メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ
礼拝説教メッセージ音声:十戒 第一戒と第二戒(出エジプト記20:1-6):右クリックで保存
出エジプト20章以降には、主が与える契約の内容が記されており、そして、その最も先に与えられた大切な戒めが、十戒である。
その十戒を与えるにあたり、主ははじめに言われた。
『「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。』(出エジプト記20:2)
皆さんにとって、主はどういう御方だろうか。主は、皆さんに、何をして下さっただろうか?
その質問にすぐに答えられない人は、主から受けた恩を一つ一つ思い起こして、それを確認して感謝すべきである。
主はイスラエルの民に「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」と言って、イスラエルにとってどのような御方であるのか、何をして下さったかを、まず明らかにされた。
十戒の中で一番最初に示された、最も重要な戒めは、次のものである。
「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」
皆さんの生みの母は唯一であるはずで、それ以外の人に「お母さん」と呼ぶとしらた、実の母に対して失礼極まりないのと同じように、神という地位も唯一であり、それ以外を神とするのは、神に対してはなはだ失礼である。
「神」が八百万もあり、神を何かとっかえひっかえ出来るような感覚のある日本人には理解しずらいかもしれないが、「神」と呼ぶべき存在はただ一つであり、そこに別物を入れてはならないのだ。
『あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。』(出エジプト記20:4)
十戒で二番目に重要な事は、偶像礼拝の禁止である。
このように書かれてある以上、日本人が働いても、知恵を働かせても、お金を豊かに得ても、幸せになれない人が多い事の原因は、この偶像礼拝である事は間違いないだろう。
偶像礼拝とは、神社仏閣などによくある像を拝む事に留まらず、まことの神以外の何かを、より大事にして優先させる事である。
例えば、自分の望む何かを、自分のものに出来ないなら、神様なんか信じない、と言う時は、その自分の望む何かが「神」となっており、偶像礼拝である。
まことの神である主を知り、そのすばらしい御業を体験しておきながら、自分の欲望におびき寄せられ、偶像礼拝に戻ってしまう人の樣子が、エゼキエル書に記されている。
『時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、目をあげて北の方をのぞめ」。そこでわたしが目をあげて北の方をのぞむと、見よ、祭壇の門の北にあたって、その入口に、このねたみの偶像があった。彼はまたわたしに言われた、「人の子よ、あなたは彼らのしていること、すなわちイスラエルの家がここでしている大いなる憎むべきことを見るか。これはわたしを聖所から遠ざけるものである。しかしあなたは、さらに大いなる憎むべきことを見るだろう」。』(エゼキエル書8:5)
ここでは、主を礼拝すべき神殿の出入り口に、主のねたみを引き起こさせる偶像が置かれてあった。
今、キリストにあって、私達が神殿であり(1コリント3:16-17)、私達の心の出入り口に、神のねたみを引き起こさせるものが置かれてある事を、主は忌み嫌われる。
『そして彼はわたしを庭の門に行かせた。わたしが見ると、見よ、壁に一つの穴があった。彼はわたしに言われた、「人の子よ、壁に穴をあけよ」。そこでわたしが壁に穴をあけると、見よ、一つの戸があった。彼はわたしに言われた、「はいって、彼らがここでなす所の悪しき憎むべきことを見よ」。
そこでわたしがはいって見ると、もろもろの這うものと、憎むべき獣の形、およびイスラエルの家のもろもろの偶像が、まわりの壁に描いてあった。またイスラエルの家の長老七十人が、その前に立っていた。シャパンの子ヤザニヤも、彼らの中に立っていた。おのおの手に香炉を持ち、そしてその香の煙が雲のようにのぼった。』(エゼキエル書8:7-11)
ここでは、イスラエルの指導者達が、隠れた暗い所で、主の忌み嫌われるあらゆるものに香を焚いて礼拝している様が露わにされているが、主は、表向きはきれいでも内側があらゆる汚れて満ちている状態、表面を白く塗った墓のような状態を、忌み嫌われる。
『時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、イスラエルの家の長老たちが暗い所で行う事、すなわちおのおのその偶像の室で行う事を見るか。彼らは言う、『主はわれわれを見られない。主はこの地を捨てられた』と」。』(エゼキエル書8:12)
このように、主は自分達を見ない、と豪語する事は、主が無力である事を暗に宣言する事であり、主への冒涜である。
『そして彼はわたしを連れて主の家の北の門の入口に行った。見よ、そこに女たちがすわって、タンムズのために泣いていた。』(エゼキエル書8:14)
ここでは女が偶像の神のために泣いているが、自分の好む事のために泣くことはしても、主のためには心動かされず泣きもしない事は霊的な姦淫である。
『彼はまたわたしを連れて、主の家の内庭にはいった。見よ、主の宮の入口に、廊と祭壇との間に二十五人ばかりの人が、主の宮にその背中を向け、顔を東に向け、東に向かって太陽を拝んでいた。』(エゼキエル書8:16)
太陽は恩恵をもたらすものであるが、それを創られた主には背をそむけ、自分に恩恵をもたらすものに拝する事も、主の忌み嫌われる偶像礼拝である。
十戒の中で一番最初に示された、最も重要な戒めは、次のものであった。「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」
主を憤らせるのではなく、妬ませるのではなく、主を第一とし、主に愛される私達でありますように!
