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礼拝の際は人間的なものは排除せよ(出エジプト記20:18-26)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 出エジプト記
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- pastor 2013-1-15 23:52
礼拝説教メッセージ音声:礼拝の際は人間的なものは排除せよ(出エジプト記20:18-26):右クリックで保存
『民は皆、かみなりと、いなずまと、ラッパの音と、山の煙っているのとを見た。民は恐れおののき、遠く離れて立った。彼らはモーセに言った、「あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞き従います。神がわたしたちに語られぬようにしてください。それでなければ、わたしたちは死ぬでしょう」。』(出エジプト記20:18-19)
民は、主の圧倒的なあらわれを見て恐れ、主が直接語られないようにと願った。
モーセは「恐れてはいけません」と語ったのに、それでも民は遠く離れて立ち、主の御前に行こうとはしなかった。
信仰の偉人たちも、主の圧倒的な臨在に触れた時は恐れ、死を覚悟したが、この民とは違い、主の「恐れてはならない」という御声によって力づけられ、御前に出て行った。
モーセも主の臨在の深みへと入って行ったが、民は結局、主が直接語られる事を拒み、主の御前に行かなかった。
真実を嫌う人、偽りを好む人は、主の御前に立つ事や、主が直接御言葉を語られる事を、極度に恐れる。
そして、牧師やモーセのような、目に見える人間を神の代理人とし、取り次いでもらおうとする。
この民は後に、モーセに不平不満をぶちまけ、石で打とうとし、代わりに自分達をエジプトへ戻してくれる新しい指導者を立てようとさえした。
神が立てて下さった権威に逆らう者は皆、たとい主のあらわれを体験したとしてもすぐに忘れてしまい、目の前の自分の欲求を満たすことにのみ、思いが一杯なのである。
主の圧倒的なあらわれを見た彼らが、主を裏切るような事をするのは信じられない、と思うかもしれない。
しかし、驚くべき事に、彼らは裏切ったのだ。主も、驚かれた。(イザヤ59:16)
そして、私達も幾度、主の良くして下さったわざを、裏切をもって報いてきたことだろう。
私達の罪深さは驚くべきものであり、それを越えて、主の憐れみはなお驚くべきものである。
『あなたがたはわたしと並べて、何をも造ってはならない。銀の神々も、金の神々も、あなたがたのために、造ってはならない。あなたはわたしのために土の祭壇を築き、その上にあなたの燔祭、酬恩祭、羊、牛をささげなければならない。わたしの名を覚えさせるすべての所で、わたしはあなたに臨んで、あなたを祝福するであろう。あなたがもしわたしに石の祭壇を造るならば、切り石で築いてはならない。あなたがもし、のみをそれに当てるならば、それをけがすからである。』(出エジプト記20:23)
私達は主に対し、人間的な何かを当てはめてはならない。
主を礼拝する際は、徹底的に、人間的なわざを排除する事を、主は要求される。
人間の手で作った偶像はもっての他であり、そして、礼拝を捧げる祭壇も、シンプルに、土や天然石だけで築く事を要求されている。
異国の神々の祭壇は、職人によって精巧な造作を施され、豪華絢爛なものだが、それに対し主の祭壇は、シンプルに過ぎる。
それは、人が祭壇に特別な思いを抱くべきではなく、あるいは人の作った造作や職人技に思いを馳せるべきでもなく、真実に主に集中して礼拝を捧げる事を要求されるからである。
主は、繰り返し言葉だけの心ない祈りや、悔い改めの無い断食、外見だけ着飾って内面を改めない礼拝を、忌み嫌われるお方だ。
私達が福音を伝える時も、岩なるキリストを、身勝手な細工を施してはならない。
キリストはキリストのまま、御言葉は御言葉のままに伝えるのが、本来である。
礼拝説教メッセージ音声:律法の意義(出エジプト記20:12-17):右クリックで保存
前回までは十戒の各戒めについて一つ一つ見てきたが、今回は、律法の意義について学びたい。
神は十の戒めを与えたが、人間はそれを守り通す事は出来ず、エデンにおいてはたった一つの戒めさえ守る事が出来なかった。
人は、律法という神の基準に到達する事が出来ない。
ある金持ちの青年は、イエス様から「もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」と言われた時、十戒を示されたが、彼は「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」と答えた。
