メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ
先週まで、水曜夜の講解メッセージはネヘミヤ記から行なっておりましたが、それも先週で完結し、今週からはエステル記に入りました。
そして初の試みとして、遠隔地の兄弟姉妹と、スカイプを用いて、リアルタイムで礼拝を行いました。
仕事や家庭の事情で水曜の夜は参加できなかったのですが、それが共にあずかれるようになって、お互いとても嬉しかったです。
礼拝説教メッセージ音声:律法の中の刑法:損害賠償(出エジプト記22:1-15):右クリックで保存
今回の箇所は、人の財産に損害を与えた場合の定めである。
『もし人が牛または羊を盗んで、これを殺し、あるいはこれを売るならば、彼は一頭の牛のために五頭の牛をもって、一頭の羊のために四頭の羊をもって償わなければならない。彼は必ず償わなければならない。もし彼に何もない時は、彼はその盗んだ物のために身を売られるであろう。もしその盗んだ物がなお生きて、彼の手もとにあれば、それは牛、ろば、羊のいずれにせよ、これを二倍にして償わなければならない。』(出エジプト記22:1-3)
盗みを働いた場合、基本的にはその倍もしくはそれ以上の賠償が請求される。
盗んだ家畜が生きたままで見つかった場合は二倍、生きたまま返せない場合は、羊なら四倍、牛なら五倍で償わなければならない。
高価な家畜ほどペナルティが高いわけである。
食べ物や持ち物に困っているわけでもないのに盗んだり、万引きをゲーム感覚で行う人もいるが、神の定めた律法で「盗み」に課せられるその罰を見る時、人の物を盗む事は、それほど重い罪である事を知らなければならない。
不注意ゆえに損害を与えていまう場合は、基本、その「償い」をする事になっている。(5-6節)
例えば、自分の家畜が他人の畑のものを食べてしまった場合は、自分の産物の中から最良のもので償わなければならず、また、火の不始末などで人の畑を1ヘクタール火で燃やしてしまったら1ヘクタール分、100ヘクタールなら100ヘクタール分、償わなければならない。
当時のイスラエルは財産といえば畑や家畜であり、銀行に預けるという事ができなかったため、旅などで家を空ける場合は、隣の人に家畜をみてもらったりしていた。
そのため、家畜をあずかっていた時に起きた損害についての定めもある。
誰かの家畜をあずかっていた時、その家畜が盗まれてしまったり死んでしまった場合は、神(エローヒム:さばきびと)の前に出て、自分がその手を下していない事を誓わなくてはならない。(7-13節)
家畜をあずかっていた時に起きた損害で、自分に非が無いのであれば、その事を神(さばきびと)の前で「誓う」事によって、落着する。
ただ、神の御前で誓う時はは、軽がろしくは出来ない。「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。」(20:7)と書かれてある通りである。
また、誰かから家畜を「借りている(「預かっている」ではない)」場合に、その家畜に損害を与えてしまった場合は、「償い」をしなくてはならない。(14-15節)
神から離れて生きる生き方を選んでしまった人間は、呪いの元にあり、その呪いの度合いが大きければ大きいほど、負債が重なったり、盗んだり、蹴落としたり、という生き方が、むしろスタンダードになってしまう。
ジャン・バルジャンは、貧困ゆえにパン一本を盗み、その罪だけで十九年も刑に服したが、人の定めた罰則は不完全であり、不平等である。
盗んだものを貧しさゆえに返せないような場合、律法では奴隷となるが、七年奴隷をすれば解放され、独り立ちして生きていけるような配慮が律法にはある。
神様に従って誠実に生き、律法を守って歩む人は祝福され、また、たとえ貧しくなっても、兄弟姉妹や親類が養ってくれる事が律法で定められているため、律法を尊守する民には、貧しくなるとか盗むとかいう概念が無くなっていくのである。
人間は元々、神から離れて生きるようには出来ていない。神とともに歩み、神の御口から出る御言葉によって生きる生き方こそ、人にとって最善の生き方である。
礼拝説教メッセージ音声:家畜に関する定め(出エジプト記21:28-36):右クリックで保存
今回の箇所は、家畜に関する定めである。
ユダヤにおいて家畜は財産だったが、生き物であるが故に、何かを起こした場合の対処方法を主はここで示された。
『もし牛が男または女を突いて殺すならば、その牛は必ず石で撃ち殺されなければならない。その肉は食べてはならない。しかし、その牛の持ち主は罪がない。』(出エジプト記21:28)