この聖なる主の御前に誰が立てるだろう(出エジプト記19:16-25)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 出エジプト記
- 執筆 :
- pastor 2013-1-7 21:46
礼拝説教メッセージ音声:この聖なる主の御前に誰が立てるだろう(出エジプト記19:16-25):右クリックで保存
聖なる主が現れた時の光景は、実に恐ろしいものだった。
『三日目の朝となって、かみなりと、いなずまと厚い雲とが、山の上にあり、ラッパの音が、はなはだ高く響いたので、宿営におる民はみな震えた。モーセが民を神に会わせるために、宿営から導き出したので、彼らは山のふもとに立った。
シナイ山は全山煙った。主が火のなかにあって、その上に下られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山はげしく震えた。ラッパの音が、いよいよ高くなったとき、モーセは語り、神は、かみなりをもって、彼に答えられた。』(出エジプト記19:16)
主は焼きつくす火であり(ヘブル12:26)、かまどの煙のような煙が立ちこめ(創世記15:17)、煙と地響きが伴い(イザヤ6:4)、その御声は雷鳴のよう、ラッパのようである。(黙示録1:10)
主が災いを降される時、雷鳴と声といなずまと地震が起こる。(黙示録4:5)
主の側からの憐れみがなければ、人は誰一人、この聖なる主の御前に立ちおおす事は出来ない。
全山が揺れ動き、煙と雷鳴とラッパの響きの中、主は御声を発してモーセと語られ、モーセは主の御元へと召されたためシナイ山へ登った。
主は言われた。「下って行って民を戒めなさい。民が押し破って、主のところにきて、見ようとし、多くのものが死ぬことのないようにするためである。」
モーセは不思議に思ったかもしれない。主は既にそのように戒められていたし、そして、これほどの恐ろしい光景を目の当たりにしたのだから、誰もそんな気は起きないのではないか、と。
しかし、主が語られる事に、無意味は無い。
主がそう語られたからには、民のうちに不遜にも主を見ようと押し破って来ようとする者達が、確かにいたのだ。
それで多くの人が滅びる事にならないようにと、モーセに警告された。
主は、焼きつくす火である。
聖なる主の前に、人が罪あるまま出るなら、飛んで火に入る夏の虫のように、焼き尽くされて死ぬしか無い。
しかし主は、人から罪を取り除くために、御子イエス・キリストを世に送られ、その血潮によって、人が再び大胆に御前に出られるようにして下さったのだ。
『兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのであり、さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから、心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。』(ヘブル10:19)
私達はイエス様の血によって、大胆に恵みの御座に就かづく事ができるようになった。
『あなたがたが近づいているのは、手で触れることができ、火が燃え、黒雲や暗やみやあらしにつつまれ、また、ラッパの響や、聞いた者たちがそれ以上、耳にしたくないと願ったような言葉がひびいてきた山ではない。そこでは、彼らは、「けものであっても、山に触れたら、石で打ち殺されてしまえ」という命令の言葉に、耐えることができなかったのである。その光景が恐ろしかったのでモーセさえも、「わたしは恐ろしさのあまり、おののいている」と言ったほどである。
しかしあなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の天使の祝会、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者なる神、全うされた義人の霊、新しい契約の仲保者イエス、ならびに、アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である。』(ヘブル12:18)