しかし、イエス様が彼に提示した神の基準は、はるかに厳しいものだった。(マタイ19:16-26)
『イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。』(マタイ19:21-22)
イエス様は、他にも神の基準を示したが、それらはとても人には到達できない内容であった。(マタイ5:21-48)
果たして、救われる人はいるのだろうか。
『弟子たちはこれを聞いて非常に驚いて言った、「では、だれが救われることができるのだろう」。イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない」。』(マタイ19:25-26)
イエス様の答えは、救いは、人には達成し得ない。しかし、神にはなんでもできる、という事だった。
イエス様は、金持ちの青年に最初に言っていた。
「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。」
私達の救いは、「よい方」にかかっている。
では、律法とはいったい何か。
律法とは、キリストが来られる時まで、違犯を明らかにするために付け加えられたもの、と書いてある。(ガラテヤ3:19)
『律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない。」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。しかし、罪はこの戒めによって機会を捕え、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。』(ローマ7:7-8)
パウロが律法を知らなかった間は、彼の内に罪という意識は無かったが、「むさぼってはならない」という律法を聞いた時、彼の内の「むさぼり」という欲求がサーチライトのように照らし出され、彼の内に「罪」という違反がある事が、明らかにされたのである。
まず律法の性質のその一は、人の内に、罪という違反がある、という事を明らかにするものである。
『それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。』(ガラテヤ3:21-22)
ここで、「万一」と仮定法が使われているからには、律法は、人を生かす事はできない。律法は逆に、人々を罪の支配下に閉じ込めた。
律法の性質その二は、律法は、人にいのちを与える事はできない、という事である。
そこで人には第三者からの救い、律法を成就して下さる「よい方」への渇望が生まれるのである。
『こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。』(ガラテヤ3:24-26)
律法の性質その三は、律法は、キリストへと導く養育係である。
キリストという本体が現れ、私達がキリストを信じる信仰によって救われた以上、もはや私達は律法という養育係の元にいるものではない。
だからといって律法は、好き好んで破ったりしてよいものではない。
『すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法は確立するのである。』(ローマ3:31)
イエス様も言われた。
『わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。』(マタイ5:17-19)
それ故、旧約律法のうち、最も小さいものさえ破る事を人には勧めないほうが良い。
『あなたは隣人について、偽証してはならない。』と書いてある以上、「嘘も方便」と言って、兄弟姉妹に嘘をつく事を勧めるキリスト者は、天国で「小さき者」と呼ばれてしまうのである。
だから、例えば人を救うために嘘をつかなければならなかった、というような場合でも、後でちゃんと主に悔い改めるべきである。
主の戒めを守る人は、主の愛の内にとどまり、主の愛の内に守られるのである。(ヨハネ15:7-10)
「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。」(1ヨハネ5:3)
愛する男性から「毎朝わたしのために味噌汁を作ってほしい」と言われたなら、「味噌汁を作る」という、いわゆる”戒め”は、難しいものではなく、むしろ喜びであるように、私達も主を愛するなら、その愛する主から来た”戒め”は、むしろ喜びとなるはずである。
そして主の戒めを守る人は主から守られ、主から愛されるのである。
救いにおいて大切なのは、「よい事」ではなく「よいお方」、律法を成就してくださったお方を信じ、このお方と一つとなる事が大事である。
今日は横浜はすごい雪でしたが、教会のある兄弟の誕生日を祝うために合計9人が集まり、伊勢佐木モールの寿司屋に行って、お祝いしました。
