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イスラエルの盾となる主 - 第五,第六の災い(出エジプト記9:1-12)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 出エジプト記
- 執筆 :
- pastor 2012-11-26 23:45
礼拝説教メッセージ音声:イスラエルの盾となる主 - 第五,第六の災い(出エジプト記9:1-12):右クリックで保存
エジプトに降る第五の災いは、家畜の疫病である。
『主の手は最も激しい疫病をもって、野にいるあなたの家畜、すなわち馬、ろば、らくだ、牛、羊の上に臨むであろう。』(出エジプト記9:3)
馬、ろば、らくだは物を運搬する動物で、また牛と羊は重要な聖獣である。
主は今回、エジプトの財産と物流、そして神々を打たれたのだ。
主は今回も災いの時を予め定め、その通り実行し、また、エジプトとイスラエルを明確に区別された。
『あくる日、主はこのことを行われたので、エジプトびとの家畜はみな死んだ。しかし、イスラエルの人々の家畜は一頭も死ななかった。パロは人をつかわして見させたが、イスラエルの家畜は一頭も死んでいなかった。それでもパロの心はかたくなで、民を去らせなかった。』(出エジプト記9:6)
主は予告した通りの災いを降し、エジプトとイスラエルの民を区別された。それ程鮮やかにしるしを行ったのに、パロはなお、心頑なにした。
続く第六の災いは、うみが出る腫物の災いで、ぶよの災いの時同様、パロの目の前で明示的に実行した。
『主はモーセとアロンに言われた、「あなたがたは、かまどのすすを両手いっぱい取り、それをモーセはパロの目の前で天にむかって、まき散らしなさい。』(出エジプト記9:8)
かまどと言えば、イスラエルがまさに奴隷仕事としてれんがを焼いている道具である。
かまどの中からすすを取りだして空中に蒔いた所、それが人や動物、そしてモーセ達に対抗した呪法師にも、腫物の災いを及ぼした。
こうして主は、イスラエルを奴隷として用いていた道具を用い、エジプトの人々にも動物にも、そして神々にも、明示的に報復したのである。
主ご自身が、イスラエルの盾となり、戦っておられるのである。
『しかし、主はパロの心をかたくなにされたので、彼は主がモーセに語られたように、彼らの言うことを聞かなかった。』(出エジプト記9:12)
前の五回の災いが起きた時は、パロ自ら心を頑なにしていたが、今回、はじめて「主が」パロの心をかたくなにされた、という表現が用いられている。
人があくまで主を拒否し、頑なさを続けていると、今度は、主がその心を頑なにされるのだ。
以下、詩篇81篇に記されている通りである。
『わたしが、あなたの神、主である。わたしはあなたをエジプトの地から連れ上った。あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。しかしわが民は、わたしの声を聞かず、イスラエルは、わたしに従わなかった。それでわたしは、彼らをかたくなな心のままに任せ、自分たちのおもんぱかりのままに歩かせた。
ああ、ただ、わが民がわたしに聞き従い、イスラエルが、わたしの道を歩いたのだったら。
わたしはただちに、彼らの敵を征服し、彼らの仇に、わたしの手を向けたのに。」
主を憎む者どもは、主にへつらっているが、彼らの刑罰の時は永遠に続く。しかし主は、最良の小麦をイスラエルに食べさせる。「わたしは岩の上にできる蜜で、あなたを満ち足らせよう。」』(詩篇81:10-16)
主は人に、心へりくだって御言葉に従順となり、主の道に歩む事を望んでおられる。
人がその通りにしたなら、速やかにその敵を征服し、最良の小麦と岩の上にできる蜜で道たらせる用意が、主の側にはいつでもできているのだ。
しかし人が頑なになると、どうしても自分の道を捨てたがらず、怒り狂って神にさえ対抗し、けがしごとを言ってしまうものだ。(黙示録16章)
祝福へのもっとも近道は、主に対して心柔らかにし、いつでも御言葉を受け入れる体制でいる事である。
かたくなさは捨て去り、いつも主の御声に従順に聞き従って、いつでも祝福を頂き続けている皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
信じる者には何でもできる(マルコ9:14-29)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
