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メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:モーセの顔の光(出エジプト記34:29-35):右クリックで保存

『モーセはそのあかしの板二枚を手にして、シナイ山から下ったが、その山を下ったとき、モーセは、さきに主と語ったゆえに、顔の皮が光を放っているのを知らなかった。アロンとイスラエルの人々とがみな、モーセを見ると、彼の顔の皮が光を放っていたので、彼らは恐れてこれに近づかなかった。』(出エジプト記34:29-30)

40日間、世のものを飲み食いせず、主の臨在に浸されて主と語っていたモーセは、自らのはだが光を放っている事に気が付かなかった。
イスラエルの人々がモーセを見た時恐れた程であるから、まばゆく神聖な光だったのだろう。
しかし、それはずっと続くものではなく、やがて消え失せるものだった。

私達も、いつも主を思い主と交わるうちに、無意識の内に主の栄光を輝かせるようになり、世の人がそんな私達を見る時、特別な感じがするようになるが、私達はそれとは気付かない。
しかし、主の栄光を輝かせているかのような「ふり」をするなら、とたんに胡散臭くなってしまう。

『モーセは主の前に行って主と語る時は、出るまで顔おおいを取り除いていた。そして出て来ると、その命じられた事をイスラエルの人々に告げた。イスラエルの人々はモーセの顔を見ると、モーセの顔の皮が光を放っていた。モーセは行って主と語るまで、また顔おおいを顔に当てた。』(出エジプト記34:34)

モーセは、会見の天幕にて主と語るたびに、顔の覆いを外して主の栄光を受け、人々の前に出る時は、顔に覆いをかけて語った。
パウロは、このモーセが発した顔の光とその覆いについて、第二コリント3章にて詳しく語っている。

モーセが山で主にいただいた石の板、この石に刻まれた「文字の務め」は、死の務め(第二コリント3章7節)で、罪に定める務めであり(同9節)、やがて消え去るべき栄光である。
『神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。もし石に彫りつけた文字による死の務が栄光のうちに行われ、そのためイスラエルの子らは、モーセの顔の消え去るべき栄光のゆえに、その顔を見つめることができなかったとすれば、まして霊の務は、はるかに栄光あるものではなかろうか。』(2コリント3:6-8)

文字の務めに対し、御霊の務めは、はるかに栄光ある務めである。

『そしてモーセが、消え去っていくものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、顔におおいをかけたようなことはしない。実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、その同じおおいが取り去られないままで残っている。それは、キリストにあってはじめて取り除かれるのである。今日に至るもなお、モーセの書が朗読されるたびに、おおいが彼らの心にかかっている。』(2コリント3:13-15)

パウロは、モーセが顔に覆いを掛けた理由を、消え去っていくものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、と言っている。
栄光が消え去って行く様を、イスラエルの民が見たらどうなるか。色々な口実をつけてモーセに反逆した民だから、大体想像がつく。
そしてパウロは、この覆いは、今日もモーセの律法が朗読される度に、イスラエルの民にかけられている、と言っており、それはイエスをメシヤとして受け入れていない現代のイスラエルもまた同じである。

この覆いが取りのけられるのは、ただキリストによってであり(同15節)、もし、人が主キリストに向くのであれば、キリストが覆いを取り除いて下さる。
『しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。』(2コリント3:16-18)

主の栄光を見えなくさせている、私達の心にかかる覆いは、色々ある。
恐れ、不安、固定概念など。しかし、その人が主に向くのなら、その覆いは取りのけられる。
それ故、私達の務めは、人をただキリストに向かせる、これに限る。

モーセの時代、律法は石の板に刻まれ、モーセは会見の天幕に行かなければ主と相対す事が出来ず、栄光の光を発する事は無かったが、今や私達には、御言葉は石の板ではなく心の板に記され、私達は御言葉なるキリストにあって、主と一体化された。
主はいつも共におられ、私達が主に呼びかける時、私達の心を主に向ける時、あらゆる心の覆いは取り除けられ、主の栄光を受け、反射して、至る所でそれを輝かせる事が出来るのだ。
私達は、モーセのように栄光を覆うことはせず、世の光として、燭台として、光を世に輝かせるべきである。

礼拝説教メッセージ音声:重要な祭りと戒めの再確認(出エジプト記34:18-28):右クリックで保存

続いて主は、イスラエルが守るべき祭りや、幾つかの戒めについての再確認をしている。
ここで述べられている事はほぼ全て、以前主が命じられた事の焼き直しであるが、その中でも、特に重要な事柄を再確認したのだろう。

イスラエルが守るべき重要な祭りの筆頭は、種を入れないパンの祭りである。(18節)
主が、大いなる救いによって奴隷状態から開放して下さった事を祝う過越祭から七日間に渡って行われる祭りで、その間、純粋な種を入れないパンを食べ続け、主の救いと御言葉をじっくり味わう時とするものだ。

