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メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:一族で最も正直者のヨセフ(創世記37:1-11):右クリックで保存

37章以降は、イスラエル一族全体の歴史であるが、特にヤコブの11番目の子・ヨセフを中心に話が進む。
ヨセフは兄弟達から憎まれていたが、それには色々な原因があった。

「ヨセフは十七歳の時、兄弟たちと共に羊の群れを飼っていた。彼はまだ子供で、父の妻たちビルハとジルパとの子らと共にいたが、ヨセフは彼らの悪いうわさを父に告げた。 」(2節)
ヨセフは兄弟達に憎まれる事に恐れる事無く、正確に父に報告した。
アブラハムやイサクは周囲を気にする余りに妻を妹だと偽ったり、ヤコブは兄の祝福を「騙し」取ったが、ヨセフのあくまで正直な性質は、そんな父たちとは逆である。

「ヨセフは年寄り子であったから、イスラエルは他のどの子よりも彼を愛して、彼のために長そでの着物をつくった。」(3節)
かつてヤコブがラケルを偏愛したために、妻たちの中に争いを引き起こしたが、ヤコブの偏愛癖もまた、ヨセフが憎まれる要因となってしまい、子供達の中に不穏な空気を生み出してしまった。
「兄弟たちは父がどの兄弟よりも彼を愛するのを見て、彼を憎み、穏やかに彼に語ることができなかった。 」(4節)

ある時、ヨセフは夢を見て、それを兄弟たちに話したため、彼らは、ますます彼を憎んだ。
『ヨセフは彼らに言った、「どうぞわたしが見た夢を聞いてください。 わたしたちが畑の中で束を結わえていたとき、わたしの束が起きて立つと、あなたがたの束がまわりにきて、わたしの束を拝みました」。 』(6-7節)
こんな事を言ったら兄に憎まれるのは目に見えているのに、それは主が見せて下さった、意味のある夢であったから、伝えずにはおれなかったのだろう。

事実、20年以上も後の未来に、彼の夢の通りの事が起こる。
誰もその時、想像し得なかった事だが、ヨセフは30歳でエジプトの宰相になり、40歳くらいの時には全世界を相手に穀物の振り分けをしてしている中で、兄弟達が彼の元に来ておじぎをし、穀物を分けてくれるようヨセフにお願いしたのだ。(創世記42:6)

17歳の彼はまた、先の夢がさらにスケールアップした形で、夢を見た。
『「わたしはまた夢を見ました。日と月と十一の星とがわたしを拝みました」彼はこれを父と兄弟たちに語ったので、父は彼をとがめて言った、「あなたが見たその夢はどういうのか。ほんとうにわたしとあなたの母と、兄弟たちとが行って地に伏し、あなたを拝むのか」。 兄弟たちは彼をねたんだ。しかし父はこの言葉を心にとめた。 』(9-11節)

夢が二度くり返されたのは、このことが神によって定められ、神は確かにこれをなさるしるしである。(創世記41:32)
父ヤコブはヨセフの見た夢をとがめ、父である自分も、母も、おまえを拝むのか、と言って怒るが、彼はその事を心に留めた。

イスラエルの父祖達や12部族は、将来、彼らに後の世代に生まれ出る、ヨセフのような性質を持つ一人の子孫、すなわち、イエスキリストを、拝む事になる。
イスラエルという国は、現在はまだイエスをメシヤとして受け入れていないが、やがて、イエスが主であると告白し、ひざまずく時が、必ず来るのだ。

ヨセフは、色々な面において、イエスキリストの性質を帯びている。
ヨセフは、父からの寵愛を受け、父から特別な服が着せられ、それ故に兄弟達から妬まれ、憎まれ、銀で売り渡され、偽りの罪状をなすりつけられた。
それでも彼は、どんな相手にも正直に、神から託された事を語った。
彼は兄弟達や父からは死んだ者と見なされていたが、実は彼はイスラエル全家を救うために、神によって先にエジプトへ遣わされ、エジプトの統治者とされた。(創世記45:7-8)
イエス様の次の御言葉が思い起こされる。

「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。
そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている」。(ヨハネ14:1-4)

