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礼拝説教メッセージ音声:奴隷からの解放(出エジプト記12:29-36):右クリックで保存
今日の箇所をもって、イスラエル民族はついに、400年も続いたエジプトでの奴隷状態から解放された。
『夜中になって主はエジプトの国の、すべてのういご、すなわち位に座するパロのういごから、地下のひとやにおる捕虜のういごにいたるまで、また、すべての家畜のういごを撃たれた。それでパロとその家来およびエジプトびとはみな夜のうちに起きあがり、エジプトに大いなる叫びがあった。死人のない家がなかったからである。』(出エジプト記12:29-30)
主が最後の災いを執行された時、エジプトには死人のない家がなかった。例えば父親が長子なら、父親も、長子も、死んだわけである。
それも、身分が上の者から下の者まで、さらに、家畜に至るまで。
エジプト人に大きな恐れが沸き起こり、「われわれはみな死ぬ」と思ったため、イスラエル人を躊躇せず追い出した。
神は元々、長子だけを狙い撃ちせずとも、エジプトを全滅させる事も、たやすかったのだ。
しかし、神はそんな無差別殺戮などはせず、前もって警告を与え、軽い災いから一つづつ災いを与えて忍耐深く懲らしめたにもかかわらず、エジプトは9度も頑なになったため、遂にこのような決定的な災いが起こるに至ってしまったのだ。
『そこでパロは夜のうちにモーセとアロンを呼び寄せて言った、「あなたがたとイスラエルの人々は立って、わたしの民の中から出て行くがよい。そしてあなたがたの言うように、行って主に仕えなさい。あなたがたの言うように羊と牛とを取って行きなさい。また、わたしを祝福しなさい」。 』(31-32節)
パロは今回はさすがに自分の意見を混ぜたりする事なく、全面的にモーセの言う通りにさせ、出て行かせ、主に仕えさせた。
しかも、わたしを祝福しなさい、と付け加える事を忘れなかった。
モーセがパロの祝福を祈ったとして、もし、パロの家が平安にふさわしかったなら、パロの家に祝福が来ただろう。
しかし結果的にそうでなかった所を見ると、パロは祝福されるには相応しくない家であり、その祝福は、モーセの所に返って来たようである。(マタイ10:13-14)
『そしてイスラエルの人々はモーセの言葉のようにして、エジプトびとから銀の飾り、金の飾り、また衣服を請い求めた。主は民にエジプトびとの情を得させ、彼らの請い求めたものを与えさせられた。こうして彼らはエジプトびとのものを奪い取った。 』(35-36節)
これは、創世記15章の時代から、すなわち「イスラエル民族」がまだアブラムとサラのわずか二人だけだった頃から、既に主から示されていた事である。(創世記15:13-14)
そして、その主が何百年か前に約束された事が、今日の箇所で実現したのである。
『あなたは聞かなかったか、昔わたしがそれを定めたことを。堅固な町々を、あなたがこわして荒塚とすることも、いにしえの日から、わたしが計画して/今それをきたらせたのだ。』(イザヤ37:26)
イスラエル人が出ていく事をエジプト人は喜び、それも、金銀や衣服を喜んで与えてやった。(詩篇 105:37-38)
イスラエル人の中で、最も弱気な人であっても、400年分の溜まりに溜まった給与を、堂々と請求できたのである。
主はそこまで徹底的に真実なお方であり、約束を必ず果たして下さるお方である。
今日は私の祖母(来年1月で96歳)や両親に、クリスマスメッセージを届けに、つくば市まで往復しました。
首都高はいつも苦手です。今日も違ったルートに入ってしまったり渋滞に捕まったりで大変でしたが、祖母や両親と、とても祝福された交わりが出来て、行ってみて良かったです。
祖母は、毎日私のために祈っていると言っておりました。
私の働きがこうして祝福の内に守られている秘密は、それです。
口を閉ざされたザカリヤ(ルカ1:5-80)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
主イエスが降誕されるにあたって、最初にしるしが現れたのは、ザカリヤとエリザベツの老夫婦にであった。
ザカリヤは主の御前で正しい人だったが、彼には子がなかった。(ルカ1:6-7)