『一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。』(マルコ9:14) 弟子達は、ある父親から子を救って欲しいと、お願いされていた。
その子は幼い時から、言うことも聞くこともさせない霊(マタイ17:15:てんかん)につかれ、何度も火の中や水の中に投げ込まれて来た。しかし、弟子達はその霊を追い出す事ができず、その子は放って置かれたまま、律法学者たちは弟子達に議論を仕掛け、それを大勢の群集が囲んで見ている有様だった。
主は怒られた。「ああ!」「信仰無き世代!」「私はいつまであなた達と一緒にいられるだろう?」「いつまであなた達に我慢しなくてはならないだろう?」「その子を私の所に連れて来なさい」と。
主は怒る。弟子達の信仰の無さを。悪霊を追い出せない事をエサとし、癒すべき子をよそに議論する事を。
悪霊の目的は、人々を真理から背けさせ、物事を混乱させ、人々を互いに主義主張させ、いのちから遠ざける事である。この時まさに、悪霊は高らかに笑っているような状況だったであろう。
主は「いつまであなた達と一緒にいられるだろう」と言われたが、主はやがて天に昇られ、弟子達と面と向かってアドバイス出来なくなった。しかし弟子達は「使徒」となり、大胆に主の働きを為すようになった。
今や私達は、先生と生徒のように、耳で主から具体的なアドバイスを聞いたりは出来ないが、主はいつでもどこでも共におられ、信じる者の信仰を通して働かれ、聖霊によって助けて下さる。
主は、我慢しておられる。私達キリスト者が、見える所によらず、信仰によって実体ある働きを為すまで。
私達はいつまでも、目で見れる「先生」に頼る事から、脱皮しなくてはならない。弟子たちがやがて使徒となったように、私達も信仰によって一人立ちして、主から遣わされた「使節」として働かなくてはならない。
「使徒(apostoros)」とは「職権を委ねられ遣わされた者」という意味であり、「全権大使」「遠征隊」の意味もある。主は私達に職権を委ね、主に代行し使節として働く事を望んでおられる。(2コリント5:20)
『霊はたびたび、この子を火の中、水の中に投げ入れて、殺そうとしました。しかしできますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」。』(マルコ9:22)
子がいつも尋常でない言動をして、手を付けられない事が長続きすると、人は癒されるのは無理と思う。
しかも主にさえ「できるものなら」と言ってしまう。皆さんは主に言っていないか?「できるものなら」と。
それはイエス様が最も嫌う、「”不”信仰告白」である。主は言われる。信じる者には、何でも出来る、と。
皆さんも信仰告白すべきである。イエス様にあって、わたしは、何でもできる!と。(ヨハネ14:12)
『イエスは群衆が駆け寄って来るのをごらんになって、けがれた霊をしかって言われた、「言うことも聞くこともさせない霊よ、わたしがおまえに命じる。この子から出て行け。二度と、はいって来るな」。』(マルコ9:25)
私達が使節として権限委託された権威の大元は、この、頑なにもの言わせない霊も、頑なに聞かせない霊も、震え上がって従わざるをえない、全能の父なる神の右に座し、全てを裁かれる主、イエス様である。
「このたぐいは、祈と断食とによらなければ、追い出すことはできない」(マタイ17:21)
親や子、親しい友人などが病的状況に陥って長い時、それが悪霊によるのか、単に病によるのかといった追求は、無用である。大事なのは、「このたぐい」は、追い出し可能という事だ。それも、祈りと断食によって。
皆さんは、親しくしている子や友人、親類が癒されるために、断食、すなわち、自分の好むあれこれを止めて主の御前に出、本気になって祈った事があるだろうか?
断食とは、単に「食べない」事ではなく、今までして平気でしていた悪を止め、人を身勝手に支配して来たそのなわめをほどき、しいたげられた人達を自由の身とする事。人の後ろ指をさす事を止め、つまらないおしゃべりを口から除き、困っている兄弟姉妹や、肉親の世話を誠実にする事である。(イザヤ58章)
そうするなら、あなたの光は闇の中に輝き出で、あなたを包む闇は、真昼のようになる。
主は常に導き、焼けつく地で渇きをいやし、骨に力を与え、潤された園、水の涸れない泉となり、人から「城壁の破れを直す者」と呼ばれるようになる。(同10-12節)
癒すべき子を放って置いたまま神学議論に明け暮れ、大勢の群集が見ていた有様は「断食」とは正反対の有様である。主に喜ばれる断食をし、愛する人の為に本気で祈って取り戻す皆さんでありますように!
