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礼拝説教メッセージ音声:主の「おびきよせ作戦」(出エジプト記14:1-9):右クリックで保存
「おびきよせ作戦」とはご存知の通り、おびきよせられている時は一見不利に、敵には有利に見えるが、それは意図的にそうするのであり、最終的に味方を有利に導き、敵を根絶させるために使われる。
主もよく、この作戦を使われる。その時人は恐れるが、最終的には主のはかりごとこそ素晴らしかったと人は知るようになる。
『主はモーセに言われた、イスラエルの人々に告げ、引き返して、ミグドルと海との間にあるピハヒロテの前、バアルゼポンの前に宿営させなさい。あなたがたはそれにむかって、海のかたわらに宿営しなければならない。』(出エジプト記14:1-2)
主はイスラエルに、来た道を引き返して海のかたわらに宿営せよと命じられ、道に迷っているかのような行動を取らせる指示を与えられた。
あちらこちらを迷走し、片側は海という逃げられない所で宿営している状況。それは襲う者からすれば絶好のチャンスであり、自分達からすれば絶体絶命な立場に身を置きに行く行動だが、主はその先を見越しておられ、わざとそう命じられたのだ。
『パロはイスラエルの人々について、『彼らはその地で迷っている。荒野は彼らを閉じ込めてしまった』と言うであろう。わたしがパロの心をかたくなにするから、パロは彼らのあとを追うであろう。わたしはパロとそのすべての軍勢を破って誉を得、エジプトびとにわたしが主であることを知らせるであろう」。彼らはそのようにした。』(出エジプト記14:3)
主はパロがどう思うかも、どのような企みを持っているのかも含め、全てモーセに伝えられた。
しかも、パロの心をかたくなにするのも主がなさる事であり、そうする理由は、イスラエルに主がおられ、主は力強く偉大である事を、エジプト人だけでなく全世界に示すためである。
主の導きに沿って歩む私達も、人の目から見たら愚か極まりない状況、危険極まりない状況へと主が導くことがある。
しかしそれは、私達の側に力強い主がおられ、主が確かに私達を愛し、守り、導いておられたと、世が知るためであり、そして私達に全き安息を与え、思いもよらなかった程の富や名誉を与えられるためである。
『民の逃げ去ったことが、エジプトの王に伝えられたので、パロとその家来たちとは、民に対する考えを変えて言った、「われわれはなぜこのようにイスラエルを去らせて、われわれに仕えさせないようにしたのであろう」。それでパロは戦車を整え、みずからその民を率い、また、えり抜きの戦車六百と、エジプトのすべての戦車およびすべての指揮者たちを率いた。』(出エジプト記14:5-7)
次章を見ると、彼らは以下のように言ったようだ。
『わたしは追い行き、追い着いて、/分捕物を分かち取ろう、/わたしの欲望を彼らによって満たそう、/つるぎを抜こう、わたしの手は彼らを滅ぼそう。』(出エジプト記15:9)
つまり、彼らがイスラエル民族を追いかける動機は、イスラエル民族に労働させて、自分達はラクする事である。
エジプトはつい先日、イスラエルの神からあれだけ散々な目に遭ったのに、この期に及んで、まだイスラエルの民をこき使って、自分達は楽しようと思っている。
ギャンブル依存症のように、労せずに豪勢な暮らしをする味をひとたび占めてしまうと、ひどい目にあってもなお止められず、決定的な滅びへ向かってしまうものだ。
イスラエルのほうは、つい先日まで奴隷として働いていた、戦う術も武器も持たぬ、ただ財宝を多く携えている弱い集団である。
彼らを襲ってくる相手は、当時の超大国の軍隊、戦車などの武器や兵器を持つ精鋭で、こちら側は、つい数日前までその国で奴隷であり、武器も無ければ戦術も知らない。
このまま行けば、自分達はただ殺され、分捕られ、ただエジプトに引きずり戻されるしか無い事は、目に見えている。
ただし、それは彼らに主がいなければ、の話である。
人の力では100%助かる見込みは無く、絶望しか無い時こそ、主は100%の力を発揮される。
『主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。』(2コリント12:9-10)
自分の力ではどうしようも無い所へと、主はわざと導かれる事がある。
その時こそ「十字架の経験」である。
その時、人は、ただ全能者の御手委ねるしかない。
主イエスが十字架上で頭をたれたように、私達もただ全能者の御手委ねる時、復活の偉大な力が私達に働くのである。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
神の宮をなおざりにしない(ネヘミヤ10章):右クリックで保存
【概要】
律法によって自らの罪を示されたイスラエルの民が、悔い改めの祈りの後、神の律法に従って歩むことを固く誓い、具体的な取り決めを定めました。私たちも自らを神の宮として聖く保ち、神の宮をなおざりにしない決心をすることで、主からの豊かな祝福を受けることができます。