ヨセフは救いを得させるために、場所を備えに遣わされた。
同じように、イエス様も私達が天で住む住まいを用意するために、私達に先駆けて天に昇られたのだ。

また、ヨハネは黙示録にて、ヨセフの夢と似た幻を見ている。
「また、大いなるしるしが天に現れた。ひとりの女が太陽を着て、足の下に月を踏み、その頭に十二の星の冠をかぶっていた。この女は子を宿しており、産みの苦しみと悩みとのために、泣き叫んでいた。・・・女は男の子を産んだが、彼は鉄のつえをもってすべての国民を治めるべき者である。この子は、神のみもとに、その御座のところに、引き上げられた。」(黙示録12:1-2,5)

この女は、イスラエルを指しており、私達霊的イスラエルを表していると言われている。
イスラエルから生まれた、ヨセフの性質を持つ一人の子孫、イエスキリストはやがて現れ、彼は鉄のつえで諸国を治め、全ての膝は彼の前に屈まれ、ひれ伏され、彼が全てを支配し、統治される時が、やがて来るのだ。

ヨセフは正直であるが故に憎まれ、一時期卑しめられ、苦しんだが、それでも正直を貫き通したから、祝福を栄誉を得た。
ヨセフのように、人に対して恐れず、正直に主から与えられた御言葉を語り、たといそれによって困難に陥っても、忍耐して、後には栄光と祝福を受ける皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:肉の者の栄枯盛衰(創世記36:1-43):右クリックで保存

『エサウは妻と子と娘と家のすべての人、家畜とすべての獣、またカナンの地で獲たすべての財産を携え、兄弟ヤコブを離れてほかの地へ行った。彼らの財産が多くて、一緒にいることができなかったからである。すなわち彼らが寄留した地は彼らの家畜のゆえに、彼らをささえることができなかったのである。』(創世記36:6-7)

エサウは弟ヤコブに長男の権利と祝福を奪われたのだが、この創世記36章を見る限り、富においても権威においてもエサウの方が遥かに勝っているようだ。
しかし、エサウの妻たちはカナン人やイシュマエル人であり、エサウの子孫達は、後の行動を見ても、やはり神の基準から離れた「世の人」である事には変わりはない。

エドムは、イスラエルの子達がエジプトで奴隷生活を送っている間にも着実に栄え、セイルの先住民であるホリ人を制圧し(20-30節)、首長も多く輩出し、(15-19、40-43節)、イスラエルに王が出る遥か前から、王たちも多く出た(31-39節)。
神の民イスラエルは栄えず、エサウの民が遥かに栄えているのはなぜか、と思われるかもしれない。
しかし、歴史的視点から見ると、エドムは最終的には滅び、イスラエルは栄え祝福されている。

エドム人(イドマヤ人)はバビロン捕囚の時までは栄えていたのに、イエス様の時代になると少なくなり、最終的に、民族としては歴史から姿を消している。
エドムはなぜ絶滅してしまったのか。
その原因は、オバデヤ書に記されている。

エドムは、他国人がエルサレムを攻めた時、知らぬ顔をし(オバデヤ書11節)、むしろ喜び(同12節)、イスラエルの敵と一緒に門に入って、財宝に手をつけ(13節)、戦禍から逃げようとするイスラエル人の前に立ちはだかって、逃げられなくした。(14節)

詩篇137篇は、バビロン捕囚されたあるユダヤ人が詠んだ詩で、バビロン人が余興でユダヤの歌を歌うよう言われた時、悲しくて歌えなかった様が記されている。
彼は7節でこう詠んでいる。
『主よ、エドムの人々がエルサレムの日に、「これを破壊せよ、これを破壊せよ、その基までも破壊せよ」と/言ったことを覚えてください。』

このように、兄弟が困っている時に、敵の側に立って一緒にいじめるのが、エドム人の特徴であり、その態度が主を怒らせた。
その時以来、主は周辺の国々を用いて、エドム人を立て続けに攻め立て、最後には滅ぼされる。

『オバデヤの幻。主なる神はエドムについてこう言われる、われわれは主から出たおとずれを聞いた。ひとりの使者が諸国民のうちにつかわされて言う、「立てよ、われわれは立ってエドムと戦おう」。』(オバデヤ1節)

