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メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:主の使いに導かれよ(出エジプト記23:20-22):右クリックで保存

『見よ、わたしは使をあなたの前につかわし、あなたを道で守らせ、わたしが備えた所に導かせるであろう。』(出エジプト記23:20)
御使いというと羽の生えた天使を思い浮かべやすいが、モーセ五書を通読された方は、恐らくそういう天使が荒野の民を導いた記憶はないかと思う。
御使い、あるいは天使、と訳されているヘブライ語「マラヮク」は、メッセンジャー、使者、預言者の意味もあり、色々な状況で、時には思わぬ姿形で、神の民の前に現れるのだ。

主がモーセに現れた時、主の使いは燃える柴の中に現れ、モーセをエジプトへと遣わした。(出エジプト記3:2)
また、イスラエルの民が荒野を進む時、主の使いは雲の柱、火の柱となって、彼らを導き、紅海沿いでエジプト軍に追いつかれそうになった時、主の使いは彼らの後ろに移り、エジプトの軍とイスラエルの間に立ちはだかって彼らを守り、エジプトに敵対した。(出エジプト記14章)

主の使いは、様々な場面に、様々な形で、私達に語りかける。
雲の柱や火の柱として導かれる事もあるし、モーセのように神から使わされた人間もあるし、ある時は主ご自身が雷鳴のとどろきのような声で、ある時はか細い声で直接語り、ある時は、導かれる状況そのものが主のメッセージだったりもする。

『あなたはその前に慎み、その言葉に聞き従い、彼にそむいてはならない。わたしの名が彼のうちにあるゆえに、彼はあなたがたのとがをゆるさないであろう。しかし、もしあなたが彼の声によく聞き従い、すべてわたしが語ることを行うならば、わたしはあなたの敵を敵とし、あなたのあだをあだとするであろう。』(出エジプト記23:21-22)
主の使いからメッセージを受けた時、私達が取るべき態度は、ただ一つ。その言葉に聞き従い、行う事である。
私達は「わたしはあなたの敵を敵とし、あなたのあだをあだとする」という言葉は大好きであるが、そうした主の守りと祝福に入るには、条件があり、その条件が、御言葉に聞き従って背かない事、主が語る事を行う事である。
それが、祝福のコツである。
実にシンプルであるが、人はなんと頻繁に主のメッセージをないがしろにしたり、無視したりして、祝福を逃している事だろう。

私が中学生の時、宿泊学習先で初めてオリエンテーリングというゲームを行った。
それは地図とコンパスを用いて、山の中の各所に設置された地点を、いかに早く全て通過するか、というゲームであるが、その時、陸上部と野球部のメンバーが、地図とにらめっこするよりも自分の足で走って探すほうが早いし、そちらのほうが根性と力が示せる、などと、奇妙な美意識を打ち出し、やみくもに走り出してしまい、グループメンバーがはぐれるわけには行かないため、全員でその後を追う形となった。
はじめのうちは、自分の足で走って適度な疲れも来るので、効率よく探しているような気もし、自分達は他のチームよりも根性があるなどと錯覚し、すぐにでもポイントを稼げるような気分でいた。
しかし、走っても走っても地点には行き当たらず、ただ疲れるだけで、残り時間が少なくなった時、他のチームは7,8点なのに自分のチームは2,3点。疲れと点数の低さに絶望的な雰囲気となり、結局、最下位となってしまった。
このように、身勝手なビジョンを打ち出し、正しい手順に則る事なく自分の力や自分の頭脳に固執して、やみくもにがんばる人は、成果もなく、ただ疲れるだけの無意味な時を過ごし、周りを巻き込んで敗北してしまうのだ。

今、皆さんが目標とすべき地点は、御言葉という”地図”によって、理解できているだろうか。
聖霊という”コンパス”の導きを、仰いでいるだろうか。
妙なプライドを掲げて、やみくもに走り回ったりして、与えられている人生の残り時間を、いたずらに費やしたり、周囲を巻き込んだりしていないだろうか。