雪の中を歩くのは、冷たかったり靴の中が濡れたりで大変でしたが、愛する兄弟姉妹のために、雪の中を行って来るのは、とても楽しかったです。
ある人は電車で一時間かけて来て、ある人は仕事のシフトを変えてもらって、ある人は雪の中を徒歩30分かけて来ました。
雪という大変な天候だからこそ、逆に、兄弟姉妹の愛が明らかとされました。
第一礼拝説教「二人の王のどちらを選ぶか(1テモテ6:3-11)」礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝説教「ロトの道(創世記13-19章)」:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
アブラムがケドルラオメルとその味方の王達を撃ち破って帰って来た時、二人の王が彼を出迎えた。
その一人は、ソドムの王。ソドムの町は主の園のように、エジプトのように潤っていたが、よこしまな者達や、主の前にはなはだ罪深い者達で満ちていた。(創世記13章) ソドムの王はアブラムに、ソドム由来の全ての富は全てアブラムのものとし、ソドムの人は自分の所へ返して欲しい、と申し出て来た。
もう一人、アブラムの前に進み出て来た王は、シャレム(平和)の王・メルキゼデクで、彼はいと高き神の祭司、義の王であり、パンとぶどう酒を持ってアブラムを迎えた。
前回見た通り、アブラムはメルキゼデクからパンとぶどう酒を受けたがソドムの持ち物は一切受けなかった。
皆さんは、ソドムの潤った産物や財宝と、神の祭司のパンとぶどう酒、受け取るとしたら、どちらだろうか。
メルキゼデクこそイエスキリストであり、この神の大祭司が持ってくるパンとぶどう酒は、実に尊いものである。
主イエスは渡される夜、パンを裂き「これはあなたがたのための、わたしのからだです。」と言われたように(1コリ11:23)、パンは、人類全ての身代わりとなるために裂かれたキリストのからだであり、救いの衣である。
また、ぶどう酒は、「この杯はわたしの血による新しい契約です。」(1コリ11:25)と言われたように、主が流された尊い血潮、すなわち、死と呪いが過ぎ去る契約の印であり、命の買い戻しにおいて通用する唯一の通貨であり、そしてこの血は、神に対しては弁護を、サタンに対しては断罪を叫ぶものである。
世の栄華や富は、このキリストのからだと血に比べうるものでは決してない。私達は何かと、「祝福」イコール「富」と勘違いしやすいものだが、祝福の源なる主を捨てて富を第一にしてしまうと、どうなってしまうか。
『富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる、無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陷るのである。金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。』(1テモテ6:9-10)
アブラムの甥のロトは、この富の罠に陥り、苦痛によって刺し貫かれてしまった。
ロトは、祝福の源であるアブラムについて行った故に、はじめは祝福されたが、エジプトで富を得、世的な楽しみを覚え、そこで得た富と経験が、後に苦い根を残す事となった。
アブラムとロトは、持ち物が増えると、しもべ達の間に争いが起きるようになり、ロトはアブラムから別れるよう促された時、祝福の家であるアブラムの家と共生する事より、多くの富の「オーナー」である事を選んだ。
主に祝福された家で共生する事を捨て、自我という城のオーナーになりたい者は、ロトの道を歩んでいる。
ロトは神に約束された地カナンを選ばず、多少神に喜ばれない人達が住んでいようとも、エジプトのように潤ったソドムを選んだ結果、捕虜となり、命の危険に遭ったにもかかわらず、それでもソドムに留まる事を選び、最終的には、妻も全財産も失い、娘二人と身一つで、命からがら逃げるはめとなった。
ルツ記に登場するエリメレクも、神の約束された土地に留まる事をせず、安易に食べ物を求めてモアブの野に出て行き、彼はそこで二人の息子ともども命を落とすはめになってしまった。
主・不在の富を追い求める者は、苦痛によって刺し貫かれ、滅びと破壊に沈んでしまうのである。
ソドムの富を跳ね除け、メルキゼデクからパンとぶどう酒をいただき、いと高き神の祭司から祝福を受けたアブラムは、さらに大きな祝福の約束が与えられ、その後の歩みは、栄光と富に満ちたものだった。
彼は後にアブラハムという新しい名が与えられ、王族が生まれ、メシヤが生まれ、全て信仰者の父となった。