歴史上、エドムに攻め入った国々は、アッシリア、バビロン、ハスモン朝、そして、ローマ帝国であり、エドム人はAD66年のローマ帝国に反逆した故に、ティトスによってほぼ根絶され、僅かしか生き残らなかった。
こうして以下のオバデヤの預言が成就したわけである。
『見よ、わたしはあなたを国々のうちで/小さい者とする。あなたはひどく卑しめられる。』(2節)
『主の日が万国の民に臨むのは近い。あなたがしたようにあなたもされる。あなたの報いはあなたのこうべに帰する。』(15節)

私達にももしかしたら、エドムのように、困っているのに逆に苦しめるような、凶悪な身内がいるかもしれない。
しかし主は、主に救いを求める聖徒たちを必ず守られる。
そしてもし、エドムのように、兄弟姉妹が困っているのに、敵の側に立って一緒に攻め立てたりするなら、主はその者に敵対される。

『肉の物、高ぶる者は、主の御前に長く存続できない。悪しき者は正しい人をうかがい、これを殺そうとはかる。主は正しい人を悪しき者の手にゆだねられない、またさばかれる時、これを罪に定められることはない。
主を待ち望め、その道を守れ。そうすれば、主はあなたを上げて、国を継がせられる。あなたは悪しき者の/断ち滅ぼされるのを見るであろう。
わたしは悪しき者が勝ち誇って、レバノンの香柏のようにそびえたつのを見た。しかし、わたしが通り過ぎると、見よ、彼はいなかった。わたしは彼を尋ねたけれども見つからなかった。
全き人に目をそそぎ、直き人を見よ。おだやかな人には子孫がある。しかし罪を犯す者どもは共に滅ぼされ、悪しき者の子孫は断たれる。』(詩篇37:32-38)

『あなたはいつくしみある者には、いつくしみある者となり、欠けたところのない者には、欠けたところのない者となり、清い者には、清い者となり、ひがんだ者には、ひがんだ者となられます。あなたは苦しんでいる民を救われますが、高ぶる目をひくくされるのです。』(詩篇18:25-27)

世の人は一見、神の民よりも栄えているかのように見えるが、長い目で見れば、世の人は衰え、神の民は富といのちと権威を増し加えて行くのだ。
困っている兄弟姉妹を助け、平和な者として地を受け継ぐ皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:気になると、せずにはおれない人の災い(創世記35:16-29):右クリックで保存

ヤコブは「あなたは立ってベテルに上り、そこに"住んで"、あなたがさきに兄エサウの顔を避けてのがれる時、あなたに現れた神に祭壇を造りなさい」と主から言われていた。(1節)
それで彼はベテルに行き、祭壇を造って礼拝した。そこまでは良かったのだが、ベテルには住まず、すぐに父イサクの住む南の方へと歩を進めてしまう。
しかも、愛する妻ラケルが妊娠して、お腹が大きくなりかけていた時に。

舗装されていない砂漠をらくだに揺られながらの旅である。妊婦にとっては、かなり大変だ。
ヤコブはなぜ留まるべき場所を離れ、しかも、ラケルが安静にしていなくてはならない時に、移動してしまったのか。

確かにヤコブは、20年前にベテルで主が現れた時、父イサクの家に戻る事を表明していた。(創世記28:21)
しかし、それは主が命じたのではなく、彼が自分で決めた事である。
主からは「ベテルに住みなさい」と、つい最近命じられたばかりであるので、そんな遥か昔に決めた事など、実行するような時ではなかったはずだ。

もしかすると、父イサクがかなり高齢で、いつ死ぬか分からなかったので焦ったのかもしれない。
いずれにせよ、彼はこの時、自分でやりたい事や心配事が沸き起こったら、それが気になって気になって仕方なくなり、ラケルや主の命令よりも、自分の思いを優先させて、さっさと実行してしまわなくては、気が済まなかったようである。

