の二文字で、この印は「キー・ロー」と呼ばれております。

なぜ十字架ではなく、この印だったのでしょうか? それは、この印が、命がけの信仰告白だったからです。


 今から1700年以上前、ローマ帝国の時代。イエス・キリストを信じるということは、捕まり、

 殺されることを意味していました。信仰が知られれば、コロシアムに連れて行かれ、

 大勢の人の前で見世物にされ、ライオンに食い殺されたり、火で焼かれたり、十字架につけられたりしました。 ですから彼らは、太陽の下で、公に礼拝することができませんでした。

 彼らが集まったのは、カタコンベと呼ばれる地下の墓所です。暗く湿っていて、死者が葬られている場所。

なぜ、そこが礼拝の場所だったと分かるのでしょうか。それは、カタコンベの遺跡から、たくさんのこの印が発掘されているからです。 2世紀の私達の信仰の先祖たちは、この印によって、密かに「私はキリストのものです」と、互いに告白しました。 そしてその印の下で、小さな声で祈り、小さな声で賛美しました。

そこでは、いつも悲しい知らせがあります。 「仲間が捕まった」「家族が連れて行かれた」

そのたびに彼らは祈ります。「どうか、助けてください」「もし助からなくても、どうか、平安を与えてください」


すると、不思議なことが起こりました。コロシアムで殺されていく人々は、恐怖ではなく、平安に満ちていたのです。まるでこれから天国に行くかのように。まるで、目の前にイエス様がおられるかのように。。。

 

「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。

 

わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。

 

あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27

歴史は語っています。その様子を見たローマ皇帝たちは、ますます恐れ、迫害をさらに激しくしました。

しかし同時に、それを見て、かえってイエス・キリストを信じる人々も起こされていったのです。

 

闇は、光を、消そうとしました。でも、決してキリストという光を、消せませんでした!

 一世代、また一世代。長い長い年月が過ぎて行き、祈りは、地の底から、天へと積み上げられていきます。

そして、ついに、神様が動かれる時が来ました。


 西暦312年。ローマ北方、ミルウィウス橋の戦いです。将軍コンスタンティヌスは、圧倒的に不利な状況でした。自軍は約4万、敵は約10万です。 そんな戦いの直前、彼は、空に輝く光を見ました。その光はなんと、この、キー・ローの印でした。そして、こう示されたのです。「この印によって勝て!」 それで彼は兵士たちに命じます。「兵士たちよ、自分の盾に、この印を刻め!

 

 それまで、地下の暗闇の中、ずっと信仰者たちが隠れて信仰を表明続けていたあの印が、なんと、太陽の下、無数の兵士たちの盾に刻まれ、掲げられたのです

 

 戦いの結果は、歴史が伝えています。数で勝っていた敵は混乱し、皇帝は川に落ちて命を落としました。この勝利の翌年、313年。 コンスタンティヌスは、「ミラノ勅令」を出します。すなわち、キリスト教を禁じていた法律は取り消され、信仰は公に認められたのでした!

地下のカタコンベの暗闇から、地上の光の中へ。聖書のことばが、歴史の中で現実となったのです。

 

「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった!」  こうして、地上に出た信仰の先祖たちは、ようやく、誰にもはばかることなく、喜び勇んで大声で賛美し、大声で祈ることができるようになったのでした。


 私たちの人生にも、暗闇のような時があります。迫害の時もあります。でも、忘れないでください。

 

光であられるイエス様は今も生きておられ、闇は決して長くは続かず、必ず光が勝利する、という事を

この主に信頼し続け、必ず与えられる勝利を、すぐにでも実際に体験する皆さまでありますように。

イエス様のお名前によって祝福します!

万軍の主の御名と羊飼いの道具だけを携え、巨人に向かって行くダビデ(1サムエル記17:41-47) 水曜夜礼拝

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【概要】

剣や槍を持たず、万軍の主の御名と羊飼いの道具だけを携えて巨人に立ち向かうダビデ少年。 巨人の傲慢な言葉が、彼の内に秘めた真理を呼び覚ました! これは、血肉の戦いではない。 真理が信仰と共に宣言される時、 力と口が達者な世の力は真理によって打ち砕かれ、真理が現実を飲み込んでいく。。。 真の霊的バトルが幕を開ける!

【聖書箇所】

第一サムエル17:41-47

ゼパニア3:17

【励ましの言葉】

  • 主は私たちのただ中におられる救いの勇士です

  • 主を拠り所とする者に、主は自信と勝利を与えてくださいます

  • キリスト者は主の勝利に乗っかって進むことができます

【勧めの言葉】

  • 真理を口で宣言することが霊的な戦いにおいて重要です

  • 戦いを主の戦いとして、主の御名によって立ち向かいましょう

  • 主により頼み、主にあって進みゆきましょう

【***詳細***】

今日恵みをいただく御言葉は、第一サムエル記17章41節から47節です。はじめに皆さんと共に41節と42節を宣言したいと思います。第一サムエル記17章41節から、せーの。

「そのペリシテ人も盾持ちを先に立て、ダビデの方にじりじりと進んできた。ペリシテ人はあたりを見下ろしてダビデに目を留めた時、彼を蔑んだ。ダビデが若くて紅顔の美少年だったからである。」アーメン。

愛する主よ。強者が盾を持ってじりじりと迫って、覆いかぶさってこようと、私たちを飲み込もうとしてやってくる時において、私たちは勝利の術を持っていることを感謝いたします。主よ、あなたが勝利の源なるお方、あなたが私たちの相続財産、あなたが私たちのご褒美です。イエス様、あなたを得ている私は、なんと幸いなことでしょうか。今晩、主よ、このじりじりと迫ってくる強者に対して圧倒的に勝利する術を、この御言葉から学ばせてください。どうか取り次ぐしもべの唇を、また聞く人々の耳を通り良くして、あなたの御旨、あなたの御言葉そのものを豊かに豊かにいただき尽くすことができますように。御霊よ、助け導いてください。初めから終わりまで、すべてをただイエス様の支配の御手にお委ねして、私たちの愛する主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。

ハレルヤ、シャローム、シャローム。主の御名を褒めて大賛美いたします。本当に主は勝利の主なんですね。主は今も生きて働かれます。この聖書の時代だけでなく、今まさに皆さんお一人お一人と生きて働かれる主が皆さんと関わり、皆さんを愛し、皆さんと手と手をつないで共に行こうと、そのような志を持って、主はいつでも皆さんに望んでおられるんですけども、私たちの心が主に向いていないと、主は一緒に働くことができなくて、寂しい思いをされているんですね。

今日のこの箇所において、ずっと神様は40日ずっと寂しい思いをしておられたんです。しかし、このダビデという少年、このイエス様と手と手をつないで共に歩もうとしている一人の少年が現れた時、この戦況ががらりと変わるんですね。

今日のところにおいて、いよいよこのダビデとゴリアテが面と面を向かう場面に入ったんですけども、それまで、この40日も朝晩、1日2回、合計80回、律儀にこのイスラエルをなぶりに来ていたこのゴリアテ、それがようやくダビデが立ち向かっていくんですね。

立ち向かっていく様、本当にどういう様だったでしょうか。ゴリアテとしては、もう朝晩、もう80回も同じようにイスラエルをなぶっていて、もうルーチンワーク化していたことでしょうけれども、ようやくこのゴリアテの前に1対1で戦おうという戦士がようやく現れたということをゴリアテが聞いて、ゴリアテはどういう思いをしたか、まあ、いろいろ思ったんですね。やっと現れたかっていう、まあ、そういうふうに思ったか、あるいはゴリアテとして、もしかしてちょっとした恐れが、不安がよぎったんじゃないか、そうかもしれないですね。

なにしろイスラエルの神、主は力強いお方だということは聞いていたんですけども、ずっと今まで調子に乗って、もう80回もなぶり続けていた。で、いよいよこの自分の前に立ちはだかる戦士が現れた。じゃあ、一体それはどういうものであるのか。いざゴリアテの前に、ゴリアテはこの若者を、盾持ちの若者を引き連れて、その盾持ちを前にして、ゆっくりゆっくり戦場に歩いてきました。

で、それで向こうの方から、また若者が来るんですね。しかも盾を持っておりません。若者はいるけれども、なんか屈強な戦士の姿は見えないんですね。なんか杖を持った羊飼いの姿をした若者が来て、盾も持っていない。戦士もいない。で、ゴリアテは、あたりを見回すんですね。見回して見ると、どうやらその羊飼いの姿をした少年が、なんか本気の本気顔で自分に向かって、それで自分をなんか倒す気であるかのような、そんな様子をしながら自分に向かってくるんですね。

で、それでダビデに目を留めて彼を蔑んだ。ダビデが若くて紅顔の美少年だったからであると書いてあるんですね。顔がまだ赤みが残ってる少年ですね。まあ、ダビデはこの時、まあ15歳以下だったんですね。まあ中学生ぐらいですね。まだ高校にも入っていないような、そういう年齢の美少年が真面目な顔をして、この歴戦の戦士である自分に向かって来るんです。

で、それでペリシテ人はダビデに言った。「俺は犬なのか。杖を持って向かってくるが」。ペリシテ人は自分の神々によってダビデを呪った。

このペリシテ人ゴリアテとしたら、もうなんか馬鹿にされたかのような、そういう思いだったかもしれないですね。杖を持ってくる。剣とか槍とか、なんか屈強な装備とかではなくて、このゴリアテにとっての盾持ちの少年と同じぐらいか、まあ、そんな感じの少年が杖を持って自分に向かって本気顔で向かってくる。「俺は犬なのか」って。まあ、自分で自分のことを犬呼ばわりした時点でも、このゴリアテの、そのまあ負け根性と言いますか、もう確定してるかのように見えるかもしれませんけども。

そしてペリシテ人は自分の神々によってダビデを呪ったと書いてあります。相手がもしもう余裕で倒せるような、そういう相手だと睨んだら、別にそんな神頼みしなくても、まあ、良さそうなもんですけども。しかし、なんとなくこの時、ゴリアテは嫌な予感がしたんじゃないでしょうかね。自分の神頼みと言いますか、神々の名前を出さなければ、何かやっていけないかのような、そういうところがあったのかもしれません。

こうして神々の名前を出して、それでペリシテ人はダビデに言った。「さあ、来い。お前の肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう」というふうに、そういうふうに言います。蔑むんです。また罵倒します。脅しかけてきます。

この蔑んだり、脅しかけてくる、その口達者なものが、この世の中ではより有利に立ち位置を進めていける、そういう傾向があるかもしれませんね。より口達者で、より蔑み上手で、そういう人がその場の空気を握って、そういうふうに言葉一つで支配していくかのような、世の中においては蔑み達者なものがやりくりしていくのが、うまくいくところがあるかもしれないんですけど、しかし皆さん、神の国においては蔑み達者ではなく、真理達者な人が勝利するんです。

この蔑み達者、いかに相手が、もう筋肉隆々の巨体であろうとも、いかに相手が蔑み口達者であろうとも、真理にしっかりと立って、そして真理を宣言して、真理で真理の土俵に相手を持ってくるのであるならば、皆さんはこの真理が、真理が偽りを飲み込み、真理が現実を飲み込み、そして真理が勝利する、持ってくることができるんです。

持ってこない、口を開かない、真理を宣言しないとするならば、相変わらず飲み込まれたまんま。皆さん、霊的な戦いというのは言葉による戦いですね。口を使うべきなんです。祈りにおいても賛美においても、口を開くべき時に開くべきなんです。また、敵が、こういう蔑み言葉をしてきた時も、皆さん口を開いて真理を宣言するべきなんです。真理を宣言するならば、偽りは真理に飲み込まれ、また、現実はこの真理に飲み込まれて、真理に立つ側が勝利するように、この世界はできているんです。アーメン。

この彼はゴリアテは、自分の神々によってダビデを呪ったんですけども、じゃあこのゴリアテが宣言したペリシテの神々は一体どういう神々か。ダゴンの神なんですね。体が、上半身人間の体、下半身は魚のしっぽ。それがダゴンなんですけども、もうあれですね、このサムエル記のもっと前の方の章で、ダゴン、このイスラエルの神によって、もう胴体切り離され、頭と首が切り離されておりましたね。