ザカリヤは、子が与えられるように、ずっと祈っていた。結婚したばかりの若かりし頃から、歳を取るにつれその祈りは必死になって行ったであろう。彼より正しくない大勢の人達にはどんどん子が与えられ、その子たちは成長しているのに、ザカリヤ夫婦にだけは、与えられていない。
そのまま何もなく、ただ歳だけ取って行くが、産むのが難しい年齢に達しても、彼らは祈っていた。
それでも彼らは、主の御前に誰よりも凛々しく立ち、戒めと定めを落ち度なく行っていた。
そんなある日、ザカリヤは日毎の香を捧げる役割が、くじによって決まったため、その役目をする事となったが、聖所に入った時、なんと、香壇の右に御使いが立っているのを見た。
恐怖に襲われている彼に御使いは言う。「恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈が聞きいれられたのだ。あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名づけなさい。」(13節)
子が与えられること、それは老夫婦の長年の願いであったが、神はそれ以上の事をご計画されている。
その子は、御前に大いなる者となり、胎内にいる時から既に聖霊に満たされており、イスラエルの民の多くを、主なる神に立ち帰らせる。しかも彼は、エリヤの霊と力をもって御前に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、そうして整えられた民を、主に備えるというのだ。
人は周囲を見て、容易に手が届きそうな、人並みのささやかな幸せを求めがちだが、主を愛し恐れる人達に、主が 用意しておられるご計画は、途方もないもの、にわかには信じ切れない次元のものである。
「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」(1コリント2:9)
乙女マリヤもそうだったが、そんな破格なスケールの主のご計画を受けた時、人は困惑してしまう。
「どうしてそんな事が、わたしにわかるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」
彼は主の言葉に対し、自分達の状況と主の言葉とを天秤にかけ、自分が理解する事を要求してしまった。
そんな彼に与えられたしるしは、この事が実現する日まで、口が閉ざされ物が言えなくなる事だった。
御言葉を疑い、「自分が」理解したがる人に与えられるしるし、それは、その口が閉ざされる事である。
せっかく素晴らしいお告げとビジョンが示されたのに、唇が閉ざされてしまって、それを流暢に人に伝える事が出来ないのは、かなりのもどかしさであろう。
しかし意外と、多くの言葉をまくし立てるより、筆談だけのほうが、効果的に相手に伝わるものだ。
蒔かれた種のいのち、主が「こうなる」と言われた事は、寝て起きて、そうこうしている内に育つものである。
多くの言葉でまくし立てずとも、沈黙していても、御業は必ず実現する。その時をじっと待つのが良い。
「さてエリサベツは月が満ちて、男の子を産んだ。」(ルカ1:57) 後継者なき老夫婦に、男子が与えられるのは大きな慰めであり、人々はみなエリザベツと共に喜んだ。
人々がその子に父と同じ名をつけようとしたように、ザカリヤ自身も念願の子に自分の名前をつけたかっただろう。しかし彼らが、自分や他人の望みを手放し、主に言われた通り「その子の名はヨハネ」と公に示した時、ザカリヤの口は開かれた。そして、真っ先に彼の口から出たのは、神への賛美と、預言だった。
自分を降ろして従順を学び、神と人との前で、御言葉の通りに行うその時、主の素晴らしさはさらに明らか意とされ、賛美の口は開け、それも、真っ先に主を褒め称えたい程に、心が整えられるのだ。
ザカリヤはかつて御使いに、自分が「理解」する事を要求し、それによって口をつぐまされてしまったが、その「要求」を止め、自分由来の言葉をつぐんだこの期間、彼はバプテスマのヨハネの父親として訓練され、練られたのだ。
ヨハネは成長すると霊は強くなったが、主が定めた時まで荒野におり、公に活動する日まで口をつぐんだ。
主の御業が成されるまで、自分の意見を言いたい唇は閉じ、理解したいという思いを手放し、御言葉に従順して主を待ち望み、御業が成された暁には真っ先に主を褒め称える皆さんでありますように!