私達はまず、御声に聞き、御心を知る事から始めるべきである。
仕事において、家庭において、あるいは人生の様々な目標において、それが御言葉という地図に照らして、正しいものであるかを確認する必要がある。
自前勝手な美意識やプライドは捨てて、聖霊の導きに従って歩んでいるかを、点検すべきである。

昨日は久しぶりにベツレヘム祈祷院へ聖徒達を車で連れて行き、カナンキリスト教会の兄弟姉妹たちと共に賛美と証、礼拝と食卓の交わりの時を持ちました。

その後、教会のある聖徒のご家族の所へ行き、そこで皆で祈って来ました。

霊的な攻撃も色々ありましたが、とても素晴らしい時を持てました。

礼拝説教メッセージ音声:主の安息と祭り(出エジプト記23:10-19):右クリックで保存

10節から12節に続く箇所では、安息日と安息年について示されている。
『あなたは六年のあいだ、地に種をまき、その産物を取り入れることができる。しかし、七年目には、これを休ませて、耕さずに置かなければならない。そうすれば、あなたの民の貧しい者がこれを食べ、その残りは野の獣が食べることができる。あなたのぶどう畑も、オリブ畑も同様にしなければならない。あなたは六日のあいだ、仕事をし、七日目には休まなければならない。これはあなたの牛および、ろばが休みを得、またあなたのはしための子および寄留の他国人を休ませるためである。』(出エジプト記23:10-12)

安息日については十戒の箇所で学んだが、ここでは安息”年”についても定めており、それもまた七の周期で訪れる。
安息の制定は休ませるためでもあるが、第一の意義は「主を覚えて聖とする」(出エジプト記20:8)事であり、これを守れば、仕事のパフォーマンスが上がるだけでなく、主からの祝福を受ける。

七年目は種まきも刈り入れもしてはならない、としたら、七年目は一体どうやって食べれば良いのか、と、心配するかもしれない。
それについて主は、明瞭に答えている。
『「七年目に種をまくことができず、また産物を集めることができないならば、わたしたちは何を食べようか」とあなたがたは言うのか。わたしは命じて六年目に、あなたがたに祝福をくだし、三か年分の産物を実らせるであろう。あなたがたは八年目に種をまく時には、なお古い産物を食べているであろう。九年目にその産物のできるまで、あなたがたは古いものを食べることができるであろう。』(レビ25:20-22)

思い出して欲しい。マナが降ったのは六日間で、主が定められた安息日にはちゃんと休めるよう、主は、六日目には二日分のパンを豊かに備えて下さる。
主を覚えるべき安息の日に立ち働いても徒労に終わるのみで、神と人から蔑みしか得られず、安息年を久しく守らなかったイスラエルの民は、バビロンへ連行して強制的にその地に安息を与えた。(2歴代36:21)
礼拝を守ろうとする聖徒に、主は手のわざを祝福し、しっかり礼拝を捧げられるよう都合をつけて下さり、その日に仕事を休んでも、必要をちゃんと備えて下さるのだ。

14節から19節に続く箇所は、ユダヤにおける重要な三つの祭りに関して、守るべき事柄が示されている。

『あなたは年に三度、わたしのために祭を行わなければならない。あなたは種入れぬパンの祭を守らなければならない。わたしが、あなたに命じたように、アビブの月の定めの時に七日のあいだ、種入れぬパンを食べなければならない。それはその月にあなたがエジプトから出たからである。だれも、むなし手でわたしの前に出てはならない。』(出エジプト記23:14-15)
重要な祭りの一つが「種入れぬパンの祭」(大麦の刈り入れ時期)で、アビブの月すなわち第一の月に14日夕暮から始まる「過越祭」に続き、7日間、種入れぬパンを食べる。(出エジプト記12章)
これは、新約において主イエスが苦難を受け、復活された時期であり、主はまことの過越の小羊としてほふられ、血を流され、肉を裂かれた。

