メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
現代のイエス様の現れ方(ルカ24:13-16):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
2ペテロ3:8-13:右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:王族としての整え(創世記38:24-30):右クリックで保存
『ところが三月ほどたって、ひとりの人がユダに言った、「あなたの嫁タマルは姦淫しました。そのうえ、彼女は姦淫によってみごもりました」。ユダは言った、「彼女を引き出して焼いてしまえ」。』(創世記38:24)
この場面は一見、タマルのいのちの危機だが、実は、危機一髪だったのはユダのほうであった、というのは、前回見た通りである。
ユダ自身、3ヶ月前に密かに遊女を買い、その事を隠そうとしたが、主は、そうは行かせない。
いのちの光は、人が隠そうとしても隠せないし、いのちを殺そうとしても主は守り、また、人のいのちを粗末にする者は、主がその者のいのちを粗末にされる。
ユダは、自分も同じ罪を犯しておきながら、タマルに死刑判決を下したが、彼の子孫・ダビデも、同じ事をした。(2サムエル12章)
預言者ナタンがダビデの元を訪れた時、羊一匹しか持っていない貧しい者からそれを取り上げた金持ちの話をナタンが話したが、ダビデはその金持ちに死刑判決を下した。
しかし実は、その金持ちとは、ダビデ自身の事だったのである。
ダビデは隠れてバテシェバと姦通し、彼女の夫ウリヤを暗殺し、物事を闇に葬り去ろうとしたが、主は、それを白昼公然と晒す事を預言された。
ダビデはそれを聞いた時、「わたしは主に対して罪を犯した」と言って自分の非を認め、正しい判断をした故に、主はダビデの罪を見過ごして下さった。
もしこの時、ダビデがかたくなになり、あくまで自分のしたい事を強引に押し通そうとしていたら、サウルのように悲惨な死を遂げ、子孫は廃れていた事だろう。
『彼女は引き出された時、そのしゅうとに人をつかわして言った、「わたしはこれをもっている人によって、みごもりました」。彼女はまた言った、「どうか、この印と、紐と、つえとはだれのものか、見定めてください」。』(創世記38:25)
ユダは、自分が遊女を買うために一時手放してしまったその印形とひもと杖を見た時、恥じ入った事だろう。
彼もダビデのように自分のした事を闇に葬ろうとしたが、主はそれを白昼公然と晒した。
その時、彼は「彼女はわたしよりも正しい。わたしが彼女をわが子シラに与えなかったためである」と言って自分の罪を認め、もはやタマルと肉体関係を持とうとはしなかった。
もし頑固に怒り狂ってタマルを焼き殺し、3つのいのちを奪っていたとしたら、きっと彼も、オナンのようになっていただろう。
自分には罪がある事を正直に認め、主に立ち返り、正しい事をする事。
それこそ、王族の者の対応である。
ユダは父ヤコブの臨終の時、父から祝福の預言を受ける。
『つえはユダを離れず、/立法者のつえはその足の間を離れることなく、/シロの来る時までに及ぶであろう。もろもろの民は彼に従う。』(創世記49:8)
彼は肉欲のため、遊女を買うために、支配者の杖を一時手放してしまったが、もはや、支配の杖は彼から離れる事は無い。
ユダの家系は女性関係で失敗しやすいが、父祖の代で、このような失敗と恥を受けた事によって、逆に益となった。
彼らは、ことさら女性に対し、伴侶選びに対し、子孫を生み残す事に関して、特に気をつけるようにと、子孫達を教育して行った事だろう。
こうしてユダ族は、支配者として整えられたのだ。
『さて彼女の出産の時がきたが、胎内には、ふたごがあった。』(創世記38:27)
助産婦は、最初に生まれようとしていた赤子の手に、真っ赤な糸を結びつけたが、その子はお母さんのおなかのほうが居心地が良かったのか、戻ってしまい、もう一方のほうが、先に生まれ出てきた。