御心を求めず、周りも顧みずに、自分が思い立った事を、その時やらずにはおれない人には、災いが尽きないものである。
ヤコブは主の命令を脇に置き、お腹の膨らんだ最愛のラケルに旅を強い、皆を引き連れて移動させた結果、彼女は難産になり、それが元となって、彼女は死んでしまった。

『イスラエルはまた、いで立ってミグダル・エダルの向こうに天幕を張った。』(21節)
ミグダル・エダルとは「羊の群れのやぐら」という意味で、恐らくそこは、羊を飼うのに適した所だったのだろう。
彼はそこにとどまった時、彼にとって屈辱的な事が起きた。
『イスラエルがその地に住んでいた時、ルベンは父のそばめビルハのところへ行って、これと寝た。イスラエルはこれを聞いた。』(22節)
この出来事によって、ルベンは長男の権利を失い、彼は他の兄弟達に抜きん出る事もなく、その後の歴史でも、彼の民族からは士師も預言者も王も出る事は無かった。

家長であり、指導者でもあるヤコブが、主から与えられていた命令を守る事をせず、父の家に帰るという自分で決めた事も中途半端にして、羊を飼うのにいい所を見つけると、そこに定住してしまう。
そのように、思いの向くまま、行き当たりばったりで自分の集団を導いてしまうと、最愛の人を亡くしてしまったり、子供や部下が好き勝手にし出して、家長としての権威と秩序を失ってしまうものである。

彼らはそこからさらに移動し、ついに、ヘブロンのマムレにいる父イサクの所へ到着した。
「イサクの年は百八十歳であった。イサクは年老い、日満ちて息絶え、死んで、その民に加えられた。その子エサウとヤコブとは、これを葬った。」(28-29節)

イサクは、アブラハム・イサク・ヤコブの中では、最も波瀾万丈さが無く、第三者が「ストーリー」として見る分には、最もつまらないかもしれないが、彼は最も長く生き、最も安泰な生涯だった。
それは、イサクが平和の人であったから、彼は争う必要も無く主に守られ、平和に長寿を全う出来たのである。
ヤコブとは、実に対照的な生き方である。

ヤコブは後に言う。
「わたしの旅路の年月は百三十年です。わたしの生涯の年月は短く、苦しみ多く、わたしの先祖たちの生涯や旅路の年月には及びません。」(創世記47:9)
自分の気の赴くままに、周りを振り回し、自分自身も振り回されてしまう人生は、「短く」「苦しみ多い」。
主に信仰の碇を降ろし、イサクのように平和と尊厳に満ちた人生を生きる皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

安息に入るために(ヘブル4:1-11)
第一礼拝・礼拝全体音声:右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

どういう人が安息に入れるか。それは、聞いた御言葉に自分の信仰を結びつけ、御言葉に従う人である。
「彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。 ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。」(ヘブル4:2-3)
御言葉に聞く事、聞いた御言葉を信じる事、それがどれほど大切であるかは、強調してし過ぎる事は無い。
主の御言葉が語られる時、私達の取るべき唯一の姿勢は、それに聞き、従順し、服従する事。
御言葉を聞いても心背ける者、不従順な者は、決して安息に入れず、そこに例外は無い。

そしてまた、御言葉に聞き従う事は、どんな尊い捧げ物よりも主に喜ばれる行為である。
『サムエルは言った、/「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、/燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、/聞くことは雄羊の脂肪にまさる。』(1サムエル15:22)
この御言葉の通り、どんなくちびるの果実も、どんな多額の献金も、どんなに身を粉にして働く奉仕も、御言葉に聞き従う事が無いなら、主はそんな捧げ物を忌み嫌われる。
サウル王が退けられてしまったのは、彼が物欲におびき寄せられ、「こんな高価な良いものを滅ぼすのは惜しい、主に捧げるという口実でこれらを残すなら、主もきっと許して下さるだろう」などと、自分の都合の良いように、御言葉に身勝手な解釈を混ぜ込んだからである。
『そむくことは占いの罪に等しく、/強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。あなたが主のことばを捨てたので、/主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた」。』(1サムエル15:23)
主は、混ぜ物つきの捧げ物や奉仕を、忌み嫌われる。実に、主の御言葉よりも、自分の好むことを優先させる事は占いの罪であり、強情に御言葉を跳ね除けるのは、偶像崇拝の罪である。
主の御心から離れた所で、いかに預言をし、悪霊を追い出し、奇跡を行ったとしても、かの日、主から『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ。』と言われてしまう。(マタイ7:21-23)
ここの「不法(anomia)」とは、法に則らない事、法を超過する事、法を乱暴に扱う事である。

