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メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
不正の冨で(ルカ16:9-11):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:真の先物取引の必勝法(創世記41:47-57):右クリックで保存

先物取引する人は、何年も供給過剰が続くような商品をひたすら買い続け、それを7年も続ける、などというような事は、普通はしない。
人は先に何が起こるのかが分からないため、そんな事をしたら在庫を腐らせたり、別のチャンスを逃してしまう恐れがあるからだ。
しかしヨセフはどうしたか。

『ヨセフは穀物を海の砂のように、非常に多くたくわえ、量りきれなくなったので、ついに量ることをやめた。』(創世記41:49)
普通なら、穀物を他国に売ったり生産調整したりするものだが、彼は7年間、ひたすら倉庫を造っては備蓄した。
それは、人の目には愚かに見えたかもしれない。
しかしヨセフは、神から示された事を信じて、ひたすら蓄えるよう指示した。
そしてやがて、彼が蓄えて来た物の価値が暴騰する時が来るのである。

ノアもまた、海のない所に巨大な船を造るという、人の目には愚かに見える事をしたが、やがて人々は、ノアの勧め通りその船に入っていれば良かったと後悔する日が来てしまう。
主がノアやヨセフにあらかじめ起こる事を示しておられたように、私達にも今、やがて起こる事が記され、為すべき事を示されている書物がある。
それが、聖書である。

株や先物取引などをする人は、指標や要人発言に神経を尖らせ、昼も夜もチャートに目を留めていなければ気が済まないものだ。
それは、自分の資産をいかに増やし、いかに減らさぬようにするためだが、それらは心を病ませ、人生の大切な時間を奪わせるものだ。
世の冨は移ろいやすく、人を欺き、まことのいのちから遠ざけるからである。

むしろ私達が気にするべき指標は、時代のしるしであり、最も耳を傾けるべき要人は、イエス・キリストである。
昼も夜も、御言葉というチャートに目を留め、今自分がどこにいるのか、どこへ向かうべきなのか。
そこに私たちが目を向けるなら、誰にも掠め取れず決して欺くことのないまことの資産を天に蓄え、永遠のいのちを獲得するのである。
それこそ、真の先物取引の必勝法である。

『ききんの年の来る前にヨセフにふたりの子が生れた。これらはオンの祭司ポテペラの娘アセナテが産んだのである。』(創世記41:50)
ヨセフは必然的に異邦人の妻を迎えさせられる事となったが、ヨセフは家の中で妻に主導権を握らせるような事はさせず、しっかりと神を畏れるスタンスを家庭の中で保った。
その事は、彼自身が二人の子を名付けている場面から、容易に想像できる。

ヨセフに二人の子が生まれた時、共通して彼が告白している事は、彼はエジプトの地で労苦と苦しみを覚えていた事、しかし「神」が主体的に働かれ、そこから救い出して下さった事だ。
ヨセフの物語を見るに、彼がその時、何を思い、何を感じたか、という表現が無いため、ヨセフという人物は何か苦しくてもマイペースにのほほんと生きてきたかのような印象を受けるかもしれないが、ヨセフは確かに、かの13年間、苦しかったのである。
悲しく、恐く、心細く、悩み、涙する事も、当然あったのである。
しかし、彼はたった一人の苦しみの中で、彼は神にのみを頼みとし、その結果、神が彼のやる事なす事全てうまく行かせて下さったのだ。

『ヨセフは長子の名をマナセと名づけて言った、「神がわたしにすべての苦難と父の家のすべての事を忘れさせられた」。』(創世記41:51)
マナセはヘブル語ではメナシュ、「忘れる」の語源「ナシャ」の派生語である。
彼はそれまで、父の家を思い出すたびに、嫌な、恐ろしく悲しい思いをしていたのだろう。
しかし神は、その事を忘れさせて下さった。

私達もまた、たとえ自らの身に招いた罪の故に罰せられていても、主に悔い改めて立ち返るなら、それらの苦労を忘れさせて下さるのである。
『先の苦難は忘れられ、わたしの目から隠されるからだ。見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。』(イザヤ65:16-17)