【聖書箇所】
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ネヘミヤ10:1-39
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申命記27:15-19
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マラキ3:8-12
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第1コリント3:16-17
【励ましの言葉】
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神様のものを神様にお返しするなら、主は天の窓を開き、あふれるばかりの祝福を注いでくださいます。
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あなたが神の宮であるならば、あなたを脅かす者を神ご自身が仕返ししてくださいます。
【戒めの言葉】
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御言葉に人間的な解釈や世の教えを混ぜ込んではなりません。
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主が定められた聖なる日を、世の売り買い事や俗なることで汚してはなりません。
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神様のもの(十分の一や奉納物)を盗んではなりません。
【勧めの言葉】
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私たち自身が神の宮であることを自覚し、神の宮をなおざりにしない決心をしましょう。
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自分自身が聖なる者となり、ますます清く正しい生活を送ることで、豊かな人生を歩むことができます。
【***詳細***】
今日はネヘミヤ記の10章です。その前に、前回の9章のおさらいをしましょう。イスラエルの民は、第7の月に律法が朗読されるのを聞いて、心が深く刺されました。律法に従うなら、自分たちは罪ある者であり、神に打たれても仕方がない存在だと悟ったのです。何百年も前に記された律法が、まるで最近の自分たちの姿や、身に降りかかった災いの原因を記しているかのように新しく感じられました。律法の書には、神の教えをないがしろにすると様々な災いが起こり、それでも心をかたくなにするなら、さらに大きな災いが臨み、ついには国を追われると書かれていました。女たちが自分の子供を煮て食べるような悲惨なことまで、すべて律法に記されていた通りに起こったのです。それは、イスラエルの民が神様の教えや戒めをないがしろにし続け、心をかたくなにして自分の道を変えなかったからです。
自分たちの歴史と身に起こったことを振り返り、彼らは「本当に私たちは罪を犯した」と悟りました。そして、神様の律法を守り行うことこそがすべてであり、礼拝をおろそかにしてはならないことの重要性を知りました。そのため、喜びの祭りである第7の月の祭りとは別に、悔い改めのための集会を開き、民全体で祈ったのがネヘミヤ記9章です。この祈りは、何かをお願いする祈りではなく、ただ自分たちが主の御前にどのように罪を犯し、主がどのように対応され、そして今、自分たちがどのような心で主の前に立っているのかを告白する、画期的な祈りでした。
この9章の祈りの後、レビ人や祭司たち、主だった人々はその告白を書き記し、印鑑を押しました。10章の冒頭には、その印を押した人々の名前が記されています。筆頭は総督ネヘミヤで、続いて祭司やレビ人、民の長たちの名前が27節まで続きます。
そして28節からは、印は押さなかったけれども、同じように祝福と呪いの誓いに加わった人々が何をしたかが書かれています。
【ネヘミヤ10:28-29】「このほかの民、祭司、レビ人、門衛、歌うたい、宮に仕えるしもべたち、また国々の民と縁を絶って、神の律法についた者全員、その妻、息子、娘たち、すべて理解できるまでになった者は、彼らの親類のすぐれた人々に頼り、神のしもべモーセを通して与えられた神の律法に従って歩み、私たちの主、主のすべての命令、その定めと掟を守り行うための呪いと誓いとに加わった。」
まだ主ご自身、このように指導者に聞き従うことも有益です。
