メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ
聖なる絶対服従待機組(ダニエル3章)
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主日礼拝
十字架の主への感謝はあるだろうか?(ヨハネ12:24-25)
第一礼拝 Youtube動画
English Service: Why "Passion Week"?(Sol8:5-7) Youtube動画
週報/メッセージ(説教)概要
本日は「棕櫚の聖日(パームサンデー)」、イエス様がろばに乗ってエルサレムに入城した時、人々が衣服やしゅろの葉を置いてイエス様を歓迎したのを記念する日である。イエス様は、群衆がしゅろの葉を持ってホサナと叫びながら迎える様を、どういう心境で見ておられただろう。彼はご存知だった。その一週間後、彼らの「ホサナ」は「十字架につけろ」へと変わり、弟子達からも、そして神からも捨てられる、という事を。
群衆はなぜ、そのように様変わりしてしまうのか。弟子達はなぜイエス様を捨てたのか。それは、人は、自分が心地良く都合がいい事を「正解」とし、都合が悪く心地悪い事を捨て去る性質があるからだ。しかし主は言われる。『自分の「命(プシュケー:自分主体の心理)」を愛する者はそれを失い、この世で自分の命(プシュケー)を憎む者は、それを保って「永遠の命(ゾエ:霊的・天的生命)」に至るであろう。』(ヨハネ12:25)
つまり、自分の思い・意思・感情よりも、神の言葉、すなわちイエス様を選択する人は、復活の主イエス様へと接ぎ木され、永遠の命の源泉なる神へとつながり、後に続く世へ存続するいのちを獲得するのである。
私達は本能的に、御言葉は正しい、とはわかる。けれども、御言葉が「良し」と示す事をせず、「悪し」と示す事を捨てずに、御言葉を無視して、あくまで自分の好む事を貫き通すなら、不義をもって真理を阻む事になってしまう(ローマ1:18)。そうしているなら、その分だけ、呪いめいた事、災いめいた事が起きてしまう。
人はすべて、エデンの園以来、神の言葉に逆らって神から離れ、自分の善悪判断に従って歩み続けた故に、無意識的・自動的に、滅びへと向かう生き方以外を、知らなかった。しかしイエス様は、私達が知らないでやっていた罪については、十字架上で執り成し祈ってくださった。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と。そして本来私達が受けるべき罪の刑罰を、イエス様は、身代わりになって、受けてくださった。それを信じて、救われた人間が、私達・クリスチャンである。
私達は、私達のために十字架上で痛まれ、私達の身代わりに死んで下さったイエス様への感謝を、どれ程、感じているだろうか。自分の罪に、申し訳なさを感じるだろうか。自分の弱さに、ふがいなさや悲しみが出てくるだろうか。そして、そんな自分が、罪と滅びから買い戻され、救われた事への感謝と喜びの感覚が、あるだろうか?主がして下さった事への感謝を、言葉だけでなく、ありとあらゆる感情や感覚をもってあらわす事、それが天国への道である。天国は永遠に、感謝と喜びの賛美があふれているからだ(黙示録5章)。
しかし、もしひと度、福音を聞いて救われ、その喜びと御国の素晴らしさを味わっていて、敢えて御言葉を捨てて、自分のよかれで歩んで行くなら、その人の下すあらゆる選択は「愚鈍の極み(アスネトス)」となる。
『なぜなら彼らは神を知っていながら神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いは虚しくなり、その無知な心(アスネトス)は暗くなったからである。』(ローマ1:21) 「感謝もせず」と訳された語ユーカリステオーは、感謝の意を表明する事である。英語の感謝(thanks)は、考える(think)と密接に関わった語である。
つまり、神様への感謝は、具体的に表明すべきものなのだ。神様はこの案件に、どう介入し、いかに成功させて下さったか、その一つ一つを熟考し、感情を込め、具体的に感謝を捧げなさい、という事である。
神をあがめ感謝すべき場面なのに、それらを捧げないなら、一つ、愚かさを積み上げる事になる。だから神への感謝が無い人は、次から次へと愚かになって行き、悪の力に縛られ、人生の諸々が、悲惨な状態へと傾いて行ってしまう。そうして「愚鈍の極み(アスネトス)」になると、物事を「正常に考える」という軸が無くなり、あらゆる事を、愚かで邪悪な方法で片付ける以外に、思いつかなくなり、サタンの手下として思うがままに用いられてしまう。そのような状態の人が助かる道は、1つしか無い。
「神に感謝する事!」 それも、 具体的に感謝を表明する事によって。
私達は、私達のために十字架で痛まれ、悲しまれ、神に捨てられたイエス様に、感謝しても、し尽くせないはずである。イエス様が身代わりに死なれた事への申し訳なさ、自分のふがいなさ、そしてイエス様が為されたわざの故に、贖われ、救われた事への感謝や喜び、また、ありとあらゆる「感覚」を表現しながら、感謝と賛美を捧げる人には、全ての祝福が戻ってくる。ネブカデネザル王は、そうだった(ダニエル4章) 。
この時期、十字架の主が具体的に自分に何をして下さったのか、今一度思い返し、感謝と賛美を捧げ、主との関係を一層親密に深めて行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
約束が与えられても手をこまねいて実行しないでいると・・・(ヨシュア記18:8-28)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 定期祈祷会メッセージ