人は、そのままで主の前に近づけるものではない。
大祭司でさえ血を携えずには聖所に入る事は出来ないように、イエスの流された血が無いままでは、誰も主の御前に立ちえない。
それ故、イエス様が流された尊い血潮は、決して軽んじてはならない。
主イエスは私達を白くきよめるために、血潮を流されたのだ。
主の御前に出る時は、軽がろしく出るのではなく、おそれと畏敬の念を持ち、主の流された血潮によって身を清めて、そうして礼拝すべきである。
信仰による甚だ優れた報酬(創世記15:1-6)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝説教「くちびるを清められよ(エペソ4章)」:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
この新しい一年を望み見るに、イエス様を主とする信仰者達に、素晴らしい「報酬」が与えられるようにと祈っているが、私達が主から報酬をいただく為に、絶対不可欠なものが、信仰である。
『恐れるな、アブラム。私があなたの盾、はなはだ優れた、あなたの報酬である。』(創世記15:1 KJV直訳)
この言葉は、アブラムに信仰の試練が訪れた時、御言葉に信頼して勝利した時に与えられた言葉である。
ユーフラテス川沿いの四人の王達が集結してカナン周辺諸国を攻めてきた時、ソドムに住んでいたロトは捕らえられ、家財もろとも奪われてしまい、その時、アブラムは信仰が試された。
それ以前、愛する妻サライがパロに召しだされるという試練があった時は、ただ無力に連れて行かれるのを見ているだけだった。一介の老人である自分と、大国の王パロとを見比べてしまったためだ。
しかし今回、彼は自分と相手を見て勘定する事なく、御言葉に信頼したのだ。
彼に与えられていた御言葉は「あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。」それなら、自分達は祝福されており、この攻めてきた王たちが呪われている、と、信じ、「あなたの子孫を海の砂のように増やす。」からには、自分は決して戦死などせず、生きて、子孫を残す、と信じたのだ。
私達も御言葉が与えられたら、信じて、示されている戦いに出ていくべきである。私達の身内を解放するため、私達の領域を侵略してくる敵に立ち向かうのだ。信じて出て行く聖徒に、主は勝利を与えて下さる。
各国を打ち破り、略奪しながら下って来た王たちは、相当の気勢・軍勢であったろう。
それに対しアブラムはわずか三百十八人のしもべ達を連れて戦って勝利し、多くの分捕りをしたのである。
これは人間業ではあり得ない。主が敵をアブラムの手に渡された(20節)からこそ、勝利したのである。
自分と敵を見るなら、気はくじけ、逃走するか敗北するかしかないが、自分を見ず、与えられている御言葉を信頼し、勝利の主イエスを見続けるなら、私達も、主と共に勝利するのだ。
その時、シャレムの王・メルキゼデクが、パンとぶどう酒とを持って来てアブラムを迎え、祝福し、アブラムは彼に、すべての物の十分の一を贈った。このメルキゼデクは義の王であり、平和の君であり、父もなく母もなく、系図もなく、生涯の初めもなく、命の終わりも無いお方、すなわち、キリストである。(ヘブル7:2-4)
私達も信仰によって進み出て勝利する時、キリストがパンとぶどう酒を持って出迎え、祝福して下さるのだ。
続いてアブラムは、ソドムの王から「わたしには人をください。財産はあなたが取りなさい」と持ちかけられるが、彼は、いと高き神主に誓って辞退した。
世の富、ことさら、ソドムの王のような、神の前に罪深い者の富は、受けてはならない。それは人の名誉をはびこらせ、神の名誉を貶める事になり(23節)、誘惑と分裂をもたらし、苦々しさを増し加えるものとなる。
私達の受けるべき報酬は、罪汚れに染まった王からの富ではなく、キリストから頂くパンとぶどう酒である!