大いなる奇跡を沢山経験すれば良いものではないし、偉大な指導者に導かれれば良いものでもない。
偉大な指導者・モーセに率いられ、多くの徴や奇跡を見、体験し、奇跡を食べ、飲んだ、かの60万以上の民のうち、安息の地に入れたのは、わずか二人だったのは何故なのか。そこに思いを馳せるべきである。
安息に入れず荒野に屍を晒したのは、不信仰のためであり、従おうとしなかったからだ。(ヘブル3:15-19)
結局大切なのは、法に則る事、すなわち、御言葉に聞き従い、御心に歩む事である。
出エジプトの民が荒野で滅んだのは、律法の何か一つを違反したからではなく、神の定めた指導者モーセに従おうとしなかったからだったが、そのモーセは、後の時代には自分と同じようなひとりの預言者が現れるから、彼に聞け、と言った。(申命記18:15) その「彼」こそ、主イエスキリストである。
「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10:17)
私達が聞き従うべき「御言葉」とは、365の「するな」と248の「せよ」から成る律法の全てではなく、全律法が指し示すお方、すなわち、「ことば」そのものなるイエスキリストである。(ガラテヤ2:16)
律法を全て成就して下さった方・イエス様に聞き従い、歩調を合わせて共に歩むなら、全ての「あれやこれをしなければ」という心配や重荷は降ろされ、たましいに安らぎが来る。(マタイ11:28-30)

そして安息に入った者は、自分のわざを終えて、休む。(ヘブル4:10)
自分の能力、自分の持ち物、そうした自分の何かに頼りの源を置く生き方が、十字架の死に渡され、これからは、キリストに生きて頂き、キリストに勝利して頂き、私達はそのお方と共に歩んで行く生き方が始まる。
これこそ、安息の生き方である。
「あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。」(ヘブル3:13) この安息に入るように努め、かたくなになって荒野で滅ぶような人が 誰一人出ないよう、日々励まし合い、勧めあって、信仰生活を歩んでいく皆さんでありますように!

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
主の軍の将を前に(ヨシュア5:13-15):右クリックで保存
続き:右クリックで保存

 

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
おぶって下さる主(イザヤ46:3-4):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
2ペテロ2:20-22:右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:そしてイスラエルへ(創世記35:6-15):右クリックで保存

ヤコブは、エサウの脅威が無くなった時、霊的に油断して、身勝手な場所に住居を買い、身勝手に祭壇を建て、そこに身勝手な名前を付け、結果、ひどい目に遭った。(33-34章)
そこで彼は、本来あるべき信仰へと戻り、主が示された正しい場所で主を礼拝した結果、祝福が与えられた。(創世記35:6-7)
そうしてヤコブがかつてベテルで約束した事を果たした時、はじめて神は、パダン・アラムからの旅に「終了宣言」を出したわけである。(9節)

『時にリベカのうばデボラが死んで、ベテルのしもの、かしの木の下に葬られた。これによってその木の名をアロン・バクテと呼ばれた。』(創世記35:8)
ここに突然、リベカの乳母・デボラが登場する。彼女の名が出てくるのは、後にも先にもここだけである。
リベカの乳母は登場するのに、リベカ本人が登場しない、という事は、恐らくヤコブを寵愛していた母リベカは既に亡くなり、そのゆかりの人・乳母のデボラが生きていたので、ヤコブは寂しさを紛らわせるために、彼女を連れて旅をしていたのだろう。
その彼女が死んだ時、そこを「アロン・バクテ(嘆きの樫の木)」という名をつけた所から、ヤコブの悲しみが非常に大きかった事、ヤコブにとって彼女はとても大切な人だった事を伺わせる。

