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メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:最初の会合 - パロに飲まれてしまったモーセ(出エジプト記5:1-14):右クリックで保存

いよいよモーセとパロ、最初の対面である。
『その後、モーセとアロンは行ってパロに言った、「イスラエルの神、主はこう言われる、『わたしの民を去らせ、荒野で、わたしのために祭をさせなさい』と」。』(出エジプト5:1)
この時の彼は、心の中に恐れがあったにせよ、正しく主の言葉を伝えた。
外見的・社会的にはパロのほうが上に見えるかもしれないが、モーセ達の側、そして私達の側には、万軍の主がついておられ、私達にもキリスト・イエスにあって同じ主がついておられる。
私達もその御心を正しく伝えなくてはならない。

それに対しパロは答える。
「主とはいったい何者か。わたしがその声に聞き従ってイスラエルを去らせなければならないのか。わたしは主を知らない。またイスラエルを去らせはしない」。(5:2)
これが世の者の典型的な答えで、言う前から容易に想像できる返答である。
私達も、その返答をされるであろう事が見えすぎる故に、多くのキリスト者は、神をあかしする事を躊躇してしまう。

しかし、この最初の第一声、「神である主はこう言われる」という「神のあかし」が無ければ、どうして神の国を広める働きが起きるだろうか。
自分がキリスト者であることを友人に伝える事なしに、あるいは、日曜は主を礼拝するべき事を職場の人に伝える事なしに、どうして神の国の物事が始まるだろうか。
神の言葉は、折が良くても悪くても伝えるべきである。

パロに限らず、世の悪しき者は「主を知らない」と言い、そして、自分がどれだけ傲慢なのかも知らない。
エジプトが大国になれたのはヨセフのお陰だったし、パロが高い座に座って楽をしていられるのもイスラエル民族が働いてくれたお陰だったし、すべての恩恵は、イスラエルの神、主から来たものである。
それなのに、自分が恩恵を受ける根源である神の民に、彼ら世の者たちは常に恩を仇で返し、彼らの王であるサタンは、偽りによって神の民を恐怖させ、威張り散らして奴隷にさせようとする。

このパロの返答に、モーセは弱気が出てしまった。
「ヘブルびとの神がわたしたちに現れました。どうか、わたしたちを三日の道のりほど荒野に行かせ、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください。そうしなければ主は疫病か、つるぎをもって、わたしたちを悩まされるからです。」(出エジプト記5:3)

モーセは「どうか(we pray thee)」という言葉を使ってお願い口調になってしまい、しかも、「そうしなければ主は疫病か、つるぎをもって、”わたしたちを”悩まされる」と、主が言った事と逆のことを口走ってしまった。
主は、もしパロが拒むなら「わたしはあなたの子、あなたの長子を殺す」(4:23)と言われたのに、その反対、自分達に災いを招くような事を告白してしまった。

このように、真実を逸して自分を低く見積り告白する事は「謙遜」ではなく「卑屈」であり、その卑屈さがサタンを付け上がらせ、敵に勢いを与え、さらに、その人を踏みにじらせるための足場を与えてしまう事になるのだ。
『エジプトの王は彼らに言った、「モーセとアロンよ、あなたがたは、なぜ民に働きをやめさせようとするのか。自分の労役につくがよい」。』(出エジプト記5:4)

悪しき者が勢いづいた時とは、偉大な指導者モーセも偉大な大祭司の父アロンも、労働すべき一労働者として罵倒してしまうものなのだ。
私達の立ち位置は、主イエスにあって選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民である(1ペテロ2:9)が、私達も悪しき者の虚勢に飲まれてしまうと、彼らの奴隷に成り下がってしまう。よくよく気をつけなくてはならない。

パロはさらに言った。
「この人々の労役を重くして、働かせ、偽りの言葉に心を寄せさせぬようにしなさい」。(出エジプト記5:9)
敵は、主の言葉を「偽り」に思わせ、パロの力が絶対であるかのように思わせる。労役を重くし、思考停止させる事によって。
実際にその後暫くの間、イスラエルの民は、調子に乗ったパロによって、以前よりも悪い状態にされてしまったが、主を主としているのであれば、それも永続するものではない。
この日本に働く霊も、労役を重くし、思考停止させる事によって多くの人達を支配しているが、私達は主にとりなし、叫ぶ事を止めてはならない。

