メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ
聖霊降誕日(ペンテコステ)礼拝「炎の舌によって」(使徒2:1-4)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳あり):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
聖霊が臨む時、力を受け、全世界に対し、主イエスの力強い証人となる。(使徒1:8)
主のその言葉どおり、五旬節の日、聖徒達がひとつ所に集まっていると、激しい風の響きが起こり、炎のような分かれた「舌」が一人ひとりに留まり、聖霊に満たされ、聖霊に促されるまま、異なる「舌」で話しだした。
ペンテコステにおける聖霊充満の、最も特徴的なしるしとは、「舌が変えられる事」である。
もし、聖霊に満たされている、と自認している人が、相変わらず自分由来の知恵や知識を語り、キリストにではなく自分に栄光を帰そうという動機で話しているとしたら、聖霊に満たされているとは言えない。
既に何度も語っている通り、聖霊はイエスキリストを栄光化する霊であり、聖霊充満の目的はイエスを大胆に証しし宣べ伝えるためである。聖霊に満たされるなら、以前は自分由来のものしか語れなかった者が、聖霊に促されるまま自分の知りえない「神の大きなみわざ」(使徒2:11)を語るようになり出すのである。
神の大きなみわざを語るには、まず、くちびるが聖なる炎によって、清められなくてはならない。
ペテロは聖霊に満たされる前、唇でよく過ちを犯した。変貌山では、自分でも良く分からない言葉を口走った(マルコ9:6)し、イエス様に「生ける神の子キリスト」と素晴らしい告白した直後、言葉で間違いを犯して「下がれ、サタン」と叱られ(マタイ16:23)、また、十字架の日、たとい一緒に死ぬ事になるとしても主を知らないなどとは決して言わない、と言っておきながら、その夜が明ける前に、三度も「主を知らない」と言った。
そんなペテロでさえ、聖なる炎の舌によって清められ、大胆にキリストを証するようになった。
また、預言者イザヤも、祭壇からの炭火を唇にあてがわれ、人間のことがらは全て聖なる火によって焼き清めていただいて、はじめて神に遣わされる者、神の言葉を伝える者となった。(イザヤ6:1-8)
人は、主の栄光に触れられると、いかに自分が汚れており、その汚れの源は「唇」である事が分かる。
いかに御前に相応しくないか示され絶望するが、主は祭壇で燃える炭火を唇に触れさせ、聖めて下さる。
聖霊を受けると、光が当てられ、明らかにされる事が3つある。
「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」(ヨハ16:8)
まず「罪について」。人は罪と聞くと普通、盗むとか姦淫を犯すとか、悪い事を想像するが、罪の根本とはイエス様を信じない事である。(同9節)
次に「義について」。義と言えば普通、何か正しい事だと想像するが、義とは、主が御父の元に行く事によって得られる(同10節)。なぜなら、人には元々、神の御前に義とされる要素は一切なく、ただ、主が人の身代わりとなって十字架につけられ、御父の元に行った事によってのみ、義が提供されたのである。
そして「裁きについて」であるが、裁きの本質とは、この世を支配する者、即ちサタンがさばかれた事である。
人は元々、神の似姿として罪無き存在として創られたが、サタンの惑わしによって罪と死が入ってしまった。
その神の似姿を汚したサタンこそ、裁かれるべきものであり、人が裁かれる事は、神の本意では無いのだ。
聖霊が与えられると、ますますそれらが明らかになって行く。キリストを信じない事こそ罪であるとますます分かり、義は自分由来でなく御元に上られた主から来るものであるとますます分かるようになり、人を裁く事は主の御旨ではなく、サタンこそ真の敵であり、真に憎むべき存在であると、ますます分かるようになる。
そして、御霊はキリストの栄光を現し、また、キリストのものを受けて、私達に知らせる。(同14-15節)
私達も聖霊に満たされるよう、求め、探し、叩き続けるべきである。(ルカ11:9-13)
弟子たちは、主の言葉どおりエルサレムを離れず、一つ所に集まって、祈りつつ約束を待ち続け、時が満ちた時、炎のような分かれた舌がそれぞれに留まり、約束通り聖霊に満たされ、力に満たされた。
私達も弟子たちのように、神の都から離れず、聖徒達と共に集まり、熱心に祈って聖霊を求めるべきである。
聖霊の炎によって人間由来の罪が焼き尽くされ、唇が聖められ、罪と義とさばきについてますます理解が与えられ、また、聖霊の力に満ち溢れて力強くキリストを証しする者となる。
主イエスの名によって、悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、手で蛇をつかみ、毒を受けても決して害を受けず、病人に手を置いて癒す事によって、イエス様に栄光を大いに捧げる皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
宮を立てよ(ハガイ2章):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
神の霊によって(ゼカリヤ4:6-7):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
助け主が来られると(ヨハネ7:37-39):右クリックで保存
助け主なる聖霊が来られると、渇ききった心に泉が湧き出、主の語られた言葉を思い起こさせる。
また罪について、義について、さばきについて理解の光が当てられる。
礼拝説教メッセージ音声:血を伴う犠牲の大いなる意味(創世記9:1-7):右クリックで保存
