メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ
本日は遠くのある姉妹から、ある足の悪い聖徒にと、やさしいスニーカーを送っていただき、また、これから冷えるので、と、電気毛布も送っていただきました。
お心遣い、主イエスにあって感謝します。
他にも、ここでは公開できないような捧げものをして下さった聖徒たちにも、主イエスの祝福が豊かにありますように!
ピリピ4:17-21
あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。
贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです。
わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。
わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。
わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
的を外さない歩み(1ヨハネ3:6-11):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:いかに生きるかではなく、いかに死ぬか(創世記50:1-14):右クリックで保存
『ヨセフは父の顔に伏して泣き、口づけした。』(創世記50:1)
ヤコブは子供たちの後の有様を預言して祝福し、そして自分の遺体を約束の地へ戻すよう指示し、最後に足を床に入れて先祖の列に加えられた。
その地上での生涯を閉じる有り様は、あまりに尊厳に満ち溢れ、ヨセフは泣いて口づけした。
「そしてヨセフは彼のしもべである医者たちに、父に薬を塗ることを命じたので、医者たちはイスラエルに薬を塗った。」(同2節)
父の遺言では、彼の遺体はカナンで父祖アブラハムが買った墓地に葬るように、という事だったため、そこへ運ぶ上で腐敗させないように薬を塗らせた。
口語訳では「薬を塗る」だが、この言葉は「ミイラにする」、あるいは「防腐処置をする」とも訳せる。
ミイラにする時は通常、呪術的な儀式も行われていたものだが、ヨセフはそれを避けるため「医者」に防腐処置を施させたのだろう。
ヨセフはパロにねがい出た。
『わたしの父はわたしに誓わせて言いました「わたしはやがて死にます。カナンの地に、わたしが掘って置いた墓に葬ってください」。それで、どうかわたしを上って行かせ、父を葬らせてください。そうすれば、わたしはまた帰ってきます。』(同5節)
パロは喜んで送り出した。それも、宮廷の元老である重臣たち全てと、全国の長老たち全て、また、戦車も騎兵も多く共に上って行ったので、それはまことに盛大な行列となった。
その葬儀は、パロが死んだ時に行う国葬に匹敵するレベルのもので、その追悼の式は7日も続き、あまりに荘厳で、それを見ていた現地の人が驚いて「アベル・ミツライム(エジプト流の追悼の儀式)」という名前をその場所につける程だった。
本日の箇所を読むと、なんだか壮大なエジプト流の葬儀を行った、という印象だけが残るが、父ヤコブは「荘厳な葬儀を行なって欲しい」などとは一言も言っておらず、単にマクペラの墓地へ先祖たちと共に葬って欲しい、と言っただけだった。(創世記49:29-32)
そこにはアブラハムと妻サラが、イサクと妻リベカが、また、自分の妻レアが葬られているから、そこに加えて欲しい、と。
七十日もの間喪に服したり、一つの遺体を運ぶ為に、大勢の群衆が500km以上もの距離を戦争さながらの行進をするのは、やりすぎとも思えるかもしれないが、古代エジプト人の「死」に対する姿勢には、他の文明では類を見ないほどのこだわりがあり、それは「死者の書」の詳細かつ膨大な資料や、ピラミッドという墓の巨大さ、ミイラ技術の発達などを見ても、エジプト人の「死」に対する強い恐れとこだわりを見て取る事が出来る。
肉体が死んだ者のために、これだけ大規模な葬儀をするなど、ナンセンスの極みだとヨセフも知っていたでろうが、エジプト人たちの自分達への好意を無駄にしないため、躓かせないために、あえて行ったのだろう。
エジプトの王族が自分の死体をミイラにするのは、神々がよみがえったように自分も将来たましいが戻ってくるための「からだ」を保存しておくためで、それは王族の特権だった。
しかし後の新たな信仰では、生前正しい行いをした者なら誰でもよみがえりの特権が与えられるようになり、死者の書も一般向けに売られ、ミイラ職人も増え、ミイラが安置される墓の壁面には、死後の審判で神々に好印象を持っていただくために、生前に成した「良いこと」がびっしりと記され、それが現在我々が見るエジプトの墓美術である。
それを考えると、私達はイエス・キリストの父なる神に感謝がこみ上げてくる。
私達キリスト者は、何も荘厳な追悼式を行わなくても、ミイラになって将来生き返る準備をしなくても、また、大勢の人を動かして、遺族やしもべを使って巨大な墓を建てさせる必要も、全く無い。
地上は執着するような所ではなく仮の住まい、地上では旅人であり寄留者である。
よみがえりは一部の特権階級のものではなく、信じる者には誰でも与えられる特権であり、信じる私達の国籍は天にあり、天の故郷に思いを寄せつつ、地上での歩みを為すのだから。
「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。・・・しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。」(ヘブル11:13,16)
私達・信仰にあるアブラハムの子孫、すなわちキリスト者は、死に対してなんと楽観的になれる事だろう。
アブラハムが地上で買い取った土地は、墓地だけだった。同じように、私達も地上で必要なのは、墓地だけである。
どういう事かというと、私達の信仰生活は、キリストと共に十字架で死ぬ事から始まり、日々十字架を負って自分に対して死ぬ事でキリストが私達の内に生き、キリストのいのちにあって、私達は日々生きるからである。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)
結局、この地上では、いかに生きるかではなく、いかに死ぬかが大事なのだ。