- 執筆 :
- pastor 2022-4-5 6:24
約束が与えられても手をこまねいて実行しないでいると・・・(ヨシュア記18:8-28)
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主日礼拝
この宇宙の下で最も尊く大切なもの(1コリント13:13)
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English Service: When Jesus visits you(Luk19:1-10) Youtube動画
週報/メッセージ(説教)概要
今月の聖句は、第一コリント13:13である。パウロは勧める。あなた方はより優れた賜物を熱心に求めなさい、しかしどんな賜物にまさる道がある、それは、愛である、と(1コリント12:31)。この宇宙の下で、最も尊く、大切なものが「愛」であり、これこそ、私達が真っ先に追求し、そして身につけなければならないものである。
クリスチャンの中には、「すごい」と思えるような賜物を持っている人は、確かにいる。心に秘めた事や、将来を言い当てる「預言」の賜物を持つ人、あらゆる奥義や知識に通じているかのような人、あるいは、この人が祈るなら、山をも動かせるのではないか、と思えるような信仰の人など。あるいは、持っている物を全部、貧しい人達に分け与えるような人や、自分の体を焼かれるために渡す程の、すごい犠牲を払う人もいる。
しかし、そうした「すごい賜物」を持っているからといって、必ずしも、神と人から評価されるわけではない。
書いてある。もし「愛」が無いなら、それらはやかましいどら、「うるさい(アララゾー)」シンバルであると(1節)。
このアララゾーとは、鬨の声を大声で叫ぶ際の擬音で、やかましく喚きちらす事である。つまり、たとえそうした「すごさ」を持っていたとしても、愛が無いなら、その「すごさ」が、逆に「やかましい」と厭われてしまう。
すごい奇跡が起きたね、でもそれが何? あなたはすごい信仰だね、だから何? わたしの渇いた人生に、それが一体何の足しになるの? と。たとえ、そういったすごさは無くとも、愛があるなら、人の心は動くのだ。
私達キリスト者は、なぜ、イエス様に心惹かれ、イエス様について行くようになっただろうか?それはイエス様が、私達を愛してくださったから、ではなかったか。しかも、十字架上で、ご自分のいのちを投げ出すまでの愛で。だから、私達キリスト者も、イエス様にならって、愛を追い求め、愛を振りまいていくべきなのだ。
自分に愛があるか無いかは、4節以降を「逆」に読むと見えて来る。すなわち、愛が無い人は不寛容であり、不親切であり、よく人を妬む。愛が無い人は、自慢し、高慢になり、礼儀に反する事をする。愛が無い人は、自分の利益を求め、怒りに身を任せ、人がした悪をよく勘定し、不正を喜び、真理を喜ばない。
愛が無い人はがまんできず、信用せず、期待せず、耐え忍ばない。そういう人は、どんなに「すごい」事をしてみせたところで、やかましいシンバル、すぐにでも止めて欲しい「騒音」となってしまうのだ。
パウロは言う。完全なものが現われたら、不完全なものは廃れる、と(10節)。つまり預言も、異言も、知識も、そうした賜物は、所詮は完全なものの一部分を映す鏡に過ぎない。パウロはさらに続ける。子どもの時は子どもとして話し、考え、論じた、と。つまり、「愛」と比べるなら、それらのものは「子供のたぐい」「鏡にぼんやり映るたぐい」なのだ。真に価値あるものは「愛」であり、愛そのものであられるイエス・キリストである。
私達は、彼によって完全に知られており、彼にあって、ぼんやり鏡に写ったようなものを完全に知る事ができる(12節)。優れた賜物を熱心に求める事は、確かに重要ではあるが、愛が無いなら、何にもならない。
愛があってこそ、物事を完全に知り、物事をわきまえ、全ての賜物が、完全になるのだ。
この宇宙、この三次元世界は、愛の実体であられるお方・イエスキリストの再臨と共に、巻き去られる。
その有限世界の下で最も価値あるものは、愛である。愛が目指すところは「いのち」であり、愛が最も言いたい事は「生きなさい」「存在しなさい」である。それが、愛なる神様が、私達に願っておられる事である。
自分には愛が無い、どうしたら愛が自分から流れ出るようになるか、と思う人は、私達をはじめから愛してくださったイエス様を、神の御子と告白し、その愛の内に留まり続けているなら、自然と身についてくる(1ヨハネ4:7-21)。イエス様は、私達が生きるように、と、ご自身のいのちを差し出し、身代わりとなって下さった。
それに対し、サタンは、愛を破壊する「善悪判断」へと誘い込み、愛のわざを、あたかも損得勘定の「損」と思わせ、愛のわざを、くだらないと思わせ、愛から離れるように仕向けて来る。そしてサタンの願うところは、「生きるな」「存在するな」である。私達はサタンのわざを踏みつけ、キリストの働きをするべきである。忘れてはならない。この世で最も価値あるものは、愛であり、世の富や地位は、何も永遠へと加えるものは無い。だから、愛によって子育てしている専業主婦のほうが、愛が無い高給取りよりは、はるかに値高いのだ。
神の御子が十字架でいのちを投げ出す事は、究極的に無駄な事に思えるかもしれない。しかし、それによって神のこよなき愛が示された。イエス様の十字架こそ、この宇宙で最も価値のある愛のあらわれである。
イエス様にならい、この限りある時間、限りある地上の命を、人を生かし、次世代を生かし、真理をつなげるために、いのちを燃やし尽くして行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!