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メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:マナの性質(出エジプト記16:31-36):右クリックで保存

『イスラエルの家では、それをマナと名付けた。それは、コエンドロの種に似て白く、蜜の入ったウェファースのような味がした。』(出エジプト記16:31 新共同訳)

このマナは、まことのパンであるキリストの性質をよく表している。
マナはコエンドロ(コリアンダー)の実のように小さく、丸く、大人でも子供でも誰の口にも入る。
キリストのご性質もマナと同じように、丸く小さく、棘が無い。
全宇宙はこの御方によって成ったというのに、小さな人間の赤ちゃんとして降りてこられ、誰の口にも入るマナのように、大人でも子供でも誰もが受け入れる事が出来る。
マナが白いように、キリストのご性質も雪よりも白く潔白である。
マナが甘いように、キリストの人柄に触れた人は全て、甘く柔らかな感覚に満ち足りる。

イスラエルの民はそれをマナ(「これは何」という意味)と名付けたが、主が日々与えて下さる恵みとは、実に「これは何」の連続だ。
空気は当たり前のようにそこにある。もし明日、いつも吸っている空気が無くなったらどうしよう、などとは、誰も心配しない。
人は文字通り、空気を吸うように、その存在を当たり前の事としているが、そもそも、人に必要な空気も光も、主が力ある御腕によって日々整えておられるのだ

もし、高度な知性を持った地球外生命体が突然現れ、地球の有様や、そこに満ちる生き物たちの有様を見たなら、きっと「これは何」と驚くに違いない。
地球の質量や重力定数、地軸や太陽との距離などが少しでも狂ったなら、人は存続できない。この地は、驚くべき主の不思議によって支えられているのである。
それなのに、人はなんと、荒野の民のように主の恵みを覚えず、ないがしろにしているだろうか。

『モーセは言った、「主の命じられることはこうである、『それを一オメルあなたがたの子孫のためにたくわえておきなさい。それはわたしが、あなたがたをエジプトの地から導き出した時、荒野であなたがたに食べさせたパンを彼らに見させるためである』と」。』(出エジプト記16:32)

主は、それを子孫たちも見れるように、蓄えるよう命じ、アロンはそれをあかしの箱の前に安置した。
イスラエルの子孫達が、その何世代もの長い間腐りもせず壺の中に保たれていたマナを見た時、驚きをもって主の御業をほめたたえた事だろう。
私達もまた、主が与えて下さる日々の恵みと不思議を覚え、それを後々の子孫にも告げ知らせ、証拠として残しておくべきなのだ。

神の箱の中には、マナの入ったつぼの他、芽を出したアロンのつえと、契約の石板とが入れてあった。(ヘブル9:1-5)
マナは神の恵み、神による不思議な養いである。アロンのつえは、死からの復活のしるしであり、神が認証された祭司のしるしである。そして契約の石版は、神のおきてであり、御言葉である。
これらは「あかしの箱」の中に納められ、その箱は旧約時代、最も神聖な場所である至聖所に安置されていた。

至聖所は、主の臨在で満ちている聖なる領域であり、旧約の時代は、大祭司が年に一度、犠牲の血を携えてしか入れなかったが、キリストは十字架上で尊い血を流し、真の身代わりの犠牲となって下さった事によって、父なる御神は完全になだめられ、神殿の幕は裂け、人類全てに、神の聖所への道が開かれたのだ。
それで今や、私達も、キリストによって大胆に恵みの御座へと、近づく事が出来るようになった。

この世を生きていく人生は、荒野を旅しているようなものかもしれない。
しかし日々、天から注がれる恵みは与えられている。
すなわち、まことのパンである御言葉なるキリストによって、日々養われている。
毎日御言葉に養われ、毎日キリストをいただきつつ、主が約束して下さった祝福の地へと一歩一歩向かって行く皆さんでありますように!