礼拝説教メッセージ音声:信仰者の集いへと帰ったヤコブ、帰る私達(創世記49:28-33):右クリックで保存
イスラエルは12人の子達を祝福し、最後に、自分の葬りについて指示した。
『わたしはわが民に「加えられ(アゥサフ:集められ、受け入れられ)」ようとしている。あなたがたはヘテびとエフロンの畑にあるほら穴に、わたしの先祖たちと共にわたしを葬ってください。』(29節)
彼が死にあたり厳重に誓わせた事は、自分を決してエジプトに葬らせない事、エジプトから必ず運び出して、先祖たちの墓へ葬って欲しい事だった。(創世記47:29-30)
彼は、当時最も富み、最も強かったエジプトの総理大臣の父として、エジプト最高の墓に葬られようなどとは、つゆだに願っておらず、父祖たちが葬られている墓へ自分も葬られ、信仰に歩んだ先祖たちの集いに入る事をこそ望んでいた。
なぜなら、信仰に歩んだ先祖たちに加えられる事が、どれほど栄光に富んだ事か、エジプトの栄光など遥か足元にも及ばない永遠の偉大な栄光がその先に待っている事を、彼は知っていたからである。
『こうしてヤコブは子らに命じ終って、足を床に「おさめ(アゥサフ)」、息絶えて、その民に「加え(アゥサフ)」られた。』(創世記49:33)
ヤコブは遂に、罪深く苦難続きだった地上での生活から解放され、信仰の先人たちの所へ、永遠の安息へと入った。
「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。・・・しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。」(ヘブル11:13,16)
私達・信仰者が行くべき所が、どれほど栄光に富んだ所であるのか、加えられるべき民がどれほど素晴らしいかを、はっきり思い描く事が出来るなら、私達の地上での人生は、とても有意義なものへと変わって行く。
それがはっきりすればなるほど、それを私達に用意して下さった主イエス様への感謝と賛美に溢れ、地上のどんな栄光も富もかすんでしまうからである。
パウロもエペソ人への手紙の中で、祈っている。
「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ、あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、
また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。」(エペソ1:17-19)
私達も、祈るべきである。
主がどれほど素晴らしいか、主が用意しておられる御国がどれほど栄光に富んだものであるのかを、もっともっと知ることが出来るように。
信仰によって歩む人の行先は、決まっている。それは、アブラハム、イサク、ヤコブの食卓である。
『あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」』(マタイ8:11-12)
信じた事でアブラハムの子孫とされたと甘んじ、安逸をむさぼり、行いという実体が伴わず、信仰の実を全く結んでいない「御国の子ら」は、外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりする。
歯ぎしりという行為は、くやしいからするものである。
地上で共に信仰生活をして来た人達が、アブラハムの食卓に連なっているのを眺めながら、自分だけそこに加われず、外の暗闇に放り出されてしまう事のくやしさは、一体どれほどのものだろうか。
『それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。』(同13節)
この百人隊長は、イエスがどんな権威あるお方であるのか、すなわち、イエスは悪霊や病をも動かす遥かに高い権威者であると信じ、実際に口で告白したため、「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。」と褒められた。
百人隊長のように、主イエスこそサタンや死にも勝利される救い主であると信じ、主を主として地上での日々を歩むなら、やがて私達も、ヤコブや百人隊長など信仰の先人たちが連なっている、あの天の食卓へと加えられるのである。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
1ヨハネ2:12-14:右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
建て直しを邪魔する者への対処(ネヘミヤ記2-3章):右クリックで保存
【概要】
崩された城壁のような人生の状態から、神の慰めによって再建される希望について。ネヘミヤがエルサレムの城壁を再建したように、主イエス様は私たちの人生を立て直してくださる。
【聖書箇所】
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ネヘミヤ2:4
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ネヘミヤ2:9-12
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ネヘミヤ2:17-19
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ネヘミヤ2:20
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イザヤ62:4-5
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マタイ4章
【慰めの言葉】
皆さんの城壁が崩されたままであっても、主は皆さんを慰めてくださいます。ネヘミヤという名前の意味は「神の慰め」です。崩されている都、それは再建されなくてはなりません。崩された皆さんの成り立ち、ぶんどられ続けてきた皆さんの人生、それはネヘミヤによって立て直しがなされなくてはなりません。皆さんを立て直すのは、神の慰めです。
【励ましの言葉】
天と地を作られた神である主は、皆さんが城壁を再建するのであれば、あらゆる援助を惜しみません。主は、皆さんのことを、花婿が花嫁を喜ぶように喜んでくださいます。なぜなら、皆さんが主を頼りとするからです。