ロトは、アブラムと財産を共にして生きる事を選ばず、自分がオーナーである事を握り、ソドムに身売りしてしまった結果、全てを失い、かろうじて近親相姦の子孫を残す事となったが、ロトの子孫ルツは、ナオミから離れていくよう勧められても頑として離れず、ナオミについて行く事に何のメリットも無いのに、「あなたの神は私の神、あなたの民は私の民」と信仰告白し、ナオミの神に頼ってついて行った結果、後には有力者ボアズの妻として迎えられ、その子孫からは王族が生まれ、さらにはメシヤが生まれるに至った。
皆さんは、神と富の二つの王が来た時、どちらを選ぶだろうか。
「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。」(マタイ6:24)
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
ダビデとゴリアテ(1サムエル17章):右クリックで保存
ダビデとゴリアテ(続き):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:十戒 第八戒〜第十戒(出エジプト記20:15-17):右クリックで保存
第八戒は『あなたは盗んではならない。』(出エジプト記20:15)である。
盗むとは、他人の領域を侵犯し、他人の所有物を勝手に自分のものとする事だが、これはサタンの性質である。
サタンは、自分のおるべき所をよしとせず、神の領域とすべき栄光の座を侵入して来た。
『主は、自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った御使たちを、大いなる日のさばきのために、永久にしばりつけたまま、暗やみの中に閉じ込めておかれた。』(ユダ6節)
『あなたはさきに心のうちに言った、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』。しかしあなたは陰府に落され、穴の奥底に入れられる。』(イザヤ14:13-14)
このように、自分のおるべき領分を守らず、侵犯し、他人のものを奪うサタンのような者を、主はさばき、地の底へと落とす。
第九戒は『あなたは隣人について、偽証してはならない。』(出エジプト記20:16)である。
「隣人に」とあるが、それでは隣人ではない人には偽証しても罪にならないのだろうか?
答えは否である。神は真実な御方であり、神の性質には「偽り」というものはない。偽りは、悪魔の性質であり、悪魔の性質は私達の内から滅ぼされるべきものだ。
『あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ。』(ヨハネ8:44)
ここは「人が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら、彼の父もまたうそつきだからです」とも訳せる。
悪魔の欲望は殺す事であり、偽りがその本性である。
私達は誰に対しても、サタンの性質である「偽り」に染まってはならない。
神は、善人にも悪人にも太陽を上らせ雨を降らせて下さる真実な御方であるように、神の子とされた私達も、全ての人に対して真実であるべきである。
第十戒は『あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない。』(出エジプト記20:17)である。
「むさぼり」のヘブライ語「カゥマド」は、欲しがる、好ましく思う、あこがれる等の意味がある。
殺すな、盗むな、という法律は大抵の国にあるだうが、隣人のものを欲しがったりあこがれたりしてはならない、という法律は、かなり珍しいだろう。
しかし、この、他の人のものを欲しがったりあこがれたりする心こそ、自分の身を滅ぼす根源である。
この言葉が聖書で最初に出て来るのは、創世記3章6節である。
「女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましい(カゥマド)と思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。」
エバが禁断の木を食べて人類に罪と死を導入する背景に、善悪の木を欲しがり、あこがれるという事があったのだ。
この、自分の領域のものではないもの、自分の領域に持ち込んではならぬものを、欲しがったりあこがれたりする心こそ、全ての罪の根源であり、サタンの性質でもある。
『あなたはさきに心のうちに言った、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』。しかしあなたは陰府に落され、穴の奥底に入れられる。』(イザヤ14:13-14)
十戒における**してはならないという戒めは、サタンの性質に染まらないようにするためである。
私達は、御子イエスの流された血により、神の子とされたのだから、神の子らしく歩むべきである。
礼拝説教メッセージ音声:十戒 第五戒〜第七戒(出エジプト記20:12-14):右クリックで保存