礼拝説教メッセージ音声:安息日の休み(出エジプト記16:22-30):右クリックで保存

『モーセは彼らに言った、「主の語られたのはこうである、『あすは主の聖安息日で休みである。きょう、焼こうとするものを焼き、煮ようとするものを煮なさい。残ったものはみな朝までたくわえて保存しなさい』と」。彼らはモーセの命じたように、それを朝まで保存したが、臭くならず、また虫もつかなかった。』(出エジプト記16:23-24)
主は真実な方であり、主が定められた安息日には、ちゃんと休めるよう、六日目には二日分のパンを、不足なく備えて下さる。
主は礼拝を守ろうとする聖徒には、仕事を祝福し、しっかり礼拝を捧げられるよう都合をつけて下さり、その日に休んでも必要な金銀は備えて下さり、礼拝のための体調も全て整えて下さるのだ。

『モーセは言った、「きょう、それを食べなさい。きょうは主の安息日であるから、きょうは野でそれを獲られないであろう。六日の間はそれを集めなければならない。七日目は安息日であるから、その日には無いであろう」。ところが民のうちには、七日目に出て集めようとした者があったが、獲られなかった。』(25-27節)
神の民は、礼拝すべき日に仕事に行っても、何も取れないのだ。
その日は、世の取引ごとは一切休み、主を覚えるべき日である。
その日に立ち働いても、徒労に終わるのみで、神と人から蔑みしか得られない。

「そこで主はモーセに言われた、「あなたがたは、いつまでわたしの戒めと、律法とを守ることを拒むのか。」(28節)
民がモーセの言う事を聞かず、翌日までパンを残しておいた時でも、その前で民がつぶやいた時でも、主は何も言われていなかったが、民が安息日を犯した時、主は初めて怒りを露わにされた。
主が定められた聖なる安息日に、世の仕事を休んで安息し、主を覚える事は、それだけ大切だという事である。

『もし安息日にあなたの足をとどめ、わが聖日にあなたの楽しみをなさず、安息日を喜びの日と呼び、主の聖日を尊ぶべき日ととなえ、これを尊んで、おのが道を行わず、おのが楽しみを求めず、むなしい言葉を語らないならば、その時あなたは主によって喜びを得、わたしは、あなたに地の高い所を乗り通らせ、あなたの先祖ヤコブの嗣業をもって、あなたを養う」。これは主の口から語られたものである。』(イザヤ58:13)

エジプトを出た世代のうち、約束の地に入れたのは、たったの二名だった。それは、その二名以外は不信仰に陥り、神に不従順を続けたからである。
『また、神が、わたしの安息に、はいらせることはしない、と誓われたのは、だれに向かってであったか。不従順な者に向かってではなかったか。こうして、彼らがはいることのできなかったのは、不信仰のゆえであることがわかる。』(ヘブル3:18-19)

安息の休みは、神の民に残されている。そして安息に入った人は、自分のわざを終えて休む。(ヘブル4:10)
『それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。』(ヘブル4:1-4)

聞いた御言葉に信仰を結びつけるなら、私達も安息に入るのだ。
御言葉に信頼して世のわざ・自分のわざは終わりにし、主が安息されたように、安息に入る皆さんでありますように!

礼拝説教メッセージ音声:「これは何だろう」(出エジプト記16:11-21):右クリックで保存

主が約束しておられた通り、夕方にはうずらが飛んできてイスラエルは肉を得、朝には天からのパンが与えられた。
『その降りた露がかわくと、荒野の面には、薄いうろこのようなものがあり、ちょうど地に結ぶ薄い霜のようであった。イスラエルの人々はそれを見て互に言った、「これはなんであろう」。彼らはそれがなんであるのか知らなかったからである。モーセは彼らに言った、「これは主があなたがたの食物として賜わるパンである。』(出エジプト記16:14-15)

彼らは神が与えて下さったパンを見て「これは何だろう」と言ったが、以降、イスラエルの民は、その食物のことを「何だろう」「what is this」(ヘブル語:マンナ)と呼ぶようになった。
つまりイスラエル民族は荒野で40年、それを「”何だろう”を集めに行こう」「”何だろう”を今日は煮て食べようか、焼いてたべようか」など言っていたわけである。

