メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
エルバアル(士師記6:1-32):右クリックで保存
カインの礼拝とアベルの礼拝(創世記4:1-7)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
礼拝の時間は、神である主を敬い、賛美や祈りや捧げ物をささげ、そして主から、御言葉と恵みと答えと祝福をいただく、神と人との双方向の交わりの時である。
主は今、生きておられ、今この瞬間も、私たちの心の成り行きを見て、知っておられる。それ故主を敬う心は礼拝で最も必要であり、主が不在の形だけの礼拝は、御言葉も恵みも答えも祝福も、頂く事は出来ない。
そして、主と関わる時は、主の法則、すなわち御言葉に則って関わる必要があり、御言葉の根拠なき、御心から外れた「自分流の礼拝」を捧げても、主を怒らせるだけである。
「主への祭り」と称して、金の子牛を造って飲み食いし戯れたイスラエルの民は、それで主に仕えているつもりだったが、主は彼らを怒り、滅ぼそうとされた。(出エジプト記32章) 示されていた御言葉を読んだなら、それはとんでもない反逆だと判るものなのに、彼らには御言葉が無かったため、主へ礼拝を捧げていると大真面目に思いながらにして、主に滅ぼされる寸前の怒りを買っていたのである。
主に仕えている「気」になっておりながら、主を怒らせ、悲しませるという事は、確かにある。それを防ぐために、私達は常に御言葉の真理に照らし合わせて、主の道を正しく歩んでいるかどうかチェックすべきである。
カインとアベルの礼拝から、私達が礼拝において気をつけるべき示唆を、多く得る事ができる。
「時が経って次の事が起こった、カインは、地の実りから主へのささげ物を持って来た。また、アベルも彼の群の中から、初子の、それも最も肥えたものを主に持って来た。主はアベルと、そのささげ物とに、リスペクトした。しかし、カインと、その捧げ物とに彼はリスペクトしなかった。」(創世記4:3-4、KJVから翻訳)
主に捧げたのに、主からそっぽ向かれている感じがあったり、仕事や人間関係がうまく行っていない、祝福から遠いと感じる事があるだろうか。しかし、ある捧げ物は主に目を向けられ、ある捧げ物は主からそっぽ向かれてしまう。そういう事は、厳然としてあるという事を、知るべきである。
アベルの捧げ物は、なぜ受け入れられたのか。それはまず、彼の捧げ方は、神の規定に叶っていた。
前回見たように、神の御前に有効とされる捧げ物は、いのちの犠牲がある事である。
アダムとエバは、いちじくの葉をつづり合わせて裸を覆うものとしたが、そのような、犠牲なき手軽な繕いは、神の目には何も覆われていないも同じである。犠牲がある事が、まず、神様の方法である。
また、アベルは最良のものの中からさらに厳選して捧げた。彼は「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして」神を敬い(申命記6:5)、最良のものを捧げたからこそ、神様は彼と彼の捧げ物とにリスペクトされたのだ。
カインの捧げ物は、なぜ受け入れられなかったのか。それは、正しく行なっていなかったからである。(7節)
神の受けられるいけにえは、砕かれた魂、悔いた心。神はそれを軽んじられない。(詩篇51:17)
カインの心が、もし神の前に砕かれ、悔いた心を持っていたなら、彼は「怒る」という事をしなかっただろう。
しかし彼は、怒った。怒った事によって、彼の心の内の傲慢さが明らかとされた。
また彼は、礼拝において、またその礼拝の成果について、他人と見比べるという事をした。
神ではなく人を、目に見えない神を敬うのではなく、目に見える人を気にしたのである。
私達は礼拝や奉仕で、人と見比べたり、自分がしようとした奉仕が、思い通りに行かなかったり、評価されなかったら、怒ったり、あの兄弟姉妹なぞいなくなってしまえ、という心が芽生えたり、していないだろうか。
礼拝や奉仕で「怒り」が出てきた時、神と人の前から「顔を伏せ」る時、私達の内に、カインの性質がある事を知るべきであり、その時は、戸口で待ち伏せしている罪を、支配しなくてはならない。(創世記4:6-7)
罪を支配するとは、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにして「キリストに従わせ」、完全に服従させる事によって、である。(2コリント10:5-6)
私達は神と関わる時、礼拝する時、常に御言葉の真理に照らし合わせて、主の道を正しく歩んでいるかどうかチェックすべきである。
為そうとしている事が御心にかなっているかどうかをチェックする最も簡単な方法は、真理なるお方、御言葉なるお方である、イエス・キリストの名によって、その事が出来るかどうかを問う事である。(コロサイ3:17)
礼拝や捧げ物に限らず、全ての事を、イエス・キリストの名に恥じずに行う皆さんでありますように!