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
ヨシャパテの祈り(2歴代18−20章):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:ほふられた小羊を伝えよ(出エジプト記12:21-28):右クリックで保存
モーセは神から伝えられた事を、今度は、民へと伝えた。
『モーセはイスラエルの長老をみな呼び寄せて言った、「あなたがたは急いで家族ごとに一つの小羊を取り、その過越の獣をほふらなければならない。また一束のヒソプを取って鉢の血に浸し、鉢の血を、かもいと入口の二つの柱につけなければならない。朝まであなたがたは、ひとりも家の戸の外に出てはならない。』(出エジプト記12:21-22)
ヒソプ(ギリシャ語:ヒソポス)はヘブライ語のエゾブ(聖なるハーブの意)が由来で、抗菌、抗ウイルス、代謝促進、発汗の作用があり、古来より用いられている。
気管系の炎症を鎮め、体内の水分滞留を改善させ、不安や心配、緊張、ストレスなどを和らげる心理効果もある他、すり傷や切り傷などの炎症を抑える効果もある。
ダビデは「ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう。わたしを洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう。」(詩篇51:7)と祈ったが、実にこの効用をよく表している。
『主が行き巡ってエジプトびとを撃たれるとき、かもいと入口の二つの柱にある血を見て、主はその入口を過ぎ越し、滅ぼす者が、あなたがたの家にはいって、撃つのを許されないであろう。』(出エジプト記12:21-23)
血潮のしるしを境に、いのちと死がはっきり分かれる。ほふられた小羊の血の内側には、ごちそうと感謝があり、外側には死と叫びがあるのだ。
血潮の外に出てしまうと、いのちの保証は無い。それはイスラエル人であっても、異邦人であっても。
イスラエル人が滅ぼす者から害を受けなかったのは、彼らが正しかったからではなく、彼らが主の命令を守って血潮の内側に逃れていたからに他ならない。
そして私達異邦人も、ほふられた小羊キリストの血潮の内に助けを求めるなら、滅ぼす者から救われるのである。
『あなたがたはこの事を、あなたと子孫のための定めとして、永久に守らなければならない。あなたがたは、主が約束されたように、あなたがたに賜る地に至るとき、この儀式を守らなければならない。』(出エジプト記12:24)
小羊の血の内側に助けを求めて来る者への守りは永久であり、血潮の贖いの効力は永久であ。
そして贖われた人達は、ほふられた小羊を、永久に覚え、ほめたたえるのである。
『もし、あなたがたの子供たちが『この儀式はどんな意味ですか』と問うならば、あなたがたは言いなさい、『これは主の過越の犠牲である。エジプトびとを撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越して、われわれの家を救われたのである』」。民はこのとき、伏して礼拝した。』(出エジプト記12:26-27)
この儀式の意味を子供に問われた時、その返答の仕方をも、モーセはわざわざ教えている。
そう、ほふられた小羊の意味を正しく「伝える」事は、とても大事である。
モーセはこの祭りを長老たちに伝え、長老たちはそれぞれの民に伝え、そして、子々孫々へと伝えられて行った。
私達も、実の息子娘達にはもちろん霊的に生み出した子供達孫達にも、子々孫々に、ほふられた小羊キリストの意味を正しく伝え、その血潮の尊さ、贖いの尊さを伝えて行くべきである。
しかしイスラエル民族は残念ながら、この祭りを長くは守らなかった。
2歴代誌35章18節によると、預言者サムエルの時代からヨシヤ王の時代まで、つまり、ダビデの時代後半からバビロン捕囚近くに至るまでの長期間、過越祭は正しく行われていなかったのだ。
イスラエルが過越祭をぞんざいにし出した時期と、イスラエル国家が衰退し初めた時期は、ほぼ一致している。その事からも、この血潮の贖いを覚える事が、いかに重要であるかが分かる。