礼拝説教メッセージ音声:あぶの災い(出エジプト記8:20-32):右クリックで保存
エジプトに降る第四の災いは、あぶの災いである。
日本語で「あぶ」と訳されている言葉は、ヘブライ語でアロブ、七十人訳では「いぬばえ」、犬などの家畜や人に刺し、刺されると痛みが走る虫で、動物の神々を敬うエジプト人には嫌悪される虫である。
エジプト人の、聖獣といわれる動物への崇敬ぶりは、すごいものがある。
『エジプト人が死守していたベルザの城をペルシャ王カンビセスの大群が久しく囲んで落とせないでいた。智慧の深いカンビセスは、攻撃軍の先鋒に当たる兵士や士官の全部に楯を与える代わりに猫を一匹ずつ持たせた。この、世にも堂々たる進軍が起こされると同時に、城の輿論が決した。エジプト人は猫を殺すくらいなら潔く城を明渡そうと云うのに一致したのだった。』(「猫のいる日々」大佛次郎氏)
今回の災い以降、アロンが杖を差し伸べることではなく言葉で命じる事によって災いが降る。
そして今回の災い以降、主はエジプトとイスラエルを明確に区別され、イスラエルには災いが降りかからないように、特別扱いされた。
神を恐れぬ国の中にいると、その国の中にいる神の民にも災いのとばっちりを受ける事があるが、神は真実なお方であり、その邪悪な国の中に義人が十人いるなら、その国を滅ぼすことはなさらず(創世記一八章)、義人を悪者の集団もろとも滅ぼすような事の無いお方である。
『主はそのようにされたので、おびただしいあぶが、パロの家と、その家来の家と、エジプトの全国にはいってきて、地はあぶの群れのために害をうけた。そこで、パロはモーセとアロンを召して言った、「あなたがたは行ってこの国の内で、あなたがたの神に犠牲をささげなさい」。』(出エジプト記8:24)
パロはモーセの言った要求の一部は許可したが、そこに自分の主張も混ぜ込み、モーセに譲歩させようとした。
しかしモーセはそれには乗らず、自分達は神の要求を何一つ違えるつもりは無くそのまま実行すると主張した。
世は神の民に、色々な手を使って「妥協」を要求して来る。
礼拝するのは主日でなくてもいいではないか、イエスを信じるのは勝手だが私達にイエスを伝えるな、など。
私達は世に妥協して、御言葉をねじまげてはならない。
『こうしてモーセはパロのもとを出て、主に祈願したので、主はモーセの言葉のようにされた。すなわち、あぶの群れをパロと、その家来と、その民から取り去られたので、一つも残らなかった。』(出エジプト記8:30-31)
昨日まで国中に溢れていたあぶの群れが、モーセの言葉のとおり、翌日には一匹も残らずいなくなった。それもまた、すごい奇跡である。
かえるの災いの時、モーセはかえるが絶えるよう主に叫んだが、今回は単に「祈願した」とだけある。それはモーセの主に対する信頼が以前より増したからである。
水を恐れる人が、膝の高さの水でも溺れてしまうのは、水に対する恐れと不安のために、余分な力を入れたり余計なもがきをしてしまうからで、水泳の達人は、水への知識と信頼があるため、無意識的にに力を抜き、必要な力だけを使って、素早い泳ぎができる。
同じように、信仰が発達していない人も、余計な心配や祈りをして、信仰生活が、あたかも莫大なエネルギーを要するかのように見てしまうが、しかし主と共に歩んだ日数の多い信仰の達人は、無意識的にに主を信頼し、余計な力の入った祈祷をせずとも、意識する以前から必要が備えられたりする。
『しかしパロはこんどもまた、その心をかたくなにして民を去らせなかった。』(出エジプト記8:32)
パロは今回、モーセに「私のために祈ってくれ」と言った。
もしもパロがこの時に約束を守っていたら、モーセは約束した通りパロのために祈ったであろうが、残念ながら、モーセが荒野に出てパロのために祈った事は無かった。
なぜなら、パロは更に幾度も心頑なになり、神の前での約束を反故にし、エジプトの初子が打たれてやっとイスラエルの民は荒野へ行けたのに、それでもなおパロは軍隊を遣わして、イスラエルの民を滅ぼそうとし、そこで主はエジプトの軍隊を海に飲み込ませ、そうしてイスラエルは徹底的にエジプトと決別したからである。
今は恵みの時、救いの日である。
とりなし手が祈ってくれる内に主を恐れ、心を頑なにする事を止め、御前にへりくだるべきである。
昨日から新潟の兄弟が来ており、ずっと交わっておりました。
本当は、ある一つの目的のために来られたのに、その目的がクリアになっただけでなく、他にもいくつもの良き御業を主から与えられ、解放と勝利が与えられ、ビジョンが与えられました。