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
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仕事が多いと夢を見る(伝道者の書5:1-7):右クリックで保存
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【概要】
教会において最も大切なのは礼拝と御言葉に聞き従うことです。多くの仕事や言葉で神に仕えようとするよりも、まず御言葉に耳を傾け、それに従順することこそが、神に喜ばれる最上のいけにえとなります。
【聖書箇所】
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伝道者の書5:1-7
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ルカ10:38-42
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ヨハネ12:3-8
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第一サムエル15:22-23
【戒めの言葉】
神の御前では軽々しく言葉を出してはなりません。仕事が多くなると夢を見、言葉が多くなると愚かな者の声となります。愚かないけにえを捧げるのではなく、聞く準備をすべきです。
【勧めの言葉】
マリアのようにイエス様の足元に座って御言葉に聞き入ることを選びましょう。聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさります。御言葉にじっくり聞き従い、最上のいけにえを主に捧げる者となりましょう。
【***詳細***】
今日の箇所は、伝道者の書5章1節から7節までです。
「神の宮へ行くときは、自分の足に気をつけよ。近寄って聞くことは、愚かな者がいけにえをささげるのにまさる。彼らは自分たちが悪を行っていることを知らないからだ。神の前では軽々しく心あせってことばを出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だからことばを少なくせよ。仕事が多いと夢を見る。言葉が多いと、愚かな者の声となる。神に誓願を立てる時には、それを果たすのを遅らせてはならない。神は愚かな者を喜ばないからだ。誓ったことは果たせ。誓って果たさないよりは、誓わないほうがよい。あなたの口があなたに罪を犯させないようにせよ。使者の前で、あれは過失だと言ってはならない。神があなたの言うことを聞いて怒り、あなたの手の業を滅ぼしても良いだろうか。夢が多くなると、虚しい言葉も多くなる。ただ神を恐れよ。」(伝道者の書5:1-7)
皆さんは教会においては何が一番大事だと思いますか。教会に来た時に最も守るべきは何でしょうね。礼拝、御言葉と聖餐。それも礼拝の中のうちですね。そうです。礼拝です。御言葉です。私たちの聖餐は交わりですね。
ですから、この礼拝、これをですね、まず第一に据えるべきだということ。これはもう皆さん周知のことだと思うんですけども、ところがこの周知のことがですね、なかなか忘れがちになってしまうことがあるんですよ。
ここでは「仕事が多いと夢を見る」って言葉がありますけれども、仕事、やれこれやとですね、考え出したりしたがるものです。礼拝に花を添えるために、あ、じゃあ首飾りを買ってきて、とりあえず100円ショップからあの飾り、この飾りを買ってきて、で、それで、こうすればもう礼拝喜ばれると思って。で、実は買ってきたものの、いざここに置いてみたらいらないものがあった。まあ、そういうこともありますし、またですね、礼拝のために、みんなが食事の準備をしてるから、じゃあ私も一緒に加わって働こうって言って、主日の前の日に夜中の3時、4時とそれで作ることに精一杯で、いざ礼拝に臨んでしまったら寝てしまった。御言葉も聖餐も頭の中にすっかり入ってこない。
結構ですね、礼拝が中心と言いながら、その周りの周辺の物事にですね、仕事を多くして、それで失敗して、礼拝の御言葉が全然残っていなかった。こういう罠がよくあるんですね。私たちはまず、自分自身を慎んで、そして何をすることが神様に喜ばれるのかということを考えなくてはいけません。
なぜなら教会という場所、神様が中心ですね。でも、神様が中心だと思わず、人に喜ばれること、人が「あ、誰々さんはとても奉仕熱心な人だね」とか「働き者ね」とかそういうことを言われたいがために何か仕事を多くして、仕事をあれやこれやと自動的にパッパッパって考えちゃうようなことも、それもまたありますけれども、しかし、そのように仕事が多いと夢を見て、そして夢が多くなると虚しいことも多くなるんです。
この5章1節、こちらの方は、キング・ジェームズ・バージョンの方では、「愚かないけにえを捧げる準備をするよりも、むしろ聞く準備をせよ。悪とされないために」という風に訳すことができます。もう一度言いますと、「愚かないけにえを捧げる準備をするよりも、むしろ聞く準備をせよ。悪と定められないために」。
私たちはですね、何かと急いで、あれやこれやとパッパッパって考えついちゃって、それで愚かないけにえを捧げることになります。礼拝の前の日に忙しくなって、それで礼拝当日の御言葉中に居眠りをしてしまう。愚かないけにえを捧げてますね、その場合は。ですから、そのような愚かないけにえをささげるよりも、聞く準備をしなさい。それは悪とされないためです。
また2節。「神の前では、軽々しく心をあせってことばを出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だから、ことばを少なくせよ。」これはもう箴言の学びでよく皆さん聞いておりますね。言葉です、言葉。言葉数が多くなると愚か者の言葉になるよっていうことをよく私たちは見ております。
また3節。「仕事が多いと夢を見る。言葉が多いと愚かな者の声となる。」何かとですね、仕事、本当にシンプルなことなんですよ。本当は物事は。ある仕事をすることで、例えば「お花に水をあげて」と河合さんが出ている間、私はお願いされたんですけれども、どのようにして水をあげるのかな、水は浄水器の水がいいかな、水道の水がいいかな、お花にあげるときは、どういう言葉を言えばいいかな、愛してるよっていう言葉がいいかな、それとも綺麗だよって言葉がいいかな。
確かにそんな風にはしてないですからね。正しく祝福を祈っています。とにかく、ある奉仕をするにあたって、あれこれとですね、仕事を多くし、夢を多くしてしまうと、愚かな奉仕になってしまうんですね。お花は本当に命そのまま生きています。偽りの愛してるよ。偽りの綺麗だね。そういった言葉はですね、花は受け取りません。本当に、御言葉の祝福を本当にダイレクトに受け取るんですね。奉仕はすべてそういうものです。奉仕は神様にお捧げするものですから、一切のそういう口先だけ外見的な飾り、そういったものは通用しないんです。
神様の御前に出るときは心を焦ってはなりません。むしろシンプルにするべきなんですね。「仕事が多いと夢を見る」で3節に書いてありますけども、7節の方では「夢が多くなると虚しい言葉も多くなる」。これは仕事においてもそうです。この3節の仕事、英語の訳ではビジネス。ビジネスが多くなると夢を見るんですけども、とにかくそういうやることをですね、パパパって思いついて、それでこれをやって、あれがあって、それから、それを斜め右下に持っていってとか、そういうふうにあらかじめそういうふうに組み立ててしまうと、そのことばっかりが頭の中にあって、人と話すときにどうもいまいち話がかみ合わなくなっちゃうということがよくあるんです。なんでこの人、斜め右下なのかな、なんでそのことばっかり、単純に下に持っていけばいいのに、なんで左行って、下行って、右行って、それから上に行かなきゃいけないのかな。