【勧めの言葉】
唇で告白するべき時が来ております。「さあ、再建に取り掛かろう」と。城壁が崩されたままであれば、それに対して何もしないのではないでしょうか。それは10年20年と崩されたまま、火で焼かれたまま、敵に入りたい放題に入らせたままです。しかしエルサレムの住人がネヘミヤの言葉を聞いて勇気を奮い立たせ、再建に取り掛かろうと言った時から再建の業が始まるのです。
【***詳細***】
今日は、ネヘミヤ記の2章、9節から12節までです。ネヘミヤ記は、先週の水曜礼拝の時、1章やりましたね。ネヘミヤは、バビロン捕囚の後の時代、イスラエルに戻って、そして、このイスラエルの城壁を建て直した人です。
ネヘミヤは、元々、アルタシャスタ王という異国の王様の、そこの献酌官をしておりました。ネヘミヤはとても気分が沈んでいたんですけれども、しかし王様がそれを見て、あなたなんでそんなに気分が沈んでいるんだと尋ねました。
当時の王様はとても権力がありましたので、気分次第で献酌官を殺したりとか、そういったことをするほど結構身勝手な王様もおりましたし、権力もありましたので、彼はとても恐れました。そこで彼は天の神に祈ってから、この2章の4節に、「ではあなたは何を願うのか」と聞かれたとき、そこで私は天の神に祈ってから王に答えたと書いてあります。
「王様、もしよろしくてこの僕を憐れんでくださいますなら、私をユダの地、私の先祖の墓のある町へ送って、それを再建させてください」と祈りました。祈ってから王様に答えました。王様は非常に良い返事をくださるんですね。
皆さんが遣わされている職場、あるいは遣わされている家庭の場所において、本当に気分次第で人を平気で落としたり打ち叩いたり、そういった厳しいところに遣わされている兄弟姉妹もいるかもしれませんけれども、しかし天の神様に祈ってから望むとすれば、主が皆さんのそのことを必ず願いを聞いてくださり、そして皆さんにそこで悪いようにはなさらず、また例えば皆さんがそこの場所において退けられるとしても、それは神様の御手の支配のうちにあることですので、心配するに及ばないことです。
では、ちょっと前置きが長くなりましたけれども、2章の9節から読んでいきます。
ネヘミヤ2:9-12「私は川向こうの総督たちのところに行き、王の手紙を彼らに手渡した。それに王は将校たちと騎兵を私につけてくれた。ホロン人サヌバラテとアモン人で役人のトビヤはこれを聞いて非常に不機嫌になった。イスラエル人の利益を求める人がやって来たからである。こうして私はエルサレムにやって来て、そこに三日間とどまった。あるとき私は夜中に起きた。他に数人の者も一緒にいた。しかし私の神が私の心を動かして、エルサレムのためにさせようとされることを私は誰にも告げなかった。また私が乗った獣のほか、その中には一頭の獣も連れて行かなかった。」
いよいよネヘミヤがこのエルサレムに到着しました。エルサレムは非常にひどいありさまでした。城壁が崩されて、その門は火で焼き尽くされておりました。この12節の方から16節までの方を読んでいきますと、そのエルサレムは非常に凄まじく恥ずかしめられたありさまが書いてあります。
門が火で焼かれ、城壁が崩され、また乗っている動物が通れないような、そこまで崩され方がひどい瓦礫の山と化しているところもありました。
皆さんもですね、皆さんの成り立ちもある時、皆さん自身の悪い行動、皆さん自身のこの取った行動のゆえに、皆さん自身がこの崩された城壁のように徹底的に痛めつけられて崩されてしまうようなことがあるかもしれません。それどころか、まだ未だにその城壁の崩された跡という状況が皆さんの状況だという人もまたいるのかもしれません。
このネヘミヤの時代、エルサレムは廃墟と化して城壁がない状況でした。他の国が侵略しても侵略し放題、守るものがなかったんですね。皆さん自身でこの守る防護壁がない状態ですと、本当に敵は好き放題に皆さんにやって来て、皆さん盗んでいったり、好き放題してしまったりします。
先週の水曜日にお話ししましたが、もしお家でですね、コンセントが、いつの間にか見失ったコンセントがあって、それでなんだこのコンセントってたどって見ていくと、なんか上の家の方にまでコンセントが通じてて、勝手にいつの間にか電気が泥棒されていたとしたらどうしますかっていう話をしましたね。
城壁が崩されているということ、このように境界線が侵入されて、自分たちの内側にある守るべきリソースが好き放題ぶんどられて盗まれているような状態、それがこの当時のネヘミヤの時代だったんですけれども、このような状況は改善されなくてはなりません。
崩されている都、それは再建されなくてはなりません。崩された皆さんの成り立ち、ぶんどられ続けてきた皆さんの人生、それはネヘミヤによって立て直しがなされなくてはなりません。ネヘミヤという名前の意味は、神の慰めという意味でした。皆さんを立て直すのは、神の慰めです。皆さんがぐちゃぐちゃに崩されて、敵が好き放題、恥ずかしめられ放題のありさまは、まず慰められなくてはなりません。
ネヘミヤはこのエルサレムのところに来て、彼らは夜中起きて、そして他の数人の人たちと一緒にその崩されたありさまを視察しました。夜の暗闇の、月が照っていたかもしれませんけれども、その明かりの下で、おそらく彼らは秘密裏に行動したんでしょう。ですから、獣もたった一頭しか連れて行かずに、また数人のもと、夜中に行きました。
これは本当に暗闇の中に崩されている状況、エルサレムのこの状況は、なんとこれを見てネヘミヤは心を痛めたことでしょうかね。なんで彼らがこの暗闇の中で隠密に行動しなければならなかったかというと、それを面白がらない敵がいたからです。
10節の方に書いてありますが、好き放題ぶんどれる、好きなことし放題。この役人たちにとって、彼らにとって都合が良かったんですね。ぶんどれるから。
皆さん自身もですね、立て直される段になると、それを面白がらない人がおります。攻撃を受けます。皆さん自身が自分の城壁を立て直そうとアクションを起こした途端に攻撃が来るのは、これは覚悟しておいた方が良いでしょう。
敵はですね、皆さんが立て直されるのを面白がらないんです。皆さん自身、それまでの人生でサタンにぶんどられ続けてきた。悪しき者たちにぶんどられ続けてきた。としたら、その悪しき者たち、サタンがそれを嫌がるんです。皆さんが立て直されるのを。
