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メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:原点へ還れ - 再びベテルへ(創世記35:1-5):右クリックで保存

子供達は近隣に憎まれる事をし、家長としての権威も失墜して、どうにもならなくなってしまったヤコブに、神が現れ指示した。
「さあ、ベテルに上り、そこに住みなさい。」と。(18節)
ベテル。それはヤコブにとっての信仰の原点であり、そこに立ち還れ、と言ったのだ。

今や多くを持っているヤコブだが、かつて、エサウを逃れて一人故郷を逃げて来た時、彼はみじめで、はだか同然で、力も無かった所に、神はベテルで現れた。
ヤコブはこのベテルの経験を通して20年間のラバンの元での生活は守られ、祝福され家族も持ち物も増えたのだが、持ち物が増え兄の脅威も無くなると、ヤコブは次第に神様に頼る心が薄れ、混沌な状態へと陥ってしまった。
ちょうどエペソの教会のような状況である。(使徒19,20章、黙示録2:4-5)

ヤコブにとっての信仰の原点は、ベテルにおける、天から地に架けられたはしごにあった。
その時、ヤコブは貧しく、一人だったが、その旅路は幸いだった。
それは、そのはしごを通して来る守りと祝福に望みを置き、頼っていたため、それで彼はどんどん祝福されて行ったからだ。

財産が増え、妻や子供もでき、仕事も順調になっていくと、何かと初めの愛から離れてしまいがちになる。
信仰の原点であるイエス様から離れてしまって、権威が失墜し、子供や部下達がとんでもない事をしたりして、混沌な状況になっていないだろうか。
その時、私達も原点に立ち返るべきである。
私達にとっての信仰の原点は、イエスキリスト。全能の神と私達とを橋渡しして下さる、唯一のお方である。

神はベテルでヤコブに言われた。
「わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう。」(創世記28:15)
ヤコブはこの時、パンや着る物の保証を求めたが、神はそれを遥かに上回る多くの祝福を与え、決して捨てること無く守られ、カナンの地へと安全に戻された。
それなのにヤコブは、未だにベテルでの約束を果たしていなかったのだ。

『ヤコブは、その家族および共にいるすべての者に言った、「あなたがたのうちにある異なる神々を捨て、身を清めて、着物を着替えなさい。』(創世記35:2)
ヤコブはベテルへ上るにあたり、全家に三つの事を指示した。

まず一つ目は、異なる神々を捨てる事。
ヤコブの一家が、混沌へと向かっていった大きな原因は、偶像の容認であった。
ラケルによってテラフィムが持ち込まれ、後にそれを見つけた時でも大好きなラケルの手前、取り除かずに容認してしまったのだろう。
それによって、もはやこの一行は、パン種が入ってしまったパンのように、全体が不純に発酵してしまい、権威も秩序もなし崩し的に崩壊していったのである。
私達も、主イエス以外の何か(仕事や異性、お金など)に生きる望みを置いていたとしたら、それを心の第一の座から降ろし、再び主を第一の座に据えるべきである。

二つ目は、身を清める事。
主の御前出るからには、主がきよくあられるように、私達も身を清めるべきである。
そのためには、イエスの十字架の血潮で罪を清め、御言葉の洗いで真理から反れた行いを清めるのだ。

三つ目は、着物を着替える事である。
身を清めた後に、主が賜ったまことの着物、贖いの衣を身に纏う事によって、私達は初めて王の宴会に参加できるのだ。(マタイ22:8-14)

これら三つの事柄は、私達が主の御前に出て礼拝する際に、必要な心構えである。
そうして私達も、主が指示された場所へと、礼拝するために出ていくのだ。

『そこで彼らは持っている異なる神々と、耳につけている耳輪をことごとくヤコブに与えたので、ヤコブはこれをシケムのほとりにあるテレビンの木の下に埋めた。』(4節)
ヤコブの指示に、全家は従い、その通り実行した。
ヤコブが34章の終わりで「わたしが嫌われ者となった」「わたしに迷惑かけた」「わたしが危険にさらされた」と、完全に「わたし」の心配ばかりしても、息子は何の恐れもなく言い返し、それに何も言い返せなかったヤコブだったが、彼が主を第一とし、「わたし」はその神に服従するという、正しい権威構造に身を置いた結果、彼は家長としての権威を回復したのである。

権威を回復したのは、身内に対してだけでなく、周囲の異邦人達にもであった。
「そして彼らは、いで立ったが、大いなる恐れが周囲の町々に起ったので、ヤコブの子らのあとを追う者はなかった。」(5節)