そういうですね、仕事が多い人は何かとそういう無駄が多い、また虚しい言葉が多い、そして虚しい言葉が多くなると愚かなものになってしまうんです。
この非常に良い例がですね、マルタとマリアですね。ちょっと開いてみましょうか。その中で最もいい例はマリアです。マリアはイエス様の言葉に耳をじっと傾けているだけでした。
ルカの福音書の10章ですね。ルカの福音書の10章の38節から42節です。
「さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。彼女はマリヤという妹がいたが、主の足元に座ってみことばに聞き入っていた。ところが、マルタはいろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。『主よ、妹が、私だけにおもてなしをさせているのを何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように妹におっしゃってください。』主は答えて言われた。『マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを心配して気を遣っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。一つだけです。マリアはその良い方を選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。』」(ルカ10:38-42)
アーメン。マルタは仕事が多い人ですね。イエス様が来た。じゃあ、イエス様に対して最も最大のおもてなしは何かな、あれやこれやと給仕をして食事を整えたり、また、しもべたちに言いつけをしたり、そういったことをして、それがイエス様に対する最善だと思いました。
マリアはイエス様のお言葉を聞くこと、それを選びました。とにかくこうした給仕の仕事すら別に後でもできる。ただ、イエス様のお言葉、それは今しか聞くことができない。だから、マリアはイエス様の足元に座ってみ言葉に聞いていました。
しかし、ところがマルタはそのマリアを見つめるんですね。イエス様ではなくマリアを見て、それでだんだんイライライライライラしてくるんです。イエス様がみ言葉を語っている最中なんですよ。でもマルタはイエス様を見ず、イエス様の言葉に耳を傾けず、マリアを見てイライライライライラしているんですね。
皆さんも礼拝の中では気をつけてください。礼拝の中ではイエス様の御言葉に耳を傾けるべきなんですけども、でも、あのことを考えてイライラ、あの兄弟姉妹を考えてイライラ、あの仕事、この仕事どうしようって考えて、そうしたいろいろなことを心配して気を遣うこと、イエス様は、そこを指摘をしましたね。
「マルタ、マルタ。あなたはいろいろなことを心配して気を遣っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。」イエス様が語っておられる時、その時はイエス様の御言葉を聞くこと。マリアは一番良いものを選んだんですね。だからマリアは、他のどんな弟子たちも気づかなかったことを気づきます。また、マリアは他の弟子たちが受けられなかった栄誉を受けることになります。
ヨハネの福音書の12章の方を開きたいと思います。ヨハネの福音書12章の3節から8節まで。
「マリアは非常に高価な純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。ところが、弟子のひとりでイエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。『なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。』しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって金入れを預かっていたが、その中に納められたものをいつも盗んでいたからである。イエスは言われた。『そのままにしておきなさい。マリアはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。あなたがたは、貧しい人々とはいつも一緒にいるが、わたしとはいつも一緒にいるわけではないからです。』」(ヨハネ12:3-8)
イエス様はこの時、「あなたがたは貧しい人々とはいつも一緒にいる。しかし、わたしとはいつも一緒にいるわけではない」とおっしゃいました。これはイエス様がもうじき十字架につけられるからですけれども、しかし、私たちもですね、イエス様の聞くべき言葉をその時聞けるかどうかということは、それは皆さん自身にかかっているんですね。
イエス様が「私はもうすぐ十字架につけられる」という言葉、それはもうある一定期間しか賞味期限のない内容の言葉です。イエス様の言葉は「時」があります。皆さんに語られるべき時、そして、その時期を逃してしまうと、その言葉は皆さんにとって何もなくなってしまいます。マナには賞味期限があるように、イエス様の御言葉にもそれを聞くべき時、そしてそれを実行するべき時があるんです。
マリアは聞くべき時にしっかり聞いたから、実行するべき時にしっかりとこの葬りの準備という、誰もができなかったこの栄誉を預かることができました。このイエス様の言葉、ずっと足元に座って聞いていたからなんですね。
でも、ここに一人良くない事例がおりますね。イスカリオテ・ユダです。彼はそのマリアの行動、マリアの捧げ物をじっくりと見つめておりました。イエス様になす、弟子がなすことを、それを傍から見てじっと見つめる行為。マルタもそうでしたし、このイスカリオテ・ユダもそうですね。それは良くない行為です。イエス様ではなく、聖徒の何かをじっと見て、それを値積もりして、それをお金に換算して、私だったらこうすると批判したり、そういったことをすること。それはイエス様の敵がすること、イエス様を売り飛ばす類の人がするような行為ですね。
でもイエス様はユダに諭しました。「そのままにしておきなさい。あなたはいつも私と一緒にいるわけではないんだよ。私と一緒にいるべき時にしっかりと御言葉を聞いて、そしてしっかりとその礼拝のための整えをしておきなさい。」イエス様はそのように言うんです。
私たちは何かとですね、イエス様の奉仕をするとなると、あれやこれやと考えがちになってしまいます。あの奉仕、この奉仕、どこどこに行ったら、まず何をしようか、これをしようか、いろいろなことを考えるんですけれども、でも、主人公はイエス様であることを忘れないでください。そして、私たちがあれやこれやと思い煩って、仕事が多くなって、周りの人たちに愚かを振りまいて、周りの人たちさえもその仕事を忙しくさせるような、そういったことではなく、私たちはむしろ御言葉をしっかりと聞いて、マリアのように足元に座ってじっくり聞いて、そしてその通りに実行すること。それは実は非常にシンプルなことなんですね。
もう一人良くない事例がですね、サウル王です。第一サムエル記の15章22節と23節が非常に有名な言葉ですね。第一サムエルの15章の22と23。
「するとサムエルは言った。『主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえやその他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。まことに背くことは占いの罪、従わないことは、偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王から退けた。』」(第一サムエル15:22-23)