ここにおいては、サヌバラテとかトビヤとか、それを聞いて不機嫌になりました。ネヘミヤが来た。奴はイスラエル人の利益を求める。
そういうわけで、ネヘミヤはこの敵に知られずに、隠密に行動したんですね。皆さん自身もですね、何でもかんでも正直に、あけっぴろげで皆さん自身の秘密を全部明らかにしていれば良いというものではありません。皆さんが隠すべきところはしっかり隠すべきなんです。皆さんの実情を知られてはならない敵がいるんですよ。
皆さん自身のあることを知ってしまうと、ある日、兄弟姉妹にとっても非常に厄介なことになってしまうようなことは、そういう人をですね、混乱に陥れたり、あるいは兄弟姉妹の中でそういう混乱を起こすような情報はわざわざ言わなくていいんです。いや、言うべきではないんですね。
イエス様もある人は、ある人を癒したときに、その人に対して、このことは誰にも知らせてはならないと固く口止め、ある人たちに対してはしました。不思議ですね。ある人に対しては、言って、あなたの身に起こったことをその地方の人たちに知らせなさいと言って、ある人に対しては、このことは誰にも話してはならないと。
例えば、イエス様がそういう口止めをしたケースの場合だと、だいたいその人はその約束を破るんですね。言いふらすんです。言いふらした結果、イエス様がもはやそこで行動を取れなくなってしまうほど、人々がイエス様のもとを押し寄せたり、きっとイエス様のことをある面だけ語って、ある面だけ語らなかったんですね。
例えば、イエスという男のところに行くと、パンがもらえるぞ、とか、イエスというところに行けば、病気が癒してもらえるぞって言って、それでイエス様は罪を許してくださるお方だとか、イエス様は永遠の王であるとか、天と地を造られた神、主のメシアだとか、そういった非常に重要なところを除いて、ある面を語って、ある面を語らずということがある。
だから人によってですね、明らかにしていい情報と隠すべき情報があるんです。そこもしっかりと見極めるべきですね。このネヘミヤは、このイスラエルの敵に対しては、隠密に行動をとりました。
そして一通り見終わった後ですね、ネヘミヤはそこのイスラエルの困難のうちにある人たちに言うんです。17節以降です。
ネヘミヤ2:17-18「それから私は彼らに言った。あなた方は私たちのことを知っている。私の当面している困難を見ている。エルサレムは廃墟となり、その門は火で焼き払われたままである。さあ、エルサレムの城壁を建て直し、もうこれ以上恥辱を受けないようにしよう。そして、私に恵みをくださった私の神の御手のこと、また、王が私に話した言葉を彼らに告げた。そこで彼らは、さあ、再建に取り掛かろうと言って、この良い仕事に着手した。」
このネヘミヤはですね、そこの困難の状況うちにある神の民、イスラエルの人たち、エルサレムの住人に対して、良い知らせを告げ知らせるんですね。アルタシャスタ王は、このエルサレムの再建に対しては意欲的だと、助けをしてくれる。
そしてまた、その王の上におられる天と地を造られた神である主が、このすべてのことをここに至るまで、一献酌官がお暇をもらってお国のために仕事をさせてくださいという言葉に本当に心よく承諾して、しかもその援助の物資も送って、また手紙を書いてくれる。
そのような状況だから、我々はこのエルサレムの城壁を建て直して、もうこれ以上、恥辱を受けないようにしようと言うんです。そしてこのエルサレムの人たちは、神の御手のこととまた王様が話してくれた言葉に励まされて言うんです。さあ、再建に取り掛かろう。
皆さん自身には、主はどのように語っておられるでしょうか。皆さんは、崩された城壁のままでしょうか。門は火で焼かれているでしょうか。敵は皆さんの内側に入りたい放題しているでしょうか。
でも、主は天と地を造られた神である主は、皆さんに良くなってほしい。そして皆さんが城壁を再建するのであれば、あらゆる援助を天地を造られた神である主は惜しみません。
皆さんもですね、唇で告白するべき時が来ております。さあ、再建に取り掛かろうと。城壁が崩されたままであれば、それに対して何もしないのではないでしょうか。それは10年20年と崩されたまま、火で焼かれたまま、敵に入りたい放題に入らせたままです。
しかしこのエルサレムの住人がネヘミヤの言葉を聞いて勇気を奮い立たせ、再建に取り掛かろうと言った時から再建の業が始まるんです。
この3章の方はですね、本当にいろんな人が出てきます。いろいろな人がここの城壁の区画をどこからどこまで取り付けて修復したというそのリストがこの3章です。結構32節までずっと続きますけれども、本当にいろんな人がいろんな区画をそこを修理している様が記されておりますけれども、でもそのままにですね、やっぱり邪魔が入るんですね。
面白く思っていない人たちは、この2章の19節の方で言っています。
ネヘミヤ2:19「ところが、ホロン人サヌバラテとアモン人で役人のトビヤ、およびアラブ人ゲシェムは、これを聞いて私たちをあざけり、私たちを侮って言った。お前たちのしているこのことは何だ。お前たちは王に反逆しようとしているのか。」
城壁というのは、外部の敵から身を守るための道具です。城壁を建てるということは、何か戦争的な、軍事的な連想をさせるから。だから、もしこのことを面白く思っていない人たちが、王に歯向かうという口実を、王に偽の情報として、それはちょっと厄介なことですね。
皆さん自身も、皆さん自身が、自分で強くなろうとしているときに、「なんで強くなって、人を傷つけたりするのか、そんな強い言葉を身につけたら、人をもっと傷つけやすくなりますよ」というような、そういう讒言に引っかかってはなりません。
ネヘミヤは、こういうとき、「お前たちは王に反逆しようとしているのか」と言われた言葉に対して、「いえいえ、滅相もない。王に反逆しようとなどしておりませんよ」なんていうふうに、そんなベタな言い訳をして、まさにドツボにハマるようなことはしません。
いちいちですね、「いや違いますよ、王に反逆しようとなんかしてませんよ」とか、「これは戦争のために使うものではなく、平和のために使うものですよ」とか、そういった、相手が言ったことに対して、こう、そのまま返すやり方は、それは下手なやり方です。
ネヘミヤはどういうふうに答えたでしょうか。20節です。
