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礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
2ペテロ1:12-21:右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:地に向けられたはしご(創世記28:10-22):右クリックで保存
ヤコブは住み慣れたベエル・シェバを立ち、たった一人、ハランへと旅をしていた。
兄にいのちを狙われている身であり、いつ母リベカのいる父の家に戻れるとも分からない。
心細く、寂しく、きっと家族からだけでなく、主からも遠く離れてしまったかのような心境であったろう。
そんな彼の所に、主は、圧倒的な臨在をもって現れて下さる。
「彼は夢を見た。先端が天まで達する階段(はしご)が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。」(創世記28:12)
普通、はしごは低い方から高い方へ架けるものだが、面白い事に、このはしごは天から地に向かって伸ばされている。
天と地は絶望的に離れており、人は決して神の座に登りつめる事は出来ないし、また、そのような試みをした者たちが建てたバベル塔は、崩されてしまった。
しかし、このはしごは、天から地の方へ、ヤコブが横たわっている傍まで差し伸べられ、神の御使いたちが、それを上ったり下ったりしていた。
この不思議なはしごは、一体何だろうか。
主イエスはナタナエルに言われた。
「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」(ヨハネ1:51)
この天から地へと架けられたはしごは、イエス・キリストを表している。
神と人との間の仲介者は唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスであり(1テモテ2:5)、この御方を通してでなければ、誰も父なる神様の御元に行く事は出来ず(ヨハネ14:6)、高き天から降り人となられたお方は、唯一キリストである。
『見よ、主が傍らに立って言われた。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの”子孫”に与える。あなたの”子孫”は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの”子孫”によって祝福に入る。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」』(創世記28:13-15)
全世界は、この「子孫」であるキリストによって祝福に入ると、主は預言されている。
主は、アダムとエバが堕落した時、一人の「女の子孫」によってサタンの頭が砕かれる事を預言していたが、この「女の子孫」こそ、アダム以来ずっと人類が待ち望んで来たメシヤであり、アブラハム、イサク、ヤコブにも示された、神と人との架け橋であり、天と地とを結ぶはしごとなって人類を救って下さるイエス・キリストである。
ヤコブは、主が共におられたことに恐れおののき、自分が枕にした石に油を注いで記念の石とし、その場所をベテルと呼んだ。
彼はその後、色々な困難が遭った時でも、このベテルでの出来事を思い出した事だろう。
ヤコブが単身、遠国に身を潜めるなくてはならなくなったのは、彼自身の身から出た錆であったにもかかわらず、主は憐れみ深く、そんな彼に直接現れて下さり「わたしはあなたと共にいる」「どこへ行ってもあなたを守り、必ず連れ帰る」「わたしは決して見捨てない」と言って下さった事は、なんと深い慰めであろう。
それと同じ慰めは、私達にも与えられている。
私達も、ヤコブのように罪深く、自分の身から出た錆によって苦しむような事もあるのに、イエスは苦しんでいる私達に向けてはしごを渡し、神と人との仲保者となって、救いへと導こうとしておられる。
インマヌエルなる主は、いつも私達と共におられ、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と言って下さった。(マタイ28:20)
