メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ
礼拝説教メッセージ音声:マハナイム - 二つの陣営(創世記32:1-5):右クリックで保存
ラバンと無事決別できたヤコブだが、彼には乗り越えるべきもう一つの関門があった。
それは、彼に殺意を抱いていた、兄エサウである。
道々彼は、エサウはまだ殺意を抱いているだろうか、どのようにして父の家へ帰って平和に過ごせるだろうか、と、心配していた。
そんな彼の前に、御使い達が現れた。
『ヤコブは彼らを見て、「これは神の陣営です」と言って、その所の名をマハナイムと名づけた。』(創世記32:2)
マハナイムという名は、マハネ(陣営)の双数形で「二つの陣営」をあらわす。
ヤコブが導いてきた「自分の陣営」の前に、「御使い達の陣営」も現れ、主が、天の軍勢によって自分達の行く道を守って下さる事を示され、ヤコブは喜んだ。
雅歌書6:13に出てくる「マハナイムの舞」は、ヤコブが天の陣営にも守られている事を喜んだように、自分達も主に守られている事を喜び、御使い達のように美しく優雅に舞う踊りであると言われている。
私達キリスト者は、救いを受け継ぐ事が約束された者達で、御使いたちが仕えている。
「御使たちはすべて仕える霊であって、救を受け継ぐべき人々に奉仕するため、つかわされたものではないか。」(ヘブル1:14)
主イエスの名にあって礼拝し、賛美する一陣の集まりには、御使い達も共に集まり、地においてと天においての、二つの陣営があるのである。
イエス様が生まれた時にも、夜番をしていた羊飼い達に、天の軍勢が現れ、彼らに喜びの良き知らせが告げられた。
『御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。
するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。』(ルカ2:8-14)
羊飼い達は当時、住民登録にも呼ばれない程、卑しく、貧しい、どうでも良い人達だったが、御使い達が軍勢を従えて現れたのは、そんな彼らの所にであった。
主は、不安と恐れの暗闇の下で震えている私達に、天の軍勢をもって現れ、救いの良き知らせを、もたらして下さるのだ。
ダビデもまた、アビメレクの前で狂った様を装って追い出されてしまった、恥ずかしさと屈辱の極みの時に、詩篇34篇を書いた。
『主の使は主を恐れる者のまわりに陣をしいて彼らを助けられる。 主の恵みふかきことを味わい知れ、主に寄り頼む人はさいわいである。 主の聖徒よ、主を恐れよ、主を恐れる者には乏しいことがないからである。 若きししは乏しくなって飢えることがある。しかし主を求める者は良き物に欠けることはない。 』(詩篇34:7-9)
これはとても、気違いを装って追い出された者が、その時書いたとは思えない程の、素晴らしい信仰告白である。
主は確かに、弱く惨めでありながらも、主を呼び求める者に御使いを遣わし、陣を張り、守って下さるのだ。
事実、ダビデの信仰どおり、彼は確かにあらゆる災いから守られ、やがてダビデの敵は滅ぼされ、彼はイスラエル歴史上で最も偉大な王となった。
御使いの陣営が現れたヤコブ、ダビデ、羊飼い達、この三者に共通している事がある。
それは、三者とも羊飼いであり、しかも、弱く頼りない羊飼いであった事。
私達も、イエスの愛された羊である兄弟姉妹の面倒を見、養うのであれば、私達も羊飼いである。
羊飼いは何も、10匹や100匹面倒見なくてはならない訳ではない。面倒を見るのが、たとえ一匹であっても、立派な羊飼いである。
皆さんの周りに、イエス様の愛された羊が一匹でもおり、その羊がが迷い出たり、弱っていたりした時、探し出してイエス様の下に連れてきたり、助けてあげたりしたのなら、あなたは立派な羊飼いである。
そして、羊飼いたる資格は「イエス様を愛します」という告白である。
『イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。』(ヨハネ 21:17)
主イエス様は、ご自身を愛していると告白する者に、飼うべき羊を任せられ、そして、羊飼い自信が弱く惨めな心になってしまった時には、天の軍勢を送って下さり、救いのおとずれを知らせに来て下さるのである。