そのダゴンの名前によって、このゴリアテはダビデを、この神々の名によって呪って、「さあ来い、野の獣にお前の死体をくれてやろう」っていうふうに呪いの言葉でやるんですけども、もうすでにこの言葉を発した時点で、ダビデとしては、なんかその勝利の自信がメラメラと湧いてきたんじゃないでしょうか。

あ、ゴリアテは自分も神々の名前によって呪ったぞ。あのゴリアテがその名前出したその自分の神々って、あのイスラエルの神に、もう胴体切り離された、あのみっともない無力な神じゃないか。よし、これは勝てるぞっていうですね。もうこのゴリアテの口を通して、ダビデが自信を持ったんじゃないかと思われます。

皆さんも、敵と対峙する時、真理に固く立って、祈りながら、そのいざ戦いの場に進めた時、現代の戦いは槍や槍の戦いではないですね。まあ、例えば入試のための面談だとか、その採用試験だとか、その面接相手の口から、そういうなんか自信を持たせるような言葉が出るということを、私、何度か経験してるんですね。

あ、この戦いは勝てる戦いだって、なんとなく、その本人自身の口を通して、あるいはその当日の状況などなどを通して、また道が開かれないな、本当にこのままだと、家が根絶やしにされてしまうかのような、そういう思いで祈ってたら、もうなんかもう別の意外の方面から解決方法が与えられたりとかですね、そういったことも何度か経験しております。

皆さんも本当にこの真理に立つ時に、主が皆さんに、自信のない皆さんに自信を持たせてくださるような、そういうしるしや、またそういった導きをくださることがあります。主は真実なお方だからです。

戦いにおいては、いかに装備を強くしたか、力をつけたか、トレーニングを積んだか、それによって勝利するものですけども、真理の戦い、霊的な戦いというものは、背後におられる主によって勝利するものです。

ここ何度か、月曜日からずっと、このダビデとゴリアテの戦いの、そのまあ前哨戦、ずっとメッセージしてるんですけども、一貫して皆さんに言いたいこと、これは皆さんが戦う時、どなたを背後に据えるかということ。皆さん自身で戦えば負けますよということ。しかし、皆さんのうちにいます強者、皆さんのうちにいます勝利者、勇士であるイエス様にあって戦いを挑むのであるならば、皆さんは恐れる必要は全くなくなるということ。これを皆さんしっかりと学んでください。

私たちの戦いは血肉によるものではないんです。この体だとか、経験値だとか、年齢だとか、装備だとか、そうしたものによって、そうしたものに頼ってではなく、主により頼んで戦ってください。主は皆さんにとっての救いの勇士です。

ダビデはこの戦いを、イスラエルの万軍の主と、このダゴンとの戦いに持ち込みます。45節で、じゃあ皆さんと一緒に。45節ダビデになったつもりで宣言してください。45節せーの。

「ダビデはペリシテ人に言った。お前は剣と槍と投げ槍を持って私に向かってくるが、私はお前がなぶったイスラエルの陣営の神、万軍の主の御名によってお前に立ち向かうのだ。」アーメン。

皆さんが面接前だとか何か戦いの前だとか、本番の演技の前とか、そうした戦いの前にこれを宣言してくださいね。私はイスラエルの陣営の神、万軍の主の御名によってお前に立ち向かうのだ。本当に自信がつく言葉です。

ダビデはこの戦いを、イスラエルの陣営の神、主と相手の神との戦いに持っていきました。で、エリヤもそうでしたね、エリヤは。この戦い、自分一人対相手850という、そんな人海戦術的な戦いではなく、むしろ神対神の戦いに持ち込みましたね。それで勝利しました。勝利できます。

私たちの神様、強い神様です。世の中の何者よりも強い私たちの神様により頼んで、そのお方にあって進みゆくならば、皆さんの心は平安になり、そして現実が真理に飲み込まれていくんです。

キリスト者は、本当に望みがありますね。もう腕立て腹筋して鍛えることによって勝利する戦いではないこと、本当に感謝ですね。イエス様が勝利してくださった、そのイエス様がすでに勝利されたその勝利に乗っかって、それによって進みゆくんです。ジェットコースターに乗っかったら、もう超スピードでいきますね。イエス様に乗っかったら、勝利が超スピードで進んでいくんですね、私たちは。

ですから、言ってみれば、キリストのふんどしを取って相撲を取るものです。あのことわざで、虎の威を借りた狐って、皆さんご存知ですか。虎の威力を借りて、狐が、俺は強いんだぞって、そういうふうにやるんですけど、しかし中身は狐なんですね。あの虎男、なんか虎の毛皮をかぶった、そういう成りをして、俺は虎だぞなんか、そんなことしても結局中身は弱いけれども、皆さん、キリストを着たものは強いんですね。

キリストを着たキリスト者、キリストを呼び込んだキリスト者は、この世の中において平安が与えられ、また、そのキリストの導きが与えられ、キリストが具体的に勝利してくださるから、そのキリストの勝利に向かっていくことができる。アーメン、このことが可能なんです。

ダビデのそのさらなる言葉が続きますけども、では46節、次の46節をみんなで一緒に宣言します。せーの。

「今日、主はお前を私の手に渡される。私はお前を打って、お前の頭を胴体から離し、今日、ペリシテ人の陣営の屍を空の鳥、地の獣に与える。すべての国はイスラエルに神がおられることを知るであろう。」アーメン。

この節には、主、神という言葉が何度か使われました。ダビデはこの戦いを神の戦いにしました。きっとダビデとすれば、本当に、このゴリアテに対して話している間に、ゴリアテのその成り、図体を見ながら、きっと神様がビジョンとして見せてくださったんじゃないでしょうか。

このゴリアテの頭と胴体が切り離されている様を、そして本当にこのダゴン、神様が胴体と頭を切り離してくださったあの様を見て、あの様を聞いて、そして自分も今、主にあって戦うのであるならば、このゴリアテをも切り離せるって、そういうふうに思ったことでしょう。そうしてイスラエルに神がおられるということを全員が知るようになると宣言しました。

では47節、みんなと一緒に宣言します。ここで主という言葉が、まあ合計3回出てきますね。本当に皆さん、主という言葉を皆さんしっかりと念頭に置きつつ宣言してください。せーの。

「この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はお前たちを我々の手に渡される。」アーメン。

はっきりと宣言しました。「これは主の戦いだ。主はお前たちを我々の手に渡される。」アーメン。本当にこの主、主の御名によって宣言すること、これが力があるんです。皆さんが本当にこの主を拠り所としており、そして主の時、主の御旨通りに進んでいくのであるならば、主が皆さんが宣言した言葉の通り、その時に主が与えてくださるんです。

この主の栄光を皆さんがしっかりと握りしめること。主は私たちよりも主が栄光を受け取ってくださいと。本当にこの主を、主をより高くしようとする人に、主はこのようにして、この自信を与え、また実際的な勝利を与えてくださるんです。この宣言、「これは主の戦いだ」。主はまさに私たちのただ中におられる救いの勇士です。

冒頭で宣言した箇所、ゼパニア3章17節に書いてあるんですけども、「あなたの神、主はあなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びを持ってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌って、あなたのことを喜ばれる。」アーメン。

主は皆さんのことを愛しておられます。主は主により頼む皆さんのことを本当に喜び、楽しみで、主は本当にその愛によって安らぎを与える。そして主は高らかに歌って、皆さんのことを喜ばれる愛の主です。皆さんのことを本当に好き好んでおられる主です。

皆さんが本当にこの主によりどころを求めてくるのであるならば、主は本当に皆さんのことを喜び、楽しみをあります。「ようやく私を頼ってくれたか。このイスラエルの陣営の中に、ようやく私の御名を用いて勝利をもたらすものがやっと来たか」。主は本当にこのダビデがこの戦場に来たことを喜んでおられたことでしょう。

今この日本に皆さんが生まれて、そして主を信じて、主の御名を用いて、この栄光の実体を破国に育てる働き、本当に主が喜んでおられることでしょう、皆さん。本当にこの主の御名を用いて、この日本に救いをもたらしていきましょう。

この私たちもダビデのように信仰を持って宣言して、この世代、この時代、この場所、この国に主の栄光をもたらしていく皆さんでありますように、イエス様のお名前によって祝福いたします。アーメン。

【結論】

私たちの戦いは血肉によるものではなく、主の戦いです。主は私たちのただ中におられる救いの勇士であり、私たちを喜び、楽しんでくださるお方です。真理を口で宣言し、主の御名によって立ち向かう時、主は具体的な勝利を与えてくださいます。キリストを着た者、キリストに乗っかる者は、すでに勝利されたイエス様の勝利によって、この世において勝ち得て余りある者となることができます。主により頼み、主の栄光を掲げて、この時代に主の救いをもたらしていきましょう。

巨人と相対する時、サウル王の武具を不採用したダビデが採用したものとは?(第一サムエル17:38-40)水曜昼礼拝

Youtube動画

【概要】

世の常識や成功方法に縛られ身動きが取れなくなる私たちのように、ダビデもまた、彼の上司・サウル王から着せられた最上の装備に苦悩する。 この窮屈な鎧を脱ぎ捨て、真の勝利への道を見つけられるのか? 彼の決断が、神の民の40日間の屈辱の日々に終止符を打つ!

【聖書箇所】

第一サムエル17:38-40

【励ましの言葉】

  • 神様はお一人お一人に賜物と得意分野を与えておられます

  • 主との親密な交わりによって、世の強者をも打ち負かす武器を身に帯びることができます

  • 日々御言葉と御霊の流れに浸されることで、主に用いられる滑らかな石となることができます

【勧めの言葉】

  • 世の方法に窮屈さを感じるなら、一旦それを脱ぎ捨てて主に向かう時です

  • いつも主との交わりを持ち続けましょう

  • 御霊の声に敏感になり、御言葉に敏感になりましょう

【戒めの言葉】

  • 世の常識や手段に縛られて、神の国の働きで身動きが取れなくなってはいけません

  • 一度のバプテスマだけでなく、毎日毎日御言葉の水に浸し込まれる必要があります

【***AIによる文字起こし***】

今日、恵みをいただく御言葉は、第一サムエル記17章38節から40節です。最初に38節を一緒に宣言しましょう。

「サウルはダビデに自分の鎧兜をつけさせた。頭には青銅の兜をかぶらせ、身には鎧をつけさせた。」(第一サムエル17:38)

この第一サムエル記からとても恵みをいただきます。ダビデのところで、いよいよゴリアテと戦う段階になるのですが、サウル王は、これから戦うダビデに自分の鎧や兜を身につけさせるのです。

先ほど賛美しましたね。「我らの鎧は鉄でなく、我らの剣は主の福音、真実の平和を身に帯びて」と。でもサウル王の鎧を身に帯びて戦いに進み出るとなると、どうしても似合わないところがあるんです。

神の民、神のしもべというものは、この世の王様のそういう鎧、剣、それでもって戦い、霊的な戦いに進み出ようとすると、これは似合わないんですね。サウル王の鎧兜は、さぞかしイスラエルの中で一番立派な見栄えが良く、また性能が良いものだったでしょう。ダビデはそれを身につけさせられました。

39節を見ますと、「ダビデはその鎧の上に剣を帯びて、思い切って歩いてみた。慣れていなかったからである。」とあります。もう思い切ってしか歩けないんですね。歩くにしても思い切って、進むにしても思い切って。サウルの鎧を身につけていると、そういう風になってしまいました。

私たちも何かと、世の中の上等な方法、方策、世の中の王様がやるかのような、そういうビジネス手段だとか、あるいは学習方法だとか、それを身につけさせられて、「これ大切だよ」って言って身につけさせられて、でもそれを身につけさせると、思い切って出なければ歩きもしないということがあります。

仕事の手段で「やりなさい」って会社の上司から言われて、それで思い切って出なければできない。残業してもいないのに、通常の仕事で終わる時間なのに、その時間をしていると、もうただそれだけで疲れてしまうということがあるんですけども、これは神様が皆さんお一人お一人に与えてくださったタラント、賜物、得意分野、そして本当にこの神様が「しなさい」と言われる方法が本来あるにもかかわらず、それをさておきして、世の中の方法に自分を当てはめ込ませるとなると、こういう窮屈な思い、思い切ってしか歩けなくなってしまうんですね。