神が与えて下さった食物「何だろう」は、その名の通り、とても不思議な食物である。
朝、露が上がると霜のように降りて来て、うろこのような細かいものとして現れ、日が熱くなると溶けて無くなってしまう。
その分量は大人も子供も、一人一日一オメル(2.3リットル)で、ある者は多く、ある者は少なく集めても、なぜか全体で過不足無く集められてしまうのだ。
また、それを翌朝まで残しておくと虫がわいて悪臭を放ってしまうが、六日目に集めたものは、翌日も普通に食べられる。

その性質は、主が日々与えて下さる恵みの性質であり、御言葉の性質であり、それは私達が日々、必要とするものである。
それは朝の一定の時間に集めなければならなかったように、主の恵みにも、拾うことの出来る時期があり、その時期が過ぎてしまうと、もう拾えなくなってしまう。
そしてそれは1週間ごとでも1ヶ月ごとでもなく、1日ごとに集めなければならない。
御言葉は朝ごとに新しく、1週間前に御言葉を得たから暫くは摂らなくて良いというものではないし、また、人の必要は日々変わるように、その人に必要な御言葉もまた、日毎に変わるのだ。

イスラエルの民は、なぜ「これは何」を日々集め、食べなければならなかったか。申命記に書かれている。
「それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたがその命令を守るか、どうかを知るためであった。それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。」(申命記8:2,3)

「これは何」は、何も食料には限定されず、時々に与えられている恵みに置き換える事が出来る。
パウロは、コリントの教会が献金する志が与えられた事を喜び、次のように書いた。
『今の場合は、あなたがたの余裕があの人たちの欠乏を補い、後には、彼らの余裕があなたがたの欠乏を補い、こうして等しくなるようにするのである。それは「多く得た者も余ることがなく、少ししか得なかった者も足りないことはなかった」と書いてあるとおりである。』(2コリント8:14-15)

この時、コリントの教会には食料や富が与えられていたが、エルサレム教会では欠乏していた。それをコリントの教会が補う事によって、「多く得た者も余ることがなく、少ししか得なかった者も足りないことはなかった」という御言葉が実現するのである。
今、もし私達が必要以上に恵みを得ているとしたら、それは、不足を覚えているキリストのからだなる兄弟姉妹の欠乏を補うためではなかろうか。

天からのパンは今もなお私達に与えられている。それは、御言葉なるキリストである。
イエス様がパンの奇跡を行った後、群衆はイエス様に言った。
「わたしたちが見てあなたを信じるために、どんなしるしを行って下さいますか。どんなことをして下さいますか。わたしたちの先祖は荒野でマナを食べました。それは『天よりのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです」。(ヨハネ6:31)

私達もこの群衆のように、何かと日々の生活の必要を安定的に得たいと願いがちであるが、主は言われる。
「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。」(ヨハネ6:35)

イエス様こそ、天から下ってきたいのちのパンである。
私達は御言葉なるこの御方を、日々集め、日々いただき、恵みの時・救いの時に兄弟姉妹と共に分かち合うのである。

宇宙規模の喜び(マタイ2:1-12)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

多くの預言者達によって示されていた、ダビデの王座を永遠に立てるメシヤなるキリスト、ユダヤの真の王が、お生まれになった時、エルサレムでその事を知っていた人は誰もおらず、しかも、それを知って真っ先に拝みに来たのは、なんと、イスラエルでは蔑まれるべき、異国の博士たち(マゴス:占星術師)だった。
主が再臨される時も、盗人のように突然来られる。それを認知できる人は、神の選民だとは限らず、たとい蔑まれるべき異邦人であっても、主のしるしを見逃すまいと、日々求めている人に、主は現れて下さる。

イスラエルの王宮にいた人々がそれを知った時のリアクションは、喜びではなく、混乱と恐れだった。
当時のイスラエルの王宮は、魑魅魍魎の巣のような所で、ヘロデ大王はエドム人であり、巧みな政治手腕によってローマ元老院に取り入り、猜疑心に満ち、冷徹で残虐で、彼の王座を脅かす者は妻であろうと子であろうと処刑し、神を軽んじる彼に反対した祭司やレビ人達も、多く処刑された。
イスラエルの王宮とその周辺の信仰状態が最悪の時期、王座に邪悪な者が君臨している時、最も暗黒のような時代に、救い主はお生まれになったのだ。それは、終末に主が再臨される時と似ている。