二つ目の祭りは「初穂をささげる刈入れの祭」で、これは小麦の刈り入れ時期に行われる。
『また、あなたが畑にまいて獲た物の勤労の初穂をささげる刈入れの祭と、あなたの勤労の実を畑から取り入れる年の終りに、取入れの祭を行わなければならない。男子はみな、年に三度、主なる神の前に出なければならない。』(出エジプト記23:16-17)
この祭りは、穀物にかまを入れ始める時から七週を数えるため「七週の祭」とも呼ばれる。(申命記16:9-12)
これは、新約におけるペンテコステの日であり、ユダヤ人が各地から集まっている中、キリスト者達は聖霊に満たされ、主の働き人として捧げられた「初穂」として、公に示された。

三つ目は「取入れの祭」であり、仮庵祭と呼ばれ、ぶどうやオリーブ等果物の取り入れ時期、10月半ば頃に行われる。
これは出エジプトの民が、荒野で天幕に住んだことを覚え、祭りの期間は仮設の家(仮庵)を建てて住んだ事を覚える祭りであるが、新約における主イエスの誕生と一致する。
「ことばは人となって私たちの間に住まわれた。」(ヨハネ1:14)は、直訳すると、ロゴスは肉となって私達の内に幕屋(仮庵)を設けた、という意味であり、イエス様は肉体という幕屋を張って、私達の間に住んで下さったのだ。

現代、イエス様の誕生を12月25日に祝っているが、その日はイエス様の誕生日ではない。
聖書の記述を辿っていくと、イエス様の誕生は、10月半ばの仮庵祭の頃となる。(ザカリヤはアビヤの組の祭司で(ルカ1:5)、アビヤの組は8番目(?歴代誌24:10)である。ユダヤの第1月、ニサンの月は太陽暦の3月半ば〜4月半ば、ザカリヤの第8組は5月半ば〜6月半ばとなり、この時期にエリサベツがバプテスマのヨハネを身ごもったという事になる。マリヤが身ごもるのはその6ヵ月後、11半ば〜12月半ばであるから、そこから出産までの約10ヶ月を足すと、ちょうど仮庵祭の頃となる。)

旧約聖書は全てイエスというお方についてあかししており(ヨハネ5:39、ルカ24:27)、律法で定められた「祭り」には、イエスのヒントが見え隠れする。
安息も、祭りも、いずれも主を覚えるためであり、主イエスを表している。それを人が守る時、その人は祝福されるのである。

肉と御霊、どちらを歩むか(ローマ8:5-17)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

肉によって歩むか、それとも御霊によって歩むかによって、全く別の「永遠」が待っている。
まず、肉によって歩む人の歩んだ結果の実は、ガラテヤ5章の19〜21節にある通りである。
その人は、人の道を踏み外した快楽を求め、神でないものを神として拝み、自分の方向性を阻む人に対して争いを起こし、党派を組んで分裂を促すような行動パタンがあり、礼拝や賛美などの聖なる事に、何の意欲も感動も無いが、遊興や飲み騒ぐなど、世の事に関してはとたんに目を輝かせる性質がある。
「肉にある者は神を喜ばせることができません。」(ローマ8:8)
「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」(ローマ8:6-7)
肉にある人は、どう頑張っても、神の律法に服従できず、むしろ聖徒たちの歩みを邪魔する。
彼らは聖徒の交わりの中にいても、御言葉や礼拝の恵みの喜ばしさを、理解できず、むしろ、世のうわさ話や趣味享楽の話題によって聖なる雰囲気を、俗なる雰囲気で上塗りしようとし、自己栄光化を促し、妬みや嫉妬に促され、聖徒の交わりを分裂へと引きずり込み、肉のリストにある実を結ばせるのみである。