『また次の子の名をエフライムと名づけて言った、「神がわたしを悩みの地で豊かにせられた」。』(創世記41:52)
エフライムは「実り多い」の意味「フェラ」の派生語である。
主は、昔の事どもを忘れさせるだけでなく、導かれた所で、実り多くさせて下さるのだ。
『「慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」とあなたがたの神は仰せられる。「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと」』(イザヤ40:1)

ヨセフは、蓄えるべき時に蓄えていたために、ききんが来ても慌てる事なかった。
『ききんが地の全面にあったので、ヨセフはすべての穀倉を開いて、エジプトびとに売った。ききんはますますエジプトの国に激しくなった。ききんが全地に激しくなったので、諸国の人々がエジプトのヨセフのもとに穀物を買うためにきた。』(創世記41:56-57)

全身おできの貧乏人・ラザロが留まっていた金持ちは、天に富を蓄えるべき時にそれをせず、遊び呆けていたため、蓄えるべき期間が終ってしまった時、彼はハデスに行くしかなかった。(ルカ16:20-31)
また愚かな5人の乙女は、油が買える内に油の用意をしておかなかったため、花婿にめとられるべき時機を逃してしまい、外の暗闇で歯ぎしりする事となってしまった。

ヨセフが豊作の7年間にしっかり蓄えたように、天に蓄えるべき時機を逃さず、しっかりと蓄える皆さんでありますように。
この世で生かされている恵みの時、救いの時に、花婿がいつ迎えが来ても良いよう聖霊の油を絶やさず、よるべの無い弱い兄弟姉妹を憐れむ事によって、しっかりと天に蓄えをしておく皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:監獄の奴隷から総理大臣へ(創世記41:37-46):右クリックで保存

『パロはヨセフに言った、「神がこれを皆あなたに示された。あなたのようにさとく賢い者はない。あなたはわたしの家を治めてください。わたしの民はみなあなたの言葉に従うでしょう。わたしはただ王の位でだけあなたにまさる」。パロは更にヨセフに言った、「わたしはあなたをエジプト全国のつかさとする」。』(創世記41:39-41)
いよいよヨセフは、監獄の奴隷から、総理大臣へと、大昇進を遂げる。

ヨセフを総理大臣に大抜擢したパロは、ヒクソス時代の王と思われる。
エジプト人は元々羊飼いを嫌い、ヘブル人とは一緒に食事をしないものだが、ヒクソス(ヘカ・カスウト:「異国の支配者達」あるいは「羊飼いの王達」の意味)は、パレスチナ地方に起源を持つ、異国の血が混じった雑多な集団と考えられており、異国人や他文化には比較的寛大で、パロがヨセフに理解がありエジプトの神々にも執着がない事とも、つじつまが合う。

総理大臣として国政を任せるからには、当然、夢を解く能力だけでは務まらない。

会社の人事が学生を採用するにあたり、学生時代にどのように資質を培って来たかを見るように、パロもまた、ヨセフを呼び寄せるに当たり、献酌官長や彼に関わった全ての人達から、彼の人となりを詳しく聞き、背後調査をしただろう。
ヨセフがいた監獄でどんな管理をし、仕事ぶりを発揮したか。ポティファルの家でどんな仕事ぶりで、どんな昇進を遂げ、どういう成果を出したか等、彼の性格や人となり、管理能力や問題解決能力など資質を総合判断し、その上で「神の霊」に満ちている様を見たので、パロは彼に国政を任せる気になったのだろう。
私達も、小さな事に忠実となり、素養を培うべき時にしっかりと培うべきである。

『そしてパロは指輪を手からはずして、ヨセフの手にはめ、亜麻布の衣服を着せ、金の鎖をくびにかけ、自分の第二の車に彼を乗せ、「ひざまずけ」とその前に呼ばわらせ、こうして彼をエジプト全国のつかさとした。』(創世記41:42-43)
指輪は印鑑の役割を果たし、王としての権威を委ねられた、という事である。
また亜麻布の衣服は高級な宮廷服であり、金の首飾りは名誉のかざりである。