19-20節は、人間も動物も最初に生まれる子は主のものである事の再確認である。
特に、ろばは羊で贖うように指示され、贖いが無いなら首を折らなければならないと定めているが、ろばは、主イエスを人々に届ける働き人を暗示しており、主のための働き人は、必ず、まことの小羊キリストによって贖われた事の実感が必要である。

21節は、安息日尊守の命令で、いかに耕作時や刈入れの時であっても、安息日は休むべきであると示している。
一般的には、耕作時や刈入れの時は、一日でも惜しんで休まず働く時であるが、それでも安息日は尊守すべきであると具体的に命じている。
主の命じられた安息日を守るなら、主は、その休んだ日の分も、倍にして祝福して下さる事を、マナによって(出エジプト記16:11-21)、また、安息年によって(レビ25:20-22)、教えられている。

22節は、ユダヤ三大祭の二つ目、七週の祭りの尊守を命じている。
『年に三度、男子はみな主なる神、イスラエルの神の前に出なければならない。』(出エジプト記34:23)
年に三度、イスラエルの男子が皆、エルサレムに集中してしまうと、その間の男ではどうするのか、敵が攻めて来たらどうするのか、という心配があるかもしれないが、主は、それをも払拭して下さる。

『わたしは国々の民をあなたの前から追い払って、あなたの境を広くするであろう。あなたが年に三度のぼって、あなたの神、主の前に出る時には、だれもあなたの国を侵すことはないであろう。』(出エジプト記34:24)
敵がそれを狙って攻めてくる事は無いと、主は約束しておられる。
実際、主の命じられた事を尊守しようとしたヨシャパテ王の時、周囲の国々は皆恐れ、ヨシャパテと戦うことをしなかった。(2歴代誌17:10)

『あなたは犠牲の血を、種を入れたパンと共に供えてはならない。また過越の祭の犠牲を、翌朝まで残して置いてはならない。』(出エジプト記34:25)
ここで、過越の犠牲やパンについて、それは特別な日の、特別なものである事を、再び確認している。
イエス・キリストは、過越の日が始まったその夕暮れ、捕らえられ、裁判にかけられ、十字架にかけられ、ほふられた。
実に、過越祭は、ほふられた小羊キリストを示す祭りである。

『また主はモーセに言われた、「これらの言葉を書きしるしなさい。わたしはこれらの言葉に基いて、あなたおよびイスラエルと契約を結んだからである」。モーセは主と共に、四十日四十夜、そこにいたが、パンも食べず、水も飲まなかった。そして彼は契約の言葉、十誡を板の上に書いた。』(出エジプト記34:27-28)
こうして、四十日四十夜の後、民が以前だいなしにしてしまった主との契約が修復され、再び締結されるに至った。

礼拝説教メッセージ音声:神の視点に立って(出エジプト記34:1-17):右クリックで保存

主の前に大きな罪を犯したイスラエルの民は、滅ぼされるまであと一歩の所から、モーセの執り成しによって救われた。
しかし、主はもうイスラエルと共に行かないと言われたが、そのような状況に対しても、モーセは主に執り成し、イスラエルも悔い改めたため、主は、イスラエルと共に上って下さるという約束をして下さるまでに、思い直して下さった。
『主はモーセに言われた、「あなたは前のような石の板二枚を、切って造りなさい。わたしはあなたが砕いた初めの板にあった言葉を、その板に書くであろう。』(出エジプト記34:1)
主は、ひとたび民の違反によって破壊されてしまった契約、その石の板を、再び与えて下さる。

『主は彼の前を過ぎて宣べられた。「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、いつくしみを千代までも施し、悪と、とがと、罪とをゆるす者、しかし、罰すべき者をば決してゆるさず、父の罪を子に報い、子の子に報いて、三、四代におよぼす者」。』(出エジプト記34:6-7)
これこそ、主のご性質である。
旧約の神は、何かと、恐ろしいイメージがあるかもしれない。
しかし、聖書を主の側の視点で読んでみると、主がさばきを下される直前までの人々が、いかに頑なで、邪悪で、礼儀知らずであったかを知るはずであり、主はよくそこまで忍耐されたなと、主の恵み深さ、憐れみ深さを、逆に知るはずである。

私達は何かと、自分たちが属する側の視点で、神をあちら方向へと追いやったような視点で、物事を見がちである。
例えば、皆さんにとって「異性」にあたる人が、浮気をして、皆さんにとって「同性」にあたる人が憤って暴力を振るったとする。それを聞いたなら、大体、皆さんは「同性」の立場に立ち、「異性」を非道いと糾弾し、「同性」に同情する傾向がある。
それと同じように、人が何かを犯して、神が裁いた、というなら、人は人に同情し、裁きを降す神は非道い、と、思いがちだ。
しかし、実際に罪を犯したのは人間の側であり、私達は悔い改めに立つべきであり、神はどのように思われるか、どのようなな思いで人の悪を忍耐し、どのようにやるせない思いで、裁きを降さざるをえなかったかに、思いを馳せるべきである。