しっかりイエス様を愛し、イエス様の羊を飼っているのであれば、恐れることは無い。
たとい地上の軍勢は弱くとも、第二の陣営、天の軍勢が共におり、味方して下さるからである。
礼拝説教メッセージ音声:「言ったもん勝ち」への対処方法(創世記31:43-55):右クリックで保存
ラバンの顔を見るのもいよいよ今回で最後だが、ラバンは最後に、身勝手な所有権を主張する。
『ラバンは答えてヤコブに言った、「娘たちはわたしの娘、子どもたちはわたしの孫です。また群れはわたしの群れ、あなたの見るものはみなわたしのものです。これらのわたしの娘たちのため、また彼らが産んだ子どもたちのため、きょうわたしは何をすることができましょうか。』(創世記31:43)
彼が主張した所有権は、根拠の無い偽りであるが、そのような主張は看過して良いものではない。
例えば、ある人が自分のものではない土地に勝手に居座り続け、それに対して、本来の所有者が何の文句もつけずに、何年か経ってしまうと、既成事実化してしまって、その土地の所有権は、勝手に居座った者へと、移ってしまう。
サタンが奪うやり口も全く一緒で、身勝手に偽りの所有権を主張し、その勢い飲まれたり、無抵抗だったりしていると、さらに調子に乗って、もっと侵入して来る。
いわゆる「言った者勝ち」の論理である。
偽りの所有権に対しては、「真理」をつきつけて、必ず、対処しなくてはならない。
少しでも侵入を許すと、もっと調子に乗って来るので、追い出すのはより困難になって来るからだ。
サタンが仕掛ける、偽りの所有権への対処方法は、力や議論で勝つ事ではない。
御言葉の真理を突きつける事である。
その実践方法は、イエス様から見習うことができる。
『それから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。』(ルカ4:5-7)
悪魔はイエス様にさえ、世界の権威も栄華も自分のものだと主張し、ひざまずくならあなたにあげよう、と、持ちかけた。
確かにこの世は、悪しき者の支配下にあり(1ヨハネ5:19)、悪魔は自分にひざまずく者達に、権威や栄華を与える「分」はある。
それに対し、主は、どう対処されただろうか。
『イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」』(同4:8)
ただ、御言葉には○○と書いてある、とだけ口から発し、たったそれだけでサタンは、もはやその議論ができなくなってしまった。
人は何かと、議論や力技で対抗しようとする。
「サタンよ、それは違う、嘘だ。人も地球もお前が創ったのか?違うだろう。元々父なる神様が創ったもので、お前のではない。」などと、議論で返したくなるが、私達はむしろ、サタンと同じ論壇に乗ってはならない。
エバはまんまとサタンとの話し合いの場に乗ってしまい、まんまと罠にはまってしまった。
サタンと対抗できる唯一の手段。
それはただ、「御言葉の剣を差し出す事」に尽きる。
ヤコブも、ラバンの横柄ともいえる「自分のものだ」という主張に、議論で返さず、真理に基づいて対処している。
彼はラバンに対し、まず、石の柱によって境界線を引いた。
『ヤコブはまた一族の者に言った、「石を集めてください」。彼らは石を取って、一つの石塚を造った。こうして彼らはその石塚のかたわらで食事をした。ラバンはこれをエガル・サハドタと名づけ、ヤコブはこれをガルエドと名づけた。』(創世記31:46)
エガル・サハドタはカルデア語、ガルエドはヘブライ語で、共に「証拠の塚」という意味である。
ラバンは、ヤコブが立てた石の塚にさえ、身勝手に自分の国の言葉で名前をつけたが、ヤコブはすかさず、自分の言葉で名付けた。
サタンも、私達に身勝手なサタン王国の名前をつけるかもしれない。「おまえは、みじめだ。」と。
そのような時、私達神の国の者は、すかさず、自国語すなわち神の国の言葉で、正しいアイデンティティを上塗りするべきである。
「私はキリストによって、神の子とされた」と。
『そこはまた、ミツパ(見張り所)とも呼ばれた。「我々が互いに離れているときも、主がお前とわたしの間を見張ってくださるように。』(創世記31:49)
ヤコブはまた、ミツパという名前もつけた。