昨日も今日も昼から夜遅くまで交わりや賛美、祈りが続き、今もまだ交わりがずっと続いています。
主が触れられると人は時間を忘れてしまうものです。
他にも昨日、教会の姉妹が長年超える事のできなかった一線を超えることが出来て勝利し、とても興奮しておりました。
「主は、いと高き所から御手を伸べて私を捕え、私を大水から引き上げられた。主は私の強い敵と、私を憎む者とから私を救い出された。彼らは私より強かったから。彼らは私のわざわいの日に私に立ち向かった。だが、主は私のささえであった。主は私を広い所に連れ出し、私を助け出された。主が私を喜びとされたから。」(詩篇18:16-19)
主はまことに良き方、私達を救われ、広々とした良き地へと導かれるお方です。ハレルヤ!
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
38年の頑固な病も綺麗に落ちる(ヨハネ5:1-9):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
城壁の内側に住まわせるべき人とは(ネヘミヤ7章):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
1ヨハネ3:4-9:右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:神の指 - ぶよの災い(出エジプト記8:16-19):右クリックで保存
『主はモーセに言われた、「あなたはアロンに言いなさい、『あなたのつえをさし伸べて地のちりを打ち、それをエジプトの全国にわたって、ぶよとならせなさい』と」。』(出エジプト記8:16)
エジプト第三の災いは、ぶよの災いである。
ぶよはヘブライ語でkane、元来「固着させる」という意味であり、蚊やシラミなど、体にまとわりついて血を吸う虫をさす。
モーセ達はエジプトの地のちりを打ち、それは人や動物にまとわりつく虫となって、エジプト全土に満ちた。
呪法師たちも同じ事をしようとしたが、出来なかった。
この虫はエジプト人にまとわりつき、清潔さを第一とするエジプト人には実に忌々しい災いであったばかりでなく、エジプトで聖とされる動物にもまとわりつき、エジプトの神々にも、屈辱的敗北であった。
『魔術師らはパロに言った、「これは神の指です」。しかし主の言われたように、パロの心はかたくなになって、彼らのいうことを聞かなかった。』(出エジプト記8:19)
この魔術師らの名は、ヤンネとヤンブレと言われており、彼らはパロの家にもぐり込み、人々を真理から遠ざけていた。
彼らのような者達は、いつの時代にもおり、いつも真理に逆らって、人々を自分の元に引き寄せては、迷いの道へと向かわせている。
彼らのような者達は、一定以上進むことが出来ず、やがてその愚かさが暴露され、それが多くの人に知れる事となる。(2テモテ3:6-9)
彼らはモーセ達を通してなされた奇跡を、神の指のわざだと言った。
イエス様も言われた。
『わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。』(ルカ11:20)
主はキリスト者たちを通して生きて働かれ、その神の指のわざによって多くの良き働きがなされているが、その一方で、それを見ながら心頑なにしてあくまで自分の考えを手放さない者達もいる。
しかし、あくまで自分の主義主張を御前に手放さない者は、災で打たれる事が待ち受けている。
人が栄華の極みにあり、いかに傲慢にふるまっていても、神の指が現れる時、人は全ての愚かさが明らかにされてしまい、その人はもはや、立ち行く事が出来なくなる。
ベルシャツァル王は、父王に働いていた神の偉大な御技を見ておきながら心低くせず、それどころか主の宮の器を使って人々に酒を振る舞うような高慢な事をしたため、手の先が現れて壁に文字を書き、その書かれた通りに彼は神によって数えられ、量られ、目方の足りないとされ、彼はその晩殺されて王国は分割されてしまった。(ダニエル5章)
しかしイエス様は、人の罪や弱さをを覆って下さる。
姦淫の現場で捕らえられた女が、宗教者たちによってイエス様の前に引き立てられていった時、彼らはイエスに詰め寄って、「モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」と言ったが、イエス様は何も言わず、指で地面に何かを書いておられた。(ヨハネ8:1-11)