この、割り込んで先に生まれてきた子はペレツ(割り込む)、真っ赤なしるしをつけられながらも、後から出てきたほうの子は、ゼラフ(輝き)と名付けられた。
真っ赤な糸といえば、ヨシュア記2章の遊女ラハブを思い出す。
彼女はイスラエルの斥候に言われた通り、真っ赤な糸のしるしを窓に結びつけた事によって、家族もろとも救われ、後にはユダの家系へと嫁ぎ、王族の家系に加えられた。
しかしゼラフは、先に生まれかけて赤いしるしも付けられたのに、再びお母さんの胎内に戻ってしまった。
その故に長子の権利は奪われてしまい、王族はペレヅから出ることとなった。
いかに王族の赤い印がつけられても、再び生来の生き方に戻ってしまうなら、神の国の権利は、それを奪おうとする者によって奪われてしまうという事を、私達は忘れてはならない。
「もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。 ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。
モーセの律法を無視する者が、あわれみを受けることなしに、二、三の人の証言に基いて死刑に処せられるとすれば、神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう。 」(ヘブル10:26-29)
ヤコブの兄・エサウのニックネームもエドム(赤い)であったが、彼も長子の権利を軽んじ、それを奪わんとする弟によって、長子の権利も祝福も奪われてしまった。
イエスの血潮という救いの赤い印が与えられたなら、それを決して離さず、神の国をさらに求め、さらに祝福が与えられていく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:いのちによって死を飲み込む主(創世記38:12-23):右クリックで保存
『日がたってシュアの娘ユダの妻は死んだ。その後、ユダは喪を終ってその友アドラムびとヒラと共にテムナに上り、自分の羊の毛を切る者のところへ行った。』(創世記38:12)
主に逆らって怒りを買った二人の息子・エルとオナンは主に打たれて死に、カナンの女もまた死んでしまった。
主は、神を中心とした家庭を築きあげる際、主に逆らって家全体を災いと導いて止めない者を、家族の中から取り除かれる。
12節の「喪を終って」と訳された言葉(nacham)には、「慰められる」という意味もあり、実は「妻が死んで、ユダは慰められた」と訳すことも出来る。
家族の死は確かに痛く悲しい。しかし、主に逆らう者が取り除かれるなら、後々、家全体が慰めを受けるのだ。
『時に、ひとりの人がタマルに告げて、「あなたのしゅうとが羊の毛を切るためにテムナに上って来る」と言ったので、彼女は寡婦の衣服を脱ぎすて、被衣で身をおおい隠して、テムナへ行く道のかたわらにあるエナイムの入口にすわっていた。彼女はシラが成人したのに、自分がその妻にされないのを知ったからである。』(創世記38:13-14)
ユダは、シラが成人したのに、彼が主に打たれるのを恐れて、タマルをシラの嫁にやらずにいた。
オナンはタマルと夫婦の営みをする時、子が出来ないよう外に出し、「生んで増える」という主のいのちの祝福に逆らって殺されてしまったが、ユダのやっている事は、オナンと同じ罪である。
それでタマルは、義理の父・ユダが通りそうな所へ行って遊女の格好をし、ユダの子種を得ようと計ったのかもしれない。
なにしろタマルは、前夫が主の怒りを買って打たれたのを、二度も生々しく見ている。
ユダと共におられるいのちの主に逆らう事が、いかに恐ろしいか、人の良し悪し判断で子を生まない事が、いかに災いを招くかを、目の前で二度も体験している。
今、ユダは自分に子を産ませないようにしているが、それがどんな災いを招いてしまう事だろう。
だから命がけの大胆な行動に出たのかもしれない。
ユダは、遊女の格好をしたタマルを見ると、遊女を買うための交渉を始める。