ヤコブはそれまで、主のご性質をあまり知らなかったが、今回の事で、さらに一歩深く知ることが出来るようになった。
私達も日々、主の良きご性質をさらに知って行き、そして、知って行く程に豊かな人生へと造り替えられて行くのである。
「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。
また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。」(エペソ1:17-19)
礼拝説教メッセージ音声:御心を求める祝福と、求めない事の呪い(創世記28:1-9):右クリックで保存
『リベカはイサクに言った。「わたしは、ヘト人の娘たちのことで、生きているのが嫌になりました。もしヤコブまでも、この土地の娘の中からあんなヘト人の娘をめとったら、わたしは生きているかいがありません。」イサクはヤコブを呼び寄せて祝福して、命じた。「お前はカナンの娘の中から妻を迎えてはいけない。ここをたって、パダン・アラムのベトエルおじいさんの家に行き、そこでラバン伯父さんの娘の中から結婚相手を見つけなさい。』(創世記27:46-28:2)
リベカの言葉をきっかけに、イサクはやっと、本来祝福を受けるべきヤコブに祝福を与える。
彼もようやく目が覚め、主の御心を押しのけ自分の望むことを貫く事の災いに、懲りたのだろう。
この時、ヤコブは70歳を超えていたはずで、彼はそれ程高齢になるまで独身のままだった。
アブラハムもイサクも、主の側から「どこどこへ行きなさい」「ここに留まりなさい」という導きは結構与えられて来たのに、こと、子供の結婚相手に関しては、なぜか主の側から具体的な示しが来た事は無い。
アブラハムもイサクも、彼らの側が嫁探しの為に動いた時、主ははじめて導きを与え、嫁となるべき女性のところへと無事に導かれた。
結婚をいつ誰とするべきか、といった、人生の重要な決断をする場面で、御心が中々示されないような時がある。
そのような時、主は、私達の側が信仰による決断をして行動する事を、待っておられるのかもしれない。
私達が、自由意思と決断によって行動する時、御言葉に従う信仰を持っているなら、主はその道を祝福して下さると信じるのだ。
エサウは、父が結婚した年齢に自分も達した時、御心を求めるという事を一切せず、好き勝手に、手近にいるカナン人の娘を二人もめとり、その事が一家の悩みの種となった。
そしてエサウはさらに、アブラハムの子であるイシュマエルの娘から第3番目の妻を迎えるのだが、それは神に御心を求めたからではなく、親に気に入られるためであった。
『エサウは、イサクがヤコブを祝福し、パダン・アラムへ送り出し、そこから妻を迎えさせようとしたこと、しかも彼を祝福したとき、「カナンの娘の中から妻を迎えてはいけない」と命じたこと、エサウは、カナンの娘たちが父イサクの気に入らないことを知って、イシュマエルのところへ行き、既にいる妻のほかにもう一人、アブラハムの息子イシュマエルの娘で、ネバヨトの妹に当たるマハラトを妻とした。』(創世記28:6-9)
アブラハムの子孫から妻をめとる、という行動は、一見「信仰的行動」のように見えるかもしれない。
しかし、御心という的を外した「信仰的行動」は、事態をさらに悪化させるだけだ。
イシュマエルはアブラハムの子とはいえ、神の系列から除外された者である。
肉の子が祝福を受け継ぐのではなく、約束の子が受け継ぐのだ。
彼のその行動によって、カナンの娘達との過ちがキャンセルされる訳では無いし、それどころが、一家の悩みの種を一つ加えたに過ぎず、さらに家族から嫌悪されるその度合いを、増し加えたに過ぎなかった。
このように、御心を求めない手前勝手な礼拝や奉仕は、邪魔以外の何者ではなく、兄弟姉妹達からの嫌悪を、さらに増し加えるものである。
エサウはヤコブへ殺意を持ったまま残り、ヤコブは遠国に難を逃れ、この一家はかなり険悪な様相を呈して来てしまった。
しかし、主の祝福のご計画は、人間の罪によって損ねられるものではない。
人間が廃墟にしてしまった所さえも、主は御業を働かせ、そこを立て直し、最善へと導いて下さるのである。
礼拝説教メッセージ音声:祝福をロスしてしまう人(創世記27:30-46):右クリックで保存
祝福を受けたヤコブが出ていくと同時に、エサウは料理した獲物を持って意気揚々と入ってきた。