肉に従って歩む人は奴隷であり、やりたくない事ばかりやらされるが、御霊に導かれるなら、神の子である。
「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。」(ローマ8:14-15)
肉の実ばかりを結んでどうしようもない、という人、そこから離れたい、という人は、肉によって歩む事を止め、御霊によって歩む事を始めれば良いわけである。
一体どうしたら御霊が与えられるのか。どうしたら聖霊に満たされるのか。それは、意思決定の問題である。
「あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。」(ローマ6:12) さて、この御言葉から、私達の死ぬべきからだを罪の支配に委ねて、情欲に従わせるか、従わせないかは、誰に責任があるだろうか?当然、私達の側にある。
「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(ガラテヤ5:16)この御言葉からも、御霊によって歩む事は、私達の側の責任である事が明白である。
御霊に従って歩むには、多少の努力が必要である。
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。・・・とすればなおのこと、天の父が、求める人達に、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」(ルカ11:9-13)
ただ口を開けて待っていれば、自動的に御霊が注がれる、と思ったら、間違いである。
求め、探し、叩く事は、骨折れる事だが、自分の肉のやりたい事を降ろし、主の故に骨折り、昼夜となく主に祈り求める聖徒に、主は聖霊を与えて下さらない事はない。
肉体や精神を鍛錬して御霊の実を結ばせようとする「がんばり」は、お門違いである。御霊抜きにして、いくら頑張っても、ムダである。なぜなら、肉は神に服従できず、反抗する、と書いてあるからである。
肉のがんばりを捨て、御霊によって歩む事を選択し、聖霊が与えられるよう、求め、探し、叩く事である。

御霊に従って歩むキリスト者は、ガラテヤ5章22〜23節にある御霊の実を結んでいく。
生活は喜びに溢れ、不安ではなく平安に満たされ、自分を制し、寛容さや親切さに満ちた柔和な人となり、悪意ではなく善意によって物事を判断し、誠実な人として人々から尊敬され、好かれ、もっとこの人と付き合いたいと思われるようになって行く。人を愛し、人々はその愛に感化され、愛が広がるようになっていく。

御霊に導かれるなら、神の子供であり(ローマ8:14)、もはや奴隷ではなく「子」とする霊を受けたのだ。
「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」(ローマ8:17)
神の子にふさわしいたしなみを身につけ、聖なる品性を纏い、御霊の実を豊かに結ばせる、豊かな人生を生きていく皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:判決を降す際は(出エジプト記23:1-9):右クリックで保存

今回の箇所は、判決を下す際の戒めである。
主は、人をかたより見る事はされないお方であり、私達にもそれを求めておられる。

『あなたは偽りのうわさを言いふらしてはならない。あなたは悪人と手を携えて、悪意のある証人になってはならない。』(出エジプト記23:1)
よく子供の中で(いや、むしろ大人のほうが)気に食わない誰かについてあらぬ悪いうわさを流し、その人を陥れるという事がある。
それは、主の敵が為す事であり、その最後は安らかなものではない。
イゼベルやアハブは悪意の証人を立ててナボテを殺し、パリサイ人達も悪意の証人を立ててイエス様を十字架につけて殺し、ステパノを石で殺すよう仕向けたが、いずれも、悲惨な最後を遂げた。

『あなたは多数に従って悪をおこなってはならない。あなたは訴訟において、多数に従って片寄り、正義を曲げるような証言をしてはならない。また貧しい人をその訴訟において、曲げてかばってはならない。』(出エジプト記23:2)

強い者や多数に追随して、皆で悪い方向へと向かってしまうのは、インターネット上でよく行われているし、特に日本人はそのような傾向に陥りやすいが、主は、それをしてはならないと命じておられる。
また、弱い立場の人をかばうあまり、裁判を曲げてしまう事も、してはならないと命じておられる。

過剰な被害者意識も、過剰な加害者意識も、両方とも道を誤らせてしまう元なのだ。
強い者や多数意見に流されたり、弱者に同情したりして、黒を白としたり、白を黒としたりしてはならず、公正にジャッジする事を、主は求めておられる。