宗教者達は勝ち誇ったように、地面に指で書いておられるイエス様にしつこく問い続け、群集達もますますざわつく中、イエス様は静かに立ち上がった。
イエス様の声だけが響いた。
「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
場は凍りつき、年長者から一人一人、何も言わずに出て行き、野次っていた群集も、宗教者達も皆、すごすごと出て行き、地面に書いておられるイエス様と、女だけが残された。
「わたしもあなたを罪に定めない。」
イエス様は、聖なる宮を汚い見世物場に塗り替えてしまった宗教者達や、同調して騒ぎ立てた群衆を糾弾する事は無く、また姦淫の女を罪定めする事も無く、静かに人々の罪を指摘し、そして、静かに覆って下さった。
私達が、神の指によって書かれた内容によって神に量られるとしたなら、罪々は数えられ、御前に私達の目方は、絶対に足りない。
しかし主イエス様は、尊い血の代価で私達の死を、いのちで買い取って下さったのだ。
その女だけでなく、私達の罪の罰金をも払って下さり、憐れみで覆って下さったのだ。
イエス様は、憐れみによって、私達を裁きから勝利させて下さった。
「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
私達はイエス様の贖いの血潮を、軽んじてはならない。
礼拝説教メッセージ音声:かえるの災い(出エジプト記8:1-15):右クリックで保存
第二の災いは、かえるの災いである。
食卓や食器、ベッドにまでかえるが入り込むのは確かに不愉快だが、この災いには、それ以上の意味がある。
エジプトでは、かえるはヘケトという女神の化身で、聖獣の一つに数えられており、聖獣とされた動物を意図的に殺すと死刑に処せられたり、また、無意識に誤って殺してしまっても罰金が課せられるような時代もあった。
それ故、かえるがあちこちにあふれてしまうのは、不愉快であるだけではなく、「聖なる動物」を踏まないようにと、どうしようもなるのだ。
主は、エジプトの”女神”を用いて、エジプト人を打ったわけである。
パロはモーセに、主に願ってかえるを取り除くようにと願い、そうしたなら約束通りイスラエルの民を去らせ、主に犠牲を捧げさせる、と言った。
モーセは、いつそうして欲しいのかを聞いた。
単にかえるを呼び出すだけなら、エジプトの呪法師でも出来るが、その全てのかえるを、時間指定で除き去る、というのは、神にしか出来ない。
パロは「あす」を指定し、モーセはその通りにすると約束した。(出エジプト記8:8-11)
モーセはパロに約束した事で、主に叫び求めた。
パロに約束はしたものの、それは人間わざでは不可能な事である。もし明日、その通りになっていないとしたら、主の御名がすたる、と思ったのかもしれない。
しかし、主の御手に不可能な事は無い。主はモーセの言葉どおり、その翌日にかえるを死に絶えさせた。
モーセは、主が共におられて力強く御業をなさるお方である事を、それほど経験していないために、叫び求めたが、主と共に歩んでいくうちに、彼は主がいかに力強く真実なお方であるかを体験して行き、経験を重ねるごとに彼は大胆になって行く。
『主はモーセのことばのようにされ、かえるは家から、庭から、また畑から死に絶えた。これをひと山ひと山に積んだので、地は臭くなった。』(出エジプト記8:13)
エジプト人は、かえるが死体となってくれて、ほっとした事だろう。
もはや、自分達が神として大切にしていたかえるには力はなく、ただ臭いだけのお荷物である事を知る経験となっただろう。
『ところがパロは息つくひまのできたのを見て、主が言われたように、その心をかたくなにして彼らの言うことを聞かなかった。』(出エジプト記8:15)
パロはこのようにして、その配下であるエジプトの民に、さらなる災いの引き金を引いてしまう事となる。
現代でも、困った事が起こると牧師の所に来て祈ってほしいと要請するのに、いざ祈りによって災いが取り除けられると、主が成して下さった御業への感謝も、自分が主に約束した事もすっかり忘れて、もと通りの身勝手な生き方に戻ってしまう人は、実際に多い。
そういう人は、実に、出エジプト記に記されている通り、災いにつぐ災いによって打ち叩かれる事が待ち受けている。
私達は、わきまえのない動物のようであってはならない。