ミツパは後のサムエルの時代、ペリシテの圧政のためにイスラエルが集まって主の御前に心を注ぎ、断食して祈った所である。
ペリシテは攻めて来たが、主ご自身がさばいてくださり、ペリシテは打ち負かされ、その記念に「エベンエゼル(守りの岩)」が建った所である。
私達にとって守りの岩は、イエス・キリストである。
私達が、サタンとの間にこの守りの岩であるイエス・キリストを置くなら、サタンは打ち負かされ、そこを乗り超えてくることはできない。
ラバンは51節でも、しつこく「私が立てた石塚」と主張する。
ヤコブはそれは言わせておくが、53節のラバンの言葉は、看過していない。
『どうかアブラハムの神、ナホルの神、彼らの父の神がわれわれの間をさばかれるように」。ヤコブは父イサクのかしこむ者によって誓った。』(創世記31:53)
ラバンが誓ったのは、アブラハムの神、ナホルの神、先祖達の神によって、である。
それに同意しても問題無い、と思われた方は、罠にかかっている。
アブラハムが74歳以下の時に拝んでいた神は、偶像の神であり、ナホルやその先祖たちが拝んでいた神も、もろ、偶像の神である。
ヤコブはすかさず、「父イサクのかしこむ者」と言って、明瞭に全能なる神を指定し、この御方によって誓った。
私達が祈るべきは、イエス・キリストの名前によってのみであり、この方以外に、救いの名は無い。
もしクリスチャンの中で、訳の分からない神に祈っているようであるなら、明確に、イエス・キリストの名前によって祈らせるべきである。
「あくる朝ラバンは早く起き、孫と娘たちに口づけして彼らを祝福し、去って家に帰った。」(創世記31:55)
こうしてヤコブは平和に、圧制者ラバンと別れる事が出来た。
それはヤコブがラバンの議論に乗らず、力に頼らず、ただ真理を告白して対処したからである。
『神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。
私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。』(1ヨハネ5:18)
立派な子「バルテマイ」になるには?(マルコ10:46-52)
第一礼拝・礼拝全体音声:右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
イエス様が弟子たちや大ぜいの群衆と共にエリコから出かけられたとき、テマイの子、バルテマイ(意味:立派な子)という目の見えない人が、道ばた(highway side)にすわって、物乞いをしていた。(マルコ10:46)
多くの人達が彼を見下ろし、彼の傍を過ぎて行った。人々にどんな目で見られたのかは彼には見えない。
ある人は近づいて、彼に幾らかを施し、ある人は馬車で砂埃を巻き上げながら、目もくれずに行った。
成人した彼を養ってくれる家族は、きっといなかったのだろう。自分のみじめな姿を晒すのが嫌だからと言って、人通りのない裏路地にいては、物乞い稼業は成り立たない。大通りに出て、人が通る音を聞く度に、明瞭に声に出して憐れみを求め、落としてくれる恵みでその日の糧を得る、という日々を送っていた。
彼は、目が見えない事によって、世の事柄の多くの点において、周りの人達に比べて遅れを取っていた。
周りに比べて多くを経験出来ず、多くの楽しみも、知らずにいた。人はそれを不条理と呼び、何のためにそうなったのか、誰のせいで、と議論する。イエス様の弟子達でさえ、そう議論した。(ヨハネ9:2)
しかし主イエス様は、誰のせい、とは言われない。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(同3節)と言われる。
イエス様の辞書には、誰々と比べて、などという文字は一切無いし(ヨハネ21:22)、世の楽しみを味わったかどうか、など、救いには一切関係無い。それどころかむしろ、それらは救いを得る上で邪魔にさえなる。
多くを経験できれば良い、多くの楽しみを知れば良い、というものではない。バルテマイは、多くを知らないが故に、多くの人が見過ごしがちな、そして、真に人間に必要な事を、はっきり知っており、求めていた。