『もし、あなたが敵の牛または、ろばの迷っているのに会う時は、必ずこれを彼の所に連れて行って、帰さなければならない。もしあなたを憎む者のろばが、その荷物の下に倒れ伏しているのを見る時は、これを見捨てて置かないように気をつけ、必ずその人に手を貸して、これを起さなければならない。』(出エジプト記23:4)

神はここまで具体的に、公平である事を私達に求めておられる。
というより、敵にこのようにされた場合、あるいは、した場合、仲たがいしている心も和らぐのではないだろうか。

主は公正明大なお方で、情に流されて裁いたりされない。だから私達も、公平であるべきである。
裁きや報復は、主がなさる事。私達は悪に対して悪で返さず、善で返す事によって、罪から守られ、自分の手を汚す事からも守られ、祝福をいただけるのである。

『だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。
むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。』(ローマ12:17-21)

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
やりたくない事をしないために(ローマ7:14-8:2):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:弱き人を守られる主(出エジプト記22:21-31):右クリックで保存

主は弱き人達に配慮し守られるお方で、21節から27節までの箇所に、そういう人達に為すべき配慮が記されている。
『あなたは寄留の他国人を苦しめてはならない。また、これをしえたげてはならない。あなたがたも、かつてエジプトの国で、寄留の他国人であったからである。』(出エジプト記22:21)

その最も先に記された事は、寄留の他国人たちへの配慮についてである。
彼らはつい数ヶ月前までエジプトにおいて在留異国人であり、その事を忘れさせないためである。そして私達も、この世にあっては旅人であり寄留者である事を忘れてはならず、この国で在留し生活している人達への配慮を忘れてはならない。

『あなたがたはすべて寡婦、または孤児を悩ましてはならない。もしあなたが彼らを悩まして、彼らがわたしにむかって叫ぶならば、わたしは必ずその叫びを聞くであろう。そしてわたしの怒りは燃えたち、つるぎをもってあなたがたを殺すであろう。あなたがたの妻は寡婦となり、あなたがたの子供たちは孤児となるであろう。』(出エジプト記22:22-24)
福祉や人権の概念のなかった当時の世界は、孤児や寡婦はとても弱い立場だったのに対し、主は、彼らが人々から見捨てられるなら、その見捨てた者達を剣に渡す事を宣言された。

『あなたが、共におるわたしの民の貧しい者に金を貸す時は、これに対して金貸しのようになってはならない。これから利子を取ってはならない。もし隣人の上着を質に取るならば、日の入るまでにそれを返さなければならない。これは彼の身をおおう、ただ一つの物、彼の膚のための着物だからである。彼は何を着て寝ることができよう。彼がわたしにむかって叫ぶならば、わたしはこれに聞くであろう。わたしはあわれみ深いからである。』(出エジプト記22:25-27)

当時、上着は寝るときに覆う「布団」の役割もあった。
貧しくなった人が、上着を抵当にお金を借りたからといって、寝るときの布団まで取りあげてしまうのは、御心ではない。
主は情け知らずの主ではなく憐れみ深い主である。
全てのものは主のもので、今、私達の手の内にある資産は主が貸し与えて下さっているものなのだから、同じように、私達も弱い立場の人達を憐れむべきである。

これらは、単なるきれいごとや脅しではない。
イスラエルの歴史では、実際に、寡婦や孤児の権利を踏みにじった故、あるいは同胞から高利を取った故、主の怒りが燃え上がり、イスラエルは諸々の国に散らされた事があり、そうしてイスラエルの中から、汚れが取り除かれた。(エゼキエル22章)