ネヘミヤ2:20「そこで私は彼らに言葉を返して言った。天の神ご自身が私たちを成功させてくださる。だから、その僕である私たちは、再建に取り掛かっているのだ。しかし、あなた方には、エルサレムの中に何の分け前も、権利も、記念もないのだ。」
アーメン。まずですね、ネヘミヤは自分の立場を宣言しました。自分は、天の神ご自身が私たちを助けてくださる。天の神、主に仕えるものだから、私たちはこの神の都であるエルサレムの再建に取り掛かっているのだと。
自分たちを僕であると告白してますね。天の神ご自身が私たちを成功させてくださる。だからその僕である私たちは再建に取り掛かっているのだと。
サタンのですね、こういう攻撃の唇の火の矢に対しては、そのまま返してはなりません。皆さんをあざけるもの、皆さんを言葉によって引き落とそうとするものは、だいたいこういうふうにですね、そのまま答えてしまったら罠に陥るタイプの質問をしてきます。
例えばね、パリサイ派の人たちはイエス様に「カエサルに税金を納めるのは律法にかなったことでしょうか、そうでないでしょうか」と質問したとき、もしイエス様がそれに対して「かなったことである」と答えても、「そうではない」と答えても、「お前はローマに反逆するのか」と言われます。
そういう時イエス様は何て答えたか。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」と真実を告白しました。
また、姦淫の現場で捕らえられている女を連れてきたパリサイ派の人たちがイエス様に質問しました。「この女は姦淫の現場で捕らえられた。こういう女は律法では石打ちするように命じられている。ところでイエス様、あなたは何と言うか。」
イエス様はその質問に対しても、女を許せと言ってもドツボにハマります。じゃあお前律法を無視しているんだなと、口実にされてしまいます。この女は石で打ち殺せとイエス様が言っても、お前が今まで説いてきた愛の教えは一体何なんだと、これまた訴える口実になります。
皆さん自身ですね、イエスと答えてもノーと答えてもドツボにはまる質問があります。また皆さんが、右に行っても左に行っても、どちらのルートをとってもドツボにはまる、そういう人生の選択の場面があります。そういう時皆さんどうするべきかというと、皆さん真理を告白するべきです。
私は神の子である。ここでネヘミヤは、天の神ご自身が私たちを成功させてくださると。だからその僕である私たちは、再建に取り掛かっているのだと言いました。
イエス様は、その姦淫の現場の女の時は、そのイエスの質問に答えることなく、その群衆に対して真理を突きつけました。その群衆たちの、その状況。イエス様はこう答えただけです。「あなた方のうちで、罪のない者が最初にこの女に石を投げなさい。」つまりイエス様は、群衆のイエスの質問ではなく、その群衆に対して群衆の罪の状況をあらわにしたんですね。その人自身がいかに厄介か。
このネヘミヤが答えた言葉も、この、「お前たちは王に反逆しようとしているのか」という、この世の正義において罠にはめようとした言葉に対して、「いや違う、私たちは天と地を造られた神様の僕であり、その神様に従っているだけだ」と。何の引っかかりもないですね、王に対して。このことを言っても反逆をしているような、ことを匂わせるニュアンスは一切ありません。
皆さん、相手を見たら罠に陥ります。イエスの質問、サタンが投げかけるイエスの質問に、そのままイエスと答えてはならないし、ノーと答えてもなりません。御言葉にはこう書いてあると答えるべきです。
イエス様は、荒野でサタンの誘惑を受けた時、サタンの誘惑に対して「御言葉にはこう書いてある」と3回返しました。マタイ4章でした。
皆さん自身も、人生のあらゆる場面において、サタンからの攻撃を受けた時は御言葉で返してください。
天と地を造られた神様は、皆さん自身が城壁が崩されたまま、皆さん自身の成り立ちが、この時代のエルサレムのように、ズタズタで、瓦礫に埋もれて、動物も通れないような、そのような成り立ちを主は慰めてくださいます。ネヘミヤは神の慰めという名前の意味でした。主は皆さんの城壁を建て直してくださいます。
最後に、イザヤの62章の方を、イザヤ62章の4節と5節。
イザヤ62:4-5「あなたはもう、見捨てられているとは言われず、あなたの国はもう、荒れ果てているとは言われない。かえってあなたは、私の喜びは彼女にあると呼ばれ、あなたの国は、夫のある国と呼ばれよう。主の喜びはあなたにあり、あなたの国は夫のある国となるからだ。」
5節の方ですね。「あなたの子らがあなたをめとり」とあるんですが、このあなたの子らというのは、ここは新改訳では、「あなたを再建する者があなたをめとり」と書いてあります。「そして花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ。」
皆さんがですね、皆さんを再建されるお方である主イエス様を花婿として迎えるのであれば、花婿なるイエス様は皆さんを再建してくださいます。建て直してくださいます。そして、主は、皆さんのことを、花婿が花嫁を喜ぶように喜んでくださいます。
なぜなら、皆さんが主を頼りとするからです。旦那さんにとって、妻が皆さんのもとに保護を求めてくるのは、それは男にとってやりがいでしょう。男にとって喜びでしょう。女性を自分の手で守る。
それと同じように、イエス様も、皆さんがイエス様のもとに助けを求めてくるのを、イエス様はそれを誇りとするんです。誇りを持って皆さんを守ることを喜びとされます。
どうか皆さん自身が、主を迎えて、イエス様を主として、そしてこのお方に助けを求めて、皆さん自身に、もし、ネヘミヤの時代のような状況であるのであれば、皆さんを再建してくださる方が皆さん自身をめとって、そして皆さんの内で立て直しの業を行われることができるように皆さん自身が、どうか主をお迎えしてください。
そうすれば主は皆さんの内に入ってこられて、皆さんと共に食事をし、また皆さん自身の内で再建の業を果たしてくださいます。どうか主をお迎えして、いつでも主を主として、そしていつでもこの主から守っていただき、皆さんの城壁が完全に癒されて、そしてこのお方とその城壁の内で親しく喜ばしく主と共に生活していく皆さんでありますように。
イエス様のお名前によって祝福いたします。アーメン。
【結論】