モーセはパロの前に出た時、相手の勢いに飲まれてしまい、最初の対面は惨めな結果に終ってしまった。しかしそれは、取り返しのつかない失敗ではない。
私達も、あまりに奴隷生活や労働生活が長かったりすると、この世の権威ある者の前に立たされた時、動揺して主から預かった言葉を見失ったり、命じられた事をうまく伝えられなかったりするが、主は、そのような私達の弱さも成り立ちもご存知である。

モーセは動揺していて、杖を蛇に変える奇跡さえ行い忘れていたが、神は後にパロの口で「不思議をおこなって証拠を示せ」と言わせ(7:9)、当初の主のご命令どおりに、モーセをして不思議を行わせた。
主は憐れみ深く、私達の成り立ちや弱さをご存知であり、必ず助けの道を与えて下さるお方である。

「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」(1コリント10:13)

礼拝説教メッセージ音声:肉を削ぎ落とす事の重要性(出エジプト記4:24-31):右クリックで保存

『さてモーセが途中で宿っている時、主は彼に会って彼を殺そうとされた。その時チッポラは火打ち石の小刀を取って、その男の子の前の皮を切り、それをモーセの足につけて言った、「あなたはまことに、わたしにとって血の花婿です」。そこで、主はモーセをゆるされた。この時「血の花婿です」とチッポラが言ったのは割礼のゆえである。』(出エジプト記4:24-26)
主はモーセに、エジプトへ行ってパロからイスラエルの民を救い出す事の役割を任じられたばかりなのに、なんとそのすぐ後、主はモーセを殺そうとされたのだ。
これは一体どういう事だろう。

それは、モーセ自身が子に割礼を施していなかった事にある。
神は義なるお方であり、いかに神の選びの民であろうとも、不従順を続けて改めないなら、その報いをされるお方。それは、いかに特別な役割を任じられたモーセであろうと、王として油注がれたサウル王であろうと、主に愛されたダビデであろうと、である。
人は何かと、愛なる優しい神、憐れみ深い神をイメージして、祝福が欲しい、下さい、とよく求めるが、自分達の側が果たすべき責任や、取り除くべき罪を、忘れてはならない。

神は確かにアブラハムとその子孫に祝福を約束されたが、その契約は、人の側が果たすべき責任も、すなわち、割礼を守る事も、含まれる。
割礼のしるしは神との契約のしるし、すなわち契約書の印鑑のようなもので、それは世々に渡って守るべきであり、家で生まれた者も、買い取った異邦人も、生まれて八日目に受けなければならず、「割礼を受けない男子、すなわち前の皮を切らない者はわたしの契約を破るゆえ、その人は民のうちから断たれるであろう」とさえ言われている。(創世記17:9-14)
ましてや、60万以上の民の先頭に立つモーセ自身、自らこの割礼を守っていないとなると、どうして彼は、神と人との前に示しがつくだろうか。

割礼を施したのは、ミデヤン人の妻・チッポラであった。
彼女が咄嗟の機転で割礼を施したからには、割礼の重要性をモーセから聞いていたはずである。それなのに、生まれてから八日目の割礼を受けさせていなかったのは、どういう事だろう。
もしかしたら、モーセが子に割礼を受けさせようとした時、彼女は「わたしの子は関係ない」「子にそんな事させないで」と言っていたのかもしれないし、あるいは、モーセのほうが不従順だったのかもしれない。
いずれにせよ、息子は割礼を受けておらず、断ち切られる対象だったため、神はモーセを殺そうとされ、そしてチッポラが割礼を施した時、神は彼を放された。

ヨシュア記を読むと、イスラエルの民はモーセと違って、エジプトで割礼を受けさせていたようだ。(ヨシュア記5:2-9)
出エジプトした民がいよいよ約束の地、乳と蜜の流れる地へ入ろうとヨルダンを渡った直後、主は民に割礼を受けるよう命じられた。荒野で生まれた世代は皆、割礼を受けていなかったためである。
『その時、主はヨシュアに言われた、「きょう、わたしはエジプトのはずかしめを、あなたがたからころがし去った」。それでその所の名は、今日までギルガルと呼ばれている。』(ヨシュア記 5:9)