主が裁きをされたり滅ぼされたりするからには、その前に必ず人間の側の罪や反逆があり、主の側の赦しと、悔い改めの促しと、長い忍耐とがある。
主があまりに忍耐深くて、さばきを下されないのをいいことに、なおも罪を犯し続けていると、主は、やがて裁きを下される。

例えば、カインからノアの時代に至るまで、読めば僅か数ページしかなく、通読では系図の箇所はつまらなくて一人ひとりの名前など気にも留めないが、その、一人の人生分の間、主の忍耐と赦しがあり、カインからノアの時代に至るまでの何百年、何千年もの間、主は忍耐し、人が立ち返るのを待っており、とうとう、ノアとその家族以外は、はなはだ堕落してしまうまでになってしまったため、洪水をおこされたのだ。
私達は、神の裁きや罰に目を向けるではなく、むしろ、私達の側のそむきや罪、身勝手さを、悔い改めるべきである。

『あなたは他の神を拝んではならない。主はその名を『ねたみ』と言って、ねたむ神だからである。』(出エジプト記34:14)
主は再び契約を結ばれる段において、真っ先に偶像崇拝を禁じ、異教徒と契約を結ぶ事を禁じた。
それ程までに、偶像崇拝や、汚れた民族と関わりを持つ事は、罠となるからだ。

主は確かに恵み深く、憐れみ深い。怒るに遅く、さばきをいつまでも遂行されない。
しかし、そうだからと言って調子に乗り続けると、約束の地に入れなかったり、滅ぼされてしまったり、という事例が厳然としてある以上、私達は頑なになる事なく、主に従順であり続けるべきである。

礼拝説教メッセージ音声:主が共にいて下さるための執り成し(出エジプト記33:12-23):右クリックで保存

モーセは、主がイスラエルと共に行かれることを願って主に執り成すが、ここで注目すべきポイントは、「あなたは・・・と言いました」「かつてあなたは・・・と仰せになりました」、など、必ず「主が言われた御言葉」を盾に取り、そして願いを申し出ている事である。
私たちも主に願う時、異邦人の祈りのごとくただ願いごとを何百遍繰り返しても効果は無い。御言葉に根拠を置いた祈りこそ、聞かれる祈りである。

『主は言われた「わたし自身が一緒に行くであろう。そしてあなたに安息を与えるであろう」。』(出エジプト記33:14)
こうしてモーセは、主が共に行って下さるという口約束はいただいたものの、それだけでは心配だったのかもしれない。イスラエルの民を「わたしたち」として、自分にだけでなく、自分たちイスラエルとも共に行って下さい、と頼む。

『モーセは主に言った「もしあなた自身が一緒に行かれないならば、わたしたちをここからのぼらせないでください。わたしとあなたの民とが、あなたの前に恵みを得ることは、何によって知られましょうか。それはあなたがわたしたちと一緒に行かれて、わたしとあなたの民とが、地の面にある諸民と異なるものになるからではありませんか」。』(出エジプト記33:15-16)

モーセは、あなたが共におられないのなら、あなたの名がつけられたイスラエルは、他の民族と何ら区別が無いではありませんか、それでは主の栄光になりません、と、暗にほのめかしている所が、さすがである。
主が共におられる事。それこそ、神の民と呼ばれるゆえんであり、私達キリスト者も同様である。

『主はモーセに言われた、「あなたはわたしの前に恵みを得、またわたしは名をもってあなたを知るから、あなたの言ったこの事をもするであろう」。』(出エジプト記33:17)
主はこうしてイスラエルの民と一緒に行って下さる事を約束して下さったが、モーセはなお、食い下がった。
『モーセは言った、「どうぞ、あなたの栄光をわたしにお示しください」。主は言われた、「わたしはわたしのもろもろの善をあなたの前に通らせ、主の名をあなたの前にのべるであろう。わたしは恵もうとする者を恵み、あわれもうとする者をあわれむ」。』(出エジプト記33:18)

民は金の子牛を作って主を激しく怒らせ、殺されても当然の事をしてしまっていたため、主は本当にそんな民と共に行って下さるのだろうか、と、モーセは心配だったのかもしれない。
それに対し、主が言われたのは、「わたしは恵もうとする者を恵み、あわれもうとする者をあわれむ」であった。
それは実に心強い言葉である。
主は、民のかたくなさや邪悪さに従ってあしらわれる事をせず、ただ主が恵もうとされるが故に民は恵まれ、ただ主が憐もうとされるが故に民は憐れみを受けられるのだ。
そこには、人間の側の何かは、一切無い。
民が罪深かろうと、かたくなであろうと、主が「そうする」と決められたからには、民はそうされるのだ。
私達も同様に、主から恵みとあわれみを頂けるような要素は一切なく、ただ、主が一方的に私達を憐れんで下さり、ひとり子を世に遣わして私達の罪の身代わりとして下さったからこそ、私達は恵みと憐れみを、ただ受けられるのである。