彼らが加わった「呪いと誓い」とは、と直接関わることに難しさを感じている人々は、民の長や祭司など、目に見える指導者たちに頼って誓いに加わりました。信仰の初心者の方が、牧師や信仰の先輩に頼るように、彼らも民の優れた人々に頼ったのです。もちろん、最も大切なのは一人ひとりが主と直接関わることですが具体的にどのようなものだったのでしょうか。申命記の27章にその様子が書かれています。祭司たちが律法を宣言し、民が「アーメン」と応答する形式です。
【申命記27:15】「職人の手の業である主の忌み嫌われる彫像や鋳造を造り、これを密かに安置する者は呪われる。」民はみな答えてアーメンと言いなさい。
【申命記27:16】「自分の父や母を侮辱する者は呪われる。」民はみなアーメンと言いなさい。
このように、「〜する者は呪われる」という宣言に、民が「アーメン」と答えることで誓いを立てたのです。ネヘミヤの時代の人々も、律法によって心が新たにされ、このような誓いを立てました。
その具体的な内容が30節以降に記されています。
【ネヘミヤ10:30-31】「すなわち、私たちの娘をこの地の民たちに嫁がせず、また彼らの娘を、私たちの息子にめとらない。たとい、この地の民たちは安息日に、品物、すなわちいろいろな穀物を売りに持ってきても、私たちは安息日や聖日には彼らから買わない。また、私たちは七年目には土地を休ませ、すべての負債を取り立てない。」
ここには三つの誓いがあります。
第一に、異邦人との結婚を禁じ、民族の純潔を保つことです。これは、主の御言葉に人間的な教えや世のものを混ぜ込まず、純粋さを保つことの重要性を示しています。例えば「偽ってはならない」という御言葉に、「嘘も方便」という人間の教えを混ぜ込んではいけないのです。御言葉はそのまま受け取るべきです。
第二に、安息日や聖なる日に売り買いをしないことです。異邦人がビジネスチャンスと見て安息日に物を売りに来ても、一切買わないと誓いました。私たちにとっても、主の日である聖なる日に、世の中のことで心を満たしたり、エネルギーをやり取りしたりすることをやめる、ということです。仕事などでやむを得ない場合はありますが、自ら積極的に聖なる日と俗なる日を混ぜこぜにしてはなりません。
第三に、7年目には土地を休ませ、負債の取り立てをしないことです。イスラエル民族が災いにあった理由の一つは、土地を休ませるという安息の定めをないがしろにしたことでした。その結果、バビロン捕囚によって民が取り除かれ、土地が強制的に70年の安息を得ることになったのです。また、7年目には負債を免除することも、憐れみを示す大切な教えです。憐れみのない裁きをする者は、自分も憐れみのない裁きを受けることになります。
さらに32節以降では、神の宮の働きを支えるための具体的な取り決めもしています。毎年シェケルの3分の1をささげること、祭壇で燃やす薪を誰がささげるかくじで決めることなどです。以前は人々の自発的なささげ物に頼っていましたが、それが絶えてしまったため、仕組みとして神の宮の働きが滞らないように知恵を絞ったのです。これは、誰がやるか曖昧だった部分に責任の所在をはっきりさせた画期的なことでした。
また、初物や十分の一をきちんとささげることも改めて決心しました。神様のものを神様にお返しすることは非常に重要です。旧約聖書の最後の書であるマラキ書には、驚くべきことが書かれています。
【マラキ3:8】「人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは十分の一と奉納物によってである。」
神様のものを盗むことができるのです。それは、ささげるべき十分の一や奉納物をささげないことです。しかし、主は続けてこう約束されています。
【マラキ3:10-12】「十分の一をことごとく宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。──万軍の主は仰せられる──わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福を、あなたがたに注ぐかどうかを試してみよう。わたしはあなたがたのために、いなごを叱って、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。──万軍の主は仰せられる──すべての国民は、あなたがたを幸せ者と言うようになる。あなたがたが、『喜びの地となるからだ』と万軍の主は仰せられる。」
私の経験上も、ささげることを惜しんだ時には手痛い目に遭いましたが、きちんとささげるようになってからは、主が本当に生きて働いておられるとしか思えないような、幸いな日々が続きました。主は、ささげる者に天の窓を開き、あふれる祝福を注いでくださるのです。皆さんもぜひ試してみてください。
この章の締めくくりは、39節の最後の言葉です。
【ネヘミヤ10:39】「…こうして私たちは私たちの神の宮をなおざりにしないのである。」
彼らの決心のまとめは、「神の宮をなおざりにしない」ということでした。
では、今の私たちにとって「神の宮」とは何でしょうか。それは教会でもありますが、それ以上に、皆さん一人ひとりです。