すなわち、ダビデの子孫から救い主が現れる事、そして、ナザレのイエスと言われるお方が、その証拠としての奇跡を行なっており、その御方なら自分を救うことが、きっとおできになる、と、信じていた事である。
ある日彼は、通りがいつもと違う興奮に包まれ、何か喜ばしげな雰囲気であるのを、感じ取った。
何事かと人に聞くと、そのナザレのイエスがお通りだ、と言うではないか!そこで彼は声を張り上げた。
「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください!」
バルテマイが助けを求めて叫んだのは、ダビデの子イエス様に、である。決して、イエス様に群がった群衆に、ではない。
ところがキリスト教会では、なんと多くの人達が、イエス様に助けを求めるのではなく、イエス様を求めに来た「人間たち」に、助けを求めているだろうか。
バルテマイがもしイエス様からではなく、イエス様をネタとして群がった群衆から、恵みを得ていたのであれば、そんな得た物は、すぐに無くなってしまう。
同じように私達も、教会のいわゆる「優しい人達」を当てにし、彼らから助けを得ようとして、イエス様に助けを求めないとしたら、バルテマイが得たような根本解決など、決してあり得ない。
多くの人達は、イエス様を、ナザレの田舎出身の一有名人のように呼ぶ。しかしバルテマイは、イエス様を自分を救って下さるお方だと信じ、来たるべきダビデの子孫、救い主として呼んだ。
大勢の人々は、彼を黙らせようと、たしなめた。私達も救いに近づこうとする時、イエス様を呼ぼうと、声高に叫べば叫ぶ程、世は、周りは、邪魔をする。しかし、そのような時は私達も、バルテマイのように、イエス様を呼ぶ事を、止めてはならない。イエスこそ来たるべきメシヤであると、叫ぶ事を止めてはならない。
イエス様は「ダビデの子よ、私を憐れんで下さい」と叫ぶ声に耳を傾け、足を止め、その人を呼ばれる。
バルテマイは、イエス様が自分のことを呼んでいる、と分かると、上着を脱ぎ捨てた。
その上着は、それまで彼の人生の色々な場面で、寒さや日差し、砂埃から守ってきた大切なものであろう。
しかし同時に、彼の汗や垢、砂埃まみれで、ダビデの子イエスの御前に出るには、相応しくないものである。
私達も、救い主の御前に出る時、自分の汗や垢、ホコリにまみれた大切なものを、脱ぎ捨てるべきである。
たといそれが、どんなに大切であろうとも、主の御前に、自分の汗や涙の成果物は、一切無意味である。
むしろ私達に大切なものは、イエス様から着せていただく贖いの衣である。
彼は自分の足で、手探りで、イエス様にいると思われる方へと、一歩一歩進んで行った。そして何歩か行った時、声があった。「わたしに何をしてほしいのか。」
イエス様は、私達が何を求めているのか、当然ご存知である。しかし私達は、イエス様のほうへと自分の足で手探りでも行き、何をしてほしいのかを、自分の口で告白し、自分の意志を明確に伝えるべきなのだ。
彼は「ラボニ(私の先生)、見えるようになる事です」と答えた。主は、誰の主でもなく、私の主である。
そう告白した彼に、イエス様は「行きなさい、あなたの信仰があなたを救った」と答えられた。
そして彼は見えるようになった。見えるようになったら彼は、イエス様の行かれる所に、ついて行った。
彼には以前の生き方も、以前の上着も必要なく、イエス様との新しい人生が始まった。(2コリント5:17)
私達もイエス様に癒され、神の御技をこの身に受けたのなら、イエス様にどこまでもついて行くべきである。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
私を愛しますか?(ルカ22:31-34):右クリックで保存
今週は主日を皮切りに、初めてこの教会に訪ねて来て下さる兄弟姉妹たちが続々起こされています。 彼らがこの教会で感じた第一印象として共通している事は、なんだか初めて会った気がしない、アットホームな雰囲気で落ち着ける、という事でした。 それは私達はキリストにあって文字通り「兄弟姉妹」であり、同じ主を主としているからですね。 人が一つになれるのは、誰か人間の主義主張でも、人間の作った組織でも、教理教派でもなく、唯一、イエスキリストによってのみです。 この唯一の天からの声、イエスキリストに聞く教会、というスタンスから決して離れぬよう、いきたいです。