また、28節から31節には、神に対してあるべき態度が記されている。

『あなたは神をののしってはならない。また民の司をのろってはならない。』(出エジプト記22:28)
ここの「あなたは神をののしってはならない。」の「神」は、ヘブライ語ではエローヒム、「神」とも訳せるし「さばきびと」とも訳せる語である。
神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものであるのだから、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいている事であり、そむいた人は自分の身にさばきを招く。(ローマ13:1-2)
人はみな、神が立てた権威に従うべきである。

『あなたの豊かな穀物と、あふれる酒とをささげるに、ためらってはならない。あなたのういごを、わたしにささげなければならない。あなたはまた、あなたの牛と羊をも同様にしなければならない。七日の間その母と共に置いて、八日目にそれをわたしに、ささげなければならない。』(出エジプト記22:28-30)
私達は、祝福が与えられたなら、ささげものを遅らせてはならない。
というのは、人には欲があり、捧げ物を後回しにすればするほどそれが惜しくなり、実行するのが難しくなって結局捧げず、神様との約束を反故にして罪を犯す事になるからである。

『あなたがたは、わたしに対して聖なる民とならなければならない。あなたがたは、野で裂き殺されたものの肉を食べてはならない。それは犬に投げ与えなければならない。』(出エジプト記22:31)
野で獣に裂き殺されたものは、汚れたものとされている。
私達も、世という野において、獣のような汚れた者達のえじきにされたものにハイエナのように群がって、その残りをむさぼるような事をしてはならない。
それは、犬のように卑しい者達のえじきとするべきものである。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
高慢な妻と慎み深い妻(エステル記1章):右クリックで保存

【概要】

本日はエステル記と関連聖書箇所を通して、神の御業とキリストの花嫁としての立場、そして高慢や傲慢に陥らない謙遜な信仰の歩みについて説きます。

【聖書箇所】

・エステル記 1章1-9節

・エゼキエル書 28章12-13節および14節以降(サタンの転落に関する記述)

・雅歌 5章2-8節

・雅歌 2章10-15節

【戒めの言葉】

・主の御声に応えず、自らの誇りや美しさに頼ったなら、いつかその尊い冠が奪われることを、今日のエステル記とエゼキエル書が私たちに警告しています。

【励ましの言葉】

・神の御声に敏感に耳を傾け、謙遜な心で応えるなら、あなたはどんな状況にあっても神の御手の保護の中にあります。

【慰めの言葉】

・たとえ遠く離れた異邦の地にあっても、私たちはキリストの花嫁として、神の愛と慰めの中に常に守られていることを忘れてはなりません。

【***詳細***】

今日、私はエステル記の冒頭の場面から、私たちが学ぶべき真理についてお話ししたいと思います。エステル記は、アハシュ⁑ス王の豪華な宴会の記述から始まります。王はシュシャンの城において、王族にも臣下にも惜しみない贈り物とともに、華麗な宴を180日、さらにその後7日間にわたって催しました。**「アハシュ⁑ス王は、金の盃で酒を振る舞い、その豊かな栄光と栄華を民衆に示された」**との記述は、神の世ではなく人間の世の栄光に過ぎません。しかし、この豪華な宴の裏側には、王妃ワシュティが自らの高慢によってその立場を失い、結果として国中の人々の尊敬をも失わせるという重大な教訓が隠されています。

私たちは、エステル記における王妃ワシュティの行動から、謙遜な心で主に仕えるべきという大切なメッセージを読み取ることができます。エステル記のこの部分は、単に古代ペルシアの宮廷劇のような歴史記録ではなく、「私たちは誰の妻なのか?」という問いを現代に向けて問いかけます。王妃ワシュティは、美貌ゆえに傲慢となり、王の呼びかけに応じることを拒んだために、その栄誉が失われ、後により優れた花嫁—謙遜な心のエステル—にその座が譲られました。ここで私たちは、イエス・キリストの花嫁として、主の呼びかけに即座に応え、謙虚にその愛を受け入れることの大切さを学びます。正しい信仰の歩みとは、どんなに美しい外見や才能があろうとも、主の前ではすべてのものが私たちのものではなく、私たちはただ主の召命に従う花嫁であり続けなければならないということを思い起こさせます。