牛には力があり、時に人を殺傷する事がある。
そして牛が人を殺した場合は、その牛の命をとらなければならないが、牛の持ち主がそれ以上の責任を負う事は無い。
全てのいのちは主のものであり、主が人の齢を計り与えているからである。
しかし、以下の場合は別である。
『牛がもし以前から突く癖があって、その持ち主が注意されても、これを守りおかなかったために、男または女を殺したならば、その牛は石で撃ち殺され、その持ち主もまた殺されなければならない。彼がもし、あがないの金を課せられたならば、すべて課せられたほどのものを、命の償いに支払わなければならない。』(出エジプト記21:29)
人は財産を持つと、その持ち物について社会的な管理責任が発生する。
例えば、車は役に立つ”財産”であるが、使い方次第では殺傷能力のあるものとなり、例えばブレーキが壊れていて放置して事故を起こした場合は、その人の責任となるのと同じである。
しかし、人が意図的に人を殺した場合と違い、贖い金で解決する手段も主は残された。
『牛がもし男奴隷または女奴隷を突くならば、その主人に銀三十シケルを支払わなければならない。またその牛は石で撃ち殺されなければならない。』(出エジプト記21:32)
牛が奴隷を殺した場合は、奴隷の代価として銀三十シケルを支払わなくてはならない。
ここから、この銀三十シケルという値段が奴隷の値段と分かる。
イエス様もイスカリオテのユダを通し、パリサイ人たちに”奴隷の値段”として銀三十シェケルで値積もりされた。
『もし人が穴をあけたままに置き、あるいは穴を掘ってこれにおおいをしないために、牛または、ろばがこれに落ち込むことがあれば、穴の持ち主はこれを償い、金をその持ち主に支払わなければならない。しかし、その死んだ獣は彼のものとなるであろう。』(出エジプト記21:33-34)
ここでも資産の管理責任が問われている。
そして自ら落ちて死んだ獣については代金で買い取る形となり、何らいのちを差し出す必要が無いのは、理にかなっている。
『ある人の牛が、もし他人の牛を突いて殺すならば、彼らはその生きている牛を売って、その価を分け、またその死んだものをも分けなければならない。あるいはその牛が以前から突く癖のあることが知られているのに、その持ち主がこれを守りおかなかったならば、その人は必ずその牛のために牛をもって償わなければならない。しかし、その死んだ獣は彼のものとなるであろう。』(出エジプト記21:35)
動物同士の殺傷は、被害者側と加害者側の、双方が平等に配分されるよう取り計らわれているが、突く癖のある牛については、ここでも管理責任が問われる。
そういうわけで、家畜によって”物持ち”となるからには、それなりに自分の家畜や隣人に配慮する事も要求される事になる。
多くの富や力を得るからには、多くの責任も発生するのである。
現代を生きる私達には、厳しすぎるように見えるところもあったかもしれない。
しかし、これが神のスタンダードであり、神の基準では、人の命はそれほど重要で、配慮すべきものなのである。
神様がノアに与えられた祝福を見ると、人がいかに尊い存在であり、人の血を流す事が、いかにおおごとであるのかが分かる。
『神はノアとその子らとを祝福して彼らに言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ。地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、海のすべての魚は恐れおののいて、あなたがたの支配に服し、すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう。さきに青草をあなたがたに与えたように、わたしはこれらのものを皆あなたがたに与える。
しかし肉を、その命である血のままで、食べてはならない。あなたがたの命の血を流すものには、わたしは必ず報復するであろう。いかなる獣にも報復する。兄弟である人にも、わたしは人の命のために、報復するであろう。人の血を流すものは、人に血を流される、/神が自分のかたちに人を造られたゆえに。あなたがたは、生めよ、ふえよ、/地に群がり、地の上にふえよ」。』(創世記9:1-7)
どちらの霊を受けるか(エペソ2:1-7)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