このように、私達の内から偶像を取り除き、神を礼拝しに向かう時、権威も秩序も回復するのである。
私達も、まことの神以外を頼りとする「偶像」は古い土地に埋め、真に礼拝する場所へと、進み行くべきである。

礼拝説教メッセージ音声:霊的権威を失うと(創世記34:18-31):右クリックで保存

「若者は、ためらわずにこの事をした。彼がヤコブの娘を愛したからである。」(創世記34:18)
日本語訳では、シェケムはディナを”愛して”いたと訳されているが、それは大切に思う”愛”ではなく、「夢中になる」「喜ぶ」の意味である。
異性に夢中になる事や喜ぶ事を「愛」だと勘違いし、それで結婚するなら、すぐに破綻してしまう。
聖書の愛は相手を大切にし、尊重し、互いに対して責任を負うものであるが、彼らにはそれが無い。

ヤコブの子達が提示した条件にハモルと彼の子シェケムは喜んで同意し、彼らは早速出ていき、町の者達にヤコブ達と契約を結ぶ事の素晴らしさを説得した。
「そうすれば彼らの家畜と財産とすべての獣とは、われわれのものとなるではないか。ただわれわれが彼らに同意すれば、彼らはわれわれと一緒に住むであろう」。(23節)
町の者達が説得されたポイントは、祝福されているヤコブ達の持ち物が、自分たちのものになる、という点であった。
結局彼らは物欲に惹かれたために、形式上の割礼を受けたのだが、その後、とんでもない事になる。

『三日目になって彼らが痛みを覚えている時、ヤコブのふたりの子、すなわちデナの兄弟シメオンとレビとは、おのおのつるぎを取って、不意に町を襲い、男子をことごとく殺し、またつるぎの刃にかけてハモルとその子シケムとを殺し、シケムの家からデナを連れ出した。そしてヤコブの子らは殺された人々をはぎ、町をかすめた。彼らが妹を汚したからである。』(34:25-27)

なんとシメオンとレビは、割礼の傷みで弱っている町の男たち全部、剣にかけて殺し、他の兄弟達は、殺された者達の妻子や財産を略奪したのだ。
しかも、割礼という主から与えられた聖なる約束を、欺きの道具にして。
彼らが怒るのは確かに当然ではあるが、その怒りに任せ、何十人あるいは何百人もの人達を、剣で血を流し、殺してしまうのは、度を越している。

シメオンとレビは、この行為の故に、兄弟達の中で権利を失ってしまう。
『シメオンとレビとは兄弟。彼らのつるぎは暴虐の武器。わが魂よ、彼らの会議に臨むな。わが栄えよ、彼らのつどいに連なるな。彼らは怒りに任せて人を殺し、/ほしいままに雄牛の足の筋を切った。彼らの怒りは、激しいゆえにのろわれ、/彼らの憤りは、はなはだしいゆえにのろわれる。わたしは彼らをヤコブのうちに分け、イスラエルのうちに散らそう。』(創世記49:5-7)

このとおり、自分の怒りに任せて殺したり、ほしいままに虐待する者は、呪われてしまうのだ。
人の怒り、人の憤りは、神の義を実現するものではなく(ヤコブ1:20)、呪いの元となってしまうが、神の怒りを自分のものとする者は、祭司となる。(出エジプト32:29、民数記25:6-13)

『そこでヤコブはシメオンとレビとに言った、「あなたがたはわたしをこの地の住民、カナンびととペリジびとに忌みきらわせ、わたしに迷惑をかけた。わたしは、人数が少ないから、彼らが集まってわたしを攻め撃つならば、わたしも家族も滅ぼされるであろう」。彼らは言った、「わたしたちの妹を遊女のように彼が扱ってよいのですか」。』(創世記34:30-31)

ヤコブの言葉の中から、何度「わたし」が出て来ているだろうか。
彼は「わたしが嫌われ者となった」「わたしに迷惑かけた」「わたしが危険にさらされた」と、完全に「わたし」の心配しかしておらず、「神」がすっぽり抜けてしまっている。

彼は、周りに迷惑をかけた事や、自分達は人数が少ないから集団で攻め寄せて来たら滅ぼされてしまうだろう、といった心配をしている。
一体、マハナイムでの出来事は忘れてしまったのだろうか。彼には地の陣営の他に、天の陣営もいつもついているというのに。
この時の彼は、息子二人の言葉に何も言い返せなくなってしまった程、霊的権威が無かった。