また、エゼキエル書28章では、神がかつて愛された天使長サタンの美しさと知恵、そしてその後の堕落に至る過程が描かれています。**「あなたは知恵に満ち、美の極みであった。しかし、あなたがその美しさに高ぶり、誇りに浸ったため、汚れた者として神の前から追放された」**との言葉は、私たちに高慢の危険性を厳しく戒めています。エステル記の王妃ワシュティもまた、自らの美貌と地位に溺れ、神に対する謙虚な心を失った結果、王の御前から退けられる運命に遭いました。これと対照的に、新たに選ばれたエステルは、その慎ましさと従順さにより、王から特別な庇護を受け、イスラエル民族の救いに大きく貢献しました。

私たちは今日、エステル記の中に現れる歴史的背景を通して、神がどのような人々を御用に召されるのか、そしてどのような心持ちで御前に立つべきかを再確認する必要があります。王妃ワシュティの失敗は、どれほど華やかな環境にあっても神から離れることが、取り返しのつかない結果を招くという警告です。一方、エステルのように謙遜で主への絶対的な信頼を持つ者は、どんなに異国の地であっても神の御心の通りに働くことができるのです。

さらに、雅歌の中にある恋の描写は、キリストとその花嫁たる私たちとの深い交わりを象徴しています。雅歌5章2〜8節には、愛する方が呼びかけ、花嫁がその声に心を震わせる情景が描かれています。**「我が愛する者、美しい人よ、さあ立って出ておいで。あなたの声を聞かせておくれ」**という御言葉に、私たちはどれほど感動し、応えなければならないかを思い知らされます。同様に、雅歌2章10〜15節でも、主からの呼びかけに対して、花嫁が即座に応じる姿が描かれ、主と交わる喜びがあらわされています。

ここで改めて、私たちに問いたいのは「私たちは誰のために生きているのか」ということです。私たちはイエス・キリストの花嫁として御前に召され、たとえ世界のどこにいても、神の王宮と呼ばれる御座は変わらずそこにあります。エルサレムにおいてネヘミヤやエズラが神殿再建に奔走し、その後、遠き異国の地においてもエステルが救いの鍵を握ったように、私たちもどのような環境においても、主への従順と謙虚な心を忘れてはなりません。

確かに、世の中は誘惑と誇りに満ち、どんなに華やかに見えても、その裏側には必ず神の裁きと戒めが存在することを、今日の聖書の記述は示しています。私たちは決してその栄誉に乗り、自己中心的になってはなりません。むしろ、主の呼びかけに敏感になり、心から「私の愛する方は私のもの、私はあの方のものです」と信仰を告白し、日々の生活の中でその証を示すべきです。

神は、私たちに高慢や傲慢に陥らないよう、また、どんな時も主の呼びかけに応え、御言葉に従うようにと望まれています。過去の大いなる歴史の中で、ワシュティがその高慢のために冠を失ったように、もし私たちが自己を高ぶらせ、主の呼びかけに背くなら、いつかその栄誉は取り去られてしまうでしょう。しかし、エステルのように謙虚であるならば、主は必ず祝福と守りをもって私たちと共に在り続け、限りない愛の交わりを約束してくださいます。

最後に、私たちが生きるこの時代においても、神の御声は決して遠くないということを確信してください。日々の忙しさや世俗の誘惑に惑わされることなく、毎朝の祈りと思い起こしの中で、神が私たちに呼びかけておられることを感じ取ってください。イエス様の花嫁として、謙虚に、そして従順に、主の教えと召命に応えるその心を持ち続けることが、私たちの真の栄光と祝福につながるのです。

愛する皆さん、神はあなたの内にその御霊を注ぎ、いつもあなたが歩む道を照らしておられます。いかなる状況においても、主の愛を信じ、御声に敏感に耳を傾け、決して自分の力に頼らず、ただ主の豊かな恵みによって生きることを、心から願っております。

