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礼拝説教メッセージ音声:見えない方が良い事もある(創世記27:1-10):右クリックで保存
「イサクは年をとり、目がかすんで見えなくなってきた。」(創世記27:1)
この時、イサクは100〜131歳くらいであったが、彼が人生を全うする180歳までの長い間、目はかすんで見えない状態が続いた。
イサクには多くの祝福が与えられていたのに、目が見えなくされていたのは、彼は、主の御心よりも、自分の望む事を優先させたいという思いが湧き起こり、彼の視力が、主が御心を執行する邪魔となっていたからであろう。
イサクにとっての、主の御心よりも自分の望む事を優先させたい、という思いとは、アブラハムの家系の正当な家系を、エサウに継がせたい、という願いである。
エサウは自分の望むままに、主を知る事も恐れもしないヘテ人の妻を二人召し入れた。
アブラハムの正当な子孫に、神を恐れぬカナン人は決して入れてはならないはずであり、何より、エサウとヤコブが生まれる前から、主から「兄が弟に仕える」と言われていたからには、ヤコブこそ、正当な家系を受けつぐべきであった。
それなのにイサクはエサウを愛し、自分が死ぬ前にエサウに長男としての祝福を与えようとしてしまうのだ。
リベカは憂いた。
このままではエサウとカナン人の間に生まれる子が、直系の子となってしまう。
そこでリベカは機転を聞かせて動いた。
『リベカは息子のヤコブに言った。「今、お父さんが兄さんのエサウにこう言っているのを耳にしました。『獲物を取って来て、あのおいしい料理を作ってほしい。わたしは死ぬ前にそれを食べて、主の御前でお前を祝福したい』と。わたしの子よ。今、わたしが言うことをよく聞いてそのとおりにしなさい。家畜の群れのところへ行って、よく肥えた子山羊を二匹取って来なさい。わたしが、それでお父さんの好きなおいしい料理を作りますから、それをお父さんのところへ持って行きなさい。お父さんは召し上がって、亡くなる前にお前を祝福してくださるでしょう。」』(創世記27:6-10)
リベカは、ヘテ人の女から生まれる子を、断じて栄えあるアブラハムの子孫にしてはならぬ、という主の御心を、彼女の機転によって、成そうとしたのである。
最終的にイサクは、目が見えない事によって、そしてリベカの機転によって、神の御心を損ねる事を免れた。
ここまでの創世記の学びをして来た方は気付かれたかもしれないが、目が良い事が、かえって災いを招く事が多い。
ロトはソドムという町の見た目の麗しさに惹かれて災いを招き、築き上げて来た財産と家族を失ってしまったし、ノアの時代、神の子達も、人の娘の美しさに心奪われ、滅ぼされる事になってしまったし、エバもまた、禁断の木の実をじっくり見入ってしまったから、人類全体に罪と死をもたらしてしまった。
自分の目の赴くまま腕力に頼り、人生を切り開いている内は、主の御心を全うできない。
肉による遣り繰りがことごとく頓挫し、自分の力に頼ることを止め、主の御手に頼ることを始める「十字架の経験」を経てこそ、主に有用な働きをなす事が出来るようになるのである。
今日は、実家の両親が交わりさせていただいている兄弟が、彼の畑で採れた新鮮なエシャレットを箱で送って下さいました。
聖書学び会の後、皆でいただいて、とても美味しく味わいました。
エシャレットは、がんの予防に役立ち、血液をサラサラにし、発汗作用があり、風の初期症状をしずめる、という事で、ちょうど私も風邪をひいており、また、ちょうどその効用を必要としている聖徒がおりました。
送って下さった兄弟とは、はじめましての関係でしたが、皆でそのように計らって下さった主に感謝し、顔も知らない私達のために贈って下さった兄弟のために、祝福をお祈りをさせていただきました。
礼拝説教メッセージ音声:祝福の安定飛行(創世記26:23-35):右クリックで保存
ペリシテ人の地ゲラルに長期間滞在していたイサクは、約束の地・カナン地方のベエル・シェバに戻ってきた。
「イサクは、そこに祭壇を築き、主の御名を呼んで礼拝した。彼はそこに天幕を張り、イサクの僕たちは井戸を掘った。」(創世記26:25)