聞き従うことは大事ですね。従わないことは偶像崇拝の罪、背くことは占いの罪と一緒だと書いてあります。このサウル王はですね、主の御声に聞き従ったと思い込んでいました。20節に「サウルはサムエルに答えた。『わたしは主の御声に聞き従いました。主が私に授けられた使命の道を進めました。私はアマレク人の王アガクを連れてきて、アマレクを聖絶しました。しかし、民はギルガルであなたの神、主にいけにえを捧げるために、聖絶すべきものの最上のものとして、分捕り物の中から羊と牛を取ってきたのです。』」
サウルは主の御声に聞き従いましたと主張したのですが、しかし、主の御声は「そのすべてを聖絶せよ」です。この3節にあるとおり、「アマレクを打ち、そのすべての者を聖絶せよ。容赦してはならない。男も女も、子どもも、乳飲み子も、牛も、羊も、らくだも、ろばも、殺せ。」主の命令はこれだったのですけれども、しかし、サウルはそれを惜しんだんですね。で、民のせいにしました。
でも、サウル王はちょっと考えたんですね。聖絶するのはもったいない。よし、じゃあこうしよう。主にこの最上のものを捧げるという名目をつければ、そうすればサムエルさんは納得するだろう。主のことを全く考えずに人のことを考えたんですね。そしたら、彼は王位から退けられる羽目になってしまいました。
皆さん自身もですね、主の御言葉があるんですけど、しかしその御言葉に何か、ここはちょっと厳しすぎるから、これこれこういう解釈を取ろう。そうしたら人の目にもいいし、誰々さんも納得してくれるだろう。そういう風に考えてですね、主の命令に滅ぼすべきものを取っておいたりするんです。私たちの内には。
人のうちには何一つ良いものは本来ないんです。私のあの奉仕の業、それをすればみんな喜んでくれるだろう。私のきれいな歌声を捧げれば賛美が盛り上がるだろう。そういう風にですね、主を、主の御声に聞き従わずに、人間的な何かを追加して、何か主に捧げ尽くすべきものに、何かを加えてしまって、そうして主の御声に聞き従わないで、その捧げ物を台無しにしてしまうというようなこともあります。いやむしろ、このサウル王は滅ぼすべきものを取っておいて、それを主に捧げようとしたんですね。主は喜ばれないはずなんです。
私たちのうちも、肉的な何か、それはすべて滅ぼし尽くすべきものなんです。主の十字架の御前で、そして主から、十字架の復活の後のイエス様のその新しいいのちに沿ったもの、それこそ私たちは捧げるべきものです。主が最も喜ばれるいけにえ、それは聞き従うことですね。
主のみことばに「嫌だ」とか、「だって」とか、それを混ぜ込んで、それでこれこれこういうふうにして捧げました。それは主の喜ばれないいけにえです。主は主の御声に聞き従うことほどに全焼のいけにえやその他のいけにえを喜ばれません。聞き従うことこそいけにえに勝るんです。そして、主の御前に出るときは、言葉数を多くするべきではありません。仕事をあれやこれやと考えつくべきではありません。
サウルは仕事を考えつきましたね。彼は12節を見ますと、自分のために記念碑を建てて、それで13節でサムエルと会うなり、「主の祝福がありますように。私は主の言葉を守りました」。もっとも守っていないからこんな取り繕いの言葉が真っ先に挨拶ことばとして出てくるんですね。
私たちは主の御前には心まっすぐであるべきであり、また正しく主の御声に聞き従うべきなんです。どうか皆さんは主の御声にじっくり聞き従うマリアの例に倣ってください。そして、聖徒、他の聖徒を見つめたりせず、皆さん自身のその務め、それはイエス・キリストが中心ですね。ですから、人の目に何か映るものではなく、イエス様のためになすということをまず第一としてください。そして、主の御声に聞き従ってこそ最上のいけにえを捧げることができます。どうかそのように、イエス様に対して最上のいけにえを捧げる皆さんでありますように。
最上のいけにえを捧げるためのコツはまず何でしたか。従順することです。そうです。御言葉、聞き従うことです。耳をまず使って、そしてその通り従順して、そしてその通りを行うこと。どうかそんな感じで最上のいけにえを主に捧げる皆さんでありますように。
【結論】
神に喜ばれる礼拝の秘訣は、多くの仕事や言葉ではなく、マリアのようにイエス様の足元に座って御言葉に聞き従うことです。聞き従うことはいけにえにまさり、従順こそが主への最上の捧げものとなります。私たちは愚かないけにえではなく、御言葉に耳を傾け、それに従順することで、永遠の記念となる礼拝を捧げることができるのです。
血肉に逆らっても罪には妥協するな(出エジプト記32:21-29)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 出エジプト記
- 執筆 :
- pastor 2013-3-8 23:44
礼拝説教メッセージ音声:血肉に逆らっても罪には妥協するな(出エジプト記32:21-29):右クリックで保存
「アロンは言った、「わが主よ、激しく怒らないでください。この民の悪いのは、あなたがごぞんじです。」(出エジプト記32:22)
アロンは、自分が罪を犯した事を告白せず、民の悪さへとモーセの目を向けさせようとした。民が悪いのは、あなたも知っているでしょう、と。
小さい子供は、誰からも教えてもらってもいないのに、言葉を覚えた当初から、罪を他人になすりつけたり、自己弁護したりするように、人は誰しも、生まれながらに自分の罪を隠し取り繕う「くせ」が、身についてしまっている。
しかし、もし自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。(1ヨハネ1:9)
アロンは、民が「神を造ってください」と言った時点で、与えられていた十戒を元にNOを突きつけるべきだった。
それなのに彼は、民の心情を損ねたくなかったのか、それをせず、「金を持っている者はそれを取り外して下さい」と言ってしまった。(出エジプト記32:23-24)
そう言えば民衆は黙ってくれる、と、期待したのかもしれない。しかし、ひと度妥協してしまった事で、ますます民を付け上がらせる事になってしまった。
「彼らがそれをわたしに渡したので、わたしがこれを火に投げ入れると、この子牛が出てきたのです。」(出エジプト記32:22-24)
結局、彼自身がそれを火に投げ入れた事は告白しているが、あたかも、子牛が自動的に出てきたような言い分である。
「なんで事故を起こしたの!」という親の言葉に、「だって、電柱が車に向かって突っ込んで来たんだもの。」と返す子のようであるが、電柱が車に向かって突っ込んで来るよう車を導いたのはその子であったように、民衆を堕落へと導いたのは、アロンである。
『モーセはアロンに言った、「この民があなたに何をしたので、あなたは彼らに大いなる罪を犯させたのですか」。』(出エジプト記32:21)
アロンとしては、民が勝手な事を言い出し、それに少しだけ譲歩しただけ、それなのに民は、あれよあれよという間に勝手に偶像を造った、と思っているかもしれない。
しかしモーセは、アロンが民に罪を犯させた、と、明瞭に言っているし、35節でも「金の子牛はアロンが造った」と書いてある。
アロンは、その手で子牛を造らなかったかもしれない。しかし、指導者たる者が、戒めるべき所を戒めなかった事によって「彼が造った」と見なされてしまうのである。
悪い事を「する」ばかりが罪ではない。罪の防止を「しない」事も、悪をほしいままに振舞わせる事も、悪を「する」事と同列なのだ。
『モーセは民がほしいままにふるまったのを見た。アロンは彼らがほしいままにふるまうに任せ、敵の中に物笑いとなったからである。』(出エジプト記32:25)