昔からヤコブをかわいがり、かばっていたリベカやデボラが死んだこの時、彼は心細く悲しかったかもしれない。
神がアブラムに「アブラハム」という新しい名を与えた時も、まさに似たような状況だった。
アブラムが99歳、もはや人の目から見れば死んだも同然の時に、神は「全能の神」(エル・シャダイ)という名で現れ、新しい名で呼ばれるようになった。
同じようにヤコブも、デボラが死に、もはや守ってくれる肉親が死んだ時、新しい名が与えられたのだ。

『神は彼に言われた、「あなたの名はヤコブである。しかしあなたの名をもはやヤコブと呼んではならない。あなたの名をイスラエルとしなさい」。こうして彼をイスラエルと名づけられた。』(10節)

彼はこの時以来、イスラエルと名乗る事になった。
この新しい名、イスラエルは、「神と戦う」「神に支配される」という意味である。

自分の力に頼らず、ただ神の力に頼り、神の支配の内に生きる。それこそ「イスラエル」のアイデンティティであり、私達・霊的イスラエルのアイデンティティでもある。

彼は神と格闘し、ももを打たれ、歩く時はびっこを引くようになり、自分を寵愛し守ってくれる身内も死に絶えた。
しかしこれからは、全能の神が彼のバックを守り、先頭を進んで守って下さるのだ。

『神はまた彼に言われた、「わたしは全能の神(エル・シャダイ)である。あなたは生めよ、またふえよ。一つの国民、また多くの国民があなたから出て、王たちがあなたの身から出るであろう。』(11節)
彼自身から多くの国民が出て、王たちが出る、という約束は、アブラハムにも与えられた約束だが、「生めよ、ふえよ」という祝福の命令は、アブラハムやイサクにも与えられていない、堕落前の人類とノアに与えられた命令である。
事実、イスラエルの代で、家族は70人の群れとなり、そこからさらに多くの群れへと増えていった。
そしてさらに、土地を受け継ぐ約束も与えられた。(12節)

『そこでヤコブは神が自分と語られたその場所に、一本の石の柱を立て、その上に灌祭をささげ、また油を注いだ。そしてヤコブは神が自分と語られたその場所をベテルと名づけた。』(創世記35:14-15)
灌祭とは、飲みものを注ぐ供え物で、それは、私達自身の全てを神に注ぎ尽くす事を意味する。(レビ23:13)
ヤコブはそこで全面的に主に捧げ、その場所を改めてベテルと呼んだ。

かつては杖一本しか持たないヤコブだったが、今や多くを持つ者となった。
それは、彼が主に約束されたことを信じ、主に命じられた事を、紆余曲折はありながらも、守り行ったからである。

ひと月ほど前の主日の朝、いつも外に出て賛美してから礼拝に望むのですが、その賛美の輪に、ある中国の女性が入ってきて、両手を挙げて賛美に加わっていました。

彼女は日本語はあまり出来ないのですが、主を求める心が強く、賛美の中の主の臨在に触れられ、この教会の礼拝に参加したい、という思いはあったのですが、主日にも仕事がみっちり入っていて、参加したくても出来ない状況だったそうです。

その後も主日の朝の、ささやかな賛美の輪に加わって、そのまま仕事に行く状況だったのですが、、、主は彼女の祈りに応えて下さいました。

ほとんどあり得ない事だったのですが、彼女の仕事の時間が代わり、主日に参加できるようになりました。

主はまことに求める者に応えて下さり、祈りを聞いてくださるお方です。ハレルヤ!

礼拝説教メッセージ音声:原点へ還れ - 再びベテルへ(創世記35:1-5):右クリックで保存

子供達は近隣に憎まれる事をし、家長としての権威も失墜して、どうにもならなくなってしまったヤコブに、神が現れ指示した。
「さあ、ベテルに上り、そこに住みなさい。」と。(18節)
ベテル。それはヤコブにとっての信仰の原点であり、そこに立ち還れ、と言ったのだ。