ダビデはそれでさらに言うんですね。「こんなものをつけては歩くこともできません。慣れていないからです。」そしてダビデはそれを脱いだとあります。ダビデはなんと、王様から賜ったこの最上の極上の鎧や剣を、「こんなものつけては歩けません」と言って脱ぎ捨ててしまった。王様から賜ったものを、なかなかできることではないかもしれないですけども、けれども、はっきりと彼は、いともあっさりとやってのけました。

皆さんもいつもあっさりやってのけると、意外と楽になって、もっと物事がスムーズに進むかもしれないですね。

このサウル王としては、常識的にこの戦いは剣や鎧による戦いだというふうに思っておりました。だから40日も罵られっぱなしだったんですね。この戦いを剣や鎧による戦いだと思っていたら、当然「勝てない、勝てない、どうしよう、どうしよう」って言って、先に進めなくなってしまうんです。

けれどもダビデは、それを慣れていないということがわかると、それを躊躇なく脱ぎ捨てました。たとえそれが王様の方法、王様の大切なものであろうとも躊躇なくやりました。

この私たちの戦い、ダビデの思っていた戦い、これは自分が立派な鎧を身につけて剣でということをダビデは思っていなかったことでしょう。そもそもそんなものを身につけたことが今まで一度もなかったし、人間の戦い、戦争というものを一度も経験したことがなかったからですね。

ダビデは普段、何によって羊飼いの野において過ごしていたか。彼はいつも主との親密な交わりによって羊飼いの野で過ごしておりました。彼は何によってライオンとか熊とか、普通の大人でも倒せないような強い敵を打ち倒すことができたか。それは、彼が普段から、この羊を大切に思って、神様を大切に思って、普段から神様との親密な交わりをしていたからです。だから、ライオンとか熊をも打ち倒すことができたんです。

ダビデの方法で、剣や鎧によってでなく、この主との交わりによって。まさにさっき賛美しましたね。「我らの戦い、血によらず、我らの戦い、霊による。我らの鎧は鉄でなく、我らの剣は主の福音。」本当にこの主との交わりの中において、世の強者、獣のような相手をも打ち負かす、この武器を身に帯びるんです。それは鉄ではありません。鎧兜でもありません。ただ、主ご自身がその都度その都度、「このようにしなさい」と教えてくれるんです。

ある時は、あのライオンを密かに追いかけなさい。あるいはある時は、今この瞬間に伏せて、ナイフをこういうふうに差し出しなさい。そういうふうに、主がその御霊に従って歩んでいるのであるならば、その都度、主が導いてくださるんです。

このゴリアテの戦いにおいても、主は、この瞬間、石を投げるという、その術をダビデに教えておられて、そしてダビデは、本当に勝手に体が動いたことでしょうね。だってゴリアテの、こんな鎧、兜、青銅の鎧、ここに隙間があって、そこにピンポイントで、動くゴリアテに石を投げる。これ、本当に神業ですね。その通り、神業だったんです。神様の業です。

いつでも主との交わりを持っているのであるならば、世の押し着せてくるもろもろ、それによって何かをしようとする、そうした仕事手順以上の、はるかに上回る勝ち方を、単独でぶっちぎりですることができるんです。いつも主との交わりを持っていましょう。アーメン。

本当に結局、神様の働きは、私たちがしようしようと思う、良い心があるかもしれなくても、それでもどうしても頭の中に世の中の常識、世の中の手段、王様的な方法に縛られて、結局いざ神の国の働きをしようとしても、身動きができなくなってしまうということが起こりがちであるとするならば、それは皆さん、「これが最善だから」「みんながこの方法をやってるから」「みんなはこの方法で成功しているから」「これ、上司が勧めた最善のやり方だから」、そういう、サウルの鎧の押し着せによって、もし窮屈だ、神の国のやり方が今まで今もってうまく進まないという、身動きが取れなくなってしまってるなと感じるのであるならば、一旦それを脱ぎ捨てて主に向かう時が来ております。

「主よ、今何かこのやり方に窮屈を感じております。これ一体何なんでしょうか。主よ、あなたが方向を示してください。あなたがしるしを示してください。」そういうふうに立ち止まって祈るべき時です。

ダビデはこの時、どうしたか。ダビデはこの鎧兜を脱ぎ捨てて、彼は、神様と一緒にいたあの羊飼いの野において、彼が普段用いていたものを持ってくるんですね。神様と一緒に過ごしていた、その一番自分に霊的にしっくりくるもの。ダビデにとっては、それは羊飼いの道具でした。

第一サムエル17:40「ダビデは自分の杖を手に取り、川から五つの滑らかな石を選んできて、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にしてあのペリシテ人に近づいた。」

ダビデは、サウルの鎧、剣兜、これを不採用通知を出して、その代わりに採用したものが、この羊飼いの道具だったんですね。本当に羊の命を守るための道具、羊をリードする道具、羊を救い出すための道具、これがダビデにとっての一番のしっくりするものだったんです。

この石、川から拾ってきたとあります。川から拾ってきた石というものは、川の流れに流されて、角が取れて、丸くなっています。こういうふうになるためには、1日2日でできることではありません。毎日毎日、この川の流れの中で流されて、川の中に浸し込まれ、ぶつかり削られ、とんがったところが削り取られて、そしてすべすべになったものです。

皆さんも主から用いられやすい人というのは、この川の石のようになった人です。すなわち、もう高ぶった高慢なとんがったところが削り取られて、また本当に自分の中にすぐにへこまされるような、そういう卑屈な、そういう凹みが、それも取れて、高い山が削り取られて、またそういう谷もそれも埋められて、そうして整えられた石のような皆さんが神様によく用いられるようになるんです。

第一ペテロに、「あなた方も生ける石として、御前に用いられなさい。」とあります。生ける石、すなわち皆さんも本当にこの御言葉の水の中に浸され続けて、御言葉の洗いで清められて。バプテスマというものは確かに浸し込むという、水の中に浸し込む、そういうものですけども、しかし、一度水に入って出てきたら、もうそれで終わりじゃないんですね。それじゃまだ角は取れておりません。

毎日毎日御言葉の水に浸し込まれて、そしてとんがったところが取られて、また聖霊の川の流れの中で聖霊に浸し込まれて、聖霊の川の流れを読み込み、そして御霊の思いを知り、そのようにして高ぶったところが除かれ、また本当に「私なんてもうどうせ」っていう、そういう卑屈なところも埋められて、そのようにして初めてこの神様の手にぴったりと収まって、そしてこの世の中のゴリアテを打ち倒すために用いられる、生ける石になっていくことができるんです。

【結論】

今、皆さん、世の中において何か重くのしかかって窮屈な様、そういう気持ちに何かあるとするならば、それが果たして神様からのものなのか、それとも世からのものかを今一度吟味する必要があります。

ダビデはもう一瞬で「こんなのじゃ身動き取れません」って言いました。本当に日ごと彼は御言葉に触れて、神様を賛美して、御霊の流れをよく察知してっていうことだったから、本当に「あ、これは御霊の方法ではないな」ってすぐに察知したら、もうそういう世の中の方法を脱ぎ捨てました。たとえ彼の上司、王様のもう上等な鎧兜であったとしても、彼はすぐに不採用しました。

そして本当に今一度、神様との親しい交わりの中で用いていた羊飼いの道具、それをダビデが持ってきて、そして本当にこの角が削られた石を持ってきました。それを採用しました。

皆さんも本当に御霊の水の流れに浸し込まれる日々を送りましょう。このような感覚は本当に毎日毎日が重要です。1日だけというものではないんです。毎日、この御言葉の水に浸され、御霊の流れに浸され、そして皆さん自身がどんどん角が取れ、谷が埋められ、主に用いられる滑らかな石となって、そして今この時代、本当に福音を阻んでいるゴリアテを打ち倒しましょう。

そして、その中に囚われている人、多くの魂たち、若者たち、子どもたちを救い出して、そしてこの時代において栄光のダビデ世代を育て上げていく皆さんでありますように、イエス様のお名前によって祝福いたします。アーメン。

ライオンや熊、巨人をも倒す人が、日頃している小さな習慣(1サムエル記17:31-37)

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【概要】

ダビデがゴリアテに立ち向かう場面を通して、私たちも主の霊が共にいるゆえに、どんな強敵にも立ち向かうことができることを学びます。肉的な力量差ではなく、内におられる主と敵との力量差を見るべきであることが語られています。

【聖書箇所】

  • 第一サムエル17:31-37(中心箇所)

  • 第一サムエル17:32-33(宣言箇所)

  • ヨハネ10:11

【励ましの言葉】

  • 主の霊が共にいるならば、ライオンも熊も、そしてゴリアテも倒すことができる

  • 小さなことに忠実な人は、やがて大きなことを任される器となる

  • 主が私たちの右にいますゆえに、私たちは揺らぐことがない

【勧めの言葉】

  • 世と戦う時は、自分のうちにいるイエス様と世を比較すべきである

  • 今任されている仕事を、どんなに小さく思えても、主から与えられた仕事として忠実に行うべきである

  • 普段から主と親密に交わり、主を拠り所とすべきである

【***詳細***】

今朝、恵みをいただく御言葉は、第一サムエル記17章31節から37節です。

まず32節と33節を一緒に宣言しましょう。

「ダビデはサウルに言った。『あの男のために誰も気を落としてはなりません。このしもべが行って、あのペリシテ人と戦いましょう。』サウルはダビデに言った。『あなたはあのペリシテ人のところへ行って、あれと戦うことはできない。あなたはまだ若いし、あれは若い時から戦士だったのだから。』」(第一サムエル17:32-33)

アーメン、ハレルヤ。愛するイエス様、あなたは私たちのうちに救いの勇士となって立ちはだかって、敵の前に立ちはだかり、また悪魔サタンの前にあなたが立ちはだかって勝ってくださり、あなたが勝利してくださる主であられることを感謝いたします。

今日も我らはあなたを拠り所といたします。あなたが我々の盾、あなたこそ我の甚だ素晴らしい優れた報酬であると、今年示されております。主よ、今日もまた、あなたが救いの勇士となって、我が魂が戦う時に、主よ、あなたが指揮者となって我らを導いてください。

主は生きておられます。生きている主は皆さんのことを見ておられ、皆さんと共にいたいと、皆さんのことを愛しておられます。救われてほしい、この世に対して勝利してほしいと願っておられるのが私たちの主ですね。ダビデの時代において生きておられ、働かれた主、奇跡を起こされ、また圧倒的な敵に勝利をさせてくださった主は、今、皆さんと共にいます。共に働かれる主です。この主に期待しましょう。

ここにまたダビデの話ですけども、ダビデはサウルに「あの男のために誰も気を落としてはなりません。このしもべが行って、あのペリシテ人と戦いましょう」と言いました。みんなが気落ちしている様を見たんです。ダビデは何度も兵士たちに「あの男を倒す者はサウルは何をくれると言ったんですか」って尋ねておりました。ということはダビデは分かったんです。この大人たちだけでなく、サウルさえも気落ちしていたんだって、あのゴリアテによって。

本当にみんなが気を落としていた。でも「誰も気を落としてはなりません」とね、「このしもべが行って」ね、「あのペリシテ人」ね、あの巨人とか、あの戦士とか言ってないですね。あの無割礼のもの、あのペリシテ人と戦いましょう、と奮い立ったんですね。本当に聖なる憤りで満ち溢れていたからですけども、でもそれに対してサウルは何をね、このこんなね、まだ顔が赤い少年が、自分の相手をわきまえないで、なんか根拠がない全能感に満たされて、なんか幼少的全能感っていうんですかね、大言を言ってるんだ、まあ、そのぐらいに思ったのかもしれないですけども。

けれども、この結局サウルが言ったのはね、ダビデがこのゴリアテと戦うことはできない。その理由は、あなたはまだ若い、経験がない、また力も筋力もない。けれども、あれはね、ゴリアテは若い時から戦士だったから、もうずっとスキルを積んで、そしてダビデぐらいの時からもうすでにダビデを上回る、そういう戦士としての訓練を受けていた。それがもう積もりに積み重なって、経験もあり、筋力もあり、ガタイもありね、その体力差、体重差もある。だから、あなたはあれと戦うことはできない。

皆さん、このように体重だとか経験だとかですね、肉体の力、そうした肉的なもので相手と自分を測るとするならば、これ勝てないになってしまうんですね、この罠は。

実はこのモーセの時代においてもイスラエルの民がしたんですね。モーセの時代、イスラエル人はあのアナク人、巨人たちを見てで、それで自分たちはイナゴのようだ。この価値観で測って、自分はあれと戦うことはできないね。自分たちは食い尽くされるね。