こうして、信仰の試練を見事に克服し、メルキゼデクからの祝福を頂き、ソドムの王の汚れた富を辞退したアブラムに、さらに明確な祝福の約束が与えられた。
『恐れるな、アブラム。私があなたの盾、はなはだ優れた、あなたの報酬である。』(創世記15:1 KJV直訳)
主ご自身こそ私達の報酬であり、身を守る盾である。私達が主を信頼したら、その報酬として莫大な富や地所が手に入るのではない。主ご自身こそ、莫大な富や地所よりはるかに勝る、私達の報酬である。
アブラムはそれを聞いて、心が曇った。自分は歳をとっているのに子が与えられていない。このままでは、家のしもべが家を継いでしまう・・・。そんな彼を、主は外に連れ出して、言われた。
『「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。』(創世記15:5-6)
この時、アブラムには子はいなかったが、闇夜に輝く星々を見た時、まだ見ていない祝福を確信した。
暗闇の中に輝く星々。赤い星や青い星。大きな星もあれば小さな星もある。彼の子孫達は、このようである。
キリストにあって私達は、この暗闇の世代の中にあって、キリストのいのちを灯す星として輝いている。
アブラムが空を見上げた時、その星の中に、信仰による子孫である皆さんも見たのではないだろうか。
闇の世にあって光の子として燦然と輝く皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
天声ではほぼ毎日礼拝が行われているため、今日が最初の主日という気があまりしませんでした。
新年に入って以来、日々の礼拝で特に示されている事は、「くちびるに気をつけよ」という事です。
いつもは午後の礼拝は午前の礼拝と同じ箇所からメッセージをするのですが、今日は導きにより、エペソ書から即席のメッセージが与えられました。
くちびるの良き実をたくさん結び、その良き実によって養われる一年でありますように。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
御言葉への導き:右クリックで保存
ヘロデ(マタイ2章):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:御前に出る前の整え(出エジプト記19:9-15):右クリックで保存
『主はモーセに言われた、「あなたは民のところに行って、きょうとあす、彼らをきよめ、彼らにその衣服を洗わせ、三日目までに備えさせなさい。三日目に主が、すべての民の目の前で、シナイ山に下るからである。』(出エジプト記19:10)
主と出会う三日目のために身を聖別して衣服を洗うべき事を、主が命じられたように、私達も、主の御前に出る時は身を清めなければならない。
私達は何によって清められ、衣を洗って白くするのか。
『「この白い衣を身にまとっている人々は、だれか。また、どこからきたのか」。わたしは彼に答えた、「わたしの主よ、それはあなたがご存じです」。すると、彼はわたしに言った、「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。』(黙示録7:13-14)
私達の衣、罪で汚れた衣を清くするのは、ただ神の子羊キリストの血によってである。
そうして自らを清める人は、神の御前に出て、聖所で仕える事が出来るのだ。
『それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」。』(黙示録7:15-17)
主は、エジプトから出てきた民を、雲によって炎熱から守ったように、私達も自らを子羊の血で洗うなら、御座にいます方は私達の上に幕屋を張り、世のあらゆる炎熱から守って下さる。
主は、エジプトから出てきた民をマナで満たし、ほとばしる水によって潤して下さったように、私達も、自らを子羊の血で洗うなら、御座にいます小羊は私達の牧者となり、いのちの水の泉へと導いて下さり、もはや飢えることも渇く事もなくなるのである。
『あなたは民のために、周囲に境を設けて言いなさい、『あなたがたは注意して、山に上らず、また、その境界に触れないようにしなさい。山に触れる者は必ず殺されるであろう。手をそれに触れてはならない。触れる者は必ず石で打ち殺されるか、射殺されるであろう。獣でも人でも生きることはできない』。ラッパが長く響いた時、彼らは山に登ることができる」と。』(出エジプト記19:12)
三日目が満ちるまで、神の山に登る事はできなかったように、主の時が満ちる前に主の御前へ直接出る事は、かなわない。
しかし、主の時が満ちてラッパが響いた時、キリストにある人は、皆、御前へと挙げられなくてはならない。
『モーセは民に言った、「三日目までに備えをしなさい。女に近づいてはならない」。』(出エジプト記19:15)
女に近づいてはならない、とは、主から命じられていなかったが、モーセがそれを言ったのはどういう事だろうか。
男は女を求めるものであり、肉欲が過ぎると不品行に陥る可能性がある。そして、女にとっても、男はそのような存在である。
『男子は婦人にふれないがよい。しかし、不品行に陥ることのないために、男子はそれぞれ自分の妻を持ち、婦人もそれぞれ自分の夫を持つがよい。・・・ただし、合意の上で祈に専心するために、しばらく相別れ、それからまた一緒になることは、さしつかえない。そうでないと、自制力のないのに乗じて、サタンがあなたがたを誘惑するかも知れない。以上のことは、譲歩のつもりで言うのであって、命令するのではない。』(1コリント7:1-6)