霊には色々な種類がある。聖書に出てくる霊でも、おくびょうの霊、奴隷の霊、おしとつんぼの霊、病の霊、占いの霊など、色々あるが、それら悪しき霊はサタンをかしらとし、空中に勢力の座を置く「この世の霊」であり、人に入ってはその人に様々な悪しき事を行わせ、災いへと導き、滅びへと向かわせる。
それに対し、神の元から遣わされた霊すなわち「聖霊」があり、その霊はイエス・キリストを告白する。
聖霊を宿し聖霊に導かれて歩む人は、愛、喜び、平安など、様々な良き実を人生において結ぶ。
主を知らずに生きている生来の人は、元々、世の霊に縛られて生きてきた。
彼らは罪の中にあって、この世の流れ(時代、流行)に従い、空中の権威を持つ支配者に従って歩んでいたが、憐れみ豊かな神は、その大きな愛の故に、罪過の中に死んでいた私たちをキリストとともに生かし、キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所に座らせて下さった。(エペソ2:1-7)
空中、そこには、雑菌のごとく「この世の霊」が漂っており、それらの霊には感情的・意識的な色合いがあって、類似した色合いの人に宿ろうとする。
たとえば、嫉妬深い人には嫉妬の霊が、病んでいる人には病の霊が付着しやすい。
宿主である人は、色合いの似た霊を引き寄せ、その霊はさらに類似した霊を呼び寄せ、そうしてたくさんの霊を抱えてしまう人もいる。(マルコ5:1-20、マタイ12:43-45)
それらの霊に羅患しないコツは、風邪の予防と同じで、御言葉の水でうがいをし、イエス様の血によって消毒・殺菌し、イエス様の愛で心暖かくし、世から何か汚れを受けた、と思ったなら、すぐに真の医者であるイエス様の所に行く事であり、イエス様の元に行くなら、いかに多くの悪霊につかれていても、治癒される。
健やかな体なら多少の風邪菌は何とも無いように、イエス様の健全な教えによって、いつも健全さを保っているなら、空中の諸霊も恐れるに足りない。
イエス様を主としている事、それは全ての面における健やかさと祝福の道である。
イエス様とサタンは、対等ではなく、権威的上下関係にあり、イエス様は最も上、サタンは遥か下である。
この世の霊は、決してイエス様には勝てず、聖霊に支配される人には、悪しき者は触れる事ができない。
私達が救われるのはイエスを「主」とする信仰により、それはいわば、自由意思による「主人転換」である。
私達の中の王座には、一人の主人しか座る事ができない。生来の人は、その王座に「自分」を据え、自分が人生のハンドルを握って生きていたが、その人達はこの世の霊に縛られ、滅びへと向かっている。
しかし、その王座にイエス様に座っていただき、イエス様に人生のハンドルさばきを委ねるなら、すなわち、イエス様を「主」とするなら、もはやサタンも悪霊も、その人に何もできない。サタンの支配からイエス様の支配へ、滅びから救いへ、死からいのちへと転換される。貧しさから豊かさへ、病から健やかさへ、嘆きから喜びへ、呪いから祝福へと、人生のあらゆるものが、良きものへと、造り替えられるのである。
主は、人の自由意思を尊重されるお方で、たとえ主にある救いの道が示されたとしても、それを拒否し、不従順に歩む、という事も出来る。しかし、そのような歩みをした人は、前の状態より、もっと悪くなってしまう。
サウル王は不従順を続けた結果、聖霊が取り上げられ、悪い霊にさい悩まされた。それでもなお頑なに不従順を続け、自分を王とし続けた結果、とても悲惨な最後を遂げてしまった。
神の目に見えない本性が示され、神の永遠の力と神性が、示されていながら、その神を知ろうとも、あがめようとも、感謝しようともしないなら、神は彼らをその心の欲望のままに汚れへと引き渡し、むなしい思いに、暗い心へと引き渡されてしまうのだ。(ローマ1:20-32)
しかし、イエス様を慕い、御言葉に従順し、さらに御元に近づこうとする意思のある人には、聖霊が与えられ、その人は御霊によって導かれ、いつも潤い、決して渇く事が無い。
『イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。』(ヨハネ7:37-39)
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
滅びをかき込むなかれ(ヨシュア7章):右クリックで保存
律法の中の刑法:傷害事件について(出エジプト記21:18-27)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 出エジプト記
- 執筆 :
- pastor 2013-1-18 19:00