「自分」にばかり目を向け、自分達の力と相手とを比較して心配する時、平安を失い、権威も威厳も失ってしまう。

それは、シェケムの土地を買って彼らと関係を築いてしまったが為に、カナン人に配慮しなくてはならなくなり、そこがヤコブの弱みとなり、彼の言動の自由を奪ってしまったのだ。
そればかりでなく、彼の一族には偶像との妥協があったようである。(次章)

それら偶像や世との関係をきっぱり捨て去る時、権威は回復する。
次回以降に詳しく見ていきたい。

礼拝説教メッセージ音声:痴漢と同じやり口(創世記34:1-17):右クリックで保存

シェケムの土地を買い取って定住しようとしたヤコブは、父親として最も起きて欲しくない事態が起こった。
『レアがヤコブに産んだ娘デナはその地の女たちに会おうと出かけて行ったが、その地のつかさ、ヒビびとハモルの子シェケムが彼女を見て、引き入れ、これと寝てはずかしめた。』(創世記34:1-2)

パダン・アラムから帰って間もない時だから、ディナはちょうどティーン・エイジャーである。
男兄弟の多い中、可愛がられて育った彼女は、きっと女友だちも欲しかったのだろう、土地の娘達に会いに行こうとした所を、シェケムによって無理やり辱められてしまったのだ。
その出来事に、父ヤコブは言葉を失い、兄弟達は心を痛め、大きな憤りと怒りを沸き起こさせた。

未婚の娘が暴力的に貞操を奪われる事。
それは現代日本ではさほど珍しくもないかのように聞こえるかもしれない。
しかし、それは神の国を生きる者達の間では、恥ずべきこと、許されない事である。(7節)

ハモルやシェケムの言葉には「自分達が悪い事をした」というニュアンスは一切存在せず、むしろ、息子がした事は逆にめでたい事、お互いにとって徳ですよ、という説得へと持って行き、この事をチャンスに我々はこれから仲良く前に進みましょう的な色合いも感じる。
ヤコブ達の側としては、あってはならぬ事が起きた絶望感で一杯なのに、シェケム達の側はあまりに脳天気、「えっ、なに暗い顔しているの?」とでも言い出しそうな感じである。

彼らには貞操という概念は無く、性交渉は快楽を得るスポーツの一種のような感覚で行い、結婚は聖なる契約という畏れも無く、むしろ結婚が、人生をより有利に展開させるための手段と化している。
このように、神の国の価値感と、世の価値化とは、絶望的な隔たりがあり、決して相混じり得ないのだ。

彼らはディナを自分達の家に迎え入れるために説得しに来たが、その説得は、神の民を堕落へと導く誘惑である。
サタンが神の民を誘惑する手段は、エデンの時からこのかた、「目の欲」「肉の欲」「暮らし向きの自慢」と相場は決まっている。(創世記3:1-6、1ヨハネ2:16)

「あなたがたはわたしたちと婚姻し、あなたがたの娘をわたしたちに与え、わたしたちの娘をあなたがたにめとってください。」(9節)
世の女は神の国の女よりも、「女」のアピール方法に長け、男の落とし方などに抜け目が無いものである。(ルカ16:8)
彼らはまず、目の欲、肉の欲に訴えたわけである。
しかし、神の民の男が、世の女の美しさに心奪われる時、それは破滅への第一歩である事を、忘れてはならない。(創世記6:1-7)

『こうしてあなたがたとわたしたちとは一緒に住みましょう。地はあなたがたの前にあります。ここに住んで取引し、ここで財産を獲なさい」。』(10節)
我々と契約を結べば、土地も暮らしも保証されますよ、というのである。
ここでは「暮らし向きの自慢」を刺激している。

そしてシケムは、サタンがイエス様に「もしひれ伏して私を拝むなら、世の栄華を全て差し上げましょう」と言ったのと同じような誘惑を仕掛けてくる。
『シケムはまたデナの父と兄弟たちとに言った、「あなたがたの前に恵みを得させてください。あなたがたがわたしに言われるものは、なんでもさしあげましょう。たくさんの結納金と贈り物とをお求めになっても、あなたがたの言われるとおりさしあげます。ただこの娘はわたしの妻にください」。』(11節)