それに対してヨシュアとカレブは、いや、自分たちが勝つ。なぜ、自分たちのうちにいます神、このイスラエルの先祖の神がね、イスラエルのうちを歩まれる私の主があれと戦うのであるならばね、もうあれはもうイチコロだ。あの者たちが持っていた素晴らしい土地、素晴らしい町々、素晴らしい畑、それを我がものにできるんだって、もう本当に喜び勇んでですね、行ったんですね。

けれども結局イスラエルの人たちはその時、あの時代はね、このヨシュアとカレブを、石を投げようって。で、そこで主が介入して、もうこんな不信仰な世代はあの約束の地に入れないっていうことになって、それで40年という年月、ずっと荒野で過ごすことになりました。

このダビデの時代においてもサウルたち、40日も殴られっぱなしの状態でした。それはこのサウルの一言に集約されておりますね。「あれは若い時から戦士だったのに」。それに比べてあなたはね、まだ若い。こういうふうに目に見えるもの、物理的なね、筋肉だとかね、あるいは経験だとか、そうしたもので世と戦うと嘔吐すると、それならばまあ当然こういう負け思考に陥ってしまうわけですけども。

皆さん、世と戦う時はですね、皆さんのうちにいますイエス様と世を比較してください。皆さんのうちにいますイエス様はね、世のあの人、この人よりも強いですね。イエス様の方がはるかに世のあの人、この人ね、お金何億円、何兆円資産があるね。それ引き換え、私たちがね、そういったね、なんかお金だとか物量だとか物理的なものだとかで比較したら、負け根性に入ってしまいます。

皆さんが負け根性に今あるとするのであるならば、物理的なもので比較しているから、力量で経験値で比較しているからですね。ぜひ皆さん比較するんだったら、皆さんの内にいます主と相手を比較してください。するならばね、この勝利思考、もうゴリアテを倒す思考があるんですね。

ダビデは決して根拠がない全能感に浸されたからじゃなくて、根拠がありきの、この勝てるねに至ったわけですね。ダビデは何と比較したのか。ダビデのうちに、この時もね、主の霊が注がれておりました。サムエルがこのダビデに油を注いだ時ですね、主の霊が激しくダビデに下ったって書いてありますけれども、今、皆さんも主の霊が下っているんです。

実を言うと、その根拠は御言葉にあります。皆さんは誰も聖霊によるのでなければ、イエスを主とすることはできないって書いてあります。皆さん、イエスを主としてますか。なら聖書に書いてあります。聖霊によったからです。もうすでに聖霊が皆さんのうちにいるんです。このダビデの上に注がれたあの聖霊が皆さんのうちに、もうすでに注がれている。

そのうちにいます霊。さっきも賛美しましたね。御霊ともにハレルヤともに増して、もう主の霊が共にある。だから皆さんは暗き道を進みゆき、またいかにこのゴリアテが立ちはだかろうとも、でもこの主の霊にあって、皆さんは激しく、もう恐れではなく、不安でもなく、もう主の霊によって、このゴリアテに相対することができるんですね。主の霊がね、共にある。

このダビデをですね、このサウルに推薦した人も言ってるんですね。「主がこの人と共にいる」ね。「彼は勇士であり戦士で、言葉には分別があり、体格も良い人」だって前の16章の方に書いてあります。主の霊が共にある人というのは勇士であり、戦士になるんです。言葉に分別がつくんです。

自分には分別がない、そういう人はね、また知恵がない、そういう人は惜しげなく、咎めることなく与えてくださる主、主に求めなさい。そして主が知恵を与えね、分別を、また思慮を与えてくださるからね。本当に主に求めるべきです。皆さんのうちにいます生きておられる主。このお方から皆さんに知恵が与えられ、力が与えられ、分別力が与えられ、そしてゴリアテに勝利する術が与えられるんです。アーメン。

さらにですね、ダビデはサウルに言うんですね。

「しもべは父のために羊の群れを飼っています。獅子や熊が来て群れの羊を取っていくと、私はその後を追って出て、それを殺し、その口から羊を救い出します。それが私に襲いかかる時は、その髭をつかんで撃ち殺してしまいます。」(第一サムエル17:34-35)

アーメン。あのダビデなんとですね、あの獅子やね、ライオンや熊をも撃ち殺したんですね。今、日本で熊が、あの出没がやたら多くなっております。その映像を見ると、もう熊すごいですね。あんなでかい体重で、もうこんな風にして、もうこの爪に引っかかれたら、もうそれだけであのえぐられてしまうような、そういう強い、その熊の髭をつかんで撃ち殺すことができた。

また何か少年が一つ、また一つの大風呂敷を広げた、大口を叩く少年がみたいな、なんとなく皆さん、そんなふうに思ってないでしょうかね、思ってないだろうか。いや、実際に撃ち殺したんだよと。こう、誰がライオンとか熊をですね、実際殺したんですね。なぜ、主の霊が注がれたからですね。

他にもライオンを素手で撃ち殺した人、聖書出てきましたね。皆さんご存知ですか。サムソンですね。そうです。後ろの方で声がしましたね。サムソンです。主の霊が激しくね、サムソンに下ったと書いてありました。主の霊が注がれるのであるならば、皆さんはライオンをも熊をも撃ち殺せるんです。主の霊が注がれればですよ。それ抜きでライオンに立ち向かっても仕方ありません。

主の霊が注がれる人はどういう人か。こうダビデの特徴を見ますと、彼、本当に羊を命がけで守ろうとしていたんですね。羊を大切に思う人は、なんとかして、この自分の羊をライオンから熊から守りたいって、そういうふうに羊に対する愛情、皆さんも羊いるでしょうかね。子供、羊、あるいは年を取った親という羊をね、養わなくてはならない。あるいは職場の部下ね。本当に皆さん、羊を大切に思う人は、イエス様の性質を身を帯びている人です。

冒頭で宣言したのは、ヨハネの福音書10章11節ですけども、

「私は良い牧者です。良い牧者は羊のために命を捨てます。」(ヨハネ10:11)

と書いてありますね。またね、牧者ではなく、羊の所有者でない雇い人はね、要するにアルバイターは狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げていきます。それで狼は羊を奪い、また散らすのです。霊的なアルバイターであったとするならばね、熊やライオンには立ち向かいません。

けれども、本当にこのイエス様の心、志を受けている人、またイエス様のごとく、本当に羊を大切にしようとする人、そういう人にはイエス様の性質を身に帯び、主の霊が注がれて、そしてこのライオンやクマにも立ち向かう術があるんです。羊を命がけでも守る人ね。本当にそれを身につけたいと思います。

この章では皆さんも本当にこの羊を命がけでも守るという、その志、身につけるべきです。そういう人はライオンやクマに立ち向かえる人となり、またそしては最終的にはゴリアテをも倒せる人となります。このダビデはね、このイエス様のご性質を身につけておりましたゆえにね、ライオンを倒し、クマも倒し、ゴリアテを倒し、そしてついにはやがてこのイスラエル全体の牧者となりました。

神様はいつの時点でこのダビデを王と認めたか。それはまだこの聖書にダビデという名前が記される前からですね。サムエルに対して神様はおっしゃいました。「サウル王はもうダメだ。しかし私はこのイスラエルの王をエッサイの子供の中で見出した」っていうですね。まだ油が注がれる前です。ダビデに。その前からもう神様はエッサイの子供の中でイスラエルの王となるものを見つけ出したと言いました。

彼には彼が羊飼いであり、親の中で誰も見向きもされなかった。兄弟のうちで最も軽んじられていた頃から、もうすでにこのダビデを見出していたということです。ということはダビデは、もう有名人になったから主の霊を身につけたんじゃないですね。有名人になったから、この私は神さんに従おうという志を頑張ったわけではありません。その前から、羊飼いの野にいる時からです。

この羊飼いの仕事、押し付けられたって言って、こんな、もうこんな汚い、きつい、こんな仕事、下っ端仕事って思って軽んじて、羊を適当にあしらっていたとしたら、そういうふうにはならなかったことでしょうね。

皆さんね、今任されている仕事、それを下っ端仕事と思って軽んじたりしていないでしょうか。しっかりと与えられた仕事が羊飼いであったとしてもね、トイレ掃除であったとしても、それを本当に主と共に交わり、主から与えられた仕事として、それを重んじて、それを心してやるのであるならば、羊飼いの野がまたね、トイレはね、そこが主の霊が共にいます場所となり、主の訓練を十分に受ける場所となり、そしてやがてはあ、この人はね、こんな羊を、動物の羊を飼っている器ではないね、イスラエル全体という羊を飼う器だというふうに、どんどんどんどん成長していくんです。

小さいことに忠実な人はね、大きなことにも忠実だとイエス様おっしゃいましたね。だから、今与えられている小さいことと思えるようなことをも忠実にね、それをこなしていくのであるならば、皆様に対して大きなことを主がさらにさらに任していくんですね。

本当にねこの小さな一地方教会の中でねというふうに思っていたとしても、いや、思ってはなりません。主から任された働き場だっていうことで、忠実に忠実に御言葉に忠実にしていくのであるならば、やがて神様は見出すんです。そして皆さんをこのね、小さな地方ではなく、さらに大都会へと、さらには全世界へとね、用いられる器として用いていくんです。小さなことに忠実であるならば、そういうふうになっていくんです。

ダビデは本当に軽んじないで、いつも主と親密に交わっておりました。大切に羊の面倒を見ておりました。この羊の牧場、そこにおいて彼自身、本当に主と親密に交わって、「主こそ私の受ける分です」とダビデは詩篇で言いました。「主が私の相続財産です。主が私の右にいますように。それゆえ私は心が喜び、楽しみ、平安だ」。ダビデはいつも言っておりました。

羊飼いの野においても、主が共にいますね。主の霊が共にいます。それがこのダビデはね、本当に大きく大きく、やがて用いられて、主に見出されてね、「主から私はエッサイの子供の中にイスラエルの王を見出した」になるんです。

この日本の中に、この天性の中に、日本の王を見出した、主から言われる皆さんでありますように。イエス様の名前で祝福いたします。アーメン。

ユーチューブの皆さんも、その場所、場所において主と共に親密に交わるのであるならば、そこが主の霊が共にいます場所。やがてはこの皆さんの場所、場所、あるいは日本を、世界を治めていく、そのような器になっていきます。アーメン。

ダビデはですね、彼自身ね、獅子を倒し、熊でも撃ち殺したね、います。であるならば、あの割礼を受けていないペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をなぶったのですから。アーメンね。

さらにダビデが言います。

「獅子や熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」(第一サムエル17:37)

ダビデに、サウルはダビデに言った。

「行きなさい。主があなたと共におられるように。」(第一サムエル17:37)

アーメン。主が共にいます。これが本当に私たちの戦う根拠であり、またこの王様さえも認めるようになる根拠です。ダビデは獅子の爪や熊の爪から私を救い出された主が根拠だと言ってますね。自分はライオンを殺したぞ、熊も殺したことがあるんだぞじゃないんですね。獅子や熊を殺す力を与えてくださった主が私の根拠ですよということをダビデはここで告白してますね。

皆さんも私は主にあって大勢を相手に勝ったぞね、皆さん自身の力ではなく、主が共にいますからねということを誇るべきです。皆さん自身がね、誇ったらサウルの道になってしまいます。サウルはね、主がアマレクを打ち滅ぼせって言われて、あなたの手に渡すと言われたから出て行ったから、もう主がすでに手に渡しておられるアマレクを打ち破ったからサウルは勝てたんですけども、しかしサウルはその勝ったことで傲慢になって、自分の記念碑を建てました。でもそれで主から見切られてしまったんですね。

皆さんの戦いの根拠は主です。ダビデは、この獅子の爪、熊の爪から私を救い出された主が同じようにして、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくれるでしょうと言いましたね。ダビデははっきりと認識しておりました。自分を、羊を救い出させてくださった主。自分が本当に羊を守るために出て行って、熊の元に立ち向かっていって、そして熊の口から救い出し、勝利させてくださったのは主だと。はっきりとね、ダビデは認知しておりました。だからこのゴリアテを打ち負かすという確たる自信を持っていたんです。