十戒の第四戒までは神との関わりについての戒めだったが、五戒からは、人との関わりについての戒めとなる。
その、人との関係において最も先に来る戒めが『あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。』(出エジプト記20:12)である。
父と母を敬う事。それは、最も根本的で最小単位における「権威」を敬う事である。
この世のあらゆる事は、権威構造によって成り立っているが、立てられている権威に正しく服する事をおろそかにしてしまうと、その人は、人間社会においても、自然界においても、あらゆる場面で苦労する事となり、権威に服する事が出来ない人は、あらゆるものと敵対して生きなくてはならない苦しみを負っている。
権威には順序がある。
『子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである。「あなたの父と母とを敬え」。これが第一の戒めであって、次の約束がそれについている、「そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう」。』(エペソ6:1-3)
親子関係においても忘れてはならない事は、「主にあって」両親に従う事である。
権威の第一は主である。両親が主に反する事や御言葉に反する事を命じて来るなら、それには服従すべきでない。
「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。」(マタイ10:37)
そうした事以外なら、両親は敬い、服従すべきである。
なぜなら御言葉でも約束している通り、それによって幸福になり、地上で長く生きる事ができるからだ。
目に見える権威に、それも、最も身近な権威である親にしっかり服従できるならば、目に見えない神との正しい関係を構築しやすくなり、幸いを得るようになるのだ。
第六戒は『あなたは殺してはならない。』(出エジプト記20:13)である。
殺人など凶悪犯罪が小年齢化している昨今、人の命のかけがえがなさ、尊さが薄れてきている状態であるが、聖書を知らない大人たちは、命の尊さをうまく説明できない。
聖書には、人がいかに尊い存在であるのかが、書いてある。
『神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。』(創世記1:26-28)
人は神の息吹が吹き込まれた神の似姿であり、本来、全ての生き物を治めるものとして創造され、生んで増えて地に満ちる祝福された存在である。
人が神に不従順して罪と死を導入し、神の怒りを受けるべき存在となってもなお神はひとり子を賜ったほどに世を愛し、御子を人の身代わりとして差し出したほどに、人は、神に愛され、大切にされた存在である。
それほどまでに尊ばれた人のいのちを奪う事は、どれほどに神を冒涜する事だろう。
第七戒は『あなたは姦淫してはならない。』(出エジプト記20:14)である。
姦淫とは、妻や夫など唯一愛すべき相手がいるにもかかわらず、それ以外の者と愛の関係を結ぶ事であるが、なぜそれがいけないのか。
『そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、/わたしの肉の肉。男から取ったものだから、/これを女と名づけよう」。それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。』(創世記2:23)
ここには「ふたりは一体である」と書かれてある。
ソロモンには妻と妾があわせて千人いたが、神は、ご自分のかたちに人を創造され、男と女とに創造されたのは、千対一ではなく、一対一なのだ。
アブラハムにもヤコブにもダビデも妻は複数いたが、いずれの妻も、子供も、それによって災いが起きて不幸になっている。
夫と妻との関係において、主の御心は、一対一である。
これら三つの戒めは、おるべき立場、立つべき立ち位置が示されている。それが創造の秩序であり、それを守ることが人間にとって最も幸いなのである。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
天国に入るには(ヨハネ3:16-21):右クリックで保存
天国に入るには(続き):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
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礼拝説教メッセージ音声:十戒 第三戒と第四戒(出エジプト記20:7-11):右クリックで保存
『あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。』(出エジプト記20:7)