『彼女は言った、「それをくださるまで、しるしをわたしにくださいますか」。ユダは言った、「どんなしるしをあげようか」。彼女は言った、「あなたの印と紐と、あなたの手にあるつえとを」。彼はこれらを与えて彼女の所にはいった。彼女はユダによってみごもった。』(創世記38:17-18)
彼がしるしとして与えた3つの品は、いずれも大切なものである。
「印」は、指輪のように指にはめられる印鑑で、権威の象徴であり、「紐」は英語ではブレスレットと訳され、腕や首を飾るものであり、また、「つえ」は支配の象徴の道具である。
そんなに大切なものを、ユダは、遊女と寝るための抵当として、預けてしまったのだ。
彼女は中身はタマルではあるが、ユダにとっては異邦の遊女である事には変わりない。
遊女と寝るために、権威と支配の道具を手放してしまうとは、一体どうした事だろうか。
彼が異邦人の国に、異邦の妻の価値観に、どっぷりと漬かってしまったのが、伺える。
しかしこの章を見ていると、人は、罪の行いをしたら主に打たれる、というより、主に逆らい続ける時、打たれるようである。
人は元々、罪に染まっていない者は無い。
そんな人が主に向かうなら救いはあるが、救って下さる主に背を向けるなら、救いは無いのだ。
彼女は、このたった一度の逢瀬で、身篭った。
主はいのちの主であり、子を宿すも宿さないも、主が支配しておられる。
ユダも、その子孫のダビデも、たった一度の逢瀬で、しかも、誰にも知られたくない状況で、いのちを宿された。
そして彼らの誰にも知られたくないような行いは、イエス・キリストの系図の中に、永遠に記録される。(マタイ1章)
結局、人は罪深く、どうしようもない事しか出来ない。
そして、そのどうしようもない「人」の子孫から、神の子キリストは人として宿り、罪は犯されなかったものの、人としての悲惨さを全て味わいつつ、人と共に生き、人の身代わりとなって死んで下さり、人としてよみがえって下さったのである。
人間の欲望に汚れた有様の中に、主の憐れみ、主の良いお方であることのご性質だけが、ただひときわ際立つ。
人は、憐れみ深く聖くあられる主を前に、ただ感謝してひれ伏すしか無く、このお方に逆らい続ける事は、極めて罪深いのだ。
ユダがやった事も、タマルがやった事も、カナン人の女も、息子たちも、いや、人類もみな、主の御前に最低である。
しかし、いのちの主は、いのちによって全ての死を勝利へと飲み込むのである。
礼拝説教メッセージ音声:メシヤの父祖の成り立ち(創世記38:1-11):右クリックで保存
37章からヨセフを中心とした物語が始まったばかりなのに、38章では唐突にユダの結婚と子供の話に入る。
ユダは、イスラエルの王族の父祖であり、全世界を救うメシヤの家系でもあるので、この一族の成り立ちは聖書からは外せない。
しかし、そのような重要な一族生成の初期段階においても、人間の罪と欲望の渦巻くドラマがある。
ユダは兄弟達から離れ、アドラム人ヒラの所で住んでいた。
『ユダはその所で、名をシュアというカナンびとの娘を見て、これをめとり、その所にはいった。』(2節)
今まで学んで来た通り、神に属する家系は、異邦人から妻を迎え入れると、必ず災いとなる。
ユダは兄弟達から離れて住んでいたので、仕方なくカナン人から妻をめとったのであろうが、その、ちょっとした妥協が、後に多くの悲しみと、時間やエネルギーの浪費を生み出す事となってしまう。
最初に生まれた息子・エルは、ユダ自身が名付けたが、2番目・3番目の息子はこのシュアの娘が名付けた。
この異邦人の妻と暮らしていく中で、ユダの家長としての権威はますます弱くなって行き、シュアの娘の影響力が次第に大きくなって行ったのだろう。
長男は、主を恐れる父親より異邦人の母の影響を受け、主をおそれるのではなく怒らせるようになって行き、ついには主に殺されてしまった。
『そこでユダはオナンに言った、「兄の妻の所にはいって、彼女をめとり、兄に子供を得させなさい」。しかしオナンはその子が自分のものとならないのを知っていたので、兄の妻の所にはいった時、兄に子を得させないために地に洩らした。彼のした事は主の前に悪かったので、主は彼をも殺された。』(創世記38:8-10)