ヘロデ王は、祭司長達や学者達へ命じ、神が預言者を通して示したメシヤの生まれてくる場所を調べさせ、そして博士たちをひそかに呼んで、その時間を突き止めた。『そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」』(マタイ2:8)
預言されていたユダヤ人の王がお生まれになったからには、イスラエルはこぞって調査し、自ら贈り物を携えて行くべきなのに、彼らは王宮から一歩も出ないで異邦人の博士に、調査を一任した。しかも、ヘロデ王が調査させ、「行く」のは、拝むためではなく、なんと、まことの王であるメシヤを、殺すためだった。
神を恐れぬ人、自分の保身しか思っていない人は、自分が生まれる前から全能者によって示されていたユダヤ人の王を、自分の手で殺せると本気で思っている程、愚かなのだ。
そして、彼が密かに巡らしたはかりごとが阻まれ、博士が自分の所に来ないと知った時、彼は全ての人の心を知っておられる主を恐れるのではなく、怒り、その地方の2歳以下の男の子を皆殺しにしてしまった。

エルサレムで大した情報も得られず出て行かざるをえなかった博士達が頼りとできるのは、再び星だけになってしまった。しかし、なんと、星が彼らを先導し、幼子のいる場所の上に止まったのだ!
『その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。』(マタイ2:10-11)
星の光とは、何千年何万年もかけて地球に届くものである。それなら神は実に、博士たちがその時ちょうどいる場所に、幼子がいる方向へと光が向かうよう、何千年何万年も前から、星を配置しておられた事になる。
神のなさる技は、人の思い計らいを遥かに超えている。まさしく、宇宙規模の不思議である。
宇宙を支配しておられる主イエスが、この世に降り来て下さった場所は、神殿の高きでも豪華な王宮の真ん中でもなく、誰も目を留めないベツレヘムの馬小屋にであり、しかも、馬のエサ箱の中に宿られたのだ。
世の学者や、富や力を頼みとする権力者には、メシヤがそのように来られる事は、到底理解できない。
主はひそかに来て下さる。ひそかに主を慕い求める、小さく弱き人の所に。そしてその人に、宇宙規模の妙なる不思議を現して下さるのだ。
なぜなら神は、知恵ある人をはずかしめるために、この世の愚かな人を選び、強い人をはずかしめるために、この世の弱い人を選ばれたからである。(1コリント1:26-29)

「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」(マタイ2:11)
威厳ある壮年男性達が、赤子であるメシヤの前に、頭をつけて拝む。それこそ私達も見習うべき礼拝だ。
彼らは遠い国から何をしに来たのか。それは、ユダヤ人の王を拝みに、宝物を捧げるために、である。
彼らは時間と労力、大切な宝物をただ捧げ、物としては何も得なかったが、宇宙規模の素晴らしい体験をし、大きな喜びがあった。礼拝の目的とは、何かを得る事ではなく、捧げる事である。たとい主が赤子の姿であっても、遠くであっても、宝を携え、伏し拝み、宇宙規模の喜びを得る皆さんでありますように!

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
キリストの系図(マタイ1:1-17):右クリックで保存

祈り:右クリックで保存

 

 

礼拝説教メッセージ音声:荒野での第一課程(出エジプト記16:1-10):右クリックで保存

イスラエルの民がエジプトを出て1ヶ月目、彼らはエリムとシナイの間にあるシンの荒野に入った。
その時、イスラエルの全会衆は、またしてもモーセとアロンにつぶやいた。
そのつぶやき内容の低俗さは、前回よりパワーアップしている。

『イスラエルの人々は彼らに言った、「われわれはエジプトの地で、肉のなべのかたわらに座し、飽きるほどパンを食べていた時に、主の手にかかって死んでいたら良かった。あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出して、全会衆を餓死させようとしている」。』(出エジプト記16:3)