「パロはヨセフの名をザフナテ・パネアと呼び、オンの祭司ポテペラの娘アセナテを妻として彼に与えた。ヨセフはエジプトの国を巡った。」(創世記41:45)
パロがヨセフに与えた新しい名「ザフナテ・パネア(別訳:ツァフェナテ・パネアハ)」とは「世界の救い主」「秘密を解き明かす者」あるいは「神は語る、彼は生きる」という意味だそうである。
パロがヨセフをそのような称号で呼ばせたように、私達も、イエス様を一家の救い主とし、秘密を解き明かす者、人生の導き者と家族に呼ばせるなら、大いに祝福され、栄えるのである。

ヨセフはイエス様のひな形である。
ヨセフは30歳の時に公な活動を開始したように、イエス様も同じ30歳で公の活動を開始した。
父からの寵愛を受け、誰にも正直に、神から託された事を語り、それ故に妬まれ、憎まれ、銀で売り渡され、無実であるのに罪状をなすりつけられた。
それでも彼は、ののしり返さず、正しくさばかれる神に委ね、一時は地下牢に下ったが、後には栄光の統治の座に着いた。

パロは自ら支配の座を降り、神の霊に満ちた人・ヨセフに委ねたが、そのパロの態度を私達も見習うべきである。
パロ(ファラオ)とは元々、「王宮(大きな家=ぺル・アア)」を意味するが、彼はエジプトという車の運転席を降り、ハンドルをヨセフに譲って、ヨセフのハンドルさばきに国の運行を委ねた結果、パロの家は、どの国よりも栄えた。
私達も同じように、自分の人生という車の運転席を自ら降りて、イエス様に譲り、イエス様に人生のハンドルさばきを委ねるのである。
そうするなら全てにおいて祝福され、幸いな者とされ、滅びる事のない神の国へと導かれて行くのである。

『あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。
さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。あなたがたは、羊のようにさ迷っていたが、今は、たましいの牧者であり監督であるかたのもとに、たち帰ったのである。』(1ペテロ2:21-25)

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
とげのついた棒を蹴るのは痛い事だ(使徒26:9-18):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:神の言葉の代弁者として(創世記41:16-36):右クリックで保存

『ヨセフはパロに答えて言った、「いいえ、わたしではありません。神がパロに平安(シャローム)をお告げになりましょう」』(創世記41:16)
神は、ヨセフという預言者を通してパロに平和を告げ知らせたが、同じように、主は私達をヨセフのように用いて、世に平和の福音を告げ知らせられる。

エジプトは当時の世界の大国で、その王であるパロに比べれば、ヨセフはあまりに小さく取るに足りない存在であったかもしれない。
しかし、全てを支配しておられる天の神がヨセフと共におり、そしてその御方は私達にも共におり、いかに世界のスーパーパワーのトップであろうとも、このお方の手の上に踊らされているに過ぎず、その御心は必ず成就するのである。
『いにしえよりこのかたの事をおぼえよ。わたしは神である、わたしのほかに神はない。わたしは神である、わたしと等しい者はない。わたしは終りの事を初めから告げ、まだなされない事を昔から告げて言う、『わたしの計りごとは必ず成り、わが目的をことごとくなし遂げる』と。わたしは東から猛禽を招き、遠い国からわが計りごとを行う人を招く。わたしはこの事を語ったゆえ、必ずこさせる。わたしはこの事をはかったゆえ、必ず行う。』(イザヤ46:9)

ダニエルも、バビロン王の夢の意味が示された時、神を賛美して言った。
『「神のみ名は永遠より永遠に至るまでほむべきかな、知恵と権能とは神のものである。神は時と季節とを変じ、王を廃し、王を立て、知者に知恵を与え、賢者に知識を授けられる。神は深妙、秘密の事をあらわし、暗黒にあるものを知り、光をご自身のうちに宿す。』(ダニエル2:20-22)
そういうわけで、私達がいかにちいさな存在であっても、主が共におられるならば、決して恐れる事など無いのだ。