イスラエルには、生んで増えて地に満ちるという祝福の命令が与えられているのに、オナンはそれに逆らい、そして父の意向にも逆らったため、彼もまた、主に殺されてしまったのだ。
主の怒りを招いた、と言えば、ヤコブの12人の子達も負けず劣らず行状が悪いが、少なくとも彼らは神を恐れ、意図的な「反逆」はしていない。
しかし、一家に偶像を持ち込んだラケルは早死してしまったように、妻も子供たちも偶像礼拝など主への「反逆」をしてしまったために短命だったのかもしれない。
列王記や歴代誌には、ユダのさらなる子孫たちの有様が記されているが、主を捨てて偶像礼拝に走った王達は、必ずと言っていい程、短命で災い多き人生である。
『そこでユダはその子の妻タマルに言った、「わたしの子シラが成人するまで、寡婦のままで、あなたの父の家にいなさい」。彼は、シラもまた兄弟たちのように死ぬかもしれないと、思ったからである。それでタマルは行って父の家におった。』(創世記38:11)
ユダの妻であるシュアの娘は、出所は「カナン人」であるが、明確な名前は記されておらず、歴代誌にもカナン人シュアの娘と記されている。
しかし、このタマルという女性は、名前は明確に記されているのに、出所は記されていない。
という事はタマルは、もしかしたらアブラハムの家系なのかもしれない。
いずれにせよ、彼女は、ユダ一族の子孫を残す事がいかに大切かをユダよりも意識しており、彼女が主を恐れている事を伺わせる。
ユダは息子が二人も死んでしまったので、タマルが縁起悪いと思ったのだろうか、彼女を三男から遠ざけた。
しかし、息子二人が死んでしまったのは、一体誰の責任だろうか。
それは書かれてある通り、息子たち二人が、主に逆らったからである。
そしてこの三男も「兄弟たちのように死ぬかもしれないと、思った」と書いてある以上、彼も主に打たれて死ぬ要素が十分にあった事を、ユダ自身が認めていたのだろう。
ユダは、タマルを遠くにやるよりも、自分たちの主に対する態度に間違いがあった事を認め、悔い改めるべきだった。
それなのに彼はそれをせず、一人の弱い立場の女性・タマルを遠くにやり、嫌な事はうやむやのまま、葬り去ろうとしたのだ。
しかし、神に属する一族にあっては、罪の問題やいのちを生む事、神への果たすべき責任を、うやむやのまま先延ばしにして、そのままフェードアウト出来るわけは無いのだ。
ユダは悔い改めを先延ばしにしてしまった結果、後に人々の前でとても恥ずかしい思いをする事となる。
ちょっとした信仰の妥協は、大きなロスと悲しみを生み出し、果たすべき謝罪や悔い改めを、先延ばしにすればする程、後に受ける恥も災いもどんどん大きくなっていく。
主の御声には、どんなささやかなものでも正確に聞く耳が開かれ、その導きに従って、時間もいのちもロスする事なく歩んで行く皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
良くなったら、どうするか?(ルカ17:11-19)
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イエス様がエルサレムに向かう途上のある村で、10人のらい病人が遠くに立ち、イエス様に叫んだ。「イエスさま、わたしたちをあわれんでください」(ルカ17:13)
この病に罹ると、神経は麻痺し痛みや熱さなど感じないため、怪我しても正常な対応ができない事が多い。
らい病は律法では汚れているとされ、出歩ける所も制限され、家族にも会えず、隔離されて生きるしか無い。
当時は治療法の無い病として恐れられていたが、私達も霊的に、この病に罹っているようなものである。
私達は、罪という癒しようの無い病によって汚れ、霊の感覚が麻痺しているため、嘘をついたり、人を傷つけたりして、自分自身をどんどん罪のとげで刺しても、全く気付かず、やがて死に至ってしまう。