日本人は特に、この手の「まるめ込み」に弱く、妥協してしまいやすい。
なぜなら日本人は美徳として、相手の価値観を尊重し、空気を読み、和をもって尊し、とするからだ。

本来なら、娘を陵辱した相手と穏やかな話し合いなどできないものだが、過度に和を尊ぶ人、あるいは押され弱い人なら、たとい相手がどんなに邪悪な者であっても、フレンドリーな態度で来られた時、その勢いに飲まれ、なごやかな空気になっているのだからそれを乱してはならない、と、飲み込まれてしまいがちである。
住居も、富も保証され、しかも美人でセクシーな女性と結婚できる、という条件までついてきてしまったら、ディナには可哀想だけれど堪らえてもらって、、、という事になりかねない。

騙されてはならない。
神の民は、異邦人と交じり合ってはならないし、娘が汚された事を、そのまま相手の心に罪悪感も登らせないまま、放置してはならないのだ。

ヤコブはこの時、実に弱かった。
神に勝った者「イスラエル」らしくなかった。
娘の事で気落ちしていたのかもしれないが、真理に立ち、家長として霊的権威を持ってさばく事はせず、全部、息子たちに任せっきりだった。

しかも息子たちは、ヤコブの目の前で、イスラエルがカナン人と血が交じり合う事を許すような契約に、条件付きではあるが、同意するかのように交渉を進めている。
もっとも、息子たちには企みがあって、騙すために表向き同意したのだが、ヤコブはそんな裏がある事は知らなかったはずである。
御心に反した契約が進んでいくのを、黙認していたのである。
その結果、さらにややこしい事になってしまった。

ヤコブは一体いつ、敵に足がかりを渡してしまい、手も足も出なくなってしまったのか。
それは、ほんのささいな事だが、自分達が長く住むために、異邦人シェケムの土地を買ってしまった事に、発端がある。

確かにアブラハムも、土地を買った。
しかしそれは、異邦人の中に混じって生活する為ではなく、死ぬ準備のためであった。
私達も、肉的ないのちを生かす事をメインに据えるなら、この時のヤコブのように、ロトのように、いざという時に苦しい思いをする。
「武士道とは死ぬ事と見つけたり」と同様、キリスト者はいかに自分に対して死ぬか、すなわち、十字架を、いつも意識すべきである。

サタンが侵入して来るやり口は、痴漢と同じである。
いやらしい手を伸ばして、あなたの領域に侵入しようと、探りを入れて来る。
その最初のコンタクトの時、決して無抵抗であってはならない。

サタンの、いやらしい手にさわられて、「ああ嫌だな、気持ちわるい、早くどけてくれないかな」と、いくら心に念じても、無駄である。
むしろ、その時無抵抗であった事にサタンは足がかりを得、前例を得た事に調子に乗って、どんどんいやらしい手を伸ばし、あなたの聖なる領域をさらに侵略して来る。
しかし、たといサタンに足場を渡してしまったとしても、主は、脱出の道も用意して下さる。
次回、それを見てみたい。

礼拝説教メッセージ音声:信仰の偉人を辿る事の罠(創世記33:12-20):右クリックで保存

ヤコブとの平和な再会を果たしたエサウは、彼の居住しているセイルへ一緒に行こうとヤコブに誘ったが、ヤコブは行かなかった。
彼は、幼い子供達や乳を飲ませている羊や牛をたくさん引き連れていたからである。
エサウはその日、ヤコブと別れて先にセイルへ帰って行った。

ヤコブは14節で、後でセイルへ行きます、と言ったのに、彼がその後、セイルへ行ったという記録は、聖書には無い。
後に父イサクが死んだ時、ヤコブとエサウは共に父を葬り(創世記35:29)、その後二人は、互いに持ち物が多くなりすぎたため、別々に住むようになった、と記録されているのみである。(創世記36:6-7)

ヤコブがその後、セイルへいつ行ったにしろ、行かずじまいだったにしろ、彼らはその後、平和に栄え、互いに冨が増したため離れ離れに住んだ。
神を敬うヤコブと、神を軽んじるエサウが共に住むというのは、互いが互いにとって居心地良いものではないし、ヤコブ一家にとっても、霊的に悪影響を及ぼす事だからである。
キリスト者も、家族に良くない影響を及ぼすような俗悪な環境からは離れ、俗悪な者とは付き合わず、接点を極力最小限に留める努力は、必要である。