ここは、KJVでは、アロンは彼らを裸にさせ、彼らの敵の間で裸の恥をさらすようにした、と訳す事ができる。
モーセが山から降り、皆の前で金の子牛を粉々に砕いても、なお、裸のままでいる者達がいた、という事だろう。
酔っぱらいのように、ひと度つけあがると、そこに指導者が現れても、なお開き直るような者はいるが、それは放っておいてはならない。
罪をそのまま野放しにしてはびこらせると、主の敵に大いに嘲りの心を芽生えさせるからだ。(2サムエル12:14)
『モーセは宿営の門に立って言った、「すべて主につく者はわたしのもとにきなさい」。レビの子たちはみな彼のもとに集まった。そこでモーセは彼らに言った、「イスラエルの神、主はこう言われる、『あなたがたは、おのおの腰につるぎを帯び、宿営の中を門から門へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ』」。レビの子たちはモーセの言葉どおりにしたので、その日、民のうち、おおよそ三千人が倒れた。』(出エジプト記32:26-28)
イスラエルの男子約六十万に対し、倒されたのは三千人。
会衆の中に、なおそれだけ罪をはびこらせる者がいた、という事だろう。
この命令は、厳しく聞こえるかもしれない。
しかし、神の民は、それほどまでに、罪のはびこりに対しては厳しく扱い、妥協してはならないのだ。
罪を指摘されても、悔い改めもせず、なお公然と罪を犯すような者は厳然と取り除き、会衆を清く保たなければならないのは、旧約でも新約でも同じである。(民数記25章、1コリント5:1-8)
神の民には、確かに幸いも特権も祝福も多いが、それなりの果たすべき責任もあるのである。
『そこで、モーセは言った、「あなたがたは、おのおのその子、その兄弟に逆らって、きょう、主に身をささげた。それで主は、きょう、あなたがたに祝福を与えられるであろう」。』(出エジプト記32:29)
新約でもイエス様は同じ事を言っている。
『地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。そして家の者が、その人の敵となるであろう。わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。
また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。』(マタイ10:34-39)
私達自身の内から罪を除き去り、また、主に反対する親や兄弟、愛する人には、逆らってでも、主を選択する事は、神の民なら避けて通れない事のようである。
礼拝説教メッセージ音声:割られてしまった神の石板(出エジプト記32:15-20):右クリックで保存
ヨシュアは、モーセが最後に「待っていなさい」という言葉を残して、主の臨在の雲の中へと入って行って以来、40日間、ずっと忠実に待っていた。
彼は、民から離れた所、そして主の臨在の雲から近い所で、ずっと待ち続けていたのだろう。
そして、やっとモーセが彼の前に姿をあらわした時、彼らは民衆の大きな叫び声を聞いた。
『ヨシュアは民の呼ばわる声を聞いて、モーセに言った、「宿営の中に戦いの声がします」。モーセは言った、「勝どきの声でなく、敗北の叫び声でもない。わたしの聞くのは歌の声である」。』(出エジプト記32:17-18)
私達は、神の敵、すなわち、罪やサタンと戦い、勝利の叫びを上げる事が最も望ましい。
それに負けてしまった時に、悔しさや悲しみの叫びをするのは、まだましな方で、最も良くないのは、罪やサタンを迎合し、罪由来の汚れた楽しさを謳歌するための叫びを上げる事、これを神は怒り、悲しまれる。
『モーセが宿営に近づくと、子牛と踊りとを見たので、彼は怒りに燃え、手からかの板を投げうち、これを山のふもとで砕いた。』(出エジプト記32:19)
この板は、神聖にして侵すべからざるもの、この板が安置されている箱が行き巡ったペリシテ人の国は恐慌にみまわれ、契約の箱の中を覗いたイスラエルの民も多く打たれ(1サムエル6章)、また、その箱が安置されている至聖所においては、祭司が少しでも手順を間違えれば、神に打たれて死んでしまう程、神聖なるものだった。
それなのに、モーセはそれを粉々に砕いてしまった。
そのように、神聖なるものが壊されてイスラエルの中から取り去られてしまう事は、イスラエルの歴史の中では幾度かある。
契約の箱がペリシテ人に奪われた時も、バビロン捕囚時にカルデヤ人が神殿を荒らし回った時も、使徒の時代にローマ人が神殿を破壊し尽くした時も、主は、その汚れた民が略奪するがままにされていた。
それはいずれも、神の民の堕落がはなはだ激しかった時であり、尊く聖なるしるしは神の民の中から取り除かれ、神の栄光は去ってしまったのだ。
『また彼らが造った子牛を取って火に焼き、こなごなに砕き、これを水の上にまいて、イスラエルの人々に飲ませた。』(出エジプト記32:20)
「金」で出来たものが、火で焼かれ粉々に砕かれる。
よほど不純な粗悪品だったか、あるいは主ご自身が徹底的に粉々に砕かれたのか。とにかく、人は自分の蒔いた種を自分で刈り取り、報いの杯を飲まされるのである。
「おおよそ、獣とその像とを拝み、額や手に刻印を受ける者は、神の怒りの杯に混ぜものなしに盛られた、神の激しい怒りのぶどう酒を飲み、聖なる御使たちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。その苦しみの煙は世々限りなく立ちのぼり、そして、獣とその像とを拝む者、また、だれでもその名の刻印を受けている者は、昼も夜も休みが得られない。ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」。(黙示録14:9-12)
罪ある人は、神の基準に達する事はできない。
それだから、神が石の板に書かれた定めを人が守ろうと頑張っても、遅かれ早かれそれを破ってしまう時が来る故、もっと抜本的な解決を提供するような、新しい契約が必要である。
『主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。わたしは彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの契約を破ったと主は言われる。
しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。』(エレミヤ31:31-34)
新約においては、石の板ではなく、私達の心に直接、神の指によって御言葉が記され、その言葉は決して離れる事なく、私達は心に刻まれた律法に従って歩む事が出来る。
それは、イエス・キリストを信じる信仰により、聖霊によって記されるものである。
『あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。・・・神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。』(2コリント3:3,6)
そして、この新しい契約は、人を罪に定めたり死に定めたりする務めではなく、いのちの務めであり、古い契約の務めよりも、はるかに栄光のある務めである。
『もし石に彫りつけた文字による死の務が栄光のうちに行われ、そのためイスラエルの子らは、モーセの顔の消え去るべき栄光のゆえに、その顔を見つめることができなかったとすれば、まして霊の務は、はるかに栄光あるものではなかろうか。(2コリント3:7-8)
礼拝説教メッセージ音声:執り成して祈れ(出エジプト記32:7-14):右クリックで保存