皆さんもね、小さな経験の積み重ねです。まず羊を守る。守って、そしてね、皆さんの羊を悪魔サタンから守りたい。その願いを持って、悪魔サタンに立ち向かうのであるならば勝利する。そして、その勝利を積み重ねていったのであるならば、もっと大きな勝利を得て、そしてどんどん自信を得ていく。

このダビデはね、さらに勝てる根拠がありましたね。その根拠は、「あの割礼のないものは生ける神の陣をなぶったのだから」ねというふうに、ここのサウルとの会話で宣言しました。ね、生ける神の軍に戦いを挑んだということであるならば、生ける神様がこのゴリアテと戦うものだって、このまあ、いわば言葉尻をつかんでですね、あるいは真理の上に立って宣言しましたね。

皆さんもね、言葉尻をつかんでください。「あのものは生ける神の陣に戦いを挑んだのだから」って、であるからには、あの人を扱うのは生ける神様だ。

現実が皆さんに対して立ち向かう時、ゴリアテのような、そういう強敵が皆さんに立ち向かう時、皆さんは主を拠り所とするべきです。そして皆さん自身が清くね、皆さん自身という生ける神の陣を清く保つ。するならば、主が皆さんの代わりに立ち向かってくださいます。

この私たちも本当に力量がないかもしれません。若いかもしれません。経験がないかもしれません。小さいかもしれませんけれども、誰だって小さかった、経験がなかったね。それでも彼には根拠がありましたね。生ける神様ですね。「主こそ私の受ける分です」とダビデは告白しました。「主が私の右にいますゆえに、私は揺らぐことがない」と言いました。「主が共にいますから、私は青銅の弓をも引ける力があり、主の名によって城壁を飛び越えるのだ」とね。「主の名によって敵を打ち負かすのだ」と、ダビデは詩篇で書き記しております。

皆さんも本当に皆さん自身の牧場において、主と親密に交わってください。皆さん自身の詩篇をね、書き残してください。そして主と親密に交わるねとするならば、その主が相手と戦ってくださるね、その確信を得ます。

サウルや、またこの40日、殴られっぱなしだった大人たちは、本当にこの自分と相手との力量差として見ていたから、そういうことができませんでした。普段から主と交わっていないでねええ。主を礼拝する時はうやうやしくてもですね、いざ世の中に出て行く時、世の戦いをする時、自分と相手の力量差で戦うと、この罠に陥ってしまいます。

ダビデこそが誰よりもわきまえておりましたね。サウルとしてはこのわきまえのない少年と思ったかもしれないですけど、しかし、ダビデこそ誰よりわきまえていたんです。自分のうちにいます主と相手との力量差をね。そしてサウルたちこそわきまえておりませんでした。

私たちはわきまえましょう。私たちのうちにいます主は、いかに力強いお方であるのか。ゴリアテが相対する時、皆さんは普段から親密に交わっておられる主にあって向かって行き、青銅の弓を引き、また城壁を飛び越え、この悪魔サタンに奪われている魂たちを、羊たちを救い出し、そして本当に主にあって栄光を治めるものとなっていく皆さんでありますように。イエス様のお名前によって祝福いたします。アーメン。

【結論】

私たちの戦いの根拠は、私たち自身の力量や経験ではなく、私たちのうちにおられる主です。ダビデが羊飼いの野で主と親密に交わり、羊を命がけで守る中で主の力を経験したように、私たちも日々の小さな場所で主と交わり、忠実に歩むならば、主の霊が共にいてくださり、どんなゴリアテにも立ち向かう力が与えられます。自分と敵との力量差ではなく、私たちのうちにおられる主と敵との力量差を見るべきです。主が共におられるゆえに、私たちは揺らぐことなく、勝利者として歩むことができるのです。

聖なる憤り - 生ける神の陣がなぶられる時(1サムエル記17:17-30)

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【概要】

第一サムエル記17章から、ダビデがゴリアテに立ち向かう場面を通して、真理の立場に立つ信仰について学びます。日々神様と交わり、聖なる憤りをもって悪に立ち向かう信仰者の姿が示されています。

【聖書箇所】

  • 第一サムエル17:17-30

  • 第一サムエル17:20-21(宣言箇所)

  • 申命記23:14

【励ましの言葉】

私たちは生ける神の陣営です。神様が私たちの間を歩まれ、敵を私たちに渡してくださいます。戦いは私たちの武力やトレーニングによるものではなく、私たちの間に歩まれる主ご自身が勝利を与えてくださいます。

【勧めの言葉】

日々の生活の現場において神様との交わりを持ち続けましょう。礼拝の時だけでなく、家庭や職場においても神様を呼び込む生活を送るべきです。自分自身を清く保ち、生ける神の陣営としての自覚を持ちましょう。

【戒めの言葉】

世の中の視点で神様を度外視し、自分の力だけで戦おうとする時、イスラエルの兵士たちと同じ罠に陥ってしまいます。神様が離れ去ることのないよう、醜いもの、汚いものを自分の中から排除しなければなりません。

【***AIによる文字起こし***】

今朝、恵みをいただく御言葉は、第一サムエル記17章17節から30節です。はじめに第一サムエル記17章20節と21節を皆さんで一緒に宣言しました。

「ダビデは翌朝早く羊を番人に預け、エッサイが命じた通りに品物を持って出かけた。彼が野営地に来ると、軍勢は時の声を上げて陣地に出るところであった。イスラエル人とペリシテ人とはそれぞれ向かい合って陣を敷いていた。」(第一サムエル17:20-21)

ダビデは十代の前半、最高でも15歳ぐらいだったのですが、この時彼はずっと羊を飼っておりました。確かに野においては危険がありますので、石を投げる練習とか、また杖を持って、それでもって危険な獣が近づいてきたら、それを打ったりしていました。また羊をその杖でもって引き寄せたりしていました。

羊は愚かな動物なのですね。時にはもう怒ってダビデに突進してきたりしても、それでもダビデは本当に羊のその愚かさと言いますか、それを汲み取って怒りもせず、大切に羊を養ってくるという、そういう日々を送っていたのです。

ゴリアテを打ち倒したダビデなのですけども、彼がずっと戦闘訓練を受けていたかというと、そうではなく、そのように羊を飼っていたのですね。不思議ですね。なんで戦闘訓練を受けていたサウルの兵士たちではなく、ダビデが打ち倒すことができたのか。

皆さん、神の戦いというのは肉体の鍛錬の賜物ではなくて、むしろ神様といかに交わりを持ち、そしていかにこの羊たちを養っていたか。ですから、神様に対する愛、またその面倒を見るべき羊に対する愛、これを培い、そして時にはその危険な動物を打ち負かすための訓練もしていたのですね。ダビデはずっとそのようにして日々を過ごしておりました。

そしていよいよこのダビデがお父さんのお使いで、チーズとかパンとかを持って行って、そしてお兄さんの安否を尋ねなさいということで、この戦場の方にダビデがお使いに来たのですね。

ダビデがお使いに来て、まさか戦場がこういうことになっているとは思っていなかったことでしょう。ダビデが野営地のところに来ると、軍勢は時の声を上げて陣地に出るところであったのですね。ですから、もうこれから「さあ、戦争するぞ」という、もう時の声を上げて気勢を上げていたのです。

けれども、時の声を上げて、もう自分で自分自身やる気を起こして、いざ立とうとしたところに、そのタイミングでゴリアテが来るのです。

23節を見ますと、「ダビデが兄たちと話していると、ちょうどその時、ガトのペリシテ人で、その名をゴリアテという代表選手がペリシテ人の陣地から登ってきて、いつもと同じ文句を繰り返した。ダビデはこれを聞いた。イスラエルの人は皆、この男を見た時、その前を逃げて非常に恐れた。」

ダビデは初めてこの場面に立ち会います。心の準備をしてきたわけではありません。まさか来たらこんなに大きな戦士がこういうふうに大きな声でこのイスラエルを呪うような言葉、それをまさか目にするとは思ってもみませんでした。

そしてダビデがもう一つ見たのは、イスラエルの人がこの男を見た時、その前を逃げて非常に恐れた、そういう有様だったのですね。イスラエルの男子たちはこのゴリアテを見ると、もう40日もずっといたぶられっぱなし、殴られっぱなしだったのです。

しかし、ダビデは違ったのですね。彼はゴリアテを見て、その言葉を聞いた時に沸き起こってきたのは恐怖、恐れの逆で、むしろ聖なる憤りが彼の中に湧き起こってきたのです。

本当に私たちも日ごと戦う、戦うと言いつつ、戦いの訓練をする。社会に出て戦わなくてはなりませんし、また本当にこの家庭を守っていくということは日々戦いです。訓練もしますけれども、この戦い、戦いと、聖なる戦いをするという言いつつも、けれども結局、世の中の視点で神様を度外視して、ただ礼拝の時だけ神様、神様、けれども、生活の場に戻ると神様が度外視されてしまって、結局その自分の腕っぷしだとかスキルだとか、そういったもろもろで戦って神様を呼ばない日々を送っていると、このイスラエルの男たちの罠に陥ってしまいます。

けれども、いかに羊飼いをする現場といえども、皆さんも羊飼っているでしょうか。子供という羊、また面倒見なければならないという羊。本当に弱い、また愚かな、本当に時には間違いを犯す、時にはもう怒って突進してくるような、そういう羊、皆さんもいるでしょうか。

そういう羊を飼う最中において、神様との交わりを持ち、ダビデは本当に詩編の中において、「主は誠に私の羊飼いだ」、「主はこのイスラエルの羊飼いだ」と、本当に羊を飼ううちに、神様こそが羊飼いであるということを見出していったのですね。

皆さんも日ごとの仕事のうちに神様を見出してください。礼拝から離れたその先々、その家庭の場とか職場とか、そこが羊飼いの現場であったり、神様との交わりを持つ場所であったりします。

ダビデはその羊飼いの現場において詩編を編纂しました。竪琴を持ってダビデはなんで竪琴がこんなに上手だったか。その羊飼いの現場でずっと神様を賛美する竪琴を奏でていたからですね。ダビデの竪琴の音色には悪霊を追い出す力がありました。それは彼が日ごと神様に心を向けて、イスラエルの賛美の中に住まわれる主をいつも呼び込むことができたからですね。

皆さんが奏でた途端に、そこに主の臨在をそこに体現させる。イスラエルの賛美の中に主は住まわれる。ある人の賛美が、本当に賛美をした途端に、一瞬で神の国がそこに来たかのような賛美をしたりとか、あるいはその人が祈りの姿勢を取った途端に、何かその人の上に天がパッと開かれて、一直線に何か神の国が来たような、そういう人がおりますね。

そういう人は日ごとからすぐに神の国を呼び出し、イスラエルの賛美の中に住まわれる主を、賛美の中に住まわれる主を一瞬で呼び込む。そういう清らかな心、思い、神様に対する愛、そういう志がある人は、一瞬でそういう主の臨在を呼び込むのです。ダビデがそうだったのですね。

そしてダビデはこの戦いにおいて心備えをしていたわけではありません。彼はただ単にチーズとかパンを届けるために来ただけです。戦いのためではありません。けれども、このゴリアテを見た時、さっと火がついたのは、この聖なる憤りだったのですね。

皆さん、聖なる憤りというものがあるのです。この私たち自身、人間の憤り、これは罪を犯しますけれども、聖なる憤りというものはいつ火がつくかというと、聖なるお方が、私の大好きな、大切にしておられる主が、主の御名がなぶられる時、その時、聖なる憤りに満たされるのですね。

ダビデは誰かからの蔑みとか、軽んじられる言葉とか、そういった言葉にはもう慣れっこだったでしょう。けれども、そういったことでダビデは憤らなかったのですね。むしろ世の中の秩序に忠実にお父さんの命令に従い、また上の秩序に忠実で、サウルに対しても本当に忠実でした。

それでこのゴリアテをイスラエルの人たちが見た時、彼らは見て恐れ惑い、その前を逃げて非常に恐れたと書いてあります。昨日のメッセージにおいては、このゴリアテの声を聞き続けてきたから、耳で、このなぶる声を聞き続けて、そして「お前はサウルの奴隷ではないか」、「お前は俺と勝負をしなければ」、「お前たちこそ奴隷になる」、そういうふうにずっと聞かされ続けてきて、本当になぶられっぱなし、耳から。そして今日は目から、このなぶられるざまをダビデは見たのですね。