礼拝説教メッセージ音声:さばかれた過酷な支配者(創世記31:36-42):右クリックで保存
ヤコブは、自分や妻たちの天幕に次から次へと入り、持ち物を物色しているラバン達に、ついに怒りが爆発した。
怒りのきっかけは、我が物顔で物色したからだったが(36-37節)、そのうち、ラバンから20年間受けてきた不当な扱いに対する責めへと変わって行く。(38-42節)
「この二十年間というもの、わたしはあなたのもとにいましたが、あなたの雌羊や雌山羊が子を産み損ねたことはありません。わたしは、あなたの群れの雄羊を食べたこともありません。」(38節)
20年間、ヤコブが面倒見た家畜に流産が無かったのは奇跡的だが、それは主に祝福されていたからである。
なお、主人に雇われている羊飼いであるなら、遠方まで羊を導いて食料が無くなってしまった場合、特権として、羊の群れの中から食べても良い事になっていたが、ヤコブは、その特権を用いなかった。
パウロはコリントで伝道していた時、御言葉の奉仕者として当然受けるべき報酬を受け取らず、自らの手で働いて収入を得ていた(2コリント12:13)が、同じように、ヤコブもまた、ラバンの所有から羊を食べる事はしなかった。
それは、少しでも主人ラバンに躓きとならないように、という心遣からであろうが、ところがラバンはその尊い思い遣りを踏みにじり、もっとヤコブからふんだくろう、という方向性になって、その良心を利用した。
「野獣にかみ裂かれたものがあっても、あなたのところへ持って行かないで自分で償いました。昼であろうと夜であろうと、盗まれたものはみな弁償するようにあなたは要求しました。」(39節)
そこ、メソポタミアの法律・ハンムラビ法典では、野獣や病気、天災など、羊飼いの過失でない理由で羊が失われた場合、それは羊飼いの責ではなく、所有者の損失であるとされていた。
それなのにラバンは、それらも全て、自分の損失ではなくヤコブの損失とし、弁償するようにさせていたのだ。
「しかも、わたしはしばしば、昼は猛暑に夜は極寒に悩まされ、眠ることもできませんでした。」(40節)
砂漠気候のこの地方は、一日の温度差が非常に大きいため、羊の夜番をする時はかなり辛かっただろう。
そのような所で、眠ることもままならない程の過酷な労働条件を、ラバンは20年もヤコブに強要し続けて来たわけである。
しかも、ヤコブにとって不利になるように、報酬を十度も変えたのである。
「もし、わたしの父の神、アブラハムの神、イサクの畏れ敬う方がわたしの味方でなかったなら、あなたはきっと何も持たせずにわたしを追い出したことでしょう。」(42節)
まさしく、その通りだったろう。
神が守って下っていなければ、過労死やうつ病になってもおかしくない。
しかし主は、不当な労働条件で働かされている者の叫び声を聞かれる。
「御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。」(ヤコブ5:4)
そして、そのような人々の祈りに主は耳を傾け、その劣悪な状態から開放し、乳と蜜の流れる所へと導いて下さる。(出エジプト3:7-12)
「神は私の悩みとこの手の苦労とを顧みられて、昨夜さばきをなさったのです。」(42節)
過酷な支配者・ラバンは、さばかれたのだ。
同じように、イスラエルを奴隷にし過酷に支配したエジプトもさばかれ、そして、この世の支配者・サタンも、裁かれる。
たとい自分の力や権威、知恵がその者よりも劣っていても、主に拠り頼むのであれば、主が、その者を裁いて下さり、その者に自分の罪深さを認めさせるのである。
『その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。』(ヨハネ16:8-11)
礼拝説教メッセージ音声:ラバンの家からのエクソダス(創世記31:25-35):右クリックで保存
『ラバンはヤコブに言った。「一体何ということをしたのか。わたしを欺き、しかも娘たちを戦争の捕虜のように駆り立てて行くとは。』(創世記31:26)
ラバンの娘達は、ヤコブに無理やり駆り立てられたのではない。
父ラバンに7年の奉仕でヤコブへ売られ、父からは「よそ者」(姦通の女とも訳せる)と見なされ、売った事で得た富を父は食いつぶしたので、娘達のほうが父に愛想を尽かした、と言うのが、実情である。(15節)