イサクは約束の地のこの場所に腰を落ち着け、定住する準備を始めるが、彼が成した事の順番には、私達も守るべき重要な優先順位が現れている。
彼が居を構えるに当たり、真っ先に建てたのは「祭壇」だった。
祭壇とは主を「礼拝する場」であり、それをまず建て、その後に天幕、すなわち「自分が住む家」を構築し、そして次に、「生活に必要なもの」である井戸を整えた。
この順番を誤ると、ハガイ書にてイスラエルが叱責された時のような出来事が起こる。
「今、お前たちは、この神殿を/廃虚のままにしておきながら/自分たちは板ではった家に住んでいてよいのか。今、万軍の主はこう言われる。お前たちは自分の歩む道に心を留めよ。種を多く蒔いても、取り入れは少ない。食べても、満足することなく/飲んでも、酔うことがない。衣服を重ねても、温まることなく/金をかせぐ者がかせいでも/穴のあいた袋に入れるようなものだ。
万軍の主はこう言われる。お前たちは自分の歩む道に心を留めよ。山に登り、木を切り出して、神殿を建てよ。わたしはそれを喜び、栄光を受けると/主は言われる。」(ハガイ1:4-8)
イサクはゲラルにいた時、祝福されたが故に周囲からねたまれ、追い出され、井戸を奪われたりしたが、それでも、言論で戦ったり武力で報復したりは一切せず、正しく裁いて下さる主にお委ねしていた。
誰かから理不尽な目にあわされた時に、主の御言葉の故に自分を下ろし成り行きを主に委ねる場合、「これで良かったのだろうか」と、一抹の鬱積や不満が残る事もある。
イサクももしかしたら、ゲラルで受けた理不尽な応対を思い返すに当たり、そのような鬱積があったかもしれない。
主はそんな彼に現れ、言われた。
「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを祝福し、子孫を増やす/わが僕アブラハムのゆえに。」(創世記26:24)
イサクはその言葉に、どんなに励まされた事だろう。
主が与えて下さったは、言葉の約束ばかりではない。
イサクがゲラルで取ってきたスタンス、つまり、あたかも右の頬を打たれたら左の頬も差し出すような、人の目からは愚かに見えるまでに平和を貫き通したそのスタンスは、決して間違っていなかった、という主からの示しが、明確に、目に見える形として、向こうからやって来た。
『アビメレクが参謀のアフザトと軍隊の長のピコルと共に、ゲラルからイサクのところに来た。イサクは彼らに尋ねた。「あなたたちは、わたしを憎んで追い出したのに、なぜここに来たのですか。」』(創世記26:26-27)
アビメレクはイサクを追い出したも同然であった(16節)し、イサクは彼らに奪われた井戸に「争う」「敵意」という名前をつけたほど、ペリシテ人の行状には、明らかにイサクに対する憎しみが込められていた。
ところが彼らは、あたかもそんな事は無かったかのような物言いをしている。
「主があなたと共におられることがよく分かったからです。そこで考えたのですが、我々はお互いに、つまり、我々とあなたとの間で誓約を交わし、あなたと契約を結びたいのです。」(28節)
彼らは、主が明らかにイサクと共におられる事を、恐れたわけである。
以前は、自国の中にイサクという強い集団が居着いている事が脅威だったので、追い出す事で衰えさせようと思ったのかもしれない。
ところがイサクはますます祝福され、栄えたため、そんな彼らが敵対的な心情を持ったままでいる方が、もっと脅威だ、と思ったのだろう。
「以前、我々はあなたに何ら危害を加えず、むしろあなたのためになるよう計り」(29節)
・・・確かに危害は加えなかったが、祝福を妬んで多くの井戸を埋め、奪ったのではなかっただろうか。
「あなたを無事に送り出しました。」(同)
・・・16節のアビメレクの言葉を見ると、とても無事に送り出したとは言えない。
「そのようにあなたも、我々にいかなる害も与えないでください。あなたは確かに、主に祝福された方です。」(同)
実に、つっこみ所満載な言い分であるが、しかしイサクはそうした事を一切問わず、彼らのために祝宴を催し、互いに誓いを交わして、彼らを安らかに去らせたのだ。