『主はまたモーセに言われた、「わたしはこの民を見た。これはかたくなな民である。それで、わたしをとめるな。わたしの怒りは彼らにむかって燃え、彼らを滅ぼしつくすであろう。しかし、わたしはあなたを大いなる国民とするであろう」。』(出エジプト記32:9)
民は主の御前に大きな罪を犯し、この時滅ぼされても仕方なかった。
幾度も主が命じられた事を無視し、分からず屋で何度言っても過ちを犯し、40日ほどしか経っていないのに早くも堕落してしまった民に、モーセ自身もうんざりしていたに違いないが、彼は、神が「彼らを滅ぼしあなたを大いなる国民としよう」と言われた時、「はい、ぜひそうして下さい」などとは言わなかった。
彼は逆に、イスラエルの民を救うために執り成した。
このモーセの執り成しに、私達は注目すべきである。
『モーセはその神、主をなだめて言った、「主よ、大いなる力と強き手をもって、エジプトの国から導き出されたあなたの民にむかって、なぜあなたの怒りが燃えるのでしょうか。
どうしてエジプトびとに『彼は悪意をもって彼らを導き出し、彼らを山地で殺し、地の面から断ち滅ぼすのだ』と言わせてよいでしょうか。どうかあなたの激しい怒りをやめ、あなたの民に下そうとされるこの災を思い直し、あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルに、あなたが御自身をさして誓い、『わたしは天の星のように、あなたがたの子孫を増し、わたしが約束したこの地を皆あなたがたの子孫に与えて、長くこれを所有させるであろう』と彼らに仰せられたことを覚えてください」。』(出エジプト記32:11-13)
彼は、イスラエルの民がかわいそう、とか、彼らにはこれこれの良い点があります、など、イスラエルの人の何かを根拠に弁護する事は、一切なかった。
彼は「イスラエル人の何か」を根拠に執り成し祈る事はせず、「主がどのようなお方であるか」という点から、執り成したのである。
主は真実で、栄光をお受けになるべきお方。だから、人々から嘲られるような事をするなどとんでもない。
そして何より、主はアブラハムに子孫を増やし、約束の地へと導かれる御言葉の約束をされたではありませんか、その約束を覚えて下さい、と。
そもそもイスラエル人のみならず、人間は誰しも、神の御前に受け入れられるような良い点など、一つも持っていない。義人はひとりもいないのだ。(ローマ3:10-18)
人は、あれをした、これをした、といった「行い」によっては救われない。人間由来の何かをもって神に取り入ろうとしても、無駄である。
ただ、主は憐れみ深きお方であり、罪に汚れて弱き私達を救って下さる、その一方的な救いに私達は拠りすがるのみなのだ。
モーセは神と人との間に立って取り成したが、私達を執り成して下さるお方は、イエス様である。
このお方にあってのみ、私達は神に近づく事が出来るのである。
『それで、主はその民に下すと言われた災について思い直された。』(出エジプト記32:14)
神は既に御心を定めておられるから、私達は祈ってもムダだ、と思ってはならない。
神は私達に、祈りによって神とかかわる事を望んでおられる。
事実、アブラハムは主の真実さを盾に取ってソドムを滅ぼさないよう交渉できたし、ツロの女もイエス様が「子犬」と言った言葉尻を捉え、なお食い下がったため、娘の癒しを与えられた。
身勝手な祈りや同じ文句の繰り返しなどは聞いてくださらないが、私達が主の真実さに信頼し、御心に叶った祈りをするなら、主は聞いて下さるのだ。
主の御心は、誰ひとり罪の内に滅びない事である。
『主なる神は言われる、わたしは悪人の死を好むであろうか。むしろ彼がそのおこないを離れて生きることを好んでいるではないか。・・・あなたがたがわたしに対しておこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか。わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」。』(エゼキエル18:23,31-32)
そのようなご性質故、アブラハムやモーセが執り成して祈った時、主は「よくぞ執り成してくれた」と喜ばれたのではないだろうか。
今は確かに終わりの時代で、世の終わりに定められている災いが来るのは免れないが、だからと言って執り成し祈る事を止めてはならない。
主は、破れ口に立って執り成して祈る人を、求めておられるのだ。(エゼキエル22:30)
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
語らぬべき時(エステル5:3-8):右クリックで保存
【概要】
本日の説教では、エステル記5章3節〜8節の場面を通して、エステルの慎み深さと絶妙なタイミング、そして神の御導きの中で信仰者としてどのように行動すべきかを学びます。
【聖書箇所】
・エステル記 5章3節〜8節
・伝道者の書 5章1節〜3節、7節(関連箇所として参照)
【戒めの言葉】
・自らの唇を節制し、焦って不用意な言葉を発しないよう戒めます。
・神の御前では言葉に重みがあり、軽率な発言は霊的危険を招くことを心に留めてください。
【励ましの言葉】
・エステルが示したように、正しい時と場面では謙虚な姿勢で神と人とに向き合うことが大切です。
・焦らず、神の導きとタイミングを信頼することで、必ず救いへの道が開かれると励まされます。
【***詳細***】
本日の箇所であるエステル記5章3節〜8節は、神の御計略の中にある人間の立ち回りや心の持ち方について、多くの示唆を与えてくれます。物語は、エステルが王に呼び出されるという非常に緊迫した状況から始まります。王は「どうしたのだ、王妃エステル。何が欲しいのか。王国の半分でもあなたにやれるのだが」と尋ねます。ここでまず私たちが注目すべきは、王の寛大な言葉と同時にエステルの慎重な態度です。エステルは、王の好意に甘えるのではなく、断固としてイスラエルの救いという使命を果たすために、自らの口を極力制しながらも、タイミングを見極めた上で発言することを選びました。
エステルは、30日間王と直接会わず、断食と祈りに励む中で、神の御導きを求め、また自分の立ち位置とその言葉の重みを深く考えたことが伺えます。彼女の心情や行動を通して伝えられるのは、「焦って不用意に物事を語らず、まずは状況を見極め、神の与えられた時にのみ行動すべきである」という教えです。私たちもまた、日常生活の中で多くの選択を迫られたとき、また上司や大切な人との対話において、エステルのように自らの言葉に慎重になり、まずは相手の状況を尊重する姿勢を持つことが求められます。
エステル記の中で、エステルは王に対していきなり求めを述べるのではなく、まず「もしも王様がお許しになられ、今日私が設ける宴会にハマンとご一緒にお越しください」という一見柔らかい言葉から切り出しました。聖書にも「もしも王様のお許しが得られ、王様がよろしくて私の願いを許し、私の望みを叶えていただけますなら」という言葉が強調されているように、相手の意向やその時の空気を読み、そして適切な言葉を選ぶことの大切さが示されています。これは、私たちが大切な場面で語るべき言葉を熟考し、状況に応じた柔らかい表現と謙虚な態度を保つべきであるという戒めともいえます。
また、伝道者の書に記されている「神の宮へ行く時は、自分の足に気をつけよ。近寄って聞くことは、愚かな者が生贄を捧げるのに勝る。彼らは自分たちが悪を行っていることを知らないからだ」という御言葉は、私たちに何気なく使う言葉や行動が、実は大いに注意深く扱われるべきものであることを説いています。エステルが王前で示した謙虚さは、この御言葉と共鳴しています。つまり、偉大な御業をなすためには、まず自らの言葉に責任を持ち、むやみに語らないという自己制御の精神が必要なのです。