ヤコブはシェケムの町に移動し、そこの土地の一部を買い、祭壇を建て、「エル・エロヘ・イスラエル」(イスラエルの神である神)という名を、祭壇につけた。
シェケムといえば、彼の祖父アブラハムが、神様の導きに従って故郷を出、カナンに入った時、最も最初に祭壇を築いた所である。(創世記12:1-7)
ヤコブは、祖父であり信仰の偉人であるアブラハムのあしあとを訪ね、そこに祭壇を築いたのかもしれない。

それらは一見、信仰深い行動のように見えるが、実は、そうではない。

信仰の先人たちは私達に「手本」とはなるかもしれないが、私達が慕うべきお方、ついていくべきお方はキリストであり、私達が規範とすべきは、聖書である。
信仰の偉人のあしあとを追い、聖人ゆかりの地を訪ねても、また、信仰本やキリスト教作家の小説をいかに沢山読んでも、生活の中にキリストの喜びや感謝が無かったり、行動が不信者と全く変わらなかったり、悔い改めの実という「実体」が見られないようであるなら、その信心は「もどき」である。

ヤコブにとっての信仰の原点は、ベテルである。
アブラハムの信仰の原点と、ヤコブの信仰の原点は違うように、あなたの尊敬する先人の信仰の歩みと、あなたの信仰の歩みとは、違って然るべきである。

ヤコブは、エサウから逃れて一人パダン・アラムに行く途中のベテルで、初めて神が現れた時、ヤコブは誓いを立てて言った。
「神がわたしと共にいまし、わたしの行くこの道でわたしを守り、食べるパンと着る着物を賜い、安らかに父の家に帰らせてくださるなら、主をわたしの神といたしましょう。またわたしが柱に立てたこの石を神の家といたしましょう。そしてあなたがくださるすべての物の十分の一を、わたしは必ずあなたにささげます」。(創世記28:20-22)

ヤコブがそのように誓いを立てていたからには、彼がエサウの脅威から開放された時、シェケムではなく、真っ先にベテルに行って、誓ったことを果たすべきだったのである。
それなのに彼は、その誓い通りには行わず、祖父の跡を辿り、シェケムの土地を買って祖父のようになったかのように錯覚し、また、自己顕示欲の強い校長が自分の銅像を校舎に飾るように、自分で建てた祭壇に、自分自身の名前を入れたのだ。

その結果、父親ヤコブにとって、最も起こって欲しくない事、あってはならない事が、シェケムにおいて起こってしまう。(次章)
彼の人生で一番の脅威だった兄の心配が無くなったとたん、かつて神に約束した事を忘れ、身勝手な信仰の道を作って、歩もうとしたからだった。

彼のパダン・アラムから帰る旅の「終了宣言」はいつ出されたか。それは後に、ヤコブがベテルに到着して、祭壇を築き、礼拝した時であった。(35章)
その時神は彼に現れ、再び彼をイスラエルという呼び名で呼ばれ、祝福された。

人は、癒しや祝福、あるいは奇跡を求めるが、それが為された途端、成して下さったお方を忘れるようでは、祝福の子とは言えない。
かつて神に約束しておいて、果たしていなかった事は、無いだろうか?
「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」(詩篇103:1-2)

タラントのたとえ(マタイ25:14-30)
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「天国は、ある人が旅に出る時、その僕どもを呼んで自分の財産を預けるようなものである。すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて、旅に出た。」(マタイ25:14)
「タレント」の意味は、元々、この聖書の「タラント」に由来し、人の才能、能力を表す意味で使われているが、一タラントは6000日分の日当に相当し、日当を6000円としても36,000,000円という大きな額である。
このたとえは、主キリストが再臨されるまでの、一見主が不在であるかのような間に、私達・主の働き人達に預けられたタラント、すなわち「霊の賜物」(?コリ12章)と、「肉の賜物」(生まれながらに与えられた能力や財産など)をいかに扱い、運用するかによって、再臨の時、各々異った報酬を受ける事を示している。

今を生きる私達は預けられたタラントを預け主であるキリストのために生かし運用する事が求められている。
タラントは本来、預かり物であり、私達はそれを、地上で自分を楽しませるためでもなく、人に披露して自慢するためでもなく、主のために、天の本国のために運用する、という、本来の目的を忘れてはならない。
キリスト者の地上生活は、天における生活の準備であり、試験でもある。やがて来る清算の時、主人からの評価ポイントは、任されたタラントでも、増やした額でもない。
世に出て行き、それを用いたか、用いなかったかのみであり、用いた者は恐れなく大胆に御前に出られる。
人は思うかもしれない。もし事業に失敗して、主人の資産を目減りさせてしまっていたら、どうするのか、と。
しかしこの譬えは、用いたか用いないか、という二択しか存在せず、目減りさせた場合の事例が無い以上、御国のための働きをする場合、「損」とか「目減り」といった結果は存在せず、そんな事考えなくて良いのだ。
主は私たちが歩むようにと予め良い行ないを備えておられ、私達はそれに歩むべきである。(エペソ2:10)