【第1コリント3:16-17】「あなたがたが神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。もしだれかが神の神殿を壊すなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。」
皆さんの内にキリストの御言葉が豊かに宿っているなら、皆さんはキリストが宿る神の宮です。そして、その聖なる宮を壊そうとする者、つまり皆さんを脅かす者がいれば、神ご自身がその人を滅ぼしてくださいます。ですから、皆さんをいじめる者や攻撃する者がいるなら、自分の内にイエス様をお迎えしてください。そうすれば、その人はイエス様をいじめることになり、イエス様が直接仕返しをしてくださるのです。
これは敵に対抗するためだけではありません。皆さん自身が聖なる者となり、ますます清く正しい、豊かで健やかな人生を送るためです。皆さん一人ひとりが神の宮であることを自覚し、神の宮らしく歩むこと。神の宮をなおざりにしないと決心することです。そうすれば、皆さんの行く所どこにでも主の臨在が伴い、ますます祝福され、喜びに満ちた勝利の人生を歩んでいくことができるのです。
【結論】
ネヘミヤの時代、民は悔い改めの後、「神の宮をなおざりにしない」と固く決心し、具体的な誓いを立てました。私たちも、自分自身がキリストの宿る「神の宮」であることを自覚し、聖さを保ち、神様へのささげ物を惜しまず、主の教えを第一とする決心を新たにするなら、主は天の窓を開き、あふれるばかりの祝福を注いでくださいます。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
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荒野で遠回りする経験の必要性(出エジプト記13:17-22)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 出エジプト記
- 執筆 :
- pastor 2012-12-13 21:04
礼拝説教メッセージ音声:荒野で遠回りする経験の必要性(出エジプト記13:17-22):右クリックで保存
イスラエルはエジプトを脱出し、神が約束されたカナンの地への旅を始めた。
エジプトからカナンまでは、直線距離で約300キロ、約2週間で行けるとよく言われているが、なぜ神は、最短ルート・最短時間で、約束の地に行かせる事をしなかったのか。
その理由は、運転の実技も学科も学んだ事の無い子供に、いきなり運転させない理由と一緒である。
『パロが民を去らせた時、ペリシテびとの国の道は近かったが、神は彼らをそれに導かれなかった。民が戦いを見れば悔いてエジプトに帰るであろうと、神は思われたからである。神は紅海に沿う荒野の道に、民を回らされた。イスラエルの人々は武装してエジプトの国を出て、上った。』(出エジプト記13:17-18)
出エジプトしたイスラエルの民は四百年もの間、奴隷だった。長い期間、奴隷として培ってきてしまったイスラエル民族の有様を主はご存知であり、まずそこを取り扱う必要があったのだ。
人はよく想像する。自分の人生の、あの荒野の40年さえ無ければ、あの無駄な時期さえ無ければ、もっと多くの時を有意義に過ごせたのに、と。
しかし、主のご配剤には、一切の無駄は無い。
もし、あなたの人生で一見無駄とも思えるような、荒野を放浪するかのような時期を通らされていたとすれば、その時期は、将来の安息と祝福を受ける上で必要だったという事だ。
イスラエル民族が荒野の道への迂回が必要だったのは、まず、主がモーセを神の山ホレブで召しだした時、主が「イスラエルの民はこの山(ホレブ)で神に仕えなくてはならない」と、元々言われていたからだ。(3:12)
それはイスラエル人に礼拝させるためであり、イスラエル民族に律法をさずけ、約束の地に入りそこで暮らす際のルールを教えるためであり、また、片時たりとも主の助けが無ければ死んでしまうような荒野 - パレスチナ地方の荒野は水も緑も無い岩砂漠 - において、主からの直接的な養いを受けつつ、主に従順してより頼む事を、実践的に学ぶためであった。
つまり、イスラエル民族にとって、荒野は約束の地で神の民として暮らす為の実技と学科を学ぶ場所であり、そこで整えられた人が、はじめて約束の地に入って暮らす事が出来るのだ。
『主は彼らの前に行かれ、昼は雲の柱をもって彼らを導き、夜は火の柱をもって彼らを照し、昼も夜も彼らを進み行かせられた。』(出エジプト記13:21)
主はまず、雲の柱と火の柱によってイスラエル民族を導かれた。
それは「神の導きに従って歩むこと」「主の臨在と共に歩むこと」を学ぶためである。(民数記9:15-23)
また、雲の柱と火の柱は、昼は暑さを避ける陰となり、あらしと雨を防ぐ避け所となり、夜は闇を照らす光となる。(詩篇105:39、イザヤ4:5-6)