『また言われた、「しかし、あなたはわたしの顔を見ることはできない。わたしを見て、なお生きている人はないからである」。』(出エジプト記33:20)
主はあまりに聖であられ、その「聖」に人が触れてしまうなら、人は生きてはおれない。
そこで主は、「わたしの栄光がそこを通り過ぎるとき、わたしはあなたを岩の裂け目に入れて、わたしが通り過ぎるまで、手であなたをおおうであろう。」といわれる。(出エジプト記33:20-23)

私達は、主は御手によって私達を悪しき者から守っていて下さる事は良く知っているが、実は、主の「聖」からも守られているのだ。
罪ある人が、石の板をそのまま見るなら、その人は死んでしまう。そこで主は、契約の箱と贖いの蓋によってそれを覆い、人を主の聖なる光によって打たれる事から守って下さった。

主は、神とイスラエルの民との間に、執り成し手であり仲保者であるモーセを備えて下さったように、神と私達との間にも、完全な仲保者であるイエス・キリストを備えて下さった。
私達がそのまま聖なる主の御前に出るなら、ただ打たれて死ぬしか無い。しかし、私達は執り成し手であり仲保者であるキリストにあって、大胆に恵みの御座に近づく事が出来るようになったのである。

頑なな心と柔和な心(ヘブル3:7-19)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

聖霊は私達に、以下の命令を、三度も繰り返して警告している。
「きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら、 荒野における試錬の日に、/神にそむいた時のように、/あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。」(ヘブル3:7-8、同15節、同4:7)
かたくなさ。それは、主の道を見えなくさせ、迷わせる性質であり(ヘブル3:10)、決して主の安息に入る事の出来ない性質(同11、18節)、御怒りを引き起こし、しかばねを荒野に晒す性質である。(同17節)
「兄弟たちよ。気をつけなさい。あなたがたの中には、あるいは、不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者があるかも知れない。」(同12節) ここの「不信仰(アピスティア)」は、2節や5節の、キリストの「忠実(ピストス)」の反対言葉で、不忠実を意味する。「弱い信仰」ではなく「反・信仰」なのだ。

頑なな人は、災いである。いかに多くの奇跡を体験しても、いかにモーセのような素晴らしい導き者の指導を受けても、荒野で滅んでしまい、安息の地に決して入れないものだ。
そこには身分の高い低いは関係無く、多数決の原理も無い。エフライム部族の族長は約束の地に入れなかったのに、同じ部族でモーセのかばん持ちの若者・ヨシュアは、入れた。モーセが40日山から降りて来なかった時、アロンや民は不忠実に身勝手な神を造って堕落したが、ヨシュアは忠実に待っていた。
また彼は、モーセが会見の天幕から帰った後も、ずっと幕屋を離れずにいた程、忠実だったからだ。
60万以上の民が「エジプトへ帰ろう」と言い、二人が「約束の地へ行こう」と言うなら、普通、その集いはエジプトへ行く、というのが、多数決の原理であるが、神の真実は、それを許さない。
神の御心が、神の御約束が「約束の地へ導く」というのであれば、それを信じて従うべきであり、それに逆らったのがいかにアブラハムの子孫60万以上であっても、全員が荒野で屍を晒す事になったのである。
それ程、神の約束は峻厳であり、御声に逆らい、御言葉に逆らう事には、厳然たる「災い」しか無いのだ。

「きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら、 あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。」皆さんには今、主から何か御言葉は与えられているだろうか。何か約束が与えられているだろうか。
主に喜ばれるあの事を、今しなさい、と言われているだろうか。捧げ物を滞らせてはならない、と言われているだろうか。あの兄弟、あの姉妹を、憎む事を止めなさい、和解しなさい、と言われているだろうか。
赦しなさい、と言われているだろうか。怒りや憤り、陰口、ねたみを捨てなさい、と言われているだろうか。
体を害するようなあの習慣から離れなさい、と言われているだろうか。
もし言われているなら、それから顔を背けずに服従すべきである。いつから?それは、きょうである。(13節)
聖書の御言葉を読んだ時、あるいは礼拝のメッセージや兄弟姉妹との交わりの内で、心に特に印象付けられたり、ひっかかりを覚える示しがあったなら、その「主の御声」から顔を背けず、服従すべきである。