ここでパウロが言っているように、心を主に向け専心して祈りる為に、互いに離れるのは、良い事である。
主の御前に出るべき時は、主以外の何か夢中になるようなものは、取り除いておく事に越したことはない。
私達が主に有用な者として整えられ、用いられたいのであれば、まず、自らを清めるべきなのである。
『大きな家には、金や銀の器ばかりではなく、木や土の器もあり、そして、あるものは尊いことに用いられ、あるものは卑しいことに用いられる。もし人が卑しいものを取り去って自分をきよめるなら、彼は尊いきよめられた器となって、主人に役立つものとなり、すべての良いわざに間に合うようになる。そこで、あなたは若い時の情欲を避けなさい。そして、きよい心をもって主を呼び求める人々と共に、義と信仰と愛と平和とを追い求めなさい。』(2テモテ2:20)
礼拝説教メッセージ音声:シナイ山到着(出エジプト記19:1-8):右クリックで保存
モーセはかつて主に呼び出された時、「あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」と言われていたが、いよいよその山のふもとへと、イスラエル民族を導いて来た。
今日の箇所は、神とイスラエル民族が契約する前の、双方の最終確認で、モーセがその介在人となっている。
主はまず民に言われる。
『あなたがたは、わたしがエジプトびとにした事と、あなたがたを鷲の翼に載せてわたしの所にこさせたことを見た。』(4節)
鷲が卵を産むと、親鳥は卵に覆い被さって温め、ひなをかえし、ひなを翼で覆って守り、巣の中で養い育てる。
ひながある程度育つと、今度は飛ぶ訓練をするために巣の中から落とし、落ちていくひながまだ飛べないと、その上に舞いかけ、羽に乗せて運ぶ。
そのように、主はイスラエル民族を一人の人アブラムから興し、その子孫を御翼の陰で覆って守り、はぐくみ、育て、エジプトという巣において、ある程度まで成長したら、今度は荒野の中へと導き、鷲が翼に乗せてひなを運ぶように、荒野の民を導かれた。
イスラエルは、その一連の奇跡と不思議を、ずっと見続け、経験して来た。
「それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。」(5節)
主が大いなる御業を民に見せて来たのは「声に聞き従い、わたしの契約を守る」ためであった。
もし、その主の契約を守るなら「すべての民にまさって、わたしの宝となる」事が約束され、「あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう。」(6節)
神はなぜ私達を選び、神の民という地位、王である祭司、聖なる国民という地位へと就かせたのか。(1ペテロ2:9)
「それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」(同10節)
会社で役職に就いたら給料は上がり、同時に責任も任される。それと同じように、神が私達を素晴らしい地位に就かせて下さるからには、神の栄光を伝えるという責任もまた伴う事を、忘れてはならない。
『民はみな共に答えて言った、「われわれは主が言われたことを、みな行います」。モーセは民の言葉を主に告げた。』(出エジプト記19:8)
しかし、民はその約束を守らなかった。
かえってエジプトに帰りたいと泣き叫び、モーセ達を石で撃ち殺そうとさえした。(民数記14章)
それで神は、約束を守らなかったその世代を、約束の地へ入ることをさせず、荒野で40年の放浪へと導かれた。
人は、神の定めた基準に到達する事は出来ず、律法からは、ただ人の中には罪がある事を示されるのみである。
しかし神は人を憐れみ、人が救われるようにと、新しい契約を授けて下さった。
『主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。わたしは彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの契約を破ったと主は言われる。
しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。』(エレミヤ31:31-34)
神は律法を石版に書き記したが、人は、それを守る事が出来なかった。
そこで神は人を憐れまれ、律法を成就して下さる御方・イエスキリストを世に送られ、この御方を信じる信仰によって罪赦され、新しいいのちへと導かれる福音を与えて下さった。
その新しいいのちに生きる人は皆、律法を成就した者とされ、神の目に義とされるのである。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
安息日の死守(ネヘミヤ記13:15-22):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
1ヨハネ5:1-5:右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:重荷を分かち合う時は(出エジプト記18:1-12):右クリックで保存
(本日の引用は口語訳ではなく新共同訳からです。)
『あくる日モーセは座して民をさばいたが、民は朝から晩まで、モーセのまわりに立っていた。モーセのしゅうとは、彼がすべて民にしていることを見て、言った、「あなたが民にしているこのことはなんですか。あなたひとりが座し、民はみな朝から晩まで、あなたのまわりに立っているのはなぜですか」。』(出エジプト記18:13)