タラントの最悪の運用方法は、地中に埋めて、隠す事である。与えられた賜物、与えられている機会を全く用いないままに、キリストの前に出るのは恐ろしい事だと、彼は薄々感づいていたので、言い訳をする。
『ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。』  主人はかなりの巨額をこのしもべに預けていたのに、「まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人」呼ばわりするとは、邪推もいい所である。
彼は、何もしない日々の中、他のしもべがタラントを活用してどんどん利益を積んで行くのを横目で見、彼らが利益の中から食費や養育費、レジャーなど豊かに使っているのも横目で見つつ、ねたみと邪推だけを増幅させ、地中に埋めたタラントに一切手を付けないまま、自前の労苦だけで貧しく生活し、タラントを増やすやりがいも、報酬で楽しむ事とも無縁のまま、ただ時間を食いつぶすだけだったのである。
かなりの高額を銀行に預ければ、かなり利子がつくのは容易に考えられるのに、彼はその利子が自分のものにならぬ事を知っていたため、それさえ厭い、地中に埋めるに至ったわけである。
主は、きよい者には、きよく、曲がった者には、ねじ曲げる方であり(詩篇18:26)、その彼の言ったその言葉どおりに彼をさばかれる。(ルカ19:22) 彼は外の暗闇に追い出され、泣いて歯ぎしりするのだ。

主から任された資産を、ただ自分のために用いるなら、放蕩息子のように、ただ湯水のように浪費してしまうのみである。(ルカ15章) もし今、タラントを活用できていない、タラントを活かすための働きが閉ざされている、と感じるなら、地中に埋めていないか、自己本位に使おうとしていないか、吟味する必要がある。
人は、自分や他人のタラントの額や仕事の内容を気にするが、主は「誰のために」という動機を探られる。
今、働いている動機は、誰のためか?もし自分の満足や栄誉、自分が気持ちよくなる為に働き場を求めているなら、主は道を差し止められ、ご自身に立ち返るのを、待っておられる。
タラントは天からの預かり物で、自分のためにではなく主のために用いるのが本来の目的だ。
多くを任せられる者とは、主人や他人が見ていない時であっても、忠実に仕事を果たす、思慮深いしもべであり(ルカ12:42-44)、人が見ていない時には賛美や祈り、奉仕をしない者は、不忠実な者である。
預かったタラントを主のために、天の財布を増やすために恐れず活用し、御国のビジネスで多くを稼ぎ、主から「良くやった、良い忠実なしもべよ」と喜ばれ、さらに多くを任される皆さんでありますように!

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
カレブ(ヨシュア14:6-15):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
御言葉に服従するか(エレミヤ42章):右クリックで保存
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礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
2ペテロ2:13-22:右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:全てを持つ者(創世記33:1-11):右クリックで保存

いよいよ兄エサウとの対面の時が来た。
エサウと供の者四百人が遠くに見える内に、ヤコブは妻子達を後に、自分は先頭に立って、相対した。
彼は腿の関節を外され、びっこを引いている。逃げも隠れもできない。

ヤコブは兄に近づくまでに、七回、地におじぎをした。
七回おじぎをする行為は王を迎える時の礼儀であるが、彼は、エサウにしてきた事の手前、七度礼をしたのかもしれない。

『するとエサウは走ってきて迎え、彼を抱き、そのくびをかかえて口づけし、共に泣いた。』(創世記33:4)

エサウは、ヤコブが心配していた「殺意に満ちたエサウ」ではなく、「善意と親しさに満ちたエサウ」だった。
エサウのような生殺与奪の権を持つ者の心を、主は、柔らかにもすれば、かたくなにもする事も出来る。
祈りによって圧政者の心を変えた例は、ダニエルの時代にも、エステルの時代にもあったし、出エジプトの時代は逆に、さらに頑なにする事によって、主の栄光を表した。
神の民は、そうして祈りによって守られて来たのだ。