彼らはイスラエルの民から隔離されなくてはならなかったように、私達も、以前は救いから遠く離れ、空中に権威を持つ支配者・サタンに縛られ、肉欲の望むままを行い、滅びるべき者達だった。(エペソ2:1-8)
しかし、憐れみ豊かな神は、私達を愛して下さったその大きな愛の故に、罪の中に死んでいた私達をキリストと共に生かし、共に天の所に座らせて下さる恵みの道、救いの道を、私達に与えて下さった。
らい病人達がイエス様に「あわれんでください」と遠くから叫んだように、救いから遠い私達もイエス様に「あわれんでください」と叫ぶなら、救いの道は開かれるのだ。それはイスラエル人も異邦人にも、違いは無い。
イエス様は、彼らに手を置いて祈るなどはせず「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。
祭司の所に行って体を見せるのは、本来体が治癒を見せてからだが、まだ兆候も無いのに、そう指示した。
もし祭司から「きよめられた」という宣言が出たら、らい病人としての隔離生活は終わり、家族の元に戻ってイスラエルの民としての生活が出来、それまでしたくても出来なかったあの事この事も出来るようになる。
彼らはまだ癒しの兆候も無い内にイエス様の言葉を信じ、言われた通り実行したら、その最中に癒された。
しかし、自分を癒して下さったお方の所へ引き返し、感謝をささげたのは、たった一人だけだった。
主は「きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか」と言われ、悲しまれた。(ルカ17:17-18)
神を知らぬ人でも、大抵祈る。私を幸いにして下さい、病を癒して下さい、富ませて下さい、と。
しかし、自分が癒された後、富んだ後、自分をそのように幸いにして下さったお方に、何を感謝し、そのお方とどのように関わって生きて行くのか、という事が、すっぽりと抜けている人の何と多い事だろう。
癒された9人は、イエス様の所へ戻って神をほめたたえる事なく、祭司の所で清められた事のお墨付きをもらったら、それぞれ自分の好きな所へ行き、やりたかったあの事この事をしに、さっさと出かけてしまった。
主は、願い事を何でも叶えてくれる都合の良い四次元ポケットではないし、祈りは、癒しや富、幸いを引き出すためのキャッシュカードでもない。主は人格ある御方であり、祈りはその御方との麗しい交わりなのだ。
主が嘆き悲しみから開放し、病を追い出し、貧しさから解放して下さったのなら、すぐに感謝するために戻り、以前、悲しみや病、貧しさのあった隙間を、主への賛美や御言葉、奉仕で埋めなくてはならない。
癒されても感謝する気が無いなら、むしろ癒されない方が良いし、奇跡を見ても信じる気が無いなら、奇跡など起こらないほうが良い。なぜなら、癒されても、奇跡を見ても、なお主への方向転換(悔い改め)が無いまま、依然として罪を犯し続けるなら、前よりも、もっと悪い状態になってしまうからだ。
悪霊が出て行った時、そこを空き家の状態にしておくと、それは悪霊の好む飾り付け(コスメオー)となり、次に悪霊が帰って来た時、さらにたちの悪い悪霊を七つを連れ込み、前よりもっと悪くなってしまう。しるしや奇跡を見ても悔い改めず、主の元に来ない者は、そのようになってしまうのだ。(マタイ12:38-45)
主イエス様に癒され、良くしてもらったのなら、主の元に戻って感謝を捧げ、主の元に留まるべきである。
私達が「この事が解決したらあの事この事をしたい」という、主・不在の願望を持っている内は、解決は先延ばしになる可能性が大きい。なぜなら、自己中な動機を持っている限り、逆に災いになってしまうからだ。
天国とは、単に快適で気持ちの良いお花畑ではなく、神と共に住み、神と永遠に関わりを持つ所である。
全能であり完全な愛で愛して下さるお方・イエス様と、関わり続ける事。これこそ私達にとって全てである。
主に癒された後、幸いが与えられた後、富が与えられた後、主とどのように関わって行くつもりだろうか?