モーセは「これ(ほふられた小羊)は、主の過越の犠牲(いけにえ)である。」と子供たちに言うように指示した。
いけにえとは、神をなだめるために用いるものである。
過越の小羊は確かに人が食べたりいのちを救うためのものではあるが、それ以上にまず、神をなだめるためのものである。
『神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。』(ローマ3:25-26)
『こうして、ほとんどすべての物が、律法に従い、血によってきよめられたのである。血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。』(ヘブル9:22)
本来、ユダヤ人もエジプト人も、そして私達を含む人類全体も、罪の報いとして罰を受け、死ななければならないものだった。
しかし、まことの小羊の流された血潮によって神は完全になだめられた。
この血潮の内に逃れる者は全て、罪と滅びから逃れられるのである。
礼拝説教メッセージ音声:種なしパンの祭り - 除酵祭(出エジプト記12:15-20):右クリックで保存
過越祭に続き、神はイスラエル民族に「除酵祭」をも定められた。
『七日の間あなたがたは種入れぬパンを食べなければならない。その初めの日に家からパン種を取り除かなければならない。第一日から第七日までに、種を入れたパンを食べる人はみなイスラエルから断たれるであろう。』(出エジプト記12:15)
除酵祭は、過越の小羊がほふられる日に始まり、第一日と第七日に聖なる会合を開く。
その期間中、どんな仕事もしてはならず(食事を作る事は良し)、祭りの最初の日に、家の中からパン種を徹底して取り除き、七日間、種を入れぬパンを食べなければならない。その期間、種を入れたパンを食べる者は、イスラエルから断たれてしまう。
イスラエル民族は、過ぎ越の小羊をほふって食べた日から七日間、安息し、ただ兄弟姉妹の口に入れるもの、すなわち種を入れないパンを作る事以外は仕事をせず、安息するわけである。
私達キリスト者も、ほふられた小羊キリストを受けて以降は、世的なやりくりは止めて安息し、自分自身を純粋なパン種の入っていない者としてきよく保つのである。
『なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。』(ヘブル4:10)
酵母入りのパンに比べると、パン種の入っていないパンは見栄えはしないし、口に入れてみても最初は小麦粉の素っ気ない味しかしないが、噛めば噛むほど味わい深く甘くなって行く。
御言葉もそれと同じで、はじめに受けた時の印象は素っ気ないかもしれないが、それをじっくり噛み締めれば噛み締めるほどに甘く、良くなって行く。
イスラエル民族が種なしパンをじっくり味わったように、私達もじっくりと御言葉を味わう事を知るべきである。
パン種はパンの酵母、パン生地に入れてふくらますもので、これを入れたパンはふくらんで大きくなり、柔らかくなるが、発酵させるため、腐りやすくなる。
聖書でパン種は、大体良くない意味で使われる。
ゆえに、神の民の交わりにおいては、このパン種のような性質、すなわち外見を膨らまし、発酵させ、純粋さを失わせるような暗闇からの働きには、十分気をつけなくてはならない。
『あなたがたが誇っているのは、よろしくない。あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。
ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。』(1コリント5:6-8)
除酵祭において、最初の日に家の中から注意深くパン種を取り除いたように、キリスト者の集まりからも、世的な価値観を注意深く取り除かなくてはならない。(マタイ16:6-12)
なぜなら、「わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられた」からだ。
小羊がほふられて以降、7の日数が満ちるまで、安息してパン種を入れぬパンを食べ続ける事が定められている。
「わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられた」のであれば、まず自分のわざを終え、神の安息に入るのである。
私達は完成の日(7は完全数)まで、自分自身を純粋に保って行くべきであり、私達が地上で定められた日数が満ちた時、救いの御業は完成するのである。
礼拝説教メッセージ音声:過越の小羊(出エジプト記12:1-14):右クリックで保存
前回は、エジプトに対して最後の災い、初子が全て死んでしまう災いの通告をしたが、今回は、イスラエル民族への最も重要な祭り、過越祭の制定をされ、これを世々にわたって守り行うべき定めとされた。
『「この月をあなたがたの初めの月とし、これを年の正月としなさい。あなたがたはイスラエルの全会衆に言いなさい、『この月の十日におのおの、その父の家ごとに小羊を取らなければならない。すなわち、一家族に小羊一頭を取らなければならない。』(出エジプト記12:2)
主はこの月(アビブの月:太陽暦では3−4月)を一年のはじめと定める程に、この一連の出来事を重要なものとしたが、実は、それはイスラエル民族だけでなく、全世界の全ての人にとっても重要な出来事である。
この祭りの特徴は、まず子羊をほふる事、その血を家の戸のかもいと門柱にしるしとしてつけ、その家の中で、ほふられた子羊を食す事である。
言うまでもなく、このほふられた子羊はイエスキリストを指している。
バプテスマのヨハネは、自分のほうに歩いてくるイエスキリストを見て「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1:29)と叫んだし、また、天における礼拝で、御使いや長老達は「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」と叫んだ。(黙示録5章)
なぜ、ほふられた小羊がこのように栄光を受けるのにふさわしいと賛美されているのか。
それは、全人類が、いや、全被造物が、このほふられた小羊によって、救いを得るからである。
過越祭には、イエスキリストの福音との類似性が、いくつもある。
神が定めた過越祭は、アビブの月の14日だが、それはイエス様が十字架につけられた日と一致する。
過越の小羊をほふるのは、ヨセフスによれば午後三時を常としており、イエス様も同様に、午後三時に頭を垂れて霊をお渡しになった。
『小羊は傷のないもので、一歳の雄でなければならない。羊またはやぎのうちから、これを取らなければならない。』(出エジプト記12:5)
ちょうどかわいいさかりの傷のない一歳の雄の小羊が、もし皆さんの手元にいるとしたら、それに刃に当ててほふらなくてはならないなら、相当の痛みと悲しみ、惜しむ心が沸き起こるのではなかろうか。
過越の小羊は10日に用意し、14日までそれを見守る事が定められている。
人々がそれを見守る間、その犠牲とされてしまう小羊をいとおしむ心が芽生えるはずである。
キリストは一切の罪の汚れが無いお方であり、御父がキリストをほふらねばならないその悲しみ、痛みを、この過越祭を行う人も、少しながら経験したのではなかろうか。
そして祭りの夜、家の皆でその焼かれた小羊を囲み、噛み締め、味わう事によって、身代わりになって死んでくれた事、救われた事の尊さが、ひとしお迫って感じられたのではなかろうか。
現代を生きる私達キリスト者たちは、聖餐の内に、ほふられた小羊キリストを”記念して”覚えるのである。
『わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを”記念する”ため、このように行いなさい」。
食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの”記念として”このように行いなさい」。だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。』(1コリント11:23-26)
『その血を取り、小羊を食する家の入口の二つの柱と、かもいにそれを塗らなければならない。』(出エジプト記12:7)
印が付された者は守られ、付されていない者は滅びる。それは、聖書全体に流れる救いの共通事項である。(ヨシュア2:18-21、エゼキエル9章、黙示録7:3,9:4)