割礼とは、肉(生来の罪に傾く性質を持っている肉体の力や考え方など)を削ぎ取る事である。
『外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。』(ローマ2:28-29)
神の民となるには、肉を削ぎ落とす「割礼」が必要である。

今、皆さんは、肉の生活、すなわち、罪の奴隷生活から脱出しようとしているだろうか。
主が約束して下さった、乳と蜜の流れる地を慕い求め、約束の地に入る心づもりは出来ているだろうか。
そうであるなら、礼拝を軽んじる心や、神様の御言葉を軽んじる心を切り取って、心の割礼を施し、安息と祝福の地に入るに相応しい者となろうではないか。

限られた時の合間に(伝道者の書3:1-8)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

時間とは、時(とき)の間(ま)と書くが、限られた時の合間に何をするかによって、永遠の行き先が決まる。
時間の合間は「間合い」と呼び、時間的間合いの他に、空間的間合い、心理的間合いもある。
武道において、この間合いは無視してはならない大切な要素で、間合いの取り方が下手は人は負け、惨めな結果になってしまうが、それは武道に限らず、人間関係や人生においても、そうである。
自分が剣で相手が槍なのに、自分の剣の間合いで戦いを仕掛けるなら、必ず負けてしまうように、相手のバックグラウンドを考慮せず、いつも自分のペースで望む人は、負け続け、みじめになり続けてしまう。
親しくもない相手に初対面から間合いを詰めすぎて馴れ馴れしく接するなら怒りを買ってしまう。かといって、親しくすべき相手に遠慮し過ぎて、間合いを遠ざけて しまうのも、また良くない。
ようするに、自分の固定概念を捨て、相手をよく見た上で、自分との関係(間合い)を考え、相手に接することが大事である。そして間合いは時間と共に流動的に変化するもので、それをうまく見極めてやりくりする人は、必ず成功する。このように、武道や人間関係にいおいても、自分を降ろし、相手を良く見極めて対応できる人は成功するが、ただ、私達キリスト者が最も注目し大切にすべきは、神の時、神との関係である。

皆さんは主イエス様と相対する時、正しい位置関係、正しい間合いを取っているだろうか。主との正しい位置関係とは、常に主が上であり、自分は常に下。主が先であり、自分は後である。自分の”命”(プシュケー:思い、意思、感情)を日々、主の御前に捨て、自分の十字架を負って主に従うなら、その”命”を得るが、主の御前にあくまで自分の思い、意思、感情を手放さないなら、それを失ってしまう。(ルカ9:23-25)
主との間合いは、私達の霊的成長の度合いによって変わってくる。
はじめ救われた時のイエス様と間合いは、先生と生徒、主人と僕の関係(ヨハネ13:12-17)だが、主の命じる通り行うなら、一歩んで「友」の関係になり(ヨハネ15:14)、友の関係になるなら、ただ命じられて行うというのではなく、友なる主の望んでおられる事を自ら汲み取り、心からその事をしたい、と思うようになる。
さらに優れた間合いは、「兄弟」の関係である(ヨハネ20:17)が、兄弟の関係になるには、ヨハネ15章と20章の間の出来事、すなわち十字架の経験が必要であり、十字架の経験とは、自分の”命”(プシュケー:思い、意思、感情)を日々、主の御前に捨てる事である。
主とより親しい関係に入りたいのなら、まず自分を捨てる所から、である。

「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。」(伝道者の書3:1)
スポーツや戦いで名場面と言われるものは大体、時機に叶った時に時機に叶った事をする場面である。
時機に叶った攻撃は、大勝利をもたらす。例えこちらが劣勢であっても、時機を突けば勝つことは可能だ。
神のなさる事が美しいと感じるのは、神がなさる事は全て、時に叶っているからである。(伝道者の書3:11)
時に叶っていない事をするのは、美しくない。美しくない人とは、為すべき時にそれをせず、いつも自分流に、自分の好き勝手な事をする人で、その人は大体において敗北し、不幸になってしまう。
サウル王は待つべき時に待たず、いけにえを捧げてはならぬ時に捧げ、食事させるべき時に断食を強いるような「時に叶っていない事をする」達人(1サムエル13−14章)だが、ようするに、自分の時、自分のやり方を、人や神に押し付けるような「身勝手な礼拝」は不幸をもたらし、「美しくなさ」を周囲に振りまくのみだ。