十戒で三番目に重要な事は、主の御名をみだりに唱えてはならない、という事である。
主の御名を乱発し、同時に不誠実な行いも乱発する事によって、主を貶めている人は確かにおり、身勝手に御言葉を引用したり、神の名を振りかざして侵略の口実にしたり、戦争する者さえいるが、彼らは主に背く者、主の諭しを憎み御言葉を捨てている者である。
『神は背く者に言われる。「お前はわたしの掟を片端から唱え/わたしの契約を口にする。どういうつもりか。お前はわたしの諭しを憎み/わたしの言葉を捨てて顧みないではないか。盗人と見ればこれにくみし/姦淫を行う者の仲間になる。悪事は口に親しみ/欺きが舌を御している。座しては兄弟をそしり/同じ母の子を中傷する。
お前はこのようなことをしている。わたしが黙していると思うのか。わたしをお前に似たものと見なすのか。罪状をお前の目の前に並べて/わたしはお前を責める。神を忘れる者よ、わきまえよ。さもなくば、わたしはお前を裂く。お前を救える者はいない。
告白をいけにえとしてささげる人は/わたしを栄光に輝かすであろう。道を正す人に/わたしは神の救いを示そう。」』(詩篇50:16-23)
主の御言葉を片端から唱える人が主に愛されるのではない。サタンでさえ御言葉を引用する。御言葉を口に出す人が主に愛されるのではなく、御言葉を心に留めて行う人こそ主に愛されるのであり、守る気も無いのにみだりに御言葉を連発したり、主への恐れも無いのにみだりに主の御名を連発する者は、主は罰せずにはおかない。
十戒の前三つは「するな」の命令だったが、第四戒は「せよ」という積極的命令である。
『安息日を覚えて、これを聖とせよ。
六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。』(出エジプト記20:8-11)
創造の御業が完成した第七の日(土曜日)が安息日であるが、現代のキリスト者は、主日(週の初めの日、日曜日)を礼拝する日、主を覚える日として守っている。
それは、復活の主イエス様は主日に現れ(ヨハネ20:19-29、黙示録1:10)、初代教会の聖徒たちも主日に集って主を覚え、パンを裂き、祈り、交わりをし、聖徒のもてなしをしていた(使徒20:7、1コリント16:2)ためである。
ここで大切な事は、主が聖とされた日を「覚え」「聖とする」事、すなわち週の一日を主のものとして捧げ、その日は世の事は一切止め、主を覚える事である。
パリサイ人は「仕事をやらない」事を第一に考えたあまり、主の安息を「覚える」という事をないがしろにするという、本末転倒を演じてしまっていたが、私達もパリサイ人のように人間的な考えをこね回したり議論に明け暮れたりする事なく、安息日の主であるキリストを覚える日として、主に自分を捧げる日として、その日を聖別するべきである。
『だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。』(コロサイ2:16-17)
主が聖別された日を守る異邦人は、たとい宦官であっても、祝福される。
『安息日を守って、これを汚さず、その手をおさえて、悪しき事をせず、このように行う人、これを堅く守る人の子はさいわいである」。主に連なっている異邦人は言ってはならない、「主は必ずわたしをその民から分かたれる」と。宦官もまた言ってはならない、「見よ、わたしは枯れ木だ」と。
主はこう言われる、「わが安息日を守り、わが喜ぶことを選んで、わが契約を堅く守る宦官には、わが家のうちで、わが垣のうちで、むすこにも娘にもまさる記念のしるしと名を与え、絶えることのない、とこしえの名を与える。
また主に連なり、主に仕え、主の名を愛し、そのしもべとなり、すべて安息日を守って、これを汚さず、わが契約を堅く守る異邦人は―― わたしはこれをわが聖なる山にこさせ、わが祈の家のうちで楽しませる、彼らの燔祭と犠牲とは、わが祭壇の上に受けいれられる。わが家はすべての民の/祈の家ととなえられるからである」。イスラエルの追いやられた者を集められる/主なる神はこう言われる、「わたしはさらに人を集めて、すでに集められた者に加えよう」と。』(イザヤ56:2-8)
主日を聖別して主を覚え礼拝を守って来た聖徒達がいかに祝福されたか、歴史が証明している。
アメリカ開拓時代、人々は先を争って馬を走らせ、新天地へ向かって行ったが、結局、多くの土地を得たのは、昼夜休日も無く働いた人ではなく、主日にしっかり主を覚えて礼拝したクリスチャン達だった。
ただ、パリサイ人のような過ちに陥ってはならない。日曜は意地でも礼拝出席、という事ではなく、一週間の最初の日を初物として主に捧げるという心、主が聖とされた日を覚え、主を聖とし、主を敬う心こそ、大切である。
心から主を敬い、主の聖なる山における交わりに加えられ、主の祈の家のうちで楽しむ皆さんでありますように!