モーセたった一人が民の問題をさばき、さばきを必要としている他の人達は、自分の順番が来るまで待つ。
そのようなやり方をしている様を見て、イテロは物申さずにはおれなかったのだ。
『モーセはしゅうとに言った、「民が神に伺おうとして、わたしの所に来るからです。彼らは事があれば、わたしの所にきます。わたしは相互の間をさばいて、神の定めと判決を知らせるのです」。』(出エジプト記18:15)
確かに、神と人との間に立つ人にさばきをしてもらう事は、正しい事である。
しかし、このような体制だと、些細な訴えが頻繁になされ、いたずらに裁判が増えてしまい、本当に必要な訴えが、長時間の間、ないがしろにされたまま、という事が大いに起こりうる。
『今わたしの言うことを聞きなさい。わたしはあなたに助言する。どうか神があなたと共にいますように。』(出エジプト記18:19)
イテロは元々、ミデヤンの祭司だが、前回の箇所を見ると、彼は主の御業を見て喜び、主はあらゆる神々に勝って偉大な御方である、という立派な信仰告白をしている。(10,11節)
そして彼の助言内容も、実に聖書的である。
『わたしの言うことを聞きなさい。助言をしよう。神があなたと共におられるように。あなたが民に代わって神の前に立って事件について神に述べ、彼らに掟と指示を示して、彼らの歩むべき道となすべき事を教えなさい。あなたは、民全員の中から、神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物を/選び、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長として民の上に立てなさい。』(出エジプト記18:19)
彼の助言で真っ先に来たのは、「あなたが民に代わって神の前に立って事件について神に述べ」る事。(19節)
つまり、モーセは諸々の小さい事を全部するよりも、まず、神と人との間に立って、執り成して祈る事に専念しなさい、というのである。
その次に助言した内容は「彼らに掟と指示を示して、彼らの歩むべき道となすべき事を教えなさい。」(20節)である。
すなわち、神のおきての何たるかを、神の側のスタンダードを、まず民全体に教えるべき事を勧めた。
そして第三に、民の長を立てて重荷を分散させるべき事である。
「あなたは、民全員の中から、神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物を/選び、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長として民の上に立てなさい。」(21節)
この、民の長となるべき人の選考基準も、3つある。
その真っ先に来るのが、「神を畏れる」人。
そして「有能な人」であり「不正な利得を憎み、信頼に値する(誠実な)人物」。である事だ。
イテロは実に良いアドバイスをモーセに与え、その結果、モーセの重荷は軽くなり、かつ本当に重要な事が出来るようになったが、モーセは完全にそのアドバイス通りにしていなかったようである。
次の箇所に注目したい。
『全イスラエルの中から「有能な人々」を選び、彼らを民の長、すなわち、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長とした。』(25節)
イテロの助言は、「神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物」を選考するはずだったのに、実際に、民の長として選ばれたのは、「有能な人々」としか書かれていない。
教会においても、指導者の立場に「神を畏れる人」よりも優先して「有能な人」を選んでしまうと、後々災いを招きやすい。
実際、コラの反逆の時、彼らは耳障りの良い言葉で有名人や有力者達を仲間につけ、神が立てた権威であるモーセと、神によって油注がれた大祭司アロンに反抗して立った。
神の国の運営においては、その人の信仰を確認せず単に「有能だから」という理由で安易に採用するのは、絶対に控えるべきである。
使徒時代の教会において、人数が増えるにつれて様々な問題が起きるようになった時、使徒たちは、どのような優先順位で事に当たったか。
「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」(使徒6:2-4)
使徒たちは、社会的弱者の配給がなおざりになっている時、自ら事に当たって解決するのではなく、「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。」と言った。
そしてその問題には、「“霊”と知恵に満ちた評判の良い人」に当たらせる事に決め、自分達はもっぱら、祈りと御言葉の奉仕に専念する、と言ったのだ。
それは一見、冷たく聞こえるようだが、これこそ正しい優先順位である。
今日の教会で色々な不都合が起きている最たる原因は、この優先順位を取り違え、祈りと御言葉の奉仕をないがしろにして、社会的弱者の配給に心砕いているような所にある。
この奉仕者の選考基準で、真っ先に来るのは“霊”に満ちた人であり、そして知恵に満ちた、評判の良い人である。
霊に満ちた人であるなら、その人は直接神に伺い、神の基準に沿った正しい判断をできる。
神の国の奉仕者は、人の知恵に頼るものではなく、神よりも人の知恵を優先するような人は、教会の上に立ててはいけないのだ。