そしてイサクは、自分が祝福を与えた相手がエサウではなかった事が分かると、激しく震えた。
その祝福は、一度切りの大切な祝福で、エサウもその重要性を理解していたため、彼は大声で泣き叫び「祝福をください」と幾度も言った。
イサクとしても本心は、エサウの願い通り、祝福を授けたかっただろう。
しかし、彼の口から出た言葉は、呪いと言えるような内容だった。
このように、祝福される事が御心ではない人には、いかに力ある者や親しい人の願いがあったとしても、祝福される事は決してない。
しかし、主の祝福が御心である者たちには、どんな力ある人達の思惑があろうとも、祝福されてしまうのである。
『エサウは、父がヤコブを祝福したことを根に持って、ヤコブを憎むようになった。そして、心の中で言った。「父の喪の日も遠くない。そのときがきたら、必ず弟のヤコブを殺してやる。」ところが、上の息子エサウのこの言葉が母リベカの耳に入った。』(創世記27:41-42)
エサウは、ヤコブを殺してやろう、と「心の中で」言ったはずなのに、その思惑はなぜか周囲に知られる所となった。
思わず口が滑ってしまったのか、それとも表情が明らかにそうであったのか分からないが、いずれにせよ、彼の憎しみと殺意は相当のものであった事が伺える。
彼には長男の権利を軽んじた事への後悔はなく、自分はどこで主の御心を損じてしまったのか、主はなぜ御顔を自分からそむけてしまったのか、そうした事を内省する心が、すっぽりと抜けてしまっている。
彼が欲しかったのは、あくまで物質的な祝福であり、それを手に入れる望みが無くなってしまった事を、涙を流して泣き叫んだものの、その涙には悔い改めの心は一切無く、憎しみに変換され、ヤコブへの殺意という方向性へと走ってしまった。
もし彼がヤコブを殺してしまったなら、一体、主の御心はどうなってしまうのか。といった、主を思う気持ちが、すっかり抜けているのだ。
エサウは結局、アブラハム以来の祝福の家系を継ぐに相応しく無い器であり、祝福の家系図から追い出されるべくして追い出された事が、はっきりしたのだ。
「不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。」(ヘブル12:16)
ここで「彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。」と書かれてある事に注目したい。
欽定訳聖書では「he was rejected: for he found no place of repentance」とあり、つまり、彼の心の中には一切「悔い改め」という余地が見つからなかった、そのため、涙を流して求めても拒否されたという事だ。
彼は悔い改めるべきだったのにそれをせず、ロスしてしまった祝福を泣きながら惜しみ、逆切れし、神の御心はどこかに吹っ飛び、ヤコブに殺意を抱いた。
結局彼は、祝福が与えられる余地を、自らのかたくなな心の故に、失ってしまったわけである。
「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。 彼らも、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。もしあなたが、もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう。」(ローマ11:22-24)
「だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」(ヨハネ15:6-7)
礼拝説教メッセージ音声:祝福を得るためのキーアイテム(創世記27:18-29):右クリックで保存
自分は兄エサウであると偽って父の前に出たイサクは、ついに、一家の長子が継ぐべき祝福を奪ってしまった。
父親を騙す事は罪であり、それによってヤコブは罪の刈り取りをしてしまった事を、前回見た。
今回は視点を変えて、本来祝福を受けるべきでない者は、いかにして祝福を勝ち取る事ができるのか、という視点で、見て行きたい。
本来祝福を受け継ぐべき者が祝福を受けられず、本来祝福を受継ぐべきでない者が祝福を受け継いでしまう。
人は、それを「不当だ」「ずるい」と言う。