私達は、聞いた御声に従い、与えられた御言葉を信じて服従するなら、安息に入る。しかし、荒野の民のように、御言葉を聞いてもそれを信じず、頑なになって御声を退けるなら、安息に入れず、滅んでしまう。
「彼等は聞きし言葉に信仰を交ぜざりしかば、その聞ける言葉も彼等を益せざりき。」(永井訳 ヘブル4:2)
頑なな心、すなわち、世の価値観によって踏み固められていたり、表層は柔らかくても内には固い岩があったり、あるいは、いばらの茂るような心であったなら、御言葉を混ぜても、実を結ばない。
しかし、御言葉が混ざりやすい柔和な心は、幸いである。その人は地を相続し、安息に入るからである。
信仰によって御言葉を自分自身と交ぜるなら、御言葉なるキリストと一体化する事となり、キリストの御業が自分の内に働き、キリストのいのちが自分のものとなり、キリストのご性質が、自身の内と外とに現わされる。
「わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。」(ヘブル4:3)
安息の休みは、信仰をもって御言葉を交ぜる聖徒のために残されており、そして神の安息にあずかった人は、神が御業を終えて休まれたように、自分のやりくりや頑張りを終えて、休みに入る。(同10節)
信仰によって御言葉なるキリストを自分自身に混ぜ、キリストとひとつとなり、神の安息の内に居続ける皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:うなじのこわい(出エジプト記33:1-11):右クリックで保存

モーセは主の御前にとりなしに行き、民は滅ぼされる事は無い、という確約は、とりあえずいただき、そればかりでなく、主は使いを遣わして約束の地へと導き、そこに住むカナン人達を追い払って下さる事、乳と蜜の流れる地へ入れる事をも、約束して下さった。(出エジプト記33:1-2)
ただし、である。主は、民と一緒には行かない、と言われた。
『あなたがたは、かたくなな民であるから、わたしが道であなたがたを滅ぼすことのないように、あなたがたのうちにあって一緒にはのぼらないであろう』(同3節)

いのちが助かっただけでも、もうけものだが、民は「主が共に行って下さらない」事を、悪い知らせとして受け止めて憂い、その身から飾りを取り外した。
それは正しい反応である。

主に打たれずに済み、敵に勝利して乳と蜜の流れる地に入れる約束をいただいたのだから、主は共にいなくても、それで十分ではないか、と思うとしたら、よほどの恩知らず、主を知らない者である。ただ、現代を生きる私達の内には、「主は共におられなくてもいいから、とにかく罰を受けない確約と、敵に対するの勝利の確約と、天国に入れる約束は欲しい」と思うような者が、意外と多い。
主が共におられるという事は、全宇宙を創られた万能であられる御父が共におられ、私達に最善の道を歩ませ、さとして導いて下さるという事である。
そして主は、驚くほどのあわれみによって私達を赦し、驚くほどの愛で私達を愛しておられる。私達はその事にあぐらをかいて図に乗ったり、恵みをないがしろにしてはならない。
主は共にいなくていいから、祝福と楽しみだけ欲しい、などと言う者は、お父さんは一緒に住まなくていいからお金とゲームだけ欲しい、などと言う子供よりも、はるかに愚かである

『主はモーセに言われた、「イスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは、かたくなな民である。もしわたしが一刻でも、あなたがたのうちにあって、一緒にのぼって行くならば、あなたがたを滅ぼすであろう。ゆえに、今、あなたがたの飾りを身から取り去りなさい。そうすればわたしはあなたがたになすべきことを知るであろう』」。』(出エジプト記33:5)

主が「共におられなくなる」ためのコツは、かたくなになる事である。
主が右に行けと何度も言っているのに、いや、私はどうしても左に行くのだと言って聞かなかったり、主が御言葉を示して悔い改めを促しているのに、それを無視してどんちゃん騒ぎをしたり、そういった頑なな性質こそ、主の臨在を離れさせるコツであり、主からたちどころに滅ぼされるためのコツである。

『民はこの悪い知らせを聞いて憂い、ひとりもその飾りを身に着ける者はなかった。』(出エジプト記33:4)
私達も、歩んできた道が御前に罪であった事が御言葉で示されたなら、すぐにその道を改め、自分好みという「飾り」は、身から外すべきである。
悔い改めるべき時には悔い改め、喜ぶべき時には喜ぶのである。
主は悔い改める人には恵み深い。

『モーセは幕屋を取って、これを宿営の外に、宿営を離れて張り、これを会見の幕屋と名づけた。すべて主に伺い事のある者は出て、宿営の外にある会見の幕屋に行った。モーセが出て、幕屋に行く時には、民はみな立ちあがり、モーセが幕屋にはいるまで、おのおのその天幕の入口に立って彼を見送った。モーセが幕屋にはいると、雲の柱が下って幕屋の入口に立った。そして主はモーセと語られた。民はみな幕屋の入口に雲の柱が立つのを見ると、立っておのおの自分の天幕の入口で礼拝した。』(出エジプト記33:7-10)


私達も、自分の家を出て礼拝に向かう前から、礼拝に向けて心ぞなえをし、主の臨在と御言葉の導きを楽しみに期待し、立って敬意を払うべき時は立ち、座して耳を傾けるべき時は耳をすまし、礼拝が終って後もなお主を思うのである。
ヨシュアは、モーセが帰った後も、幕屋を離れずにいる程に、忠実だった。(出エジプト記33:11)
私達も、ヨシュアのように忠実であれば、主が約束して下さった王国を受け継ぎ、多くの人々をそこへと導く者として下さるのだ。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
収穫のための働き人(マタイ9:35-10:42):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:正しいさばきと深い執り成し(出エジプト記32:30-35):右クリックで保存