パロはヨセフに夢の内容を打ち明けたが、それはいずれも、先に7つの肥えたものが現れ、後に現れる7つの痩せたものが、それを飲み込んでしまう、という内容だった。
神の霊に満たされたヨセフは、7年の大豊作と、その後の7年の大凶作が訪れるという、神の意図を解き明かした。
ヨセフは「神が」という言葉を幾度も用い、天地を造られた神が世界の全ての運行を支配されている事を強調した。

彼は王や人々を前に、神の言葉を代弁して語ったが、果たしてパロはそれを受け入れて、ヨセフの言うとおりにした。
そうしてパロも、エジプトという国も、滅びることをまぬがれた。
神の言葉を預かった者(預言者)が神の意図を人々に語り、それを受け入れた人々は救われ、受け入れなかった人々は滅びる。
それはいつの時代も変わることなく行われており、現代を生きる私達も、同じように、神の意図を人々に語るべきである。

『それゆえパロは今、さとく、かつ賢い人を尋ね出してエジプトの国を治めさせなさい。パロはこうして国中に監督を置き、その七年の豊作のうちに、エジプトの国の産物の五分の一を取り、続いて来る良い年々のすべての食糧を彼らに集めさせ、穀物を食糧として、パロの手で町々にたくわえ守らせなさい。
こうすれば食糧は、エジプトの国に臨む七年のききんに備えて、この国のためにたくわえとなり、この国はききんによって滅びることがないでしょう」。』(創世記41:33)

ヨセフは、大地が実りを生み出す時期に、蓄えをしておく事を、エジプトの人々に勧めた。
私達も、キリストから勧められている。
今は、キリストの福音が告げ知らされている恵みの時、救いの時期である。あらゆる国に出て行って福音を伝え、人々にバプテスマを授け、弟子とし、多くのたましいを、天の倉へと蓄える事を。

『わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない。神はこう言われる、/「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、/救の日にあなたを助けた」。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。』(2コリント6:1-2)
『あなたがたは、刈入れ時が来るまでには、まだ四か月あると、言っているではないか。しかし、わたしはあなたがたに言う。目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている。刈る者は報酬を受けて、永遠の命に至る実を集めている。まく者も刈る者も、共々に喜ぶためである。』(ヨハネ 4:35-36)

やがて、たましいの収穫が出来ない暗闇の時代が来てしまう。
そうなる前の、収穫可能な今の内に、一人でも多くのたましいの刈り取りをする働き人として私達は働くべきであり、収穫の主に働き人がさらに起こされるよう、祈るべきである。
多くのたましいを天の倉に納め、かの日には「良くやった、忠実なしもべよ」と主から褒められ、天の御国において多くを任される皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
2ペテロ3:14-18:右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:主が露わにする時は必ず来る(創世記41:1-16):右クリックで保存

『朝になって、パロは心が騒ぎ、人をつかわして、エジプトのすべての魔術師とすべての知者とを呼び寄せ、彼らに夢を告げたが、これをパロに解き明かしうる者がなかった。』(創世記41:8)
神の御心は、人の知恵で計り知る事はできず、世のどんな知者もそこに到達する事はできない。
神が見させた夢を解釈できたのは、神の霊が宿る人・ヨセフのみであったように、御霊によって新しく生まれた人のみが、御心を悟る事が出来るのである。(ヨハネ3:8)

パロの献酌官長はこの時、二年越しにしてようやく、自分の夢を解き明かしてくれたヨセフの事を思い出した。
ヨセフはあの時、神の知恵を語ったのに忘れ去られ報われなかった。
同じように私達も、神の国のことばを伝えた時、相手は表層的な事しか覚えてくれていなかったり、忘れ去ってしまったりして、落胆したり、その時は日の目を見なかったりする事がある。
しかし、神の言葉は決して地に落ちたままでいる事は無い。