崩された城壁のような人生の状態であっても、主イエス様を花婿として迎え、主に助けを求めるなら、主は皆さんを再建してくださいます。「さあ、再建に取り掛かろう」という告白から、立て直しの業が始まります。サタンの攻撃に対しては、御言葉で答え、真理を告白することが大切です。主は、皆さんが主を頼りとすることを誇りとし、花婿が花嫁を喜ぶように皆さんを喜んでくださいます。
礼拝説教メッセージ音声:イスラエルの子達への預言3(創世記49:22-27):右クリックで保存
前回同様、イスラエルの子達への預言が続き、今日はラケルの二人の子達への預言である。
『ヨセフは実を結ぶ若木、/泉のほとりの実を結ぶ若木。その枝は、かきねを越えるであろう。』(創世記49:22)
ヨセフの結んだ実は、実際に垣根を越えて広がる枝のように、イスラエルの子達家族全てを養い、それだけでなく、神を知らない異国の多くのいのちをも救った。
祝福されたヨセフは攻撃も受けたが、それでも神は守られた。
『射る者は彼を激しく攻め、/彼を射、彼をいたく悩ました。しかし彼の弓はなお強く、/彼の腕は素早い。これはヤコブの全能者の手により、/イスラエルの岩なる牧者の名により』(創世記49:23)
ヨセフは、兄弟達の悪意に対して悪を返すことをせず、ポティファルの妻に陥れられ牢に入れられても、その先々で権威に忠実に従うスタンスを捨てたりしなかった。
彼はいつでも「神は」が口ぐせで、どんな事があっても自分の手柄にはしなかった。
そのヨセフの性質の故に、神が彼を守り、彼の敵に神が弓を射返し(詩篇64篇)、流れのほとりに植えられた木のように、時が来た時には垣根を越えて広がる程の、豊かな実を結ばせるに至ったのだ。
私達も、イスラエルの岩なる牧者・イエスキリストに拠り頼む事によって、あらゆる悪から守られる。
まさしく詩篇1篇にある通りである。
『悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。このような人は流れのほとりに植えられた木の/時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。』
『あなたを助ける父の神により、/また上なる天の祝福、/下に横たわる淵の祝福、/乳ぶさと胎の祝福をもって、/あなたを恵まれる全能者による。あなたの父の祝福は、私の親たちの祝福にまさり、永遠の丘のきわみにまで及ぶ。これらがヨセフのかしらの上にあり、その兄弟たちから選び出された者の頭上にあるように。』(創世記49:25-26)
ここでヤコブはヨセフに「あなたの父の祝福は、私の親たちの祝福にまさり」と、言葉上はアブラハムやイサクに勝る祝福を与えているわけだが、ヨセフの子達が果たしてその通りの祝福を実際受けたかというと、そうでもない。
その人が実際に祝福されるかどうかは結局、祝福を父から受けた後、その人がどのような信仰で歩み、どのような行いを積み重ねて行くかにかかっているからだ。
さて、末っ子のベニヤミンである。
『ベニヤミンはかき裂くおおかみ、/朝にその獲物を食らい、/夕にその分捕物を分けるであろう」。』(創世記49:27)
ベニヤミンは戦いにおいて非常に強くなる祝福が与えており、実際にそうだった。
どれほど強かったかというと、士師記の時代、イスラエル他の11部族を相手に戦って、2度も勝利する程だった。(士師記20章)
なぜイスラエル部族同士が喧嘩するようになってしまったのか。
それは、ベニヤミン族は自分達の中にソドムと全く同じ罪を犯す邪悪な者達がいたのに(士師19章)、その者達を罰して悪を除き去るどころか、逆に自分達の強さに驕り高ぶり、その者達を守るためにイスラエル全体を相手取って戦ったからだ。(士師20:13-14)
士師記の時代のイスラエルは、御言葉に従わず、めいめいが自分の目に正しいと見える事を行っていたが、そのためにこの時代は祝福を受けず、他国から侵略され分捕られる事の多い、非常に殺伐とした時代だった。
自分の目に正しいと見える事を行う事、それは諸悪の根源である。
結局、自らの力に驕り高ぶって、自分達の怒りや欲望の赴くままを行なっていたベニヤミン族は、女子供は全て殺されてしまい、民数記の時代は男子45,600人を誇っていた一族も、たったの600人のみとなってしまった。
「民はベニヤミンのことで悔やんでいた。主がイスラエルの部族の間を裂かれたからである。」(士師記21:15)
ベニヤミンは、自分の牙に頼った結果、自分自身を裂き、兄弟達をも深く切り裂いてしまったのであった。
いただいた祝福は祝福として、神のために、兄弟姉妹のために用いるべきであって、決して自らの心の赴くままに驕り高ぶってはならないのだ。
ヤコブはこの章で、ある兄弟を祝福し、ある兄弟を呪い、ある兄弟を叱責したが、必ずしも父が願った人が祝福されたり呪われたり、とは限らない。
結局のところ、祝福を実際的にその人のものとできるかどうかは、その人がどのような信仰で歩み、どのような行いを積み重ねて行くかにかかっているのだ。
礼拝説教メッセージ音声:イスラエルの子達への預言2(創世記49:13-21):右クリックで保存
前回に続き、イスラエルの子達への預言の箇所である。
「ゼブルンは海べに住み、/舟の泊まる港となって、/その境はシドンに及ぶであろう。」(創世記49:13)
ゼブルン族は、海に近い所に相続地を得た。
ゼブルン族の中には、この祝福の通りに、海洋貿易で富を得た人はいたのかもしれないが、結局その領地は、海にもシドンにも、至らずじまいだった。(ヨシュア記19章)
モーセは後の時代に次のように祝福している。
『ゼブルンについては言った、/「ゼブルンよ、あなたは外に出て楽しみを得よ。イッサカルよ、あなたは天幕にいて楽しみを得よ。』(申命記33:18)
キリスト者の中にも、世に出て行って商いをし、富を得、教会に富をもたらす賜物を持った兄弟姉妹がいるのと同じである。
「イッサカルはたくましいろば、/彼は羊のおりの間に伏している。」(創世記49:14)
イッサカル部族は豊かな土地の相続地を得たが、なまけて安逸をむさぼった。
「彼は定住の地を見て良しとし、/その国を見て楽しとした。彼はその肩を下げてにない、/奴隷となって追い使われる。」(同15節)
この言葉の通り、後にはカナン人やアッシリアなど他国に税金を収めたり、ろばのように苦役を課せられる事になってしまった。
キリスト者の中にも、富を得て油断し、信仰になまけ癖がついてしまい、安逸をむさぼった結果、敵に蹂躙され、奴隷としてこきつかわれてしまう者もいる。