前回までの箇所だけを見ると、モーセはあたかも怒りに任せて裁きを行なう恐ろしい指導者のように見えたが、今回の箇所を見ると、びっくりする程の深い愛をもってイスラエル民族を思い、御前に憂いていたかが分かる。

『翌日になって、モーセは民に言った。「お前たちは大きな罪を犯した。今、わたしは主のもとに上って行く。あるいは、お前たちの罪のために贖いができるかもしれない。』(出エジプト記32:30新共同訳)
真に良き指導者、良き羊飼いは、単に義のさばきを遂行するだけには留まらず、民のしてしまった罪を、主の御前に覆い、執り成すものである。

『モーセは主のもとに戻って言った。「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」』(32:31 新共同訳)
なんとモーセは、主の御前に、自分の命を盾にとって執り成している。
良くない羊飼いは、羊を養わず、かえって自分の羊達を食い物にしてしまう。(ゼカリヤ11章)が、良き羊飼いは、羊のためにいのちを捨てるのだ。(ヨハネ10章)

民衆の目を恐れ迎合し、民衆のせいにしてしまったアロンとは、全く大違いである。
モーセは確かに示されるままに恐ろしいさばきを遂行したが、同時に、深いうめきによって民を執り成したのだ。
パウロもモーセと同じように、同国人のためなら、自分がキリストから引き離され呪われた者となっても良い、と、願う程であった。(ローマ9:1-3)

民をさばき、教え、訓戒するはずの立場の人が、その責務を果たさず、「勝手に民がやった」「自己責任だ」などと言って放置するなら、その民がした事はその人自身の罪となってしまう。
「そして主は民を撃たれた。彼らが子牛を造ったからである。”それはアロンが造った”のである。」(出エジプト記32:35)、と、ある通りである。

『もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」』(出エジプト記32:32 新共同訳)
ここから分かるように、神が記されている書物、すなわち、「いのちの書」がある。
神の御言葉に、つけ加えたり除いたりする者があれば、神はその人をこの書から名前を除かれ(黙示録22:18-19)、また、その書物には、神の民が、愚かさ故にさすらって来た日々も、流してきた涙の日々も、全てしるされている(詩篇56:8)。
私達人間は、誰しも、神の基準に耐えうるものではない。
そこで、モーセのように執り成してくださるお方が必要であり、執り成し手がいなければ、誰も、そのいのちの書に名を残せるものではない。

モーセは、彼に敵対していつも逆らう民のために執り成し、パウロも、彼に石を投げたり鞭打ったりして迫害する同国人のために、自分のいのちを捨てても良いと言い切るまでに祈る愛の心を持っていたが、それ程の執り成す心は、御霊によって与えられるものだ。
御霊は、深いうめきによって執り成してくださる。(ローマ8:26-27)
そしてキリストは、自分をあざけり、鞭打ち、十字架につけ、なお罵詈雑言を浴びせる人々を、「父よ彼らをお赦し下さい」と執り成し、十字架上で私達全人類のために、完全に、身代わりを引き受けて下さったのだ。
私達は、この「キリストにあって」命の書から消される憂いは無くなった。しかし、これ程までに愛して下さったキリストの血潮をないがしろにし、恵みの御霊を侮る者は、どれ程重い刑罰が待っているだろう。(ヘブル10:26-31)

『主はモーセに言われた。「わたしに罪を犯した者はだれでも、わたしの書から消し去る。』(出エジプト記32:33新共同訳)
私達は、誰が救われるのか、あるいは救われないのかと詮索しがちだが、救いは究極的な所、自己責任である。
執り成されてもなお罪を犯し続ける者は、神が裁く。しかし、アブラハムやモーセ、パウロが人々を執り成したように、私達も、執り成す事をあきらめてはならない。

『今、わたしがあなたに告げた所にこの民を導いて行きなさい。見よ、わたしの使いがあなたに先立って行く。しかし、わたしの裁きの日に、わたしは彼らをその罪のゆえに罰する。』(出エジプト記32:34)
ここで言われている「使い」とは、神から遣わされた使者であり、出エジプト記においては火の柱、雲の柱として現れた御使いであるが、現在の私達に先立っていく神の使いは、キリストである。

私達が人生という荒野を行くには、神から遣わされた使いであるキリストの導きが必要である。
荒野の民がこの使いに導かれて行ったら約束の地へ導かれたように、私達も、人生という荒野をこの御方に導かれていくなら、天の約束の御国へと導かれる。
しかし、荒野でこの使いに従わずモーセに逆らいエジプトへ戻ろうとした民は、荒野の途上で滅ぼされたように、私達も、私達に先んじて行くキリストに逆らうなら、約束の御国に入れられる事なく、人生の荒野の途上で滅んでしまうのである。