エステルの一見控えめな振る舞いの背後には、真実の信仰と神への従順、さらには民族全体の存亡がかかっているという重大な使命感がありました。彼女はまた、ハマンという敵対者の動向を探るために、あえて宴会に王とハマンだけを招き、その場の空気を観察するという知恵も示しています。この行動は、決して軽率なものではなく、むしろ神の時と導きに身を委ねた慎重なる戦略であり、危機的状況においても冷静さと思慮深さを失わない模範として、私たち信者に大いに学ぶべき点です。
また、エステルがその願いを発する際に用いた言葉、すなわち「もしも王様がよろしければ、」という始まりは、相手に対する敬意と控えめな姿勢の表れです。現代においても、私たちが職場や家庭で大切なことを伝える場面では、まず相手の境遇や心情に配慮し、余計な主張や感情を控えるべきだと示唆されています。たとえば、上司に何かを訴えたい時や、家族との意見交換において、まずは相手の話をよく聴き、相手の心情を理解することが、実りある対話と建設的な解決への第一歩となるでしょう。
さらに、今回の説教で強調したい点は、私たちが言葉を発する際に神への畏敬の念を忘れてはならないということです。人はしばしば、いかに自らの考えを言葉に尽くそうとも、焦りや思い過ごしから無駄な発言をしてしまい、結果として自らを窮地に陥れることがあります。エステルが示したように、智慧ある人は「言葉数を少なくせよ」と忠告される通り、むやみに多くを語らず、必要な時に必要な言葉だけを発するのです。これは、日常生活におけるコミュニケーションはもちろん、霊的生活においても極めて大切な姿勢です。
現代社会において、情報があふれ、誰もが自分の意見を容易に発信できる状況ですが、私たち信者はエステルのように、常に神の御前において謙虚であり、時機を得るまで自らの言葉を慎むべきです。焦って無理に物事を前進させるのではなく、「主の時がある」と信じ、静かに、しかし確固たる信仰と知恵をもって行動することが求められます。そうすることで、神は確実に私たちと共に歩み、時には危機的な状況さえも救いの道へと導いてくださるでしょう。
このエステルの姿勢は、私たちにいくつもの霊的な教訓を残しています。彼女は一見、控えめで遠回しな言い方に見えるかもしれませんが、その裏には深い戦略と信仰の確信が流れていました。王の好意を得るためだけでなく、民族全体の命運を背負っての行動であったため、自らの口を慎み、神の御計らいに身を委ねることが如何に重要であるかが浮き彫りになっています。私たちもまた、日々の生活の中で神の導きを求め、コミュニケーションには十分な注意と謙虚さをもって臨むべきです。
例え仕事や家庭での小さな衝突、あるいは意見の食い違いがあったとしても、すぐに感情的な言葉を発するのではなく、まずは相手の気持ちに寄り添い、神の知恵によって冷静に判断することが信仰者として成熟する鍵です。そして、神が定められた正しい時に、私たちもまた必要な言葉を発する勇気と知恵を受けることでしょう。エステルのように、慎重に、しかし強く、そして謙虚な態度を忘れずに進むならば、どんな難局も乗り越えられると信じています。
この説教を通して、私たち一人ひとりが自らの言葉に責任を持ち、神の御前にあって控えめかつ賢明な判断を下すことの重要性を再認識し、またそれを実践する決意を新たにできるよう、心から祈り申し上げます。どうか皆さんもエステルの模範に習い、日々の生活の中で自らの唇を節制し、神の時を待ち、その導きに従って行動する信仰者となりますように。イエス・キリストのお名前によって、皆さんの家庭、職場、そしてあらゆる場所に神の平安と祝福が豊かに注がれますように、心からお祈りいたします。
【結論】
エステルの慎み深い行動と絶妙なタイミングは、神の御導きのもとに生きる私たちにとって大いなる模範です。私たちもまた、焦らず、謙虚に、そして神を畏れる心を持って日々のコミュニケーションに臨むことで、どんな困難も乗り越え、神の御計らいに沿った素晴らしい未来へと歩みを進めていきましょう。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
ユダの手紙9-10:右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:金の子牛への二つの罠(出エジプト記32:1-6):右クリックで保存
『民はモーセが山を下ることのおそいのを見て、アロンのもとに集まって彼に言った、「さあ、わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってください。わたしたちをエジプトの国から導きのぼった人、あのモーセはどうなったのかわからないからです」。・・・アロンがこれを彼らの手から受け取り、工具で型を造り、鋳て子牛としたので、彼らは言った、「イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である」。
・・・そこで人々はあくる朝早く起きて燔祭をささげ、酬恩祭を供えた。民は座して食い飲みし、立って戯れた。』(出エジプト記32:1,4,6)
民は早くも堕落してしまった。
40日ほど前、あれほどの恐ろしく圧倒的な主の顕現を見たはずなのに。
また、この日の朝、主からのマナを食べ、主が備えて下さった水を飲んだはずなのに。
雲の柱と火の柱による主の臨在が、相変わらず彼らと共にあったのに。それなのに、一体、どうした事なのだろうか。
アロンは「あすは主(エホバ)への祭りである」(5節)と言った。エホバ、すなわち、アブラハム、イサク、ヤコブの神、天地を創られた全能なる神への祭りだと宣言したが、もしかしたら彼らは、造った偶像にエホバなる主を投影する事によって、主に仕えているような「気」になっていたのかもしれない。
だが、「その気」だったとしても、それは到底エホバなる主が受け入れるものではない。
主に仕えているような「気」になっておりながら、主を怒らせ、悲しませるという事は、確かにある。
私達はそれを十分注意して取り扱わなくてはならない。
「さあ、”わたしたちに”先立って行く神を、”わたしたちのために”造ってください。」(1節)この言葉からも、主体は神ではなく「わたしたち」にある事が分かり、彼らの「その気」は、心から主を愛するものではなく、自己中心的なものであると分かる。
そして彼らは、御言葉に従っておらず、むしろ、いくつも御言葉に反している。
主が十戒の第一戒で言われたのは「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」だった。
また、第二戒で言われたのは「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。」だった。(出エジプト記20:1-6)
さらに続けて主は言われた。「あなたがたは、わたしが天からあなたがたと語るのを見た。あなたがたはわたしと並べて、何をも造ってはならない。銀の神々も、金の神々も、あなたがたのために、造ってはならない。」(出エジプト記20:22-23)
この言葉が与えられ、まだ40日ほどしか経っていないのに、アロン彼らから金を集めさせ、のみで鋳型を造り(のみを当てるなら汚す事になる、と、主は20:25で言われているのに)、金の子牛を造って、「イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である」と、のうのうと宣言している。
このように彼らは、こちらが見ていて怖くなってしまうほどに主の戒めを破り、主の御怒りを引き起こしている事が分かるはずだが、彼らは、分からなかったのである。
なぜか?