祝福を受けたからと言ってなまけ者になってはならない。怠けてしまうと、すぐに以下の箴言の御言葉どおりになってしまうからだ。
『わたしはなまけ者の畑のそばと、知恵のない人のぶどう畑のそばを通ってみたが、いばらが一面に生え、あざみがその地面をおおい、その石がきはくずれていた。わたしはこれをみて心をとどめ、これを見て教訓を得た。「しばらく眠り、しばらくまどろみ、手をこまぬいて、またしばらく休む」。それゆえ、貧しさは盗びとのように、あなたに来、乏しさは、つわもののように、あなたに来る。』(箴言24:30-34)
『ダンはおのれの民をさばくであろう、/イスラエルのほかの部族のように。』(創世記49:16)
ダンの名前は「さばく」という意味であり、ヤコブは、さばく人は道に隠れたへびのようだと、たとえている。
『ダンは道のかたわらのへび、/道のほとりのまむし。馬のかかとをかんで、/乗る者をうしろに落すであろう。』(同17節)
「悪魔」のギリシヤ語「ディアボロス」の原意は、元々、中傷する者、けなす者の意味であるが、兄弟姉妹をさばく人は、へびやまむしのようであり、それは悪魔の性質である。
ヤコブは、裁く人について、「主よ、わたしはあなたの救を待ち望む。」(18節)と、主に助けを求めている。
『ガドには略奪者が迫る。しかし彼はかえって敵のかかとに迫るであろう。』(同19節)
ガド部族は戦いに強い部族で、エリコを攻略する前にヨルダン川の東に相続地を先に得たが、ガドの勇士達は民の先頭に立ってカナンを侵略した。(民数記32章、申命記33:20)
兄弟姉妹の先頭に立って戦い相続を得させる役割が与えられたキリスト者もいるが、ガド部族はそのようである。
『アセルはその食物がゆたかで、/王の美味をいだすであろう。』(創世記49:20)
アシェルの名は幸いという意味である。
神から食料を豊かに提供され、それを兄弟姉妹に、そして王なるキリストに、豊かにごちそう提供する人は、幸いである。
キリストの食物とは、神の御心を行い、それを成し遂げる事である。
『イエスは彼らに言われた、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。』(ヨハネ4:34)
『ナフタリは放たれた雌じか、/彼は美しい子じかを生むであろう。』(創世記49:21)
ここの「美しい子じかを生むであろう」は「美しいことば(歌)を生むであろう」とも訳す事ができる。
ナフタリはガリラヤ湖北の山地に相続地を得、他から解き放たれた雌鹿のように自由であり、士師デボラとバラクはイスラエルに勝利をもたらし、美しい歌を歌った。(士師記4,5章)
主を賛美する事は私達の力であり、勝利をもたらすものである。
このようにヤコブの子らは、色々な役割が与えられバラエティに富んでいた。
同じように、キリスト者にも色々な賜物を与えられた兄弟姉妹が、それぞれ、バラエティに富んだ役割を果たす。
祝福されて怠け者になったり、目を凝らして裁いたりする者にはならず、有用でいのちを増やす働きをする皆さんでありますように!
礼拝説教メッセージ音声:イスラエルの子達への預言(創世記49:1-12):右クリックで保存
ヤコブは自らの死を目前にして、子たちを、すなわち、イスラエル12部族の父祖たちを呼び寄せ、彼らの今後を預言した。
その内容は、今を生きる私達にも関係があり、これこれのタイプの人はその後どうなっていくのかを知る上で、有用な手がかりとなる。
まずは長男のルベンから。
『ルベンよ、あなたはわが長子、/わが勢い、わが力のはじめ、/威光のすぐれた者、権力のすぐれた者。』(創世記49:3)
彼は長男であったが、気まぐれで、中途半端であり、ヨセフやベニヤミンを長男として守ろうとしたものの、最後まで責任を持つ事はせず、途中で放棄してしまった。
「しかし、沸き立つ水のようだから、/もはや、すぐれた者ではあり得ない。あなたは父の床に上って汚した。ああ、あなたはわが寝床に上った。」(4節)
彼は水のように奔放で、父のそばめビルハと寝た(35:22)ため、長子の権利を剥奪されてしまった。
父の寝床に上るような不品行で奔放な者は、呪われてしまう。(申命記27:20、1コリント5:1)
ルベンのように、性的にも感情的にも奔放で、気まぐれで、最後まで責任を負わない者は、一見、得な性格に見えるかもしれないが、他を凌ぐことは有りえない。
たとい長子の座にいたとしても、剥奪されてしまうのだ。
「シメオンとレビとは兄弟。彼らのつるぎは暴虐の武器。」(5節)
この二人はかつて、シェケムの男達を「割礼」をネタにして虐殺し、略奪した。
ヤコブはそんな彼らに厳しい。
「わが魂よ、彼らの会議に臨むな。わが栄えよ、彼らのつどいに連なるな。彼らは怒りに任せて人を殺し、/ほしいままに雄牛の足の筋を切った。」(6節)
彼らのように、怒りに身を任せるような者は、人々がその”つどい”いに連なることはなく(箴言1:15-16)、そして呪われてしまう。
「彼らの怒りは、激しいゆえにのろわれ、/彼らの憤りは、はなはだしいゆえにのろわれる。わたしは彼らをヤコブのうちに分け、イスラエルのうちに散らそう。」(7節)
事実、彼らの部族は後にカナンの中で散らされてしまう。
シメオン族はユダ部族の相続地中で散らされ(ヨシュア19:1,9)、レビ族は祭司の一族として色々な所に分散して住む事となり(ヨシュア21:1-45)、いずれもヤコブの言葉どおりになった。
ユダという名は「ほめたたえる」という意味だが、その名の通り父に褒め称えられている。
「ユダよ、兄弟たちはあなたをほめる。あなたの手は敵のくびを押え、/父の子らはあなたの前に身をかがめるであろう。」(8節)
彼は、長男ルベンが為すべきだった事、すなわち、父が愛した弟を守り、ベニヤミンの保証人として彼が身代わりとなったため、父にたたえられ、祝福された。
その祝福のとおりに、彼の子孫から王家が生まれ、敵は彼の手中へと渡され、兄弟達は彼に膝をかがめられるようになった。
「ユダは、ししの子。わが子よ、あなたは獲物をもって上って来る。彼は雄じしのようにうずくまり、/雌じしのように身を伏せる。だれがこれを起すことができよう。」(9節)
ユダはライオンのように強く、権威があり、その子孫から王族が生まれ、メシヤであるイエスキリストが生まれ、イエスがサタンを筆頭とするこの世のあらゆる悪に、死に対しても勝利し、人には誰も解く事の出来なかった封印を解く事になる。