それなら、最も「不当」な扱いを受けたのはキリストであり、祝福を受け継いだキリスト者は、皆「ずるい」。
なぜなら私達は、本来祝福を受けるべきではない罪人であったのに、祝福を受け継ぐ者とされてしまい、キリストが呪われた者とされてしまったのだから。
祝福を受ける為の重要なキーアイテムは、「動物の毛皮」と「晴れ着」、用意された「ごちそう」と「ぶどう酒」、そして、着物の「香り」である。(創世記27:18-29)
まず、ヤコブに必要だったものは、「動物の毛皮」だった。
毛皮を得るには、その動物の犠牲が必要である。
アダムとエバはエデンを追い出される時、裸のままでは追い出されず、動物の毛皮を着せられ、裸が覆われ、恥ずべき部分が覆われた。
また、アベルの捧げ物が受け入れられたのは、犠牲があったからである。
私達も、屠られた子羊キリストの犠牲によって「キリストという衣」が得られ、それを着る事によって、御父の実前に出ることができるのである。
「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、”キリストを着ている”からです。
・・・あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。」(ガラテヤ 3:26-29)
ヤコブは動物の毛皮を着た事によって、父の疑惑を避けられ、それ故に、アブラハムの祝福を受けるべき子と認定された。
同様に私達も、キリストを着る事によって、アブラハムの子孫としての祝福を受ける者となれるのである。
もう一つの重要アイテムは、「晴れ着」である。
マタイ22章1-14節には、王子の結婚の披露宴のたとえが記されており、そこにも礼服(晴れ着)が登場する。
たとえの中で、あらかじめ招待されていた客たちは、この宴会をあなどってしまい、ある者は畑に、ある者は商売に出かけてしまい、結局彼らはその宴会にあずかる事は出来なくなってしまった。
彼らは、長子の権利をあなどったエサウに、実に良く似ている。
そして、本来招かれざる者たちが招かれ、招きに応じた者達は、たとえ良い人でも悪い人であっても、宴席に連なる事が出来た。
ただし、「礼服(晴れ着)」を着ていない者は追い出されてしまう。
当時、王が宴会に招く時は、客人に礼服(晴れ着)を支給し、「これを身に着けて宴会に来て下さい」と言ったようである。
王から「礼服」が支給されているのに、それを一蹴し、自前の好きなファッションで参加してしまうなら、追い出されてしまうのだ。
きっとヤコブも、兄の晴れ着を着ずに父の前に出ていたら、呪われて外の暗闇に追い出されていたであろう。
私達もまた、天の王の宴会に参加する時、天の王から支給された「キリストという贖いの衣」を身に着けて行かないなら、外の暗闇に追い出されてしまうのだ。
ヤコブはまた、父の好みを良く知っている母リベカに父の好きな「ごちそう」を用意され、それを父に差し出し、また、「ぶどう酒」を飲ませた。
私達も、御父の思いを良く知っておられる聖霊によって用意された捧げ物、すなわち、キリストが十字架で裂かれた肉という「まことの食物」を差し出し、また、キリストの血という、「まことの飲み物」を差し出すなら、それによって御父は満足されるのだ。
そしてイサクは着物の「香り」をかぎ、それが祝福を与える決定打となった。
雅歌4章10-16節にも、香りの重要さが示されている。
雅歌に登場する花嫁は、王である花婿から支給された飾りと香油を身につけ、そうして王の前に出た時、王は花嫁のとりことなり、最高の賛辞を送った。
わたしたちは、自分のがんばりや努力という汗くささを帯びて主の御前に出てはならない。
人間的ながんばりや努力は捨て去り、王から支給された「キリストという贖いの衣」を身に着け、キリストが自らの体をもって捧げられた「なだめ香り」を放ちつつ、御前に出るべきである。
そうするならば、御父はキリストのなだめの香りによってなだめられ、祝福を与えて下さるのである。
『ヤコブが近寄って口づけをすると、イサクは、ヤコブの着物の匂いをかいで、祝福して言った。
「ああ、わたしの子の香りは/主が祝福された野の香りのようだ。どうか、神が/天の露と地の産み出す豊かなもの/穀物とぶどう酒を/お前に与えてくださるように。多くの民がお前に仕え/多くの国民がお前にひれ伏す。お前は兄弟たちの主人となり/母の子らもお前にひれ伏す。お前を呪う者は呪われ/お前を祝福する者は/祝福されるように。」』(創世記27:27-29)