それは、彼らの内に御言葉が無く、身勝手に、自分の目に正しいと思われる「思い込み」によって、突き動かされていたからである。
災い多く忌むべき士師記の時代のキーワードは、「おのおの自分の目に正しいと見る所を行なっていた」だった。
御言葉の根拠が無い、神に仕えているという身勝手な「思い込み」。それこそ、災いと呪いの根源である。
私達が正しいと見える事、それは果たして主の御前に正しいだろうか。
それをいつも、御言葉に照らし合わせて、点検する必要がある。
もう一つ、この箇所から私達が陥りやすい罠を見る事が出来る。
その罠とは、「民衆の声」である。
アロンは、民衆の「わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってください。」という声に対し、御言葉で否む事をせず、民衆の思いをさせてしまった。
サウル王も同じ罠に陥った。彼も、サムエルから与えられた御言葉どおりに待ちきれず、自分流の思いに急かされ、そして「民が」離れていくのを恐れ、御言葉を乗り越え、自分のおるべき領分を超えた事を行なってしまった。
彼も言い訳で「神に仕えたつもり」だった事を言ったが、それは御心を損ねる事であり、王国は剥奪される事になってしまった。(1サムエル13:8-14)
政治に関して理性的に判断する知的な市民よりも、情緒や感情によって態度を決める大衆を重視し、その支持を求める手法あるいはそうした大衆の基盤に立つ運動をポピュリズムと呼ぶが(知恵蔵2013)、神の国において、このポピュリズムは、最もしてはならぬ事である。
現在、キリスト教界において、御言葉よりも、大衆に迎合される事を重視し、御言葉をそのまま伝える事を躊躇してクリスチャンが塩気を失い、御言葉の光を失い、塩気の無い塩として、外に投げ捨てられてしまっている状況を、よく見る事が出来る。
わたしたちは、アロンやサウル王が陥ってしまった、二つの罠に気をつけるべきである。
一つは、御言葉が与えられても、忍耐して待ちきれない、という罠。
主の現れは、人の目には遅いと感じる事もある。しかし、しっかり主に信頼し、言われた言葉を守り続けるべきである。
もう一つの罠は、民衆の声、みんなの声である。
それらに惑わされず、御言葉にしっかり留まって御言葉の成就を忍耐して待ち望み、民衆の声に惑わされず、御言葉のほうに信頼して従順するなら、ヨシュアやカレブのように、次世代へいのちを継がせる者となる事が出来る。
もし、みんなの声に惑わされ、主の御言葉を押しのけるなら、荒野の民のように、サウル王のようになってしまう。
御言葉に従順し、服従し、新しい改まった世界へといのちをつなげる皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:幕屋建設指示の終わりに(出エジプト記31:1-18):右クリックで保存
いよいよ幕屋建設の命令の最後の指示である。
『「見よ、わたしはユダの部族に属するホルの子なるウリの子ベザレルを名ざして召し、これに神の霊を満たして、知恵と悟りと知識と諸種の工作に長ぜしめ、工夫を凝らして金、銀、青銅の細工をさせ、また宝石を切りはめ、木を彫刻するなど、諸種の工作をさせるであろう。見よ、わたしはまたダンの部族に属するアヒサマクの子アホリアブを彼と共ならせ、そしてすべて賢い者の心に知恵を授け、わたしがあなたに命じたものを、ことごとく彼らに造らせるであろう。』(出エジプト記31:2-6)
幕屋に必要な全ての設備品を造るために、要求される技術は、非常に多岐に渡る。
大工的なものもあれば宝石職人的な技術も要求され、服飾的なものもあれば、アロマの調合まで必要である。
これら全てを主の聖なる用に足りるレベルにまで造り上げるには、主の霊なくては到底出来るものではない。
神が幕屋について指示されて来た事は緻密で膨大であり、果たしてその通り出来るかという心配が、もしかしたらモーセにあったかもしれない。
しかし神は、出来ない要求をしていっちゃもんをつけるようなお方ではない。
神が「せよ」と言われるからには、それが出来るよう、必要な資材も、神の霊で満たされた知恵と力を持つ働き人をも、ちゃんと備えて下さる。
主の霊が与えられた技術者は、「これこれの物をつくりなさい」と言われた時、頭の中ですぐにイメージが与えられ、御心の通りに造り上げるのだ。
それは、現代の教会においても、そうである。
私達の教会が行くべき道が示された先には、現行の教会員や資力では到底出来ないような事を示される時があるかもしれない。
しかし、その示しが神から来たものであるからには、神がちゃんとそれが出来る御霊の知恵と力に満ちた人を用意し、必要な財力も備えて下さるのだ。
神の国の奉仕は、自分が活躍したいからなるものではないし、社会的落伍者が逃避的な目的でキリスト教界の奉仕者になるものでもない。
幕屋建設の奉仕者が、神から名指しで任命されたように、神の国の奉仕者は、神によって「任命」されてなるものである。
神が任命して下さるなら、どんな事でも可能であり、実績が必ず後を追い、人々からも認めるものである。
『主はまたモーセに言われた、「あなたはイスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは必ずわたしの安息日を守らなければならない。これはわたしとあなたがたとの間の、代々にわたるしるしであって、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、知らせるためのものである。』(出エジプト記31:12-13)
幕屋建設の指示の最後は、なぜか再び安息日尊守の命令で締めくくられている。
これから具体的な作業に入るに当たって、全ての奉仕で決して忘れてはならない重要事項が「安息」であるようだ。
神の国の奉仕者が休まず働いて疲れ果ててしまうのは御心ではない。
必ず休みが必要であり、そして休みの時は、しっかり神の創造のみわざを覚えつつ心も体も休めるべきである。
安息日の主は、キリストである。
全ての種類の奉仕にあたり、決して忘れてはならない重要事項は、イエス・キリストを信じる信仰であり、この御方を脇においた自分流の奉仕は、無効である。(ヘブル4:1-3)
信じた者は安息に入り(ヘブル4:1-3)、安息に入った者は自分のわざを終えて休む。
『こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。』(ヘブル4:9-10)
『主はシナイ山でモーセに語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち神が指をもって書かれた石の板をモーセに授けられた。』(出エジプト記31:18)
こうして、25章以降から詳細に指示されて来た幕屋建設の命令は終わり、モーセは律法の石板を神から頂いたが、残念ながら、この板は次章で粉々に砕かれてしまう。
次章以降、民の堕落とモーセの執り成し、神の憐れみを見て行きたい。