なんともお人好しな、おおらかなイサクである。
しかし、彼のその生き方こそ、安楽な祝福の生涯を全うする生き方である。
彼について記された書面の分量は、アブラハム・イサク・ヤコブの中では最も短く、波瀾万丈さが一番無いため、第三者が彼の生涯を「ストーリー」として見る分には、最もつまらないかもしれない。
しかし、イサクは最も長生きし(アブラハム175年、イサクは180年、ヤコブは147年)、波瀾万丈な乱気流に巻き込まれる事なく、ずっと祝福の安定飛行をキープしていたため、彼について書き記す分量は当然少なく、そして彼は安泰な生涯を全うしたのである。
「柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。」(マタイ5:5)
イサクのように、祝福の安定飛行をキープするコツは、この御言葉に集約される。
礼拝説教メッセージ音声:柔和な者は地を相続する(創世記26:12-22):右クリックで保存
「イサクがその土地に穀物の種を蒔くと、その年のうちに百倍もの収穫があった。」(創世記26:12)
種まきのたとえによると、百倍の実を結ぶ者とは、「御言葉を聞いて悟る人」であり(マタイ13:23)、実を結ばない人とは、御言葉を聞いて悟らない人、内側が硬い岩ばかりで根が張れない人、世の思い煩いや富の誘惑で御言葉を覆い塞いでしまう人である。(同18-22節)
イサクはこの地方に留まっている間、多くの理不尽な仕打ちを受けるのだが、それでも彼は、御言葉の約束を信じ、平和に対処し続けた。
「あなたがこの土地に寄留するならば、わたしはあなたと共にいてあなたを祝福し、これらの土地をすべてあなたとその子孫に与え、あなたの父アブラハムに誓ったわたしの誓いを成就する。」(創世記26:3)
彼は、ペリシテ人から祝福を妬まれて父アブラハムが掘った井戸を塞がれ、アビメレクからも「あなたは我々と比べてあまりに強くなった。どうか、ここから出て行っていただきたい。」と言われ、事実上、追い出されてしまった。(16節)
これは、父アブラハムの時に交わした契約の明らかな違反であり、契約内容を盾に争議する事も出来たはずである。
しかし彼は、そういう事は一切せず、大人しくその場所から移ってしまう。
彼はゲラルの谷間へ移住し、そこで新たに井戸を見つけた。
『ゲラルの羊飼いは、「この水は我々のものだ」とイサクの羊飼いと争った。そこで、イサクはその井戸をエセク(争い)と名付けた。彼らがイサクと争ったからである。イサクの僕たちがもう一つの井戸を掘り当てると、それについても争いが生じた。そこで、イサクはその井戸をシトナ(敵意)と名付けた。』(創世記26:20-21)
一度ならず二度も争いを仕掛けられた、となれば、明確な敵意があったと言えるだろう。
力も富もアビメレクを凌いでいるのだし、神に守られているのだから、武力行使に出ても十分勝てたはずだろう。
なのに彼はそのような手荒な事はせず、それらの井戸はくれてやり、黙って立ち去った。
そして、またもや彼は井戸を掘り当て、今度は誰にも文句言われず、正真正銘に彼のものとなった。
『イサクはそこから移って、更にもう一つの井戸を掘り当てた。それについては、もはや争いは起こらなかった。イサクは、その井戸をレホボト(広い場所)と名付け、「今や、主は我々の繁栄のために広い場所をお与えになった」と言った。』(創世記26:22)
彼は、やる事なす事全てが成功し、祝福されたのである。
ダビデもまた、主が「広い所」へと導かれた事を、詩篇18篇で詠んでいる。
「主は高い天から御手を遣わしてわたしをとらえ/大水の中から引き上げてくださる。敵は力があり/わたしを憎む者は勝ち誇っているが/なお、主はわたしを救い出される。
彼らが攻め寄せる災いの日/主はわたしの支えとなり、わたしを”広い所”に導き出し、助けとなり/喜び迎えてくださる。」(詩篇18:17-21)
この詩篇18篇は、彼がサウル王から救われた時に詠んだ詩篇であるが、彼は、自分のいのちを付け狙うサウル王を、自らの手で殺せるチャンスが2回も訪れたのに、自分の手でなす事はせず、正しく裁いて下さる主に全てお委ねした。