イスラエルの人たちが言うには、「あの登ってきた男を見たか」。本当は「主を見たか」って言うべきところ、「あの男を見たか」って、「イスラエルを辱めるために登ってきたのか。あれを殺す者がいれば、王はその者を大いに富ませ、その者に自分の娘を与え、その父の家にイスラエルでは何も義務を負わせないそうだ」というふうに互いに言い合っているのを、それを聞いたのですね。

ダビデはますます憤って、「このペリシテ人を打って、イスラエルのそしりを注ぐ者にはどうされるのですか。この割礼を受けていないペリシテ人は何者ですか。生ける神の陣を辱めるとは。」

イスラエルの恐れ惑った男たちはペリシテ人のなりありさま、なり様を見ました。2メートル以上、3メートル近くの巨体、その重々しい鎧、また投げ槍、もう旗竿ほどもある太いそうした槍、そうした諸々を見て、恐れ惑いましたが、ダビデは、このペリシテ人をどういうふうに見たか。割礼を受けていない者というふうに見ましたね。真理において見る目をダビデは養っていたのです。

私たちも世の中を見るとき、本当に神様抜きの無割礼の状態の有様を見るとき、その無割礼の者がいかにごつくてでかくて、また力強そうに見えても、結局は神様抜きの割礼のないその有様であるということを私たちは見るべきです。むしろ皆さんが見るべきは、ダビデのように本当に神様の麗しさ、神様の慕わしさを見続けていくべきなのです。

ダビデは本当にこの真理の立場を表明したのですね。ゴリアテの外見には一切言及しないで、これを割礼なき者、それに対して自分たちは何者であるか、自分たちは生ける神の陣です。生きておられる神様がいる陣です。

生きておられる、皆さんの中で神様、生きているでしょうか。皆さんの仕事の、生活の中において、この生ける神様との生きた交わりを持っているでしょうか。この生きた交わりを持っている皆さんは、本当にすぐに、この神様の臨在を呼び込むことができるのですね。

この生ける神の陣として、ダビデは真理の上での立場を表明したのです。私たちも、世の中の生意気なゴリアテが、偽りとか、もう本当に脅しとか、そういった不法なことで、私たちを圧倒しに来ようとする、そういう大げさな身なりをしてやってくる、この皆さんにとってのゴリアテが来た時においては、真理の立場にしっかりと立つべきですね。

世の中は真理に対して物事をしてくる時があるのですけど、その時、聖なる憤りに満たされて、真理の立場を表明し、真理を宣言するのであるならば、現実世界が真理の世界と皆さんを通して飲み込まれていくのです。皆さんはこの世の中の現実を真理で飲み込んでいく飲み込み屋であるべきなのですね。ダビデは飲み込み屋でした。

彼が真理を宣言した時、霊的世界がこの時に動き始めます。このダビデが宣言しました。生ける神の陣というふうに、自分たちの、イスラエルを表明しました。神の陣とはいかなるものであるのか。

一番冒頭で宣言したところが申命記の23章14節なのですけども、そこにおいて書いてあるのは、「あなたの神、主があなたを救い出し、敵をあなたに渡すために、あなたの陣営の中を歩まれるからである。あなたの陣営は清くなければならない。主があなたの中で醜いものを見て、あなたから離れ去ることのないようにしなければならない。」(申命記23:14)

生ける神の陣、陣営の中に主が歩まれると書いてあります。神様が陣営のテントとテントの間に、また兵士と兵士のその隊列の間に、生ける神様が歩まれる。これが生ける神の陣なのですね。

そして、ここにおいて注意されていることは、清いから、主があなた方のその生ける神の陣営の中に、汚いものを見て、醜いものを見て、あなたから離れ去ることのないようにしなさいというふうに、ここにおいて命じられております。

今、この天声エクレシア、生ける神の陣、主が歩まれるにふさわしい陣営でしょうか。醜いものを主がこの中に見て離れ去るということがないようにしなくてはなりません。物質的に汚いものというよりも、もちろん物質的に汚いもの、これは排除するべきです。そして皆さんの霊的な汚いもの、皆さんの怒り癖だとか、嘘つき癖だとか、盗み癖とか、そうしたもろもろ、それがあると、神様が陣営の中に一緒にいないというのですね。だから私たちはいつも自分自身、清く保ち続けるべきなのです。

これが生ける神の陣、この主が陣営の中に歩まれるから、だから、主のパワーが敵を圧倒するのですね。「あなたの神、主があなたを救い出し、敵をあなたに渡すために」というふうに書いてあります。主自身が敵を皆さんに渡してくださるのです。

皆さんの武力、トレーニング、そうしたものが敵に打ち勝つものではなく、皆さんの間に歩まれる主が皆さんに敵を渡してくださる。これが真理の上での立ち位置です。ダビデは幼い頃からこの申命記とか聞かされてきたことでしょうから、だから生ける神の陣が、自分たちがいかなるものであるのかを彼は知っていたのですけど、それなのに、それなのに彼が、ダビデがこの陣営に来てみれば、大人たちはそれをその御言葉は一体どこへやら。

この主が歩まれる聖なる陣営が無割礼の者になぶり続けられている。しかも40日も好き放題言わせっぱなしということにおいて、聖なる憤りがメラメラメラメラと燃え出したのです。

皆さん、怒るべき時は、自分が軽んじられた時ではなく、この生ける神の陣が辱められている様を見た時に、皆さんはこの聖なる憤りに満たされるべきものなのですね。

このダビデの様を見ていた、お兄さん、長男のエリアブという一番上のお兄さんが、ダビデが人々と話しているのを見て、「お前、なんでやってきたんだ。あの荒野に羊を飼っていたお前の仕事は一体どうしたんだ。お前、戦いを見物しにやってきたんだろう」、そういうふうに決めつけてお兄さんが言うのですね。

この長男のエリアブ、末っ子のダビデ、本当に年長の、しかも自分の身内の者、家族がこうやって信仰を挫くようなことを言ってくる。結構辛いやすかったりするのですけど、しかしダビデは、それも何のそのでした。なぜもう心に満ちているのが、そうした人の言葉ではなく、聖なる憤りだったのですね。

ダビデは「私が何をしたというのですか。一言も話してはいけないのですか」っていうふうに長男に対して言って、そしてさらにダビデは他の人の方を向いて同じことを尋ねるのですね。

このダビデは本当に聖なる憤りで満たされておりました。生ける神の陣が辱められたまんまに捨て置かれたまんまのこの状態。そしてこの長男エリアブ、ずっと40日もゴリアテと相対していたにもかかわらず、そんなゴリアテに対して、「お前は一体何ができるんだ」、まあ、そういう態度で、長男が末っ子ダビデに言ってくる。

けれどもダビデは放っておけなかったのですね。本当にこの生ける神の陣がなぶられるところ、この聖なるお方が宿るべきところ、ここに無割礼の世の中のものが大上段になって、この不当に振る舞って汚してなぶっている有様、本当に私たちもダビデのごとく、それを見た時、大いに聖なる憤りに満たされるべき時なのです。

なぜなら、この私たちの陣営、教会ですね。現代では教会です。教会とは確かにこの建物という教会があり、また皆さんお一人お一人という教会があります。皆さんお一人お一人のうちに、イエスキリストが住まわれるのです。皆さんの体はキリストが住まわれる聖なる宮であるということを知らないのですかってパウロは言っております。

今、この教会において、また皆さん自身という聖なる宮において、また、本当にこの聖徒の交わり、2人でも3人でもイエス様の名前があるところの集い、ここの集いにおいては、生ける神が宿られる陣営、そこは聖なるところです。

私たち自身のものではなく、聖霊様が住まわれる宮、イエス様が住まわれる宮です。そこが無割礼の者によって踏みにじられる時、皆さんは恐れ惑う側でしょうか。それともダビデのように聖なる憤りに満たされる側でしょうか。

皆さんは皆さん自身をしっかりと清く保って、本当にこの生ける神の陣というその自覚を持ち、そして本当に皆さん自身、この辱められることはないようにしましょう。

ダビデは、このお兄さんからとやかく言われもしました。それでもなお、この本当に聖なる憤りに満たされており、また、御言葉では、真理の立場ではこうというのを主張しました。

皆さんは、辱められる時、この無割礼の者が来た時、御言葉ではない、いや御言葉に敵対することが語られたり、また行われたりする時、その時、皆さんが真理の立場を表明し、そしてこの状況を、この世の中を皆さんの真理で飲み込み、そしてこの無割礼の者を屈服させ、悪魔サタンに囚われていた人たちを取り返し、救い出し、そして本当にこの時代においてダビデのごとく神の国をもたらしていく皆さんでありますように。

【結論】

真の戦いは肉体の力によるものではなく、生ける神との日々の交わりから生まれます。ダビデのように、日常の現場において神様と親しみ、真理の立場に立ち続けるなら、聖なる憤りが与えられ、無割礼の敵を真理で飲み込むことができます。私たちは生ける神の陣営として、自分自身を清く保ち、主が共に歩まれる聖なる宮として、この時代に神の国をもたらす者となるのです。

 

世の巨人の声に聞き従うか?それとも、神の声に聞き従うか?(1サムエル記17:1–16) 

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17:10 そのペリシテ人はまた言った。「きょうこそ、イスラエルの陣をなぶってやる。ひとりをよこせ。ひとつ勝負をしよう。」

 17:11 サウルとイスラエルのすべては、このペリシテ人のことばを聞いたとき、意気消沈し、非常に恐れた。
 
1サムエル記17章には、イスラエルの羊飼いの少年ダビデが、
ペリシテの巨人戦士ゴリヤテを討ち取った、あの有名な戦いが記されています。
しかしダビデが登場するまえに、イスラエルが散々な惨めな目に遭った場面から、見ていきたいと思います。
 
 

巨人の姿と、圧倒的な現実

エラ谷の向こうから、一人の巨人が進み出て来ます。
その背の高さは、およそ286センチ
身に帯びている青銅の鎧は、約57キロ
彼の名は、ゴリヤテ。ペリシテの町ガテ出身。
ガテ、そこは、巨人の一族「アナク人」の生き残りが残された地です。

でも本当は、勝てない相手ではない。

ヨシュアの時代、イスラエルは、アナク人を滅ぼす一歩手前まで来ていた
つまり巨人は、本来、倒せない相手ではなかった。
 
さらに時代が下り、ダビデ王が育てた戦士たちによって、しかも、一対一で、打ち負かされています。
問題は、力の差ではありません。
「どの声を聞いたか」です。
 
サウルとイスラエルのすべては、このペリシテ人のことばを聞いたとき、意気消沈し、非常に恐れた。(17:11)
 
彼らは、見て恐れたのではありません。
「聞き続けた」結果、恐れに支配されたのです。
四十日。朝も、夕も。
 
 

ゴリヤテの言葉の正体

ゴリヤテは叫びます。
「お前たちは、サウルの奴隷ではないか。」
しかし本当はどうでしょう。
 
イスラエルの戦士たちは、万軍の主が味方する、神の軍勢のはずです。
ゴリヤテは、自分に都合のよいルールを一方的に決め、大上段から、押しつけました。
 
しかし神の民は、「無割礼」の、神を知らぬ者の声に、
聞き従う理由など、どこにもありません。

現代の「ゴリヤテ」

私たちの前にも、ゴリヤテは立ちはだかります。
それは、「現実」「世情」「数字」「評価」「メディアの声」。
彼らは、こう言います。
「お前たちは、世の奴隷ではないか。」
「社会システムの奴隷ではないか。」
私たちは、その言葉を聞き続けていないでしょうか。

私たちは、何者なのか

真理の言葉は、私たちについて、こう語ります。
「私たちは、キリストと共に生かされ、
共によみがえらされ、共に天上で座につかされた。」
(エペソ2章)
 
つまりもう、ゴリヤテの言葉とは関わりのない者、むしろそれを塗りつぶす側の者なのです。
 
宣言すべきです。
「私は、キリストにあって生きている!」
「世の流行や、恐れの声は、私を支配しない!」

 


ダビデは、どんな人だったか

このゴリヤテを倒したダビデは、八人兄弟の末っ子でした。
任された仕事は羊飼い、家では一番下っ端です。
彼は、十代前半の少年でした。
 
つまり彼とゴリヤテの戦いは、
フライ級(49キロ)とヘビー級(90キロ)よりも、はるかに差のある戦いです。
それでも、なぜ勝ったのか。
それはただ、主が、主に信頼する人を通して、主が栄光をお受けになり、人間的な強さを頼りとする人をはずかしめるためです。

結論

 
世の巨人の声に聞き従うか?それとも、神の声に聞き従うか?
 