『ひとこと言ってくれさえすれば、わたしは太鼓や竪琴で喜び歌って、送り出してやったものを。』(27節)
彼の30章25節から36節までに記されたラバンの前歴を見ると、とてもそうは思えない。
『孫や娘たちに別れの口づけもさせないとは愚かなことをしたものだ。わたしはお前たちをひどい目に遭わせることもできるが、夕べ、お前たちの父の神が、『ヤコブを一切非難せぬよう、よく心に留めておきなさい』とわたしにお告げになった。」』(創世記31:28-29)
武装した身内を大勢連れて来ておいて、別れの口づけ、などと言えるような立場では無い気もするが、主は、ラバンがヤコブにしてきた仕打ちを残らず見ておられた。
だから主は、ヤコブを弁護して下さったのだ。(12節)
ラバンの言動へのヤコブの応えは、「わたしは、あなたが娘たちをわたしから奪い取るのではないかと思って恐れただけです。」この一言に尽きる。
ラバンの発言の端々から、ヤコブが娘達や家畜のために20年働いてきた事は全く度外視し、娘達や家畜たちは自分のものだと言うような、非常に自己本意な勘違いをしている節がある。
そのようなごうつくばりで、それでいて権威的に上で、強くて対抗できないような者には、主が指揮者となり、盾となって、相対して下さる。
「父の家が恋しくて去るのなら、去ってもよい。しかし、なぜわたしの守り神を盗んだのか。」
ラケルが守り神(テラフィム)を盗んでいたなど、つゆ知らなかったヤコブは、言った。
「もし、あなたの守り神がだれかのところで見つかれば、その者を生かしてはおきません。我々一同の前で、わたしのところにあなたのものがあるかどうか調べて、取り戻してください。」
そこで、ラバンはヤコブの天幕に入り、更にレアの天幕や二人の召し使いの天幕にも入って捜してみたが、見つからなかった。
ラバンがレアの天幕を出てラケルの天幕に入ると、ラケルは既に守り神の像を取って、らくだの鞍の下に入れ、その上に座っていたので、ラバンは天幕の中をくまなく調べたが見つけることはできなかった。
ラケルは父に言った。「お父さん、どうか悪く思わないでください。わたしは今、月のものがあるので立てません。」ラバンはなおも捜したが、守り神の像を見つけることはできなかった。
神はなぜこの時、ラケルの所からテラフィムが見つかるようにされず、敢えて、ラケルの良くない行動が明るみにされないまま、放っておかれたのか。
元々ヤコブは、ラケルが勝手にそんな事をしていたとは知らなかったのだし、もしこの時、ラケルの所からテラフィムが見つけ出されていたら、ラバンの心に大いに嘲る心を興させ、ヤコブにとって大きな災いとなっていただろう。
主はそれを防がれたのだが、しかし、ラケルのこの行動は明らかに主の御心を損なう行動である。
ラケルは、先祖崇拝・子孫繁栄のご利益物であるテラフィムを、父の所から盗み、自分のものとした結果、彼女は、先祖崇拝・子孫繁栄がらみの災いを、その身に刈り取ってしまう。
彼女に次回子供が生まれた時、彼女自身はそれでいのちを落としてしまい、さらにその後、ラケルの女奴隷ビルハは、レアの長男ルベンによって辱められてしまった。(創世記35章)
キリスト者たるもの、まことの花婿であるキリストに嫁ぎに行く時は、生来頼りとしていた偶像の神は、捨て去らなくてはならない。
『ナオミは言った。「あのとおり、あなたの相嫁は自分の民、自分の神のもとへ帰って行こうとしている。あなたも後を追って行きなさい。」ルツは言った。「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行き/お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民/あなたの神はわたしの神。』(ルツ1:15-16)
ルツは生来住んできた国、生来仕えてきた神を捨て、あくまで、イスラエルの神を自分の神とし、ナオミについて行きイスラエルに入ったからこそ、後にボアズと出会うようにされ、祝福された。
『ボアズは答えた。「主人が亡くなった後も、しゅうとめに尽くしたこと、両親と生まれ故郷を捨てて、全く見も知らぬ国に来たことなど、何もかも伝え聞いていました。どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。」』(ルツ2:11-12)