彼もイサクのように柔和な対処をしたため、主が彼の敵を裁いてくださり、結局枯れは王位を受け継ぎ、祝福され、栄えたのだ。
「柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。」(マタイ5:5)
イサクは祝福の故に妬まれたが、罵られても罵り返さず、武力をもって報復せず、手練手管も使わず、奪われても奪われたまま、黙って他の所へと移って行った。
それは人の目から見れば、愚かさ、弱さのように見えるかもしれない。
しかし結果的に、彼は祝福につぐ祝福を受け、周囲が逆に恐れをなすようになった程である。
イサクのように柔和な者となり、地を相続し、周りからも恐れられるほど祝福される皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
今日は暑い中の平日でしたが、教会は賑やかでした。
公なアナウンスはしておりませんでしたが、火曜〜金曜までの昼13時より、賛美と祈りの集会を行なっております。
公なアナウンスをしていなかったのは、それは自然発生的に始まり、気づいたらそれが習慣的になっていたからです。
それで今日も賛美と祈りをし、その後ある兄弟の洗礼準備会でした。
その後、6人ばかり残って夕食の料理をし、おいしいステーキを皆でいただきました。
皆で同じ料理を作り、同じ食卓を囲み、同じ主を礼拝する事のは、千日にも勝る楽しさです。
「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。
それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。
それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」
詩篇133篇
教会が好きで、交わりが好きで、聖徒たちが自然に集まってくる教会。
とても幸いな日々を、生かされております。
礼拝説教メッセージ音声:父の信仰の故に守られる(創世記26:1-11):右クリックで保存
アブラハムの時代、彼は飢饉という試練を通して精錬されたが、イサクもまた同じく飢饉という試練が与えられた。
その試練が訪れた時、イサクはエジプト方面へと向かったが、その途中、ガザの南側境界付近の、ゲラル地方にいる時、主が直接イサクに現れた。
『主がイサクに現れて言われた。「エジプトへ下って行ってはならない。わたしが命じる土地に滞在しなさい。あなたがこの土地に寄留するならば、わたしはあなたと共にいてあなたを祝福し、これらの土地をすべてあなたとその子孫に与え、あなたの父アブラハムに誓ったわたしの誓いを成就する。』(創世記26:2-3)
聖書の記述の中では、神がイサクに直接現れたのは、この時が最初である。
アブラハムに主が現れた時、最初に命じられた事は「わたしが示す地へ行きなさい。」であったが、イサクには逆に、「わたしが命じる土地に滞在しなさい。」と命じられた。
イサクはどこにも行くべきではなく、「ここ」が約束の地であり、そこに留まることが御心であったからである。
主は今日の箇所で、2回「父アブラハムの故に」祝福する、とイサクに言われた。
父の祝福が子に及ぶのは、父が主の御声に聞き従い、御言葉を守り行ったからである。
「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す。」(出エジプト20:6)
さて、イサクは父アブラハムと全く同じ地方で、全く同じ試練に遭い、全く同じ理由の故に、同じ過ちを犯してしまった。
彼はゲラル地方で、その土地の人達を恐れて、妻ラケルを「妹です」と言ってしまった。
妻が美しい、と言う理由で、平気で夫を殺し妻を奪ってしまう、という事が行われていた地方だからである。
ただ彼の場合、アブラハムの時とは違い、妻を召し取られてしまうような事は無く済んだ。
それはやはり、父アブラハムの故に、主が守って下さったからである。