ダビデやヨシュアのように、神の声に聞き従うなら、勝利します。
世の強者の声に聞き従うなら、ただ怯え、何もできない四十日、
あるいは、無駄な四十年を過ごすだけです。

毎日くり返される“恐れの声”に、私たちは、どの「ことば」を信じ、適用するでしょうか?
皆さんにとってのゴリヤテは目の前に、相変わらず立ちはだかっているかもしれません。
状況は変わらないかもしれません。
問題は、まだ大きいかもしれません。
 
それでも、
キリストにあって、自分は何者なのか、それを宣言しましょう。
世をとおして来る声、あるいは自分の脳内のゴリヤテの声を聞いてはなりません。
神の声・みことばを、朝も、夕も、心に響かせて、
世の巨人を打ち取り、勝ち取っていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝

こびりついた問題から解放させてくださるイエス様(ヨハネ5:1-8)

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週報/メッセージ(説教)概要

今日の御言葉 ヨハネ5:1-8

 むかしエルサレムの北の門の近くに、「ベテスダ」と呼ばれる池がありました。「恵みの家」という意味です。
そこには、多くの病人たち−目の見えない人、足の不自由な人、やせ衰えた人たちが、何人も、何十人も、いました。なぜならその池には時々、御使いが来て水をかき回し、その後に一番先に水に入る人には、どんな病気も癒やされる、と信じられていたからでした。 それでそこは、そのような宗教的な「恵み」を待つ場であると同時に、水が動くのを待つ人々の競争の場、そして多くの失望が積まれた場所でもありました。
 世の中の宗教は、「恵み」と名をうつも、結局は競争社会と化し、いかに多くの献金をし、布教活動をし、その宗教組織に尽くしたか、によって序列が決められるゆえに、必然的にそこには、競争に勝てず、恵みにあずかれないまま、それでも追いかけ続けて何十年も経っている人々が多い様が見受けられます。

 さて、このベテスダには、三十八年もの間、病気がこびりついて離れなかった人がいました。季節が三十八回巡ります。かつていた人々は次々と「卒業」して、別の新しい人生を歩み出し、かつての子どもが大人になっていきました。しかし、彼だけはそこに取り残されたままでした。
 人が苦しんでいる様を見て、私たちは「ああ、あの人が苦しんでいてよかった」と思うでしょうか。私たち人間でさえそんなことは思いません。神様なら、なおさらです。それで、全ての人の心の叫びをご存知であられる主ご自身が、この人のところに訪れてくださるのです。それは今、この時代でも、全く同じです。

 『イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」』(ヨハネ5:6-7)
 イエス様は「良くなりたいか」と聞いたのですが、彼は、鬱積した心の荒波を吐露します。「人がいません」。誰か強い人が、誰か足の速い人が、水がかき回された瞬間、自分を抱えて水に入れてくれる人がいてくれたら。。。しかし、人間の助けは、不完全です。いつ来るとも分からない時のために、その人にずっと付き添いをしてくれる人は、誰もいません。 「誰か、誰か…。わたしを助けて…。」 イエス様は、その小さなうめきを失わずに聞き取られ、今日この時代も、そのようにうめいている人のところに、訪れるのです。

 イエス様はそんな彼に、ただお言葉をかけられました。『イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。』(ヨハネ5:8-9a)
 彼の、三十八年こびりついた病からの解放は、こんなにも唐突に来ました。こんなにもあっけないものなのでしょうか? 彼は、自分と話しているお方がイエス・キリストだったとすら分かっていませんでした。ただ彼がしたとは、イエス様から言われた、おことばどおりに行った事でした。イエス様について、よくわからなくても良いのです。ただ、イエス様のおことばどおりに行う、それこそ、あらゆる「呪縛」から解かれる鍵です。
 イエス様のおことばどおりにする事、それによって人は、あらゆる宗教的呪縛から解放されます。
誰か強い人が自分にしてくれるのを待つ必要もなくなります。ただ、イエス様のおことばに従う事によって、人は全く新しくつくりかえられるのです。

 私たちにも、人生に長年こびりついた問題があるでしょう。それは、彼のように、病かもしれません。心の悩みかもしれません。何十年も変わらない状況かもしれません。 「誰か、助けてくれないかな」と、人を待ちながら耐えてはいないでしょうか。 あの条件とこの条件を満たして、はじめていただける「恵み」を追いかけ続ける、「宗教」というベテスダの呪縛にあるでしょうか。
 こびりついた問題の解決を、「限りのある人間の誰か」に委ね続けるのを、やめましょう。
 今日、主は言われます。「起きて、床を取り上げて、歩きなさい」。
 それを聞いた今、あなたを縛り続けていた「病」という床、「宗教」という床は、取り上げ、イエス様と共に歩みだして行く時が来ております。「イエス様、助けてください」。そのの声は確かに主に届き、そして主は、三十八年の男にされたように、あなたの人生にも来てくださいます。

 

あなたの拠り所はどこですか?(詩篇18:30-34) 早天祈祷会 2026年1月23日(Fri)

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【概要】

人生の岐路に立って心が揺らぐ時、どこに身を寄せますか? ダビデは幾度も死の淵から救われた後、力強く叫びました。 「主こそ我が盾、我が岩、我が砦!」 私達もいかに弱くても、主はあなたの道を完全にし、力を帯びさせ、敵から守り、揺るぎない安全へと導く。 この驚くべき真実が、あなたのものとなるには?

【聖書箇所】

  • 詩篇18:30-34

  • 詩篇18:1-3

  • 箴言18:10

  • 創世記15章(アブラムへの宣言)

  • 創世記17章(アブラハムへの宣言)

  • マタイ7章(山上の垂訓)

  • マタイ16章(教会の土台)

  • 2コリント12章(主の恵みと力)

【励ましの言葉】

  • 主はすべて身を避ける者の盾となってくださいます

  • 主が私たちの道を完全にしてくださいます

  • 主は私たちの足を鹿のようにし、高いところに立たせてくださいます

  • 主は私たちの腕を鍛え、青銅の弓をも引けるようにしてくださいます

  • 主の力は弱さの中で完全に現れます

【勧めの言葉】

  • 主を個人的な避け所、盾として宣言しましょう

  • 自分が完全になってから神に近づくのではなく、まず神に逃げ込みましょう

  • 主と共に歩み続けましょう

【AIによる文字起こし】

今日恵みをいただく御言葉は詩篇18編です。詩篇18編30節から34節、まず30節から32節を一緒に宣言しましょう。

詩篇18:30-32

「神、その道は完全。主の御言葉は純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。まことに、主のほかに誰が神であろうか。私たちの神を除いて、誰が岩であろうか。この神こそ私に力を帯びさせて、私の道を完全にされる」

アーメン、ハレルヤ。まことに主よ、あなたこそ我が盾、我が岩、我が櫓、我が砦、主よ、あなたこそ私たちの避け所です。その主にあって、私たちは決して揺らぐことがないことを感謝いたします。聖書時代の先人たちにならい、私たちも今この時代において、主を避け所とし、決して揺るがされることのない安全に預かる私たちとならせてください。

ハレルヤ、シャローン。主の平安が皆さんのうちにありますように。主が皆さんの避け所となってくださるのであるならば、皆さんは平安、シャロームですね。皆さん自身、生身の体で戦いの前線に立つ時は不安かもしれませんが、しかし主が盾であるということが、今日の箇所において書いてありますね。主はすべて彼に身を避けるものの盾です。

今、皆さんはどんな場所に立っているでしょうか。人生の中でどんな分かれ道に皆さん今立っているでしょうか。そこは安心できるところでしょうか。それとも足元が揺れるような、そういう不安を抱えているでしょうか。

この詩篇の18篇は、ダビデが、今週月曜からずっとダビデとゴリアテの戦いについて話してきましたけれども、このダビデがすべての命の危険から救い出された後に歌った賛美ですね。彼の人生には、何度も何度も危険な状況が訪れましたね。もう明日は命がない、そういう危険な日々が何日も続きましたけれども、何日も守られ続けていきました。特に18篇はサウルに追われて、それでサウルから救われた時に歌った賛美と書いてあるんですけども、サウルに追いかけ回されて、もう逃げるしかないんですね。

敵がゴリアテであったり、ペリシテ人であったら戦って相手を打ち負かすということができますが、なにしろ相手が、油注がれた主から油注がれた王であるとなると、もう主を襲うことをダビデとしては逃げるしかないんですね。もうただ逃げて逃げて、追い詰められて、もうダメだと思った。その時、彼はいつも神様に呼び求めて主を避け所としました。人生に危険が迫りくるたびに、主に助けを求める、主に叫ぶ。これがダビデのこの日頃の嗜みだったんですね。

この18編の1節から3節も、皆さんと一緒に宣言したいと思います。

詩篇18:1-3

「主、我が力、私はあなたを慕います。主は我が岩、我が砦、我が救い主、身を避ける我が岩、我が神、我が盾、我が救いの角、我が櫓、褒め称えられる方。この主を呼び求めると、私は敵から救われる」

アーメン、もうこのダビデほどですね、主を私の相続地、主が私の相続財産、主が私のご褒美ですね。この「わが、わが、わが」って、もう何度も何回あるでしょうね。ちょっと数えてないんですけども、本当に何度もですね、主は私のなんとか、主は私のなんとか、本当に個人的な関係、交わりをダビデは何度も何度も宣言しておりますね。

主は我が力、主は我が岩。本当にこの岩、決して揺るがされることない盤石の岩、大きな岩の上において、決して私は揺るがされることがない。主は我が砦、我が救い主。本当にここまで主が私にこんなにも関係するお方なんだ、こんなにも主は私の主なんだということの、この宣言告白、これがダビデを偉大にした源です。

皆さん、偉大になるとするならば、主を皆さんのプライベートな岩、プライベートな自分の助け、救い主、そういうふうに宣言してください。主がここまで語ってくるダビデに対して、ここまで語ってくる皆さんに対して変わらないはずがないんですね。なぜなら皆さんはイエス・キリストにあって主に近いものとされたからです。このイエス・キリストこそが皆さんの救いです。神と人との間の仲保者イエス・キリストにあって、私たちは大胆に時にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づくことができるんです。

アーメン、ダビデはいつも自分の強さでなく、神様の強さを誇りました。30節において「神、その道は完全。主の御言葉は純粋。主はすべて彼に身を避けるものの盾」とありますね。

盾。神様はアブラムにも宣言しましたね。「私はあなたの盾である。私こそがあなたにとっての大いなる報酬である」って宣言しましたね。ダビデ自身も告白しました。主はすべて彼に身を避けるものの盾である。

盾、これは攻撃のための道具ではありませんね。身を隠すための、身を守るためのものです。矢が飛んでくる時、剣が迫ってくる時、この盾を構えて盾の後ろに隠れるならば、ただ守られます。自分を前にさらしません。盾を前に進めて、自分は前に進みません。自分は盾の後ろにあるものです。

だから皆さんが、主を置いてけぼりにして、さっさと先に行くとするならば、盾なしで戦うようなものです。ひとたまりもありません。だから主は我が盾なんですね。ダビデは告白しましたし、主はアブラムにも宣言しました。「私があなたの盾である」と。本当にこの主こそが私たちにとっての盾であり、岩であり、私を救い出す方である。

この主に、主の御名がね、堅固な櫓、正しいものはそこに走り込み、救われると箴言の18章10節にも書いてあります。

箴言18:10

「主こそが堅固な櫓、正しいものはそこに走り込んで、そして救われる」

主がシェルターですね。核シェルターってありますね。核爆弾が落ちたら核シェルターに逃げ込むように、何かあるたびに主のもとに走り込んで逃げ込む。それならば、そこが堅固な櫓となって、皆さんは安全なんです。