礼拝説教メッセージ音声:律法の中の刑法:傷害事件について(出エジプト記21:18-27):右クリックで保存
今回の箇所は、傷害事件の際の命令である。
『人が互に争い、そのひとりが石または、こぶしで相手を撃った時、これが死なないで床につき、再び起きあがって、つえにすがり、外を歩くようになるならば、これを撃った者は、ゆるされるであろう。ただその仕事を休んだ損失を償い、かつこれにじゅうぶん治療させなければならない。』(出エジプト記21:18-19)
誰かに傷害を与えた場合、相手が死ななかったら「ゆるされる」と言っても、「死刑」は免れるという意味で、例えば相手を傷害で1ヶ月床についた場合は、その分の給料を保証してやらなくてはならないし、そればかりでなく以下のペナルティもつく。
『命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、焼き傷には焼き傷、傷には傷、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない。』(出エジプト記21:23-25)
相手を失明させた場合は自分も失明させられ、手や足を失わせば、自分も同じようにされるのである。
傷害事件の”加害者”の側は、踏んだり蹴ったりである。
やられたら、憎しみに身を任せて何倍にもして返す事がまかり通っていた古代世界において、この律法は、画期的なまでの平等な法だった。
また、奴隷に対する傷害事件も、当時の世界の他の国に比べれば驚くほどに人権への配慮がなされていた。
『もし人がつえをもって、自分の男奴隷または女奴隷を撃ち、その手の下に死ぬならば、必ず罰せられなければならない。しかし、彼がもし一日か、ふつか生き延びるならば、その人は罰せられない。奴隷は彼の財産だからである。』(出エジプト記21:20-21)
当時は奴隷に人権は無いも同然で、奴隷が主人に言い逆らったら平気で殺していたし、近代の奴隷船においても、運んでいる奴隷が少しでも気に食わなかったり病気などで弱っていたりしたら平気で海に突き落としていたので、サメがいつも奴隷船の周りにいたほどだった。
それに対し、神様が定めた律法では、奴隷をその場で殺してしまったら「必ず罰せられる(すなわち、死をもって償わせられる)」のである。
また、次のようにも定められている。
『もし人が自分の男奴隷の片目、または女奴隷の片目を撃ち、これをつぶすならば、その目のためにこれを自由の身として去らせなければならない。また、もしその男奴隷の一本の歯、またはその女奴隷の一本の歯を撃ち落すならば、その歯のためにこれを自由の身として去らせなければならない。』(出エジプト記21:26)
奴隷の目や歯を損なったら、その奴隷は解放してやらなくてはならず、また、間違ってその場で殺してしまったら、自分が殺される事になってしまうのである。
律法の下にある主人は、よほど奴隷を大切に扱ったのではなかろうか。
律法の一つ一つを見ていくと、時に厳しすぎると思うかもしれない。親を罵っただけで死刑とか、現代日本では信じられないかもしれない。
しかし、想像してみてほしい。
喧嘩して相手を失明させたら、失明させられ、死なせたら、自分も死んでしまうような社会だったとしたら、そのようなリスクを犯してまで、憎しみに任せて相手に手を下すだろうか。
家で仕えている奴隷も、目や歯を損なったら、その奴隷を解放しなくてはならず、間違って殺してしまったら、自分も殺される事になるとしたら。
また、子供は親を罵るのはとんでもない罪だという価値観の元に、親を恐れ、敬い、権威に服従する事を小さい時から学び、また、周りの子供たちも皆じような価値観で育てられるとしたら、きっと想像もつかないほど平穏で健やかな、尊厳に満ちた社会になるのではなかろうか。
現代人は、律法はお固い、厳しい、と思う。
しかし、律法を守り行う人は神に保護され、守られ、平和と尊厳の内を生きるのである。
律法の中の刑法:死刑にあたる罪(出エジプト記21:12-17)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 出エジプト記
- 執筆 :
- pastor 2013-1-17 23:54
礼拝説教メッセージ音声:律法の中の刑法:死刑にあたる罪(出エジプト記21:12-17):右クリックで保存
今回の箇所は、死刑に処せられるべき罪を示す所である。
律法には、死刑に処せられるべき罪が確かに示されており、それが何であるかを明示する事によって、悪がはびこる事を防ぎ、人として身に付けるべき常識感覚を養い、平和な秩序を保つのだ。