ペリシテの王アビメレクは、イサクの父・アブラハムの代の時に、彼の妻サラを召し入れた事で、主から恐ろしい目に遭った。
またアビメレクは、アブラハムが余りに祝福されている事に恐れをなして、不可侵条約を結んでいた。
イサクがそのアブラハムの子であるからには、やはり「あのイサクの美しい妹には、下手に手を出したらひどい目に遭うかもしれない」と、ある程度の恐れがあったのだろう。
そんなある日、イサクとリベカが兄妹では有り得ないような親密な行動をしている所を、アビメレクに見られ、彼らが夫婦である事が公に知られる所となった。
『アビメレクは早速イサクを呼びつけて言った。「あの女は、本当はあなたの妻ではないか。それなのになぜ、『わたしの妹です』などと言ったのか。」
「彼女のゆえにわたしは死ぬことになるかもしれないと思ったからです」とイサクは答えると、アビメレクは言った。
「あなたは何ということをしたのだ。民のだれかがあなたの妻と寝たら、あなたは我々を罪に陥れるところであった。」アビメレクはすべての民に命令を下した。「この人、またはその妻に危害を加える者は、必ず死刑に処せられる。」』(創世記26:9-11)
アビメレクのこの命令は、このようなお国柄の所では、まず無いような命令である。
イサクは、自分たちが小さく弱いから、という事で恐れていたかもしれないが、父アブラハムの故に、そして主が共におられる故に、逆にその国から恐れられていたのである。
『彼らは、国から国へ、一つの王国から他の民へと渡り歩いた。しかし主は、だれにも彼らをしいたげさせず、かえって、彼らのために王たちを責められた。「わたしの油そそがれた者たちに触れるな。わたしの預言者たちに危害を加えるな。」』(詩篇105:13-15)
私達も、御言葉に聞き従い、守り行うのであれば、子孫までも守られるのである。
私達が、いかに小さな群れであっても、御言葉を正しく届ける「預言者」であるなら、主は周囲の国々に恐れを起こさせ、「危害を加えるな」と言って、叱られるのである。
大切な事は、アブラハムのように、御言葉に聞き、従い、守り、行う事である。
当教会は、至る所にティッシュボックスが置いてあって、初めて来られる方は、どうしてだろう、と不思議に思われるのですが、参加して頂ければ分かります。
礼拝中、主に触れられて、しょっちょう涙が出てしまうのです。
最近、このティッシュの交換頻度が高くなって来ました。
それだけ聖徒たちが、主に触れられる頻度も、高くなって来たのでしょう。。。
礼拝説教メッセージ音声:狩人型 vs 牧者型(創世記25:27-34):右クリックで保存
「二人の子供は成長して、エサウは巧みな狩人で野の人となった」(創世記25:27)
エサウは、生まれた時から毛深くて赤く、いかにも強そうだったが、成長すると強さを増し加え、思うままに好きな所へ出ていき、腕づくで獲物を勝ち取る者となった。
創世記を今まで学んで来た中で、巧みな猟師に成長した人物は、これで3人目である。(10:9のニムロデ、21:20のイシュマエル)
彼らは総じて、自分の力強さに頼り、自らの欲するままに腕づくで周囲を支配し、神に喜ばれない歩み方をして来た。
「ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした。」(創世記25:27)
ここの「穏やか(タァウム)」という語は、ヨブ記1:1に登場した「正しい」「全き」「無垢」とも訳す事の出来る、義人ヨブの品性を表す語であり、また創世記6:9でも類義語としてノアの「正しさ」を表した語である。
彼は父の天幕の周りで働き、父が所有していた多くの羊や牛の群れをしっかり管理し、牧していた。
ダビデは若かりし頃、羊飼いとして身につけた牧者としてのスキルが後に王になった時に役だったように、ヤコブもここで身につけたスキルが、後にラバンの所で大いに役立ち、さらに富む者とされて行く。
まだ二人が生まれる前、リベカは主から「兄が弟に仕える」と言われていた。
彼女は、主の言葉に心を留め、エサウよりもヤコブを愛し、兄はやがてあなたに仕えるようになる、あなたは神様に祝福される、と言っていたのかもしれない。