神の言葉を伝えられた人が、たといそれを忘れたとしても、この献酌官長のように、否が応でも思い出させられ、王の御前で申し開きしなくてはならない時が、必ず来るのである。
ヨセフが献酌官長に伝えた言葉は、その時は実らなかったが、ずっと後に実ったように、私達が語った御言葉も、決して地に落ちたままでいる事なく、必ず後には実るのである。
『天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。』(イザヤ55:10)

ヨセフは今まで、良い事をしてもそれが悪い方向へ、悪い状態へと引きずられて行ってしまったが、今度は一転して、今まで受けてきた良くない事を全て償って余りある方向へと導かれる。
『そこでパロは人をつかわしてヨセフを呼んだ。人々は急いで彼を地下の獄屋から出した。ヨセフは、ひげをそり、着物を着替えてパロのもとに行った。』(創世記41:14)

御言葉のともしびは、人間がいかに器に隠そうとしても隠しおおせず、必ず主が燭台の上に置かれる。
ヨセフが牢屋という密かな狭い所で語った御言葉は、今度は公で広い所で語る事となり、彼が密かな狭い牢屋で行った忠実なわざも、今度は大きなステージで、公に為す事となる。
『あかりをつけてから、それを器で隠したり、寝台の下に置いたりする者はありません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです。
隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現われないものはありません。だから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです。』(ルカ8:16-18)
良い事であれ、悪い事であれ、密かな所で言った事や行った事は、主が露わにするべき時には、必ず露わにされるのである。

『ヨセフはパロに答えて言った、「いいえ、わたしではありません。神がパロに平安をお告げになりましょう」。』(創世記41:16)
ヨセフは、夢を解き明かすこの特殊な能力の出処は、自分ではなく、神である事を公にした。
使徒パウロも同じように、牢獄から王の前に引き出されて行った時、そこで語った言葉は、自分に関する釈明ではなく、十字架につけられたキリストすなわち救い主についてであった。(使徒25章)

王や権力者の前に引き出されて行った時、何を語ろうかと、心配するには及ばない。
御霊に導かれているなら、語るべき言葉は与えられるからだ。(マタイ10:19-20)

『キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。』(ピリピ2:6-11)

ヨセフは一時期低く、卑しくされたが、後には、彼を低く卑しくした全ての膝は、ヨセフの前にかがめられるようになる。
キリストも一時は低くなられたが、後には、全ての膝は彼の前にかがめるのである。
そして御言葉は、たとい一時期人から忘れされても、後にはその御言葉は、誰の目にも明らかな形で実を結び、神の御業は必ず成就するのだと、人々は知るようになるのである。

礼拝説教メッセージ音声:牢獄のような狭い世界で(創世記40章):右クリックで保存

その後、ヨセフが入れられている監獄に、献酌官長と調理官長が入れられてきた。
『侍衛長はヨセフに命じて彼らと共におらせたので、ヨセフは彼らに仕えた。こうして彼らは監禁所で幾日かを過ごした。』(創世記40:4)

ヨセフは、与えられた仕事なら奴隷仕事でも監獄でも誠実に実行し、やる事なす事全て祝福されたため、どこででも信頼を得、責任ある仕事をどんどん任された。
彼は、全ての仕事がうまくいくその与えられている特権を、脱獄したり暴動を起こしたりといった身勝手な方向には用いず、与えられている持ち場に留まり、与えられている権威に忠実に従うという方向に用いたため、後にはエジプト一国という大きな事を神様から任せられるようになり、イスラエルの全家族を救うという大役が任せられる事になる。