また31節、宣言しますけども、

詩篇18:31

「まことに、主のほかに誰が神であろうか、私たちの神を除いて、誰が岩であろうか」

アーメン。「誰が、誰が」というふうに続きますね。もうですからダビデは、ここで他にはいないって。他に神はいない、他に岩はいない。

岩、堅固な岩、守られる岩。本当に周りにはたくさんの神々というものが呼ばれるものがありますね。神と呼んではいないけれども、お金だとか、この何かだとか、そうした神様以上になんか自分の守りにしている、それを神と、まあいわば神と言っております。このような周りにはたくさんの神々がいるんですけども、けれども誰が岩となってくださるお方か。神様、ただお一人だけだ。主だけです。そういうふうにダビデは言っております。

主こそ岩。岩は決して動きません。揺るがされません。感情で揺るがされたり、状況で崩されたりということは一切ないのが岩ですね。

このイエス様も同じことを言っておられます。「私の言葉を聞いて、それを守り行うものは、岩の上に建てた人に似ている」。あの山上の垂訓で言っていましたね。そしてまたイエス様は言われましたね。「あなたはペトロです。私はこの岩の上に私の教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません」。

アーメン、アーメン。教会はハデスの門を打ち破る存在ですね。祈りの中において、昨日の夜も祈りましたね。ハデスの門も打ち破る力があるのが皆さん、教会、エクレシア、皆さんお一人お一人です。ハデスの門よりも強いんです。教会は、このイエス・キリストを救い主として告白した、その上に今、教会を建てる、と言いました、イエス様は。

だからこのイエスこそ生ける神の御子キリストですというこの告白の土台の上に立つ者は決して揺るがされることなく、ハデスさえも揺るがすことができないんです。アーメン。

このダビデはさらに続けるんですけども、

詩篇18:32

「この神こそ私に力を帯びさせて、私の道を完全にされる」

アーメン。ここでダビデは、主が自分の道を完全にされると告白しました。ダビデが告白した順番、これ注目してください。自分自身が整えられたら、神様に近づけるんではないんですね。自分が完全になったら、ようやく神様が認めてくださるんじゃないんですね。逆です。

神様が皆さんの道を完全にされる。神様が皆さんに力を帯びさせてくださる。ですから、自分が整ってから神に近づくんではないんです。神様に身を避けた時、神様が皆さんを完全にされるんです。神様に皆さんが身を避けた時、神様が道を整えてくださるんです。この順番、気をつけるべきですね。

まず神様に逃げ込む。まず神様により頼む。神様を盾とするならば、神様が皆さんを完全にし、道を完全な道を歩ませてくださるんです。

主はアブラハムにも仰せられましたね。冒頭で宣言したんですけども、アブラハムが99歳になった時、主が彼に現れて言われたのは、「私は全能の神エル・シャダイである。あなたは私の前を歩み、完全なものとなりなさい」。

完全なものとなるためには、主と共に歩むこと。一歩一歩主と共に歩んでいくのであるならば、皆さんは徐々に徐々に完全なものへと完全なものへと近づいていくんです。なぜなら主はエル・シャダイ、全能の神だから、何でもできるから。だから、この神により頼む皆さんが共に歩むのであるならば、完全なものになるんです。皆さんお一人では決してなれません。主と共に歩んでこそ、完全なものになっていくんです。アーメン。

ただ、ダビデはこの「神こそ私に力を帯びさせて、私の道を完全にされる」と言いましたし、そしてアブラムに対しても主は、「私は全能の神である。あなたは私の前を歩み、全きものであれ、完全なものであれ」と言われました。

さらにダビデは言うんですね。33節を一緒に宣言します。

詩篇18:33

「彼は私の足を雌鹿のようにし、私を高いところに立たせてくださる」

アーメン。足を鍛えてくださり、雌鹿のようにしてくださる。雌鹿は岩場を飛び跳ねるように高いところに行くことができますね。敵はなかなかそういうところには行けません。この岩の上、高いところ、見晴らしが良くて、また多くの物事が見える場所、そして安全な場所です。

私たちも同じです。何か問題が消えなくても、敵を打ち負かせない時でも、主は立つ場所を変えてくださる力を与えてくださるんです。雌鹿の足、岩場の上に立たせてくださる、そのような力、神様が雌鹿のような力を与えてくださる。何も敵と真正面から戦うべき時ではないような時は、主は雌鹿の足を与えてくださるんですね。

立つ場所を変える力が与えられます。今この方法でもなかなか物事が進まないという時は、雌鹿の足を与えてくださって、立つ場所をもっと高いところへと行く力を与えてくださるんですね。

そして主は徐々に私たちを鍛えてくださり、敵を打ち負かす力をも主は私たちに備えさせてくださるんですね。続く34節に書いてあります。

詩篇18:34

「戦いのために私の手を鍛え、私の腕を、青銅の弓をも引けるようにされる」

アーメン。もう青銅の弓なんて、まあ普通の人はなかなか引けるもんではないですね。けれども、主が鍛えさせてくださると書いてあります。

主は、ただ単に雌鹿の足で逃げさせて終わりではありません。主は鍛えさせてくださり、そして守ってくださり、守りの後には、攻める力、敵を打ち負かす力、青銅の弓でもうバーンと敵を打ち負かす力をも備えさせてくださる。そして私たちのこの敵に勝利する術を、力を、手の力、足の力を持って、主は備えてくださるんです。

主は言われます。2コリント12章において、「皆さんがたとえ弱かったとしても、私の恵みはあなたにとって十分である。私の力は弱さの中で完全に現れる」。

アーメン、ですから、たとえ皆さんが弱いとしても、力強い主が皆さんを救ってくださり、また皆さんを徐々に鍛え、青銅の弓をも引ける、そういう力をも備えてくださるお方です。

【結論】

主こそが皆さんにとっての力であり、盾です。身を避ける盾。この主の翼の影に、主という盾の内に囲まれていくうちに、皆さんはどんどん強くなっていくんです。主の翼の影、主の岩の上においては、そこは決して揺るがされない岩です。

この主こそが皆さんの足を雌鹿のようにし、また皆さんの腕を鍛えて青銅の弓をも引けるようにしてくださるお方です。主は何も強くなってから来なさいとは言いません。完全なものになってから来なさいとは言いません。「私と共に歩みなさい。私を避け所とし、私を盾とし、私と共に歩みなさい。するならば、あなたは完全なものになっていく」。主は言われました。

まことに主のほかに一体誰が神でしょうか。この主により頼み、この主を避け所とし、そして主と共に歩み、完全なものになっていく皆さんでありますように。イエス様のお名前によって祝福いたします。アーメン、ハレルヤ。

愛する主よ。あなたこそ我が盾、我が岩、我が砦。あなたに信頼するものは、決して揺るがされることがないことを感謝いたします。主よ、それゆえに、今日もあなたを避け所とします。目の前の諸々の問題が、岩のごとく山のごとく、ゴリアテのごとく立ちはだかる時に、主よ、あなたこそ我が盾とし、我が避け所といたします。

主よ、あなたと共に歩むものはなんと幸いでしょうか。完全なものになっていくからです。決して敵に打ち負かされるものではなく、主がガードしてくださり、そして主にあって守られる。主にあって敵に勝利するからです。

主よ、今日またあなたと共に歩ませてください。あなたにあって進みゆくこのお一人お一人が、あなたというこの完全なガードを体験しますように。また、敵を打ち負かすために、青銅の弓をも引く力をあなたが与えてくださいますように。そして勝利する組、Victory組として、この時代、多くの若者たち、子どもたちを育み育て、主とつなげていき、またその親たちをも主とつなげていく私たち共々でありますように。

主イエス・キリストのお名前によってお祈りをいたします。アーメン。

主日礼拝

人を新たに創り替えられるお方・イエスキリスト(マルコ10:46-52)

第一礼拝 Youtube動画

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週報/メッセージ(説教)概要

 今日の御言葉 マルコ10:46-52

 

 この世界は、神のことばによって創造されました。神のことばであられるイエス・キリストは、世界を創造するほど力あるお方であり、あなたの人生を「再創造」することがおできになるお方です。

 天地を創られ、宇宙を創られ、「光があれ」ということばで光を創られたお方は、あなたの人生を、光に満ちた人生へと創りなおすことができるのです。今日は、人生が再創造された人の事例を見たいと思います。

 

 昔、イスラエルのエリコという町に、バルテマイと呼ばれる人がいました。バルテマイは彼の名前ではなく、「テマイの子」 という意味です。というのは、彼は生まれつき目が見えず、父テマイは、彼は名前を与えるにも値しない、と、名前を与えなかったからです。 成長した彼は、物乞いとして生きるしかありませんでした。

 毎朝大通りに行って座り、人々から何かを恵んでもらうしかありません。多くの人が彼を見下ろして通り過ぎて行きます。馬車やらくだは、パレスチナの乾いた土を巻き上げ、時には、ふんを落として行ったでしょう。 彼自身、思ったでしょう。 自分はなぜ目が見えずに生まれついたのか…。なぜ自分は、ただ恵んでもらうだけで、恵む側にはなれないのだろう…。でも彼は自分の人生が変わるとは思えず、あきらめていました。

 ――ある日、彼は、ひとつの噂を耳にします。
それは、どんな人をも癒し、救うことができる、ダビデの子として来られる救い主・イエス・キリストの噂でした。彼はその噂を聞いた時、「このお方なら、癒してもらえるかもしれない」「彼に会えたなら、人生が変わるかもしれない」と思いました。 しかし、どうすればイエス様に会えるのか分かりませんでした。 そうして来る日も来る日も、大通りに行っては恵んでもらう、という変わらない日々が、厳然とただ繰り返されていました。


 ある日のことです。町の空気がいつもと違うことに気づきました。――何か、喜ばしいような。何か、興奮しているような。。。 彼は、通りの人に尋ねます。すると答えが返ってきました。「ナザレのイエスがもうすぐここをお通りになる!」 その言葉を聞くやいなや、バルテマイはすぐに立ち上がって、大声で叫びました。
 「ダビデの子イエスよ、どうか、私をあわれんでください!
人々は驚き、彼を叱りつけました。「うるさい!黙れ!」「静かにしろ!」 しかし彼は、もっと大きな声で叫び続けます。 「イエスさま!私のところに来てください!」 「どうか、私をあわれんでください!」
 イエス様は、彼の叫び声を聞いて、立ち止まりました。そして言われます。「あの人を呼んで来なさい」

すると黙らせようとしていた人々は、言うしかありません。「安心して立ちなさい。あなたを呼んでおられる。」
 バルテマイはそれを聞くと、自分の上着――物乞いとしての着物――を投げ捨てて、

イエス様がおられると思われる方へ、手探りで一歩一歩進んで行きました。
 何歩目を進んだ時でしょうか。彼は、イエス様のことばを聞きます。  「わたしに何をしてほしいのか?
イエス様はすべてをご存じでした。目が見えないことも、名も与えられなかった人生も。長い日々の苦しみ・悩みも。それでもイエス様は、彼自身の口で語らせ、ことばでの個人的な交わりを求めておられるのです
 バルテマイは答えました。「わたしの偉大な先生、目が見えるようになることです。
すると、イエス様は言われました。「行きなさい。あなたの信仰が、あなたを救った。
 その瞬間―― 彼の闇は、上と下に真っ二つに裂けて、人生初めての光が彼に差し込みました
彼は、自分を救ってくださったお方が見えるようになり、天と地が見え、涙が地に落ちるのが見えました。
 イエス様は、目を癒しただけではありませんでした。聖書はこう続けます。「すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。」と。彼はもう、元の物乞いには戻らず、その上着は着ませんでした。

彼は単に、「目が見える普通の人」として生きるのではなく、「主に従う者」として生きる道を進んだのです。
 彼は、人から恵みをいただいていた人生から、多くの人々にイエス様の恵みを証しする者へと変えられ名前すら与えられていなかった彼を、イエス様は、永遠の書物に書き記される者へと再創造されたのです。

 

 私達も、イエス様にあって、バルテマイのようになれます!イエス様は今も生きて働かれる神の御子です。

イエス様が、通り過ぎようとしておられる時、彼を叫び求めてください。彼は立ち止まり、尋ねられます。
あなたは、わたしに、何をしてほしいのですか?」 この問いに、私達は、何と答えるでしょうか?

 どんなに「自分は変わらない」と思えたとしても、また、闇の中で座り込んでみじめに思っていたとしても、世界を創造し、光を創られた「おことば」なるお方イエス様は、今、あなたの人生を創りなおすのです!

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