エサウの心から、いつ、殺意が無くなったのだろうか?
エサウの住むエドムからヤボクまでは160km以上はあり、その距離を400人も引き連れてスピーディに移動したからには軍事力で滅ぼす意図を持っていた事を思わせるが、もしかしたら単純に、善意から歓迎したい気持ちで、大勢で急いで来ただけなのかもしれない。
真相はどうあれ、たといエサウが直前まで殺意に燃えていたとしても、主は一瞬にして善意に満ちたエサウへと導く事も出来るお方であり、私達の時代においても、主はそのような事がおできになる方である。

ヤコブの心配は、無駄だったのだろうか?
決してそうではない。
ヤコブが恐れたお蔭で彼は真剣に神と相対するようになり、結果的に、ますます神と親密になり、新しい名前も与えられ、もはや自分の力に頼らず神に頼るようになった。

いずれにせよ主は、ヤコブを御心に沿った形へと導き、全てを最善へと導かれたわけである。
「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。」(ローマ8:28-29)

エサウはヤコブの贈り物に「私はたくさん持っている」と辞退する。
『ヤコブは言った、「いいえ、もしわたしがあなたの前に恵みを得るなら、どうか、わたしの手から贈り物を受けてください。あなたが喜んでわたしを迎えてくださるので、あなたの顔を見て、神の顔を見るように思います。』(10節)
彼がエサウに「神の顔のようだ」と言ったのは、決しておだてた訳ではない。
ヤコブにとって、エサウの善意と親しさに満ちた様そのものが、まさに、神の御業そのものだったのである。

『どうか、私が持って来たこの祝いの品を受け取ってください。神が私を恵んでくださったので、私はたくさん持っていますから。」ヤコブがしきりに勧めたので、エサウは受け取った。』(11節)
ヤコブは元々、それらの品を「祝いの品」として持ってきたのではなく、何とかエサウをなだめるためにであった。
しかし主の御業によって、それらはいつのまにか、祝いの品となっていた。
神は、恐れに満ちた品を、祝いの品へと変え、涙の谷も、泉の沸くところとされる。(詩篇84:6)

また日本語の訳では「私はたくさん持っていますから」と訳されているが、この「たくさん(kol)」は、「全て」とも訳せる。
エサウが9節で言った「わたしはじゅうぶんもっている」は、単なる物を持っている事の意味だが、ヤコブが言った言葉はそれとは違い「全て」を持っている、という意味だ。

全能なるお方のものとされたという事、それはすなわち、全てを持った、という事である。
「ですから、だれも人間を誇ってはいけません。すべては、あなたがたのものです。パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ、また世界であれ、いのちであれ、死であれ、また現在のものであれ、未来のものであれ、すべてあなたがたのものです。そして、あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものです。」(1コリント3:21-23)
私達もキリストにあって、全てを持っている。
私達は一体、その事の意味を、どれほど理解しているだろうか。

「信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。
どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように、アァメン。」(エペソ3:17-21)

礼拝説教メッセージ音声:ヤコブからイスラエルへ - ペヌエルでの格闘(創世記32:22-32):右クリックで保存

ヤコブは、殺意を持つ兄・エサウとの再会に備え、持ち物を二手に分けてリスク分散し、主に祈り、至れり尽くせりの贈り物の手はずも整えて備えたが、なお、心配と思い煩いで頭がいっぱいだった。
『彼はその夜起きて、ふたりの妻とふたりのつかえめと十一人の子どもとを連れてヤボクの渡しをわたった。 すなわち彼らを導いて川を渡らせ、また彼の持ち物を渡らせた。』(創世記32:22-23)

ヤコブは20年前、故郷を出てラバンの所へ逃げる時は、杖一本しか持っていなかったのに、今や彼は、二人の妻に二人の女奴隷、11人の息子、多くの家畜や奴隷を所有している。
しかし、これから会おうとする兄の機嫌いかんでは、愛する妻も、大切な子も、財産も、自分のいのちも、全て失ってしまいかねない。
ヤコブは、変える事の出来ない過去や、消しようのない兄の憎悪、逃れようのない未来に、そして、どうしようもない自分に憂い、ついに、たった一人で主の御前に出たのだ。

私達も、罪ある人間である以上、変えたくても変えられない過去のあの事この事、自分の愚かさの故に誰かから受けてしまう憎悪の一つや二つは、あるかもしれない。
そして、自分がしてきた事・しなかった事の刈り取りが待ち受ける逃れようのない未来におののき、そのようにしてしまった、どうしようもない自分を苛む事もある。
そのような時は、ヤコブのように、ただ一人、主の御前に出るべきである。