皆さんは、主の時を見極めているだろうか。主の時とはすなわち、永遠の中で今しかない「今」である。
今は恵みの時、救いの時である。その今、自分を捨てて主を第一としているだろうか。
生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。生まれる予定日はあっても、死ぬ日はいつか分からない。
しかし確実に言えるのは、「きょう」の「今」時点、わたしもあなたも生きている、という事である。
「あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。」(ヘブル3:13)「きょう、み声を聞いたなら、/神にそむいた時のように、/あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。」(同15節)
恵みの時、救いの日に、主の御声に聞き従い、きょう、と言われている間に互いに励まし合って、共に御国への歩みを進めていく皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
罪を治めよ(マタイ26:20-25):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:子を去らせよ、さもなくば・・・。(出エジプト記4:18-23):右クリックで保存

主は確かにモーセを怒られた。しかし主は兄アロンという助け人を備え、モーセが弱さを覚えている所、口下手な所を、カバーして下さった。
それでモーセは、しゅうとのイテロの所を出てエジプトへ向かう気になったのである。
主は私達の過去の傷と弱さを知り、憐れみ、無理なくそこを乗り越えさせて下さる。

そして主は、かつてエジプトで命を狙われていた事に対する恐怖するモーセに、もう安全だと宣言された。
『主はミデヤンでモーセに言われた、「エジプトに帰って行きなさい。あなたの命を求めた人々はみな死んだ」。』(出エジプト記4:19)
主は、私達の過去の傷や、その時以来染み付いてしまった恐怖から解き放たせて下さる段にあたり、いきなり私達の許容範囲の事は要求されないし、私達が恐れて尻込みしてしまっても「なんて信仰の無い」と怒ったままではなく、別の助けの道も備えて下さる。

『主はモーセに言われた、「あなたがエジプトに帰ったとき、わたしがあなたの手に授けた不思議を、みなパロの前で行いなさい。しかし、わたしが彼の心をかたくなにするので、彼は民を去らせないであろう。』(出エジプト記4:21)
パロは最初の接触では、イスラエルの民を去らせない事も再度言われた。それを知りつつも、実際にそれが起きた時の彼らの落胆は、非常に大きなものだった。
しかし主は、さらに大きな御業を用意しておられ、カバーして下さるのである。

モーセにとってパロは大きな恐怖の存在だったかもしれないが、主は、恐怖の対象を見つめるのではなく、主がなさる大きな御業に目を留めるように言われた。
私達も、目の前の恐怖の対象を見つめ続けるなら、ただ尻込みして動けないだけだが、主が為して下さった恵みの数々に、主が成して下さる大きな御業に目を留めるなら、私達も進むことが出来るのだ。

『あなたはパロに言いなさい、『主はこう仰せられる。イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。』(出エジプト記4:22)
イスラエルの民は、全人類に対して長子である。なぜなら、全人類はアブラハムの子孫を通して祝福され、救いへと入るからだ。

そして私達・イエスキリストを信じる聖徒達も、真にアブラハムの子孫であり(ガラテヤ3:7)、神の子とされたのである。
『あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。』(ローマ8:15−17)

御霊に導かれるなら、私達も神の子であり、それはエジプトが強いたような奴隷にする霊ではない。父なる神様を親しく「アバ」と呼ばさせて下さる霊である。
そして、子であるからには相続人であり、相続人であるからには、その大いなる神の子としての権利を活用すべきだ。

『わたしはあなたに言う。わたしの子を去らせて、わたしに仕えさせなさい。もし彼を去らせるのを拒むならば、わたしはあなたの子、あなたの長子を殺すであろう』と」。』(出エジプト記4:23)
なんとも強気な言葉である。
社会的に見れば、モーセは一介の羊飼いの老人、パロは大国の王であり、かなうはずも無いのに、神がそう宣言せよと言うからには、私達も強気に御言葉を宣言しなくてはならない。
たとい自分がいかに社会的地位がなくとも、相手がいかに大国の王であろうとも。