そうして主の守りに身を避ける事を、実体験にて学ぶためである。
こうして荒野において、主により頼む事を学び、実体験し、そうして訓練を受けてから約束の地に入ることができるのだ。
しかし、荒野で訓練を受けてきた訓練生であるイスラエル民族の大部分は、惨憺たるテスト結果だった。
『そこで、会衆はみな声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。またイスラエルの人々はみなモーセとアロンにむかってつぶやき、全会衆は彼らに言った、「ああ、わたしたちはエジプトの国で死んでいたらよかったのに。この荒野で死んでいたらよかったのに。
なにゆえ、主はわたしたちをこの地に連れてきて、つるぎに倒れさせ、またわたしたちの妻子をえじきとされるのであろうか。エジプトに帰る方が、むしろ良いではないか」。彼らは互に言った、「わたしたちはひとりのかしらを立てて、エジプトに帰ろう」。』(民数記 14:1-4)
わたしは荒野のような状態をあと何年続ければ安息に入れるのか、わたしのこの苦しい状態はあとどのくらい経験しなくてはならないのか、といった質問をする人がいるが、あとどのくらい、という質問は、ナンセンスである。
民数記のイスラエルの民のような不信仰を続けるなら、決して安息の地に入る事は出来ず、荒野で屍を晒すのみである。
安息の地に入りたいなら、唇から不信仰な泣き言を捨て、ヨシュアやカレブのように、信仰告白すれば良いのだ。
「わたしたちが行き巡って探った地は非常に良い地です。もし、主が良しとされるならば、わたしたちをその地に導いて行って、それをわたしたちにくださるでしょう。それは乳と蜜の流れている地です。ただ、主にそむいてはなりません。またその地の民を恐れてはなりません。彼らはわたしたちの食い物にすぎません。彼らを守る者は取り除かれます。主がわたしたちと共におられますから、彼らを恐れてはなりません」。(同7-9節)
礼拝説教メッセージ音声:手のしるし、額のしるしとして(出エジプト記13:1-16):右クリックで保存
『主はモーセに言われた、「イスラエルの人々のうちで、すべてのういご、すなわちすべて初めに胎を開いたものを、人であれ、獣であれ、みな、わたしのために聖別しなければならない。それはわたしのものである」。』(出エジプト13:1)
元来、全てのものは主が創られた故に、主のものであるが、だからと言って、私達に全てを捧げよとは要求されず、最初のもの、すなわち初物を主のものとして(聖別して)捧げるように定められた。
3節から10節の所は、種なしパンの祭りについて、モーセが主から受けた事を、民に伝えている。
『その日、あなたの子に告げて言いなさい、『これはわたしがエジプトから出るときに、主がわたしになされたことのためである』。そして、これを、手につけて、しるしとし、目の間に置いて記念とし、主の律法をあなたの口に置かなければならない。主が強い手をもって、あなたをエジプトから導き出されるからである。』(出エジプト記13:8-9)
一体なぜ、「主が強い手をもって、あなたをエジプトから導き出された」事が、種なしパンへと結びつくのか。
それは、主がエジプトから脱出させて下さった時に、パンに種を入れる暇が無く、パン種を入れないまま焼いて食すしか無かった事を覚える意味もあるが、パン種は元々、聖書では良い意味で用いられていない。
主もパリサイ人やサドカイ人のパン種に気をつけるように、すなわち、御言葉に人間の教えを混ぜ込んで不純にしてしまう「パン種」に気をつけるよう言われた。
『そして、これを、手につけて、しるしとし、目の間に置いて記念とし、”主の律法をあなたの口に”置かなければならない。主が強い手をもって、あなたをエジプトから導き出されるからである。』(出エジプト記13:9)
この、パン種の入っていないパンは、よく口で噛み締めなくてはならない。
イスラエル民族は7日間、種なしパンをよく噛みしめて味わっていたが、同じように、御言葉という純粋なパンも、昼も夜もじっくりかみしめて味わう事によって、主はイスラエル民族に御言葉をじっくり味わう事を、体験的に実施させ、学ばせていたのである。
11節から16節までの所では、モーセは民に、初物は主のものであり、贖う必要がある事を伝えている。
『あなたは、すべて初めに胎を開いた者、およびあなたの家畜の産むういごは、ことごとく主にささげなければならない。すなわち、それらの男性のものは主に帰せしめなければならない。また、すべて、ろばの、初めて胎を開いたものは、小羊をもって、あがなわなければならない。もし、あがなわないならば、その首を折らなければならない。あなたの子らのうち、すべて、男のういごは、あがなわなければならない。』(出エジプト記13:12)
ここでは全て初めに胎を開く者、および、家畜の初子についての指示をしているが、特に、ろばという動物についての指示をしている。
色々な動物がいる中で、なぜ、ろばなのだろうか?