「人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる。」(出エジプト記21:12)
以前も学んだように、神は人の命を尊いものとされ、それを人が脅かす事は許されず、そこには未成年などの年齢制限は無い。
ただし、恨みもない人を誤って殺してしまう、という事がある。
『故意にではなく、偶然、彼の手に”神が”渡された場合は、わたしはあなたのために一つの場所を定める。彼はそこに逃れることができる。』(出エジプト記21:13)
例えば、敵意や悪意もなく人を突いてしまったり、気がつかないで人を死なせるほどの石を人の上に落としてしまったり(民数記35:22-23)、あるいは、木を切るために斧を振り上げたところ、その頭が抜け、それが隣人に当たってその人が死んでしまう場合(申命記19:5)、など、主は事細かに、偶然人を死なせてしまった場合の事例を挙げている。
その場合、その人の救済措置として、「のがれの町」に逃れる事が出来、その境界の内側にいるなら復讐者に襲われる事から守られるが、境界の外側に出た場合、その人の命の保証は無い。
そのような場合は、「神が」敢えてその人の命を取られた、という事である。
例えば、ダビデがペリシテの代表戦士ゴリアテに投げた石は、百発百中でゴリアテの兜の隙間を縫い、急所に命中し、イスラエルに勝利をもたらしたし(1サムエル17章)、イスラエルの悪王アハブも、ひとりの兵士が何げなく放った弓が、見事に胸当てと草摺の間を射抜き、それによってアハブは絶命した。(2歴代誌18章)
それらは人の責任でも栄誉でもなく、主のわざである。
『しかし、人が故意に隣人を殺そうとして暴力を振るうならば、あなたは彼をわたしの祭壇のもとからでも連れ出して、処刑することができる。』(出エジプト記21:14)
殺意をもって意図的に隣人を殺す場合は、その人がたとい祭壇の聖なる所にいたとしても、そこから引きずり出して死刑に処さなくてはならない。
ユダ王国で唯一、女性として国を治めたアタルヤは、自分が支配権を握りたいが故に、王の血筋を引く人達を一人を除いて全て殺害したが、彼女は後に、祭壇の聖なる所から引きずり出されて殺された。(2列王記11章)
また、誘拐する者も死刑に処せられる。
『人を誘拐する者は、彼を売った場合も、自分の手もとに置いていた場合も、必ず死刑に処せられる。』(出エジプト記21:16)
神は人を自由な存在として創造され、その自由を他人が侵し、売り買いするような事を、主は許されない。
人を殺したり誘拐する者は死刑、という法律は、古来から珍しいものではないし、私達も感覚的に理解できるが、以下は現代日本人には厳しすぎるように見えるかもしれない。
『自分の父あるいは母を打つ者は、必ず死刑に処せられる。・・・自分の父あるいは母を呪う者は、必ず死刑に処せられる。』(出エジプト記21:15-17)
イスラエルにおいて、父母は神の掟を伝える役割があり、子供にとって父母は、神の代理で権威を行使する立場の人であり、それに逆らう事は神である主に逆らう事である。
また、父母は、人が従うべき権威の最も身近、最も基本である。それに逆らうとするなら、その人にとって「権威」という概念が無くなってしまい、権威という概念が無い人達がはびこると、親子関係や社会の、国家の、そして、神の権威までもないがしろにされ、世の中は混乱を来してしまう。
親殺し、いわゆる尊属殺人には、世界各国でも厳しい処置を行う歴史があり、日本でも、1973年までは尊属殺人には死刑か終身刑という厳しい措置があった。
しかし、世界的にもその時期あたりから犯罪者の人権が擁護されるようになって来て、そのような法律が撤廃されて来た。
世の中の「権威」という概念が無くなって来たのは、その時期あたりからではなかろうか。
そして今や、親子や社会、国家、そして神の権威は、ないがしろにされ、秩序が無くなって来ている。
『自分の父あるいは母を打つ者は、必ず死刑に処せられる。・・・自分の父あるいは母を呪う者は、必ず死刑に処せられる。』
これは現代の我々にはとても厳しく見えるが、それが神のスタンダードであり、それを尊守するなら祝福を得、それをないがしろにするなら、呪いを招くものである。
礼拝説教メッセージ音声:奴隷に関するおきて(出エジプト記21:1-11):右クリックで保存
今回の箇所は、ヘブル人の奴隷を買う場合のおきてである。