新潟出張

カテゴリ : 
礼拝メッセージ説教音声配信 » パスター日記
執筆 : 
pastor 2013-3-14 22:00

この度の新潟出張は、ある方の昇天一周年記念礼拝でしたが、実にみのり豊かな時でした。

個人的な事ですので詳しくは書けませんが、かの地のキリスト者にとっても、また、キリスト教に初めて触れた人にとっても、関わった全ての人達にとって、霊的に大きな前進となり、大いに意義のある時となりました。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
証1:右クリックで保存
はびこる悪に(エステル5:9-14):右クリックで

【概要】

本日のメッセージは、エステル記の5章9節から14節の出来事を中心に、ハマンの誇り高く堕落した心とそれに対し揺るがぬ信仰を持つモルデカイ、そして賢明なエステルの行動から、神の御業と御計画を深く読み解くものです。私たちも、どんなに悪がはびころうとも、神の正義と義人の栄光が必ず実現するという希望を見出すよう努めましょう。

【聖書箇所】

・エステル記 5章9節〜14節

・信玄の四章 14節〜27節(※本文中の引用。原典は神の戒めを示す御言葉として理解します。)

・詩篇 73篇 1節〜17節

【慰めの言葉】

神は正しい者を決して見捨てることなく、絶えず守り導いてください。困難な状況や悪に満ちた日々の中でも、神の約束は変わらず、希望と救いをもたらしてくださいます。

【励ましの言葉】

私たちは、どんな権力や富におびえることなく、信仰によって立ち上がるモルデカイの姿を見習いましょう。時には周りの環境に逆らいながらも、神に歩みを委ねるその勇気こそが、真の力となります。

【戒めの言葉】

ハマンのように、自身の誇りや些細なことで心を乱され、悪を追求する態度は決して許されるものではありません。小さな妬みや心の高ぶりが、やがて自らを滅びに導くことを深く戒められています。

【勧めの言葉】

私たちは日々、神の御言葉に耳を傾け、エステルの賢明な判断と忍耐を実践することを勧めます。焦らず、時には立ち止まり、祈りと断食を通して神の御心に沿う生き方を一層求めるべきです。

【悔い改めの促しの言葉】

今一度、自分の心の中にある傲慢さや、些細な不満に囚われる自分を省みる時です。神の前にへりくだり、真の悔い改めを通して、より清く正しい歩みを始める決意を持ちましょう。

【***詳細***】

今日の説教の中心は、エステル記の5章9節から14節に記された一幕にあります。本文には、ハマンが王妃エステルの宴会において、自身の豊かな富、複数の子どもたち、そして王に高く評価され、栄誉を授かったという誇示的な言葉が並びます。しかし、その裏に隠された心の闇、すなわち、王の門にいるイスラエルの指導者モルデカイに対する激しい憤りが描かれています。聖書はこう記しています。

「ハマンはその日喜び、上機嫌で出て行った。ところが、王の門にいるモルデカイが、たとえ立ち上がろうともせず、自分に少しも恐れを抱かないその姿を見たとき、ハマンの心はモルデカイに対する憤りと嫉妬で満たされた。」(エステル記 5章9節〜14節)

この御言葉は、権力や栄光を手にしているにもかかわらず、内心の中で自己中心的な怒りと虚栄に溺れる姿勢を断固として戒めるものです。ハマンは、自分の立場や世間からの評価にすがり、ほんの些細な相手の態度ですら、自身の心を支配される愚かさを露呈しました。その結果、神の計らいにより、彼の誇りはむしろ自らの敗北と滅亡へと転じるのです。

一方、モルデカイの心には、どんな高位の権力にも屈せず、神に対する堅固な信仰が宿っていました。断食や祈りに身を捧げ、イスラエル民族の危機にあっても、動揺することなく毅然と立ち向かいました。その姿は、私たち信者にとって模範とすべきものであり、個々がどんなに圧倒的な悪に囲まれていても、心の奥で神の御声に従い歩む決意が何より大切であると教えてくれます。

また、エステル自身は非常に知恵深い御婦人として知られています。王妃としての身分や立場を活かしながらも、決して自らの民族の危機を軽んじることなく、時を見計らって行動するという慎重さを持っていました。具体的には、既に王との面会が30日間途絶えていたという状況の中、突如として王の前に現れることが命取りであると分かっていたからこそ、彼女は宴会という場を利用するという形で、安全かつ効果的に神の導きを信じたのです。彼女の慎重さは、私たちにとっても日常生活の中での「時を待つ」知恵として学ぶべき点が大きいと言えます。エステルは自らの危機感と同時に、神への信頼を決して揺るがせず、むしろその信仰を盾に、王に対する毅然たる態度を貫いたのです。