『ヤコブはひとりあとに残ったが、ひとりの人が、夜明けまで彼と「組打ち(アバック:レスリング、相撲)」した。』(創世記32:24)

彼はひとりの人と、すなわち、主ご自身と、実際に、相撲を取ったのである。
抱きつくように組み合い、顔と顔とを間近に合わせ、力と筋肉をぶつけ合い、汗と泥が一つに混じり合う、生々しい、つかみ合いの格闘である。
夜明け前の最も暗い闇の中で、ヤボクの川のせせらぎと共に、二人の男たちが組打つ音、格闘の叫び声や息づかいが、夜明けまで響きわたっていたのだ。
その格闘は、ヤコブの命運を賭けた、力を尽くした祈りでもあった。

「ところでその人はヤコブに勝てないのを見て、ヤコブのもものつがいにさわったので、ヤコブのもものつがいが、その人と組打ちするあいだにはずれた。」(25節)
ももの関節が外れるのは、かなりの激痛であろう。
観客がいたとすれば、もはや勝負あった、と見る所だろうが、それでもなおヤコブは、彼をつかんで離さなかった。
もはや取っ組み合いと言えるようなものではなく、ただ、その人に全てを委ね、おぶさっているだけのような格好であったろう。

夜は明けようとしており、ただ、川のせせらぎだけが響いている。
『その人は言った、「夜が明けるからわたしを去らせてください」。ヤコブは答えた、「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」。その人は彼に言った、「あなたの名はなんと言いますか」。彼は答えた、「ヤコブです」。』(26-27節)

彼は名を尋ねられた時、兄エサウのかかとを掴んだ事、また兄だけでなく、色々なものを掴んで来た事を思い出したろう。
そして今、祝福をして下さるべきお方をつかみ、握り締めている。

ヤコブは、母の胎から出る時は兄のかかとを掴んで離さず、ヤコブという名が与えられた。
そして、人生を終える時は、杖の先を掴んで、礼拝しつつ息を引き取った。(ヘブル11:21)
つかむ事こそ彼の生き様であったが、そんなヤコブの名に、彼は終わりを告げさせ、新しい名を与える。

『その人は言った、「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」。』(28節)
イスラエルという名、聖書でここに初登場である。
この名前には「神と戦う」「神が支配する」という意味がある。

ヤコブは格闘の果てに、ただ、祝福して下さるお方のみを掴み、もはや祝福して下さるお方に寄りかかるしか無いこの状況で、新しい名前「イスラエル」が与えられた。
もはや、長兄のかかとを、すなわち、人間的な祝福を追いかけ、掴みとるような、以前の人生には、終わりを告げられた。
祝福そのものなるお方と取っ組み合い、勝利し、神の支配の内を歩む人生へと、造り変えられたのだ。

ヤコブはももを打たれ、力を奪われ、もはや自分の力では立行けず、ただ神の憐れみによりすがって生きるしか無い。
これから兄と会うのに、大丈夫なのだろうか?
大丈夫なのである!
なぜなら、人が弱い時にこそ、主が強いのだから。

『主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。』(2コリント12:9-10)

自分の力に頼らず、ただ主の力に頼って生きる。
それこそ「イスラエル」の由来であり、私達・霊的イスラエルのアイデンティティなのだ。

神にどうしてもしていただきたい事はあるだろうか。理不尽な世の中に憤りを覚えているだろうか。神に対して納得できない思いがあるだろうか。
もしそうなら、ヤコブのように、ヨブのように、ハンナのように、エリヤのように、スロ・フェニキヤの女のように、主の御前にただ一人で出て、なりふり構わず、格闘の祈りをする時である。
思う存分組み合い、そして、ただその御方を掴み、全てを委ねておぶさるまでに力を出し切る時、その御方から答えと、祝福と、新しい名前、新しい生き方が、示されるのである。

主は、天高くふんぞり返って、人間からかけ離れたお方ではなく、人と「関係する事」を求めておられる。
主は全宇宙を造られた偉大なお方であるのに、人として降りて来られ、私達と格闘できる程にまで小さくなられ、相撲を取る程にまで生々しく関わて下さった。

祝福は、ただ口を開けて祝福が落ちてくるのを待つ者に降ってくるものではなく、激しく責め立てる者によって、奪い取られている。(マタイ11:12)
私達も、ヤコブのように、祈りにおいて相撲を取る程の気概も持つなら、新しい名前が与えられ、祝福が与えられ、新しい人生が与えられる時が近い。

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