果たして彼らはエジプトで、肉鍋を囲んでパンに飽きたりていたのだろうか?
たとえそうだったとしても、彼らは「飽きるほどパンを食べていた時に、主の手にかかって死んでいたら良かった」などと主を前に言うべきではないし、いつもパロと主の前に立ち民を導いていたモーセ達に対して「あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出して、全会衆を餓死させようとしている」などとは、言ってはならぬはずだ。

レビ記や民数記を見ると、イスラエルの民がつぶやいては災いに遭うという事を繰り返しているが、主は今回はいきなり災いを降すような事はせず、その民のつぶやきを聞いて下さり、そして言われた。
「見よ、わたしはあなたがたのために、天からパンを降らせよう。民は出て日々の分を日ごとに集めなければならない。こうして彼らがわたしの律法に従うかどうかを試みよう。六日目には、彼らが取り入れたものを調理すると、それは日ごとに集めるものの二倍あるであろう。」(出エジプト記16:4-5)

イスラエルがパンや水が無い状況へと導かれた理由は、彼らが主の言葉に従うかどうか、試みるためであった。

主はなぜ、
人を試みるのか。そんなことせずに、人をそのまま両手放しで約束の地に入れれば良いのに、と思うだろうか。
しかし主は、分相応でない大きな事を、訓練も無しにいきなり預けるような事は、なさらない。
車の教習で、ハンドルを握ったことのない初心者にいきなり公道を走らせるような事はしないように、主もイスラエルに一つ一つの教習を与え、約束の地を継いで世界を祝福へと導くという、大きな”運転”ができるようになるまでに、訓練を与えておられるのだ。

その教習の第一課程は、「主が与える天からのパンを、日々、一日分を集める事。六日目には二日分を集める事」、それだけであった。
それを忠実に守るかどうか。主は見ておられた。

パンが降るのは、安息日を除けば、日毎である。
主は、信仰の初心者に、何年分もの財を一気に与えるような事は、ほぼ100%せず、日毎、主からの恵みを拾うこと、日毎、御言葉に従順する事を、地道に、じっくり体験させる所からはじめる。

人は思う。もしパンが一週間も降らなかったらどうしよう、餓死してしまったらどうしよう、と。しかし御言葉は言う。毎日パンが与えられるから、それを集めよ。六日目は二倍集めよ、と。
そうして日々、主の御言葉は必ず成って行くさまを人が見、また人が日々御言葉を守って行く事によって、主の御言葉に従順する事、主は確かで真実なお方だと信仰が強められていく事を、実地訓練していくのだ。

そのような地道な日々は、次の人には特に耐え難い毎日かもしれない。
すなわち、アクション映画の主人公のように、特殊な賜物を用いて華々しく活躍したり、何年分も不足なく暮らせるような大金がポンと与えられる事を、インスタントに求めるような人には。
主は、そのようなうずめく願望を萎えさせ、剥ぎ取る「第一課程」から始められる。
中には、そのような願望を何十年も握りしめ続けて、いつまでも第一課程を卒業できないでいる「クルシチャン」もいる。

『モーセはまた言った、「主は夕暮にはあなたがたに肉を与えて食べさせ、朝にはパンを与えて飽き足らせられるであろう。主はあなたがたが、主にむかってつぶやくつぶやきを聞かれたからである。いったいわれわれは何者なのか。あなたがたのつぶやくのは、われわれにむかってでなく、主にむかってである」。』(出エジプト記16:8)
彼らはモーセとアロンにつぶやいたつもりだったが、実は、主につぶやいていたのだ。
「いったいわれわれは何者なのか。」そう、モーセに言っても無意味である。

『それでアロンがイスラエルの人々の全会衆に語ったとき、彼らが荒野の方を望むと、見よ、主の栄光が雲のうちに現れていた。』(出エジプト記16:10)
イスラエルの民は全員、見た。
アロンが語り終えたタイミングで、主の栄光が雲の内に現れたのを。
主が確かに民のつぶやきを聞かれ、その栄光を表された事を、誰もが見たのである。

よく、主からの奇跡や不思議を見たがる人はいるが、それを見たからには、責任が発生する事もまた忘れてはならない。
荒野の民は、この第一課程を、どのようにこなして行ったか。次回以降に見ていきたい。