韓国語通訳有
ノアは何事にも従順であったが故に、祝福された。
彼は、箱舟を造れと言われればその通りに実行し、箱舟に入れと言われればその通り実行し、外に出ても大丈夫そうであっても自分勝手に出る事をせず、神様から出なさいと命じられてから、はじめて箱舟から出た。
彼はそのように従順であった故に、後の世に多くのいのちを繋げ、そして祝福の契約をいただいた。
そして、彼が新天新地に降り立った時、真っ先に行ったのは、犠牲を伴った礼拝だった。
神はそのなだめの香りをかぎ、それによって、もはや地を滅ぼすまいと約束された。
『神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちよ。』(創世記9:1)
このいのちの祝福の言葉は、創世記1章でも語られたが、1章28-30節における契約と、9章における契約とは、異なっている所がいくつかある。
まず、1章に存在して9章には存在しない言葉は、「地を従わせよ」「生き物をすべて支配せよ。」である。
罪が入って以降、人は全地を支配するべき者ではなくなってしまった。
また、ノア以降は創造のはじめと違い、全ての生き物達は「あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。」(2節)つまり、動物たちは人間に対して恐怖が芽生え、動物たちは人間の手に委ねられた。
また、1章では人間の食物は種子を持つ木や草であったのに、9章では、「動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。」と、肉食が始まっている。
創世のはじめは、生き物は全て草食で、どの生き物も、何も恐れたり脅かす事は無かったのに、9章以降では、弱肉強食の世界となり、恐れる関係になってしまった。
そしてまた、9章では新たに、血に関する新しい戒めが定められた。
「肉は命である血を含んだまま食べてはならない。」(4節)
ここで神は、血は、肉なるものの命そのものである、とした。
いのちを買い戻す為には、血のあがないが必要であり、血は、とてつもなく重要な意味を持っている事がわかる。
「どうして人は人を殺してはいけないのか?」という質問の明確な答えが、6節に書いてある。
「人の血を流す者は/人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。」(6節)
神にかたどって造られた人は尊いものであり、そのいのちそのものである血を流すことは、その似姿の元なる神に対する大きな冒涜である。
「生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである。」(レビ17:11)
旧約祭儀において祭壇の上で流す血は、人間の命の贖いのためである、とまで書かれてある。
そうであるからには、まことの神の子羊・イエスの血は、どれほど私達を救う力を持っており、イエスのいのちそのものであるイエスの血は、どれほど尊いものであろうか。
イエスの血の尊い意味を理解し、この血の守りにますます拠り頼む皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:なだめの香り(創世記8:15-22):右クリックで保存
韓国語通訳有
ノアは、鳩の知らせによって水が引いたのを知った時も、箱舟の覆いを取り除いて地の面が乾いた事を確認した時も、自分の判断で身勝手に箱舟を出ることはせず、神様から示しが与えられてから、箱舟から出た。(創世記8:16-18)
出エジプトの民の多くは、神の時ではなく自分の望む時を優先させ、滅びへと導かれてしまったが、ノアは神の時が来るのを忍耐して待ち、そうして新しい天地へと導かれた。
神が定めた次のステップへ移る時は、神が計っており、その導きを従順に求めるなら、主は平安と祝福の内に、導いて下さる。
「ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた。」(20節)
ノアが新天新地に降り立って、初めて行った事は、礼拝だった。
箱舟の中を生き残った、貴重な生き物達を捧げたのだが、ノアは、神様がよしとする捧げものは何かをよく知っていた。
それは、犠牲である。
主が、カインの捧げものではなくアベルの捧げものに心を留められたのも、犠牲があったからであり、人間の罪・咎を洗い清めるのは、イエスキリストの尊い犠牲による。
『主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。』(21節)
人には相変わらず罪の性質があるが、それでもなお生きながらえているのは、主がこのなだめの香りを受け、その時にそのように約束されたからである。
そして、主を完全に満足させるなだめの香りは、キリストである。
キリストは十字架上で、燃え尽くされるような苦痛を味わって「私は渇く」と言われ、その主の宥めを受け取って、神は完全になだめられた。
「地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも/寒さも暑さも、夏も冬も/昼も夜も、やむことはない。」(22節)
人の営みには、シーズンがある。
蒔くべき時があれば刈り取る時があり、寒い時があれば暑い時もあり、明るい時もあれば暗い時もある。
そして、人は種を蒔けば、それに相応しい刈り取りをする事になる。(ガラテヤ6:7-8)
その法則は、世の終わりまで、永遠に変わることは無い。
自分由来の何かではなく、神様の望まれる捧げもの、すなわち、キリストを信じる信仰による礼拝を捧げる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