ヤコブはラバンから真剣にエクソダスしようとし、それは大成功するが、ラケルはラバンの家からエクソダスし切れていなかったため、途中で葬られてしまった。
以前の国、以前の神を捨て去り、真の神、真の花婿であるキリストに嫁ぐのであれば、復活のいのちが芽生え、新しいいのちを生き、栄光の家系に加えられるのである。
しかし、真の神を知ってその民に加えられたのに、なお、以前の神に仕え偶像を拝むなら、災が下ってしまうのである。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
ヨナ(ヨナ書):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
2ペテロ2:9-12:右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:主のバックアップの下で(創世記31:17-24):右クリックで保存
ヤコブは意を決し、与えられていた御言葉をいよいよ行動に移した。
「ヤコブは直ちに、子供たちと妻たちをらくだに乗せ、パダン・アラムで得たすべての財産である家畜を駆り立てて、父イサクのいるカナン地方へ向かって出発した。」(創世記31:17-18)
2人の妻と2人の妾、11人の息子たち、また、膨大に増えた家畜たちと使用人たち、奴隷たちも含めた、大移動である。
そのリスクや労力を考えるとかなり大変だったであろうが、何より、ラバンに対する恐れ、エサウに対する恐れなど、この脱出は、彼にとっておそれるべき要素は色々あった。
しかし、彼は御言葉の約束を信じ、実行した。
「そのとき、ラバンは羊の毛を刈りに出かけていたので、ラケルは父の家の守り神の像を盗んだ。」(創世記31:19)
この守り神の像「テラフィム」は、厄除けや先祖崇拝のために用いる偶像としての役割の他、家督権を主張できる置物だったのではないかと言われている。
彼女がこの時、これを盗み出した動機は分からないが、この事は後に、彼女自身に災いを招いた。
サウルの娘・ミカルの家にもテラフィムがあった。(1サムエル19章)
ミカルとラケルに共通している事といえば、子を産まない事である。
テラフィムは、異教徒にとって先祖供養や子孫繁栄などにご利益があるかもしれないが、神の民が偶像に望みを置く場合、ご利益どころか、災いが振りかかる。
ミカルは生涯子を産まなかったし、ラケルは後に新しい命を生み出す段に当たり、自分の命を落としてしまう。
まことの神を知る者が、神以外のものに心の拠り所を置く時、災いがもたらされてしまうのだ。
「ヤコブもアラム人ラバンを欺いて、自分が逃げ去ることを悟られないようにした。」(創世記31:20)
確かにラバンは俗悪な雇用主だったかもしれないが、曲がりなりにも、20年もお世話になった義理の父親に、何も言わずに出ていってしまうのは、道理に反する事である。
そのようにしてしまったのは、ヤコブの弱さからだったかもしれないが、神は、そうせざるを得なかった彼を憐れみ、物事を根回しして下さる。
ラバンは、ヤコブが逃げた事を三日目に知り、すぐに追いかけ、7日の道のりを追って行った。
すぐに武器を持った手勢を連れて出て、たった7日で追いついたのだから、相当の行動力である。
怒りに燃え、あわよくばヤコブを殺してしまおう、という勢だったのかもしれない。
しかし主は、直接ラバンの夢に現れて、言われた。
「あなたは心してヤコブに、よしあしを言ってはなりません」(創世記31:24)
アブラハムの妻サラが、ペリシテの王アビメレクに召しいれられてしまった時、夢に現れ、この王を震え上がらせてしまった主である。
ラバンも、相当恐れた事だろう。
こうしてヤコブとラバンとの対話が始まるのだが、それは全て、主の守りの下に行われるのである。
私達は弱さの故、非常識な、道理に反する事も、してしまうかもしれない。
しかし主は、ご自身に拠り頼む者の弱さを憐れみ、徹底して守って下さる。
そして、私達の中に道理に叶っていない性質があるなら、時にはラバンのような者をも用いて、義の道へと修正させ、導いて下さるお方である。