『そしてその夜、その肉を火に焼いて食べ、種入れぬパンと苦菜を添えて食べなければならない。生でも、水で煮ても、食べてはならない。火に焼いて、その頭を足と内臓と共に食べなければならない。』(出エジプト記12:8)
この種入れぬパンは、申命記16:3によると、悩みのパンと表現されている。
この悩みのパンや苦菜には、色々な解釈がある。イスラエルがエジプトで経験した悩み、キリストが受けた苦しみ、罪を悔い改める悲しみ、十字架上で苦味混ぜられた盃など。
いずれにせよ、主は十字架上で、焼けるような苦しみを覚え「わたしは渇く」と言われた。
イエスを主としたイスラエル人は、過越祭を為す度に、十字架上のキリストが思い出されたのではなかろうか。
『あなたがたは、こうして、それを食べなければならない。すなわち腰を引きからげ、足にくつをはき、手につえを取って、急いでそれを食べなければならない。これは主の過越である。』(出エジプト記12:11)
急いで食べなくてはならないのは、これを食べた後、全イスラエルはすぐにエジプトから追い出されてしまうからである。
エジプトは世を意味している。
私達も、過越の小羊キリストをいただく時、世にいつまでも未練を残していてはならず、すぐにでも旅立てる心の状態で、いただかなくてはならない。
『その血はあなたがたのおる家々で、あなたがたのために、しるしとなり、わたしはその血を見て、あなたがたの所を過越すであろう。わたしがエジプトの国を撃つ時、災が臨んで、あなたがたを滅ぼすことはないであろう。この日はあなたがたに記念となり、あなたがたは主の祭としてこれを守り”代々、永久の定めとして”これを守らなければならない。』(出エジプト記12:13-14)
そう、それは私達のためのしるしでもあり、代々、永遠に定められた祭りである。
今の世においても、天においても、屠られた子羊は、永遠に記念され、この小羊によって贖われた人々は永遠に、ほふられた小羊を賛美するのである。(黙示録5章)
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
斬新な祈り(ネヘミヤ9章):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
1ヨハネ3:17-24:右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:エジプトへの最後の災いの通告(出エジプト記11:1-10):右クリックで保存
『主はモーセに言われた、「わたしは、なお一つの災を、パロとエジプトの上にくだし、その後、彼はあなたがたをここから去らせるであろう。彼が去らせるとき、彼はあなたがたを、ことごとくここから追い出すであろう。』(出エジプト記11:1)
主はエジプトへの最後の災いを実行される前に、エジプトとイスラエルとにそれぞれ通告される。
これまでの学びで、災いが降されるのを連続して九度も見て来ると、神はなぜここまで徹底的になさるのかと思うかもしれない。しかしそれだけエジプトは、神の民イスラエルを400年もじっくりと徹底的に虐げて来た、という事である。
神の時間と人の時間は違うし、神の忍耐と人の忍耐は、違う。しかし神の裁きは正しく、公平で、悪い事した側はきっちりと報いを受けるように、また、された側は、きっちりとその償いを受け取るようにして下さるお方である。(黙示録16:1-7)
『あなたは民の耳に語って、男は隣の男から、女は隣の女から、それぞれ銀の飾り、金の飾りを請い求めさせなさい」。主は民にエジプトびとの好意を得させられた。またモーセその人は、エジプトの国で、パロの家来たちの目と民の目とに、はなはだ大いなるものと見えた。』(出エジプト記11:2)
これはモーセが召された時点で、既に神から示されていた事である。(3章)その時は、まさかそんなことが有るだろうか、と思えたかもしれない。
しかし今や、エジプトは9つの災いを通らされ、モーセはエジプトからも尊敬される者となり、イスラエル民族も好意を得られ、この事は実現可能な事として目前まで迫って来た。