今や多くを持っているヤコブだが、かつて、エサウを逃れて一人故郷を逃げて来た時、彼はみじめで、はだか同然で、力も無かった所に、神はベテルで現れた。
ヤコブはこのベテルの経験を通して20年間のラバンの元での生活は守られ、祝福され家族も持ち物も増えたのだが、持ち物が増え兄の脅威も無くなると、ヤコブは次第に神様に頼る心が薄れ、混沌な状態へと陥ってしまった。
ちょうどエペソの教会のような状況である。(使徒19,20章、黙示録2:4-5)

ヤコブにとっての信仰の原点は、ベテルにおける、天から地に架けられたはしごにあった。
その時、ヤコブは貧しく、一人だったが、その旅路は幸いだった。
それは、そのはしごを通して来る守りと祝福に望みを置き、頼っていたため、それで彼はどんどん祝福されて行ったからだ。

財産が増え、妻や子供もでき、仕事も順調になっていくと、何かと初めの愛から離れてしまいがちになる。
信仰の原点であるイエス様から離れてしまって、権威が失墜し、子供や部下達がとんでもない事をしたりして、混沌な状況になっていないだろうか。
その時、私達も原点に立ち返るべきである。
私達にとっての信仰の原点は、イエスキリスト。全能の神と私達とを橋渡しして下さる、唯一のお方である。

神はベテルでヤコブに言われた。
「わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう。」(創世記28:15)
ヤコブはこの時、パンや着る物の保証を求めたが、神はそれを遥かに上回る多くの祝福を与え、決して捨てること無く守られ、カナンの地へと安全に戻された。
それなのにヤコブは、未だにベテルでの約束を果たしていなかったのだ。

『ヤコブは、その家族および共にいるすべての者に言った、「あなたがたのうちにある異なる神々を捨て、身を清めて、着物を着替えなさい。』(創世記35:2)
ヤコブはベテルへ上るにあたり、全家に三つの事を指示した。

まず一つ目は、異なる神々を捨てる事。
ヤコブの一家が、混沌へと向かっていった大きな原因は、偶像の容認であった。
ラケルによってテラフィムが持ち込まれ、後にそれを見つけた時でも大好きなラケルの手前、取り除かずに容認してしまったのだろう。
それによって、もはやこの一行は、パン種が入ってしまったパンのように、全体が不純に発酵してしまい、権威も秩序もなし崩し的に崩壊していったのである。
私達も、主イエス以外の何か(仕事や異性、お金など)に生きる望みを置いていたとしたら、それを心の第一の座から降ろし、再び主を第一の座に据えるべきである。

二つ目は、身を清める事。
主の御前出るからには、主がきよくあられるように、私達も身を清めるべきである。
そのためには、イエスの十字架の血潮で罪を清め、御言葉の洗いで真理から反れた行いを清めるのだ。

三つ目は、着物を着替える事である。
身を清めた後に、主が賜ったまことの着物、贖いの衣を身に纏う事によって、私達は初めて王の宴会に参加できるのだ。(マタイ22:8-14)

これら三つの事柄は、私達が主の御前に出て礼拝する際に、必要な心構えである。
そうして私達も、主が指示された場所へと、礼拝するために出ていくのだ。

『そこで彼らは持っている異なる神々と、耳につけている耳輪をことごとくヤコブに与えたので、ヤコブはこれをシケムのほとりにあるテレビンの木の下に埋めた。』(4節)
ヤコブの指示に、全家は従い、その通り実行した。
ヤコブが34章の終わりで「わたしが嫌われ者となった」「わたしに迷惑かけた」「わたしが危険にさらされた」と、完全に「わたし」の心配ばかりしても、息子は何の恐れもなく言い返し、それに何も言い返せなかったヤコブだったが、彼が主を第一とし、「わたし」はその神に服従するという、正しい権威構造に身を置いた結果、彼は家長としての権威を回復したのである。

権威を回復したのは、身内に対してだけでなく、周囲の異邦人達にもであった。
「そして彼らは、いで立ったが、大いなる恐れが周囲の町々に起ったので、ヤコブの子らのあとを追う者はなかった。」(5節)

このように、私達の内から偶像を取り除き、神を礼拝しに向かう時、権威も秩序も回復するのである。
私達も、まことの神以外を頼りとする「偶像」は古い土地に埋め、真に礼拝する場所へと、進み行くべきである。

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