ろばは、イエス様をお乗せしてエルサレムへ入城した動物として有名で、イエス様を乗せて運ぶ者、すなわち、神の国の働き人を示す比喩として良く用いられている。
神の国の働き人は、小羊イエス様の血によって贖われている事が必須条件で、そうでなければ、首を折らなければならない、すなわち、働き人たる事は、止めなくてはならないわけだ。
また、種なしパンの時と同じく、初物を捧げる事も「手」と「目の間(ひたい)」のしるしとして、いつも覚えておかなくてはならない、と定めている。(出エジプト記13:14-16)
「目の間(ひたい)」という部位は、その人が誰に属するかという「しるし」が置かれる所であり(黙示録13:16、14:1)、「手」は、思いの内にある事を実際に働く部位である。
私達も、種を入れぬパンを覚え、初物は捧げるべき事を覚え、それを実際に行動する時、私達は「神のものである」という”しるし”があるのだ。
礼拝説教メッセージ音声:混じってきた雑多な民(出エジプト記12:37-51):右クリックで保存
『さて、イスラエルの人々はラメセスを出立してスコテに向かった。女と子供を除いて徒歩の男子は約六十万人であった。』(出エジプト記12:37)
ラメセスは、パロがイスラエルを苦役で苦しめるために建てた倉庫の町である(1:11)。イスラエル人はそこから全員出て行ったため、その奴隷の倉庫の町はゴーストタウンと化した。
エジプトから出てきた民は、成人男子だけで60万。という事は、女子供も含めると200万を超すと思われる。
そこからさらに多くの入り交じってきた民も加わり、また非常に多くの家畜も連れ登ったため、それはそれは壮大な集団となった。
『そして彼らはエジプトから携えて出た練り粉をもって、種入れぬパンの菓子を焼いた。まだパン種を入れていなかったからである。それは彼らがエジプトから追い出されて滞ることができず、また、何の食料をも整えていなかったからである。』(出エジプト記12:39)
彼らが携え持ってきた食料は、たったそれだけである。
荒野を旅する内に、食料や衣類が欠乏するのでは、と心配した人もいたかもしれない。
しかしどういうわけか、食料が欠乏して餓死する者が出た記述は一切なく、人々は荒野でも、しっかり主に養われたのだ。
私達も主にあって、何を食べようか何を着ようかと言って心配する必要は、一切ない。
『イスラエルの人々がエジプトに住んでいた間は、四百三十年であった。四百三十年の終りとなって、ちょうどその日に、主の全軍はエジプトの国を出た。』(出エジプト記12:40)
主はアブハムに、あなたの子孫は四百年の間苦しめられると言っていた(創世記15:13)。という事は、イスラエル民族がエジプトで良い待遇を受けられた期間は、わずか三十年だったのだろう。
ヨセフも臨終の時「神は必ずあなたがたを”顧みて”、この国から連れ出し」と言っているため、もしかしたら、ヨセフの時代から既にエジプトからの圧政が始まっていたのかもしれない。
『主はモーセとアロンとに言われた、「過越の祭の定めは次のとおりである。すなわち、異邦人はだれもこれを食べてはならない。しかし、おのおのが金で買ったしもべは、これに割礼を行ってのち、これを食べさせることができる。』(出エジプト記12:43-44)
過越祭の小羊は、異邦人は食べてはならない、とここで言われている。それはイスラエル人がエジプトを出る時、多くの異邦人も入り交じって来ており、その雑多な民と区別するためである。
なぜ区別が必要か。それは、異邦人はイスラエル人と違い、まことの神である主を恐れるという事が無いからである。
このエキサイティングな脱出劇の中で、この民について行けば色々なメリットがありそうだ、というだけでついて来た異邦人は、多かった。
特に教会において陥りやすい罠だが、人数が増えれば良いというものではない。
その大勢いる人の全てが、純粋に主を慕い求めているとは限らないし、この入り交じってきた者達が、イスラエルにいらぬ情欲を起こさせ、神を怒りを招き、災いの発起となってしまった事が、幾度かあったからだ。(レビ記24:10、民数記11:4)
入り交じってきた雑多な民は、余計な事を言って主にある交わりに余計な怒りやいらぬ欲望を持ち込ませ、本来ならつまづかないような者をも、躓かせてしまった。しかし、主は彼らを荒野で篩い落とされた。(レビ記24:23、民数記11:33-34)
しかし、異邦人は決して過越の小羊にあずかれないという訳ではない。
異邦人が過越の小羊にあずかるためには”割礼”を受ける必要がある。
割礼とは、肉(生来の罪に傾く性質を持っている肉体の力や考え方など)を削ぎ取る事である。