その時が来ると、どんなに気が弱い人でも、隣のエジプト人から剥ぎ取る事が出来るように、主がして下さるのだ。
モーセは神から言葉を預かったので、再びパロの前に出た。
10章の最後によると、パロとモーセは、もう二度と顔を合わせないと互いに言って、喧嘩別れになったはずだったが、主から言葉を預かってしまったからには、モーセは嫌でもパロの前に出て行って御言葉を伝えざるを得ず、またパロも、モーセが再び顔を見せた時は殺すつもりでいたであろうが、神がモーセを守っておられる以上、パロはモーセを殺せないのである。
『モーセは言った、「主はこう仰せられる、『真夜中ごろ、わたしはエジプトの中へ出て行くであろう。』(出エジプト記11:4)
この10番目の災いが、前の9回の災いと決定的に違うのは、主みずからがエジプトの中へ出ていき、御業をなされ、エジプトは決定的に敗北するという事だ。
世の終わりの時も、はじめは預言者から幾度かの警告と災いの執行がなされ、最後には、主ご自身が世に現れて裁きを執行される。
『エジプトの国のうちのういごは、位に座するパロのういごをはじめ、ひきうすの後にいる、はしためのういごに至るまで、みな死に、また家畜のういごもみな死ぬであろう。そしてエジプト全国に大いなる叫びが起るであろう。このようなことはかつてなく、また、ふたたびないであろう』と。』(出エジプト記11:5)
最後の災いの内容は、初子の死である。
それはエジプト全家が対象で、上は王から下は奴隷まで、しかも家畜に至るまでも、初子が死ぬというのである。
初子は一家にとって最も大事な存在だが、それが奪われる事はどれほどの悲しみだろう。
しかしこの災いが告げられても、パロと家来達には、いまいちピンと来ていないようである。
『しかし、すべて、イスラエルの人々にむかっては、人にむかっても、獣にむかっても、犬さえその舌を鳴らさないであろう。これによって主がエジプトびととイスラエルびととの間の区別をされるのを、あなたがたは知るであろう。』(出エジプト記11:7)
神は正確に、区別される。神の民と、世とを。
イスラエル60万世帯の、御言葉を守り行う人には、一世帯たりとも災いが誤って降る事はされず、エジプトには幾万世帯あろうとも、どこに隠れようとも、正確に災いを降されるのである。
『これらのあなたの家来たちは、みな、わたしのもとに下ってきて、ひれ伏して言うであろう、『あなたもあなたに従う民もみな出て行ってください』と。その後、わたしは出て行きます』(出エジプト記11:8)
その時、家来たちはパロを通さずに、モーセに直接ひれ伏してお願いするようになる。
頑ななパロは家来たちに見捨てられ、パロを介さずに物事を進めようとするように、頑なな上司はやがて部下から見捨てられ、その上司を通さずに物事を進めるようになっていく。
『彼は激しく怒ってパロのもとから出て行った。』(出エジプト記11:8)
モーセが怒って出て行ったのは、自分の弁論に自分で激昂したからではなく、あまりにもパロと家臣たちが頑なで、あまりにも自分達に降りかかろうとしている災いに無頓着だったからだ。(11:9-10)
預言者は、怒る。御言葉を受けた人達が、頑なだった時は。自分の身に降りかかろうとしている災いを語られたのに、あまりにも、のほほんとしている時は。
神は、イスラエルが正しいから特別扱いしたのではない。(申命記7:7、9:4-6)
モーセに力があったからエジプトに災害が起きたのではないし、モーセの口に雄弁さがあったからエジプト人が尊敬したのでもない。
彼が御言葉を正しく伝えたから、御言葉こそが真実だから、である。
モーセが御言葉を正しく伝えたため、実際に諸々の奇跡が起こり、そしてモーセは御言葉によって威厳を帯びるようになったのだ。
私達を通して、神の御技が為されると、なにかと私達は傲慢になりやすい。
「自分は正しいから」「自分には力あるから」「自分が霊的レベルアップしたから」などなど。
しかし、傲慢になってしまうと、あっという間に主の御業は為されなくなってしまい、人々も逃げ去ってしまう。
私達はひたすら主の御前にへりくだり、栄光を自分のものとせず、いつでも主に栄光を捧げ、いつでも主に有用な器として用いられていきたい。