続いて、説教では「信玄の四章 14節〜27節」と引用された御言葉にも触れています。ここでは、悪者の道に足を踏み入れてはならないとし、その道が決して安らぎをもたらさず、むしろ絶えず罪に溺れて破滅へ向かうものであることが強調されています。聖句はこう語っています。

「悪者どもの道を歩むな。それを無視せよ。彼らは悪を行わなければ眠ることができず、人をつまずかせなければ眠りが得られない。義人の道は曙の光の如く輝き、悪者の道は暗闇のようだ。」(信玄の四章 14節〜17節)

これらの言葉は、ハマンのような道を歩む者が、いかに自己中心的な生活の中で道を誤り、最終的には突然の災いによって滅びる運命にあるかを教えています。私たちは、どんなに外面的には一見成功しているように見える人であっても、その心が悪に染まっているならば、決して栄光に導かれることはないのです。

そして、ご覧いただいた詩篇73篇1節〜17節の御言葉は、まさにこの現実を補強する励ましとなっています。詩篇には、義人たちが迫害され、悪者が一時的に栄えている現実の中で、神が最後に正義をもたらし、悪は必ずその報いを受けるという確固たる真理が宣言されています。詩篇はこう語ります。

「まことに、神はイスラエルに心の清い人たちに慈しみ深い。しかし、私自身は、誇り高ぶるものを妬み、悪者が栄えるのを見たために、私の歩みはしばしば揺れ動いた。… だが、あなたは彼らを滑りやすい所に置き、やがては霧のように彼らを滅ぼされる。」(詩篇 73篇 1節〜17節)

この御言葉から、私たちは、悪が一時的な栄光を得たとしても、神の正義は確実に働かれるという、深い慰めと希望を受け取ることができます。悪の道に惑わされることなく、ただ神に身を委ね、忍耐強く信仰の歩みを進めることこそが、最終的に真の救いと栄光へと繋がるのです。

説教の中で、ハマンがその夜、上機嫌で宴会場を後にする描写や、自らの富や栄誉を友人たちに自慢する様子、そして妻であるゼレ氏が提案した高さ50キビットの柱にモルデカイの姿を吊るし上げようとする行動は、悪が自己崩壊へと向かう象徴的なエピソードです。これは、どれほど恵みや運にあふれた人であっても、心に悪が根ざせば必ず自らの滅亡につながることを示しています。正に、現代の私たちにおいても、細かな不満や小さな嫉妬に捉われることなく、常に神の御心に従い、謙虚さと清き心を保つべきであると教えられるのです。

また、エステルが最初から勢いに任せて突如王に近づかず、慎重に時を待った姿勢は、現代においてもビジネスや対人関係において急がず冷静な判断を持つことの重要性を示しています。神は、焦る者や短絡的な決断を好みません。むしろ、深い祈りと断食で霊的に磨かれ、慎重に時を計る者に、いつか必ず大いなる恵みと救いを与えてくださるのです。

これらの聖書御言葉は、私たちがどんなに誘惑や困難に直面しようとも、揺るぎない信仰と神への忠実な歩みを持つことの大切さを強く訴えています。ハマンのような誇示と怒り、そして自己中心的な行いは必ずや堕落と破滅につながるのに対し、モルデカイのような謙遜と信仰、エステルのような賢明さは、最終的に神の計らいによって大いなる栄光と祝福に変えられるのです。私たちの生活の中で、どんなに小さな侮辱や悩みであっても、それに心を乱されることなく、神の御言葉に立ち返り、正しい道を歩む決意を新たにする必要があります。

また、詩篇の中で語られる悪者の最期と義人の栄光は、私たちに大いなる希望と慰めをもたらしてくれます。どんなに悪が力を増し、一時的に栄光しているように見えたとしても、神の正義は必ず働かれ、悪は暗闇の如く消え去るのです。私たちは毎日の生活の中で、たとえ周囲に不正や不義が蔓延していたとしても、神の絶対的な正義が働くと信じ、忍耐と信仰を持って生きるべきです。

最後に、主イエス・キリストのお名前によって、私たちがどのような状況にあっても、義人としての歩みを堅持し、神の御前で誠実に生きることが、永遠の栄光と祝福に繋がるという確信を新たにしましょう。悪に惑わされることなく、正しい道を歩むことが、この世の苦難を乗り越える唯一の道であると心に留め、日々の信仰生活に励むよう、共に祈り求めましょう。

【結論】

神は、悪を行う者の傲慢と罪深さを必ず自らの滅亡へと導かれるよう御計画の中におられます。一方、義と信仰に生きる者には、試練を乗り越えた先に必ず栄光と救いが約束されています。私たちは、ハマンのような虚栄に流されることなく、モルデカイやエステルのように謙虚で、神の御心に従った生き方を実践し、日々の生活の中で神の正義と慈愛を信じ歩むべきです。主イエス・キリストのお名前によって、皆様に祝福と平安が豊かに注がれますように。

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