願いが聞かれ幸いになった暁にはしっかり感謝し、主といつまでも関わり続ける皆さんでありますように!
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
天で偉大な者は、子供のような者(マタイ18:1-4):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
主はわたしの羊飼い(詩篇23篇):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
2ペテロ3:1-7:右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:人の愛情(創世記37:29-36):右クリックで保存
『彼らはヨセフの着物を取り、雄やぎを殺して、着物をその血に浸し、その長そでの着物を父に持ち帰って言った、「わたしたちはこれを見つけましたが、これはあなたの子の着物か、どうか見さだめてください」。 』(31-32節)
ヤコブ自身が愛情を込めて特別にこしらえ、ヨセフに贈った長服が、ぼろぼろに、血に染まって帰って来た。
それを手に取った時の彼の悲しみは、どれほどだったろう。
しかし、彼自身が行った「偏愛」という行いの実を、彼自身が刈り取ったのである。
ヤコブはかつて、「やぎ」の毛皮と、兄の「晴れ着」を用いて「父親騙し」を実行し、父が愛した兄から祝福を奪ったが、今回、彼の息子たちに「やぎ」の血とヨセフの「長服」を使って「父親騙し」を実行され、愛するヨセフを奪われたのだ。
自分がかつて行った「父親騙し」の実も、その身に刈り取ったわけである。
「そこでヤコブは衣服を裂き、荒布を腰にまとって、長い間その子のために嘆いた。」(34節)
ヤコブのその後の言動からは、以前のような覇気は無くなってしまい、何事にも神経質で、失う事を非常に恐れている事から、悲嘆にくれつつ余生を送っていたのを伺う事ができる。
人間の愛情。
それは良いものに見えて、実にやっかいである。
ヤコブがヨセフに寄せていた「愛情」は、兄弟に憎しみを芽生えさせ、ヨセフを命の危険に晒させ、ヤコブ自身に、大きな悲しみを招いてしまった。
人の愛は、利己的で、時に不純で、気まぐれであり、愛憎が強ければ強いほど、自分や周りに対して破壊力を生み出すものだが、主の愛は純粋で完全、永遠である。
彼は時にイスラエルと記されたり、時にヤコブと古い名で記されたりしているが、今回の箇所では、ヤコブの名で記されている。
ヤコブという名前からは、人を掴み、人の祝福を奪い取る、以前の古い生き方を連想させる。
彼は神からイスラエル(「神に支配される」の意)という新しい名が与えられたのに、しばらくは「ヤコブ」と「イスラエル」との間を、行ったり来たりしていたのだ。
ヤコブの生き方、すなわち自分で掴み取る生き方は、失うのみである。
彼はヨセフを手の内に「掴んで」寵愛した結果、失ってしまった。
自分のものとして握り締めていたもろもろが、指の間からこぼれ落ちていくたびに、「あなたはまだ手放さなくてはならない」と言われているのであり、どんどん手放して身軽になっていく内に、ますます主の御前に有用になって行くのである。
一家の中からヨセフが消えた事によって、この一家は変えられていく。
父親は、偏って愛する事がいかに愚かな事だったかを悟り、父親がこんなに悲しんだのを見た兄たちも、自分達のしてきた事がいかに愚かだったかを知った。
しかし、主にあって一度失ったものは、遥かに優れた形で取り戻すのが、十字架の原則である。
ヨセフはまだ生きており、そしてやがて、遥かに優れた形になって父親の懐に帰ってくるのである。