「見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」(黙示録5:5)
「つえはユダを離れず、/立法者のつえはその足の間を離れることなく、/シロの来る時までに及ぶであろう。もろもろの民は彼に従う。」
ユダの杖は、一度は遊女の報酬の抵当のために手放してしまったが、タマルとの一件でしっかりと学び、もはや彼は欲望のためではなく、イスラエル一族を守るために、支配の杖を用いるようになった。
彼の家系から代々の王族が生まれ、後にはシロ(平和、メシヤの意)が現れ、メシヤであるキリストによって永遠の支配が確立される所まで、イスラエルは預言した。
「彼はそのろばの子をぶどうの木につなぎ、/その雌ろばの子を良きぶどうの木につなぐ。」(11節)
イエス様は雌ろばの子の子ろばに乗り、王として、エルサレムに迎えられた。(ゼカリヤ9:9、ヨハネ12:15)
イエス様をお乗せする私達は、まことのぶどうの木であるイエス様につながれるのである。
「彼はその衣服をぶどう酒で洗い、/その着物をぶどうの汁で洗うであろう。」(11節)
主は、ろばの子を用いられる柔和で憐れみに満ちたお方であるが、来るべきさばきの時には、力強く、敵に対しては恐ろしい有様で来られる。(黙示14:17-20)
ユダの性質は、兄弟のために弁護者として立ち、身代わりとなって罪の責を負う、イエスキリストの気高く尊い性質である。
この性質を持つ者は、ほめたたえられ、祝福され、王権と支配が約束される。
私達はルベンでも、シメオンやレビのようでもなく、ユダのようでありたい。
有用な社会人クリスチャン夫婦(1コリント2:1-5)
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パウロは、コリントに来る前の伝道地・アテネでは、当時最高の文化人達を相手に、由緒ある評議所アレオパゴスで、すぐれた言葉や知恵を用いて、雄弁に福音を説明しようとしたのに、死者の復活の話になった途端、あざ笑われ、宣教は不毛な結果に終わってしまった。(使徒17:22-34)
これに懲りたパウロは、それ以降、単純に主イエスの十字架と復活の福音を語るようになった。
「兄弟たちよ。わたしもまた、あなたがたの所に行ったとき、神のあかしを宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなかった。なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。」(1コリント2:1-2)
アテネを去ったパウロは、コリントへ来た時、イタリヤから来た天幕造りの夫婦・アクラとプリスキラに出会い、パウロも同業者だったため、彼らの家に住み込みで働きつつ、安息日には会堂で福音を伝える働きをした。
コリントは当時のギリシア文化の中心地で、哲学や弁論が盛んで、色々な娯楽もあり、また、退廃的な生活を「コリント風」と呼ぶ程、道徳的に退廃しており、彼らの目と耳は、現代日本のように、非常に肥えていた。
そんな中でなぜ、すぐれた言葉や知恵を用いずに、大勢の人達がイエスを信じ、救いへ導かれたのだろう。
それは、イエスの十字架の言葉こそ、神の御霊と神の御力の現われだからである。(1コリント2:4-5)
アクラとプリスキラは、天幕造りの仕事をしながら、十字架の福音のみで次々と人々を救いへと導いて行くパウロを間近で見、交わり、一緒に働く事によって、有用な社会人クリスチャン夫婦へと成長して行った。
この夫婦は一年半コリントでパウロと寝食を共にし、パウロがシリヤへ出帆した時も、エペソまで同行した。
彼らはこのエペソに留まって生活したが、そこでも彼らは有用な働きをする。(使徒18:24-28)
ある時、アポロという雄弁で聖書に通じた伝道者がエペソに来た。
彼は会堂でイエスのことを正確に語り、教えたのだが、彼はヨハネのバプテスマしか知らなかった。
「それをプリスキラとアクラとが聞いて、彼を招きいれ、さらに詳しく神の道を解き聞かせた。」(使徒18:26)
一介の社会人夫婦が、雄弁で聖書に詳しいフルタイム献身者に、神の道を詳しく解き明かしたのである。
しかも、ここの聖徒達は、アポロが行きたがっていたアカヤの聖徒達に手紙を書く事で彼を手助けし、彼をアカヤへと送り出し、それによって、かの地で信者になっていた人達の、大いなる励ましとなったのだ。
アクラプリスキラ夫婦は、天幕造りという仕事を持っていたため、アポロほど、主のミニストリーに時間を捧げられなかったし、また、アポロほど雄弁でもなく、聖書に通じていた訳でもなかったかもしれない。
それでも、この夫婦が神の道について正しく説き聞かせられ、また、躊躇事無くそれが出来る勇気があったのは、パウロと一緒にコリントにいた一年半の間、すぐれた言葉や知恵、雄弁さなどに依らない、単純な「十字架につけられたキリスト」の福音に、どれほど力があったかを、十分体験していたからである。
「わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった。」(1コリ2:4-5)
神の働きは、何も、パウロやアポロといったフルタイム伝道者だけのものではない。
彼らのようなフルタイム献身者が活動出来るのは、背後に多くの「アクラとプリスキラ」がいるからである。
この夫婦のようになるには、十字架の福音が欠かせない。これを抜きにして、雄弁さや知恵深さだけ追求しても、アテネでのように、笑われて終わりである。しかし、十字架につけられたキリストの福音に、ひたされ続けるなら、いかに一社会人夫婦であっても、下手なフルタイム献身者よりも有用な働きをするのである。
現代日本は、色々な意味で当時のコリントに負けず劣らぬが、それだからこそ必要なのは、純粋な福音、すなわち十字架につけられたキリスト、この御方であって、すぐれた言葉や知恵でも、雄弁さでもない。
「私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。」(2コリント2:17)
コリントのようなこの国においても、アクラとプリスキラ夫婦のように純粋なキリストの十字架の福音に養われ、神の働きを大いに為す皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