皆さんは、世を支配する王に、奴隷とされて来ただろうか。縛られてきただろうか。搾取されて来ただろうか。
あるいは、皆さんの愛する家族や兄弟姉妹たちが、今、サタンに縛られたり、病や貧困、罪などの奴隷とされたり、いらぬ搾取をされたりしていないだろうか。
その時は、主イエスの名によって、世を支配する悪しき王達に、すなわちサタンに、宣言するべきである。
神の子達を、そこから去らせよ、と。束縛から解いて、神を礼拝させよ、と。
もし去らせるのを拒むなら、エジプトの子らを殺した主が、おまえの子たちを殺す、と。

『あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。私たちは御使いをもさばくべき者だ、ということを、知らないのですか。それならこの世のことは、言うまでもないではありませんか。』(1コリント6:2-3)

『最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。』(エペソ6:10)

霊的武具をしっかり身につけ、聖徒達を束縛しているパロの霊に主イエスの名によって「聖徒達を解き放て」と命じ、罪の束縛にあえいでいる聖徒の鎖を主イエスの名によって打ち砕き、ハデスの門さえ恐れず、暗闇の世界から大胆に分捕り、多くのたましいを主イエスのもとへと引き連れて行く皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:あなたが語るべき事を教える(出エジプト記4:10-17):右クリックで保存

『モーセは主に言った、「ああ主よ、わたしは以前にも、またあなたが、しもべに語られてから後も、言葉の人ではありません。わたしは口も重く、舌も重いのです」』(出エジプト記4:10)。
彼はエジプトのあらゆる学問を教えこまれ、言葉にもわざにも力があったはずだが(使徒7:22)、今や、口が重く舌が回らなくなってしまった。
神の民を救うには当然、神の言葉を仰ぎ、神の力によらなくてはならないはずなのに、四十年前の彼は、自分の地位や力、自分の方法で救おうとしたために、徹底的に失敗し、人から拒絶され、その痛い経験ゆえに、言葉の人ではなくなってしまったのだ。

『主は彼に言われた、「だれが人に口を授けたのか。話せず、聞えず、また、見え、見えなくする者はだれか。主なるわたしではないか。それゆえ行きなさい。わたしはあなたの口と共にあって、あなたの言うべきことを教えるであろう」。』(出エジプト記4:11-12)


モーセ自身がつい先程、神には人の体を病にかからせたり、それを瞬時に癒す力のある御方であると、自分自身の体で体験したはずである。
モーセはそれでも言う。「ああ、主よ、どうか、ほかの適当な人をおつかわしください」。(13節)
これに対し、神は怒りを燃え上がらせた。

モーセは主ご自身が遣わすのであり、主もモーセと一緒にエジプトへ降る、と、前章で主は言われていた。
また、主は「有りて有る」お方である事を知らせ、そして彼をめぐってイスラエルやエジプトがどのような行動を取るのかも、あらかじめ示されていた。
さらには、モーセの手にしるしを為す力さえ授けたのに、それでも「ほかの適当な人をおつかわしください」と言った。それは謙遜さではない。
主がそこまで示して下さったのに、なお断るというのは、愚かさである。

そこで主は、モーセの口をもはや用いず、彼の兄アロンを預言者として用いられ、モーセは彼に対して神の代わりとする。
『あなたは彼に語って言葉をその口に授けなさい。わたしはあなたの口と共にあり、彼の口と共にあって、あなたがたのなすべきことを教え、彼はあなたに代って民に語るであろう。彼はあなたの口となり、あなたは彼のために、神に代るであろう。』(出エジプト記4:15-16)

神はなぜ、体力気力盛んな40歳のモーセを用いず、80歳の弱くなったモーセを用いられたのか。
それは、身分の高い者や権力のある者、強い者を辱め、御前に誰も誇らせる事なく、ただ主をのみ誇らせるためである。(1コリント1:26-31)

私達はいつも、主の憐れみによって生かされている事、まことのぶどうの木である主イエスに繋がっていなければ、主の御前には何も成し得ない事を、忘れてはならない。

今日、第一ヨハネの手紙5章の聖書の学びをしていて分かった事を少しお分かちします。
口語訳では、7-8節は以下の通りです。

「あかしをするものが、三つある。
御霊と水と血とである。そして、この三つのものは一致する。 」

新改訳も新共同訳も似たようなもので、あまりしっくり来ないのですが、KJV(欽定訳聖書)をそのまま訳すると、以下のようになります。

「天において証しする3つのものがある。御父、御言葉、聖霊で、それら3つは一つである。
地において証しする3つのものがある。御霊と、水と、血で、それら三者の意見は一致する」