キリストの裂かれた体という贖いの衣を身に着け、キリストの体というまことの食物、キリストの血というまことの飲み物を携え、キリストが自らの体をもって捧げられた「なだめ香り」を放ちつつ、御前に出る事によって、ヤコブが父イサクから祝福を与えられたように、天の父から祝福をいただく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:撒いた種は必ず刈り取る(創世記27:11-17):右クリックで保存
イサク自身の歩みは、平和の人として申し分無かったものの、子育てや後継者選びの面において、諸々の間違いを犯してしまった。
長男エサウは、アブラハムの家系に入れてはならないヘテ人の女二人を妻としてしまい、また、主からは「兄は弟に仕える」と言われていたにも関わらず、イサクは自分の好むエサウの方に祝福を与えようとした。
そして、リベカとヤコブは共謀して父をだまし、兄エサウを出し抜いて長男の祝福を奪おうと計画したのだ。
一体、この平和に満ちていたはずの一家は、どうしてしまったのだろう。
いつのまに、そんなドロドロとした権謀術数の渦巻く一家になってしまったのだろう。
この時、一家全員に共通していた事は、本来なら主の御心を求め主が物事を為されるのを待つべき所を、それをせず、自分の感覚のままに身勝手に行動してしまっている事である。
いかにアブラハムの子と言えど、自分を主体とし、主を差し置いて行動するならば、すぐにこのようになってしまうのである。
「リベカは、家にしまっておいた上の息子エサウの晴れ着を取り出して、下の息子ヤコブに着せ、子山羊の毛皮を彼の腕や滑らかな首に巻きつけて、自分が作ったおいしい料理とパンを息子ヤコブに渡した。」(創世記27:15-18)
ヤコブはリベカの指示の下、エサウの「晴れ着」と「山羊」の毛皮を用いて兄エサウになりすまし、「父親騙し」をして、祝福を横取りしようとしていた。
弟ヤコブが栄え、祝福を受け継ぐ事は、確かに御心であった。
しかし、親を騙して偽る事は紛れもない罪であり、後に彼は、その行いの実をそのまま刈り取る事になってしまう。
ずっと後に、ヤコブの最愛の子・ヨセフは兄達に憎まれ、結果的にエジプトへ売られてしまうのだが、その際、兄たちはヨセフの「長服(晴れ着)」と「山羊」の血を用いて「父親騙し」を実行したのである。(創世記37章)
この時、騙されたヤコブは、最愛の子ヨセフが野獣に噛み殺されたと思い込み、ヨセフと再び会える日までの膨大な日々を、涙と悲嘆の内に過ごす事となってしまった。
こうして彼は、自分が実行した「父親騙し」という報いを、そのまま自分の身に負う事となってしまったのだ。
「嘘も方便」「良い嘘もある」といった人間の感覚や言い伝え等によって、御言葉を上塗りしてはならない。
偽りはどんな些細なものでも、また、いかに「神のご計画を実行するため」だとしても、聖書に「偽ってはならない」と書いてある以上、偽りは罪である事には変わらず、悔い改めて、主に赦しを乞うべきなのである。
イサクもエサウもヤコブもリベカも、感覚による目視飛行を行なっていたために、この時一家は迷走してしまった。
私達は感覚に頼るべきではなく、御言葉に頼って生きるべきであり、常に、御言葉による計測飛行をしているかどうか、感覚による目視飛行をしていないかに、注意する必要がある。
御言葉は御言葉として尊く受け取り、災いを招くような歩みをせず、主に喜ばれる歩みをいつもしている皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
あなたは甘いりんごのよう(雅歌2:1-7)
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雅歌は聖書の他の書とは明らかに違う。 読んでいて恥ずかしくなるほど男女の愛の悦びが生き生きと表現され、近寄りがたい崇高さも、規律的な厳しさ、難しさも、一切無い。
この書は、ユダヤでは30歳以下の者が読む事を禁じられた。 男女の愛の悦びは、成熟して結婚の契を交わした男女のみに相応しいように、キリストとの関係も成熟さを増せば増すほどに、宗教的な束縛感から開放され、自由になり、悦びに満ち、あたかも新婚夫婦のような悦びの関係に入ってくる。