それで彼は、主のそのことばに思いを留めていたものの、現状のままでは、あの僅差で先に生まれた兄に、全ての祝福を持っていかれてしまう、この現状を何とかしなくては、と、機会をいつも伺っていたのかもしれない。
そんなある日、彼にとってチャンスが訪れる。
ヤコブがレンズ豆の煮物を作っている所に、エサウは死ぬほど疲れきって、野から帰って来た。
『エサウはヤコブに言った。「お願いだ、その赤いもの(アドム)、そこの赤いものを食べさせてほしい。わたしは疲れきっているんだ。」彼が名をエドムとも呼ばれたのはこのためである。』
ヤコブからすれば、降って湧いたようなチャンスであった。
『ヤコブは言った。「まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください。」』
エサウからすれば、突拍子もない事を言われ、面食らったかも知れない。
しかし、長子の座に安住していた彼にとって、弟のそんな言葉はどうでも良く、ただ、目の前にあるその「赤いもの」が欲しかった。
『「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」とエサウが答えると、ヤコブは言った。「では、今すぐ誓ってください。」エサウは誓い、長子の権利をヤコブに譲ってしまった。』
彼にとっては、まさかこれで本当に長子の権利が売られてしまったとは、思ってもいなかったのかも知れない。
とりあえず口先で言っておけば、その赤いものが早く手に入る、くらいに考えていたかも知れない。
しかし、壁に耳あり障子に目ありである。
その場にエサウとヤコブの二人しかいなかったとしても、主は聞いておられ、後にはその言葉の実をしっかりと刈り取ってしまう事になる。
エサウは結局、自分の好きな獲物を追いかける事に夢中になり、自己管理を怠って死にそうなまでに疲れ果て、たかだか一杯の食物で、長子の権利を売る事になってしまったのだ。
『また、だれであれ、ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように、みだらな者や俗悪な者とならないよう気をつけるべきです。あなたがたも知っているとおり、エサウは後になって祝福を受け継ぎたいと願ったが、拒絶されたからです。涙を流して求めたけれども、事態を変えてもらうことができなかったのです。』(ヘブル12:16-17)
長子の権利とは、父から全ての祝福を受け継ぐ事のできる、独占的な権利である。
私達キリスト者も、永遠の祝福を受け継ぐ権利を、キリストにあって持っているが、エサウのようにそれを軽んじて売ってはならない。
エサウの場合、祝福の権利と引換にしたものは、一杯の食物だったが、それは様々な形に姿を変え、神の国を受け継ぐ権利と引換に売らせようとして誘惑して来る。
私達は断固、それをキリストの名によって拒否しなくてはならない。
自分の赴くままの所へ出て行き、腕づくで獲物をぶんどる「狩人型」のエサウと、父の天幕に留まって、従順に任された群れを養い管理する「牧者型」のヤコブ。
イサクがエサウを好んだように彼のようなタイプの人は人々から好かれ、そして多くの人は、世の中をうまく渡り合っていけるために、狩人型の人間になりたいと願う。
しかし主は、狩人型の人間を退け、牧者型の人間を栄えさせる。
ヤコブのように、与えられた領分において、与えられた群れをしっかり養い育て、神の約束をいつも思い巡らし、祝福は貪欲に勝ち取ろうとする皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
有益な集まりと有害な集まり(1コリント11:17-22)
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「あなたがたの集まりが利益にならないで、かえって損失になっているからである。」(1コリント11:17)
兄弟姉妹は、単に集まれば良い、というものではない。「有害な集まり」というものが、確かに存在する。
良い集まりは、人をいのちで満たし、力強くするが、有害な集まりは、人を不安に導き、焦らせ、疲れさせる。