「これは御心だよ」とか「これは導きだよ」という言葉を連発する人に、ろくな信仰の人はいない・・・これは今日ある聖徒と話していて気付いた事です。

神様を道具にして自分の願望やはかりごとを正当化させようとしている人が、良く連発するみたいです。

御心とは、人間の願望やはかりごとの一切関知せぬ神様の御旨であり、導きとは、人間の願望やはかりごとの一切関知せぬ、神様が用意された"順序立て"が成っていく事だと、私は思います。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
城壁の奉献式(ネヘミヤ11-12章):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
1ヨハネ4:7-11:右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:マラの苦い水(出エジプト記15:19-27):右クリックで保存

『そのとき、アロンの姉、女預言者ミリアムはタンバリンを手に取り、女たちも皆タンバリンを取って、踊りながら、そのあとに従って出てきた。そこでミリアムは彼らに和して歌った、/「主にむかって歌え、/彼は輝かしくも勝ちを得られた、/彼は馬と乗り手を海に投げ込まれた」。』(出エジプト記15:20)
ミリヤムはモーセやアロンの姉、という事は、彼女はこの時90歳くらいであったろう。彼女は女達の先頭に立ち、共に和して歌い踊っていた。
男も女もとても大きな喜びに満たされて、主を喜び祝っていた様子が伺える。

ところがその3日後、賛美していた唇は、つぶやきを発するようになってしまう。
エジプトの軍隊が沈んでいる紅海のほとりを出発し、緑も水もない荒涼とした岩砂漠を3日間歩き、やっと水を見つけた、と思ったら、それは苦い水だったのだ。
『さて、モーセはイスラエルを紅海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野に入り、三日のあいだ荒野を歩いたが、水を得なかった。彼らはメラに着いたが、メラの水は苦くて飲むことができなかった。それで、その所の名はメラと呼ばれた。ときに、民はモーセにつぶやいて言った、「わたしたちは何を飲むのですか」。』(出エジプト記15:22)

人は、弱い存在である。
困難の時につぶやくのは、弱さある人間としては無理もないかもしれないが、この時、イスラエルの民は、必要の満たしを求めるべき相手を間違っていた。
本来なら必要の満たしは神に求めるべきなのに、彼らは人間の指導者であるモーセに求めたのだ。

人は何かと、牧師や霊的指導者などの「人間」に頼りがちである。
なぜなら人間なら話せば聞いてくれるし答えてくれるし、ことに、相手がやさしく謙虚な人であれば、文句もぶちまけやすい。
時には、レストランのサービスがなっていないと怒鳴るような感覚で、神のサービスはなっていないと「人間」にぶちまける者さえある。

しかし、目に見える人に頼るなら、必ずと言っていいほど失望させられる。
『目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。』(ローマ8:24-25)
しかし、見えないお方である主に信頼する人は、決して失望させられる事は無い。(ローマ10:11)

神にではなく、モーセや牧師などの「目に見える人間」にいつまで経っても頼ろうとする人は、魚が釣れる人に「魚をくれ、くれ」といつも言っておきながら、自分は釣り方を覚える気が全く無い人のようである。
釣り方を自分で覚えて、より魚が捕れる技を磨くよりも、「くれ、くれ」とだけ言っている生き方は楽かもしれないが、いつまでも成長せず、いざという時は困ってしまう。
同じように、いつまでも信仰を働かせず「人間」にばかり頼っている者も、いざという時には困ることになる。

モーセは、目に見えないお方・全ての備え主である主に叫んだ。
『モーセは主に叫んだ。主は彼に一本の木を示されたので、それを水に投げ入れると、水は甘くなった。』(出エジプト記15:25)

私達も、人生の中で砂漠を放浪した挙句に苦い水に行きあたってしまったような時は、人ではなく、主に叫ぶべきである。
そうするなら、苦い水は甘く変えられ、必要が十分に満たされるように導かれていくのである。
『こうして彼らはエリムに着いた。そこには水の泉十二と、なつめやしの木七十本があった。その所で彼らは水のほとりに宿営した。』(出エジプト記15:27)

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