【結論】

本日の聖書の御言葉は、私たちがどのような立場、どのような環境にあっても、主イエス・キリストの花嫁として謙虚に従い、主の呼びかけに即応すべきであるという力強いメッセージです。どうか今日の御言葉を心に刻み、日々主の愛と召命に従う歩みを続け、栄光の冠を失うことなく、永遠に主と交わり続ける信仰の花嫁であられるよう、神の祝福が皆さんに豊かにありますように。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
1ヨハネ5:18-21:右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:性的な純潔と霊的な純潔(出エジプト記22:16-20):右クリックで保存

『もし人がまだ婚約しない処女を誘って、これと寝たならば、彼は必ずこれに花嫁料を払って、妻としなければならない。もしその父がこれをその人に与えることをかたく拒むならば、彼は処女の花嫁料に当るほどの金を払わなければならない。』(出エジプト記22:16)
婚約もしていない処女と性交渉を持ったなら、彼女を妻として迎えなくてはならず、また、妻や夫もしくは婚約者のいる人が別の異性と性交渉するなら、死刑が定められている。(申命記22:22-24)
また、女性を力づくで犯す事は、殺人にも等しい行為であり(申命記申命記22:25-26)、そのことは、いかに女性の尊厳を傷つける事であるか示されている。

神の基準では、肉体関係を持つべき相手は、死が互いを別つまで、オンリーワンである。
そして、性的な事柄は、霊的な事柄と相通じるものがある。
夫婦はお互い相手に純潔である事を求めるように、主もまた人に「純潔」である事を求めておられる。

当時のカナン地方では、呪術が盛んに行われていたが、それは、悪霊と交わる行為であり、偶像崇拝は、主のねたみを招く「霊的姦淫」である。
『偶像にささげる供え物は、何か意味があるのか。また、偶像は何かほんとうにあるものか。そうではない。人々が供える物は、悪霊ども、すなわち、神ならぬ者に供えるのである。わたしは、あなたがたが悪霊の仲間になることを望まない。主の杯と悪霊どもの杯とを、同時に飲むことはできない。主の食卓と悪霊どもの食卓とに、同時にあずかることはできない。それとも、わたしたちは主のねたみを起そうとするのか。わたしたちは、主よりも強いのだろうか。』(1コリント10:19-22)

そして、私達が主を礼拝し、主の聖餐にあずかる事は、主と交わり、主と一体となる事を意味している。
『それだから、愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。賢明なあなたがたに訴える。わたしの言うことを、自ら判断してみるがよい。わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちがさくパン、それはキリストのからだにあずかることではないか。パンが一つであるから、わたしたちは多くいても、一つのからだなのである。みんなの者が一つのパンを共にいただくからである。』(1コリント 10:15-17)
男と女の性的な関係は、主と私達の関係のひな形である。

『すべて獣と寝る者は必ず死刑に処せられる。』(出エジプト記22:19)
人は神の似姿であり、性行為はその相手と一つとなる事である。それ故、汚れた者や獣と交わる事は、神を大いに侮辱する行為である。
私達のこの体は、キリストの体でり、もしこの体で遊女と寝るなら、キリストの体を取って遊女の体とする行為である。「ふたりの者は一体となるべきである」とあるからである。
しかし主につく者は、主と一つの霊になるのだ。(1コリント6:15-17)

『不品行を避けなさい。人の犯すすべての罪は、からだの外にある。しかし不品行をする者は、自分のからだに対して罪を犯すのである。あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。』(1コリント6:18-20)

偶像崇拝も、不品行も、主を汚す行為である。
「主のほか、他の神々に犠牲をささげる者は、断ち滅ぼされなければならない。」(出エジプト記22:20)
私達は、自らの体を使って、神の栄光をあらわすべきである。

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