『さて獄屋につながれたエジプト王の給仕役と料理役のふたりは一夜のうちにそれぞれ意味のある夢を見た。』(5節)
彼は、牢屋という狭い世界にいたため、主から与えられている「解き明かし」の賜物を発揮する機会が無かった。
与えられている霊的な賜物(神様から与えられている能力)を、狭い世界に閉じ込められているが故に発揮できずにいる事を、人はもどかしく思い、自分はこんな所でこんな事をしているような器ではない、と、じたばたするものだが、彼はそんな事せず、忠実に仕えたのだ。

『彼らは言った、「わたしたちは夢を見ましたが、解いてくれる者がいません」。ヨセフは彼らに言った、「解くことは神によるのではありませんか。どうぞ、わたしに話してください」。』(8節)
ヨセフは、自分に与えられている賜物の源は神から来るものであり、その能力を用いるのは、自分が活躍して偉くなるためではなく、神の栄光を周囲の人達に現すためだと、彼は知っていたのである。
ヨセフが、牢屋という世界の狭い人間関係において、神の栄光を表していたように、私達も、変わらぬ日々のつまらない日常において神の栄光を現し、周りにイエス・キリストを伝えるべきだ。

献酌官長が夢の内容を語った時、ヨセフはその夢を見事に解き明かした。
すなわち、彼は三日目に開放され、元の地位に戻るのだ。
その時、ヨセフはお願いする。
『あなたがしあわせになられたら、わたしを覚えていて、どうかわたしに恵みを施し、わたしの事をパロに話して、この家からわたしを出してください。わたしは、実はヘブルびとの地からさらわれてきた者です。またここでもわたしは地下の獄屋に入れられるような事はしなかったのです」。』(14-15節)

彼は、自分の兄のせいでとか、あのポティファルの妻のせいでこうなった、等と人の事は言わず、ただ「わたしは地下の獄屋に入れられるような事はしなかった」からと、平和にお願いしている。
忘れてはならない。地を相続するのは、平和な者である。(マタイ5:5)

そしてまた、調理官長も自分の夢をヨセフに語るのだが、その解き明かしは調理館長にとって災いだった。
それでもヨセフは、偽りの慰めは言う事なく、神様から与えられた事を、正直に正しく伝えた。

預言者たる者は、神から与えられた事を正しく伝えなくてはならず、たとい滅んでいく事がわかっている者にであっても、そうするのである。
そして彼がこの時、正直に正しく伝えたからこそ、彼には確かに神の力が宿っていると、パロに伝えられたのだ。
世の中では「正直者はばかを見る」かもしれないが、神の国では「正直な人は地に住みつき、潔白な人は地に生き残る。」(箴言2:21)のである。

果たしてヨセフの解き明かし通りの事が二人に起こるのだが、献酌官長はヨセフに頼まれていた事を思い出さず、彼のことを2年も忘れてしまっていた。
それはヨセフにとっては災いだっただろうが、それも実は、神にあって重要な意味があったのである。

もしこの時、献酌官長がヨセフに言われていた事を忘れずに実行し、その時ヨセフが釈放されていたら、彼はきっと、かの問題だらけの父や兄達の元に帰り、全ての事を父に正直に伝え、一悶着起こし、一生を羊飼いで過ごしていたかもしれない。
人は何かと目先の事しか考えず、あまり良くない結果しか生み出さないが、天が地よりも遥か高いように、主の道は私達の道よりも高く、主の御思いは天のように高い。(イザヤ55:9)

もし今、目の前の現実において、牢獄のような狭い世界でつまらないと見られる事を任されていたり、賜物を発揮できないような状況にあるとしたら、全ての事を主にあって忠実に為してみてはどうだろうか。
神に対して罪を犯す事を強要されるなら、ヨセフのように断固拒否するべきであるが、罪を犯させない環境下であるなら、与えられている事がどんな事であっても、忠実に為すべきである。
そして、小さな事に忠実であり続けるなら、さらに大きなことが任されるのである。