良い交わりと有害な交わりはどうやって見分ければいいか?それは、ガラテヤ5:19-23の、肉の行いのリストと、御霊の実のリストを見比べて、どちらの実を結んでいるかを見れば良い。
その集まりによって、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制が満ちるなら、その交わりを続けるべきである。しかし、その集まりによって、不品行や汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものが増し加わるなら、止めた方が良い。
コリントの集まりが損失になっている理由は、肉の結果である分裂分派がある事だとパウロは言っているが、同時に、本当に残るべき者が明らかにされるためには、分派もやむを得ない、とも言っている。(19-20節)
人が教会から去っていく理由は色々あるが、もし、教会が正しく御言葉を伝え、霊的に問題無いのに、自分の意見や欲する事が通らない、というので教会を去っていくのなら、その人はそのまま去らせれば良い。
なぜなら、教会は、自分の欲望を満足させる場ではなく、主が満足されるべき所だからである。
また、教会の働き人は、人に仕えて人を満足させる、単なる「優しい人達」ではない。
教会の働き人とは、主イエスのために働き、仕える人達である。もちろん主は、人に仕えるように命じておられるが、主を差し置いて、人に優先的に仕えるのは、本末転倒である。
人の満足を求めるあまり、人の拒否や離別を恐れるあまり、御言葉を希釈したり、曲げたりしてはならない。
「そこで、あなたがたが一緒に集まるとき、主の晩餐を守ることができないでいる。というのは、食事の際、各自が自分の晩餐をかってに先に食べるので、飢えている人があるかと思えば、酔っている人がある始末である。」(1コリント11:20-21)
原語の位置から、パウロは極めて強い調子で「そんな飲食は、決して主の晩餐では無い!」と憤慨している。
教会の中で、真に助けるべき弱い人や貧しい人を軽んじ、辱めたりして、躓きを与える者たちがいたのだ。
富んだ者も貧しい者も、共に主にあって一つの食卓に与るようにと、整えられた聖なる主の愛餐を、俗悪なおしゃべりしたり、酔ったり、感謝も無くつまんだりして、貶めてしまった事を、彼は激しく憤った。
「神の教会」は、食べたり飲んだり、寝たり、おしゃべりしたりといった、社交サロン的な、使い勝手の良い施設のような場所だと思ったら、大間違いである。
神の教会は、聖なる主イエスの御体であり、聖なる主に礼拝を捧げ、共に主と一つとなる、聖なる所である。
間違った幻想を教会に求めて来て、物質的・霊的にも食い散らかす者を、主は忌み嫌われる。
パウロはここで、自分の食欲を満たそうと我先に飲み食いする者を叱責したが、それは何も、飲み食いの事だけでなく、聖徒の尊い思いやりや、きよい良心を食い散らかしたり、礼拝の時間を食い散らかしたりして、真にそれらを求めている人たちに、それらが行き渡らないよう食い散らかしてしまう者達も、含まれる。
「神の教会を軽んじ、貧しい人々をはずかしめるのか。」(22節) 神の教会とは、キリストの御体である。
「主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招く。あなたがたの中に、弱い者や病人が大ぜいおり、また眠った者も少なくないのは、そのためである。」(29-30節)
人が良い方向へと変わるのは、教会が支援する食料やお金、良心的な思いやり等ではない。
御言葉を聞いて悔い改める事によってのみ、人は良い方向へ変わるのであり、悔い改めの無い人達に、食料やお金をいくら与えても、それは益にならず、害になるだけである。
私達の集まりの中心は、主イエスであり、主イエスの御体を覚えて、全ての事を行うべきである。(24,25節)
主イエスを覚え、真に必要を覚えている人に支援し、共にひとつの食卓に与り、ひとつ主の御体に与って、ますます純粋で聖なる者とされていく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!