キリストと弟子達は、はじめは師弟関係(ヨハネ13:14)だったのが、主が命じる事を行なう内に、友の関係となり(同15:14)、十字架の後には兄弟関係(同20:17)となり、やがては、キリストのからだなる教会に接合され、成熟する事によって、花婿と花嫁の関係となっていくのだ。(黙示録21,22章)
地上のものは全て天の写し、影であり、新婚の甘い日々もまた、我々がやがて天で味わう事の影である。
「私の愛する方が若者たちの間におられるのは、林の木の中のりんごの木のようです。私はその陰にすわりたいと切に望みました。その実は私の口に甘いのです。」(雅歌2:3)
恋心の乙女は、意中の男性以外が雑木に見えるように、私達も成熟すればする程、巷の神々や権威ある者達、世の富や宝は、全てどうでも良く見えて来て、唯一頼りとしたいと思うのは、キリストのみとなっていく。
主の羊は、真の羊飼いである主の声を聞き分ける。 彼らは、いと高き全能なる神の元に身を寄せ(詩篇91)たいと心底願い、その陰に宿り、御口から出てくる御言葉を甘いりんごのように慕い求めるのである。
「あの方は私を酒宴の席に伴われました。私の上に翻るあの方の旗じるしは愛でした。」(雅歌2:4)
主は私達に、敵の面前で酒宴をもうけ、頭に香油を注いで下さり、盃を溢れさせて下さる。(詩篇23:5)
敵の面前で、私達は「主ご自身」という旗で覆われ、私達の上ではためくその旗印は、愛である。
「干しぶどうの菓子で私を力づけりんごで私を元気づけてください。私は愛に病んでいるのです。」(雅2:5)
干しぶどうもりんごも、他の箇所では、喜びを表している。(2サムエル6:19、イザヤ16:7-10、ヨエル1:12)
男女の愛には喜びと潤いがあるように信仰生活にも喜びと潤いが必要であり、それを主に求めるのである。
「ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださるとよいのに。」(雅歌2:6)
女性にとって、好きな男性の左腕の中に腕枕され、右腕で抱かれている一時は、至福の時ではなかろうか。
それは、女性は男性のあばら骨から取られたからであり、女性の居場所は元々男性の懐だったからである。
男女が並んで歩く時、男性が右側で女性が左側である事が多いのは、男性が利き腕を自由に動かしてリードし、女性は利き腕で男性を離さず、男性にリードされて行く姿が、自然だからである。
ベタニヤのマリアは、イエスの足元というりんごの木の下で、イエスの口からこぼれてくる御言葉という甘いりんごを、いつも慕い求めていた。その場所その時が、何よりの至福の場所、至福の時だったからである。
その心でイエスを慕い求め、イエスの御思いを理解したからこそ、他の弟子達が誰も出来なかった葬りの準備を、唯一、彼女だけがその時を悟り、その準備が出来たのである。
イエスと深い交わりをして御心を知る、という事が無いなら、たとえ神のために良かれと思って何かをしたとしても、それは自分の思いに過ぎず、弟子達のようにとんちんかんな、あさっての事をしてしまうものである。
マリヤは、マルタや弟子達から色々の否定的な言葉を浴びせられてもイエスご自身が直接保護して下さったように、イエスの御翼の陰に宿る私達を、主ご自身が直接的に保護し、敵を𠮟り飛ばして下さるのである。
「エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿をさして、あなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」(雅歌2:7)
かもしかや野の雌鹿は、繊細な動物である。自分を無理矢理恋心へと持ち込むと、すぐヘンな男に引っかかってしまうように、主に対する愛も、無理やり駆り立てようとせず、自然に湧き起こるのを待てば良い。
シャロンの花であるイエスを、甘いりんごのように慕い求め、マリヤのように、主の足元が慕わしくて仕方がなくなるまでに、繊細な主への愛を、自然な形で、大切に育み育てていく皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!