人の世には罪があり、他人の罪に巻き込まれてしまったり、親が事業で失敗してしまうなど、どうしようもない理由によって、奴隷として売られてしまう、というような事は、起きうる事である。
奴隷というと、人を金で売り買いし、買った奴隷は人扱いせず生涯こき使うような、黒い、憎むべき制度としてのイメージがあるが、聖書は、奴隷になってしまった人への救済措置や人権保証をしっかり与えており、奴隷歴史の黒いイメージは、むしろ、聖書から離れた人間の罪と欲望の渦によって生まれたものなのだ。
『あなたがヘブルびとである奴隷を買う時は、六年のあいだ仕えさせ、七年目には無償で自由の身として去らせなければならない。』(出エジプト記21:2)
まず、奴隷は7年という期限付きであり、7年が満ちた時は失業して路頭に迷うような事がないようにと、主はわざわざ以下のように命じている。
『もしあなたの兄弟であるヘブルの男、またはヘブルの女が、あなたのところに売られてきて、六年仕えたならば、第七年には彼に自由を与えて去らせなければならない。彼に自由を与えて去らせる時は、から手で去らせてはならない。群れと、打ち場と、酒ぶねのうちから取って、惜しみなく彼に与えなければならない。すなわちあなたの神、主があなたを恵まれたように、彼に与えなければならない。』(申命記15:12-14)
奴隷から独立したら、家族ともども路頭に迷う事なく、しっかり身を立てて行けるように、奴隷の主人は配慮せよ、というのが主の御心である。
それならば、現代日本の雇用状況は、聖書の「奴隷」より非道い状態である事が分かる。
現代日本では、非正規雇用の人達は手に職を持てず、一ヶ月やっと暮らせる程の給料のまま30,40代になってもマイホームも子供も持てないような状況に陥りやすいが、それは主の御心を大いに反している。
『彼に自由を与えて去らせる時には、快く去らせなければならない。彼が六年間、賃銀を取る雇人の二倍あなたに仕えて働いたからである。あなたがそうするならば、あなたの神、主はあなたが行うすべての事にあなたを祝福されるであろう。』(申命記15:18)
聖書には確かに奴隷制度が出てくるが、それはむしろ雇用関係のようなものだ。
奴隷が女性である場合、女性の社会的立場は男性よりも弱いため、男性よりも厚遇の度合いが大きい。
『もし人がその娘を女奴隷として売るならば、その娘は男奴隷が去るように去ってはならない。彼女がもし彼女を自分のものと定めた主人の気にいらない時は、その主人は彼女が、あがなわれることを、これに許さなければならない。彼はこれを欺いたのであるから、これを他国の民に売る権利はない。』(出エジプト記21:7)
「彼女が、あがなわれることを、これに許さなければならない。」とは、例えば解雇しても路頭に迷わぬようにしっかり保証してやれ、という事である。
女性の奴隷であっても、しっかり人格的な扱いするよう主は命じておられる。
『彼がもし彼女を自分の子のものと定めるならば、これを娘のように扱わなければならない。彼が、たとい、ほかに女をめとることがあっても、前の女に食物と衣服を与えることと、その夫婦の道とを絶えさせてはならない。彼がもしこの三つを行わないならば、彼女は金を償わずに去ることができる。』(出エジプト記21:9)
ここを見ると、女奴隷の扱いは、あたかも「妻」や「娘」と同じ扱いである。
人間の奴隷制度には血も涙も無いイメージだが、主が奴隷について定められた事は、男奴隷は主人と雇用関係のよう、女奴隷は、妻や娘と同じようである。
どんな人間も、神の御前に平等で、貧富の差や能力の差は、主の御前では関係ない。
富も成功も主から来るもの、富んでいる人はたまたまその時、主から多くを預けられているに過ぎず、持っていない人も、たまたまその時、主に低くされているに過ぎない。(1サムエル2章)
たとえ自分の息子や娘さえ、自分の所有物ではなく、全てのいのちは主のものである。
主は、どんな状況にある人に対しても、憐れみ深い。
それ故私達も、この時主から多くを与えられているなら、少なく与えられている人に憐れみをほどこすべきである。
そうして主の体全体が憐れみに満ちあふれ、全体がますます富むものとなって行くのである。
『あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。・・・
今あなたがたの余裕が彼らの欠乏を補うなら、彼らの余裕もまた、あなたがたの欠乏を補うことになるのです。こうして、平等になるのです。「多く集めた者も余るところがなく、少し集めた者も足りないところがなかった。」と書いてあるとおりです。』(2コリント8:9-15)