割礼のしるしは神との契約のしるし、すなわち契約書の印鑑のようなもので、それは世々に渡って守るべきであり、「割礼を受けない男子、すなわち前の皮を切らない者はわたしの契約を破るゆえ、その人は民のうちから断たれるであろう」とさえ言われている程、大切な事である。(創世記17:9-14)
故に、過越の小羊は、興味本位で食べて良い物ではなく、神の民に加わるためには、生涯主に仕えるというコミットメントと、みずからの肉を切り落とす覚悟が必要なのだ。
キリストにあって救いの道が示された現在、割礼は”洗礼”に相当し、過越祭の食事であるほふられた小羊とパンは、まことのほふられた小羊キリストにあずかる”聖餐”に相当する。
聖餐も、むやみに興味本位であずかって良いものではない。
聖餐にあずかるには、自分の肉欲を切り取る決意、すなわち十字架を背負う決意と、生涯主に仕えるコミットメントが必要なのである。
礼拝説教メッセージ音声:奴隷からの解放(出エジプト記12:29-36):右クリックで保存
今日の箇所をもって、イスラエル民族はついに、400年も続いたエジプトでの奴隷状態から解放された。
『夜中になって主はエジプトの国の、すべてのういご、すなわち位に座するパロのういごから、地下のひとやにおる捕虜のういごにいたるまで、また、すべての家畜のういごを撃たれた。それでパロとその家来およびエジプトびとはみな夜のうちに起きあがり、エジプトに大いなる叫びがあった。死人のない家がなかったからである。』(出エジプト記12:29-30)
主が最後の災いを執行された時、エジプトには死人のない家がなかった。例えば父親が長子なら、父親も、長子も、死んだわけである。
それも、身分が上の者から下の者まで、さらに、家畜に至るまで。
エジプト人に大きな恐れが沸き起こり、「われわれはみな死ぬ」と思ったため、イスラエル人を躊躇せず追い出した。
神は元々、長子だけを狙い撃ちせずとも、エジプトを全滅させる事も、たやすかったのだ。
しかし、神はそんな無差別殺戮などはせず、前もって警告を与え、軽い災いから一つづつ災いを与えて忍耐深く懲らしめたにもかかわらず、エジプトは9度も頑なになったため、遂にこのような決定的な災いが起こるに至ってしまったのだ。
『そこでパロは夜のうちにモーセとアロンを呼び寄せて言った、「あなたがたとイスラエルの人々は立って、わたしの民の中から出て行くがよい。そしてあなたがたの言うように、行って主に仕えなさい。あなたがたの言うように羊と牛とを取って行きなさい。また、わたしを祝福しなさい」。 』(31-32節)
パロは今回はさすがに自分の意見を混ぜたりする事なく、全面的にモーセの言う通りにさせ、出て行かせ、主に仕えさせた。
しかも、わたしを祝福しなさい、と付け加える事を忘れなかった。
モーセがパロの祝福を祈ったとして、もし、パロの家が平安にふさわしかったなら、パロの家に祝福が来ただろう。
しかし結果的にそうでなかった所を見ると、パロは祝福されるには相応しくない家であり、その祝福は、モーセの所に返って来たようである。(マタイ10:13-14)
『そしてイスラエルの人々はモーセの言葉のようにして、エジプトびとから銀の飾り、金の飾り、また衣服を請い求めた。主は民にエジプトびとの情を得させ、彼らの請い求めたものを与えさせられた。こうして彼らはエジプトびとのものを奪い取った。 』(35-36節)
これは、創世記15章の時代から、すなわち「イスラエル民族」がまだアブラムとサラのわずか二人だけだった頃から、既に主から示されていた事である。(創世記15:13-14)
そして、その主が何百年か前に約束された事が、今日の箇所で実現したのである。
『あなたは聞かなかったか、昔わたしがそれを定めたことを。堅固な町々を、あなたがこわして荒塚とすることも、いにしえの日から、わたしが計画して/今それをきたらせたのだ。』(イザヤ37:26)
イスラエル人が出ていく事をエジプト人は喜び、それも、金銀や衣服を喜んで与えてやった。(詩篇 105:37-38)
イスラエル人の中で、最も弱気な人であっても、400年分の溜まりに溜まった給与を、堂々と請求できたのである。
主はそこまで徹底的に真実なお方であり、約束を必ず果たして下さるお方である。
今日は私の祖母(来年1月で96歳)や両親に、クリスマスメッセージを届けに、つくば市まで往復しました。
首都高はいつも苦手です。今日も違ったルートに入ってしまったり渋滞に捕まったりで大変でしたが、祖母や両親と、とても祝福された交わりが出来て、行ってみて良かったです。
祖母は、毎日私のために祈っていると言っておりました。
私の働きがこうして祝福の内に守られている秘密は、それです。
口を閉ざされたザカリヤ(ルカ1:5-80)