祝福されたら、どうするか?(申命記26章)
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『あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、牛や羊が殖え、銀や金が増し、財産が豊かになって、心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい。』(申命記8:12-14)
私たちは、食べて満足する事や立派な家が建つ事、持ち物が増え、財産が増す事は大好きで、是非そうなるようにと、良く祈る。しかし、そのような祝福を受け、幸いを受けた後、主とどのように関わっていくか、という事こそ、今から心がけ、しっかりと頭の中でシュミレーションしておくべきである。
私達が幸いを得た時、どのようにすべきか。それは、申命記26章に詳しく書かれてある。

私達が祝福され、幸いを受けたなら、まず、主が指定された場所へ行って感謝し、礼拝するようにと、定められている。すなわち、任務に就いている祭司の所へ行き、自分が幸いになった事を主に報告し(同3節)、祭司はそれを主の御前に捧げる(4節)。
そこで私達は次のように告白する。自分はかつて、いかに取るに足りぬ者であり、いかに弱く人々から苦しめられていたかを(5-7節)。そして、主に向かって叫んだ時、主がいかに力強い御手でそこから救い出し、主がいかに良き地を与えて下さったのかを。(8-9節)
そうして、主が与えて下さった祝福の初物を捧げ、礼拝し(10節)、主が与えて下さった恵みを、レビ人すなわち主の働き人と、在留異国人すなわち私達の内にいる身寄りのない人と共に喜ぶのである。(11節)

祝福を受け幸いを得たら、それで終わりではない。主が命じられた事を、守り行い続ける事こそ大事である。
レビ人や在留異国人、孤児とやもめには、土地や仕事などの分け前が主から与えられていないため、それら分け前が与えられている聖徒は、彼らに祝福の分け前を与え、満足させる義務が与えられており、それを守る聖徒には、主が全ての手のわざを祝福して下さる事を約束しておられる。(申命記14:28-29)
そうしてそれらの義務を果たした後、主に「私は主の御声に聞き従い、すべて命じられた通りに行いました」と、主に報告するなら、次のように祈る事ができる。
「天にあるあなたの聖なる住まいから見下ろして、あなたの民イスラエルを祝福し、あなたが先祖に誓われたとおりに、わたしたちに授けられた地、乳と蜜の流れる土地を祝福してください。」(申命記26:12-15)

私達は何かと、乳と蜜の流れる地に「入る事」や「居る事」を求めるが、それよりも、私達自身が主の御声に聞き従い、祝福の子であり続ける事のほうが、はるかに大事である。
もし私達が御声に背き続けて「呪いの子」となってしまうなら、たとい私達のいる場所が乳と蜜の流れる地であっても、それは私達に対して「呪いの地」となってしまう。
現にイスラエルの民は、乳と蜜の流れる地にいながら驕り高ぶり、主を忘れ、幾度にも渡る預言者による警告に耳を傾けなかった結果、その「乳と蜜の流れる地」に居ながらにして、病や剣、ききん等で屍をさらし、ついにはその地から吐き出されてしまった。
主が私達の祈りに答えて下さり、私達が望む高いポジションに登りつめ、収入が多くなり、安住の地を得た時こそ、注意して主の御声に聞き従い、祝福の子であり続けるようにと、つとめるべきである。
傲慢になり、そのようにして下さった主を忘れてしまうなら、かつてのイスラエルの民のように、それら祝福は奪われ、以前よりさらに悪い状態になってしまうのだ。

神が定めた律法を守り行うなら、祝福して下さる、と神は約束して下さったが、人は律法を全て守り行う事が出来ない。しかし、律法を成就して下さったお方であるイエス様を主とし、主と一つとなる事は出来る。
すなわち、自分が自分の主人である事を降り、自分の人生のハンドルさばきをイエス様に委ね、イエス様を自分の主人とし、イエス様の御声に聞き従うと明言するなら、主は次のように明言される。
『あなたに約束したとおり、あなたは主の宝の民であり、あなたが主のすべての命令を守るなら、主は、賛美と名声と栄光とを与えて、あなたを主が造られたすべての国々の上に高くあげる。そして、約束のとおり、あなたは、あなたの神、主の聖なる民となる。』(申命記26:16-19)

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