こちらだと、実にわかりやすいですね。

このような違いが出るのは、KJVは伝統的な底本(TR:Textus Receptus)を元にしているのに対し、新改訳や口語訳、新共同訳は、ネストレなど新しい底本を元にしているからです。

ちなみにちょっと古いですが、永井訳もTRを元にしている、実に良い訳の聖書です。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
イエスの名によって立ち上がれ(使徒3章):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:神の使者としてのしるし(出エジプト記4:1-9):右クリックで保存

『モーセは言った、「しかし、彼らはわたしを信ぜず、またわたしの声に聞き従わないで言うでしょう、『主はあなたに現れなかった』と」。』(出エジプト記4:1)
前の章で神は「わたしがあなたを遣わす」「わたしはあなたと共にいる」と言われたのに、モーセはまだまだ不安だった。
もしパロやイスラエル人が、自分の言う事を気違いのざれ言のように受けてしまったら、そもそも何も始まらないのではないか、と。
そこで神は、神がモーセを使者として任じた事の証拠として、3つのしるしを与えられた。

一つ目のしるしは、彼が日常的に使っている羊飼いの杖を、蛇に変えるしるしである。(出エジプト記4:2-4)
蛇といえば真っ先にサタンを思い浮かべるが、一体なぜ神は、羊飼いの杖を蛇に変えたのか。
そしてなぜそれが、神がモーセを認証された事のしるしとなるなのか。

人がよく勘違いするのに、神とサタンは対等の勢力で、神は優勢の時もあれば劣勢の時もある、という考えがある。
それは大間違いで、神はサタンより絶対的に上に位置し、サタンは神に許可を得て動く他に無い。(ヨブ1章)
神はサタンに活動許可を与えて放つ事も出来れば、サタンをもつかんで封じる権威もあるのだ。

モーセもまた、蛇を地に放つ事も出来れば、蛇をつかんで羊飼いの杖にもすることが出来る事を、人々に示す事によって、彼にも神と同じような権威が与えられている事を示したのではなかろうか。
そして、私達にも蛇をもつかむ権威が与えられている。(マルコ16:18)
私達が羊達を支配する道具である杖を放棄し、地に放り投げてしまうなら、それは蛇となってしまい、サタンの野放し状態になってしまう。
私達はそうあってはならず、それを掴み、罪を治めるべきである。

神が与えた二つ目のしるしは、「らい病」という、律法上汚れた病をも支配するしるしである。(出エジプト記4:6-8)
杖を蛇に変えるだけなら、エジプトの呪術者でも出来たし、人間を病や汚れ災いで打つのはサタンの十八番であるが、汚れた病を清くする事など、サタンや悪しき霊の性質ではない。ただ、いのちの君なる主のご性質である。
それだから主は「彼らがもしあなたを信ぜず、また初めのしるしを認めないならば、後のしるしは信じるであろう。」と言ったのだ。
主は、人の病や罪、汚れをきよめ、義として下さるお方である。それは、どの呪術者にも、どの世の神々にも、出来る事ではない。

三つ目のしるしは、ナイルの水を血に変えるしるしである。
ナイルの水と言えば、イスラエルの男の子がエジプトによって大勢殺された、あの水である。
それが血に変わるのをエジプト人が見たなら、彼ら自身の罪を思い起こさせる事となり、神の正しいさばきが成される事を意味する。

このように、これら三つのしるしによって、神は確かに正しくさばかれるお方であり、サタンをも御手の内で支配し、病を癒し、罪けがれを清めて義とする権威のある御方であると示し、そして、モーセこそ神が遣わされた使者であると、人々に明らかにされるのである。
神が遣わされる御国の使者は、罪について、義について、裁きについて、世にその過ちを示すのだ。(ヨハネ16:8-11)

それはモーセだけでなく、イエスを信じる私達にも、その役割と権威が授けられている。
『信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる」。』(マルコ16:17-18)

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
1ヨハネ2:24-29:右クリックで保存

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