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主イエスが降誕されるにあたって、最初にしるしが現れたのは、ザカリヤとエリザベツの老夫婦にであった。
ザカリヤは主の御前で正しい人だったが、彼には子がなかった。(ルカ1:6-7)
ザカリヤは、子が与えられるように、ずっと祈っていた。結婚したばかりの若かりし頃から、歳を取るにつれその祈りは必死になって行ったであろう。彼より正しくない大勢の人達にはどんどん子が与えられ、その子たちは成長しているのに、ザカリヤ夫婦にだけは、与えられていない。
そのまま何もなく、ただ歳だけ取って行くが、産むのが難しい年齢に達しても、彼らは祈っていた。
それでも彼らは、主の御前に誰よりも凛々しく立ち、戒めと定めを落ち度なく行っていた。
そんなある日、ザカリヤは日毎の香を捧げる役割が、くじによって決まったため、その役目をする事となったが、聖所に入った時、なんと、香壇の右に御使いが立っているのを見た。
恐怖に襲われている彼に御使いは言う。「恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈が聞きいれられたのだ。あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名づけなさい。」(13節)
子が与えられること、それは老夫婦の長年の願いであったが、神はそれ以上の事をご計画されている。
その子は、御前に大いなる者となり、胎内にいる時から既に聖霊に満たされており、イスラエルの民の多くを、主なる神に立ち帰らせる。しかも彼は、エリヤの霊と力をもって御前に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、そうして整えられた民を、主に備えるというのだ。
人は周囲を見て、容易に手が届きそうな、人並みのささやかな幸せを求めがちだが、主を愛し恐れる人達に、主が 用意しておられるご計画は、途方もないもの、にわかには信じ切れない次元のものである。
「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」(1コリント2:9)
乙女マリヤもそうだったが、そんな破格なスケールの主のご計画を受けた時、人は困惑してしまう。
「どうしてそんな事が、わたしにわかるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」
彼は主の言葉に対し、自分達の状況と主の言葉とを天秤にかけ、自分が理解する事を要求してしまった。
そんな彼に与えられたしるしは、この事が実現する日まで、口が閉ざされ物が言えなくなる事だった。
御言葉を疑い、「自分が」理解したがる人に与えられるしるし、それは、その口が閉ざされる事である。
せっかく素晴らしいお告げとビジョンが示されたのに、唇が閉ざされてしまって、それを流暢に人に伝える事が出来ないのは、かなりのもどかしさであろう。
しかし意外と、多くの言葉をまくし立てるより、筆談だけのほうが、効果的に相手に伝わるものだ。
蒔かれた種のいのち、主が「こうなる」と言われた事は、寝て起きて、そうこうしている内に育つものである。
多くの言葉でまくし立てずとも、沈黙していても、御業は必ず実現する。その時をじっと待つのが良い。
「さてエリサベツは月が満ちて、男の子を産んだ。」(ルカ1:57) 後継者なき老夫婦に、男子が与えられるのは大きな慰めであり、人々はみなエリザベツと共に喜んだ。
人々がその子に父と同じ名をつけようとしたように、ザカリヤ自身も念願の子に自分の名前をつけたかっただろう。しかし彼らが、自分や他人の望みを手放し、主に言われた通り「その子の名はヨハネ」と公に示した時、ザカリヤの口は開かれた。そして、真っ先に彼の口から出たのは、神への賛美と、預言だった。
自分を降ろして従順を学び、神と人との前で、御言葉の通りに行うその時、主の素晴らしさはさらに明らか意とされ、賛美の口は開け、それも、真っ先に主を褒め称えたい程に、心が整えられるのだ。
ザカリヤはかつて御使いに、自分が「理解」する事を要求し、それによって口をつぐまされてしまったが、その「要求」を止め、自分由来の言葉をつぐんだこの期間、彼はバプテスマのヨハネの父親として訓練され、練られたのだ。
ヨハネは成長すると霊は強くなったが、主が定めた時まで荒野におり、公に活動する日まで口をつぐんだ。
主の御業が成されるまで、自分の意見を言いたい唇は閉じ、理解したいという思いを手放し、御言葉に従順して主を待ち望み、御業が成された暁には真っ先に主を褒め称える皆さんでありますように!