本日は町田で、久しぶりに家族全員と食事をしました。
家族全員が揃ったのは久しぶりです。
姪っ子も結構成長していて、天声からプレゼントした服は小さめでしたが、着れる内に贈れてよかったです。
礼拝説教メッセージ音声:烏と鳩(創世記8:1-14):右クリックで保存
韓国語通訳有
地球全体は死の水で覆われ、その大いなる水の上に浮かぶノアの箱舟は、非常に心もとない、ちっぽけな存在である。
このちっぽけな箱舟の中に、ノア達八人の人間と、全種類の生き物たちが、息をひそめて生息し、箱舟から出る日を待ち望んでいた。
神はその、ちっぽけな箱舟に、心を留めておられた。
「神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を御心に留め、地の上に風を吹かせられたので、水が減り始めた。」(創世記8:1)
いかに周りは死の水で溢れていようとも、神はご自身を求める全ての息ある者を心に留め、しっかりと守って下さるのだ。
ノアは40日の終わりに、箱舟の天窓から烏を放った。
烏は賢い鳥ではあるが、身勝手に箱舟と外の間を出入りするだけで、ノアの手元には戻って来ず、箱舟には何の益ももたらさなかった。
そこでノアは、今度は鳩を彼のもとから放ち、地の面から水がひいたかどうかを確かめようとした。
最初に放った時、鳩は力の限り飛んでいったが、見えるものはひたすら死の水、水、水ばかり。
再び箱舟のノアの所に戻ってきたので、ノアは手を伸ばし、鳩を手の内に収めた。
7日待ってから二回目に鳩を放った時、鳩はオリーブの若枝をくわえて来た。
この小さな一本の枝は、箱舟全体にいのちと希望を伝える便りとなり、ノア達は、地から着実に水が引いているのを知った。
さらに七日待って再び放つと、もう戻って来なかった。
全生物中、この新天地に真っ先に住まいを得たのは、鳩であった。
「柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。」(マタイ5:5)
主は、鳩のように素直でありなさいと勧められた。
私達も、賢くても身勝手な烏のようでなく、鳩のように素直にいつでも主の手元に戻って行き、聖徒たちに良い知らせをもたらす有用な者となるのであれば、真っ先に、新しい御国を相続できるのである。
素直で、聖徒たちに平和の訪れを告げる者となる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:裁きの日(創世記7:11-24):右クリックで保存
韓国語通訳有
ノアは義を宣べ伝えて来たが、人々は悔い改める事をせず、ついに裁きの時が来てしまった。
「ノアの生涯の第六百年、第二の月の十七日、この日、大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれた。」(創世記7:11)
天の上の水も、地の下の水の源も、元々は全て生けるものを潤す恵みとして用いられていたが、この日、それらはことごとく死のために用いられた。
天の水門が一気に開かれ、地の底の深淵の源が張り裂け、そこから溢れる水は大波のように、濁流のように全てを洗い流し、人々はそれまでめとったり嫁いだり、売ったり買ったりしつつ、あらゆる営みによって築きあげて来た家も土地も財産も、ことごとく一瞬にして運び去ってしまった。
わずか40日ほどで、何千メートル級の山々さえ水没し、世界で最も高い山さえ、その上15アンマも覆うほど、地球全体は水で覆われたのである。
事実、ヒマラヤ山脈の標高何千メートルの所から、水生生物の化石が発見されている。
「主は、ノアの後ろで戸を閉ざされた。」(16節)
その日その時、救いの扉を閉ざすのは、ノアのような人間ではなく、神みずからである。
「イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」(ヨハネ10:7-10)
主に属する羊たちは、主のその声を聞き分ける。
ノアの時代の動物たちは、主の御声を聞き分けて箱舟に入ってきて、救いを得たが、私達も、いつも主に向かって心を研ぎ澄ませているべきである。
世の思い煩いや、富の誘惑によって霊的感性が鈍っていたら、主の御声は聞き分ける事ができない。
主は天と地の水の門を管理し、人々に恵みを施して来たが、かの裁きの日、それが人への災いとなった。
主は門である。
主を通ってこそ、私達は救われ、救いの領域の内側で守られ、養いを受け、そしてかの日、主の門から不従順な人間に災いが降るのである。
創世の初め以来、世界は一度水によって滅びており、今我々が生きているこの世界も、やがて火で滅ぼされる。(2ペテロ3:3-7)
今は恵みの時である。
この時を有効に用いて、多くの人を救いへと至らせる皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
午後の賛美祈祷会では、ある姉妹から、エゼキエル書の御言葉が以前から示されていた事の分かち合いがあり、その姉妹はその章の後半わずかな箇所だけが示されていたのですが、その章をはじめから読んでみると、ここ数日の出来事や、その姉妹が見てきた夢の内容が全て書かれてあり、鳥肌が立ちました。
主は御言葉を予め示し、それを信じて忠実にイエスを主とする聖徒たちには恵みと祝福を与え、自分を主とする者には災いを与えられると、あらためて分かり、パスターとして襟を正されました。
祈祷会の後は皆でいっさくに移動し、近くのスーパーで卵1パック98円(お一人様のみ)のタイムセールがあったので、皆で行って、卵を安く大量に買う事が出来、とても楽しかったです。
幸せは何もお金や物、権力がたくさんある所にではなく、こういう何でもない日常の内の、あらゆる場面で、主は聖徒たちに必要なものを与え楽しませ、喜ばせて下さるのだなあと思いました。