打たれなければ主の命令を守れないような者ではなく、自ら進んで主の御心を求め、喜んで主に仕えていく皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:血の災い(出エジプト記7:14-25):右クリックで保存
いよいよエジプトに降される10の災いのうちの最初の災い、血の災いが降る。
エジプトに降る災いの内の、はじめの3つは、モーセがアロンに命じて災いを降らせ、その後の3つの災いは言葉のみで降り、その後の3つの災いはモーセ自らの手の杖で行わせている。
『そして彼に言いなさい、『ヘブルびとの神、主がわたしをあなたにつかわして言われます、「わたしの民を去らせ、荒野で、わたしに仕えるようにさせよ」と。しかし今もなお、あなたが聞きいれようとされないので、主はこう仰せられます、「これによってわたしが主であることを、あなたは知るでしょう。見よ、わたしが手にあるつえでナイル川の水を打つと、それは血に変るであろう。』(出エジプト記7:16-17)
パロは既にその事を何度か聞いているのに、それを聞き入れなかった。
そのため、毎日の生活に必要な水が血に変わる事によって、誰の目にも見える形で災いが降された。
「彼はパロとその家来たちの目の前で、つえをあげてナイル川の水を打つと、川の水は、ことごとく血に変った。」(20節)
パロが朝ごとにナイルの水の所に出てくるのは、ナイルの神ハピを礼拝するためだったと思われるが、モーセ達がその川の水を打った事により、彼らが崇拝しているエジプトの神々が、パロと家臣たちの目の前で、打たれたのである。(民数記33:4)
それもエジプト人が嫌う羊飼いの杖によって。
ナイル川の水だけでなく、池など水の集まっている所、木の器や石の器にさえ、血が満ちた。
皆さんは恐らく、何かの器に血で満たして放置したような経験は無いかと思うが、そのような血が至る所にあるのは、どれほど胸が悪くなるような悪臭だったろう。
エジプトの全住人は血を見、それによって実生活は脅かされる事となり、モーセ達の事も知れる所となった。
水が血に変わる災いは、黙示録16章にも出てくるが、それは、聖徒達の血を流した者どもが、報いを受けるためである。
『それから、水をつかさどる御使がこう言うのを、聞いた、「今いまし、昔いませる聖なる者よ。このようにお定めになったあなたは、正しいかたであります。聖徒と預言者との血を流した者たちに、血をお飲ませになりましたが、それは当然のことであります」。わたしはまた祭壇がこう言うのを聞いた、「全能者にして主なる神よ。しかり、あなたのさばきは真実で、かつ正しいさばきであります」。』(黙示録16:5-7)
神の裁きは不当だ、エジプトに災いを降す神はひどい、と言う人はいるが、神の裁きは正しく真実である。
エジプトに災いを降す神はひどい、と言う人は、エジプトが400年もの間、誰を苦しめ、誰の血を流してきたか、裁きを受ける側が今まで何をして来たのかが、すっぽりと抜けている。
血を流す者は、必ずその血の報いを受ける事になるのだ。
『エジプトの魔術師らも秘術をもって同じようにおこなった。しかし、主の言われたように、パロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞かなかった。パロは身をめぐらして家に入り、またこのことをも心に留めなかった。』(出エジプト記7:22-23)
モーセ達は神の御業を行い、ナイル川の神は人々の面前で敗北し、多くのエジプトの民も、血となった水の故に生活に支障をきたしたのに、結局、世の知者達のあさはかな”立証”によって、神の大いなる御業を”説明可能なもの”として貶めてしまった。
パロはそれ故にかたくなになり、このこの事を心にも止めなかった。
この世のいわゆる知者も、神の存在を否定する事でやっきになり、多くの人々を神から遠ざけているが、やがて彼らは、全能の神から否定される側となってしまう。
結局パロは、朝ごとに礼拝を捧げているのは形だけであり、彼の「神」を敬ってもいなかったし、民を思いやっているのでもなく、ただ単に、自分の思い通りに行きたいだけなのだ。
そのように傲慢で頑なな者には、災いが絶えることは無い。
「幸いなことよ。いつも主を恐れている人は。しかし心をかたくなにする人はわざわいに陥る。」(箴言28:14)
心かたくなにする者ではなく、主を恐れ、主に対して心を開き、幸いを得る皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!